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★われ大いに笑う、ゆえにわれあり (著・土屋賢二)

★われ大いに笑う、ゆえにわれあり (著・土屋賢二)

正直に言ってしまうと、私はかなり、哲学者という存在に弱い。
別に、なんとなくカッコイイ感じがするから、とか、ものを考えてそうだから、とかいうんじゃなくて、実際に、すごい言葉を持っている人が多いからだ。
私がこっそり、心の師と仰いでいるのは、鷲田清一さん。
彼にはインタビューもしたし、彼の本の書評もブログに書いたりした。

でも今回ご紹介するのは、「笑う哲学者」 の異名を取る、土屋賢二さんのユーモアエッセイ。
初版96年の本で、文庫もとっくの昔に出てる。でも私は最近読んだ。
歌の発表会を前にして、身につまされるくらい、面白かったので、久しぶりに書評に残しておくことにした。

その名も、「趣味は苦しい」 と名付けられた一章がある。
土屋氏の趣味は、ジャズピアノである。とんでもない労力と時間と金を費やしてきた、と書く。
さらに、

金と労力を奪われるだけならまだいい。問題なのは、それだけ苦労しても苦しみしか得られないことである。

と来る。
発表会を前に、おろおろしている私なんかもうここで、拍手喝采、である。

苦悩は大きくなったり小さくなったりしながら、結局は次第に大きくなって行く。絶望の淵からはい上がっては、もっと深い絶望の淵に沈むという経験を繰り返しているうちに、劣等感が身体にしみこみ、性格は暗くなる。ついには、芸術的能力がないくせに性格だけ 「芸術家タイプ」 という、最悪の人間になってしまう。

だって。
またしても、「性格だけ 『芸術家タイプ』」 というところに、膝を打ち、思わず大爆笑。
おまけにここまで書いておいて、次はこうだもの。

金と労力を奪われながら苦しみに耐え、絶望的努力を続けているのをふりかえってみるたびに思うのだが、もしこれが仕事だったら、とても耐えられないところである。つくづく趣味でよかったと思う。

ははは、この一文、色紙か何かに書いて、額縁に入れて、ピアノの前に飾っておきたいよ。
たしかに、つくづくピアノや歌が趣味で良かった。
なーんて思えば、発表会なんかも、頑張ってみようかな、という気持ちになれるじゃあないか。
……って、そうでもないんだけどね。
やっぱり怖いし、しんどいぞ。

さて、土屋さんは 「趣味は苦しい」 の一章の後に、続けて、今度は 「趣味は楽しい」 という文章も書いている。
今度は一転、趣味がいかに楽しいものか、というのをものすごくシニカルに綴っている。
なるほど、今度は 「趣味は楽しい」 と書きたいんだな、と読者に思わせたところで、いきなり、文章が思わぬ方向に走り出す。

さらに深くこの趣味を追究していくと、そこには、単純な喜びの域をはるかに越える、すばらしい体験が待っている。それは、偉大な苦悩の体験である。(中略) 大芸術家や名スポーツマンが味わっているのと同じような高尚な苦悩なのである。

………ははは、また苦しみの話かよ。
しかし、土屋さんの指摘するのは、もっともだと思う。ただの趣味で、ものすごく低レベルであったとしても、真剣にやっている者にしてみれば、結局自分の実力に最後まで満足できないものだ。
土屋さんは、「その苦悩の大きさは一流の音楽家と比べても遜色ない」 というのである。

つまり、土屋さんが 「趣味は楽しい」 と説く理由とは……。

このように芸術的創造の苦悩を一流音楽家と共有する、これほどうれしいことがあるだろうか。ただ、はっきり、うれしいと思ってしまうと、苦悩でなくなるところがつらいところである。
一流になりきっていくにつれて、苦悩も深く大きくなってくる。何も知らない他人から見ると、「実力もないくせに何を好きこのんで苦しんでいるのか、まるで金を払って拷問してもらっているようではないか」 と思われるだろう。しかしこのように辛酸をなめればなめるほど、一流に近づいたような気になるのである。一流になったつもりになるためには、苦しみまで含めて模倣することが必要なのである。
音楽とか野球のような、なんの役にも立たないことのために絶望するという体験は、他では決して味わえないものである。ありがたいことに、実力がない者でも、このような貴重な体験が得られるのだ。
一流との違いは、わずかに実力の差だけである。


いやはや、やっぱり土屋さんはすごい。
発表会を前にして、私が、ウンウンとうなりつつ、苦悩を楽しんでいる状態の浅はかさをこうも見事に喝破されちゃうともう、開き直るしかないわー。
下手くそなりに、苦悩しながら、楽しんでやるぞ~、って気にもなってくるじゃあないか。
やっぱり、哲学者ってなんとも怖い存在だ……。

★Ten Things I hate about Me (著・Randa Abdel-Fattah)

★Ten Things I hate about Me (著・Randa Abdel-Fattah)

ヤングアダルトの本好きは、今も健在。
ということで、時々図書館に行っては、おもしろそうな、まだ邦訳の出てないヤングアダルト本を探し、細々と読んでいるわけです。
久々に、「これはおもしろい!」 という本があったのでご紹介。

主人公は、7年生 (日本でいう中一) の女の子。
レバノンの移民二世で、名前は Jamilah。
でも、褐色の髪をブロンドに染め、Jamie と名乗っている。
レバノン系であるバックグラウンドを学校では隠している。
「ethnicな人たち」 というステレオタイプな色眼鏡で見られたくないから。

何しろ、クラスでも人気者のグループの男の子たちは、中東諸国から来た移民のクラスメートたちのことを、「爆弾造ってんじゃないのか」 などと揶揄してばかり。
そのたび、Jamilah はドキドキしながらも、Jamie の仮面を被り続け、反論もできず、ただただだまり続けるしかないのだ。

同調圧力の強いティーンエイジャーという季節を、彼女は、周囲から自分がどう見られるのか、ということばかり気にしながら、必死で 「秘密」 を守り続ける。
だから、家族のことも隠すしかないし、家に友だちを呼ぶこともできないし、映画に出掛けようなどと誘われても、レバノンなまりの強い父親の厳しい 「門限」 が原因で遊びにすらいけない。一緒に映画やパーティーに行けない本当の理由すら友だちに打ち明けられずに、家族と出かけるから、とか、ウソを重ねるしかない。
だから、表面的な付き合いはできても、「本当のともだち」 にはなれない。
本当の自分を、Jamilah を受け入れてほしいのに、受け入れてもらえないとあきらめて、Jamie として暮らすしかないのだ。

……なーんて話を読んで、私はとてもびっくりした。
実は最初、アメリカが舞台の話だと思っていたから。
アメリカの教室ならば、そもそも、白人の少年たちが、中東からの移民のクラスメートたちのことを 「ethnic」 などとカテゴライズして、あからさまに 「爆弾作ってんじゃねーの」 なんて発言をしたら、それだけでもうアウトだ。
人種や民族を理由に、明確な形で相手を揶揄するのは、さすがにアメリカじゃ許されないだろうから。

もっとも、そういう偏見がアメリカにないわけはなく、何となく自然と、移民は移民同士で 「仲良しグループ」 を作るし、どこかで 「あいつらと俺らとは別」 という意識はお互いに強いんだろうけどね。
でも少なくとも、「おまえら爆弾作ってんじゃねーの」 発言は、アメリカの教室ではNGだろう、と思う。
心で何を思っていたとしても。

なんじゃ、こりゃ。
こんな学校、あるのかい?
なーんて思って調べたら、なんとなんと、この作家さんはオーストラリア人だった。
舞台はオーストラリアの中学校、だったというわけ。

この小説を読む限り、オーストラリアのティーンエイジャーも、日本人の中高生と同じくらい、周囲からどう見られているかを気にするし、同調圧力の強い社会を生きているんだということが、よーく分かった。
日本がああなのは、同質性が極めて高いからで、外からの移民をもっとたくさん受け入れたら、実は、10代の日本人の子たちの、袋小路の 「自分探し」 (同質性の高い社会で 「ほかの誰でもない私」 を獲得しなければならないのは、それはそれで大変なのだ) に、少しは逃げ道ができるんじゃないか、などと私は秘かに思ってたんだけれど。
話はどうやら、そこまで簡単ではないのだなあ、と思った。

結局、Jamilah は少しずつ色々な出会いに助けられながら、自分のことをクラスメートの前で開示するわけだけれど、不満が一つ。
彼女の一番の友だちである Amy が、Jamie の本当の名前が Jamilah で、レバノン移民2世だったことを知らされた時の反応が、なんというか……。

「私がそんなこと気にすると思った?」

これで、Jamilah が 「受け入れてもらった」 と思うところが、なんだかなあ、と思った。
現実の話だったら、「私がそんなこと気にすると思った?」 といわれても、Jamilah は救われなかったと思う。
「何いってるの! 私もあなたも同じよ」
なーんて安易にいわれてる気がするんじゃないか。
Jamilah が友だちの Amy に本当に求めていたのは、「気にしないよ」 といわれることではなく、違いを大事にし、彼女のエスニシティーを尊重し、きちんと受け止めてもらうことだったんじゃないか。

この本を読む限り、Jamilah が、自分の本当の名前を名乗れなかった苦しさや恐れまで、友人の Amy が理解したとは思えない。
そういう場面があって、Amy もまた成長する……という物語であってほしかった。

★不惑 桑田・清原と戦った男たち (著・矢崎良一)

★不惑 桑田・清原と戦った男たち (著・矢崎良一)

桑田・清原世代なのですが。
結局、今でこそ、毎日のように息子の野球を観戦し、スコアを付け、戦力分析し、いっぱしのことをしゃべったりもする私なのだけれど、結局、息子が野球を始める数年前まで、私なんか野球の「や」の字も知らなかったのです。

新聞記者になりたてのころなんか、高校野球県大会の取材なんかをやらされ、「ちくしょー、いったいスコアなんかつけられて、今後、何の役に立つっていうのよ!」 などと愚痴タラタラで取材していたのだっけ。ああ、若かった20代。思えば、あの時におぼえたスコア付けが、今まさに役に立っているわけで……。
息子の試合だけでなく、WBCの試合まで、スコアをつけながらでないと楽しめなくなる日が来るとはなぁ。

もっともっと私が最初から野球が好きだったら、きっと、この本を読みながら涙したかもしれません。まして、サラリーマンとして、もう先が見えちゃっていて、でも、与えられた場所で俺は俺の仕事をやるしかないんだぜ、なんて思ったりしたら、ついつい、この本相手に日本酒なんか軽く飲んじゃってたかもしれません。

が、いかんせん、当時の野球の選手の名前なんかほとんど誰も知らないし、サラリーマンでもない私としては、「25年後くらいに、息子に読ませてみよう」(って何時の話じゃ!)などと思ったのだった。

★死刑 (著・森達也)

★死刑 (著・森達也)

アメリカに来て、読んだ本の感想なり、心に残ったことを、すぐに書き留めるという習慣が途絶えてしまっているのだけれど、それをものすごく後悔するような時があって、例えばこの本なんかがまさにそれ。
あんなに色々なことを感じたのに、その時の生々しさをもはや思い出せない。それはとても悔しい。

覚えてるふりして書いても仕方ないので、心に残ったと記憶している箇所について列挙しておく。まさに私の私だけのための備忘録。

■死刑反対の活動をしているグループと一緒にいる時の、「居場所のなさ」「引け目」について書いた箇所。(p.16)。

僕は何だろう。少なくともボランティアではない。本を書くために、つまり死刑がらみで何かネタはないかと思ってここにいる。思想や信条はない。淡いものはあるけれど、それは思想や信条ではなくて情緒だ。さらに好奇心。」

「淡いもの」「情緒」「好奇心」。どれもとてもよく分かる。こういうのをきちんと言葉で言い表すのが苦手な私は、もっと漠然としたフワフワした言葉に逃げがちなんだよなあ、とちょっと自分を戒めた。

■教誨士T氏へのインタビュー。(p.222~)。

もしも、イエス・キリストが執行のその場にいたとしたら……という森氏の質問へのT氏の答は、「……暴れるかもしれないね」 だった、ということに、衝撃を受けた。こんな言葉が出るからには、きっとT氏はそれまでにも、何度も、死刑と宗教に絡む具体的なイメージと対峙してきたんだろうな、と。

■情緒を見極めるプロセス。(p.243~)。

えん罪や誤判が多かろうと、社会防衛の効果がなかろうと、死刑制度がなくならない理由を、著者は 「論理ではなく、情緒だ」 とする。そして、情緒、のほうをさらに探っていこうと方向を定める。
森さんのことだから、この取材を始めた時には、ある程度、そういう方向に最後は向かうだろう、ということは見通していただろうに。
本書は「死刑をめぐる3年間のロードムービー」といううたい文句でよく表現されるわけだけれど、「ロードムービー」には、ここまでの240ページの「過程」が必要なんだ。

■藤井誠二さんと著者との対話。(p.265~)

「僕と藤井とは、(中略)入口も途中も近いのに、出口が違う」と思いながら、著者は、ものすごく丁寧に言葉を選びつつ、藤井氏にインタビューする。また自分の思いを吐露する。何度も何度も、「自分で自分が何を言おうとしているのか分からない」 と思いつつ、言葉にする。
それが妙にリアリティーがあって、たまらないのだった。

■犯罪被害者と著者との対話。(p.284~)

文京区音羽であった幼女殺人事件の被害者の祖父へのインタビュー。この祖父の言葉の重さにまずうたれるが、このあたりでようやく、著者が 「情緒を見極める」 ために何をしようとしているかが明確に見えてくる。

僕は第三者だ。非当事者だ。でも思うことはできる。

だから、「多くの人に触れることで、揺れ動く自分の情緒をみつめよう」と考えたのだ。著者のこれらのプロセスを読むことによって、読者もまた、「自分はどうなのか」 と常に突きつけられていく。

最後の最後まで、死刑制度をどう考えれば良いのかに安易な結論を出さず、人に会い、目をそらさず、自分のほうを揺らしてみる。
相手を知ったから、会ったから、その人を 「殺したくない」「救いたい」 と考える。

結局、この本を読んだ読者が突きつけられていることは、たった一つなんだろう。
この本は出版当初から大きな話題を呼んだ本で、「最初から死刑反対を訴えるつもりで書いたんだろう」とか「情緒に流れたところが限界だ」などと著者を批判する声もあれば、「これまでにない非常に説得力のある本だった」とか「死刑賛成・反対の両方のスタンスの人に訴えるものがある本だ」などと著者を絶賛する声もあった。

でも、森さんが読者である私に求めていることは、たぶん、全然違う。
彼が私に言いたかったのは、

僕やあなたが同意しているからこそ、死刑制度は存続している。
僕やあなたは罪人を殺すことに荷担している。
死刑囚については第三者なのに、死刑制度については当事者なのだ。


という部分で、もっと言ってしまうならば、

「当事者なのだ」

という一文だけなのかもしれない。
何度かお目にかかったことのある森さんの顔を思い出しつつ。
それから、2007年にインタビューした原田さん、お元気かしら、と案じつつ。

★精霊の守り人 (著・上橋菜穂子)

★精霊の守り人 (著・上橋菜穂子)

日本にいたらシリーズ全部読んでいたこと間違いなし。
アメリカにいると、手軽にそのへんのネット書店から送料無料でさくっと取り寄せることも、地元の図書館に予約をばっさばっさと入れることもできないので、結局、1冊だけ試しに読んでみた。

飛行機の中とか、新幹線の中とか、旅の途中で、それも寝てしまいたくない時に、読むのにちょうどよい1冊。おまけにこれは、ハマると途中でやめられなくなるタイプのシリーズと見た。
十二国記シリーズ(著・小野不由美)にハマった私としては、どう考えてもハマるのは目に見えているので、アメリカにいるのを良いことに、とりあえず、2冊目には手を出してない。

「精霊の守り人」の設定でうまいな、と思うのは、主人公は若い少年と、それを守る女用心棒30代、というところ。若い読者は若いなりに、年配女性読者は年配なりに、なんとなく気持ちを登場人物に投影できる余地がある。この手の話を読むだろうと思われる読者層に広く心配りしてある、って感じ。まことにうまい。やっぱりプロの仕事だ。

★走ることについて語るときに僕の語ること (著・村上春樹)

★走ることについて語るときに僕の語ること (著・村上春樹)

アメリカでついつい、わざわざ日本から取り寄せてしまったのは、帯にある 「村上春樹が、はじめて自分自身について真正面から綴った」 という一文のせいでは、断じて、ない。
でも読んじゃうんだよね。あーあ。

私は走らないので。
走ったら、また読み返そうと思った。
もちろん、走ること以外に興味深い部分がいっぱいあるのだけれど、走っている人のほうが、そのスルリと逃げてしまいそうな何かを、しっかりつかめるんだろうな、という感覚が、読書中の最初から最後まで付きまとった。
これって、単に私の 「運動不足劣等感」 だろうか。

もう1年以上も前に読んだ本なので、読後感などまったく覚えてないに等しいわけで、これ以上書くのは無理。
とりあえず、自分自身が走り始めたら、もう一度読み返すことにしよう。
……っていつの話やら。

★翻弄者 (著・藤原章生)

★翻弄者 (著・藤原章生)

元職場の先輩が新しい本を書いた。わざわざ著者献本の1冊を割いて、アメリカまで届けてくださったことにまず感謝。

3部構成で、著者が海外赴任中に出会った人物3人を取り上げている。バグダッドの預言者、ケープタウンの運転手と娼婦、キューバの詩人といった具合。
バグダッドの予言者は、サダム・フセインのお抱え予言者として十数年間も宮殿に軟禁されていた人物。となればもう、新聞にしろ、テレビにしろ、雑誌にしろ、メディア的にも取り上げてみたくなる人物で、この本の編集者としても彼の話を最初に持ってきたくなるのは当たり前、と思う。

文章も、私が著者の本を読んだ範囲内では、一番 「日本の新聞文体に近い」 気がした。どうしてかな。これはよく分からない。
著者が数年前に出した本「絵はがきにされた少年」を読んだ時の最初の感想は、「文体が、英語か何か外国語で書かれた本の上手な翻訳書みたいなリズムだ」 というもので、それが妙に心地よかった記憶があるのだけれど、それは今回は特に感じなかった。
その分、読みやすくて、私には馴染みやすかったけれど。

一方、3つめの物語、キューバの詩人のほうは、これまた弱冠文体が違う。個人的にはこの文体が一番好き。相手の詩人との出会いの中で生み出されたものなのか、単に書いた時期の違いによるものなのか、よくわからないけれど。
それにしても、目の前の人間の中に段々とのめり込んでいき、気づけば、その人物の心のありようのまま、世界が見つめられるようなことが、実はあったりするんだろうか、なんてことをふと考えた。

でも、本当の話、たぶん、一番読んでいておもしろかったのは、2つめの物語かも。ヤクチュウの娼婦に夢中になる運転手の話。これは、なかなか、こたえた。
メディアの人間はふつう、こういう相手にのめり込んで取材することはない。やっぱり、有名人であったり、ニュースの渦中にいる人物を選んでしまうし、そのほうが書くのも楽だし、発表の場も多いから。でも、確かにいるのよね、そういうのとは無関係に、むちゃくちゃ気になる、どうしようもない相手って。

著者がこの運転手のどんな風にくっついて回ったのか、もうちょっと知りたい。ほとんどストーカー状態だったんじゃないか、と想像してみる。
そこまで書いちゃっていいのか。
そこまで他人の心のうちが本当に分かったと思えるのか。
何がその人にとっての真実かなんて、分からないのに。
いったいどこまでが、その人のことで、どこからが自分自身のことなのか、それを隔てるのは何なんだろう。
色々なことを思いながら、読んだ。

作家塩野七生さんのメッセージが帯にあった。
世界のそこここで生きる人々の「低き声」に耳を傾けた作品、というような言葉があった。「まるで、人々のほんとうの想いは低い声にしか表れない、と言いたいかのように。」とも。
「低き声」という言葉は好きだけれど。
「ほんとうの想い」という言葉は、できれば好きになりたくない。

一番好きな文章を一つ。
233ページ。

イラムはレイナルドの本を数冊しかない書棚に戻した。そして、しばらく本の背表紙を眺めながら、祈るような気持ちで言葉を待った。詩の一部を。
何も現れなかった。でも、特に気にしなかった。

★告白 (著・湊かなえ)

アメリカに来てから読んだ本の 「かんたん書評」 をまとめてアップしておきます。

★告白 (著・湊かなえ)

小説推理新人賞受賞で、週刊文春のミステリーベスト10で第一位で、2009年本屋対象最終選考ノミネート作品で、このミスでも4位に入っていたから、どこかで読んでみたいもんだと思っていたら、友人が渡米の際に持ってきてくださった。
で、読んだ。
もう読んだのは半年以上前なので、覚えてないけれど、印象としては、

・新人さん、あれこれ頑張って挑戦されたんだなあ。
・でもちょっと、心理描写とか、「ありがち」というか「薄っぺら」というか……。
・登場人物がそれぞれ、異常に自意識が肥大化しちゃってる部分だけリアリティーを持っているのだけれど、それ以外の設定には、今ひとつ説得力もリアリティーもないよなあ。
・HIVへの偏見を助長する、という部分はあるぞ、やっぱり。

みたいな感じ。
ちまたで、「読後感最悪」とか言われつつも、ものすごく売れているのは、展開も早く、あれこれ工夫されているからなんだろう。
個人的にはリアリティー追求型ミステリーファンなので、ぴんとこなかった。
でも、「日本では今、こういうのが人気なのねえ」 と楽しく読みました。

★思想としてのアメリカ (本間長世)

★思想としてのアメリカ (本間長世)

アメリカに来て1年半。
本は読んでも、それをブログに書いているヒマが全然なかった。
でもさすがに、何冊かは残しておかないと、読んだものがなかなか身に付かない。
(とにかく記憶力が悪くて、探偵小説なら2年後には犯人を忘れ、5年後には読んだことのある本だということにすら気づかず、再び楽しく読めてしまうほどなのだ)。

ということで、この1冊。
アメリカ関連の本をあれこれ読みあさったが、一番、色々な意味で勉強になり、導入の書としても使えると思ったのがこの本だった。
読後だいぶたっているので、もはやまとまった書評はとても書けそうにない。
自分のために、以下メモを残しておきたい。

・「我が国の政治は、深く抱かれた宗教的信仰に基づくのでなければ意味をなさない。そして私はその信仰が何であろうと構わない」というアイゼンハワー元大統領の言葉を引き、ウィル・ハーバーグは 「アメリカ人の信仰とは、実は信仰への信仰である」 と説いた。(P22-23 引用元Will Herberg, “Protestant-Catholic-Jew”, 1960, pp75-90)

・マイケル・ノヴァクのエスニック論。「アメリカは新移民に対して魂の転向を要求する」「アメリカは個人を同化するが集団は同化しない」。
ノヴァクによると、エスニック・アメリカは7つの封印を破らねばならない。曰く、1.孤独に耐えることを学ばねばならない。2.楽観主義を奉ずることを学ばねばならない。3.自分が主体となって世界に対決するという、カーボーイ的生き方を身につけなければならない。4.自助の精神を学び取らなければならない。5.アメリカは神の国であるという考えを信じなければならない。6.理性によって衝動や暗い情念を抑圧することを学ばなければならない。7.性に対する考えが異なることを学ばねばならない。
(P69 引用元Michael Novak, “The Rise of the Unmeltable Ethnics”, 1972, pp91-110)

・ニュート・ギングリッジは、「アメリカはひとつの観念であり、アメリカ人になるには一群の価値と生活習慣を受け入れればよいのであって、誰でもアメリカ人になろうと思えばなれる」と論じ、「アメリカは、あなたが何になりたいかを問う。集団の権利は、あなたの祖父母が誰だったかを尋ねる」とし、エスニック集団が集団としての権利を主張することを否定した。(P78-79 引用元Newt Gingrich, “To Renew America”, 1995, p30-50)

・黒人の歴史学者ネイサン・ハギンズの 「エスニック・アメリカ」(1981年、ソーウェル著)批判。黒人の保守派論客ソーウェルが自著の中で黒人を他のエスニック集団と同じように取り上げ、ユダヤ系、日系、中国系はアメリカ社会への適応度が極めて高く、まずまず及第点というのがドイツ系とイタリア系、明らかに軽蔑されているのがアイルランド系で、なんとか引き立ててやろうとしているのが黒人、などと序列を付けているらしい(いかにもあのオッサンのやりそうなことだ)
ハギンズはこれに対し、黒人を他の移民集団と同列に扱うこと自体の過ちを説く。「生まれながらのアメリカ人で、宗教はプロテスタント、英語を話す。外国からの異質な存在ではない。市民としての権利を当然のこととして主張しうる点において、移民とは立場が異なる。にもかかわらず白人と同等の生得権を認められないことが、黒人の社会での成功を妨げている」。だからこそ、西インド諸島からの移民である黒人のほうが、アメリカ黒人より社会で成功しやすい、と説く。
(p.91, 引用元Nathan Huggins, “Revelations” 1995, PP284-286, 148-151)

・コーネル・ウェストとマイケル・ラーナーによる「ユダヤ人と黒人 傷を癒やすことを始めよう」(1995)に見られる対話。題材は、ネーション・オブ・イスラムのルイス・ファラカンや、OJシンプソンの裁判など。(p,112- 引用元Michael Lerner & Cornel West “Jews and Blacks : Let the Healing Begin”, 1995, pp1-4など)

というわけで、ここまででも、原著にあたりたい箇所がいかに多いことか。実は、この本、借り物なのだけれど、これは手もとに置いておきたいので、自分で買おうと思ったら、もう、在庫払底増刷未定状態なのだった。日本に帰ったら、古本屋で探さなきゃ。

こぼれ話としては、クリスマスソングの中でも最も有名な曲の一つである「ホワイトクリスマス」の作曲家が、アーヴィング・バーリンというユダヤ系移民の子どもだったというのは驚いた。キリスト教と深く結びついた名曲を残しながらも、ユダヤ教の信仰を捨てることはなかったんだそうだ。

こぼれ話をもう一つ。ドワイト・マクドナルドの姓は、Macdonaldであり、MacDonaldではない。この方の母上が、ホントは大文字のDを使っていた姓を、小文字に変えさせたんだそうだ。その理由は、「Dが大文字ならば、アイルランド人の名前だが、小文字にするとスコットランド人の姓になって、家の格が上がるから」。そんなこともあるのねえ。

やっぱり世界は奥深い。

★The Higher Power of Lucky (Susan Patron)

★The Higher Power of Lucky (Susan Patron)

2007年のニューベリー賞受賞作。
渡米後、「かんたん書評」ブログが一切アップされないので、「ははーん、おぐには本を読んでないんだな」 とか誤解されちゃってるでしょうが、実は……そうかも。
というか、私、ほんとに英語で本を読むのが遅いのです。
いまだこの手の児童書やヤングアダルトで精一杯。専門書になると、いわゆる 「つまみ読み」 を英語でする技術がまだないもので、結局最初から頑張って読んで、途中で断念することが多いわけです。

それでも、語学の基本は案外、良い文章を読むことにある、と思っているもので。
こつこつと図書館で本を借りてきては、読んでいるのです。
今回のこの本はぜひお薦めしたくて、アメリカ発の「書評」エントリーのトップバッターに持ってくることにしました。
邦訳も出るでしょうから、ぜひぜひ、よろしく。

主人公のラッキーは10歳の女の子。カリフォルニアのどん底のようなトレーラー集落(人口43人)に暮らしてる。母はある日事故で死に、母と別れてフランスの若い女の子のもとに走った父親は子育てする気はさらさらなく、ラッキーの面倒を見にやってきたのは、なんとなんと、この父親とも別れたフランス人女性。つまり、実父の元恋人、というわけ。

この本、最初のシーンがいきなり、アルコール依存症者のためのアノニマスグループの集まりなのね。これはたぶん、依存症の世界や、12ステップ、ハイヤーパワーなどの用語を知らない人にはなじみにくいかもしれない。けれど、私にはむしろ、何度も何度も取材してきた世界だけに、ものすごく光景が鮮やかに伝わってきた。
その会合をこっそり盗み聞きしながら、彼らがどうやって自分なりの 「ハイヤーパワー」 をつかんだのかを知りたいと願う10歳の少女ラッキー。
私なんかもう、この設定だけでノックアウトだわ。

日本的な表現で一言で言ってしまうならば、
10歳にして生きづらさを抱えた少女が、一風変わった近所の住人やら、フランス人のブリジットとの関わりの中で、母親の死や見捨てられ感を、鮮やかに受け止めていくまでの物語、かな。

とにかく、最後の骨壺のシーン(これ以上はネタバレなので書きません)が圧巻です。

ちなみに。
上記書名リンクから、amazonの書評を読んでいただくと分かるのですが。この本の1ページ目に登場する scrotum という単語 (陰嚢、という意味です) 一つのせいで、この名著を図書館の子ども向けの書棚から排除しようという動きが、一部の司書たちの間にあったそうです。
日本じゃあ、考えられないな。
文脈で読めば、何の問題もないと誰もが思えると思うんだけど。




プロフィール

おぐにあやこ

Author:おぐにあやこ
名前■おぐにあやこ
生年■1966年 ひのえうま
仕事■07年秋まで新聞記者。仕事を辞めて渡米。11年、新聞記者に出戻り。
趣味■読書、歌、旅
目標■ちょっと背伸びして、
 疑問符を感嘆符に変える事
苦手■勧善懲悪


著書■
▼「薬(ドラッグ)がやめられない 子どもの薬物依存と家族」(青木書店)
「ベイビーパッカーでいこう 赤ん坊とザックかついでスペインの旅」(日本評論社)
「魂の声 リストカットの少女たち」(講談社)
「いいじゃない いいんだよ 大人になりたくない君へ」(共著、講談社)
「アメリカなう。」(小学館)
「アメリカの少年野球 こんなに日本と違ってた」(径書房、ミズノスポーツライター賞)
「?が!に変わるとき  新聞記者、ワクワクする」(汐文社、読書感想画中央コンクール課題図書、高校生の部)

訳書■
「自傷からの回復 隠された傷と向き合うとき」(みすず書房)

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