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記事212◆俳優の吉岡秀隆さんロングインタビュー

■掲載年月日 2005年11月07~10日連載
■この人、この時
■俳優・吉岡秀隆さん
■迷い悩んで

◇「三丁目の夕日」--「役作り」より自然体で

 <新作は、シリーズで1400万部を売り上げた人気漫画の映画化。演じるのはひょんなことから身よりのない少年を引き取った売れない作家「茶川(ちゃがわ)」である>

 僕はいつもそうなんだけど、撮影初日に現場に入るまでは本当に怖い。だって「茶川」は会ったことのない男だし。僕はとっても臆病(おくびょう)だから「こんなお芝居を求められたらどうしよう」などと一人で考え込んでしまう。
 結局、答えが見つからないまま朝が来る。ところが頭を真っ白にして撮影現場に入れば、そこに答えがいっぱい転がっている。「茶川」が細々とやっている駄菓子屋のセットに入れば、彼の生活が手に取るようにわかる。

 だから僕、いつも「役作り」って特にしないんです。最初は不器用でも一生懸命に演じる。セットや小道具に体をなじませ、監督と共通言語を見つけ、スタジオや撮影現場の空気を吸っていれば、いつか自然と僕の「茶川」になれるんじゃないかな、と。

 本も売れず、誰にも相手にしてもらえない「茶川」は最初、人間が少し曲がっている。でもそれは自分の夢を追い過ぎたから。夢を信じ過ぎたから。身よりのない少年との交流で変わっていける「茶川」は、本当は愛すべき人なんです。脚本を初めて読んだ時、「茶川」の本当の優しさが伝わってきました。

 <映画の舞台は昭和33年。東京タワーが半分しかできていなかった時代だ>

 僕は今35歳。映画の舞台は、僕の両親が働き始めた時代です。僕はNHKの番組「プロジェクトX」で東京タワーをテーマにした回が好き。強風の吹く地上約300メートルで作業した男たち。世界一のテレビ塔を作るんだ、って。そんな人々の心意気に胸を打たれました。
 敗戦から立ち直るまでの日本を支えた人たちだから、きっと背負っているものも違ったんだと思う。僕は、がむしゃらに懸命に「茶川」を演じました。だって、その時代を生きた人たちから「オレらはこんないいかげんな生き方ではなかったぞ」と思われるのだけは怖かったから。

◇子役--やめようと思ったけれど

 <4歳で劇団に入った。おとなしくて人前で話せないことを両親が案じたためだ。映画「遥かなる山の呼び声」で山田洋次監督と出会う>

 当時まだ8歳だった。台本を読むかわりに、山田監督が場面を説明してくれた。「今、学校から帰ってきた君は、お母さん役の倍賞千恵子さんが泣いているのを見て、どう思うかな」などとその場でセリフを作り、行動を決めてくれたんです。倍賞さんの泣き顔を見て、お芝居ではなく本当に悲しくて泣いたこともよく覚えています。
 中学3年の進路指導で学校から「芸能活動を続けるんですか」と問われた時にはびっくりした。「北の国から」の撮影は3年に1度、「男はつらいよ」も1年に1度のペースで、それ以外の仕事はなかったから、芸能活動をしているという自覚は全然なかったんです。

 悩んだ末、役者はもうやめようと思った。街で「純」「満男」と声を掛けられるのも苦痛だったし、有名になりたくもなかった。高校卒業後、俳優をやめる決意をしたところに、黒澤明監督から映画出演のお話をいただいて「もうちょっとやってみようかな」と。だから実は今にいたるまで「役者でやっていくぞ」と決意表明をしたことないんです。あまりカチッと決めたくないな、という思いがまだあるんです。35歳になっても。

 <新作「ALWAYS 三丁目の夕日」では子役との共演が多かった>

 今の子役って、プロですね。自分自身と自分の演じる役柄とを上手に切り離し、違いをきちんと理解している。
 僕は子役時代、それができなかったからつらかったんでしょうね。役柄と自分自身をいつもだぶらせていた。「北の国から」も「男はつらいよ」も、僕の成長に合わせて脚本を作ってくださったので、なおさら、演技ではなく、いつも本気を要求されました。

 今の子役たちもいつか僕と同じ壁にぶつかるのかな。きっと僕は何も言えないだろうな。「自然でいいよ。無理するのが一番つらいんだよ」ぐらいしか。

◇純と満男--役に育てられ、救われた

 映画「男はつらいよ」の撮影で1年ぶりに山田洋次監督や渥美清さん、倍賞千恵子さんに再会しても、どなたも僕にどんな1年だったかなんて尋ねない。でも僕はいつも見透かされている気がして、とても怖かった。
 普段から地に足をつけてきちんと生きてなければ「満男」役は演じられない。普通に暮らさなきゃ。自然に。いつもそう感じていた。役から離れるためではなく、年に1度、演じるために。

 寅さんがすごいのは、スクリーンの向こう側に渥美さんの生き方があるからだと教わったから。できるだけ自然に、自然体で、どこにも力を入れないで生きていければ、と思ったんです。

 <「男はつらいよ」は95年、「北の国から」は2002年にシリーズを終えた。>

 「寅さん」が終わった時は悲しかった。もう満男を演じられない、満男の成長はもう想像でしかないんだ、と。虚脱感があった。だから「北の国から」が終わる時、僕は「今度こそ、そうならないように」と自分に念じていた。でもやっぱり、だめだった。空っぽになってしまったんです。「純君」と呼ばれるのがあんなに嫌で、「純と自分とは違う。もう一人の自分なんかじゃない」と思ってきたはずなのに。

 そんな時、テレビドラマ「Dr・コトー診療所」の「コトー先生」役の話をいただいた。コトー先生は、都会の大学付属病院を離れ、知り合いのいない離島で医者の道を模索する。一生懸命にやるしかないわけです。それが僕自身に重なった。僕も2本の長かった大きな作品から離れ、初めてのスタッフに囲まれて、新しい仕事をしていたから。
 コトー先生が「みんなが元気になってくれれば僕はそれでいいんです」と言った時、同じだと思った。テレビを見ている人が喜んでくれたら僕もまた救われるんだと。
 コトー先生は、テレビの中の患者だけでなく、僕自身をも救ってくれたんです。演じた後、しばらくして気付くことだけど。今作「ALWAYS 三丁目の夕日」の「茶川」役もきっとそう。1年後ぐらいに気付くんだろうな。

◇ドラマ--人のつながり演じたい

 <数多くの役を重ねるほどに自信が付くものかと思えば、そうではないという。>

 僕の場合は逆です。演じれば演じるほどに背負うものも増えていく。新しい役を演じる時、過去に演じた人が心に現れ「おまえ、そんな演技でいいのか。僕を演じた時はもっと一生懸命だったろう?」と心に語りかけてくるんです。
 「北の国から」の「純」や「男はつらいよ」の「満男」がそうだったし、今回の「茶川(ちゃがわ)」もそうだと思う。それがプレッシャーになるから、僕は新しい役に向かう時は過去の役を一度心の中から消すことにしています。あとは監督を信じて演じる。監督が一番、その映画の色や空気をよく分かっているんだから。

 自信なんか今もない。ただ懸命にやってるだけ。役者なんて戦争が始まったら最初になくなる職業です。だからこそ、心をこめて演じたい。
 テレビドラマ「Dr・コトー診療所」の放映後、離島医療に興味を持つ医者が増えたそうです。僕が思ってもみなかった答えが返ってきた時、本当にこの仕事をやっていてよかったと思う。いいかげんじゃだめだな、とも。

 <演じたいのは、人同士のつながりだ。>

 だって映画の一番の魅力は人だから。人が人と出会うことで成長し、救われる。それが僕の絶対的なテーマです。
 例えば、村に悪さばかりして嫌われ者の大男がいる。ある日改心して、村人のために尽くして尽くして「ほかに何をしてほしい?」と尋ねたら、村人は「あなたにいなくなってほしい」と。山田洋次監督は教えてくれました。「この時の大男のショックこそがドラマなんだよ」と。
 「男はつらいよ」もそう。寅さんは人のために一生懸命。でもみんなには迷惑。そんな寅さんの悲しみが、僕にはよく分かる。だからそんな人間ドラマを演じたい。人間は人間によって傷つけられるけど、一方で、人間によって救われる。だって行き着くところ、人は一人では生きていけないから。
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プロフィール

おぐにあやこ

Author:おぐにあやこ
名前■おぐにあやこ
生年■1966年 ひのえうま
仕事■07年秋まで新聞記者。仕事を辞めて渡米。11年、新聞記者に出戻り。
趣味■読書、歌、旅
目標■ちょっと背伸びして、
 疑問符を感嘆符に変える事
苦手■勧善懲悪


著書■
▼「薬(ドラッグ)がやめられない 子どもの薬物依存と家族」(青木書店)
「ベイビーパッカーでいこう 赤ん坊とザックかついでスペインの旅」(日本評論社)
「魂の声 リストカットの少女たち」(講談社)
「いいじゃない いいんだよ 大人になりたくない君へ」(共著、講談社)
「アメリカなう。」(小学館)
「アメリカの少年野球 こんなに日本と違ってた」(径書房、ミズノスポーツライター賞)
「?が!に変わるとき  新聞記者、ワクワクする」(汐文社、読書感想画中央コンクール課題図書、高校生の部)

訳書■
「自傷からの回復 隠された傷と向き合うとき」(みすず書房)

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