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★「じぶん…この不思議な存在」「感覚の幽い風景」(ともに著・鷲田清一)

★「じぶん…この不思議な存在」
★「感覚の幽い風景」(ともに著・鷲田清一)

今回、記事を書くにあたって、久しぶりに読み直した本。
いつも「あーあ、こういう本と、高校時代に出会ってればなあ」と思います。今高校生、という方。手遅れにならぬうち、だまされたと思って読んでみてください。
買わなくてもいい。
図書館でいいから。

「じぶん……」のほうは、講談社現代新書。
表紙の一文が、この本の狙いをすべて言い尽くしてます。

「わたしってだれ? じぶんってなに? じぶん固有のものをじぶんの内に求めることを疑い、他者との関係のなかにじぶんの姿を探る」

「じぶん」とは「他者の他者」である、というのが結論。

一方、「感覚の幽い風景」のほうは、月刊誌などへの連載をまとめたもの。今回の記事は、この中の「ぬくみ」という章に一番関連が深いです。が、このエントリーでは、別の「皮膚の疼き」という章から、長い目の抜粋。

もう消えてなくなればいい、とおもうことがある。じぶんが、世界が。そういう想いが、日常のあたりまえの光景の背面から音もなく滲みだしてくるのをひとはとどめることはできない。その水は石清水のように透明であるが、ときに溶岩のように土色になって、あるいは爛れのように血の色をして、噴きだしてくることもある。

わたしはここにいる、物はそこにある。わたしはわたしで、物は物である。そういうかたちでここにわたしがいて、そこに物がある。眼の前にあるということのほかに、関係はなにもない。ありふれた光景といえばそうである。

しかし関係がないというかたちでわたしと物たちとの関係があるということじたいに、ある苦痛を感じることがある。ある物との関係はこれから始まるのであろうに、なぜか先に、関係が起こるかもしれない物との、その関係のなさに、疼きをおぼえてしまうことがある。そういう光景のなかには、他人という存在も含まれている。ターミナルにひとが溢れている、テレビをつければひとががなり立てている。関係ということを欠いたままに物があり人がおり、そのなかでぐるぐる自転するわたしがいる。


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プロフィール

おぐにあやこ

Author:おぐにあやこ
名前■おぐにあやこ
生年■1966年 ひのえうま
仕事■07年秋まで新聞記者。仕事を辞めて渡米。11年、新聞記者に出戻り。
趣味■読書、歌、旅
目標■ちょっと背伸びして、
 疑問符を感嘆符に変える事
苦手■勧善懲悪


著書■
▼「薬(ドラッグ)がやめられない 子どもの薬物依存と家族」(青木書店)
「ベイビーパッカーでいこう 赤ん坊とザックかついでスペインの旅」(日本評論社)
「魂の声 リストカットの少女たち」(講談社)
「いいじゃない いいんだよ 大人になりたくない君へ」(共著、講談社)
「アメリカなう。」(小学館)
「アメリカの少年野球 こんなに日本と違ってた」(径書房、ミズノスポーツライター賞)
「?が!に変わるとき  新聞記者、ワクワクする」(汐文社、読書感想画中央コンクール課題図書、高校生の部)

訳書■
「自傷からの回復 隠された傷と向き合うとき」(みすず書房)

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