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★いじめと現代社会 (著・内藤朝雄)

★いじめと現代社会 (著・内藤朝雄)

ずっと気になっている内藤さんの本、再び。
ものすごい忙しい最中に図書館で借りたので、期限までに読み切れず、ただし、一部を拾い読みして、「これは買うべし」と直感。ネット書店で注文してしまった本。

第一章は、これまた今をときめく社会学者、本田由紀さんとの対談。この冒頭で、内藤さんは、関心領域が学校でのいじめから職場におけるいじめにシフトしている、と話しています。
そもそも内藤さんの問題感心は、「逃げることも出来ない狭いところに閉じこめられ、『悪く思われたらどうなるかわからない』という恐れを背景に、人間が人間にとってのオオカミになる状態を何とかしたい、というところから始まっています」(本書冒頭)なので。

今回、本田さんとの対談で一番おもしろかったのは、本田さんが内藤さんに「家族についても研究対象と考えているか」と質問しているところ。
内藤さんは「職場や学校については、社会政策での改善方策もあると考えているのですが、家族に関してはできることの範囲がとても狭い。(略)家族がダメだったら、ほかのところで人間関係を試行錯誤しながら、自分をつくっていけるための場所を用意させてあげることで、よいパターンを他所からもらえるような開かれた社会にするぐらいしか、方法はないのではないかと思っています」と正直に、実に正直に答えています。
その後、本田さんは、「しかし一方で、家族の教育力といったものへの過剰な期待感や、それを重要視して言い募るような状況が強まっています」と問題提起しています。

実はこの、「家族の教育力への過剰な期待感」のようなものは、私自身、例えば学校の保護者の間にもとても感じます。例えばクラスの誰か生徒に「問題行動」が見られたときに、教師に対して「あの子の親をちゃんと指導してるのか!」と言い募るような……。
教師に言い募りたいなら、「あの子にちゃんと指導してるのか!」であるべきだと思うんだけどなあ。

親と子は別もの。別個の存在、という原則を、私はやっぱり守りたいのです。もちろん、親が子どもに大きな影響を与えることや、指導上のカギを握ってることまでは否定しない。でも、クラスの子どもが問題だと思った時に、何よりも真っ先に、その子の親への反感が募る、というのはさすがに不思議。
もちろん個別のケースであまりに解決の目処が立たない時、「おいっ、いったいあそこの親はどうなってるんだっ!」と言いたくなる気持ちは、正直なところ、すごく切実に分かる。それでもなお、どこかで、「家庭への過剰な期待」に歯止めをかけておかないと、という思いがあるんですよね。

で、話は戻りますが、本田さんは「家庭でどのような子育てをするとどのような子に育つか」みたいな家庭教育を強調する言説が社会にあきらかに増えていることを指摘しています。これには同感。

さらに、これに対し、内藤さんが言った言葉がこれ。
「そういった言説に反応することは、子どもに、非常に悪い影響をおよぼします。つまり、家族のなかで親が心理学者や『先生』になったりしたら、たいがい子どもはグレます(笑)」
「親が親であることを忘れて『教育』に欲情すると、子どもは親を失って、家族のなかでも教育施設の孤児のようになってしまいます。本屋に平積みされている『教育』や『心理』のジャンク・スキル本はゴミ箱に捨てるべきです」

さらに強く同感!
というか。日頃、私が自分自身の子育てに危機感を抱くのはその点だから。教育やら家族関係なんかを下手に取材しちゃうと、どうやったって「頭で考える親」になっちゃうもの。あたしはもう「肝っ玉母ちゃん」にはなれないんだろーなー、としみじみ思う。
たぶん、世の教師や保育士や心理学者なんかも似たようなことで悩んでる。実際、取材してみると、教師や精神科医、心理学者の子育てって、かなり苦しいものがあるものね。

私の場合、そういう隘路から私を救い出してくれているのは、たぶん、地域力。様々な人が子どもに関わって、清濁ごっちゃまぜに他人の子に何かを伝えてくれる、少年野球の世界なんだろう、と思う。
よそ様の手に息子を委ねるようになって、よそ様の子どもとその分、より深く関わるようになって、ようやく「頭で考える」ところから脱却し始めた自分に気付くので。

さてさて、真ん中はすっとばして(本日、購入した本が届いたので、後日読もう!)、最終章は宮台真司さんとの対談。「あなたの意見には半分賛成」という発言が双方から何度も飛び出し、その差異がとてもおもしろい。
これを読んで思ったのは、「ああ、私はもう一度、頭を整理しなければいけないなあ」ということ。

私は若者や子どもの世界を考える時、3つの時代の具体例に依拠する傾向がある。

一つは、自分自身の思春期。
もう一つは、警視庁記者時代に少年事件や援助交際などを取材していたころ。
最後は、現在。つまり自分の子育てを通して見聞する実例。

最初が70年代後半~80年代前半。
次が10~15年後の90年代半ば。
今は、さらにそれから10年後。

思えばこの25年間くらいをごっちゃまぜに考えてこなかったか。
もっと言えば、バブル時代とバブル崩壊が子ども社会に与えたものが何だったかを、自分なりに全然整理できてないんだろう、という気がする。もう一つは、ネットの世界が子どものコミュニケーションなどにどんな影響を与えたか。
新聞記者は基本的に、事実の積み重ねで取材するので、普通に記事を書いているぶんには、そのあたりがごちゃまぜでも、感覚的に乗り切れてきちゃったんだと思う。
そろそろ、整理していかなきゃなあ、と切実に実感したのでした。

その他、いくつか、記しておきたいこと。

・内藤氏は 「暴力が減った分、人間関係のいじめがひどくなる、という俗説には反対です。むしろ暴力とコミュニケーションのいじめは相乗し合っていることのほうが多いのです。というのは、学校のような閉鎖空間での暴力(の可能性)は、コミュニケーション操作系のいやがらせをおこなう者にとって、権力の担保になっているからです」 と指摘していること。
そういえば、校内暴力→陰湿ないじめへ、という構図が一般的によく語られるけれど、暴力そのものがどのように作用しているかについては、あまり考察されてこなかったのかも、と思ってしまいました。
特に男の子の間のいじめでは、暴力が権力の担保になっている、というのはよくわかる気がします。

・最近、私が一番嫌いな言葉に 「空気を読め」 というのがあるのだけれど、これについて、本田由紀さんが発言されている。「コミュニケーション系の圧力」 の一つとして。「『人間力』といわれるような、コミュニケーション操作能力に代表される、見えにくい能力に基づいたミクロな支配が強まるようになり、その場を牛耳れるかどうかによって、仲間集団内での地位の格差が開いてきている印象がある」と。そして、「コミュニケーション操作能力以外の自他へのリスぺクトの基準を再構築すること」 と 「コミュニケーション操作能力の格差があまり開かないよう、それが自然に培われる機会を制度に組み込むこと」 を提案している。
具体的には、特定の専門領域やテーマに対して共同で取り組む機会を学校で用意すること、という提案につながっているわけで、これを支えているのが、専門学校生を対象にした研究結果なのだろうけれど。
私は、彼女の2つの方向の提案を読んで、前者ついては、まずが大人なり社会が変わらないとどうしようもないと思ったし (コミュニケーション操作能力を一番シビアに判断するのは就職試験だと思うし)、後者については、これを既存の学校制度に組み込めば、結局はいびつな形になっていく気がします。そういう意味で、内藤さんの提案する 「学級をなくせ」 を実現した後の話、という気がしました。


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内藤朝雄×藤井誠二

先月新しい本を出した内藤さんと、盟友藤井誠二さんのラジオでの対談の模様です。
http://tbs954.cocolog-nifty.com/ac/2007/11/post_a785.html
http://tbs954.cocolog-nifty.com/ac/2007/11/post_0bc9.html
プロフィール

おぐにあやこ

Author:おぐにあやこ
名前■おぐにあやこ
生年■1966年 ひのえうま
仕事■07年秋まで新聞記者。仕事を辞めて渡米。11年、新聞記者に出戻り。
趣味■読書、歌、旅
目標■ちょっと背伸びして、
 疑問符を感嘆符に変える事
苦手■勧善懲悪


著書■
▼「薬(ドラッグ)がやめられない 子どもの薬物依存と家族」(青木書店)
「ベイビーパッカーでいこう 赤ん坊とザックかついでスペインの旅」(日本評論社)
「魂の声 リストカットの少女たち」(講談社)
「いいじゃない いいんだよ 大人になりたくない君へ」(共著、講談社)
「アメリカなう。」(小学館)
「アメリカの少年野球 こんなに日本と違ってた」(径書房、ミズノスポーツライター賞)
「?が!に変わるとき  新聞記者、ワクワクする」(汐文社、読書感想画中央コンクール課題図書、高校生の部)

訳書■
「自傷からの回復 隠された傷と向き合うとき」(みすず書房)

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