南三陸町へのボランティアツアーに参加してみました
先週末、南三陸町へのボランティアツアーに参加しました。
1泊2日。土曜日の早朝に東京駅を出発し、新幹線とバスを乗継ぎ現地へ。
地元ボランティアセンターに登録し、その日の作業を割り振ってもらって、1日目は2時間ほど作業。
夜はホテル観洋に宿泊し、2日目は5時間ほど作業し、温泉で汗を流した後、新幹線で帰路へ、というツアーです。
昨年、東日本大震災をアメリカで迎えて以来、ずっと心にしこっていたもの。
昨夏、日本に戻って、家族で仙台の義父母宅を訪ねても、石巻などの被災地をめぐっても、あるいは取材で被災地に行っても、やっぱり納得できないものがずっと残っていました。
ボランティアツアーに参加しよう、と思いたち、それから、「もしかして、私みたいに今も迷っている人がいるなら、その人たちに届けられる記事になるのかも」 と気づき、職場の企画会議でも提案してみることにしました。
その結果、個人で参加するはずが、仕事として参加することになりました。
どうせなら、できるだけ、多くの人にとってハードルの低いツアーを選び、読者に届けてみよう、と思いました。
バスツアーではなく、新幹線利用に。
ホテル泊で、露天風呂のある温泉付きに。
それでも、新幹線で移動時間を短縮できる分、ボランティアの作業時間も2日間確保できるものに。
そんな基準で、JTBさんの今回のツアーを選んだのでした。
中身は、この記事に書いたとおりです。
東日本大震災 週末ボランティア体験記 一人じゃ何もできなくても
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20120328dde012040060000c.html
新聞記者として参加した、というよりは、個人として参加したかった思いのほうが強かったので、今回はあえて、いわゆる取材行為のようなものをほとんどしていません。
私が記事中で紹介しているような話は、一緒にツアーで出かけた仲間全員がほぼ共有できている物語です。
夜の食事の時の自己紹介で、あるいは、温泉で湯につかりながら、あるいは、相部屋で布団を並べて、私たちは色々なことを語り合ったし、お互いに様々に切実な思いをかかえてこのツアーに参加したことを、知り合いました。
だから、記事の主語に、「私たち」 を使っています。
たぶん、「私たち」 なんて主語を新聞記事で使ったのは、私にとっては、初めてのことだと思います。
もっと貪欲にそれぞれの参加者や、南三陸町の方々の話を 「取材」 していれば、
あるいはもっと貪欲に、より良い写真を撮影することに時間を割いていれば、
もしかしたら、もっと意味のある、人々に伝わる記事になったのかもしれません。
そういう意味では、またしても、プロ失格だよなあ、という思いもあります。
でも今回は、私自身が参加者の一人であることのほうを優先したかったんです。
それが自分の立ち位置だったし。
「ボランティアに行ってみたい。でも行っていいのかしら。役に立てるのかしら」 と悩んだり迷ったりしている人にとっては、今回のボランティア経験を通して、「記者として見えたもの」よりも、「ツアーの一参加者として見えたもの」という情報の方が、意味を持つのではないか、とも思いました。
100人いれば、100通りの出会い方があっていいんだと思います。
自分の目で見て、自分の手で触れたことで、あらためて、「被災者」なんて言葉で束ねられない、束ねてはいけない人々の思いと暮らしに出会うことができました。
受け入れてくださった現地のボラセン、志津川の漁師の皆さん、ホテル観洋さん、JTBの皆さんらにも感謝します。それぞれの現場で、一人ひとりが、単なる仕事に終わらない思い入れを抱えて、動いておられることを知りました。
私がここに書いたのは、体力に自信がなくても、筋力に自信がなくても、特殊な資格や能力がなくても、その人なりにその土地に出会い、そこに暮らす人に出会える、ボランティアの「最初の一歩」のようなものです。
次の一歩がどんなものになるのか、まだわからないけれど、少しずつ探していこうと思います。
このツアーの仲間に、一人の看護婦さんがいらっしゃいました。
「職場の若い看護婦が、その職能を活かしたボランティア活動をするために、今も被災地に入ってます。私は職場では、それの後方支援。でも、今回は、看護婦としてではなく、ただの一主婦として、ボランティアをしてみたかったんです」
私の心のとても深いところに響いた言葉となりました。
私もたぶん同じ。
新聞記者としてではない形で、できることを探していたような気がします。
去年のあの日、うずめることのできなかった7000キロの距離を、こうやって一つひとつ、詰めていきたいと思っています。
1泊2日。土曜日の早朝に東京駅を出発し、新幹線とバスを乗継ぎ現地へ。
地元ボランティアセンターに登録し、その日の作業を割り振ってもらって、1日目は2時間ほど作業。
夜はホテル観洋に宿泊し、2日目は5時間ほど作業し、温泉で汗を流した後、新幹線で帰路へ、というツアーです。
昨年、東日本大震災をアメリカで迎えて以来、ずっと心にしこっていたもの。
昨夏、日本に戻って、家族で仙台の義父母宅を訪ねても、石巻などの被災地をめぐっても、あるいは取材で被災地に行っても、やっぱり納得できないものがずっと残っていました。
ボランティアツアーに参加しよう、と思いたち、それから、「もしかして、私みたいに今も迷っている人がいるなら、その人たちに届けられる記事になるのかも」 と気づき、職場の企画会議でも提案してみることにしました。
その結果、個人で参加するはずが、仕事として参加することになりました。
どうせなら、できるだけ、多くの人にとってハードルの低いツアーを選び、読者に届けてみよう、と思いました。
バスツアーではなく、新幹線利用に。
ホテル泊で、露天風呂のある温泉付きに。
それでも、新幹線で移動時間を短縮できる分、ボランティアの作業時間も2日間確保できるものに。
そんな基準で、JTBさんの今回のツアーを選んだのでした。
中身は、この記事に書いたとおりです。
東日本大震災 週末ボランティア体験記 一人じゃ何もできなくても
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20120328dde012040060000c.html
新聞記者として参加した、というよりは、個人として参加したかった思いのほうが強かったので、今回はあえて、いわゆる取材行為のようなものをほとんどしていません。
私が記事中で紹介しているような話は、一緒にツアーで出かけた仲間全員がほぼ共有できている物語です。
夜の食事の時の自己紹介で、あるいは、温泉で湯につかりながら、あるいは、相部屋で布団を並べて、私たちは色々なことを語り合ったし、お互いに様々に切実な思いをかかえてこのツアーに参加したことを、知り合いました。
だから、記事の主語に、「私たち」 を使っています。
たぶん、「私たち」 なんて主語を新聞記事で使ったのは、私にとっては、初めてのことだと思います。
もっと貪欲にそれぞれの参加者や、南三陸町の方々の話を 「取材」 していれば、
あるいはもっと貪欲に、より良い写真を撮影することに時間を割いていれば、
もしかしたら、もっと意味のある、人々に伝わる記事になったのかもしれません。
そういう意味では、またしても、プロ失格だよなあ、という思いもあります。
でも今回は、私自身が参加者の一人であることのほうを優先したかったんです。
それが自分の立ち位置だったし。
「ボランティアに行ってみたい。でも行っていいのかしら。役に立てるのかしら」 と悩んだり迷ったりしている人にとっては、今回のボランティア経験を通して、「記者として見えたもの」よりも、「ツアーの一参加者として見えたもの」という情報の方が、意味を持つのではないか、とも思いました。
100人いれば、100通りの出会い方があっていいんだと思います。
自分の目で見て、自分の手で触れたことで、あらためて、「被災者」なんて言葉で束ねられない、束ねてはいけない人々の思いと暮らしに出会うことができました。
受け入れてくださった現地のボラセン、志津川の漁師の皆さん、ホテル観洋さん、JTBの皆さんらにも感謝します。それぞれの現場で、一人ひとりが、単なる仕事に終わらない思い入れを抱えて、動いておられることを知りました。
私がここに書いたのは、体力に自信がなくても、筋力に自信がなくても、特殊な資格や能力がなくても、その人なりにその土地に出会い、そこに暮らす人に出会える、ボランティアの「最初の一歩」のようなものです。
次の一歩がどんなものになるのか、まだわからないけれど、少しずつ探していこうと思います。
このツアーの仲間に、一人の看護婦さんがいらっしゃいました。
「職場の若い看護婦が、その職能を活かしたボランティア活動をするために、今も被災地に入ってます。私は職場では、それの後方支援。でも、今回は、看護婦としてではなく、ただの一主婦として、ボランティアをしてみたかったんです」
私の心のとても深いところに響いた言葉となりました。
私もたぶん同じ。
新聞記者としてではない形で、できることを探していたような気がします。
去年のあの日、うずめることのできなかった7000キロの距離を、こうやって一つひとつ、詰めていきたいと思っています。
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