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カレッジ授業報告 白人終末論とティーパーティーの巻

今日もカレッジ。
いきなり、やられた。
我らがズーク先生、パソコンを立ち上げたかと思うと、いきなり、YouTubeを開いた。

映し出された画面を見た途端、それを知っていたらしい何人かの生徒たちが、
「これ、むっちゃ面白いよねー」
「サイコーだよね、だーいすき、私」
などと大騒ぎし始めた。

それがこの映像。
後で知ったが、この、「Tea Partay」 というラップビデオ、去年この国でさんざ話題になったらしい。
もちろん、私は、見たことがない。

思い浮かべてほしい。
このビデオを見ながら、若い生徒たちはみーんな大爆笑。
腹をかかえ、お互いの肩を叩きながら、大笑いしてる。
……が、私は笑えない。
私に分かるのはせいぜい、

何やら金持ちの白人の男の子と女の子たちが、
ラップ歌って黒人の真似してるけど、
どことなく、ぎこちなくて、音楽とやってることに妙なアンバランスさがあるな、
ということだけ。

ラップの歌詞なんか、ちっともわかりゃしない。
おまけに、このビデオを見終わり、ようやく授業に入るかと思ったら、1人の女の子が、
「センセ、そっちじゃなくて、グリーンティーパーティーのほうも見せて。あっちのほうが絶対におもしろいんだから!」 とリクエストし、さらにこちらを見ることに。

「Green Tea Partay」

私に分かったことなんか、「これ、つまり、さっきのの西海岸編、ってことかしらん」 ということだけ。
ところが、教室の若き生徒諸君は、1本目のビデオに輪をかけての大、大、大爆笑。
実は、「不惑40代、もう何も怖くないぞ」 のオバサン学生にだって、怖いものがある
それは、笑いから取り残されること。
あまりに哀しくて、おもわず 「作り笑い」 してしまいそうになった。
それでも、悔しいから、我慢した。
おもしろくないのに、笑ってたまるか。

さて、このビデオ、授業に冒頭で先生が生徒に見せたわけだけど、今回の授業のテーマの一つは、ある記事をテーマにしたディスカッションだった。

どんな記事かというと、「アメリカの白人優位は終焉したのか?」 みたいな記事。
移民、特にヒスパニック移民の急増で、人口統計的にはこの数十年のうちに、白人はマジョリティーからマイノリティーに転落することが不可避だといわれてる。
黒人大統領まで誕生した。
このような時代に、白人はどう適応していけば良いのか。
post-white なアメリカは、人種的な分断を克服するのか? あるいは、より分断は深まるのか?

ってなテーマの、ちょっとお堅い月刊誌記事だったというわけ。
記事の中では、すでにハワイやヒューストン、ニューヨークで、いわゆる 「マジョリティー」 と呼べる人種・民族は存在しなくなっていることが示され、5年以内には、カリフォルニア州全体で同じ現象が起こり、50年以内にはアメリカ全体で 「マジョリティー」 がいなくなる、つまり、白人の数的優位性は失われる、なんてことも書かれていた。

数だけじゃない。若者文化においてはすでに白人優位は崩壊している、という。
その例として挙げられているのがヒップホップ。今やヒップホップは世界を植民地化してる、なんて書かれている。白人の子どもたちが、黒人の音楽文化に没頭する例が挙げられ、「この他文化時代に、白人で、ゲイでなくて、男だなんて、地球上でいちばんサイアクっていうか、つまんない存在だ……」というようなニュアンスの談話まで出てくる。

なるほど、だからこそ、ズーク先生は 「tea partay」のビデオを見せたんだろう、ということは、だから想像はついた。白人のお金持ちの子が黒人の真似してラップを歌ってる、それがアメリカでウケてる、ってのは、まさに記事でいうところの 「白人優位の終焉」 の好例、というわけだろう。

ちなみに、後で、ズーク先生に 「正直言って歌詞が全然わからないから、先生がなぜこのビデオを授業で取り上げたのか真意をつかみきれてないかもしれない。ちょっと説明してもらえます?」 と質問してみた。
彼曰く、

「東海岸のプレップ(prep)校に行ってるような、むちゃくちゃ preppy な子たちが、いかにもなパステルカラーの服を着て、裸足にローファー履いたりして、ポロや乗馬やヨットを楽しんで、パーティーする時はお茶会で……それなのに、歌ってるのはラップで、言葉遣いや、踊り方は完全な、いわゆる『黒人文化』のモノマネで、ってところが、ウケているんだけどな」

なるほど。
ポロやヨットまでは理解できても、
そうなのか、裸足にローファーっていうのも、preppyな記号なのねえ。
こりゃ、この国の文化をたっぷりしらないと、全然理解できないわけだ!

そんなわけで、本日の授業はもう、いきなり最初から、1人笑いから取り残されるという哀しい哀しい体験から始まったのだった。

それはそうとして。
今日は、教科書代わりにリーダーとして読んでる Thomas Sowell の 「Black Rednecks and White Liberals」 の1章についてディスカッションした。

この筆者、いわゆる 「黒人保守」 みたいな人で、エコノミストであり、テレビのコメンテーターでもあるという。
1章の主旨は、ざっとこんな感じ。

現存する白人と黒人の間の格差 (貧困率、乳児生存率、学歴など)は、過去の奴隷制度によるものではなく、「黒人固有の文化」 としてもてはやされているもののせいである。この 「文化」 の特長は、仕事と怠けるとか、教育を重視しないとか、奔放な性生活であるとか、暴力志向であるとか、自分の名誉を守ることへのこだわりとか、起業精神のなさだとか、そういったものだ。リベラルな白人のなかには、これらの文化を 「黒人固有の文化」 としてもてはやし、それを守ることで自尊心や人種アイデンティティーを大切にしよう、などと言う奴らもいるが、とんでもないことだ。そういうやからの被害によって、ますます、貧困から抜け出せない黒人が増えているのだ。だいたい、「黒人固有の文化」というが、これらの起源は、アメリカ南部に移住してきた英国のスコットランドやアイルランドなど辺境の地の移民たちに見られた文化であって、黒人独自のものでもなんでもない。だいたい、奴隷解放前のアメリカ北部は、それほど黒人と白人が別れて暮らす状況もなかったし、黒人も専門性の高い仕事に多くついていた。奴隷解放後、南部から北部へと、大量に黒人がなだれ込んだが、この大量の黒人たちの流入を嫌ったのは、北部白人だけでなく、北部である程度の地位を築いていた黒人も同じだったのだ。大量に北部に流れ込んだ黒人たちの 「文化」 のせいで、これに対する反発が高まり、結局、奴隷解放前よりも、北部では、セグリゲーション (人種ごとに居住区が別れてしまっていること)が進んだのだ。 何でもかんでも奴隷制度のせいにするのは間違いである。

……みたいな。
ちょっと意訳しすぎだろうけど。
ともかく、大変、物議を醸して当然の本なわけで、たぶん、政治的なスタンスは異なるだろうズーク先生があえてこの本を選んだのは、よりホンネの、きれい事で終わらないディスカッションを彼が生徒に求めているからなんだ、と思うんだよな。
それゆえ、どうにか議論に切り込みたいと思うんだけれど。

今日わかったことがある。
去年の社会学の授業なんかの場合、私にはものすごーく知識的にも経験的にも余裕があった。言語の壁は厚かったし、ディスカッションになると、話がどこに行ってしまったのかまったく分からなくて、切り込めないことも多かった。それでも、ひとたび、意見をいうぞ、となったら、それなりに説得力のあることや、目新しい視点を、データまで引っ張り出してきて、しゃべる自信があった。

けど。
人種問題は、違う。
思えば、私は小学校でも中学校でも高校でも大学でも、そして社会に出てからも、ほとんど、そんなことを学んだこともなく暮らしてきた。特に、アフリカ系アメリカンの……となると、全然ダメだ。
アメリカでは、小学校で例えば、ジャッキー・ロビンソン (初めて大リーグでプレイした黒人選手) について学ぶ。小学生でも、そんなことは知っている。何度も何度も、公民権運動に関わったさまざまな人物について学び、あるいはかなり深いプロジェクトを行ってきているのだ。

一方、日本人のわたし。
黒人解放といえば、「I have a dream」のマーティン・ルーサー・キング牧師の演説 (しかも、このフレーズだけ!) かマルコムXくらいしか聞いたことがない。全然、受けてきた教育が違うのだ。

おまけに、アメリカという多民族国で生きてきたこの国の若者は、少なくとも、人種や民族について、「当事者」 として何かと考えて20年ほど生きてきている。

だから私が、一度限りのカレッジの授業に触発されて、感じたり、考えたり、深く納得したりして、ようやく得られた思考なんてものは、実は大して深いものでも、洞察力に満ちたものでも何でもなく、実はアメリカのたかだか20歳くらいの若者諸君と、変わらないか、時には、もっと浅はかだったり、表面的だったりするのだ。

これって……ショック。
どこへ行っちゃったのよ! 私の 「不惑40代」 の経験によるアドバンテージ。。。
とほほほほ。

今日は、黒人の女の子と、ユダヤ人の女の子が、軽くやりあった。
黒人の子は席が遠かったから、何を言ってるのか、ホントに全然分からなかったけれど、とにかく、彼女は自分の祖父母が受けた差別を語り、ユダヤ人の女の子は、いまだに絶対にドイツ車に乗らないホロコースト生存者の祖父の話をし、お互いに何かを議論し合っていた。
「私がすべてわかってるってわけじゃないけどね……」
「あなたの言うこと、すごく分かる。たしかにそういうことは言えると思う。でもね……」
「私、もしかしたら、間違えてるかもしれないけれど……」
そんな言葉で前置きしながらしゃべる彼女たちの議論に、なんか私、とうてい参加できないよなあ、という気持ちになったのだった。
(というか、論点が全然わからんかったよ……)

授業の最後に、ズーク先生がこんな問題をみなに尋ねた。

「Thomas Sowell が格差の一因になっていると指摘する、いわゆる 『黒人文化』 に対して、どちらのアプローチが正しいんだろう。一つは、『そういう文化を捨てて、もっと教育に関心を持ち、一生懸命に働け』 と励ますこと。もう一つは、『自分たちの文化を否定してはいけない。それが君たちの文化ならば、それを大事にし、誇ることが大切だ』 ということと」

これが最後の議論のテーマだったのだけど。
ここで一言も発言できなかったのには、自分でびっくりした。
英語が分からなかったんじゃない。
意見がうまくまとめられなかった。
あれこれ、本気で、考え込んでしまったのだ。

そもそも、私は、この筆者の 「格差の犯人は奴隷制度や差別じゃない。成功を妨げるような文化こそが格差の原因だ」 という言いよう自体に納得がいってない。そもそも、そのような 「文化」 にしがみつかなければならないのはなぜか? 正当に扱われなかったり、差別されたりした時ほど、マイノリティーや、あるいは差別される者は、自分たちの固有の文化なり価値観にしがみつくのではないか。「文化が犯人だ!」 というならば、その背景にあるのは何さ、と言いたくなる。

でも、だからといって、「それがあんたたちの文化なんだから、それでいいじゃん」 と言うのは押しつけだし、未来志向でもないと思う。
ならば 「頑張って教育を受けて、成功しろ」 と励ますの? そもそも教育体系における価値観は本当に中立にできてる? 社会的にも経済的にも全然平等じゃないこの国で?
なーんてことをウダウダ考えているうちに、タイムアウト。

なんか先が思いやられるなぁ。
気のせいかもしれないけれど、英語を理解しよう、と、そこで頑張りすぎると、今度は、普段のように自由に思考できなくなる感じがする。

でもまあ、2週間たって、だいぶ、先生の 「モゴモゴ英語」 にも慣れてきた気はするし、
アカデミックに、というより、ジャーナリスティックに、楽しい授業なので、頑張ってみようっと。

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プロフィール

おぐにあやこ

Author:おぐにあやこ
名前■おぐにあやこ
生年■1966年 ひのえうま
仕事■07年秋まで新聞記者。仕事を辞めて渡米。11年、新聞記者に出戻り。
趣味■読書、歌、旅
目標■ちょっと背伸びして、
 疑問符を感嘆符に変える事
苦手■勧善懲悪


著書■
▼「薬(ドラッグ)がやめられない 子どもの薬物依存と家族」(青木書店)
「ベイビーパッカーでいこう 赤ん坊とザックかついでスペインの旅」(日本評論社)
「魂の声 リストカットの少女たち」(講談社)
「いいじゃない いいんだよ 大人になりたくない君へ」(共著、講談社)
「アメリカなう。」(小学館)
「アメリカの少年野球 こんなに日本と違ってた」(径書房、ミズノスポーツライター賞)
「?が!に変わるとき  新聞記者、ワクワクする」(汐文社、読書感想画中央コンクール課題図書、高校生の部)

訳書■
「自傷からの回復 隠された傷と向き合うとき」(みすず書房)

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