おぐにあやこの行った見た書いた

「みんな」 に合わせるということ

コーラスに夢中だ。
誰かと何かを一緒にやる、ということ自体が、私にとってはすごく新鮮。

思えば、他人と何かをやるのがいつも下手だった。
大学時代、まともなサークル活動をした記憶がない。渡米前に、大学時代の友人たちと久しぶりに再会して飲んだら、「あやちゃんはいつも言い出しっぺで、でも気が付いたら、みんなを残して、もういなくなってるんだよねー」 と指摘された。
恐ろしいことに、そんな記憶、私にはまったくないのだった。
でもそういえば、……そうだったかも。

会社に入っても、いわゆるチーム取材というものの経験が少ない。
独自路線、といえば聞こえがいいが、はっきりいえば、隙間産業。人があんまりいないところを、いつもフラフラしてたような気がする。だから、いわゆるキャンペーン記事にも縁がなかったし、大きく社会を揺るがした経験もたぶんない。

一人のほうが気楽だし。
一人のほうが面倒じゃないし。
自分のことなら、自分が努力すればいい。
誰かに無理矢理引っ張られるのも嫌だし、誰かを気長に待つことも嫌い。
ま、はっきりいえば、自分勝手なんだろう。

そんな私が、いきなり、コーラス、なのだった。
コーラスは一人では練習できない。
もちろん、譜読みやら、練習の予習復習や、暗譜なんかは自分でやるべきことだけど、本当に美しい響きを出すためには、みんなで練習しなきゃいけない。
どんなにきれいな声でも、飛び出しちゃだめ。
一番大事なのは、みんなと響きを合わせること。
それぞれのパートの音をきちんと聞いて、母音の響きを合わせ、子音の響きを重ね、ハーモニーを作っていく。
だからみんなの響きを聞かなきゃ、練習にすらならない。
一人二人が練習を休むと、そのたび、響きが変わる。パートごとのバランスが崩れれば、そのたび、修正が必要になる。
自分の欠席が、みんなの足を引っ張る。
自分が、自分の声に酔って、思い切り歌っちゃったら、ハーモニーは台無しになる。

先生はいつも言う。
「自分の声は、内耳を伝わって響いてくる声だけで十分。それ以上大きな声なんていらない。ほかの人の声を聞いて。響きを合わせて」

悪戦苦闘する中で、はたと気付いたのだった。
「あ、あたしって、『他人と合わせる』 って努力、実はほとんどしたことないじゃん」

いや、「したことはない」 は嘘だな。
中学や高校時代は、クラス内の同調圧力に従い、慎重に慎重に暮らしてきた。
嫌われないように、はじき出されないように、飛び出さないように、浮いちゃわないように。
それに、ほとほと疲れたし、今から思えば、クラス内の同調圧力なんかより、「同調せねばならない」 と思いこんでた自分の心の中の 「圧力」 のほうが、実はずっと強かったんだろうな、とも思う。

大学に入って、何やら気持ちが解放され、会社員になった後も、「おぐには、まあ、仕方ないよな」 と言われるような妙なポジションをすんなりいただいて、その後は随分と一人で気楽にやってきた。
結局、私はこれまで、「他人に合わせる」 ということに、ほとんど価値を見出してなかったんだと思う。

でもねえ。
今、コーラスを始めて見ると、これは本当に楽しい。
「他人に合わせること」 が今はつらくない。嫌じゃない。
もちろん、人間、そう簡単に変われない。
他人に追いつくよう必死で努力する時は楽しいのだけれど、他人を待つのは今でも苦手。譜読みに戸惑ってる人を見て、「譜読みくらい予習してから練習に来てよねー」 と思っちゃう自分は、未だ、いる。
それも、誰より初心者で、下手くそな自分自身を棚に上げて、そんな風に思っちゃうんだから、私の「自分勝手」 は相当に重症だ。

それでも。
コーラスは、一人じゃできない。
一人ひとりがしっかり自分で歌えないと完成しないけれど、一人だけでもダメなんだ。みんながお互いにもたれかかるのではなく、一人ひとりですっくと立って、だけど、心も響きも合わせる努力を積み重ねていかなきゃいけない。

「みんな」 を毛嫌いし、「一人」 に慣れていた私には、一つひとつの作業がとても新鮮なんだ。
自分の響きが、「みんな」 に合った時は、涙が出そうになるくらいうれしい。
なんだ私、40歳過ぎるまで、みんなと何かをやる喜びを知らずに来たのかい? と自分が滑稽になるくらい。

先々週、自分の声についての心配を先生に打ち明けた。
「発声に地声が混じってる、と昔から声楽経験のある妹に指摘され続けてるんです。一人で歌うならともかく、みんなの響きを乱してたらどうしよう……」
先生はすぐにピアノのそばで私の発声をチェックしてくださった。
そして、
「高音は大丈夫。合唱の発声になってます。でも、低音部分になると、胸声が混じっちゃうの。高音を出す時と同じ発声で低音まで出してごらん」
と、発声の練習方法まで教えてくださった。

それから2週間。
自分の発声に気を遣い、
みなの響きに耳を傾け、
飛び出さないように、
響きを重ねるように、
ほんとうに大事に大事に歌うことを心がけた。

そしたら今日ね。
「胸声がほとんど混じらなくなってる。すごく良くなったじゃない!」
と先生がほめてくださった。
これにはもう、ノックアウト。
声や発声がうんぬん、という以前に。
「あたしも、みんなと、何かできるんだっ!」
そんな風にうれしくなった。

一人は今でも好きだし、気楽だけど。
「みんな」 は、楽しいことだったんだ!


ハグと日本人

相変わらず、日本人のクラスメートとべったりくっついたまま、現地校でこちらの友だちを作れずにいる息子。
昨年末、業を煮やして、「どんなもんでしょーか」 と、担任のドーブリッジ先生に相談したのだった。そしたら、ドーブリッジ先生も、日本人男児がいつも固まり、ほかの子と交わらない状態を案じてはいたらしい。

「年が明けたら席替えをして、誰か面倒見がよくて、息子さんと友だちになれそうな子を息子さんの隣に座らせ、何かの作業のたびに2人組でやらせるなど、自然と友だちができるように工夫してみますね」

と言ってくださった。

さて、我らがドーブリッジ先生が、息子との 「カップリング」 相手として選んだのが、ジェイコブ君。ドーブリッジ先生曰く、「すごく sweet な少年」 なんだそうだ。
焦りは禁物、と3週間ほど待ってから、先日、息子に聞いてみた。

私  「ところでさ、最近、席替え、あった?」
息子 「あったよ」
私  「隣は何て子?」
息子 「ジェイコブ」
私  「で、どうなの? どんな子?」
息子 「気持ち悪い」
私  「……は???」
息子 「なんかさ。すぐ抱きついてくるんだよ。女子にも抱きついたり。この前はアヤンナに抱きついてた」
私  「で、アヤンナは嫌がってた?」
息子 「……。いや、別に嫌がってなかったけど」

ああ、なんということ!
きっとドーブリッジ先生に、「英語が分からない日本人のクラスメートに優しくしてあげてね」 と言われたんだろうジェイコブ君。言葉のいらない愛情表現として、一生懸命、ことあるごとに息子をハグしてくれたに違いない。
それなのに。
ハグ文化に慣れてない息子は、いきなり抱きついてくる言葉の通じない相手に、戸惑い、違和感を拭えず、「気持ち悪い」 と思ってたというのだ。

がぁああああああ〜ん!!

まさに、カルチャーギャップだよなあ。
確かに、日本の教室で、所構わず男女構わず相手に抱きつく子がいたら、間違いなく、気持ち悪がられるもんなあ。

とりあえず、息子に ハグ について少し説明を試みた。
ジェイコブは、言葉のわからない君に、どうやったら優しい気持ちが伝わるか考えた末、そうやってハグしてくれてるんだと思うよ、と。
さらにカルチャーギャップについても。

曰く、
この国では、学校に見送りに来たお母さんたちは、誰も子どもに人前で平気でキスするでしょう?
あんたと母ちゃんとは、家ではハグしても、人前ではしないよね? ましてキスなんてしない。
それぞれの社会によって、それぞれの国の人たちによって、何を大事に思い、何が良くて、何がいけなくて、何が好まれるかは違う。それを文化というの。
外国に暮らしたからといって、別にその国の文化に同化しろ、なんて思わないけれど、逆に自分たちの常識だけが正しいんじゃない、ってことはお互いこの国で覚えて帰ろうよ。
お互いの文化や考え方の違いを大事にしながら上手に仲良くなっていこうよ。

とりあえず、私としては、息子に過度に assimilation しなくて良い、ってことも伝えたいが、それ以前に、絶対に ethnocentrism には陥らないでほしいのだ。
(この2つの単語、社会学の授業の予習に出てきた。ははは)

しかし。
まいったなあ。
ドーブリッジ先生に、正直に全部伝えてみるか。
日本人のハグ観ゆえ、ジェイコブの愛情表現を 「気持ち悪い」 と思ってしまった息子と、それについて家で話し合った内容とを説明した上で、「長い目でフォローよろしく」 と手紙でも書いてみるのが良いのかなあ。

ふと思う。
息子の隣で、愛すべきジェイコブ君は、ハグしても無反応な息子のことをどんな風に受け止めてるんだろうか、って。
あーん、ごめんね、ジェイコブ君。

人々の投票行動を決めるのは?

こちらの大統領選は、サウスカロライナ州でオバマ氏が圧勝。
圧倒的なアフリカンアメリカンの票を集めてしまったことで、むしろ、白人票離れが案じられているらしい。

ワシントンポスト紙などの出口調査によると、黒人票は男女ともオバマ氏に8割が流れたし、でも白人女性票に限ればヒラリー氏がトップで、白人男性票に限れば全体では3位のエドワード氏がしっかりトップに躍り出るわけで。
おまけに、白人票の男女合計で見れば、オバマ氏は3位に転落しちゃうわけで。

オバマ氏がいくらお得意の演説で、「Race doesn't matter! 人種が問題じゃないんだ」 とか、「僕はこの州を回って、『黒いサウスカロライナ』 に出会ったわけでも、『白いサウスカロライナ』 に出会ったわけでもない。僕が出会ったのは 『サウスカロライナ』 だった」 と熱弁をふるったところで、投票結果分析の数字は、極めて正直なのだ。

今回の報道で一番おもしろいなあ、と思ったのは次のような話。
オバマ氏に投票した人に、もしもクリントン氏が最終的に民主党候補に選ばれたらどう思うか、を尋ねたところ、71%が 「満足する」 と答えたそうだ。
一方、クリントン氏に投票した人に、もしもオバマ氏が候補に選ばれたら、と尋ねたところ、69%が 「満足する」 と答えている。

この数値、すごく実感として分かる。
今回、色々な人と話をしたけれど、民主党支持でブッシュが嫌いでリベラル志向の人たちの多くが、「オバマ氏が勝って黒人初の大統領になることは素晴らしいと思うし、ヒラリー氏が勝って女性初の大統領っていうのも捨てがたいから、迷っちゃう」 などと言う。

2週間前だったか、「オバマ氏はたぶん、黒人というより、我々白人にとっての希望だ。オバマ氏の勝利によって、ようやく我々は人種差別の暗い歴史から自由になれるのだから」 みたいな論調のエッセイを読んだこともあった。

「どちらの候補のことも、私は誇りに思うわ」 なんて民主党支持者のセリフも、あながち単なるタテマエではないんだと思う。

でも、もちろん、この国にはもっとフクザツな現実がある。
同じ出口調査分析によると、

オバマ氏が最終的に民主党候補に選ばれることに、白人の7割が 「満足する」 と答え、クリントン氏が候補に選ばれることに、黒人の8割が 「満足する」 と答えている。
でも。
オバマ氏が候補に選ばれることに、「ものすごく満足する」 のは、黒人では8割に上るのに、白人の中ではがくんと減って38%に。
サウスカロライナ州の投票前の調査から、オバマ氏への支持が今回、黒人の中で急上昇するに従って、白人の間で落ちていったことが分かっている。

これからどうなるんだろう。
選挙戦、もっと熾烈になるのかな。
たまらないなあ、と思うのは、オバマ陣営も、クリントン陣営も、接戦が続けば続くほど、この数週間がそうだったように、お互いへの攻撃を強めるしかなくなるわけで。
互いへの攻撃を強めれば強めるほど、ジェンダーだとか、人種だとかが何となしに対立軸になってしまうわけで。

「黒人初の大統領」 が誕生しても、
「女性初の大統領」 が誕生しても、
それまでの過程で、私たちはたぶん、できれば直視したくないようなたまらないこの国の現実をたくさん突き付けられちゃうんじゃないか、と。
そんな予感がする。

最後に。
演説上手のオバマ氏の言葉を少し。

”(The election) is not about rich versus poor or young versus old, and it's not about black versus white.
This election is about the past versus future.”

ほとほと、うまいよなあ。
こういうのを一度、英語でぶちかましてみたいもんだ。

線分、半直線、そして直線

「信じられないほど簡単」 と息子がすっかり自信を取り戻した掛け算の授業がとうとう終わってしまった。
息子たち、現地校3年生が次に習うのは……geometry.
いわば幾何学、ですな。

本日息子が持ち帰った算数の宿題に、line segment, ray, line と出てきた時には思わず辞書を引いちゃったよ。
どうやら、線分、半直線、直線、と日本語では呼ぶらしい。

AとB、二つの位置を示す点があったとすると、

ABを結んだのが線分AB。
Aを起点に、Bを通って、永遠に伸びていくのが、半直線AB。
AとBを通り、両側に永遠に伸びていくのが直線AB。
(数学的な説明になってないが、許して)

こんなの、日本の小学校で習ったっけ???
記号まであるのよ。
半直線ABは、ABの上に、→という記号。
直線ABは、ABの上に、左右両側が矢印のこんな記号←→。
ぜんぜん知らない私なのだった。

仕方ないので、日本語で説明しつつ、英語の名前を覚えさせることにした。
しかし、line segment なんて、私も今日初めて聞いたよ。
しばらく、辞書を引き引き親子で算数の宿題を解く日々が続きそうだ。

英語はわからなくても算数ならどうにかなるんじゃないか、と思っていたが、まったくそうではないらしい。こちらでは算数といっても単純な計算問題なんてほとんど存在せず、多くが文章題や概念を問う設問。
どんな問題にも、「どうして答を導いたか、絵や数字や文字を使って説明しろ」 という問題が必ず付いてくる。だから、英語力がないとホントに困る。
「文字で説明」 なんて私だって無理だから、結局、息子は 「絵で説明」 に頼ることになる。

ただ、結果論だけれど、「絵で説明」というのは息子にとって、すごくいい訓練になってると思うな。
よく、掛け算と割り算と足し算と引き算のどれを使って良いか分からず、適当に問題に登場する数字を足したり引いたりしちゃう子がいるじゃない?
うちの息子もかつて、こういうタイプだった。
つまり、全然、問題の意味を考えず、機械的に解いちゃってたのだ。

こんな子には、図を描かせるのが一番、と聞いたことがあった。
日本にいた時、何度かやらせようと試みたが、そんなまどろっこしいことを息子が絶対やるわけないのだった。
でも、こちらに来てからは、さすがに英語で説明するよりは絵を描くほうがマシだと思ったらしい。
息子は毎日、算数の宿題で絵を描いてる。

最近、おもしろいことに気付いた。
そうこうするうちに、日本の補習校の問題を解く時も、問題の意味を少しは理解できるようになってきた気がする。
(あくまで、「気がする」 程度の変化なんだけどねー)。

「問題を解いた過程を文字や絵で説明しろ」 というのは、外国人泣かせの問題だけれど、子どもが算数を学ぶ過程ではとても大事な訓練なんじゃないかな。
 

カレッジの最初の授業

今週から、カレッジでの授業が始まった。
最初は外国人向けの英語(ESL)でいいや、と思っていたのが、いつの間にやら英語テストを受け、クレジット取得できる授業にもぐりこむことになった。

今回取ってみたのは、社会学入門、のようなもの。
25人の少人数クラスで、ディスカッションにもそれなりの比重が置かれているらしい。もしかしたら、どうせ100番台の基礎的な授業ならば、大学の大講義室でひたすら講義を聴くより、少人数のカレッジの授業のほうが、案外おもしろいかもしれない。
テキストを読んでも、2001年の米国多発テロやグローバリゼーションなど、比較的新しい事柄を題材に選んである。
なるほど、日本の大学の教養課程みたいに、とんでもなく古い教科書を延々と使い続けたりしないんだなあ。
これは、うらましい話だ。

次に登録したのは、テスト結果を踏まえて大学側から推奨された英語クラス。
てっきり外国人向けの少しハイレベルな英語クラスなのかと思ってたら、今日の初日、行ってみて唖然。ネイティブ向けのライティングクラスだった。
宿題の多さも半端ではなく、ちょっと社会学と両方取るのは無理そう。

さらにもう一つ。
実は私、外国人向けのESLの授業も登録しちゃってるのだ。
テスト結果によると、「ESLは必要なし」 らしいけれど、とてもとても自分の英語がそんな状態だとは思えないもので。「日本人はテストで点数取るのばかり上手で、実力よりも結果が良くなっちゃうもんなんです〜」 とESLコースのカウンセラーに泣きつき、もぐりこませてもらったのだった。
私のように、在米外国人の生い立ちやライフヒストリーを根掘り葉掘りインタビューしたい者にとって、ESLはすっごく貴重な場でもあるしね。

さてさて。
3つの授業で1週間の予定表を組んでみて、唖然。
火曜、木曜の午前午後と、月水金の午後が埋まってしまっている。
これに水曜日午前のコーラスの練習があって、金曜日朝はお気に入りの図書館の会話クラブがある。月曜日の朝は、友人の韓国人に誘ってもらった、これまた面白い会話クラブに参加しているわけで。
ぜんぜん自由になる時間がないのだった。

さらに、コーラスは4月にケネディーセンター、5月にはアメリカン大学で日本の合唱団と共演、という二つの大舞台が控えており、定期練習以外に自主練習がどんどん入ってくることは必至。練習を休むと周囲に確実に迷惑をかけるのが、コーラスの怖いところだ。

「こりゃいかん!」
ということで、自主練習が入りやすい水曜日の午後をあけるために、結局はライティングのクラスをキャンセルすることになった。
キャンセルの期限は来週の火曜日なので、今日はキャンセルする腹づもりで、それでも、どんなクラスか様子だけを見に行ってみた。

カレッジの講義初日はたいてい、そのクラスのルールの説明から始まる。
そこで、きちんと成績や評価におけるルールを明示してくれる。
さらに、今日の授業では 「本日説明を受けたルールをすべて理解し、守ります」 という一文を書いた紙に署名までさせられた。
このルールの中には、

「遅刻2回で欠席1回とカウント。15分以上の遅刻は欠席と見なす。欠席は3回までOKだが、4回目からは成績に響く」 とか、「授業中は携帯電話の使用は禁止。ただし、子どもやお年寄りなど、責任を持って面倒をみてやらねばならない相手がいる人に限り、緊急時は先生の許可を得て使用可」 とか、「コンピュータールームでは授業に掛かる作業しかしない。メールチェックや音楽のダウンロードなどを勝手にやっているのを見つけたら即退室」 など、むちゃくちゃ細かいルールも含まれる。

それぞれのルールを恐ろしいほど明確に説明し、「質問はないか」とくどいほど念押しし、最後は署名までさせるあたり、いかにも契約社会における学びの場だなあ、という気がした。

もう一つ、おもしろいな、と思ったのは自己紹介。
単なる自己紹介じゃないのねえ。
社会学の授業でも、今回のライティングクラスでも、自己紹介にはちょっとした趣向がこらされていた。

社会学のほうは、紙に簡単な自己紹介を書かされ、その紙をお隣の人と交換し、互いに相手を紹介し合う、というもの。
私の相手は18歳の白人のお嬢さん。「自慢できるもの」 の項目に、きちんと 「Family」 と書いているような子。心理士になりたくて、専攻は心理学。カレッジ卒業後、メリーランド州立大学への編入を目指している。
自己紹介なら、ちょっとくらい下手でも 「外国人だもん、しかたないっしょ〜」 とカラカラ笑い飛ばせそうなもんだけど、他人を紹介するとなると、結構怖い。
どんな素敵な子でも、私の英語力のせいで、なんだかわけのわかんない子みたいになっちゃったらまずいもんね。
そんなわけで極力笑顔で、抑揚つけまくりで、どうにかクリア。

むしろ困ったのは、本日のライティングクラスの自己紹介かも。
「財布の中にあるものを1つ選んで、それをプレゼンしながら自己紹介をしてね」 だって。
こんな時、日本のティーネイジャーだったら 「えええええ!!」 とか 「サイテー」 とかいう声が起こりそうなものだけど、米国の子って全然平気なのねえ。
さすがは小学校、いや、幼稚園から 「好きな物をクラスのみんなの前でプレゼンする」 ことを繰り返してきたショウアンドテルの国の子たちだ。

自分のアルバイト先のパブの従業員証だったり、家族の写真だったり、地下鉄のパスだったり、何気ないもので自己紹介し、おまけに笑いまで取ってる。
まいったなあ。

私の財布の中には、
レシートがたくさん。米ドル札数枚。クレジットカード。運転免許証。学生証。
どれも自己紹介向きじゃない。
かろうじて、和服美人の絵が入った日本の図書券が見つかったので、それに絡めて日本から来たことや、読書が好きなことなどをしゃべってみたけれど、とうてい笑いを取れるレベルじゃあなかった。

だいたい、笑いを取るどころか。
実は2つの授業ともに言えることだけど、先生の話す英語は理解できても、クラスメートがしゃべってる英語はほとんど理解できない。
早いし。
スラングだらけだし。(たぶん)
彼らとどうやってディスカッションやグループワークとかすればいいんだろ。

彼らの自己紹介を聞いていても、笑いを取る箇所に限って全然英語が分からない。聴き取れない。
だから、なぜ、みんなが笑ってるのか、ほとんど理解できない。
笑いの場所だけ、見事に聴き取れないのだ。

笑いの国、大阪に生まれた私としては、これはどうしようもなく屈辱的なのだった。
大阪では、「つまらん奴」 「おもろいことを言えへん奴」 に人権はない。
笑ってもらってナンボ、なのだ。
それなのに、今の私は、笑ってもらえないだけでなく、笑えないのだから。

ちくしょー。
決めた。
私の英語の目標は 「スピーチで笑いを取ること」 にする。
そんな能力を磨いて、日本に帰って何の役に立つのかと思うけど、でも。
いつかこの国のやつらを、ガハハガハハと腹を抱えて笑わせてやる……。

I will be back !の巻

何人の人に言われただろうか。
「英語? 子どもは早いよー。すぐに息子さんに追い抜かれるよ」

そうだといいけどなあ……。
いつもそう思ったものだ。
こちらに来てもうすぐ4カ月。
息子はいまだ現地校で日本人以外の子とほとんど交流がないらしい。
いったいどうなるのかなあ、本当に息子が私を追い抜いてくれる日なんてくるのかなあ。
いつもいつも、そう思っていたのだ。

ところが本日。
本屋のレジを待っていたら、行列の前の人がペラペラペラと何か言って立ち去った。
どうせ、「あ、ちょっと用事わすれてた。この場所取っておいてねー」 みたいなもんだろ、と想像し、「OKOK」 と軽く答えた私だった。

そしたら、息子がニッコリ笑顔でこういう。
「ターミネーターと一緒だね」

は?
ターミネーター?
なんじゃそりゃ。

息子は言う。
「ほら、 I'll be back って言ってたじゃん」

………。
そ、そう言ってたのか、あの人。
あたし、聞き漏らしてた。
この前、息子とターミネーター1、と2の両方をビデオで見た。英語でも分かりやすいように、会話が複雑でなくて、アクションの大きいのが我が家では一番人気なのだ。
今は州知事におなりになった、かつてのボディービルダー俳優さんのあの一言、

I'll be back

が、よほど印象的だったらしい。
そういえば息子、この一言を何回も繰り返してたもんなあ。

そうこうするうち、立ち去った彼女が戻ってきた。
「I'm back! 」

息子の英語の習得の先の長さを思うと、気が遠くなるような話だけれども。
でもまあ息子なりに、ゆっくりと階段を上ってるんだろうなあ。
それにしても。
息子が聞き取れた一言を、聞き漏らした自分が、あまりに情けない。
悔しい。
「とっさの一言」 がダメなんだよなあ。言うのも、聞き取るのも。

息子が追い抜いてくれるのは楽しみだけれど、
ちくしょー、絶対に追い抜かせてたまるかい!

こちらで見つけたOD記事

リストカットなどの自傷取材の際、最もたくさん読んだのは米国の文献だった。
この国では、自傷関連の文献がすでにたくさん出版されていたし、自傷者のためのワークブックやら、自傷をやめた後を生きる人のための本など、内容もすごく細分化されていた。
そんなわけで、こちらの大手メディアが自傷をどんな風に記事にしてるのか、ちょっぴり興味があったのだ。

そしたら、本日、見つけた。
ワシントンポスト紙の健康関連記事に。
見出しはこんな感じ。

Crying Out For Help
Suicide Attempts Reveal Strains on Young Latinas

つまり、中南米からこの国にやってきたヒスパニックの女の子たちの話なのだった。

記事は、ニューヨークの労働者たちが暮らす街で、プエルトリコから米国にやってきた16歳の女の子が、夜中に睡眠薬を1瓶まるまる飲んで、床に倒れてるシーンから始まる。
母親は最初、娘は酔っぱらってるんだと思って、そばでしばらく一緒に横たわった。が、夜が明けても娘が目を覚まさないのを見て、あわてて911番 (日本の119番、ね) したという。

記事は、Centers for Disease Control and Prevention の調査を引用し、こう続ける。

12〜17歳の女の子の自殺率をみると、ヒスパニックの子たちがどの人種、民族と比べても一番高い。25%が自殺を考えたことがあり、15%が一度は自殺を試みている。これは白人や黒人の10%という数字よりも大きい。別の研究によると、ヒスパニックの女の子たちにおける自殺未遂率は20%に上り、これはタバコを吸う率より弱冠低いだけ、という。

20%って。
5人に1人じゃん。

ある心理学者によると、自殺未遂をする子の多くが、自宅で薬を過剰摂取、つまりODするという。また、cutting もよく見られるという。
この記事は、その後、しばらく、自傷行為についての説明を試みている。
曰く、身体的な傷みは彼らの感情的な痛みを覆い隠してくれる。
多くの子が「腕を流れ落ちる血を見ることで気持ちが楽になる」と語る。
これらの自傷行為は死ぬことを求めているのではなく、助けを求めているのだ、などなど。

いずこも同じだなあ、と思う。
この記事の、15%だの20%だのという自殺未遂率は、いわゆるリストカットのような自傷行為も含めているようだ。
ならば、それほど驚く数値でもない。日本でも、中高生が身体の一部を切るなどの自傷行為を経験している割合は10%を超えているわけだから。
ただ、人種や民族による違いには、ドキリとさせられる。

専門家たちは、ヒスパニックの女の子たちに特に自傷やODが高い確率で見られる背景として、以下のことを指摘する。

・彼女たちの親世代は、ヒスパニック社会で、親せきや近所の知人などとの強い結びつきを享受してきた。が、娘たちにはそれがない。

・セクシーであることや、自分の意見を積極的に述べることが評価されるアメリカ文化と、娘に控えめで従順であることを期待する家族との間で、無力感やフラストレーションに苦しみやすい。

・学校で孤独を感じやすい。

・ヒスパニック社会は、自分たちの精神的な悩みを精神科医などに相談することに懐疑的で、むしろ家族内でおさめようとしがちだ。

・米国に移住したヒスパニックの親たちは、娘の行動を見守ってくれる親せきや近所などのコミュニティーがないために、自国にいた時よりも、娘の行動に対し、厳しく管理しがちである。

・一方、娘たちは学校ではクラスメートに 「親のことなんてどーでもいいじゃん。自分のやりたいようになんなきゃ」 などと言われ、家では従順な娘を演じ、学校では友達と調子を合わせて、「分裂した心」 のままに暮らさねばならなくなる。

・ヒスパニック家庭は結婚しないまま出産する率が高い。自殺未遂を試みた若者の多くが、家庭で母親のボーイフレンドがめまぐるしく変わるのを目の当たりにしている。娘たちがそこで虐待を受けることも珍しくない。

などなど。
ある専門家は、ヒスパニックの女の子たちにとって、母親との関係改善が一番大きなカギを握っていると語っている。
そのコメントが、これ。
「彼女たちは、ただ愛されているだけではなく、自分たちがちゃんと愛されてると分かっていたいんだ」 。
うーん、日本で何度も聞いたようなコメントだなあ。

移民。貧困。人種間格差。母親のボーイフレンド。
日本で取材した女の子たちと違う面もいくつもあるけれど、妙に似てる分析やらコメントが散見されるのが、やたらと気になるのであった。



米国でのピアプレッシャー

日本の中高生を取材していて、いつも呆然としたのは、彼ら彼女らの間のピアプレッシャーの強さだ。もちろんそれは今に始まったことではなく、私が中高生だった時代も、ピアプレッシャーは強かった。私自身がそれをヒシヒシと感じていたことを、大人になった今も、結構生々しく覚えていたりする。

でも、日本にいた時、漠然と思っていた。
あらゆる意味で多様性に満ちた社会で、多様性を認める米国社会では、中高生だってピアプレッシャーとある程度無縁でいられるに違いない、と。

先のエントリーにも書いたスクールカウンセラーさんにそんな話をしたら、
「とんでもない!」 という答。

そもそもティーネイジャーのピアプレッシャーが極めて強いのはどこの社会でも変わらないし、米国には日本とは違う類のプアプレッシャーも存在するというのだ。

「例えば、黒人の子が白人の子たちと頻繁に遊んでたりすると、『なんであんた、白人とばっかり遊ぶわけ?』 などと黒人の友人に言われちゃったり、人種間のピアプレッシャーもあるんですよ」

なるほどなあ。
いつも近所の中高生が学校から帰る風景を見るたび、なんだかんだ言って人種ごとにグループが分かれてる感じがして、気になってたのだけれど。
その風景を、ピアプレッシャーという観点から見たことはなかった。
そういう意味でも、彼女との会話はとても勉強になった。

「私の務めている学校は、90以上もの国から生徒が集まっていて、40以上もの言語が存在するの。人種間の緊張はない、とても開かれた雰囲気の良い学校なのだけれど、それでもカフェテリアで食事をする時なんかは、自然と分かれてしまう。『食事する時くらい、自国語で会話してくつろぎたいよ』 って思いがあるんじゃないかしら。いわゆる コンフォートゾーンというのは確実に存在すると思うの」

あらためて、日本を思う。
日本の子どもたちを取材するのに、東京で取材するだけで事足りていた(厳密に言うと本当はそうではないはずだけれども、ある程度は、という意味で) のが、今になってみれば、すごく不思議。
こっちでは、ジャーナリストが子どもたちのインタビューをまとめる時、極めて限定的に対象を絞ってしまうか、あるいは全米の特徴的な複数の都市で、様々な人種の子たちをバランス良く取材する。
「アメリカの子どもたちは今……」 みたいな言い方でこの国の子どもたちを語るのは、とうてい無理だ、というのが実感。


あたなは誰と住んでるの?

米国の公立高校のスクールカウンセラーさんとお話する機会がありました。
彼女は、かつて、アフリカンアメリカンの子どもたちがたくさん通う学校に勤務していたそうです。子どもたちの悩みを聞く時、いつもこんな風に尋ねていたそうです。

「あなたは誰と暮らしているの?」

なぜなら、親が2人ともそろっていて、自分の両親と一緒に暮らしている子のほうが少ないくらいだったから。

ところが、その後、比較的裕福な家庭の子が通う学区の高校で勤務した時、
同じ調子で、「あなたは誰と暮らしてるの?」 と尋ねたら、
生徒たちに 「パパとママに決まってるじゃん!」 と笑われちゃったそうです。
学校によって人種も経済状況も家庭環境もガラリと違うこの国を、象徴しているようなエピソードだなあ、と思いました。

そんな彼女が今働くのは、移民家族がとても多い学校。
スクールカウンセラーといっても、不法移民ゆえ大学に行きたいのにどうしていいかわからない、とか、そんな相談も決して少なくないそうです。
この学校でも、「あなたは誰と暮らしているの?」 が常套句。
色々な相談が持ち込まれるけれど、義父や親せき、「ママの3人目の恋人」などによる性暴力やレイプの相談がとても多いそうで。

「相談内容にはもう驚かないけれど、その数の多さにむしろ、打ちのめされることがある」
そんな彼女の言葉に、私は私なりに打ちのめされてしまいました。

落ちこぼれ防止法って?

年が明けたある日のこと。
現地校の息子の担任ドーブリッジ先生からこんなメモが届いた。
「息子さんは、テストを受ける時、辞書を使って良いことになりました。ご安心を」

テスト???
なんじゃ、そりゃ。

調べてみて、なんとなく分かってきた。
どうやら今年3月、年に一度の達成度テストが州内の公立校で一斉に行われるらしい。

米国が、No Child Left Behind Act ( NCLB法、いわば「落ちこぼれ防止法」か) を制定したのが2002年。それ以来、各州がそれぞれ達成度テストを実施し、その結果をきちんと連邦政府に報告することが義務づけられた。
一斉テストだの、達成度テストなんてものは、日本でも各都道府県で手を替え品を替え、繰り返されてきた経緯があるので、テスト自体の存在には驚かない。
びっくりするのはむしろ、テスト結果の扱われ方だ。

「テスト結果を公表したら学校や地域の序列化につながる」。
日本で大勢を占めるのは、こんな意見だ。
ところが米国では、州やカウンティーごとの成績どころか、学校の学年ごとの達成度まで、学校名を明示して公表される。
テスト結果で学区内の不動産の値段が見事に上下するというんだから、シビアだ。

各州のテスト結果は万人に公表されている。
例えばうちの息子が通う学校の達成度を知りたいとする。
メリーランド州のホームページからこんなサイトに行き着いて、学校別のサイトから、息子の学校名を選べば、ほら、この通り。右端の項目にチェックを入れれば、生徒の人種ごとの達成度データまで出てくるんだから驚きだ。

ちなみに息子の学校は、白人が約半数、あとはアジア人と黒人とヒスパニックが十数パーセントずつ仲良く分け合っている。学校で朝食を食べる生徒 (朝食を食べられない家庭環境の子どもには公立学校が朝食を提供する制度がある) も十数パーセント程度いる。
達成度テストの結果も特に良いわけではなく、「まあ、悪くはないよねー」 という感じ。学校も先生も、達成度テストの結果を上げるためにしゃかりきになっている、という雰囲気はない。

これが、隣の学区にある小学校や、そのまた隣にある小学校のテスト結果をみると、かなり変わる。
この学区は、私たちの暮らす地域より、大邸宅の多い地域を含んでおり、親からの学校への寄付金もものすごいらしい。校内に、黒人やヒスパニックが数パーセント程度しかいない。
達成度テストの結果を見てみると、「おおお、こりゃすごいや」。
ほとんど100%じゃん。
息子の学校からせいぜい数百メートルしか離れてない学校で、達成度が5〜10%程度も高いのだ。

あまりに身も蓋もない話なので、書くのもはばかられるが、達成度テストの結果は、生徒の人種構成(これも全部ネットで公表されている……)と、いやになるほど見事に因果関係がある。また、学校で朝食を食べる生徒の割合とも見事に因果関係がある。

達成度テストの結果が良い学区だから、不動産の値段も高騰し、金持ちしか住めなくなる。集まってきた金持ちが、学校にじゃんじゃか寄付をするから、学校の設備や環境はどんどん良くなり、ますます達成度テストの結果が上がる。
まるで ニワトリと卵 みたいだ。
(もちろん現実はそう単純ではないのだろうけれど)。

ちなみに、この法律が施行された当時、「テストのための教育になってしまうのではないか」「各州が達成度を上げるために目標を低く設定することで、結果的に教育レベルは落ちるのではないか」など数々の批判があったらしい。それでも、この法律を最後まで支持した理念がこれ。
「落ちこぼれを一人も出さないようにしよう。人種差別や貧困ゆえの教育格差に光を当て、それを是正していこう」

例えば、達成度テストで目標を何年にもわたって達成できなかった学校があったとする。
どうなるか。
同法によると、他校への転校が認められ、その時に生じる交通費なども負担してもらえる。貧困家庭には、家庭教師を頼む費用も保証されるらしい。
そういえばブッシュ大統領も、この法律のお陰で、いわゆる教育格差が是正された、なんて宣伝していたっけ。

だけど。
こちらに暮らして3カ月。
何年か続けて目標が達成できなかった学校の廃校を報じるニュースを、地元にで何度か読んだ。
つまり、「お取りつぶし」 だ。

また、お隣のワシントンDCでは23の公立校の統廃合問題が今、大きな問題になっている。これらはそもそも入学者が極度に減った小規模校の統廃合で、経費削減と教育の効率化を狙った計画なんだとは思う。
小規模校の統廃合自体は、日本でもよくある話。
事実、私が暮らしていた文京区でも渡米前、小中学校の統廃合計画が発表されたこともあった。(その後どうなったのか詳しく知らないが、地元の反発なども強く、当初の計画通り進む見通しはほとんどないらしい)。

それはそうとして、ワシントンDCの統廃合問題。
日本のそれよりあからさまだなあ、と思わずにいられない。
例えば廃校計画に上る23校についてまとめたワシントンポスト紙によると、次のような学校が廃校対象になっているのが分かる。

・児童数307人の小学校。3分の2の生徒が低所得層で62%がヒスパニック。リーディングの標準テストの達成率は41%、算数で40%。廃校対象になった理由は「入学者数減と校舎の老朽化」。廃校後、生徒が通うことになるのは隣の学区の生徒数162人の学校で、そこの生徒の89%は黒人。

・99%の生徒が黒人で、85%の生徒が貧困層。水漏れによる被害で、2つのクラスルームの修理が必要な状態。02年から06年にかけて、入学者数は35%も減少。標準テストの達成率はリーディングが35%、算数が21%。

・428人の生徒を受け入れられる小学校だが、生徒数は現在169人。02〜06年の間に、入学者数は49%減少。

・765人の生徒を受け入れられる中学校だが、生徒数は現在154人。何年か続けて標準テストの目標を達せずにいる。

・547人の生徒を受け入れられる小学校だが、生徒数は現在228人。02〜06年にかけて、入学者数は半減。標準テストの達成度はリーディングが29%、算数が27%。

……書き並べていると切りがないけれど、標準テストの達成度が50%を切っていて、児童数がどんどん減っている学校。校舎の傷みが激しい学校(つまり、貧困層の家庭が多く、寄付金が集まらないため、そもそも設備を良くできない学校、ということ)。人種比率を調べれば、やはりそこに格差が見えてくる。

だから、NCLB法が本当に教育レベルの「底」上げになっているのか、私には全然分からないのだ。
(今後、色々なデータにあたって調べてみようと思う)。

このように議論の絶えない法律ではあるのだけれど。
米国がすごいなあと思うのは、そんな議論までも、ちゃんと子どもにフィードバックし、考えさせるということ。
例えば、先日は息子が、子ども向けのこんな雑誌記事のコピーを持ち帰った。

No Child Left Behind 法施行後、多くの学校が達成度テスト (テスト科目はリーディングと算数、科学) の結果を上げるために、テスト科目と関係ない体育や音楽など授業をどんどん削減している、という話。
一方で、テストに十分に準備できるよう、授業終了時間を1時間繰り下げ、全体の授業時間を増やす学校も増えているという。
記事中には、この背景に、No Child Left Behind 法があることが指摘されていた。

3年生の息子のクラスでは、この記事をみなで読んだあと、この 「授業時間数を増やす」 という試みについて、ワークシートに各人が賛否とその理由について記入し、さらに話し合いもしたらしい。
もちろん、英語が分からない息子は蚊帳の外だったみたいだけれど。

自分たちが受けている教育の制度改革について、その制度の内側にある学校で、学んだり、考えたり、意見を交わす機会を与えられているこちらの小学生たち。
日本ではどうだろう?

空飛ぶリスの観察会

米国の首都ワシントンDCまで車で半時間以内の距離に、いったいいくつの自然公園があるんだろう、と思うくらい、こちらは公園が多くて、しかも広い。
それぞれの公園にはたいていネイチャーセンターがあって、子どもや親子連れ、中高生向けなど年齢別に、色々なプログラムを提供している。
プログラムの参加費は数ドル程度で、無料のものも少なくない。

今日、参加してみたのは、「Flying Squirrel」 の観察会。
空飛ぶリス。日本でいう、ムササビですな。
「運が良ければムササビが滑空する姿を観察できる」 というのがウリの夜間プログラム。別の自然公園の観察員さんから、「結構な確度でムササビが見られるからいいわよ」と勧めてもらったのだ。

期待し過ぎて後で落胆するのが嫌いな息子は、「どうせ見られないんじゃないの。きっと見られないよ、うん」 などと盛んに言う。
そのくせ、本心ではむちゃくちゃ期待しちゃってるのだ。
こういう姿を見ると、「ああ、ムササビの神さま、頼むから、今夜、姿を見せてください!」 などと拝みたくもなってしまう。

さて、会場のネイチャーセンターに行ってみて、びっくり。
この冬4回だけのムササビ観察会なのに、集まったのは私たち親子と、幼児2人連れのママの2組だけ。
無料。
定員なし。
予約不要。
プログラムの条件を見たとき、「おいおい、日本だったら何十人も集まって大変なことになるぜ」 と思ったんだけどな。
(実際、昨年夏の多摩動物園のムササビ観察会は参加費1000円で定員40人。ハガキ申し込みの末、抽選、だったっけな。申し込みはしなかったけれど)。

結局、幼児2人連れ親子は、あまりの寒さと、子どもが飽きたのとで先に帰ってしまい、最後は息子と私と観察員さん、というまるでプライベートプログラム状態。英語でアピールしまくるこっちの子の中では萎縮しがちな息子も、この日はのびのびとムササビとの出会いを楽しんでる風でした。

え? ムササビ、見えたかって?
見えちゃったのよ、これが。
えさ台にヒマワリの種を置いて待つこと10分。
観察員さんが 「時にはすごく時間がかかることもあるの。今日は寒すぎて来ないのかもしれないけれど、来るかもしれないし、来ないかもしれない、それこそが自然界なのよね」 などと守りの説明に入り始めた途端、
3匹のムササビちゃんがえさ台のある木にやってきて、追いかけ合ったり、気の回りをぐるぐる回ったり。
こちらのムササビは日本のと違ってものすごく小さくて、手の平サイズなんだけど、目だけが黒々として大きくて、すごくかわいい。
普通に走り回ってるうちは、ただのチビリスのくせに、これが、ぱーっと身体を開くと、ムササビの形になるのよねえ。

見事、離れた木に滑空!!

クイクイという、すごくピッチの高い声も生で聞けたし、
滑空する前に高く高く木を上っていく習性も実際に観察できたし、
とても充実したプログラムでした。
息子も大満足。

ちなみに日本のムササビは、Japanese Giant Flying Squirrel というそうです。
「日本の flying Squirrel は世界でも最大級。160メートルくらい滑空できるし、体調なんか50センチもあるんでしょ? それを知った時は私、ほんと、びっくりしちゃった!」 と、やや興奮気味にこちらの自然観察員さんは話してました。

食をめぐるアジアンの輪

こちらに来てから、あまり外食をしない。昼食は抜いている。息子が学校に行っているわずか6時間の貴重な時間のうち、半時間なり1時間をたかだか食べ物を食べるだけのためにつかってたまるか! と思ってしまう。
いわゆる時間貧乏性、だ。

それでもさくっと昼食を食べたいと思った時は、チープそうなアジア料理の店を選ぶ。
中華でも、韓国料理でも、ベトナム料理でも。
おいしくて安いアジアン料理情報は、私にとって貴重だ。

そんなわけで、今日知り合った韓国人にも、聞いてみた。
「どこが一番おいしい?」
そしたら、「ピッゴうんちゃら」 (うんちゃら、は聴き取れなかった) という返事。
私の乏しいハングル文字の知識を駆使した結果、行き着いたのはこの店。

Light House Tofu

看板のハングル文字を読む限り、とりあえず、「ピッゴ」 から始まるものね。
たぶん間違いないと思う。
そもそもこの店、この周辺に住む日本人のブログにもよく登場する店なので、日本人の間でも結構人気があるんだろう。

ちなみに、こちらに住んで14年の韓国人の彼女によると、この近所ではこの店以外の韓国料理は全然ダメ! なんだそうだ。
「ヴァージニア州にはおいしい韓国料理がいっぱいあるんだけどね、こっちは全然だめよー。みんなアメリカ料理の味がしちゃうのよねー」 という。

そんな彼女に、「外食する時はどこで?」 と尋ねてみた。
帰ってきた答は、

「やっぱり、その韓国料理店。次によく行くのは、TEMARI かなー」

は?
驚いた〜。

TEMARI、とは、前エントリーで紹介した 「最もフツーの日本の定食屋」。
店の客の3分の2は中国人か韓国人。どうしてこんなに日本人以外のアジアンが多いんだろう、とずっと気になってた。
どうやら、彼女も TEMASRI の常連らしい。
ここぞとばかり、根掘り葉掘り、「なぜ TEMARI なのか」 を聞いてみた。
韓国人の彼女曰く、

「だっておいしいもの」
「韓国料理は、たいていの店がアメリカ料理っぽくなっちゃってるけれど、TEMARI はホンモノの日本料理だし」
「寿司は確かに高いけど、ほかはそうでもないし」
「みそラーメンが好きよ。あとトンカツも」

うむむ。
私が注目してしまったのは、彼女が2番目に挙げた理由。
確かに TEMARI は極めて普通の日本の定食屋の味に近い。日本だと、そうだな、駅前の商店街にある特徴のない定食屋、って感じ。
どこにも、アメリカの香りがない、とたぶん言える。
でも、「ホンモノの日本料理」 かといわれると、うーむ。

ふと思ったのは、私たちアジアンってお互いに似たようなことをやってるんじゃないか、ってこと。

例えば私は、安く外食したい時は、たいてい中華料理か韓国料理、ベトナム料理を選ぶ。
日本料理も、アメリカの料理も、なんとなく避けてしまう。
ハンバーガーやホットドッグはいくら安くてもあんまり食べたいと思わないし、一方、日本料理のほうは、味の善し悪しが分かってしまうだけに、ある程度のレベルでも満足できないことが多い。
その点、中華や韓国、ベトナム料理はいい。
だいたいの店で、何となく 「ホンモノ」 の味を楽しめる。これは、私がホンモノのアジアン料理を味わう舌を持っているからではなく、むしろ逆。本当にホンモノの中華や韓国、ベトナム料理を現地で食べ慣れていないから、私の側の許容範囲が広くなっているのだ。

かくして私たちアジアンは、お互いに、自国の味を食べさせる料理店を厳しく選別する一方で、お隣の国の料理店の味をより寛容に受け止め、アメリカンな料理や味に疲れた時、ついつい出身国以外のアジアンな店に足を運んでしまうんじゃなかろーか。
TEMARI が日本人客以上に、韓国人や中国人で大入り満員なのも、そういう理由からなんじゃないかな。

そんな仮説を立ててみたんだが、どうだろう?

日本食レストラン、いろいろ

噂には聞いてましたが。
こちらでは日本食、すごいブームです。
普通のフードコートにも、ハンバーガー屋、プレッツェルとレモネード屋、ピザ屋、メキシカンファーストフード屋といったラインナップの次に、必ずといっていいほど、寿司やら焼きうどんやら照り焼きを売る店が並んでいるほど。
店に並ぶ客のほとんどが現地のアメリカ人。
在米日本人に人気の寿司屋なんかも、かつては日本人客ばっかりだったらしいのですが、今やあらゆる人種のお客さんがやってきているという感じ。
日本人のほうが少数派なのです。

そんな中で、対称的な2軒の日本食レストランが近所にあります。

1軒目は、「TEMARI CAFE」。
ひとさまのブログに写真を見つけました。外観はこんな感じ

一言で言うなら、日本にいかにもありがちな、ものすごーーーーーーーく当たり前の定食屋。
ラーメンがあって、刺身定食もトンカツ定食もハンバーグ定食も塩サバ焼き定食も同じメニューに載ってる。ラーメンの味も、今一つなところが、いわゆるラーメン屋のラーメンではなくて、定食屋のラーメン風。玄関には、日本語の新聞に、日本語の漫画がずらり。その漫画も、芸術がかってる COOL JAPAN 系ではなく、ものすごく庶民的なフツーの漫画。

ここの最大の価値は、「フツー」 なのです。
こぢんまりとした食堂のテーブルとイス。
ビールについてくる、柿ピー。
「いらっしゃいませー」 の声。
テレビで延々と流れるのは、日本の民放のバラエティー番組 (のビデオらしい)。
たぶんこのあたりでは一番、日本っぽい空間かもしれません。

ここに一番はまってるのは、食べ物に関して超保守派の我が息子。
この店に来ると、いきなりくつろいで、漫画を読みながら、トンカツを食べてます。
「宿題が終わったら、TEMARI に連れて行ってやる」 などと言おうものなら、もう、とんでもない集中力を発揮して、いつもの5倍のスピードで宿題を仕上げてしまうほど。

いかにも日本人にしか受けそうにない店なのですが、ところがところが!!
今や、一番多いのは中国人のお客さんかも。
韓国人のお客さんもものすごく多い。
日本語を勉強してるのか、日本語で注文を試みるアジアン率も高し、です。
いつもものすごく混んでいて、週末の夜なんか、待ち時間が生じるくらい。日本人客の割合は3分の1くらいかも。

最近は、現地のアメリカ人 (というか西洋人) にも密かな人気のようで。
グルメ系ホームページへの書き込みを見ても、
「スシだけが日本料理だと思ってるアナタ、絶対に TEMARI にゴー!」 とか、
「日本に行かない限り、絶対に食べたことがないはずの日本料理がここにある」 とか、
「正真正銘の日本の食い物! 正真正銘過ぎる、って人もいるけどね」 とか。
ディープジャパンの体験コースの一つと化しているみたい。

我が家では、土曜日の息子の日本語補習校が終わった後、家族で乗り込むのが習慣化してます。夫は職場で日本の新聞各紙を読めるらしいんだけど、私はワシントンポストのほかは、2週間遅れくらいで夫が持ち帰る毎日新聞 (それもスクラップをした後ゆえ、穴だらけ) を時々読む程度なので、ここの店で4日分くらいの朝日新聞を読むのがすごく楽しみだったりするのです。

しかし、ほんと、こんな可もなく不可もない、といった 「フツー」 のお値段と味の店が、妙に人気なのはなぜかなあ。
夫がぼそっと一言。
「この店なら、君のおとうさんでもうれしがるかもなあ」
ああ、そんな感じ。
外国慣れしてない年配の日本人にとって、まったく外国を感じさせないこのビミョーな雰囲気は実はすごくすごくこの国では貴重な存在なのかも……。

さて。
もう一軒は、比較的新しいお店で、SUSHIDAMO
ちゃんと自前のウェブサイトも持っておられる。ね、オシャレでしょ?
ワシントンポストにも紹介された。
この記事の途中にある写真や、ウェブサイトの写真を見てもらえれば、だいたいの想像はつくと思う。
美しいでしょう?
ウリは、創作巻きもの、です。

経営者は日本人ではありません。シェフは日本人だそうです。
でももう、そんなこと関係なし。
ここの味に思わず痛感したのは、
「すごい。寿司が、日本の味ではなく、世界の味に仕上がってる」 でした。
創作巻きものは、日本では出会ったことがない味。

最初に紹介した TEMARI が穴ぐら的なくらい 「フツー」 の日本ならば、
こちらは、日本だの、寿司だの、というのを思う存分に広げてみせた店。
(どっちがどうと言うわけではなく、両方ともすごいと思う。車で10分足らずの距離に、両方のお店があることに感謝!)

SUSHIDAMO で、「冬」をイメージしたという巻きもの 「fuyu」 を頼んだら、ほたてを海苔で巻き、かつお節を一緒に巻き込み、上に緑色のわさび味のトビ子がトッピングして出てきました。
なるほど、冬は雪の白。
でもホタテだけじゃ味が淡泊過ぎる。
かつお節が味と歯ごたえに変化を持たせてます。
トッピングのトビ子の緑色は、どうやって色をつけたんだろう。
抹茶色が、とてもきれい。

ソースに柑橘系などフルーツを使ってみたり、思った以上の自由さです。
実は私、最初に食べた時、シェフは日本人だと思わなかった。
「ああ、外国の人だから、ここまで自由にやれるんだ。ありがたいなあ」 なんて感謝したくらいだもの。
寿司はもう、何も日本人が握らなくてもいいし、ロシアでは創作寿司コンテストがあるらしいし、なんてわくわくする時代なんだろう!

そんな時代に、あれ、なんだっけ?
農水省の 「スシ・ポリス」 ?
日本食ブームに乗じて、外国では外国人が 「日本食」 をうたってアジアンフードを一緒くたに店で出してる。この際、認証制度を作りましょうか、ってな話だったかな。
米国のメディアからは、「スシポリスが食の国粋主義を掲げてやってくる」 などと批判されたっけね。

あの話、まだ生きてるのかなと調べてみたら、海外日本食レストラン認証事業としては頓挫したはずが、復活折衝かな、海外日本食優良店調査・支援事業として予算付けされたらしい。
それにしても、「認証」 をうたうと、「ポリス」 と叩かれるからって、「支援」 と言ってごまかすあたりが、なんというか、すごい……。

税金2億7600万円かあ。
「基礎調査」という名の、海外の日本食食べ歩き。
ぜひ、私にもやらせてほしいもんだ。

若者英語に囲まれて

今日はほんとに怖い経験をした。
周囲は、アメリカ人の兄ちゃんと姉ちゃん。
歳の頃は、18か19。
私が22歳で出産してたら、ちょうどこんな娘や息子がいたのねえ、というような感じ。
彼らに混じって7人一組にグループ分けされ、色紙や色マジックや真っ白い段ボール紙を与えられ、「グループごとに協力して、かっこいいポスターを作ってね! 優秀作品には25ドルの賞金が出るよ!」 だって。

何はともあれ。
ポスター作り、は、この国ではお馴染みの課題だ。
多くの場合、模造紙や、段ボール紙など大きなボードに、プレゼンテーション用の視覚的な資料を作る、というものだ。

先日は、息子がポスター作りの宿題を持って帰ってきた。
図書館で何かハウツーものの本を借り、それを元に自分でプロジェクトを考え、手順をポスターにして、クラスの前でプレゼンテーションをしよう、という宿題だった。英語がまともにわからないだけでなく、日本でいた頃でさえクラスの前で発表するのが苦手だった息子には、あまりにレベルの高すぎる宿題なのだった。

「やっぱりアメリカは show&tell の国ねえ。この歳でプレゼンの練習なのねえ」
息子の宿題にはすっかり感動した私だったが、まさかこの歳になって私までが 「ポスター作り」 なんかやらされる羽目になるとは!!

おまけに、二回りも違うこの国の若者の会話ったら。
全然、ほんと全然わかんない。
少しでも建設的な会話をしてる時はまだ、話の筋が追えるの。
ところが、ちょっとした冗談や、周囲の大人への揶揄、テンションの高いバカ騒ぎ……。
ぜーーーーーーーーーーーんぜん、わからんわ。
耳に残るのは、

Cool !  とか
Sweet ! とか。

何を聞いても、どんな話題でも、全部、「Cool !」 で片づけちゃう若者に、おばさんとしては、「言葉の乱れだわ! ぷりぷり」 とか言いたいところだけれど、乱れどころか、おばさんは全然言葉が分からない状態なわけで……。
ああ、みじめ。

「どこの高校を出たの?」
「おれ、○○。君は?」

当然、おばさんは出身高校の話題になんかついていけません。
高校時代? もう四半世紀も前だわ。

「ポスター作りかあ。子どもの時、よくやらされたよねー。思い出したくもないわ。ああ、嫌だ」
「そうだよな。スッゲー時間をかけたのにさ、クソみたいに先生に鼻で笑われたりしてさ」

あんた、「子どもの時」 っていうけど、まだ子どもじゃん……。

深まる疎外感。
この国に来て、ここまで周囲の英語についていけなかったのは初めてかも。
思わず、英語をまったくわからないまま現地校にたたきこまれた息子の気持ちを思ったよ。
あんた、毎日大変なのねえ。
母ちゃんもやっと分かったよ。この辛さ。

どうにか会話の端々から彼らがどんなポスターを仕上げようとしているかを理解し、何とか手助けらしいことに参加したものの、いやはや、参った参った。
グループ内に1人だけ韓国からの留学生の女の子がいて、たぶん彼女の英語は私とトントンのはずなんだけれど、何というか、むちゃくちゃきれいでグラマラスな子でさー。
黒髪はつやつや。
肌はぷるぷる。
腰回りはほっそり。
男たちはもう彼女に夢中。やたら、ちやほやするわけよ。
あんたら、私に対する態度と、えらい違いじゃねーか。

……よけいに募る疎外感 (落涙)。

前振りの文章、長すぎよね。
「どんな場面の出来事か、読んでも全然わからんぞ! 説明しろ」 と思った方、ごめんなさい。
実はこれ、何かというと、近所のモンゴメリーカレッジの新入生オリエンテーション。

結局、あれこれ悩んだ末、私、とりあえず1〜5月はカレッジのパートタイム学生となることに決めちゃった。今年半年を英語強化月間と位置づけ、毎日、近所のカレッジで英語を使ってお勉強する空間に身を置いてみようかな、と。

というのもね。
外国人同士でしゃべってるうちは英語に不自由をそれほど感じないのに、ネイティブ同士の会話に混じろうとするともう全然たちうちできない、という状態がとにかく苦しい。これをどうにかクリアしたい。
となると、「英語を学ぶ」 のではなく、「英語で学ぶ」 ことが大事だろう、と思ったわけ。

周囲からは、もっと建設的な選択肢を随分と提示していただいた。

この1月からアメリカン大学のマスターコースに入学を決めた同世代の韓国人の友人は、このカレッジで3年間、パートタイム学生をやった経験を踏まえて、こう言った。
「あのね、自分の息子や娘の歳の学生さんたちとじゃ、話も合わないし、絶対あんたに向かない。今あんたがやるべきなのは、toefl の勉強をみっちりやって、スコア100をクリアしてマスターコース入りを目指すことよ!」。

妹のかつての主任教授だった学者夫婦は、「カレッジに通うくらいなら、同じ学部レベルでも、もう少しきちんとした大学で、フルタイムの学生は無理でも、週に1クラスだけでも聴講(audit)してごらん。学ぶところは大きいはずよ」 と。

一方、カレッジのESL(外国人向け英語クラス) の一番エライ先生は、「あなた、すでに大学出てるんでしょ? カレッジはここで教養科目の単位を取って2年間で卒業し、大学に編入を目指す人のための場所なの。あなた、今更、教養科目レベルの勉強をしたい? 英語を学ぶのが目的なら、ESLの中でレベルの高いものを選べばいいじゃない!」 と助言してくれた。

どの意見もほんと、ありがたかったし、それぞれにおっしゃるとおりなんだけど。
でもね。
マスターの学位を取るべく正規入学を目指せば、3年間(たぶん)のアメリカ暮らしが勉強一色に染まってしまうことは不可避で、コーラスだ、ピアノだ、旅行だ、アウトドアだ、と欲張りな私にはかなりハードルが高い。
大学でのaudit、という案は将来の選択肢。
ただ、どうせお金払うなら、単なる audit ではなく、単位取得を目指したほうが自分にうまく負荷をかけられるはず。将来、パートタイム学生なりを目指すのならば、まずは近所のカレッジで単位取得向けクラスに挑戦してみるのも、現実的なステップかな、と。

また、ESLの先生のいうように、「今更教養課程のお勉強ですか?」 という見方はもちろんあるわけだけれど、英語を学ぶために英語を学ぶ、ってのも、私の場合、あまり性に合わないのよね。
カレッジは、高等教育の学費の高いこの国で、大学4年間の授業料を払えない若者たちのための、大学入学へのワンステップになっている。それゆえ、多種多様な学生たちがやってくる。モンゴメリーカレッジは、いわゆるカレッジの中ではレベルも高いから、外国からの留学生もたくさんいる。
人間観察の場としては、案外おもしろいかな、と。

さらに。
渡米3カ月を過ぎても、現地校に適応する気配のない息子を見ていると、アフタースクールやベビーシッターを活用してまで、あれこれ手を広げる勇気はさすがにわいてこない。
遠くの大学に通うよりも、まずは毎日近所 (車で10分!) のカレッジで英語空間に身を置いてみようか、ってな選択なのだった。

しかし……。
思った以上に、アメリカのティーンエイジャーの会話についていくのは困難だった。
会話だけでなく、その文化についていくのも。
壇上で演説する先生を、身もだえポーズで冷やかす男の子がいたり、黙々と吹き矢らしきものを作って、装飾用のバルーンを割ろうとしてる男の子がいたり、ひっきりなしに甘そうなキャンディーをなめまくってる女の子がいたり。
そうだよなあ。
この子たち、ほんの最近まで高校生だったんだもんなあ。

韓国人の友人の 「あんた、自分の息子や娘ほどの子と話が合うと思う?」 という一言が脳裏によみがえる。
でもまあ、いいさいいさ。
この子たちって、私にしてみれば、日本で取材していた思春期の学生さんや若者とほとんど同じ世代なのよね。

だったら、聞きたいことはいっぱいある。
知りたいことも、教えてほしいこともいっぱいある。
もちろん、伝えたいことも。

どんなに所在なくても、疎外感を感じても。
そこが私の 「現場」 だと思ったら、私は、そこにいられるし、その空間や、人間を愛おしむことができる。その時間を、存分にスリリングに楽しめる。
新聞記者という仕事を選んで良かったなー、とつくづく思うのはこういう時。

というわけで、ほとんど20年ぶりの学生生活が始まります。
どうやら学生仲間の会話にも行動にも、ほとんどついていけそうにありません。
どうなることやら。

ヒラリーと涙 (と日本のメディア)

月曜日にヒラリーさんが涙ぐんだ、という報道を見て、最初に思ったのは、「戦略かな、それとも思わず泣いちゃったのかな」 だった。
米国のメディアは、何度も何度もヒラリーさんが涙ぐむシーンを放映したらしい。
米国では過去に、感極まった姿をさらしたせいで選挙戦から落ちこぼれた候補者もいたというし、テレビ局によっては「感情的になる人にこの国は任せられない」的なコメントを採用したらしい。
どう考えても、戦略としてはあまりに危険だ。
それとも、生半可な戦略じゃもうダメだ、と背水の陣で、ありえない戦略をあえて採ったんだろうか。

翌朝の新聞でその時の質疑応答を読み返し、私なりに、戦略ではなく、むしろ「思わず泣いちゃった」 んだろうと結論付けた。
ヒラリーを泣かせた質問は、これ。

My question is very personal. How do you do it? How do you keep upbeat and so wonderful?

「あなたはどうしていつも前向きで素晴らしくいられるの?」 ってな感じだろうか。

背水の陣だった彼女が、本気で 「涙」 や 「人間らしい感情の吐露」 を戦略として使うつもりなら、この手の質問の時に泣いちゃったりしない気がした。
むしろこの質問、ヒラリーさんにとっては、自分を丸ごと受け止めてくれるニュアンスを持ってたんじゃないかな。
「いつも強気で前向きな自分を維持しようとがんばってるあなたってほんと、すごいよ」

って、そんな風に。

ところでところで。
この日、ネットで読んだ朝日新聞の記事の見出しは、「ヒラリー氏の目に涙。『うそ泣き』の見方も」 だった。

(ちなみに、「うそ泣き」 は英語で、crocodile tears. ワニの涙、なんだって)

あれこれネットで日本のメディアを調べてると、「うそ泣き」 でなくても、「涙」 に注目した記事がとても多かった気がした。
一方、我が家で購読しているワシントンポストの場合は、文中で

Her voice cracked, and her eyes appeared to well with tears.

と書いているけれども、見出しは

"It's Not Easy,"An Emotional Clinton Says

特に、見出しには tears の文字はなかった。
その後の関連記事の中でも、たいがい emotional や emotion って言葉が多用されるだけで、tears や、まして crocodile tears なんて文字はほとんど目にしなかった気がする。

もしかして日本のメディアって、「涙」 が大好き?
まあなあ。
小泉元首相が相撲を見て 「感動したっ」 と目を真っ赤にしたら、数々のテレビがこの映像を何度も何度も流したしなあ。
「絶対に泣ける!」 や 「全米が泣いた!」 で、モノがたくさん売れる国だもんな。

だいいち。
こうやってあれこれ 「涙」 記事をめぐって調べちゃう私自身が、「涙」大好き日本メディアの一員なのかも……。

自戒しつつ、翌日のニューハンプシャーの投票結果は結構夜遅くまで、テレビにかじりついちゃった。直前の世論調査で引き離されていたヒラリーさんが辛勝し、それも女性に票を伸ばしたと聞いて、少々複雑な気分。
私自身が、ヒラリー「うそ泣き」説に、「冗談じゃないわよっ! ちょっと泣いただけで、『だから女はダメ』 などと言う男社会を生き抜いてきたのよ。わざとこんな場面で泣くわけないでしょっ!」 などと憤ってしまったクチである。
少なくとも、ヒラリーさんをめぐって「うそ泣き」説がわき起こった段階で、女性投票者はついジェンダーを意識するし、思わず彼女をかばっちゃう気がする。

「こういう結果が出ると、やっぱりあれは『うそ泣き』としか思えないよな」
なーんていう知人の男性記者の声を聞くにつけ、「確かに、あの涙自体は、戦略でなかったにしても、かなり、でかかったよな」 と思ってしまう。

民主党支持者で、日本茶が好きで、「アメリカのケーキは甘すぎてダメ」という志向を持つ米国人女性(白人)は、これまでも 「女性であるヒラリーが健闘しているのも、黒人であるオバマが健闘してるのも、どちらも私はうれしいの。だからどちらに投票するのかすっごく迷ってしまうわ」 と言っていた。
今回のニューハンプシャーの結果、どう思う? と尋ねたら、「すごくうれしい」 という返事。 

彼女によると、
「オバマには揺り動かされるけれど、あまりに演説が上手過ぎて、演説だけでいいの?って不安になっちゃった。そんな時、ヒラリーが人間的な一面を見せたでしょう? 彼女はもっと人間的な一面を見せていいのよ。 え? 『うそ泣き』? それはありえないわ。アメリカでは男が泣くよりずっと、女が泣くほうがあれこれ言われちゃうの。そんな危険な戦略、使うわけないわ。ただ……。感情を吐露したことが、今回の選挙では helpful だったのは間違いないと思うけどね」

つまり、やっぱり彼女も、ヒラリーさんの「思わず涙」に取り込まれたクチ、というわけ。
投票前の世論調査よりも、ずっと女性票がヒラリーさんに流れた一番の原因は、あちこちで報道されているような、「人間的な一面」 を見せたこと自体ではないと思う。
むしろ、ちょっと涙ぐんだだけで、「あのヒラリーが emotional になったぞ!」「あれも戦略じゃないか?」 などと大騒ぎした報道 (多くの場合がネガティブな) が、逆に、女性のハートに火をつけちゃったんじゃないかな。

一夜明けて、米国メディアはヒラリーさんの勝因分析に躍起になってる。
もちろん、勝因の一つとして 「人間的な一面を見せたこと」「投票日の前日に彼女のニュースが垂れ流され、露出度がアップしたこと」 を多くのメディアが触れている。でも、これらのニュースの中でも emotion って文字はよく見たけれど、tears はなかった気がする。
日本ではどうかな、と見てみると……。

産経新聞の記事で、ヒラリーさんの勝因は「涙」と米国紙が分析した、という見出し。
でも、この記事を読むと、米国紙からの引用部分には 「涙」 の文字は出てこない。
実際、引用元のワシントンポストでも、勝因分析として、<声を詰まらせ、感情を吐露した瞬間が投票直前に何度も何度もテレビで放映されたこと> と書かれているだけで、「涙」 そのものへの言及はない。

それでも。
私が日本で整理部 (見出しをつける部署) にいたら、この記事に絶対、 「涙」 という見出しをつけちゃう気がする。
私も、日本のメディアも、やっぱり好きなのよ、涙が。

gifted child って?

息子の現地校転入からまだ間もない頃の話。私の携帯電話に自動音声でこんな電話がかかってきた。
「お子さんの gifted and talented program への申請締め切りは明日です。予定しているならお早めに」
どうやら教育委員会だか学校が、地区の全生徒の家庭に一斉に連絡を回していたらしい。

渡米前にも、gifted child という言葉は聞いたことがあった。ただ、何となく 「お勉強がずば抜けてできて、飛び級して勉強する優秀な子」 を想像していた。
ところが米国では全然違うらしい。

もちろん、この国でも gifted の定義をめぐっては様々な議論があるわけだけど、概してgifted が意味するのは、生まれつき天賦の才能を持ち、それゆえ能力を伸ばすために特別な教育を必要とする子のことであり、例えば日本でよく見られる 「早期教育や先取り教育で同世代の子どもよりお勉強が進んでいる子」(いわゆる highly achieved かな) とは概念がまったく異なるという。

先日、こんな雑誌記事を読んだ。

雑誌の名は、「gifted child today」。
そのものずばりの雑誌があるなんて。gifted を見出しては、飛び級させたり、違う学校に行かせて特別な教育を与えたりするのが当たり前のこの国らしい。
この雑誌の07年秋号にあったのが、「Gifted Dropouts」 という記事。
つまり、一度は gifted として見出され、特別な学級や飛び級で学んだ子が、高校でドロップアウトする、という話だ。
記事では、高校中退した14人の gifted children の研究結果を報告していた。

14人の多くが高校中退の主な理由として挙げたのが次の2つ。

「学校はつまらない。ちっとも、challenging でない」
「先生やクラスメートは、gifted である自分を respect してくれない」

例えば、ある少女は「学校は何も新しいことを教えてくれなかった。先生もクラスメートも誰も私をrespectしてくれなかった」といい、高校で成績優秀者のためのコースに入れなかったことで挫折した別の少女は、「普通のカリキュラムではレベルの低い子に囲まれ、興味や関心が誰とも共有できなかった」 と語った。なかなか友だちができなかった時にせっかく仲良しになれた子が先に退学したので、「その子といつも一緒にいたい」と後追い退学したケースもあった。

一方、男の子はこんな感じだ。
ある少年は「高校は自分向きじゃない」と中退し、カレッジに進学した。別の子は両親の離婚を機に転校したことから、能力のある自分よりも地元の良い家庭の子が大事にされる土地柄になじめず、「誰も自分をrespectしてくれない」と中退。ほかにも、教師に過小評価され、友だちにばかにされていた時、別の友人たちからドラッグに誘われ、薬物依存になって退学させられた子や、「先生に misjudge されている」と不満を募らせ、辞めた子など。

いわゆる 「昔天才、今凡才」 といったのんきな話では全然ない。
この14人の若者への詳細な調査で浮かび上がったのは、多くの子がドロップアウトする前に友人や親せきなど身近な人の死を体験していたこと。その時の喪失感やショックを、家族とも友人とも学校の教師とも共有できず、孤独なまま苦しみ、少なからぬ子が薬物やアルコール依存、自殺未遂なども経験していたこと。
研究者たちは、学校や周囲から自分への過小評価への不満や、孤独への脆弱さなどの背景に、gifted child によく見られる過度な sensitivity (感じやすさ) を指摘している。

……と、ここまでくれば、私としては新聞の社会面記事風に話を展開させてみたくなる。
例えば、

<gifted な子に応じた教育を施したはずが、結果的に、能力や成績の異なる多様な同世代集団の中で学ぶ機会や、同世代集団への帰属意識を高める機会を奪い、孤独な子どもを創り出しているのではないか>

だとか、

<gifted 教育は、他人から常に十分に評価されないと自己肯定感を維持できない子を産んでいないか>

とか。

<多様な同世代のいる普通の学級で学ぶ経験が少ないために、孤独や喪失感に対して精神的にとても弱くなってしまうのではないか>

とか。
つまり、「過度な能力別教育の弊害ではないか」 といった問題提起をしたくなってしまう。
gifted child の生きづらさの原因とされる sensitivity も、単に先天的なものだけではなく、その後の教育などが影響しているのではないか、とね。
たぶん私だけじゃない。
日本の新聞の社会面記事ならば、たいていそうなってしまうと思う。

ところが。
今回の雑誌記事は私の予想を裏切り、こんな提言で締めくくられていた。

曰く、
・学校や学級は gifted child を prize する環境を整えるべきだ。
・gifted child の教育に無知な教師は、gifted 向けの教育法について学ぶべきだ。
・gifted child に対して受容的な環境下で、やりがいを感じるに足るカリキュラムを提供するべきだ。
・gifted child の多くが抱える過度な sensitivity (感じやすさ) を前向きに評価し、本人たちがそんな自己を受容し、自己表現できるよう手助けし、その上でそれを克服していけるよう手助けするべきだ。
・身近な死などの喪失体験を乗り越える手助けをするべきだ。

など。
そうくるかー、という感じ。

「能力平等主義」の日本に長く暮らしてきたせいだろうか。
子どもの能力が生まれながらに異なるのは当たり前で、その子その子に応じた教育を与えることが 「機会平等」 なのだ、という米国流の考え方は、頭では分かっていても、時々心がついていかないことがある。

もっとも、中学高校では能力別授業が当たり前というこの米国でも、1990年代ごろから detracking という動きが起こっている。つまりは、能力別をやめ、同じ教室で学習させてみよう、という試みだ。
現行の能力別授業が人種格差や学力格差を拡大している、といった根強い批判を背景に生まれた運動らしい。
いくつかの研究の結果、能力別授業を廃止し、detracking を進めた結果、生徒全体の学力は向上した、というような結論もすでに導き出されているという。しかし、常に 「能力の高い生徒を犠牲を強いているのではないか」「本当に能力のある子を伸ばせないのではないか」 という批判や懸念もあるようだ。

日本では今、むしろ「習熟度別授業」の拡大の方向にあるわけで、米国の detracking という一つの運動はそれはそれで興味深い。
そういえば息子のいた日本の小学校でも、算数の授業は 「習熟度別」 だったっけ。「習熟度別」とは言っても、「どんどんコース」 だの 「のんびりコース」 だの (はっきりは思い出せないが) といった曖昧な名前をつけ、おまけに子どもたちに自分でコースを選ばせいた気がする。「能力別」 という言葉を嫌い、「習熟度別」 という言葉にこだわり続けている日本らしい話だ。

どちらが良いとか悪いとか、そんなことはまだ分からない。
ただ一つ思うのは、米国式の gifted プログラムは、とうてい日本にそのまま導入できないだろうな、ということ。
なぜなら 「子どもの能力は生まれつきというよりは、その後の教育で決まる」 という考えが根強い日本では、我が子を gifte プログラムに入れようと必死になる親が出るだろうし、今以上に早期教育が加熱するに違いないから。
また、能力によって選別されるということ自体を、日本では親も子もなかなか前向きに受け止められないだろう。
たぶん私もその一人。

現地校3年の息子のクラスは、算数の授業で能力別に3コースに分かれている。
英語が分からず、文章題がまったく解けない息子ですら、真ん中のコースにいるらしい。自分たちの下にまだ誰かいるという余裕からか、息子は平気でこんなことを言う。
「『よくできる子』 と 『普通の子』 と 『ダメな子』 に分かれてるんだよ」。

「ダメな子、ってわけじゃないでしょ。ゆっくり時間をかけて勉強したほうが良い子、ってことなんじゃない?」
などと言ってしまう私は、まさに 「能力別」 という言葉を避けて 「習熟度別」 という言葉に固執する日本の教育そのままなのかもなあ……。

大づかみ、の重要性

今日の息子の算数の宿題には、ほほーとうなってしまいました。

こんな問題。

There are 4 boxes of cookies. Each box has 19cookies in it. ESTIMATE the total number of cookies.

いつもは私に英文の問題を日本語訳してもらってから宿題に取りかかる息子が、「あ、これは分かるからいいよ」 と勝手に解き始めた。

20×4=80  Estimate: 80cookies.

最初に息子の計算式を見たときは、母ちゃんはびびったよ。
おいおい、1箱19個であって、20個じゃあないじゃないか!
でも、問題文をよく読んで、納得。
なるほど、これはあくまで、ESTIMATE する問題なのね。

次の問題なんて「消しゴム32個入りの箱が6箱あります。消しゴムの合計数を ESTIMATE しなさい」だもの。
息子の計算式は、30×6。
当然、32×6 の答と比べれば、12個もの差が出るわけで、なんだか私は落ち着かない。

しみじみ、日本じゃあ、ありえない問題だよなあ、と思った。
だってさ。
日本だったら、19×4 や 32×6 をいかに正確に解くか、掛け算の筆算をするかが問われるじゃないですか。実際、息子は3年生だから、掛け算の筆算なんか日本語補習校で習っていて、この手の計算問題をひたすら宿題で解かされてるわけ。

一方、現地校では、「ざっと大づかみに推量してみなさい」 だもんなあ。
でもよくよく考えると、「大づかみにする」「推量する」 って、実生活では極めて必要とされる能力なのよね。

正確な計算力の習得を目指し、やたらめったら計算させる日本と、基本的にほとんど文章題で、答を出すだけでなく、どういう考え方で解いたのかを絵や文字で説明させることが多いアメリカと。
その違いをこれまでも、日々痛感してきました。
もちろん、両方とも大切なんだろうけれど、今回の 「大づかみ」 な宿題には、結構感心しちゃった私でした。

だって、私の日常生活はまさにそう。
摂氏から華氏。
マイルからキロメートル。
グラムからポンド。
毎日、「大づかみ」 を武器に乗り切ってるんですものね。


運転免許、ゲットしたぞ

アメリカに来て3カ月。
あれこれの手続きの最後の懸案だったのが、メリーランド州の運転免許の取得、です。
関門は3つ。

・手続きを開始するための書類集め。
・法規試験
・路上試験

特に最初の書類が難関でした。
なにしろ私は、ビザの関係上、こちらの身分証明の切り札であるソーシャルセキュリティーナンバーなるものを取れないもんで。
自分の住所をきちんと証明してくれる書類が必要なわけです。それも2通。

私は、家の賃貸契約書と電気代の請求書を持参しましたが、「賃貸契約書はダメだ、と窓口で受け付けてもらえなかった」という噂をかなり聞いていたので、ダメだった時のために、地元カレッジからの手紙やら、図書館からの手紙やら、果ては夫の名前しか乗ってない電話会社からの封筒まで、何でもかんでも持っていっちゃったほど。
なにしろ、この国。
「窓口によって、必要書類が違う」 というお国柄ですから。
本当は必要とされないはずの 「日本の運転免許証の英訳」 だって、「求められた」という証言がものすごく多い。発行元である日本の大使館に、「結局、いるんですか、いらないんですか、どっちですか?」 と問い合わせたら、帰ってきた答が、これだもの。

「何とも言えませんねえ。窓口によりますからねえ」

でも結論からいうと、私の場合は、賃貸契約書はあっさり証明書類として認めてもらえた。いらないはずの日本の運転免許証の英訳は、当然のように求められたけど。
念のため用意してよかった!

法規試験は簡単。共通一次世代にとっては、過去問に1〜2時間当たれば落ちることない程度の難易度だったので、軽くパス。

問題は、実技の路上試験。
自他共に認める、運転適性のない私なので。

でもこれも、ある方が試験場の見取り図までホームページにアップしておられて、それを頭に叩き込んであったので、緊張せずに臨めました。
見取り図をプリントアウトして、発進時の左ウィンカーや、停止時の右ウィンカーなど都合十数カ所にチェックを入れたお陰で、ウィンカーの出し忘れもほぼなかったようです。

焦るとまずいので、ほとんど英語がわからないふりをして (ふり、でなく分からないことも多いのだが……)、試験の前に 「思い切りゆっくり話してくださいね」 とたどたどしくお願いし、さらに、「直進しろ」 とか 「右へ行け」 などの指示を受けたたび、英語がすぐにわからないふりをして 「右よね、右でいいの?」 とか 「直進、ってまっすぐ行けってこと?」 とか念押ししながら時間稼ぎをしつつ、ウィンカーを出すべきかどうか、次はどこで止まればいいのかなどを、ゆっくりゆっくり判断できたのも、良かったみたい。

最大の課題だった縦列駐車も、「まあ、いいや、1度くらい落ちても」 くらいの気持ちでリラックスしたまま少しずつ切り返していったので、終わった時には、

Perfect !

とかほめられちゃったよ。へへへ。

結局、16点減点されたら落第、という試験で、10点減点で済みました。
2点がウィンカーの出し忘れ。8点は4箇所での 「周囲の確認不足」 です。
これは 「相当派手に 『right』『left』 などと大げさに確認してみせないと減点される」 とあっちこっちで聞かされていたため、私としては相当派手なアクションで確認してみせたつもりなんだけど、それでも足りなかったみたい。
そういえば、先日知り合ったモスクワ娘のモニカが、 「女優になったつもりでやらなきゃダメよ」と言ってたっけ。

女優になりきれませんでしたが。
とにかく、一発合格。
感涙。
たくさんの情報をウェブ上にアップし続けてくださっている、先行く方々に心より感謝です。

鴨鍋 → 雑煮

2007年から2008年に、年をまたいで我が家で活躍してくれたのは、もらいものの鴨肉でした。
大晦日の日に客が総勢10人近く来るというので、鴨鍋にしました。
具は、ネギ、春菊、豆腐など。
ほんとはセリがほしかったんだけど、見つからず、それでも韓国系スーパーで春菊を見つけた時は、うれしかったー。

この時、鴨肉の脂身からものすごく良い出汁が出たので、ついつい客用の鴨から脂身だけちょちょいと削いで、冷凍室に放り込んでおいたんですよね。
で、年を越してから、この脂身で出汁を取って雑煮を作りました。

……う、うまい。
鴨さん、君は、ほんとにえらいぞ。

鴨は日本よりずっとこの国で買うほうが安いので、あれこれ工夫して料理してみようと思います。
楽しみ楽しみ。

ヴァージニアの温泉で

お友達から話しに聞いて、ずっと気になっていた宿に、お正月の夜、一泊してきました。
ヴァージニア州はシェナンドー国立公園近くにある 「温泉」宿。
Pembroke Springs Rtreat といいます。

アメリカに来てまだ3カ月ですが、何が懐かしいって、温泉が懐かしい。
こちらでは、日本食は案外入手可能なの。
ただ、「肩までつかれるたっぷりの湯量」 と苦しい。
まして、「水着着用のスパではない、日本式の風呂」 となると……。

そんなわけで、この宿のホームページのこのページの中程