おぐにあやこの行った見た書いた

阪神・浜中の応援歌と悲愴第三楽章

ほんと、どうでもいいことですが。
家で、ベートーヴェンのピアノソナタ「悲愴」第三楽章を口ずさんでいると、必ず息子がそれを、阪神・浜中選手の応援歌に替えてしまう。
……確かに、一部、メロディーが同じなのだ。

最近はピアノの練習していると、浜中の応援歌に替えて弾いちゃうそうになる。どうにかしてほしい……。
いや、ほんと、どうでもいいことですが。

男だけのチアリーディング部、という記事

早稲田大に男の子だけで作ったチアリーディング部があります。
その名も、SHOCKERS。
何となく心ひかれて取材に行ってみたら、その練習風景の清々しさと、切実さと、爽やかさに完全にノックアウトされちゃいました。
んなもんで、休日つぶして何度も練習風景を取材してしまったのでした。

彼らの魅力は、動画が一番。
こんな感じ。上から2つ目の動画がおすすめ。
でも今回の取材でカメラマンが撮ってくれた写真も素敵でした。
(これはリンク先なし)
それに比べれば、私の記事はなかなか彼らの魅力を伝え切れてないなあ……と反省。
演技中の華やかさだけでなく、それを支えている彼らの日々の練習を伝えてみたかったんですが。難しかったっす。

何回か通ううち、ほとんどの学生さんの名前とか覚えちゃうし。
何人かの子の葛藤や悩みなんかまで見えてもきちゃうし。
最初は、人の頭上で舞う子たちに目がいくわけだけど、段々と下でそれを支えて真っ赤な顔してる子なんかに胸が熱くなったり、もくもくと筋トレや倒立や柔軟体操してる子たちを見守ってしまっていたりして、こうなっちゃうともう、なかなか冷静に記事は書けませんねー。

一人ひとりの思いを等分に、大事にしたくなってしまう。
ほとんど、母親の眼差し?
うちの息子はまだ9歳ですが、私が22歳くらいで出産してればちょうどこの学生さんたちくらいの息子がいたわけですもんねえ。

「美しい国」惨敗の理由、という記事

私が書いた、というのではなく、あくまで聞き書きインタビュー記事なのですが。
今回、初めて、作家の保阪正康さんにお目に掛かりました。

記事は、
「美しい国」惨敗の理由、というタイトル。

この記事に盛り込めなかったのですが、とても心に残った言葉があります。それは、記憶と記録、というお話。

曰く、人々に<記憶>が生々しく残っている間は、それをねじ曲げるような動きに対して人々は抗える。しかし、時が経ち、<記憶>が薄れ始めた時は、しっかりと<記録>していないと、真実は段々とねじ曲げられてしまう。人々は<記憶>し、それをしっかりと<記録>することから、教訓を得るのだ、と。

こう書いてしまうと、なんか至極当たり前の話のように読めちゃうかもしれませんが、私、しみじみ思いました。
「歴史観のしっかりした人の言葉って、重みがあるなあ」って。
もっと歴史を学ばねばなあ、と反省しました。

記憶と記録、といえば……。
私にとってはまだ、祖父の戦死話も、祖母や父から聞いた貧困の思い出話も、私なりに生々しい記憶だけれど、それを息子に同じ重さではとうてい伝えられない。記憶の伝承って難しいな、といつも思ってました。
なるほどなあ……だから記憶って大事なんですねえ。

★いじめをやめさせる! (著・佐山透)

★いじめをやめさせる! (著・佐山透)

先日、いじめ関連本についてブログに書いたら、とある方から、「この本も読んでみて」と薦められたもので。読みました、はい。

現役の公立高校教諭(教師歴25年)が「本音で語る、現実的対処法」だそうで。
結論がすごいぞ。
「学校に、いじめに対処する力はない!」と断じちゃってる。だから親が守ってやるしかないぞ、と。
曰く、校長にしろ、担任教師にしろ、それぞれ、いじめの現実を認めたら自分の評価に響く。どうせ解決できない問題なら「なかったこと」にしてしまうのが一番無難。学校の教師が一丸となっていじめ問題に対応することなんてありえない。ある学年でおきたいじめ問題は、他学年の教師にとっては格好の酒の肴だ。担任教師が、本気でいじめっ子と対決しようとすると、授業ボイコットなどの反撃を受け、よけいに学級運営に苦労することが多いので、「あいつとも仲良くしてやってくれよ」などと、いじめっ子に頼み込むのが関の山だ、とか……。
現役の先生に、「我々には無理です」と最初から白旗あげられてるみたいで、それはそれで悲しい。

おもしろいな、と思ったのは、この教師が小学校時代に「いじめっ子」だった体験と、中学時代に「いじめられっ子」だった体験を書いていることです。
この両方の体験から、「いじめられやすいタイプ」や「いじめがエスカレートする要因」について、書き出してます。

「泣かせるのが生きがい」と思えるほど、いじめていた小学時代、自分がいじめなかったことの理由として、

・担任、母親など女性にしか注意されなかったこと
・父親が無関心だったこと
・クラス内でもいじめに加わる者が何人かいたこと
・著者が当時クラス委員をしたり成績上位者でクラスで一目置かれていたこと

を挙げてます。

一方で、中学時代にいじめられた理由として、

・当時は、無口でおとなしい性格だった
・何かされても反撃せず、「やめろ!」と大声で言えなかった
・体力的に劣っていた
・担任にも両親にも打ち明けられなかった

を挙げています。

そしてこの両方の体験についても、これらは昔の話で、今のように「メールによるいじめ」などより陰湿で集団的になったいじめは、もっと解決が難しくなっている、と指摘しています。

学校でいじめられっ子にならないため、ちょっとした子育て上のアドバイス、というのが本書にありましたので、いくつか書き出します。
(うーん、それってどうかな〜、と疑問を差し挟みたくなるところもありますが……)。

*子どもの言葉遣いの乱れを注意するのは、友だちたちの間で使われている話し言葉を使うな、友だちをなくせ、と言っているのと同じ。聞くに堪えない言葉遣いにも、「親から自立しつつあるんだな」と思っていればいい。

*今の子はコンビニ、パソコン、携帯電話が当たり前の世代。親の時代遅れの価値観を押し付けることは、子どもに屈辱感を味わわせることになりかねない。

*過保護で口うるさい親の子はいじめられっ子になりやすい。甘やかしの親の子は逆に、いじめっ子になりやすい。子どもに無関心な親の子もいじめっ子になりやすい。しつけや勉強に厳しい親の子はいじめっ子、いじめられっ子の両方になりうる。

でもって、著者が教師経験を通してまとめた 「いじめられやすい子の特徴」は、

・肉体的にハンディを負った子
・ぼーっとしてる子
・何をするにもみなより遅い子
・生意気でえらそうな子
・自慢する子
・いじめられた時に反撃せず、それを親や教師に訴える子
・その場の和を乱す子

……なんか書いていて、気が重くなってきた。
上記の子たちのいないクラスって、どんな集団なんだろ。うーむ。

おまけに、親がいじめと闘うためにも、日頃から子どもがいじめについてしゃべってくれるような関係を作っておけ、という一方で、上記のように「親にすぐ言う子」はいじめられる、とも書いてるわけで、いったい、どうすりゃーいいのよ!って言いたくもなる。

でもって、著者の編み出したマニュアルはこんな感じ。

*子どもはいじめを記録する。多ければ多いほど有効。
*子どもはいじめられた時、「やめろ」と大声で叫ぶ練習をする
*子どもは空手や柔道の技を磨いてでも、反撃するようにする
*親は、いじめ記録を10枚程度にまとめ、学校に怒鳴り込む。大騒ぎして校長やほかの教師まで巻き込む。
*学校に求めたい点を誓約書にまとめ、校長にサインをさせる
*いじめた子の親への直接抗議は、効果的ではない
*校長でダメなら、教育委員会に怒鳴り込む
*それでもダメなら、法的手段に訴える

………。
この本を読んで一つだけよーく分かったこと。
学校におけるいじめの現実を最も良く知る大人である「現役教師」の多くの方々が今や、いじめは自分たちの力ではもはや解決できない、と結論をすでに出しているんだ、ということ。

とりあえず、子どもに柔道でも習わせろ、ってか?
うーむ。


夏休み、1週間を終えて

先日、「漢字宿題、放置宣言!」なるエントリーを書いたばかり。
息子の夏休みも1週間が終わろうとしています。
たぶん、宿題はほとんどしていない模様。

うーん、いいのかなあ。
このままでは、8月下旬に悲鳴を上げること、必至。
とりあえず、「放置」を宣言したものの、一応、1日に1度くらいは「宿題は計画的にやったほうがいいと思うよーん」程度の声をかけてます。でも、そのたびに息子がムッとした顔をするので、本気でばからしくなって、「いいやいいや、放置だ、放置! 最後に痛い目に遭いやがれ! 最後に笑うのは私だ」 と、「蟻とキリギリス」の蟻の気分でいる私なのです。

ほんと、こっちは選挙前でとんでもなく忙しい毎日なのに、目の前でゴロゴロダラダラとしている息子を見ると、「おい、おまえの2時間を母ちゃんに寄こせ! こっちは喉から手が出るほど『時間』がほしいのに!」と思う。

そんなもので、本日、息子に一声かけた。
「1週間がほぼ終わろうとしてるけど、あんた、そのペースで宿題やってたら間違いなく破綻するよ。でも、今年はいい経験だから、自分で計画立てて、宿題をやってみなさい。自由研究と感想文のみ、求められれば助言してあげるから。あとは、宿題がたまろうと、母ちゃんは何も言わないので、全部終わらなかったら最後の日にでも頑張れば?」

すると息子、途端に不安になった様子。

息子 「母ちゃん。そんなこと言わずに、宿題やれ、とか言ってよ」
私  「やだね。母ちゃんが言ったって、あんた、むくれるだけで、どうせ言うことなんて聞かないじゃん。嫌な思いまでして、言いたくないわ」
息子 「自分じゃ、絶対に計画的にやれないと思うよ」
私  「かもねー。でもいいじゃん。あんたの宿題だし」
息子 「え〜〜! そんなの……」
私  「毎日、どのくらい宿題をやれば最後に間に合うか、そのペースを母ちゃんに教えてほしいと思うなら、母ちゃんにお願いしてみたら。そしたら去年みたいに楽勝で宿題が終わるペースを教えてあげるけど」
息子 「教えてほしいっ!」
私  「でもその場合は、こっちの言うことを聞いてもらわなきゃなあ。今みたいに、宿題の話をするたびに、むっとされるんじゃ、こっちもバカらしくてやってらんないわよ」
息子 「……わかった。我慢する。だから宿題のペースを教えて」

案外、息子は弱っちいのだった。
反骨精神とか、反抗心とか、自立心とか、まだまだないのであった。
あまりにあっさりこんな答えが返ってきたので、拍子抜けしちゃった。

「まあ、そう簡単に結論を出さなくてもいいんじゃない? 明日1日ゆっくり考えて、納得するまで考えて、それでも母ちゃんに、宿題をこの日にこれくらいやれ、とか言ってもらいたいんだったら、母ちゃんに頼めば? その代わり、自分で頼んできたからには、言われてムッとしたりしないでね。そこまでの覚悟で頼んでちょーだい」

と突っぱねて、「おやすみ〜」と先に寝かせた。
どうなることやら……。

★豚の死なない日 (著・ロバート・ニュートン・ペック)

★豚の死なない日 (著・ロバート・ニュートン・ペック

最近読んだクリス・クラッチャー著作2冊「ホエール・トーク」「アイアンマン」とともに、訳者の金原瑞人さんからご紹介いただいた本。
こちらは、クラッチャーの重さとはまた別の、静謐で、圧倒的な世界です。

貧しい農家の12歳の少年が、大地を踏みしめ、家畜を飼い、父に多くを学びながら13歳で大人になっていく……そんな日々を淡々と描いています。ただただ、圧倒されます。

文盲の父が息子に教えることが素晴らしく、例えば、息子に「仲良くできている相手との土地の境にまで柵を立てるのはなぜ?」と問われ、「あそこの牛がうちのトウモロコシをかじったら、相手はわしよりもっといやな思いをするだろう。うちの牛に自分のところのトウモロコシをかじられるよりな。柵はいがみあうためのものじゃなくて、仲良くやっていくためのものなんだ」と教えます。
こんな風に、一つひとつの父の教えの含蓄はとても深いです。

特に、最後の数十ページはもう、ため息すらつけない感じです。
父と息子の絆に圧倒されるからです。

私が一番好きなシーンは、豚を殺めた後の息子と父を描いた場面。(ネタバレになるので詳しく書きませんが)。

それから、父が使っていた道具の取っ手が、父が握っていたところだけ明るい金色をしているのに、主人公が気付く場面です。
主人公は、その取っ手を「息を呑むほど美しい。働く手が取っ手を金に変えたかのようだ」と感動し、そして「ぼくの手がその道具を持てるくらい大きくなったかどうか」を確かめます。
なんか、ドキドキしながら、読み終えました。

喉が変だ…

昨日から喉が変だ。
食べ物が飲み込みにくい。
飲み込むとちょっと痛いから、喉風邪だろうか。
喉の内側や食道のあたりが、こむら返りを起こした後みたい。

……あるいは、これ、筋肉痛とか?
よくよく考えたら、月曜日の夜、ものすごく久しぶりにカラオケに行って、ものすごく久しぶりに叫ぶようにして歌った。
普段は、息子のシッターさんが電車で帰れるように、私は飲み会に行っても2次会には行かない。
だからカラオケとはほぼ無縁な人生を10年近く送ってきたのだ。
たまたま、月曜日は夫に任せることができたもので、つい、日付が変わるまで飲んでみたのだった。

みな40代なので、もう、若い子みたいに「オール」なんてものはしないが、それでも1時間のつもりが4時間くらい歌った。
このせいだろうか?

まさか喉の筋肉痛?
そもそも、「カラオケで喉の筋肉痛」 なんてありえるのか?

★女性の品格 (著・板東真理子)

★女性の品格 (著・板東真理子)

あんまりにすごいベストセラーなので、パラパラと斜め読み。

型どおりの挨拶をしよう、招かれたら手土産を持っていこう、約束を守ろう、敬語のつかいかたなど、まあ、いわゆる常識が半分。
仲間だけで群れない、プライバシーを詮索しない、後輩や若い人を育てよう、家族の愚痴を外で言わない、聞き上手になろう、など、いわゆる社会人としての人間関係も回し方が3分の1くらいか。
あとは装いだとか、暮らし方だとか、そのたぐい。

あんまり「品格」なるものとご縁がないタイプだと自分でも自覚してましたが、次の一文を読んで、「こんなの、あたしゃ、いらんわ」と読む気がうせた。

誰も見ていないからと外見にかまわないのは女性としての自殺行為です。(略) アイメーキャップだけはするとか、口紅だけはつけるとか、その人なりの方針でいいでしょうが、急にだれかが訪ねてきても慌てない程度の装いは大事です。

家で誰も見てないときだけでなく、出勤時もメイクをしないスッピン人生の私なんか、どうなるのさ。
(「自殺行為」とか軽く書かないでほしいなあ)。
相手を不愉快にさせない程度に普通にしてれば、品格なんか、ま、いいか、と思ってしまったのでした。


被害者参加制度に絡むインタビュー記事

24年前に弟さんを殺害され、しかし、死刑囚となった加害者と数度にわたる面談を重ねた愛知県の原田正治さんのことを、記事にしました

被害者保護の観点から、裁判への被害者参加制度が近く始まることになりましたが、それについての原田さんの思いをまとめたものです。
彼は、裁判に参加するよりも、もっと長い時間の経過の中で、別の場所での対話を訴えておられます。

実は彼のことを知ったのは、1冊のノンフィクション「弟を殺した彼と、僕。」。

これがなんというか、ものすごく重い本でした。
かつて書いた書評がこれ

それ以来、ずっとずっと直接お会いしてお話をうかがいたいと思っていたので、今回は貴重な取材となりました。

★アイアンマン (著=クリス・クラッチャー)

★アイアンマン トライアスロンにかけた17歳の青春(著=クリス・クラッチャー)

先日、この著者さんの「ホエール・トーク」を読んで、あまりの作品のすごさに完全にノックアウトされたもので、今回は、もう1作、翻訳されている本を見つけたので読んでみることにしました。

「ホエール・トーク」は「一見、スポーツ青春小説に見えて、実は人種問題から児童虐待までさまざまな過酷な社会問題にがんじがらめにされながらも、そこでもがき、自分を獲得していく少年たちのお話」でありました。
今回のは……「一見、これまたスポーツ青春小説に見えて、実は、DV問題や怒りのコントロールなどの問題の中で、それでも仲間を得て、その仲間の人生の重さに触れることで、成長していく青年の話」とでも申しましょうか。

主人公は17歳。トライアスロンレースに出場するため、日々過酷なトレーニングを続けている。しかし、ある教師の侮辱に怒りを抑えられないまま反抗し、停学寸前に。罰として短気矯正クラスに入れられてしまう。荒っぽい問題児が集まる特別学級で、彼は仲間たちの人生に触れ、なぜ自分が怒りをコントロールできないのかに一つひとつ気付いていく……そんな話です。

この少年、 「学校や家族との関係がこじれてくればくるほど、肉体的な苦痛がほしくなる。体の痛みなら、自分でしっかり把握してコントロールすることができる」 といいながら、むちゃくちゃ厳しいトレーニングをひたすらこなしているんですが。
私はむしろ、自傷行為を連想しちゃいました。

あと、この「短気矯正クラス」を率いる先生が、ほかの先生に向かって言う台詞がいい。

たいていの生徒は、自分に欠けてるものを口にするのが苦手なんだ。なぜなら、それがなんなのか本人にもわからないからだ。それを教師が先にみつけて、できるだけ早く手を打たなきゃならない

本人が気付く手助けをする、という意味での「手を打つ」なんですよね。

主人公が自分の怒りの正体と向き合い、自分の言葉で分析できるようになるシーンも心に残った。

ずいぶん長くかかったけど、怒りは恐怖の隠れみのにすぎないっていう先生の言葉の意味がようやくわかってきたような気がする。根底に恐怖があることさえ認めれば、怒りをおさえることなんて簡単だし、おさえる必要もないくらいだ。どうやら恐怖は、レイモンド(主人公を侮辱した教師)や親父にプレッシャーをかけられて、自分の弱さを自覚したときにわいてくるらしい。それさえいさぎよく認めれば、もう恐怖を隠す必要はない

重い重い内容でいて、読後感は爽快、という小説です。
「ホエール・トーク」のほうが、ずっと好きだけど、読後感がからりと明るいのはこちらだと思います。


「悲愴」を第三楽章だけ弾く、ということ

本日のピアノレッスンの覚え書き。
今回は、初めてベートーヴェンソナタ「悲愴」の第三楽章の前半3分の1ほどを弾いて持って行きました。
ABACABAのロンド形式のうち、なんとABA部分だけしか弾けなかった、というていたらく。
これには木曽センセも「え???」と驚いておられました。反省。
やはり選挙前ですし、なかなか練習時間が取れないのです(涙)。

今回のレッスンは、「さて、この第三楽章をどう弾くか」ということから始まりました。まず、木曽センセから、ベートーヴェンのソナタ32曲のうち初期、中期、後期のそれぞれの特徴と意味について説明がありました。さらに、当時の楽器の変化や、ベートーヴェンの人となり、なども。

「で、おぐにさんは、この第三楽章をどんな曲だと思いますか?」

木曽センセのレッスンは、いつもここから始まります。
なかなか一言で答えるのが苦手な私は、ついつい長い長い物語を語ってしまいます。

「この第三楽章って、何度も、これまで聴いてきたはずなのに、1、2楽章の続きで聴くと、いつも心に引っかからずに素通りしちゃうんです。1楽章は強烈に胸にこたえるし、2楽章はこのうえもなく深くて慈しみ深いし。ところが、ブッフビンダーさんのコンサートのアンコールで初めて3楽章だけ独立した形で聴いて、もう、聴いた瞬間に、あああ、この曲!と」

「ところが、楽譜を買ってみると、音符も少ないし、テクニック的に難しいわけでもなく、あれれ、こんな楽譜なんだ、と」

「さらにところがところが。弾いてみたら、なんか自分が惚れ込んだ曲と違うんです。おかしいなあ、とケンプやグルダやバックハウスの演奏をCDで聴いてみたんだけど、やっぱり自分が同じ曲を弾いてるとはとても思えない。全然、何かが違う」

「私にとって、三楽章というのは、苦しくても、迷っていても、もっと気高くて、どこか毅然としていて、あるいは毅然としようとしていて、うつむきながらでもせいいっぱい前進してる、そんな曲なんですけどねえ。私が弾くと全然ダメダメなんです……」

まあそんな感じで、弾いていったわけです。
先生は「テクニック的な問題はこの曲にはないはずなので、時間さえかければ大丈夫、仕上がりますよ」と言うのだけれど、本当かなあ。

ケンプやバックハウスなど、5人くらいの演奏家の第三楽章だけをCDから編集して延々と聴いているのだけれど、どう考えても、今、私が弾いてる曲と別物に聞こえる……。
そんな話をした時、木曽センセがしてくれたのはこんな説明でした。

「やっぱり、第三楽章は、あの苦しくて悲痛な第一楽章があり、このうえなく美しい第二楽章に癒され、その後にくる音楽なんですね。演奏家たちは、曲全体の解釈がしっかりしている演奏だから、これだけ音符も少ない曲が非常に意味を持って伝わってくるわけ。第一楽章、第二楽章を弾かずに、第三楽章だけを弾くというのは、実はとても難しいことかもしれませんね」

なるほどなあ。
だとすれば極めて苦しい。
私が、この曲に思い入れてるモノって、結構、切実だったりするのだと、最近自分でも分かってきているだけに、これ、ほんとに仕上がるのかなあ、とちょっと、いや、かなり不安。

一方、バッハは、シンフォニア2番と11番。
2番は今回仕上げるつもりだったんですが、「音楽をうたいきれてない。このままだと不完全燃焼でしょ」と言われ、さらに頑張ることになりました。
残念!

マー君インタビュー、宮城版にも載りました

夕刊に掲載した田中将大選手のインタビュー記事を、1日遅れの本日朝刊で、宮城県版にも掲載してもらいました。
みなさまのご意見を参考に、やはり、ほかのエピソードを一つ外し、青森山田戦のくだりを盛り込んでみました。

それがこの記事です。

テレビで観戦しようと思っていたのですが、選挙取材を終えて、自宅のテレビの前に座った時には、田中投手は打たれまくってマウンドを下りた後でした。
投げてるところが見られず、残念!

ところで。
本日の毎日新聞朝刊の運動面に、こんな記事がありました。リンク先の真ん中あたり、「◇球宴に政権政党の思惑」というタイトルの部分です。

当初は参院選投開票が22日だったため、ナイターだと開票速報のテレビ放送と重なってしまうから、と2戦目をデイゲームに変更したんだそうで。選手たちが1戦目を終えた夜遅くに東京から仙台に移動しなきゃいけなくなったため、「投手はどんどんストライクをとり、打者も早いカウントから打ちに行ったのが、投手戦につながった」、という分析。

そうなのか……。
昨日、スコアをつけながら、「おいおい、ファールボールで粘るのは小笠原と代打の森野くらいじゃん」とすごく気になってたのよね〜。

漢字宿題、放置宣言!

息子の夏休み初日。
息子は、お友達に誘ってもらって、バッティングセンターへ。
私は選挙取材へ。
宿題? ……なんというか、前途多難。

昨夜、息子の宿題内容を教えてもらって、「こりゃ苦戦するぞ」と予想した。
算数プリントは実質20枚足らずだから、ためこんでも楽勝でしょう。
問題は漢字練習、のほう。何でも、1学期にやった漢字ドリルの練習問題の漢字を10回ずつひたすら書き続けるんだという。

ははは、そりゃ、大人でもイヤだよ。

昨夜のうちに算数プリントは3枚ほど喜々としてやっていた息子ですが、漢字のほうは3つの漢字を10回ずつ書いたあたりですでにぶち切れ、

「ああああああ! サイテーの宿題!」

叫んでおりましたわ。
消しゴムで消したら紙はぐちゃぐちゃ。暑いし、イライラするし、おもしろくないし……いやはや、叫びたくなる気持ちは分かるぜ。
なもので、見て見ぬふりを決め込む私。
ここで、1日いくつ、などと息子にやらせようなんて思い始めたら、こっちまでイライラに巻き込まれちゃうもの。

息子がいない時、夫とふたり、漢字の宿題をみながら
「漢字嫌いになりそうな宿題だねえ」
「まあ、漢字練習というより、根気をつける練習だな」
「ちょうど息子にはいいかもねえ」
などと話し合ったのでした。

私はよほど自分を律しないと、ついつい口を出しちゃうタイプなので。
ここは高らかに宣言しちゃおうっと。

息子の漢字練習に関しては、一切口を出さない!
8月31日に貯め込んでいようと、それで全部できなかったとしても、私は一切知らな〜いっと!。

昨年に続き、読書感想文と自由研究に関しては、乞われれば助言を惜しまない、でもそれ以外は進捗状況や仕上がりのチェックなども一切しない、というスタンスにしようっと。

オールスターって楽しいね

マー君インタビュー記事の最後に、「オールスター戦は応援に行きます」 と書いたのはウソじゃあないんですけどね。
実は、仙台の親戚が持ってるフルキャストスタジアム宮城の年間シートでは、オールスターは見られないことがわかり、今回は、本日東京ドームの試合を見てきました。

一応、試合前の全選手入場のシーンで、田中将大投手が出てきた時、セ・リーグ応援席から大声で「マーく〜ん!」と叫んでおいたから、応援したということで許してください〜>マー君。

しかし、オールスターって初めて見に行ったけど楽しいですねえ。
たまたま1階席の一番はじっこで、隣は外野席という環境だったもので、外野席で阪神ファンも巨人ファンも中日ファンも、お互いの応援を真似ながら、一丸となって応援している姿を見せてもらったのでした。
それはそれは、心温まるものでした。

だってさ。阪神ファンが黄色と黒のツートンカラーのメガホンを叩きながら、小笠原や谷の応援するシーンなんて、普通じゃありえないもの〜。
猛虎!の大文字を背負ったオジサンと、中日・福留選手のユニフォームを母子で着てる親子とが、笑いながら調子を合わせて応援してるのを見たときには、ジーンとしてしまいました。私って単純!

なんとなく、「野球ファンはみな兄弟」みたいな雰囲気だったので、私はセ・リーグ応援席から、思い切り、楽天の磯部や高須や鉄平、代打の山崎、そして若きキャッチャーのラブリー嶋君などを、声高らかに応援してしまったのでした。
(生真面目な息子に時々、「母ちゃん、どっちの応援してんだよ」と注意されましたが)

息子と言えば。
驚いたことが一つ。
セ・リーグは先発が上原で、高津、林、木塚、岩瀬、黒田、久保田、クルーン、藤川と続いたわけですが……。
息子はこのうち林、岩瀬、黒田、藤川の4投手を、前のイニングで「次はそろそろ○○投手じゃないかな」と当ててしまいました。これにはビックリ。まあ、偶然なんでしょうが。

私は、といえば、せっかくなので記念にスコアを付けてきました。
野手も投手もさんざ替えまくったので、その点はごちゃごちゃしましたが、パ・リーグなんか安打は初回先頭バッターの内野安打だけですから
もう、スコア付けるのが楽で楽で。
少年野球もこんな感じでゲーム進行してくれたら、楽勝でスコアをつけられるのになあ……と思ってしまうのでした。

ところで、試合の途中で、「タッキー&翼」なるきれいどころの青年が出てきたんだけど、あれって誰なんだろ。お笑いコンビとかだろうか。
みんなキャアキャア騒いでたし、中には、彼らの出番が終わったら球場をさっさと後にする若い女の子までいた。
流行り物にうとい我が親子は、「なんだろねえ、あれ」と呆然としたのでした。

選挙前の週末なので、取材も入っちゃってるし、明日は仕方ない。テレビで観戦するか……。
何はともあれ。
田中将大投手の健闘を心よりお祈りします!

楽天のマー君インタビュー記事

これぞ役得取材、という感じでしょーか。
世の中が「ハンカチ王子」など王子ブームに沸いてる中、「やっぱりスポーツマンは汗をハンカチじゃあなく、こぶしで拭いてもらいたいもんだ」と意固地になっていた私は、念願の、楽天イーグルス投手、田中将大君へのインタビューを敢行したのでした。

それがこの記事

リンク先には写真が載ってません(20日未明現在)が、もしお手元に毎日新聞の19日付夕刊があったら、ぜひぜひ見てください。
座右の銘である「気持ち」という文字を、色紙に書いてもらって、田中君の笑顔とともに掲載してます。
この田中君の字が、ほんと、びっくりするくらい達筆なのです。
なんと、のびのびと勢いのある、気持ちの良い文字!

記事の行数制限ゆえ、記事には書けなかったエピソードがいくつかあるのですが、彼らしさがにじむエピソードを2つご紹介します。

一つは、野球漫画MAJORについて。
彼がこの漫画のファンであることや、主人公吾郎が「根っからのチャレンジャー」であることに心底感動しているところまでは記事に書いたのですが。
彼がMAJORの中で最も好きな場面は何か、と聞いてみました。

田中君曰く、
「吾郎が、海堂高校の1軍を倒した後、あえて海堂を去り、一から野球部を作って海堂に立ち向かっていき、結果的には勝てなかったけれど、最後、延長戦まで戦い続けた場面」

これを田中君は本当に熱っぽく語ってくれたわけで、私は彼の横顔をみながら、「本当に君は吾郎と同じで、根っからのチャレンジャーなんだねえ」としみじみしてしまったのでした。

もう一つ。
彼に、「野球人性で一番心に残っている試合は?」と聞いた時のことです。実は、楽天イーグルス球団のオフィシャルホームページの選手名鑑には、「甲子園決勝再試合」と書かれています。
そりゃそうですよね。
誰の心にも残る名場面でしたもの。

でも、もしかしたら、「プロ入り初勝利」とか「巨人相手の勝利」とか、そういう返事が返ってくるかも、と尋ねた質問でした。

ところがところが!
彼は言うのです。
「みなは甲子園の決勝再試合だろう、と思うかもしれないけれど、自分ではやっぱり、甲子園の青森山田戦なんです」

記憶にない人のために少し説明しますと、青森山田戦では、田中投手は先発していません。
実は、甲子園で勝ち進むうち、他のナインが田中投手に遠慮している姿を問題視した監督が、「全員野球」を取り戻すため、あえて田中投手を先発から外し、ほかの投手に投げさせた、という試合でした。
監督さんは、後にあるメディアの取材に対して、「大きな掛けだった」と語っています。

実際、4点差をつけられた状態で、田中投手は継投しますが、さらに2点を取られ、6点差まで突き放されます。
しかし、ここから、駒大苫小牧は「全員野球」でこつこつと安打を重ね、最終回で追いつき、最後は延長戦でサヨナラ勝ちするわけです。

そんな試合のことを、田中選手は本当に大切そうに語ってくれました。
「全員で勝利を勝ち取れた試合だったから、本当に本当に楽しかった」と。



★14歳 (著・千原ジュニア)

★14歳 (著・千原ジュニア)

お笑いコンビの「千原兄弟」さんというのをわたしは知らんので、日頃の芸風とこの本を対比させながら読むとか、そういうことは全然できなかったのですが。
「引きこもり」体験記として、極めて興味深く読みました。

一番驚いたのは、彼の心理描写が非常に分かりやすい、という点。こういう体験記って通常、渦中の記憶があいまいだったり、あるいは明確だったとしても文章などで再現するのが難しいものなので。
「なんか分かりやすすぎる話にまとまりすぎてるなあ」という違和感はありましたが、それでも、彼があしたのジョーにあこがれたことや、祖母との時間がとても大きな意味を持ったこと、やはり自分からドアを開けて行くのには何よりタイミングが重要であることなど、胸にストンと落ちるものはありました。

あがく「僕」の痛々しさも胸に迫るけど、同時に、「僕」の眼を通して語られる母親像を読みながら、「まったく、母親って割に合わないよなー」と思ったことも事実。
僕が心の中で母親に向かって言う「もう少し待ってください」という言葉には共感するのだけれどね。

最後に、文体について一言。

まるで携帯電話で書いたみたいな、短い文体と、一文ごとにいちいち改行する「ぱっと見散文詩」形式、わかりやすすぎるベタな繰り返し手法など、読んでてイライラしちゃいました。
でもアマゾンに投稿された若い人の感想を読むと、実はこの点が評価されているようで、そうか、こういう本を「読みやすい」というんだなあ、とあらためて勉強になりました。

リストカットをテーマにした写真集、の記事

ずっと前、こんなエントリーにてご紹介した、写真家、岡田敦さんの新しい写真集「Iam」、が出版されました。(アマゾンにリンク張ろうと思ったら、まだアマゾンに情報がアップロードされてなかった……残念)。

とりあえず、私は私のできることをしよう!と、
日曜日の新聞(生活家庭面)に記事を掲載してもらいました。

それが、これ。

「写真集を手に取りたい人が買える値段にしてほしい」と。
岡田さんに唯一、お願いしたのはその点でした。
前作のcordは7000円台でしたから。
岡田さんなりに、そして出版社の方々も、すごく頑張られたんだと思う。3000円をぎりぎり切る値段で仕上げてくれました。

表紙にまず驚いた。
写真集の表紙って、まず間違いなく、最も印象的で、最も能弁で、最も伝わりやすい、そして写真家にとって自信のある一葉の写真を選ぶもんだと思う。
でも、今作の表紙は写真じゃあありません。
鏡みたいに、手に取る人の顔が映るつるつるの銀紙(表現が難しい!)。
岡田さん自身がこだわった装丁で、書籍用の紙には納得のいく紙が見つからず、化粧品箱などに使われている紙を自分で探し出したんだそうです。
写真家が、写真集の表紙から、自分の写真を落とす、というのは、たぶん、私なんかが想像するよりもずっと勇気のいる選択なんだろう、と思う。

写真集を手に取ると、表紙に映る自分自身の顔。
伝えたかったのがきっと、「Iam」というタイトルにもこめられている思い。

切る彼ら彼女らと、あなたと、何が違うのか。
彼ら彼女らも、あなたも、僕も、生きている。


そんなメッセージなんでしょう。
前作cordは、テレビや新聞の何社にも取材されながら、記事や番組になる途中でなぜか頓挫したそうです。多くの場合、自傷というテーマへのメディア側のタブー視があったのではないか(特に、写真集の場合、映像や写真をどう扱うか、という問題もあったのかな)と岡田さんは感じているそうです。

4年前の当時と、今とでは、自傷をめぐるメディアの状況も大きく違っていると思います。
メディア以外の世界でも、例えば少なくとも、学校の養護教諭の先生方と話していると、4年前には「私も1例、関わりました」「うちは2例ほど事例を抱えてます」程度だったのが、今や「次から次へと『切っちゃった』とやってきて手当てが間に合わないくらい。でも校内の教師全員で勉強会などやってますから、もう誰も慌てませんけど」とか「その子その子によってベストの対応が違うから、そこで悩んじゃいますよねー」とか、そういう具体的な話にすぐなってしまいますもんね。

こんな2007年の夏、彼の写真集がどんな風に社会に受け止められるのか、どんな人の手に届けられ、どんな感想が寄せられるのか、非常に興味深くあります。

また、写真を見て感じることも、自傷経験の有無や男女の差、世代差のほか、人の肉体をどんな風に見据えるか、というスタンスの差によっても、変わってくる気がします。

私自身が思ったのは、傷跡より、ハダカそのもののインパクトのほうが私には強いぞ、ということ。例えば、人前でその写真集を開く時、自傷の傷痕の有無より、ヌードの有無のほうが気になっちゃうもの。
で、そんな自分に直面し、あらためて、ストンと納得がいっちゃうのだ。

だよなー。
傷痕って、その人の身体のほんのほんの一部なんだよな。
自傷って、その人が生きていることのあれこれの、ほんの一部なんだよな、ほんとは。
ってね。

★メタボラ (著・桐野夏生)

★メタボラ (著・桐野夏生)

気付いたら「僕」は森の中を必死で逃げていて、記憶は完全に失われていて、自分が誰か、なぜそこにいるのかも分からない。身分を証明するものは一つもなく、お金も一銭もない。そういうシチュエーションから一人の青年が自分の暮らしを作り、人と出会い、徐々によみがえる記憶と向かい合いながら生きていく、そんな物語。

一気に読ませます。
いつもの桐野さんほど破滅型小説じゃないわー、と思いつつ読んでいたけど、やっぱり読後、振り返ってみれば、破滅系、かも。
舞台が沖縄で、安宿のオヤジと、そこに溜まるバックパッカーやら自分探し系の若者たちの会話が、何というか、元バックパッカーだった私には身につまされるようではありました。

例えば、安宿のオヤジ(漂流系若者の間ではある意味カリスマ)のセリフがこれ。

「(オレは)那覇に来る前は、世界中放浪してたんだ。十年近く定職も住所もなかった。どの国行っても、住民登録もしなければ、税金も払わない。つらいことより楽しいことのほうが多かった。でもわかったんだよ、俺。最終的には、そういうヤツらを住民は信用しないってことさ。だから、こっちも流れ続ける。そのうちに、ああ、これは旅じゃないと気付くんだ。旅というのは、帰る場所があるヤツらがやることのことだろう。でも、俺はいつの間にか、帰る場所もなくなって、本当の放浪者になっていた。そしたらどうなると思う?」
「誰にも腹が立たなくなるんだ。どうせいつかは別れる人間だからどうでもいい、と思うと腹が立たない。ばかりか、自分にも腹が立たなくなる。だって、どうでもいいんだもの、そうだろ」

なんか、おいおい、10年もそんな状態で「どうでもいい」とこまで行くなよ、と思いつつ、読み進めると、このオヤジが言うのだ。
「でも、去年あたりから、それじゃいかんと思い始めた」

はい。ここで問題。
このオヤジが「それじゃいかんと思い始めた」理由は何でしょう?

答は……。

「好きな女が出来たから」
「相手は保母をやってる地味な女さ。俺もそれで地に足付けざるを得ないんだよ」

ああ。
こんなオヤジが目の前にいたら、ものすごーーーーくうんざりするだろうなあ、と思いつつ (いえ、話の筋にはそう関係ない話なんですが)、読み進めたのでした。
でも小説としては、主人公と一緒にどんどん巻き込まれていく感じの暴走感が、たまりませんでした。

★オタク論!(著・唐沢俊一と岡田斗司夫)

★オタク論!(著・唐沢俊一と岡田斗司夫)

私自身は、「オタク」ではないと思う(それだけの集中力がない。飽きっぽいし)。でも、男性でも女性でもオタクな匂いのする人がものすごく好きなんです。なぜかなあ。
ということで、読んでみた一冊。

オタク第一世代の方らしく、あまり狭い世界に閉じてしまわず、網羅的に色々なテーマを語ってくれているので、概論としては興味深く読めた。
へええ、と思った点は以下の通り。

・(女性のオタクについて唐沢氏の発言で) 今30代半ばを超えてコミケに出している人を見ると、犁△螢タク甅猝瓩螢タク瓩箸いμ瓩螢ツオみたいなのがいますよね。一時、オタクから離れて、結婚して普通に生活できるんだなという自信を持ったところで、もういっぺん帰ってくる、という。

・(岡田氏の発言で) ダイエット系の記事を書けば誰でもダイエットできるんじゃないか。(略)何を食べたかを書くというのはダイエットの絶対条件ですよ。 ←オタク論とは関係ないけど。これはすごくよくわかるわー。

・(唐沢氏が毎日大量の日記をブログで公開していることに関して唐沢氏自身が) 書いてるだけでこわれていく人というのは確かに多いんです。なぜかというと、人間というものは、外見ではカッコつけているんですよ。内面と外面の二重性を常に持ちながら生きているのに、日記というのはその内面を外にダダ漏れさせていくものなんですね。そこらへんをどう折り合いつけるかが公開日記の基本なんです。

さらっと数時間で流し読みできる本ですが、やっぱり今一つスリリングな気持ちで読めなかったのは、2人が仲良すぎることかしらん。
この手の対談は、もちろん、前編けんかしてる必要はないけれど、そばにいる編集者がハラハラしながら「どうやってまとめよう……」と一瞬不安になる程度に、対談者の間で緊張感が走ったり、最後まで議論が平行線になったり、それでも分かり合おうと言葉を費やしたりする場面がほしいな、と思ってしまった。

(ひきこもりに関して、斎藤環さんと「タメ塾」の工藤定次さんが対談した本があるんですが、これは本当にそういう点でドキドキハラハラさせてくれた。ものすごく考えさせられた1冊でしたっけ。私の思う「対談本」の理想型でした)。


★母恋旅烏 (著・荻原浩)

★母恋旅烏 (著・荻原浩)

何かと忙しく、とても「お楽しみのための本」を手に、読書タイムを満喫する余裕なんかないのですが。
図書館から借りたもんで、ついつい期限内に読むべく1日で読破。
(本日は電車の中も、歩いてる時も、トイレでも、階段の上り下りの時も、ずっと読んでたわ)

相変わらず、涙あり、笑いありの世界を描かせると、荻原さんはむちゃくちゃ上手です。
途中で、「忙しいし、半分くらい読んだだけだけど、図書館に返しちゃおうかな」と思ったりしたのですが、特に、話が「レンタル家族業」から「旅芸人」にシフトしたあたりからは、この家族がどんな末路を迎えるのかをただ見守りたい一心で、読んじゃったのでした。

週末の夜の数時間の読書にどうぞ、って感じの本。
読後感良し。
リラックスして眠れると思う。うん。


手が届かなかったモーツァルト

今回のピアノレッスンの覚え書き。
バッハは3声シンフォニア1、2番。
モーツァルトは引き続き、ピアノソナタ6番1楽章。

バッハは、1番を難なくクリア。さい先良し。
初めて見てもらう2番はなかなかの曲者。
1度弾いて見せたら、木曽センセ、うーんとうなった後、「Cmoll(ハ短調)の曲ですからねえ。軽くならないように弾いてほしいんです」。

それから、Amoll、Emollなどお和音を弾いてみせ、「ね? こっちは同じ単調でもなんだかメソメソしてる。でもCmollは悲劇的だけれど、メソメソしてない。もっと内面の苦しみが表現されているんです」

そんなもんかなあ、と思っていたら、
さらに木曽センセ、有名なCmollの曲のさわりを片っ端から弾き始めた。

まず、ジャジャジャジャーン。はい、ベートーヴェンの交響曲第五番「運命」ね。さらに、ピアノソナタ8番「悲愴」……。
なるほどー。そう言われれば、メソメソしてないわ。
そもそも、調の解釈からして、間違えていたのであった。がっくし。

そこからはいつもの通り、木曽センセのむちゃくちゃ細かい楽曲分析。
2小節目の7度の部分に「音楽を作る」だの、その時の左手は「天使の声のごとく浮遊性を持たせろ」だの、4小節目の2分音符は「嘆きの音」だの……。
さらに展開部の部分も、25、26小節の16分音符は「ひといきで奈落の果てまで落ちていく」音で、しかしそこから、符点四分音符で一つ一つ音階をのぼっていくさまは「意志の強さを感じさせねばならない」んだそうで……。
(お手元に楽譜がある方、ちょいと見てくださいな)。

譜読みが終わったばっかりの私は、目を白黒させながら、ひたすら付いていくだけなんだけど、それでも弾いてみると一つひとつ納得できるわけで、やっぱりこのセンセのことが好きだなあ、と思う。

次は何番にいきますか?と問われ、色々迷った挙げ句、子ども時代に一番好きだった11番を選んだ。切なげに弾ければ良いなあ〜。

で、ここからが本番。懸案のモーツァルトなのです。
四分音符=145のリズムを目指してと言われたけれど、私が、崩れず弾けるのは「=140」まで。
オーケストラの豊かな音色を意識しつつ、頑張って弾いてみたけれど、途中で集中力が途切れ、あちこち崩れながらもなんとか弾ききった次第。

木曽センセは開口一番、
「………どうしましょう?」。

いや、どうしましょう、と聞かれても、こっちこそどうしましょー、なんだけどな。
木曽センセは言うのです。
「ものすごく努力したのも分かる。本当に指も動くようになりました。最初の演奏を考えると、大変な進歩です。ある意味、おぐにさんの練習した方向ではすでに極められたと思います。最高地点にいるんです。でもねえ……」

木曽センセが黙っちゃったものだから、何となく予想がついていただけに、私が言葉を継いで差し上げた。

モーツァルト、じゃないんですよね。うん。自分でも痛感してます

そうなんだ。
音色も、響きも、音楽の世界観のようなものも、私のはちっともモーツァルトじゃない。
素直に聞いてみた。
「ここから、モーツァルトにする作業って、今の私に可能なんですか?」

木曽センセは、これまでにないほど、黙りこくってしまったうえで、「不可能じゃあありません。不可能じゃないけど……時間がかなりかかります。テクニックだけの問題ではなく、心まで全部取り替えてしまうくらいの作業が必要だから」

天からこぼれ落ちるようなあのキラキラした音色を、変化に満ちていて、おどけていて、ワクワクして、どこにたどりつくか分からない音の魔法を、自分が数週間でつかめるとは到底思えず、「だったら今はもういいです」と思わず答えていたのでした。

少し寝かせておいて。
時間をおいて。
もう一度出会い直したら、もう少しモーツァルトに近づけるんだろうか。今はまだ、ちっとも分かんないな。

ということで、急遽、次の曲を決めることになりました。
木曽センセ「何か弾きたい曲、ありますか」
私    「あるんですけどね。あまりに大それてて、笑われそうで」
木曽センセ「まさか、ショパンのピアノソナタ3番とか?」
私    「いえ、ショパンじゃあなくて」
木曽センセ「だったら、リスト?」
私    「もう、二度と、腱鞘炎にはなりたくないもんで……」
木曽センセ「まさか、ベートーヴェンの後期三大ソナタとか」
私    「そこまで私だって大それてません」

でもたぶん、ベートーヴェン、というところで私、反応しちゃったんだろうな? 
いきなり木曽センセは核心を突いてきた。

木曽センセ「じゃあ、悲愴?」
私    「……」
木曽センセ「うーん、悲愴ですかぁ」
私    「それも、あの深刻な1楽章でも、超有名な2楽章でもなく、3楽章なんです。あれが弾きたくて」
木曽センセ「へ? あ、3楽章? なら大丈夫。弾けます。うまくいけば2週間で弾ける!」

ほんまかいな。
モーツァルトに玉砕した後だけに、やっぱり微妙に心配。

ということで、早急に楽譜を入手し、悲愴3楽章に着手することになりました。
モーツァルトの方は苦手といえど、中学生のころ、ソナタを数曲弾いていたわけですが、ベートーヴェンってほんと、ご縁がなかった気がする。だから、木曽センセに教わるベートーヴェンがどんなことになっちゃうのか、かなり楽しみ。

残った素麺の活用法

本日もドジョウの唐揚げ。
うっかりしてご飯を炊くのを忘れたので、素麺を茹でた。
私はお昼に担々麺をたっぷり食べた上、夜も唐揚げにビールとなると、今夜は炭水化物は控えることにする。つまり素麺は息子1人分。でも、さすがに1束じゃあ足りないので、2束茹でた。
9歳男児は食べ盛りなのだ。

ところが。
さすがに2束は多すぎたらしい。おかずも多かったしね。0・5束分ほど残ってしまった。
「母ちゃん、食べたら」と息子。
「だめだめ、今日は母ちゃん、炭水化物を控える日なんだ。ビール飲んだし」と私。
さて、残った素麺を、どうしよう??

ウェブで検索してみたら、素麺の残りでおやつを作ろう!というのがあった。おお、いいじゃん。
一例目のレシピは、すりつぶして白玉団子風……。
すりつぶす手間にぞっとし、即、却下。

次は、油で素揚げしてスナック菓子。
ちょうど、ドジョウの唐揚げで使った揚げ油が残ってることだし、これに決定。
適当な量の素麺を取り、ねじったり、結んだりして油の中でばらけないようにして、カリッと揚げて出来上がり。ほんのり塩味もおいしいけど、ついつい砂糖なんぞを掛けた。シナモンシュガーもうまい。

うまい、うまい、うまい……と2人で一瞬にして食べ尽くした後で、あれれ?と思ったのだった。
私も息子も満腹ゆえに、素麺を残したのではなかったか?
まして私は、昼食の暴食と、夕食のビールとのバランスを計るために、素麺を食べなかったんじゃあなかったか。

油で揚げて、砂糖をかけた素麺を、
すなわち、もともとの素麺のカロリーにして何十倍もの揚げ素麺を、
なぜ親子で奪い合って食べちゃったんだろ???

でも、ほんとにおいしかったのだった。
ぜひ、試してみてください。
「おなかいっぱいでもう食べられない〜」と残したはずの素麺が、一瞬にしてお腹の中に消えてしまうこと、うけあいです。

ドジョウの唐揚げ

我が小学校で毎年恒例の「ドジョウつかみ大会」。
地元の諸団体が子どもたちのために一肌脱ぎ、おまけに消防団が放水車とともに参加し、ブルーシートで作った巨大プールに派手な放水を繰り返し、そこに何百匹 (いや、下手すりゃ何千匹、かも) ものドジョウをばらまいて、地域の子どもたちにつかませる、という行事。

保育園時代の息子は、いかにも押しが弱く、オロオロしているうちにドジョウに逃げられ、あるいはお友達に取られ、イライラした母ちゃんが参戦し、十数匹をバケツの中に投げ入れてやったのでしたっけ。

小学1年では、これまた母ちゃんのアイデアで軍手姿にて参戦。全然ドジョウが滑らないもんだから、息子も喜々として、数十匹のドジョウを捕まえたのでした。(これは今なお、水槽で健在です)。

小学2年では、「滑らないんじゃつまらないから」と息子自ら軍手作戦を拒否、正々堂々とドジョウに立ち向かい、20匹ほどゲット。
これ以上水槽で飼えないからと、唐揚げにして食べました。
ビールのおつまみにサイコー。うまかったっす。
料理するのは……怖かったですけど。

で、今年は、というと、なんとなんと、この一大イベントに仕事が入ってしまった私。でも3年生にもなると、親なんかどうでもよくって、お友達と十分に楽しんでくるのね。
仕事から帰宅すると、なんとバケツに50匹近いドジョウがおりました。なんでも、ドジョウを持ち帰ることを嫌がるお母さんたちが多いようで、「ママに持ち帰るなと言われてるから、あげるよ」とばかりにみなが息子のバケツにドジョウを寄付。
大量のドジョウが我が家に持ち帰られることになった次第。

でもねえ。
今夜は父ちゃんがお仕事で夕飯を一緒に食べられないのだ。
私と息子で何匹食べられるだろうか……。

とりあえず、バケツの水をできるだけ減らし、大量の焼酎を投入。ほんとは安物の酒でよかったんだけど、泡盛の古酒しかなかったので、ドジョウを古酒絞め、でございます。
バシャバシャと苦しんだ後、美酒の中でドジョウが御昇天。
ここに醤油と大量のショウガを投入し、バケツの中で下味をつけました。
息子が手づかみで死んだドジョウをつかみあげ、キッチンタオルで水分を取ったら、それを片栗粉入りビニール袋に投入。私がこれをカラリと揚げてできあがり。

いやはやビールがすすむ、すすむ。
それでも親子では25匹ほど食べたところでギブアップ。
まだ冷蔵庫に20匹以上いる。明日も唐揚げにしようっと。
(ほんとは、蛇などウネウネ系が大嫌いなので、怖くて箸でしかつまめないんです、私……)


白を着てこそ、の佑ちゃんだったのか!

日米大学野球のニュースで、斎藤佑樹投手を見た。
あれれ、印象が違う。
いわゆる「王子」的オーラに包まれていない。
なんか、別人みたいだ。

しばらく観察していて気付いた。
日本代表の、紺色のユニホームがいけないんじゃないか?
たぶん、王子様は、白がお似合いなのである。
花嫁の白?
純粋無垢の白?
なんかよくわからんが、クール・ビューティーとまで言われる彼の色白 (だいたい野球やってて、なんであんなに色白なんだ? 日焼け止め塗りまくっても、私はもっと色黒だぜ……)の 「王子さま顔」 は、白いユニホームにこそ映えるのである。

なーんて、どっちでもいいんですけどね。
そもそも、私は「ハンカチ王子」派ではなく、田中将大君派だし。
汗をハンカチなんかでぬぐうなよ。男ならこぶしで拭え!とか思っちゃうし。
いや、ハンカチを使う斎藤選手を批判してるわけでは決してなく、ただ、「ハンカチ王子」とか「ハニカミ王子」とか、彼らをすぐ「王子様」扱いするのは、やっぱりヤダなあ、と。

高校時代も、大学時代も、早稲田のユニホームがもしも 「白」でなかったら、彼は「王子」と呼ばれずに済んだんじゃないか、とふと思ったのでした。



40歳を過ぎたら

数日前の話なのだけど。
そうだ、書き留めておこう、と今更ながら思いついたもので。

会社の先輩記者とお茶した時、彼がしごく当たり前のことのようにこう言った。

おぐにちゃん。
あのね。
40歳過ぎたら、これまでと全然違う環境に自分を置いてみなきゃ。


私自身、近い将来、環境が大きく変わりそうな気配が実際にあって、それについての不安をふと漏らした時に、彼がこれを言ったわけで。
ああ、そういえば、と我が身を振り返ってしまった。
7年ちょっと前、私の仕事が主に原因で、息子が精神的にすごく不安定になったことがあって、それを機に、社会部を去った。
特ダネ競争のない今の部署で、目新しい仕事が楽しくて楽しくて、夢中になって仕事をしてきたけど、それももう、7年目になるんだな。

「違う環境」 にどう臨もう?
何を見つけよう?



★教室の悪魔 (著・山脇由貴子)

★教室の悪魔 (著・山脇由貴子)

まるでサスペンスのごときタイトルですが、これ、東京都の児童相談センター心理司が書いた本で、副題は「見えない『いじめ』を解決するために」。

前書きで書いているのはこんな文章。
かつては『いじめられっ子』『いじめっ子』『傍観者』という三者の構図だったが、いまは『ひとり』対『クラス全員』というのが典型的ないじめのパターンとなった。だからこそ、ひとたび学校でいじめが始まれば、子どもは『いじめられる側』か『いじめる側』か、どちらかに入ってしまう。いじめのあるクラスでは傍観者であることすら難しく、心に傷を負わないでいられる子どもはいない

いろいろな実例を挙げて、いじめとのその解決策について、心理職らしい(良い意味でも悪い意味でも)助言が並んでいます。
いくつか、書き残しておきたいことを列挙すると……。

・(いじめで)外傷を受けた子どもは、口を閉ざそうと決めている間は、何を聞いても話さないが、話してよい、話そうと思った瞬間から、ダムが決壊したかのように話し始める。(略)そして話し尽くすと再び口を閉ざす。忘れようという時期に入るのだ。だから、言葉があふれ出る時期に、徹底的に聞いておく必要がある。

・(子どもがいじめを受けているかも、と感じたら、親が)最初にやるべきことは、学校を休ませることである。(略)その際に、いじめの有無について、子どもに問いただしてはならない。被害者である子どもは必死で隠そうとしている。(略)親としては、いじめの事実を伝え、学校、担任が子どもの安全を守るべきだと思うかもしれないが、それは不可能であると言ってよい。

学校を休ませるだけでは、子どもの安全は完全ではない。加害者たちは、被害者が学校を休むようになれば、当然に自分たちのいじめが発覚したのだと思う。だから、被害者と接触しようとする。(略)だから、子どもが外出する際には、必ず同行しなければならない。友だち、クラスメイトとの接触も控えさせた方がよい。クラスメイト全員が加害者なのだということを、親は忘れてはならない。

特に、最後の1つにはぎょっとした。そ、そこまでしなきゃあいけないのか、と。

さらに著者の提案する、「いじめをなくす」までのステップは次の通り。

*子どもを休ませた上で、学校との話し合い。この時は担任だけでなく校長や副校長に同席してもらうこと。

*学校との話し合いは、「相談」ではなく、事実を伝える場にすること。学校が「調査したい。事実を把握したい」と申し出ても、親は「事実を調査してもらう必要はない。いじめがあったという事実を伝えに来た」という立場を取るべし。いじめの有無で議論になれば、泥沼化しかねない。むしろ学校と敵対関係になって、解決から遠のくだけ。

*我が子がいじめにあったら、学校に責任をとらせたくなるのは当然。しかし、責任追及をすれば、解決に向けての建設的な話し合いにはならなくなる。学校に謝罪させるだけでは意味がない。

*加害者の親とは直接話し合わないで、学校という場で校長、担任ら複数の教師を同席させる。ここでも加害者の親を責任追及してはいけない。まずは加害者の親に「いじめがあった」という事実を伝え、解決のために一緒に取り組んでもらいたいこと、今後も繰り返さないように親として責任を持ってほしいことを伝える。被害に対する責任追及のほうは弁護士などに間に入ってもらって別途進めるべき。

*加害者に事実をつたえたら、間髪入れず、クラス全員にも伝えねばならない。臨時保護者会を開き、学校としていじめがあったと判断していること、被害者以外は程度の差はあれ全員が何らかの形で関与していることも伝える。誰が何をしたかを聞いてはいけない。みな保身に走るから。むしろ「全体で行われたこと」という問題意識を共有する。そのためにも学校は「誰でも被害者になりうる。自分の子を守るためにも解決に力を貸してほしい」と言わねばならない。

*保護者会の内容を、各親は自分の子に伝えねばならない。しかし、「あなたはやったの?」などと子どもに確認してはならない。間違っても「あなたはやってないよね」などとは言わない。誰もが加害者にも被害者にもなりうる、ということから保護者はスタートすべきである。

*学校全体への周知も即座に行い、保護者と学校が一丸となってこの問題に取り組もうとしていることを子どもたちに伝えねばならない。

……だそうで。
こうなると、親に求められるのは、学校や加害者の親と向きあう時にも感情的にならず、相手を攻めず、先生の指導力のなさが背景にあると思ったとしても、あえてそれには触れず、つねに協調路線で「解決に向けての前向きな方策を一緒に探しましょう!」というような顔をするってこと?

きついなあ。それ、すごくきついと思う。
(それに、なんかものすごく日本社会っぽい解決手法って気もする)。
でも、少なくとも、相談センターの心理職に持ち込まれるようなケースの場合、これが一つの解決のためのステップということなのか……。

ちょっと考え込んでしまったのだった。

★方向音痴の研究 (著・日垣隆)

★方向音痴の研究 (著・日垣隆)

実は私、大変な方向音痴です。
小学生の時も、中学生になってもなお、1年生の最初の1週間は、誰かについて行かねば学校にたどりつけませんでした。
キャンプに行けば、オリエンテーリングの類のイベントで、方位磁石と地図片手にどんなに頑張っても、自力でゴールできたこともありませんでした。

東京で暮らすようになって10年を過ぎるのに、いまだに地図を持たずに外出したことはありません。どの駅でも必ず地図を開きます。5〜6回通った場所であっても、必ず迷うから。

おまけに人の顔を覚えるのも苦手。過去に、2時間たっぷりふたりきりで話し込み、意気投合した相手と、翌日別の場所で会ったらもう、顔を思い出せなかった、ということすらあります。

新聞記者としては、この2つの欠点はもう致命的。
いつもこの2つの欠点のことを悩んできました。

それなので。
方向音痴の研究本が出たと聞いて飛びついたというわけ。
おまけに私の中では「博覧強記のすごい人」というイメージが強い本書の著者・日垣さんが実は方向音痴だった、ということに、妙に勇気づけられてしまったのでした。

さすがは日垣さんなので、方向音痴の話といっても、「全盲の社会学者が道に迷わない理由」「ミツバチ、ハチ、イモリ、メダカ、魚など動物の脳内地図」「カーナビ開発秘話」「デジタル地図革命」と各方面から取材を展開したうえで、最終章「方向音痴のメカニズム」になだれこみます。
方向感覚質問紙や方向音痴感覚質問紙、という20項目の質問用紙が掲載されておりまして。チェックしたら、全部ダメだった〜。
(でも、日垣さんも、そうだって)

とりあえず、本書で学んだことは一つ。
時々後ろを振り返って、逆方向から通りを見渡すとどう見えるかを目に焼き付けておくと良いんだそうです。
とりあえずこれをやってみるべし、なんだろうけれど、私向きではないかも。なぜなら、私、歩く時はたいがい本を読んでいるので、前すらまともに見てないのよね……とほほ。