■ウラディーミル・フェルツマンのピアノリサイタル(紀尾井ホール)
ベートーヴェン ソナタ第8番「悲愴」
ベートーヴェン ソナタ第31番
ムソルグスキー 「展覧会の絵」
座席は1階の4列目。
チケットぴあで取ったから、その時点で「一番良いお席」を勝手にご用意されてしまうのだ。ステージに近い席になってしまう。
「あーあ、2階のほうがよかった……」とちょっと気が重くなる。
演奏開始。
「悲愴」は、先日のブッフビンダー氏のリサイタルで第三楽章をアンコールとして聴いたばかり。あの演奏が印象深くて、2日間ほど第三楽章の主題が耳をついて離れなかったのだっけ。
第一楽章。
いきなり唐突に始まった感じの和音。たっぷり聴かせるべき所は、ゆっくり目に優しく響かせて。ただ、なんか音が硬質な感じ。座席の場所のせいなのか。ま、ベートーヴェンだし、これはこれで良いのだけれど。
第二楽章は、むちゃくちゃ有名なロマンティックな緩徐楽章なんだけど、ここでまず、「あれれ」と思った。
歌い込まず、あえて何かを保ってる感じ。ピアノの音色が第一楽章とまた全然違ってびっくりした。
すごく抑えた表現で、ものすごく深いところで諦観している感じがして、普段よく聴くこの曲と表情が全然違う。
フェルツマンとはこういう人なのか、それともフェルツマンの解釈がこうなのか、よくわからない。
思い切り抑制をきかせた演奏の中で、1つの音とか3つの音とか、どこかしら大事なところで、静かに思いを込め、抑えきれなくてこぼれ出る思いを表現している感じがした。
正直言って、第二楽章だけを独立した形で、音源だけで聴いたなら、音楽素人の私なんか、今日の演奏って「は? 何がいいたいの?」で終わっちゃったと思う。
ただ、ステージに近かったお陰でフェルツマンの表情がよく見えた。だから、彼がこの楽章をものすごく深いところで、諦観をにじませて弾いていたことは、よくわかった。
「こんな曲(楽章)だったのか。知らなかったよ、私」
それが正直な感想だった。
第三楽章は、ブッフビンダーのアンコール演奏の印象が強すぎて。
明確に比較対象があるから、よくわかるけど、やっぱりフェルツマンの演奏って、諦観というか、空虚感というか、よく言えば思索的で哲学的。悪く言えば、「訴えてこない」。
では、「後期三大ソナタ」の、あの、死と向かい合うような、次の第31番で、いったい何が起こるんだ?
この後期三大ソナタは、グルダの演奏だって好きだし、でも内田光子さんの演奏も好きで、内田さんのは、去年の夏に生で聴いたばかり。
魂の震えるような、そんな演奏で、アンコールはなかったけれど、あの後期三大ソナタの後に誰かアンコールを望むだろう! というような演奏だったのだっけ。
で、第31番。
こちらは、フェルツマンも唐突に演奏を始めることなく、空を見つめ、すっと音の世界に入っていく様がみてとれた。
ものすごく大事にこの曲を始めてくれたことが、よく分かった。
高音がすごく優しげに響くんだけど、それ以外はむしろ、ついていけない感じ。哲学的な感じはするけど、それだけで、「もっと聴き手に訴えて来なさいよ!」とすごく強く思う。
第二楽章に入るとますますその気持ちは強くなった。
内田さんの毅然とした感じの演奏のほうが好きだし、「ここはもっといっちゃおうぜ!」と思うところも、極める前にすっと逃げちゃう。
第三楽章も。「どうしてここで、抑えちゃうの?」と。
聴いた側に、あまりカタルシスがない。
ある意味、バッハ的な美しさはあって、それは見事だと思ったんですが。
休憩の時、どうしても我慢できず、思い切って主催者にお願いに行った。
「今、一階4列に座ってます。どうしても、次の『展覧会の絵』の音は二階で聴いてみたいんです。どこか空いているところに座らせてもらえませんか?」
二階も、左右の席は結構空いていたのだ。
端っこのほうに座らせてはくれるだろう、と踏んではいたが、それでも、この時の主催者の方のご対応にはちょっと感動。
迷わず、ご招待席の席に変更してくれた。
二階センター1列目。やったっ!
フェルツマンの顔は遠のいたが、その分、音がちゃんと私をつかまえてくれるはず。
で、展覧会の絵。
こちらは、
ピアノの木曽センセの演奏を生で聴いているほか、4人くらいの演奏家のCDを聞き比べたりもしたから、すごく期待していたのだ。
ものすごく唐突に始まるプロムナード。
展覧会で絵を眺めながら、絵と絵の間を歩いている、そんな感じのはずだが、おいおい、速いよ、小走りだよ。
だけど。
1枚、1枚の絵についての曲を演奏するのを聴いてるうち、なんだか、ムソルグスキーが、絵の世界に引きずり込まれてしまわぬように、何かを振り払うように必死で歩いている姿が見えてきた。
「キエフの大門」で、友の魂を賛美歌で送るところも、特徴的だった。最初にロシア正教会の賛美歌の主題がこぼれ出すところでは、思い豊かに、しかし、2度目は「おいおい、音色、きつすぎ」とこっちが思っちゃうほど毅然とし過ぎる賛美歌。
うーん。
これは何なんだろう。
最後は、何か哀しみや不安やそういった感情よりも、毅然とした意志というか、半ば怒りみたいなものまで感じたのだった。
ミスタッチもいっぱいあったし、それも含めて、時折登場するプロムナードの乱暴な感じがものすごく印象に残ったのだった。
「捨てて生きる」とでも言おうか。
聞き終わった時は、なんかすごい悲しい気持ちになってしまった。
神さまと対話してるピアニストが目の前にいて、なんか見捨てられた音楽素人の私、って感じ?
だからこそ、彼が上野のリサイタルで先日弾いたというアンコール曲「献呈」(シューマン=リスト編)を聞きたかった。
そもそも、「献呈」を発表会曲に選んだことから、手当たり次第にこの曲をCD録音してる人のCDを聴きまくったのが、フェルツマンと私との出会い。
フェルツマンの「献呈」は空虚感なんかとは無縁に聞こえたんだけどな。CDだし、我が家のスピーカーの悲惨さと、自分の耳の悪さを考えると、私が分からなかっただけなのかな。
ともかく。
アンコールまで、私は心の中で念じ続けました。
「献呈。献呈。あれを弾いてちょうだい。そしたら、私もそろそろ
『自己陶酔』問題から立ち直るから」
そうなんです。
まだ引きずってたんです。
発表会が終わって2週間にもなるのに、まだ、まともに「献呈」や「アンダルーサ」を家で弾き直す気持ちになれない。
で、予定通り、バッハのシンフォニア(三声)と、モーツァルトのソナタに着手してる。まるで先祖返りみたいに、ロマン派の世界から逃げ込んだ感じ。
バッハやモーツァルトじゃあ、自己陶酔なんて絶対にできないもんね。
ところが、
フェルツマンが選んだアンコール曲は、シューベルトの楽興の時。3番かな。子どもがよく発表会とかで弾く、有名な小作品。
でも、なんと言ってもシューベルトですから。
このプログラムの流れなら、なるほど、と納得。
これを思い切りゆっくり、でも余裕を持って、乾いた感じで。
悪くはなかったし、確かに、「悲愴」「後期三大ソナタの1つ」「展覧会の絵」というプログラムのアンコールでいきなり、「あなたが好きで好きでたまんないのよ〜」系のうっとり曲「献呈」を弾けというほうが無茶だとも思うけど。
非常に思索的だとは思ったけど。
私はどちらかというと、心をわしづかみにしてくれるような演奏がやっぱり好きなので、取り残された感じの寂しい気分が残りました。
家に帰って、あんまりモヤモヤするので、すごく久しぶりに、「献呈」を自分で弾いてみました。フェルツマンが弾いてくれなかったから、自分で弾いた、というわけでもないんでしょうが。
2週間まともに弾いてないのだから、結構間違うし、タッチや音色も全然自分の思うとおりに出せなくて、ストレスフルではあったけれど、やっぱり、弾いていると気持ちよかった。
ふと思った。
この曲はそもそも「自己陶酔」系なんだ。
発表会であれほど自己陶酔しちゃったのは、そもそも「アンダルーサ」も「献呈」も、そういう性格の曲で、さらに言えば、私はそれを求めてこの2曲を選んだのではなかったのか。
「自己陶酔」は自分が最初に設定したゴールだったのではなかったか。
曲を選んだ時点で「今回の発表会のテーマはコスプレ!」と叫んだではないか。
そろそろ、気持ちに整理をつけて。
さっさとバッハとモーツァルトに邁進しよう、っと。
踏ん切りついた、夜でした。
……これってフェルツマンのお陰? ではないよな〜。