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★<想像>のレッスン(著・鷲田清一)

★<想像>のレッスン(著・鷲田清一)

人気ナンバーワンの哲学者さんの本。(それともナンバーワンは、中島義道さんだろうか。あるいは若手で東浩紀さん?)
鷲田さんは「想像」を「ここにあるものを手がかりとして、ここにないもの、つまりは不在のものをたぐり寄せる、あるいは創り出す精神の営みのこと」と定義する。
さらに、この「想像」力が今、萎えてきていると指摘する。
鉄道や自動車や飛行機が発明されて我々の足が弱ったように、情報媒体が生活のあらゆる局面をとりまく情報社会の中では、「想像」力こそが萎えてきているんだ、と。

そして「想像」は今なお、「生きる」ための最も大切な武器だともいう。
昔は都市のあちこちに、この「想像」を生む「すきま」があった、とも。
例えば、古木、寺社、場末。(ありがたいことに、私の住む町にはすべてある)。

正直に言います。全部理解できたとは申しません。おまけに、本のアンコの部分(彼のアートを素材にした「レッスン」)は、そもそも、取り上げられた展覧会やアート作品を知らないものだから、ほとんど読み飛ばし状態。
それでも、ところどころ、くいっくいっと心に残る言葉がありました。

例えば……。

90年代の若者が自分の未来について「なんか、見えちゃってる感じ」と口にしたことについて論じた章。ミュージシャンを目指すにも、「ヘビメタもパンクもエスノもテクノも生まれる前からある」
し、「音楽の限界に挑戦したラップもノイズ・ミュージックも『無音音楽』も今では懐かしい。何もかもやりつくされた」と。だから将来なんかもう、「見えちゃってる感じ」と。
鷲田さんは言う。

「見えちゃってる」、この言葉には半分の真実しかない。思い病気になる、思いも寄らぬ事故に遭う、大切なひとを突然失うといった「不幸」を視野に入れてない。誰かと出会って人生の向きがくるっと変わってしまうことも予想していない。つまり計算できない偶然というものをすべて解除したところで、未来を想っている。

結構、胸にぐさっときた。
10代、20代のころの自分には、多かれ少なかれ、こんな心性があった気がする。
「90年代の若者」だしね、まさに。

次はこんなの。

(「リバティ」以外に、)「自由」にはもうひとつ、「リベラリティ」という言葉があることを最近知った。「気前のよさ」という意味である。じぶんが、じぶんが、といった不自由から自由になること。
 「自己実現」とか「じぶん探し」というかたちで、より確固たる自己を求めるひとが、同時にひりひりととても傷つきやすい存在であるように見えるのは、無償の支えあいという、この「気前のよさ」へと放たれていないからかもしれない。(中略) じぶんの弱さに向きあうことから始める、それが、回り道のように見えるかもしれないが、いちばん必要なことなのではないか。(p24)


なるほどなあ、と思った。「じぶんが、じぶんが、といった不自由」かあ。「確固たる自己を求めるひと」は「気前のよさ」へと心が放たれていないからかあ。
渋い。すごく渋いわ。

さらに、ピアッシングや「ブルセラ少女」や「援助交際」の渦中にいた10代たちから「このからだはわたしのものであって、親のものではない。だから、これをどうしようとわたしの勝手でしょ。だれにも迷惑かけていないんだし」という言葉を聞いたことに触れ、

うすら寒くなってきた。行動そのものよりも、その行動をこういうふうに根拠付ける論理に、である。これは彼/彼女らが拒んでいるはずの「大人」の論理だからだ。じぶんのものはじぶんでどう取り扱おうが、どう処理しようがじぶんの勝手だという論理であり、(後略)(p26)

と、行動の向こう側の論理を「大人の論理」と喝破するあたり、いや、実は私はその考え方にはちと疑問もあったりするんだけど、それでもやっぱり、ふむむ、と備忘録に書き込んでしまうのだ。

p266にある「人生に『まとめ』を与えずにいられない人間の業」についての考察もおもしろかったし、p272で「『痛み』という言葉が、言葉として流通することで、痛みを置き去りにしてはいけない。孤立させてはいけない」という部分もいい。

さらに「できないということ」というタイトルの章も。p294。
「じぶん探し」「自己実現」についての考察なのだけど。

なぜ目標に近付くとか理想を求めるという言い方をしないで「自己」実現というのか。

と問う。ものすごく鋭い問いだと思う。
鷲田さんは、

ここには巧妙なすりかえがある。現にそうでないじぶん、つまり理想のじぶんのイメージを、じぶんの素質、それもまだ実現されていない素質と考え、それを実現することを妨げるような状況にじぶんは置かれている(きた)と考えてしまうのである。

と書く。
実はこの章、「強さ」や「弱さ」へのこだわりについての話を経て、最後は「支えあいの社会」まで語っちゃっていて、ものすごくおもしろいのだけど、興味のある方はご自分でどうぞ。
(ここには、ものすごく恣意的にあるテーマについて書きだしてるので、本全体のイメージはちょっと別なんですけどね)。
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プロフィール

おぐにあやこ

Author:おぐにあやこ
名前■おぐにあやこ
生年■1966年 ひのえうま
仕事■07年秋まで新聞記者。仕事を辞めて渡米。11年、新聞記者に出戻り。
趣味■読書、歌、旅
目標■ちょっと背伸びして、
 疑問符を感嘆符に変える事
苦手■勧善懲悪


著書■
▼「薬(ドラッグ)がやめられない 子どもの薬物依存と家族」(青木書店)
「ベイビーパッカーでいこう 赤ん坊とザックかついでスペインの旅」(日本評論社)
「魂の声 リストカットの少女たち」(講談社)
「いいじゃない いいんだよ 大人になりたくない君へ」(共著、講談社)
「アメリカなう。」(小学館)
「アメリカの少年野球 こんなに日本と違ってた」(径書房、ミズノスポーツライター賞)
「?が!に変わるとき  新聞記者、ワクワクする」(汐文社、読書感想画中央コンクール課題図書、高校生の部)

訳書■
「自傷からの回復 隠された傷と向き合うとき」(みすず書房)

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