記事283◆じゃりン子チエちゃんに会いたい、の記事
夏の連載企画は、ドラマやアニメのキャラクターで、今だから会いたい人物を選んで、思い入れたっぷりに書こう、という話になりまして。
■掲載年月日 2007年08月16日
■あいたくて 07夏
■昭和の主人公たち/4 チエちゃん
■「日本一不幸」でも、育った環境は「今より豊か」
アスファルトを焦がす炎天下、大阪・通天閣の街を歩く。くし揚げ、どて焼き、ホルモン焼き。開発に取り残された街並みも、昭和風情が逆に受け、今では立派な観光地だ。若いカップルがあちこちで記念撮影する。
この街を訪ねたのは、漫画「じゃりン子チエ」(作・はるき悦巳)の主人公チエちゃんに会いたかったから。働かぬ父テツに代わり、「うちは日本一不幸な少女や」とぼやきながらも、ホルモン焼き屋を一人切り盛りする小学5年生。けなげで強く、たくましかった。
舞台は「大阪の下町」。劇場版(81年)で「通天閣の見える街」という設定が加わった。通天閣の足元で、チエちゃんの残像を尋ね歩く。しかし、街で返ってくる言葉は「チエちゃん? おらへんおらへん。漫画の話や」から「大阪人は、まあ言うたら皆、チエちゃんみたいなもんや」まで。路地を1本入れば観光客は消え、漫画のままの風景が広がっているのだが、ホルモンを焼いたり、げた履きで遊ぶ小学生など、どこにも見つからないのであった。
当たり前だ。今どきの小学5年生は夏休みといえど塾通いに忙しい。いじめ自殺の相次ぐ教育現場では、何年も前から「生きる力」の教育が叫ばれてきたが、厚生労働省の研究によると「中学生の4人に1人がうつ状態」だ。ニートが社会問題となる一方で、子どもが職業体験するテーマパークが連日の大人気。こんな21世紀を、チエちゃんが見たら、なんと言う?
「アホらし。うちなんかホルモン焼いて、父親食わせてるわ」。そんな声でも聞こえてきそうだ。
■
そうか、声――。
ふと思いつき、テレビ版でチエ役の声優を務めた元参院議員、中山千夏さん(59)を訪ねた。「家計を背負い、店を切り盛りする大人びた一面と、学校での素直な普通の小学生という一面とが、チエちゃんには自然に同居していた。それは根っこに『自分』がしっかりとあるから。働くことで社会とかかわっているからこそ『自分』ができたのだろうし、『自分』があるから社会とつながってもいけた。今の子どもたちは根っこに『自分』がないから、社会に出ていけない。大人になれない。だから苦しんでいるんでしょ」
チエちゃんが今の時代にいてくれたなら。そんな思いを吐露したら、中山さんはフフフと笑って言う。「今なら学校でいじめられるかも。父親のことやげたのことで、他の子と違うからって。あるいは境遇の珍しさが面白がられ、テレビ出演させられて、視聴者のオモチャにされちゃうかもねえ」
確かに今の社会で、チエちゃん一家は前途多難だ。テツは養育放棄で児童相談所に通報されかねない。同級生の母親は「あの子と遊ばないほうが」などと言い出しそうだ。地域コミュニティーが崩れた今、チエちゃんを陰に日なたに守ってくれるご近所さんの存在も期待できない。
「チエちゃんの育った環境は今の子よりずっと豊かかも」と指摘するのは、東海学院大教授の長谷川博一さん(臨床心理学)だ。働かない父親。日常にいるヤクザや暴力。一見ひどい環境にも見えるが、「周囲の人間関係は豊かで相補的、循環性もある」と言う。
例えば、ヤクザに強いテツも、娘のチエには頭が上がらない。チエは学校教師の言うことを素直に聞くが、テツはその教師を平気で殴る。「一人も完ぺきな人物はいないが、相互に関係を保ち、小社会が成立している。ところが今の子どもは家庭でも学校でも『教えられる存在』で、人間関係は一方向。閉ざされた家庭で完ぺきを演じようとする親が子どもに完ぺきを押し付ける。子どもには息苦しい時代です」
連載開始の78(昭和53)年から約30年で、こんなにも子どもを取り巻く環境が変容したのかと嘆じていたら、かつて担当編集者だった双葉社の大沢紀寛さんがこんな話をしてくれた。「あの漫画に描かれた風景は実は昭和30年代のもの。作者が子ども時代に見た風景です。連載当時すでにげたを履いた子や家業を切り盛りする子などいなかった。チエちゃんは、当時の読者にとっても懐かしさやあこがれの対象だったのです」
■
チエちゃんの面影を探して、出会ったのは「平成のゴッド姉ちゃん」こと歌手の大西ユカリさん(43)。通天閣から徒歩1分のマンションに暮らし、新世界を拠点に、昭和歌謡からソウルミュージックまでを歌う。
「チエちゃんと私、少し似てるかも。父親は娘の私のコートを質入れした金で友だちに酒をおごるファンキーな人。私は小学4年で祖母の勤め先の和菓子屋で店番のアルバイトをしました。2時間で300円やったかな。稼いだお金で野口五郎のレコード買った時は最高やった。親も、働いて稼ぐことをほめてくれた。早く大人になりたかったもんや」
和菓子屋の向かいには、履物屋と荒物屋さん。困った時はそこの大人たちが助けてくれた。ほめたり、しかったり。「普通考えたら、チエちゃんの環境やったら子どもはグレるやろ。そやけど、あれだけの情に囲まれとったら、少々グレても心は曲がらんやろね。私は子どもがいないけど、いたら私が母にしてもらったような子育てを今もできたかなあ。子どもも変わったけど、大人も変わったもん」
どきっとした。変わったのは大人。「チエちゃん」の不在ばかりを嘆いてきたけれど、漫画に登場する大人たちもまた、今の時代には見つけにくいのかも。
ユカリさんと別れ、新世界の雑踏に放り出された。最後に見上げる通天閣。「チエちゃんは今も存在しうる」という長谷川さんの言葉がふとよみがえった。
「まず大人が変わること。チエちゃんの周囲には、子どもと対等に遊ぶ大人や、威厳のある怖い人、頼りないほど優しい人、少々の悪事を笑い飛ばしたり、時には子どもをそそのかす人まで、完ぺきでない自分を隠さない大人が何人もいた。僕らが多様に地域の子どもに向き合えば、今もチエちゃんは生きていけるのではありませんか」
◇コミック発行は2000万部超
青年コミック誌「漫画アクション」に1978〜97年の約20年間連載された。作者は、はるき悦巳さん。80年度小学館漫画賞を受賞。小説家、井上ひさし氏も一般紙の文芸時評で「絵を地の文とみなせば、この作品は近来、出色の通俗・大衆・娯楽・滑稽(こっけい)小説のひとつと言い得よう、それもすこぶる実験的な」と大絶賛。
81年春、アニメ映画化(監督は高畑勲氏)され、同年秋から毎日放送(TBS系)でテレビ番組も開始。90年代も再放送が続いた。
双葉社によると往年のファンに加え、今は若い女性にも人気で、コミック発行部数は2000万部を超えている。
通い詰めてしまいました。
渡米を前にしてなかったら、1冊の本とか、ドキュメンタリーにまとめられないか、と本気で思ったと思う。
かなりストイックな世界なのです。
今なお、彼らを応援している私です。
■掲載年月日 2007年07月26日
■男だけのチアチーム
■国内唯一、早大「SHOCKERS」
◇笑顔で「ゴー、ファイト、ウィン!」
◇野太い掛け声 汗噴く筋肉 偏見や陰口なんの
チアリーダーはやっぱりミニスカートにポンポンよね、と思っていたら、早稲田大には男だけのチアリーダーチームがあるという。それってチアボーイ? にわかに好奇心がわき、取材に出掛けたのだった。
「ジャンプ!」。
野太い掛け声とともに、青年たちが跳び上がる。すね毛の足が空中で大きく開く。盛り上がる筋肉に見る見る汗が噴き出し、そこら中に男臭さが充満する。
これは男だけのチアリーディングチーム「SHOCKERS(ショッカーズ)」の練習風景だ。早大公認サークルとして04年設立。日本の大学では唯一の男子チアチームだという。
現在1〜3年の25人。「男がスカートをはくの?」「裏声を出すのか」「男同士で気持ち悪いな」。こんな偏見や陰口も何のその。最近は認知度もアップし、学園祭や新入生歓迎会で演技すれば黒山の人だかりだ。ちなみにユニホームはオシャレなTシャツに短パン姿。もちろんスカートははかない。
初めての取材日、まず練習風景に驚いた。体育会みたいに厳しい。地味な柔軟体操や筋力トレーニングが延々と続く。おまけに週3回の練習は原則「全員参加」。海外放浪旅はおろか、ちょっとした旅行にもなかなか行けない。代表の3年、相原君(21)は「チアはチーム競技なので、一人欠けても練習が成り立たないんです」。
なぜ、数々の部活の中から「男だけのチア」を選んだのだろう。一番多いのは実際の演技を見て感動した、という人。「目立つことが好き」「変わったスポーツをやりたい」。中には男のシンクロナイズドスイミングを描いた映画「『ウォーターボーイズ』が好き」という人も。
「男がチア?」などと思いがちだが、歴史を調べてみたら、意外なことが分かった。チア発祥の地は米国の名門プリンストン大学。1880年代後半、フットボールの試合で大学の精神をみんなで鼓舞しようと応援したのが始まりで、これがミネソタ大に飛び火、次第に客の前で演技する形となったという。ミネソタ大で生まれた世界初のチアリーダー部は男ばかり6人。女性の参加はそれから数十年後の1920年代だったというから、男の汗の歴史はミニスカートよりも長いのである。
◇意識的に「ベタベタ」
取材中、あることに気付いた。彼らが男同士で妙にベタベタして見えるのだ。相手の腰や肩を軽くたたき合ったり手を握ったり。中にはふざけて抱き合うやからも。「確かに、今どきの男子大学生でこれほどベタベタし合う連中は珍しいでしょうね」。相原君もうなずいた。
しかし「ベタベタ」は意識的にやっていることで、れっきとした理由があるという。「チアは互いに気持ちを通わせ、信頼感を築かないと最高の演技に届かない。サッカーなら天才フォワード、野球なら天才投手がいればある程度勝てる。でもチアは全員がピタリとそろわないと勝てない。究極のチームワーク競技なんです」と相原君。
なるほど、彼らの「ベタベタ」はスポーツチームにおける「声出し」に近いのだろう。意識的な「ベタベタ」で集中力を高め、コミュニケーションとチームワークをはぐくんでいくのだ。そう思うと、何だか「ベタベタ」が妙にいとおしく見えてきた。
彼らの武器は男ならではの筋力だ。昨年の全国大会チア部門では女性や男女混合チームを降し、優勝した。得意技は、スタンツとも呼ばれる組み体操。人の上に乗るトップ、それを支えるベース、両方を補助し、タイミングを指示するスポット、の三つの役割に分かれる。
観客の注目は当然、トップに集まる。それゆえトップ希望者は多い。が、役割を決めるのは体重だ。軽ければ上、重ければ下、身長が高ければスポット。努力の余地のないシビアな世界だ。トップの多くが50キロ台前半。小柄な体に劣等感を抱いていたような男の子も、チアの世界では人の頭上を舞うスターへと一躍変身できる。
何度目かの取材で、部員たちに「ちょっとやってみます?」と声を掛けられた。言われるままに2人の部員の両手に片足ずつ乗った。その瞬間、体がフワリと宙に浮く。2人が私の足を持ち上げてくれたのだ。
驚いた。そこは高度約3・5メートルの世界。幾分広くなった景色を見渡してみる。爽快(そうかい)だ。それほどに高い。だからこそ、気付いた。下で支えてくれる仲間への信頼がないと、この高さからジャンプするなんて、とても怖くて到底無理だ、と。
◇ストイックで熱い世界
副代表の3年、佐藤君(21)はベースを務める。「入部時はトップがやりたかった。目立ちますから」と打ち明けるが、「今はベース役にプライドを持ってます。オレの上に乗るやつはケガをさせないってね」。
一方、トップを務める2年、新井君(19)は「人の上に乗せてもらってる限り、僕は自分にできることを必死でやろうと思う」と語る。現在体重は50キロを切るか切らないか。「食べることには罪悪感があります。数キロ太っただけでもベースに負担を掛けるから」。同じくトップの2年、西山君(19)は暇さえあればバレリーナみたいにペタンと脚を広げ、柔軟体操に余念がない。「家でもパソコンを使う時やテレビを見る時、ずっと開脚姿勢です」という。
男たちのチア。それは極めてストイックで熱い世界だった。
休日の朝、東京都内のスポーツセンターの人工芝で練習が始まった。隣は野球グラウンドとテニスコート。施設を利用中のスポーツ愛好者たちの視線が一斉に集まる。「ゴー、ファイト、ウィン!」。チア特有の掛け声とともに笑顔でポーズを決める男子大学生たちに、周囲の観客たちは最初びっくり。次に「へええ。男だけ?」とニヤニヤ。
しかし、組み体操など、高さとスピード勝負の演技練習が始まると、周囲の反応も一変する。「すごい!」。ダイナミックで大きくて、そして高い。
人の頭上で人が舞う。
一瞬、青年たちが夏空に溶けてゆくような気がした。
■掲載年月日 2007年07月23日
■来秋施行予定、被害者参加制度
■弟殺害の死刑囚と交流・原田さんに聞く
■裁判より対話の道を
刑事裁判への「被害者参加制度」の関連法案が先の国会で成立、早ければ08年秋にも施行されることとなった。これまで蚊帳の外に置かれていた被害者に、被告人への質問や求刑への意見を述べる道が開かれる。しかし、弟を殺され、それでも加害者の男と死刑執行まで交流を重ねた愛知県春日井市、会社員、原田正治さん(60)は「裁判の中ではなく、別の場で被害者と加害者が対話できる道を開いて」と訴える。
◇心の傷が生々しい時期に、二重の苦しみを生む
◇実際に会うことで、相手の気持ちが信じられた
街は今、参院選一色。
原田さんは、14年前の夏の日を今も忘れない。
1993年8月9日、初めて名古屋拘置所の門をくぐった。弟(当時30歳)に2000万円の保険金を掛け、交通事故を装って殺した男に会い、「なぜうちの弟だったのか?」を直接問いただすために。裁判は1、2審とも死刑判決。最高裁の判決も間近に迫っていた時だった。
アクリル板の向こう側に現れた男はしかし、原田さんの来訪に感激したように深々と頭を垂れ、謝罪の言葉を述べると、こう言った。「これでいつでも喜んで死ねます」。なぜだろう。この時、原田さんの口を突いたのは、憎しみや追及の言葉ではなかった。
「そんな悲しいこと言うなよ……」
■
最高裁で男の死刑が確定した後も、94〜95年に計3回、面会を重ねた。確定死刑囚は第三者との面会を厳しく制限されるが、原田さんは特例として3回だけ許されたのだ。しかし、向かい合うと話題はいつもとりとめのないことばかり。なぜか、一番問いたかった「なぜうちの弟なのだ!」という言葉は結局、最後まで口にできなかった。
それから十余年。今年6月、「被害者参加制度」の関連法案が国会を通過した。原田さんの思いは複雑だ。「人はこれを被害者救済だという。しかし、事件から間もない時期に、事実関係を争うべき裁判という場で、被害者が加害者に本当に問いたいことを問えるだろうか。思うことを言えず、結果的にさらに苦しみやしないか。この制度で本当に被害者は救われるのだろうか?」
23年前、弟の殺人事件の初公判があった。激しい緊張と憤りに心が高ぶり、被告人席の男を見ただけで殴りつけたい衝動に駆られた。高ぶる心に任せて報道陣に「極刑しかないでしょう」と答えた。「裁判所では激しい怒りに翻弄(ほんろう)され、一歩外に出ると今度はなぜかただむなしさだけが残りました」。裁判を毎回傍聴するたび、心は荒れていった。
だから思わずにいられない。被害者参加制度で、被害者はさらに傷つくのではないか。「加害者から残酷な言葉を投げつけられるかもしれない。加害者に『死んで償え』くらいしか言えず、『言えなかった言葉』を後々まで引きずるかもしれない。加害者と対面する気になれず、裁判参加を申し出なかったせいで、後々まで悔やみ続ける人もいるだろう。心の傷が生々しい時期に、裁判に参加するのはきつい。僕自身、加害者と面会する気持ちになるまでに、10年もかかったんです」
■
事件後、こんなイメージが原田さんの心に張り付いた。高いがけの下に、加害者の手で突き落とされた原田さんら被害者家族がいる。全身傷だらけだ。がけの上では、司法関係者やマスコミや世間の人が「かわいそうに」と言って、加害者とその家族を突き落とそうとしている。が、誰一人として「上に引き上げてやるぞ」と原田さんに手を差し伸べてくれない。高みの見物の人々は、がけの上から加害者を突き落とすことに夢中だから……。
約24年前の殺人事件は、原田さんと家族の人生を大きく変えた。公判の度、つかれたように裁判傍聴に行く原田さんを、職場は理解してくれなかった。「もう忘れろ」と言われ、孤立した。募るむなしさに生活は荒れ、妻子とも心がバラバラになった。ストレスゆえか脳幹出血で倒れ、仕事を辞めた。妻子は家を出ていった。
特例で許可されていた加害者との面会が一転、禁じられた時、原田さんは驚くべき行動に出た。弟を殺した男の死刑執行停止を求め、死刑制度反対運動に合流したのだ。「僕ら遺族の苦しみを、まだ彼に伝えてない。なぜ弟を殺したのか、まだ聞いてない。彼ともっと話したい。勝手に殺さないでくれ」という一念だった。
「必ずしも死刑廃止が正しいと今も思ってはいない。ただ僕は、犯人の処刑では心の平穏を得られなかった。彼には生きて償ってほしかった。善人ぶって『被害者感情を考えろ』と安易に言わないでほしい。被害者や遺族が何を望んでいるかは、一人ひとり違う。僕らがどんな思いでいるのか、本気で耳を傾けてくれた人はいますか?」
■
事件から四半世紀近くになるこの夏、原田さんは新しい一歩を踏み出した。市民団体「Ocean 被害者と加害者との出会いを考える会」を設立。殺人被害者遺族として、被害者や遺族を支えたいという。修復的司法の実践が進む米国の団体「人権のための殺人被害者遺族の会」の存在を知り、日本支部として同会を作った。
これまでも、数人の被害者遺族が加害者と面会するのを支援してきた。「僕自身、加害者からもらった200通近い手紙よりも、実際に会うことで、相手の気持ちが信じられた。彼が遺族である僕と誠心誠意向き合おうとしてくれたことが、誰からの慰めより、司法的な処罰より、僕に何かをくれた」。それが「癒やし」だったのか、実は今も分からない。ただ「対話することで、加害者はより償いの思いを深くし、被害者は少しでも傷を癒やすことができるのでは」と思わずにいられない。
「彼を許したのですか?」と問うたら、原田さんはきっぱりと答えた。「許せるわけない。彼の死刑執行から6年。法務省にも社会にとっても事件は終わったのでしょうが、僕には何も終わっていない。家庭が壊れ、病になり、職も失い、それでも生きている。一生引きずっていく。一人でね」
2年後、裁判員制度が始まれば、裁判員に選ばれるかもしれない私たち。原田さんの言葉がただ、胸に重かった。
■ことば
◇被害者参加制度
05年末に閣議決定された犯罪被害者等基本計画に被害者の刑事裁判への直接関与が盛り込まれたのを受け、法相の諮問機関・法制審議会が法案をまとめた。本人か配偶者や親子、兄弟姉妹などの親族が「被害者参加人」になれる。対象事件は殺人、強姦(ごうかん)、逮捕・監禁、誘拐のほか、業務上過失致死傷など。質問などは弁護士が代理でもできる。
地元版には、全国版にはないエピソードを一つ添えました。
マー君が、これまでに一番心に残っている試合を、なんと答えたか、です。決勝再試合、じゃあないんですよね。いい話です。読んでやってください。
■掲載年月日 2007年07月21日
■プロ野球:オールスターゲーム いよいよ登場!!
■田中将大投手の素顔 /宮城
◇常に挑戦者魂で
◇気持ちを表に、と意識してんです
◇下の者が上の者を倒すのが本当に楽しいんです
◇ライバルっすか? いないっすね
ハンカチ王子、ハニカミ王子……王子ばやりの今だから、こぶしで汗をぬぐう男臭さが妙にうれしい。プロ野球・楽天イーグルスの田中将大(まさひろ)投手(18)である。20日から始まったオールスター戦のファン投票でもリーグ先発投手部門1位に選ばれた「背番号18」の素顔に迫った。
「正直に言っちゃっていいですか?」。
田中投手はいたずらっぽく笑った。
「早稲田大の斎藤佑樹投手とセットで語られるの、嫌じゃないですか?」と私が尋ねた時のこと。
彼は真顔で答えた。「正直イヤです」
プロ球団と大学。別の道を歩んだ今なお、メディアは「希代のライバル」と書き立てる。何しろヒーローにライバルは欠かせない。星飛雄馬に花形満。矢吹丈に力石徹。敵が強いほどスポーツドラマは盛り上がる。しかし本人は淡々と「ライバルっすか? いないっすね。あまり意識しないんで、中学、高校でもライバルがいるって思ったことないですね」。ちょっと意外な言葉なのだった。
中学生硬式野球クラブチーム「宝塚ボーイズ」で田中投手を指導した奥村幸治監督は「将大らしい答え。相手の良いところを素直に認め、盗んでやろうと思うタイプだから、誰かをライバルだと意識しない。『おれは負けない』と思うだけなんですよ」。
ただし田中投手はこうも言う。「斎藤に甲子園と国体の決勝で負けて、ある意味良かったんかな。自分が一番上で終わってるよりかは、負けて、結果としては僕のほうが下なんで」
なぜか。「いつも挑戦者であり続けたいから」だ。
■「吾郎」にあこがれ
マー君人気を決定付けたのは楽天が指名交渉権を得た時の記者会見だろう。「新しい野球人生のスタートを楽天イーグルスで始められることになってうれしい。これからは本当に挑戦者の立場でできる」。この田中投手の潔さに多くのファンが感動した。「意中の球団は別にあったろうに。男の中の男だ」と。
しかしあの言葉、本当に本音だったと彼は言う。「2年連続最下位のチームに入れるってことで、本当の意味でまたチャレンジャーになれるって思って。下の者が上の者を倒すのが、自分は本当に楽しいんです」
高校進学時もそうだった。今でこそ夏の甲子園連覇を果たした駒大苫小牧高だが、彼が中学3年だった03年当時は、甲子園で1勝もしていなかった。「入学した時、自分たちは本当の意味でチャレンジャーだった。しかし、甲子園で優勝しちゃってからは自分の気持ちをチャレンジャーというふうに作っていくのは難しかった」と打ち明ける。彼にとって楽天入りは、再び挑戦者になれる好機だったのだ。
彼に似ていると言われるのが、少年サンデー連載の野球漫画「MAJOR」の主人公「吾郎」だ。豪速球を武器に弱小チームを率い、強豪チームに挑むというストーリー。実は田中投手も大好きで、相当影響も受けたらしい。「吾郎は本当にすごい。あこがれる。根っからのチャレンジャーやと思うんです!」
ちなみに吾郎は高卒で単身渡米。マイナーリーグからメジャーに挑んだ。この漫画の作者、満田拓也さんは「兵庫、北海道、仙台とどこでも野球に集中できる田中君の性格はメジャー向きかと思います。駒大苫小牧に続いて、楽天を日本一に導いた後、ぜひメジャーにも挑戦してほしいですね」と語る。
■「ホンマかいな」
座右の銘は「気持ち」。高校時代、グラブに入れた刺しゅう文字は「気合い」「気持ち」「気迫」。楽天の野手からも「マウンドに立つ後ろ姿にオーラを感じる」などと言われている。「自分でも気持ちを表に出してやろうと意識してんです。守ってる野手たちを『よしオレも!』と勢いに乗せたいと思って。自分が流れを変え、引き寄せてやると思って投げている」
なんと。あの気迫は意識してのものだったのか。マウンドでほえる時も、内心は意外とクールだったりして……?
球宴を前に巨人の小笠原道大(みちひろ)選手らが会見で「パ・リーグのファン投票1位の投手(田中投手のこと)を打ちたい」と答えたことについても、当の本人は「本当にそんなふうに意識してもらってんのかなあ。リップサービスっていうか、ホンマかいな」。球界きっての強打者の宣戦布告に舞い上がりもしない。
中学時代の恩師、奥村さんは証言する。「実はむちゃくちゃ冷静な子です。マウンドでほえても次の瞬間には第三者的な目で自分や周囲を見てる。だからゲームを作れる。ただの熱いヤツじゃない」
気になることがもう一つ。彼は泣かない。甲子園再試合で負けた時、号泣するナインを抱きかかえながらも自分は泣かなかった。奥村さんによると、中学最後の試合に負けた時も仲間が泣く中、彼は泣かなかったそうだ。「すがすがしい顔をしてました。やるべき事をやった満足感だったんでしょうか」
デビューした3月のソフトバンク戦で打ち込まれ、二回途中で降板後、タオルで顔をぬぐった姿を「マー君、泣いた!」と報道されたことはあった。が、彼は「泣いてないんですよ。本当に悔しくて、暑くて、すごい汗も出てて、はああああぁ!って顔をふいたら、ああいう映像になっちゃって」と抗弁するのである。
■「マー君」の真実
野球人生で一番心に残る試合について尋ねた。甲子園決勝再試合か、それともプロ入り初勝利か。しかし答えは意外だった。「青森山田戦です」
昨夏の甲子園3回戦、田中投手は先発しなかった。駒大苫小牧の香田誉士史監督は、ほかの選手たちが田中投手に遠慮しているのを見て取り、あえて先発から外した。誰かのワンマンチームではなく、全員野球を取り戻すために。
4点リードされた後、継投した田中投手も2点を取られ、一時は6点差まで突き放された。しかし、最終回で追いつき、延長戦でサヨナラ勝ち。「あの試合はみんなの力を一つにして勝てた。それがすごく……楽しかったんです」
こんな田中投手がプロ入りに際して一番案じたのが人間関係。「どうなるんかな、うまくやっていけるんかな、と怖かった」。実際、入団当初は「マー君、マー君」と子ども扱いされたこともあったらしい。「でも結局、彼は力を見せることで受け入れられました。素直で明るいから年上にはかわいがられます」と球団関係者は言う。
今夜は仙台での夢の球宴。フルキャストスタジアム宮城のマウンドで、ほえる姿が楽しみだ。
最後の部分を文字にしたことは、社内でも賛否両論。
一応、仙台県版には、別のエピソードを載せました。
■掲載年月日 2007年07月19日
■楽天イーグルス・田中将大投手の素顔
■常に挑戦者魂で
ハンカチ王子、ハニカミ王子……王子ばやりの今だから、こぶしで汗をぬぐう男臭さが妙にうれしい。プロ野球・楽天イーグルスの田中将大投手(18)である。20日から始まるオールスター戦のファン投票でもリーグ先発投手部門1位に選ばれた「背番号18」の素顔に迫った。
「正直に言っちゃっていいですか?」。
田中投手はいたずらっぽく笑った。
「早稲田大の斎藤佑樹投手とセットで語られるの、嫌じゃないですか?」と私が尋ねた時のこと。
彼は真顔で答えた。
「正直イヤです」
プロ球団と大学。別の道を歩んだ今なお、メディアは「希代のライバル」と書き立てる。何しろヒーローにライバルは欠かせない。
星飛雄馬に花形満。
矢吹丈に力石徹。
敵が強いほどスポーツドラマは盛り上がる。
しかし本人は淡々と「ライバルっすか? いないっすね。あまり意識しないんで、中学、高校でもライバルがいるって思ったことないですね」。ちょっと意外な言葉なのだった。
中学生硬式野球クラブチーム「宝塚ボーイズ」で田中投手を指導した奥村幸治監督は「将大らしい答え。相手の良いところを素直に認め、盗んでやろうと思うタイプだから、誰かをライバルだと意識しない。『おれは負けない』と思うだけなんですよ」。
ただし田中投手はこうも言う。「斎藤に甲子園と国体の決勝で負けて、ある意味良かったんかな。自分が一番上で終わってるよりかは、負けて、結果としては僕のほうが下なんで」
なぜか。「いつも挑戦者であり続けたいから」だ。
■「吾郎」にあこがれ
マー君人気を決定付けたのは楽天が指名交渉権を得た時の記者会見だろう。「新しい野球人生のスタートを楽天イーグルスで始められることになってうれしい。これからは本当に挑戦者の立場でできる」。この田中投手の潔さに多くのファンが感動した。「意中の球団は別にあったろうに。男の中の男だ」と。
しかしあの言葉、本当に本音だったと彼は言う。「2年連続最下位のチームに入れるってことで、本当の意味でまたチャレンジャーになれるって思って。下の者が上の者を倒すのが、自分は本当に楽しいんです」
高校進学時もそうだった。今でこそ夏の甲子園連覇を果たした駒大苫小牧高だが、彼が中学3年だった03年当時は、甲子園で1勝もしていなかった。「入学した時、自分たちは本当の意味でチャレンジャーだった。しかし、甲子園で優勝しちゃってからは自分の気持ちをチャレンジャーというふうに作っていくのは難しかった」と打ち明ける。彼にとって楽天入りは、再び挑戦者になれる好機だったのだ。
彼に似ていると言われるのが、少年サンデー連載の野球漫画「MAJOR」の主人公「吾郎」だ。豪速球を武器に弱小チームを率い、強豪チームに挑むというストーリー。実は田中投手も大好きで、相当影響も受けたらしい。「吾郎は本当にすごい。あこがれる。根っからのチャレンジャーやと思うんです!」
ちなみに吾郎は高卒で単身渡米。マイナーリーグからメジャーに挑んだ。この漫画の作者、満田拓也さんは「兵庫、北海道、仙台とどこでも野球に集中できる田中君の性格はメジャー向きかと思います。駒大苫小牧に続いて、楽天を日本一に導いた後、ぜひメジャーにも挑戦してほしいですね」と語る。
■「ホンマかいな」
座右の銘は「気持ち」。高校時代、グラブに入れた刺しゅう文字は「気合い」「気持ち」「気迫」。楽天の野手からも「マウンドに立つ後ろ姿にオーラを感じる」などと言われている。「自分でも気持ちを表に出してやろうと意識してんです。守ってる野手たちを『よしオレも!』と勢いに乗せたいと思って。自分が流れを変え、引き寄せてやると思って投げている」
なんと。あの気迫は意識してのものだったのか。マウンドでほえる時も、内心は意外とクールだったりして……?
球宴を前に巨人の小笠原道大(みちひろ)選手らが会見で「パ・リーグのファン投票1位の投手(田中投手のこと)を打ちたい」と答えたことについても、当の本人は「本当にそんなふうに意識してもらってんのかなあ。リップサービスっていうか、ホンマかいな」。球界きっての強打者の宣戦布告に舞い上がりもしない。
中学時代の恩師、奥村さんは証言する。「実はむちゃくちゃ冷静な子です。マウンドでほえても次の瞬間には第三者的な目で自分や周囲を見てる。だからゲームを作れる。ただの熱いヤツじゃない」
気になることがもう一つ。彼は泣かない。甲子園再試合で負けた時、号泣するナインを抱きかかえながらも自分は泣かなかった。奥村さんによると、中学最後の試合に負けた時も仲間が泣く中、彼は泣かなかったそうだ。「すがすがしい顔をしてました。やるべき事をやった満足感だったんでしょうか」
デビューした3月のソフトバンク戦で打ち込まれ、二回途中で降板後、タオルで顔をぬぐった姿を「マー君、泣いた!」と報道されたことはあった。が、彼は「泣いてないんですよ。本当に悔しくて、暑くて、すごい汗も出てて、はああああぁ!って顔をふいたら、ああいう映像になっちゃって」と抗弁するのである。
■「マー君」の真実
こんな田中投手がプロ入りに際して一番案じたのが人間関係。「どうなるんかな、うまくやっていけるんかな、と怖かった」。実際、入団当初は「マー君、マー君」と子ども扱いされたこともあったらしい。「でも結局、彼は力を見せることで受け入れられました。素直で明るいから年上にはかわいがられます」と球団関係者は言う。
ところで、「マー君」という呼称が世に広まるきっかけを作ったのは「ハンカチ王子」こと斎藤投手だ。日米親善高校野球でチームメートとなった斎藤、田中両投手が、記者会見で「お互いに何と呼んでるの?」と質問され、まず斎藤投手が「マー君」、田中投手が「佑ちゃん」と答えたのだ。
しかし、田中投手は言う。「実は『マー君』なんて言われてなかったんですよ。斎藤には。(斎藤投手が「マー君」と答えた時は)僕も驚いて『えー、言ってないやんか』と。それで僕もあんまり呼んでなかったけど『佑ちゃん』、みたいな……」
「あんまり書かないでくださいね」と言われたけど、書いちゃった。
ごめん、田中君。そのかわり、オールスターは応援に行きます。
夕刊特集面では掲載できそうもなかったので、生活家庭面で掲載していただきました。
■掲載年月日 2007年07月15日
■自傷する若者を写真集に
■テーマは「生きる」
■「特殊な人たちと思わないで」
若者に広がるリストカットを撮り続けてきた写真家、岡田敦さん(27)が写真集「I am」(赤々舎、2940円)を出版した=写真。「何か特殊な人たちの写真と思わないで。テーマの入り口は自傷でも、僕が撮りたかったのは生きることそのものだから」と岡田さんは語る。
写真集に登場するのは高校生から20代前半までの約50人。インターネットを通して自傷経験者ら約100人から応募があった。「僕は中3で周りには誰もいなくていつもひとりぼっちで消えてしまいたいと思っています」「私は14歳。リストカット、社会不安、アルコール、薬物依存、不登校……。私は壊れた人形」。誰もが撮られることで変わろうとしているように見えた。
多くの子が自傷を親や周囲に打ち明けられずにいた。撮影後、「隠してきた傷跡を光に触れさせてあげられてうれしい」「生きるための一歩になった」などのメールも届いたという。
岡田さんと自傷との出合いは大学時代。友だちの自傷を身近なテーマとして自然と撮り始めた。02年には生気のない子どもの表情をテーマにした作品「Platibe」で第4回富士フォトサロン新人賞を受賞、評価を得た。しかし翌03年、自傷がテーマの写真集「Cord」を発表すると周囲の反応は一変。「イメージが悪くなる」と写真展開催やカメラ雑誌への掲載も断られた。
自傷へのタブー視は今なお強いが、岡田さんは「外国の戦争の生々しい写真には関心を寄せるのに、なぜ国内の若者の現実から目を背けるのか。勇気と覚悟を持ってモデルになった若者の思いを黙殺しないで」と語る。
写真集の最初には自傷経験のある妊婦を、最後には自傷跡だらけの腕の女性と固く手を結ぶ男性の写真を配した。表紙には、本を手に取る人の顔を映す鏡のような紙。「自傷者とあなたの顔とはそんなに違いますか。僕もあなたも彼ら彼女らも、同じように生きている」。そんな岡田さんの思いが込められている。
◇10〜20代に広がる自傷
孤独や不安、怒りなどをやりすごすため身体の一部を傷つける「リストカット」などの自傷行為は10〜20代を中心に広がっている。
国立精神・神経センター精神保健研究所の松本俊彦医師らのグループの調査(04年)では、ある私立女子高2年生126人の14・3%、別の公立中学校2、3年では女子238人の9・3%、男子239人の8・0%にそれぞれ刃物での自傷経験があった。
記事の最後の一行は、デスクに削られた部分。
ここで復活させちゃいました。すんません。
■掲載年月日 2007年06月26日
■苦行だが大人気、ビリーのDVD
■脂肪を燃やせ トークで魅了
軍隊式訓練を取り入れたエクササイズDVD「ビリーズブートキャンプ」(4枚組み1万4700円)と考案者ビリー・ブランクスさん(51)が大人気だ。20日の来日以来、テレビやラジオで引っ張りだこ。ダイエットの王道は「楽にやせる」はずなのに、なぜ苦行のような運動がうけるのか?
「君たちの力をオレに見せてくれ」
「あきらめるな」。
筋肉隆々の褐色の肌を汗で光らせ、ビリーさんが叫ぶと、そのたび会場の参加者から歓声が上がった。ロックコンサートのごとき盛り上がりぶり。約1時間の運動の後、全員で「ビクトリー!」と気勢を上げた。中にはハイタッチし、抱き合う人も。
東京都内で24日に開かれた来日イベントの一幕だ。参加者はDVD購入者から抽選で選ばれた1日2回計400人。20〜30代中心で、夫婦やカップルの参加も目立つ。
DVDは昨夏、「7日間集中ダイエット!」と銘打って発売された。芸能人がテレビで物まねしたり「私もやってます」と告白したことで知名度がアップ。5月だけで20万セットを売ったとも言われている。ビリーさんは元全米空手チャンピオン。米陸軍で訓練プログラムを指揮したことも。「ブートキャンプ」は新兵訓練基地の意味だ。
軍隊式だけあって極めてハード。それがなぜ大ヒットしたのか。「『疲れたら休んでもいい。でもあきらめるな』というDVDの中の彼のセリフがいい」(34歳女性)▽「『痛みなくして得るものなし』は名言。人生前向きになった」(24歳女性)など、多くのファンが彼のセリフの魅力を挙げる。
DVDで、ビリーさんは間断なくしゃべり続ける。
「考え方を変えるんだ」「自分に負けるな」など人生訓も多い。このトークに、つい乗せられてしまうらしい。
イベントで「力は君たちの手中にある」などと語りかけるビリーさんの姿に、「道徳の授業みたい」と感想を漏らした参加者も。
一方、「画面に出演者が多いので、一人でやっている感じがしない」(25歳男性)、「『グッドジョブ』とほめられるとブートキャンプの一員になれた感じ」(31歳女性)など、不思議な「一体感」を指摘するファンも多い。DVDでのビリーさんの決め文句は「オレについてこい」だ。
では、ダイエット効果はどうなのか。39歳の男性は「1カ月でウエストが7センチ減った」。しかし、スポーツ医科学専門の大野誠・日体大教授は「メタボ予備軍の中高年にはハード過ぎる。むしろ夕飯と酒の量を減らすことが一番」と話す。
うーん。私はやっぱり、生ビリーより生ビールがいいな。
■掲載年月日 2007年06月12日
■愛すべき「裸の大将」、10年ぶり、お茶の間に復活
■無欲が、魅力なんだな
「放浪の画家」「日本のゴッホ」と呼ばれた山下清さんが10年ぶりにお茶の間に戻ってくる。故芦屋雁之助さんの主演で17年間続いたテレビドラマ「裸の大将放浪記」が今夏、リメーク放送される。清さんが亡くなってからすでに36年。放浪自体は半世紀も前の話というのに「裸の大将」はなぜ今も日本人の心に愛されるのだろうか。
□人情メルヘン
今夏放送予定のフジテレビ系ドラマ「裸の大将 放浪の虫が動き出したので(仮題)」で、清役を演じるお笑いコンビ「ドランクドラゴン」の塚地武雅さん(35)を東京都世田谷区のスタジオに訪ねた。撮影中の塚地さんは「裸の大将」のトレードマークのランニングシャツに半ズボン姿。清さんの体形をさらに誇張したような見事な太鼓腹を揺すり、「この体形を保っていてよかった」としみじみと言った。
塚地さんは子ども時代、ドラマ「裸の大将」を見て育った。「主人公が線路を歩く姿にあこがれ、小学生の友達の家まで線路づたいに歩いたっけ」。清さんの<放浪>が好きだったという。「本当は誰だって逃げたい時がある。僕もそう。でも世間の常識やしがらみに縛られ、できない。だから自由に放浪する姿に、あこがれてしまう」
前作にもかかわり、今作の牽引(けんいん)役でもある東阪企画プロデューサーの内丸摂子さん(38)は「『番組を復活させて』という視聴者の声は途切れずありました。再放送を見た10代の女の子から『父と一緒に見た唯一のドラマ』と聞かされ、絶対に復活させようと思ったんです」。
しかし、半世紀も前の放浪記が今の視聴者に果たして受け入れられるのか。内丸さんは「映画『三丁目の夕日』や『フラガール』の成功を見るまでもなく、むしろ今こそ『裸の大将』という人情メルヘンが求められているはず」と断言する。
清さんの関連書籍は今もじわじわと増刷が続く。死去から20年以上後の90年代に出版された「ヨーロッパぶらりぶらり」「日本ぶらりぶらり」(山下清著、ともにちくま文庫)は合計5万5000部を超えた。「山下清のすべて」(00年、サンマーク出版)の担当編集者は「年配者向けを想定していたが読者層の中心は20〜30代だった。雁之助さんのドラマすら知らない若者や若い母親たちが『感動した』と言う」と不思議がる。
内丸さんは語る。「『男はつらいよ』の寅さんには『女にもてたい』という欲があり、それが人間らしい魅力だった。一方、裸の大将は『おにぎりがほしい』という以外は無欲な存在。それが現代人が忘れかけたものを思い出させてくれるのかも」
□「水そそげ」
清さんが張り絵を学んだ千葉県市川市の知的障害児施設「八幡(やわた)学園」を訪ねた。「暖かくなると清さんが浴衣を干し始め、職員たちは『そろそろかね』とささやき合った。ある朝やっぱり清さんは旅立っていたそうです」。久保寺玲園長(51)が、初代園長夫人だった祖母から聞いたエピソードだ。
学園の展示室には、清さんと同時期に入園していた当時の園児たちの絵が展示されていた。戦災孤児で右目が見えなかった石川謙二さんは、言葉も発さず文字も書けなかったが、100点以上のクレパス画を残した。虐待を受けて育ち、重い障害のあった沼祐一さんの作品はポップで大胆。清さんら園児の作品を初めて世間に紹介した早稲田大心理学教室教授(当時)の戸川行男さんも「衣服を裂いたり、ボタンを引きちぎったり」する沼さんに「絵が描けるなど、誰も想像しなかった」と書いている。「清さんより重い障害を持ちながらも同じように素晴らしい作品を残し、10〜20代で夭折(ようせつ)した園児たちがいたことを、もっと多くの人に知ってほしい」と久保寺園長は言う。
静岡市清水区在住の松岡さん(70)は、46年前、清さんの展覧会事業に身を投じ、清さんともよく行動を共にした人だ。今は石川さんや沼さんらの絵画展も企画する。「彼らの絵を通して子どもたちの可能性を信じ、育てることの大切さを伝えたい」と熱っぽく語る。
学園の玄関に建つ石碑には「福祉」という言葉すら存在しなかった時代に初代園長が掲げたという「踏むな 育てよ 水そそげ」の標語が刻まれていた。
□時代を超えて
放浪と緻密(ちみつ)で素朴な張り絵に加え、人々の心をつかんだのが、清さんの言葉だった。「兵隊の位で言えば……」は流行語にもなった。花火が好きで、亡くなる前の最後の言葉は「今年はどこの花火に行こうかな」。花火といえば、こんな言葉も残る。「みんなが爆弾なんかつくらないで、きれいな花火ばかりつくっていたら、きっと戦争なんて起きなかったんだな」
無垢(むく)で無欲な放浪画家――それが人々が愛した山下清像だった。一方、清さんと11年間同居したおいの浩さん(46)は「清は虚像とのはざまでジレンマも抱えていた」と打ち明ける。「周囲がおもしろいことを言うのを期待しているから、それが時々つらいな」と漏らしたのを今も忘れられない。
それでも浩さんは最近、ドラマの「裸の大将」は虚像でも構わないと思えるようになった。「人々がひかれるのは、清の存在だけでなく、彼の放浪を受け入れた当時の日本の社会ではないでしょうか。握り飯を求め歩く男に食事を与え、雇う人たち。性善説の時代です。今では不審者と騒がれ通報されて終わりでしょう。私は清をお笑いネタにせず愛すべき存在として描いてくれるなら、本人とかけ離れていてももう構わないと思う」
ふと、作家の小沢信男さんの著書「裸の大将一代記」(筑摩書房)の一節を思い出した。
<山下清という存在は、時と処(ところ)をこえて多様な人々の、夢や願いを盛りこむことのできる、自在な器でもあるらしかった>
私たちは半世紀を経てなお「裸の大将」の放浪や生き方に、郷愁やあこがれや希望を重ねてしまうんだな。やっぱり――。
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◆「日本のゴッホ」2度の放浪
◇やました・きよし
1922年東京・浅草生まれ。11歳で八幡学園に入所し、張り絵を学んで才能を開花させた。17歳で開いた個展には人々が殺到し、画廊の床が抜けたというエピソードも。
1940年、18歳で放浪が始まった。線路づたいに街から街へ。「みなしご」とウソをつき、食事や雇い口を求めた。3年後、ふらりと舞い戻ると、学園で放浪日記をつづり、張り絵を作った。51年、29歳から3年間、今度は北海道から屋久島まで全国を放浪。「日本のゴッホ、今どこに?」と新聞に報じられて人気が再燃した。放浪日記が映画化、舞台化され、一大ブームに。
放浪をやめてからは家族と暮らした。71年夏、49歳で逝去。その後も雁之助さん主演のドラマ「裸の大将放浪記」(80〜97年)が大ヒット。放浪先で、いがみ合う人々に分け入り、人情を呼び覚ます「水戸黄門」のごとき姿が愛された。
■掲載年月日 2007年04月24日
■しあわせ食堂
■舘野泉さんの 「ロールキャベツ」
◇お袋のが最高−−残ったスープ、ご飯にかけて
僕は終戦を8歳で迎えました。思い出深い食べ物はすいとん、という世代です。中学生になって、食卓も少し豊かになってきたころ、母が作ってくれたのがロールキャベツでした。
当時はロールキャベツなんて名前も知らず、我が家では「キャベツ巻き」と呼んでいました。母の手料理の中で一番好きでした。キャベツの中身も味付けも忘れてしまったけれど、でも覚えていることが一つ。それは本当においしかったこと、うれしかったということ。「キャベツ巻き」を食べた後、残ったスープをご飯にかけて食べたなあ、という遠い記憶です。
ところで、ロールキャベツがその後も長く僕の好物になったかというと、そうでもない。大学卒業まで、母のロールキャベツがあんなに好きだったのに、家を出た途端、外食でロールキャベツを食べることは一度もありませんでした。もう40年来暮らしているフィンランドでも、食べませんねえ。やはりロールキャベツはお袋のでないと。
母はピアニスト、父はチェリストでした。僕は読書や空想に夢中になると、どこか別の世界にいってしまうような子どもでした。母は、よく小学校の担任の先生から呼び出しを受けたそうです。「お子さんが習字をするといつも紙からはみ出す」などとね。でも、お袋はそのことで一度もしからなかった。むしろ「いいじゃないの。はみ出すくらいのほうがおもしろくて」と。あとは何も言わずにいてくれた。
ピアニストとして演奏生活40周年のツアーを終えた翌年の02年1月、リサイタルの舞台で倒れ、脳出血で右半身がまひしました。思うように動かない右手。ピアノが弾きたい、でも弾けない、の繰り返し。
音楽仲間はみな同じことを言いました。「ラベルの『左手のためのピアノ協奏曲』があるじゃない!」と。僕を案じたゆえの言葉と分かっていても、つらくてねえ。「死んでも左手のための曲など弾くものか!」と思った時期もありました。
ところがその年の10月、日本に帰国し、自宅でピアノをたどたどしく弾いていたら、母がしみじみと言うんです。「下手だねえ」と。思い悩んでいた僕は、母の一言に思わず笑ってしまいました。こんな言葉を僕に言える人は、やはりお袋だけでしょうね。
04年、僕は左手で演奏活動を再開しました。両手でも、片手でも、音楽の豊かさに違いはない、と気づいたからです。左手だけでも、充実した素晴らしい音楽の世界が花開き、香る。そう実感できた時、僕は再び生きる喜びを見いだしました。
僕が左手による演奏活動を始めた時も、母はやはり特に何も言いませんでした。「左手だけで大変ねえ」とも「左手? 変わったことするね」とも。そういうところは昔と同じ。きっと、僕の「左手の音楽」を、ちゃんと音楽として認めてくれたからだと思います。
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■ごちそうさま(取材を終えて)
お母様の手料理で一番好きだったロールキャベツを、外食では一切食べなかった、というお話が心に染みた。遠い記憶に刻まれた懐かしい味は、二度と手の届かないものなのだろう。実は私、舘野さんの透明感あるピアノの音色の大ファンなのだ。握手していただいた。優しく温かい右手に感激。
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■人物略歴
◇たての・いずみ
ピアニスト。1936年東京生まれ。東京芸大卒。64年よりフィンランド在住。演奏会は3000回を超え、100点近いCDを発表。最新盤は「アイノラ抒情曲集 吉松隆の風景」。07年公演はジャパン・アーツぴあ(03・5237・7711)。
■掲載年月日 2007年04月18日
■あなたは今、孤独ですか。
■哲学者、鷲田清一・大阪大副学長
あなたは今、孤独ですか?
「僕? 孤独ではない。でも孤独を感じることはある。そんなの当たり前でしょ」。哲学者、鷲田清一(わしだきよかず)・大阪大副学長(57)は飄々と言う。今回のテーマは「孤独」。身近で深遠なるこの問題を、思い切り「哲学」してもらおうというのである。
まずは国連児童基金の調査データから。「孤独を感じる」と答えた15歳は、先進・主要国でも日本は29・8%でトップ。2位のアイスランド(10・3%)以下、フランス(6・4%)、英国(5・4%)と大差を付けた。日本の子どもは世界で一番孤独なんだろうか。
「孤独って感じるもの。一人の時に『私は私』と思うか、仲間外れにされたと思うか。日本の子は孤独というより、人から見捨てられることに弱くて敏感。孤独は英語でソリチュード(solitude)。つまりソロでいること。でもバイオリンのソリストを見て孤独と思う?」
いいえ、すごいなあ、と。
「そうでしょ? ところが日本では『ソロでいる=ソリチュード』を『独りぼっち=アローン(alone)』と同様、ネガティブに受け止める人が多いんですよ」
鷲田さんはその理由を、欧州諸国と日本との社会的背景の差に求める。「封建時代には家柄、身分、性別などの条件が人生をほぼ決めた。このくびきを否定し、本人の力で人生を選べる平等な社会を目指したのが、近代化です。後発の日本は今、欧州より近代化を突きつめてしまった。生まれにかかわらず、自由に職業選択できる自由な社会。これが結構、難儀でねえ」
自由な社会がなぜ難儀?
「だって、何にも家柄や身分のせいにできなくなってしまった。自分とはどういう人間なのか、自分の存在価値とは何なのかを、自力で証明することを求められる。唯一無二の『わたし』を自力で探さなければならない。だから、高度消費社会と同時に『自分探し』ブームが始まったわけ」
ブームは続き、「本当の私」を探す若者は今も絶えない。そんなものが見つかるわけもなく孤独に苦悩し続けるのだ。
「自分は誰なのか。ここにいる価値はあるのか。自問する機会がますます増えている。おまけに今の子は小学校入学前から答えの出ないこの問いにさらされる。『お受験』がそう。不合格だの不採用だのは『おまえは要らない。存在価値がない』というメッセージ。子どもは親からも『これができたらいていいよ』というメッセージを受けている。だから、自分が悪くても親は味方し、守ってくれる、とは信じていない。無条件に肯定してもらった実感がない。残酷な社会ですね。こうなると一番はまりやすいのが、例の、アレ」
恋愛である。
自分の存在価値が見えない時、誰かが「君がいないと生きてられない」と言ってくれたら。「それだけで生き延びられる。だから今の子は昔より恋愛にはまりやすい」と鷲田さん。
子どもだけではない。「高齢者はもっと危うい。『周囲に迷惑かけてまで生きている価値があるのか』と切実に悩む分、恋愛にかける願望は若者の比じゃない。だから三角関係で殺人も起こる。ラストチャンスだからね。存在価値が見えない点では専業主婦も苦しい時代です」
この国では、老いも若きもみな孤独というわけか。生き延びるため、他人との結びつきや他人からの評価に過剰に敏感になり、他人を求め過ぎてしまう社会。孤独でいられない孤独。これこそが「先進国で最も孤独」の正体なのである。
「孤独でいられない孤独」はくせものだ。「自分を無条件に認めてくれる人を求めるあまり、集団から外れることを恐れ、演技してしまう。90年代に流行した『キャラ探し』もそう。『私、あの人とキャラかぶってる』という不安。キャラがかぶるから退場しなきゃ、と考える友だち付き合いって何ですか」
あるいは「空気を読め」という言葉。コメディアンの間の言葉かと思いきや、今や学校で会社で平気で使われる。「場の雰囲気を維持するため、やるべきことをわきまえろ、という言葉でしょ」。東大での集中講義後、学生と「信用できる人とは?」という話題になった時、ある学生が「その場その場で期待される役割をわきまえ、果たせる人」と言ったという。
「常に態度を変えない人こそ信用できるのではないのか。その場その場で行動を変えるヤツを信用できるのか。場を壊さないよう、浮かないよう、ヒリヒリした思いで演技して疲れ、一方で『これは本当の自分じゃない』と孤独になっている」
ならば、どうすれば人は「孤独でいられない孤独」から抜け出せるのだろう。
「みな『唯一無二の私』をほしがるけど、普通の人間はソロのバイオリニストになれない。ソロになれるのは才能ある限られた人だけ。若い子は『誰でもできる仕事はしたくない』というが、代わりが要る、誰かがやらねばならない役割を社会で担うことが大事なんです」
鷲田さんは、精神科医の中井久夫さんの言葉を引用した。
<成熟とは、『自分がおおぜいのなかの一人(ワン・オブ・ゼム)であり、同時にかけがえのない唯一の自己(ユニーク・アイ)である』という矛盾の上に安心して乗っかっておれることである>
「ユニーク・アイとワン・オブ・ゼムと。人間は片方だけでは生きられない。迎合せず、依存せず、ソロでいられる自分を目指して心に『根拠地』を作っていく。同時に、社会で果たすべき役割を果たすこと。両輪でやらないとね」
窓の外は春風。高台に建つ大学で名残の桜が散ってゆく。ふと思い出した。さっき、「孤独を感じることはある」と言ってましたね。
すると鷲田さん、笑顔のまま、言葉を選び始めた。「自分はどこから来て、どこへ行くのか、と。誰を思うこともなく、誰にみとられることもなく、望んでいるわけではないけれど、自分が消えゆくような……」。
明るい口調からにじむ何かを、私は取材ノートに書き付ける。
「それは成熟の後にやってくる孤独ではないか。悩みや苦しみが家族や友だちのせいだとか、心の傷のせいだと思っている人は、まだ本当の孤独を知らないのではないか」
本当の孤独って何なのか、実は私はよく分からない。でも、今もどこかで「孤独でいられない孤独」を抱えて悩んでいるだろう子どもたちに、この哲学者の言葉を贈ろう。
……………………………………………………………………
◇日本ダントツ 29.8%
■「孤独を感じる」と答えた15歳の割合(%)
日本 29.8
アイスランド 10.3
ロシア 8.5
カナダ 7.6
オーストリア 7.2
スウェーデン 6.7
オーストラリア 6.5
フランス 6.4
ドイツ 6.2
イタリア 6.0
英国 5.4
スペイン 4.4
オランダ 2.9
「訪ねたい」という旅連載ページがあります。
みんなすごく遠くに旅しては、楽しい記事を書いてます。
ところが私の場合、「来週出してね」といきなり仕事が飛んできちゃいました。
屋久島に行きたかったのに。
知床半島に行きたかったのに。
今回はあきらめて、一番身近で、おまけにベビーシッターさんを使わず親子で行けて、それでも記事になりそうな場所を探したら、こんな感じになりました。
■掲載年月日 2007年06月23日
■遠くへ行きたい
■南か北か…いや「上」だ
■下界忘れる20分
どこか遠くへ行きたくなった。北ならば梅雨知らずの北海道、南ならば沖縄でひと泳ぎ。旅への思いは積もるけど、仕事はあるし、子供もいるし、時間がなくて、動きが取れない。南にも北にも出掛けられないある日、妙案を思いついた。そうだ「上」に行こう!
一番星が光るころ、千葉県の浦安ヘリポートに十数人の老若男女が集まった。ヘリコプターから東京の夜景を楽しもうという「東京クルージング」(エクセル航空)の客たちだ。
見渡せば、男と女、男と女、男と女……。恋人から熟年夫婦まで見事なほどにカップルばかり。一方、私はといえば、小学生の息子連れ。「これも一応、男連れか」と独りごちる。
同社の遊覧ヘリは94年に始まった。現在、年間利用客は約3万人。今年5月には延べ20万人を突破した。昼のコースは家族連れが目立つが、夜はやはりカップルが多い。特に夏の花火大会やクリスマスイブともなると、長いウエーティングリストができるという。
10人乗りのヘリの出発を待っていたら、何やらいい雰囲気の若い2人が別のヘリに吸い込まれていった。同社のスタッフは「1機をチャーターなさったお客様です。多いんですよ。空の上でのプロポーズ」。
思わず想像した。ヘリのローター音がうるさい機内で「君を愛してるーっ!」「え? ヘリの音で聞こえないわっ」などと叫び合う2人、なんてね。でも観光用ヘリなので、機内は会話できる程度に静からしい。
いよいよ、私たちも出発だ。ホバリングの後、一気にヘリは空中に舞い上がる。見る見る地面が遠のき、右手に東京ディズニーシーが広がった。
ヘリクルーズは高度600〜1000メートル。時間にして約20分。まず左手にお台場の夜景、そしてレインボーブリッジ。と思ったら今度は右手に東京駅。右を見たり、左を見たり、結構忙しい。うっとりする間もなく左手に東京タワーが現れた。自立鉄塔では今なお世界一の333メートル。普段は見上げるばかりで、なかなか見下ろせない相手だ。
屹立(きつりつ)する六本木ヒルズの向こうに続く光の海を見た時、「東京って広い」とため息が出た。この街には果てがない。
右手に新宿が迫る。歌舞伎町のギンギラネオンは「宝石箱」というよりオモチャ箱をひっくり返したみたい。副都心では高層ビルが小さなハイテク機器みたいに見えた。
乗り合わせた神奈川県の会社員、原理洋さん(33)は「今日は彼女の誕生日。思い出に残る贈り物を、とこのフライトを選びました」。思わぬプレゼントに32歳の誕生日を迎えた小深田美紀さんも「今までのプレゼントの中で一番うれしい!」と大喜び。
それにしても。「上」へわずか1キロ足らず飛ぶだけで、下界のあれこれを一瞬でも忘れ去ることができるなんて。20分で旅情は満たせないけれど、空の力ってすごい。
■旅のメモ■
☆各地にある遊覧ヘリ
「空の旅」は全国各地にある。まずは北から。北海道航空(011・781・1247)は札幌市内に遊覧ヘリ(10分1万7000円)を飛ばすほか、軽飛行機をチャーターすれば知床半島やオホーツク海の流氷も上空から楽しめる。
東邦航空は仙台ヘリポート発着で仙台市街(軽飛行機8800円〜)や松島・塩釜コース(同1万3200円〜)など。また、同社は観光シーズンに限り箱根・芦ノ湖にも遊覧ヘリ(5分間4000円、芦ノ湖発着)も飛ばしており、富士山が見えると人気だ。東北方面は0223・22・4026、箱根方面は0460・83・7558へ。
朝日航洋(076・495・3141)は富山空港発着で「立山黒部アルペンルート遊覧飛行」(約1時間、最大5人乗りでチャーター20万円)を運航。登山者にはまず見ることのできない幻の「剣大滝」=写真・同社提供=を見下ろせる。
関西地方でも各社が神戸や京都、奈良を飛ぶ遊覧ヘリを提供している。
これからの季節は花火大会の夜間飛行が人気。大輪の花が眼下に見下ろせる。
☆エクセル航空
昼間や夕焼けの時間帯は約15分のフライトで大人8000円。夜間は約20分のコース(1万4800円〜)と約15分のコース(9800円〜)がある。子供料金とシルバー料金もある。予約は0120・888・910まで。
☆日本三大夜景
日本では街と山と港が複雑に入り組んでいるから、あちこちで美しい夜景に出合える。三大夜景は、函館山(北海道函館市)▽六甲山(神戸市)▽稲佐山(長崎市)を指す。また03年には夜景愛好家の非営利団体が「新日本三大夜景」に皿倉山(北九州市)▽若草山(奈良市)▽笛吹川フルーツ公園(山梨市)を選んだ。ちなみに世界三大夜景は諸説あるが「函館、香港、ナポリ」が一般的だ。
■掲載年月日 2007年04月12日
■ノッポさんの一番大事なものは
■それはね、本ぜーんぶっ!
世界で一番大事なものは愛、それとも友だち? でも「ノッポさん」こと高見のっぽさん(72)は「読書だ」と言うのです。「書物がなければ『できるかな』の『ノッポさん』はこの世に存在しなかった」とまで言い切る高見さん。いったいどんなふうに本と出合ってきたの?
定番の質問でごめんなさい。でも、本の魅力って何ですか。
すると、180センチの長身に緑色のチューリップ帽子をかぶったのっぽさん、ノンストップでしゃべり始めた。本を語りだすともう止まらない。NHKの子ども番組「できるかな」では、最終回以外、20年間もずっとしゃべらなかったのに。
「たくさん読めば、本の魅力はおのずと見えてくる。『子どもにどんな本を読ませればいいのか?』と質問されますが、大事なのは、いろいろな本を片っ端から読むこと。たくさん読んだからといって賢くなる保証はないけど、読まないで賢くなった人はおりません!」
脚本家、童謡の作詞家としても活躍し、多数の絵本や児童文学を世に送り出してきたのっぽさん。「創造とか独創とかいうものは、目新しい事をすればいいというのではない。一過性ではなく、長い年月を経て深い感動を与えるものでなければならない」が持論。そして創造や独創のカギを握るのが「読書体験」というわけ。
「私なんか、子ども時代の読書体験の『かすり』で生きてるようなものです。本がなかったら、テレビの『ノッポさん』は存在しなかったと思いますよ」
*
のっぽさんと本との出合いは戦前の幼年雑誌にさかのぼる。東京は向島。長屋が並ぶ下町に、月に1度、本の配達の自転車がやって来た。「ちょーだい」。勇んで駆け寄るのは、のっぽ少年。「幼年倶楽部(クラブ)」という月刊誌を手渡され、その場で好きな続き物をむさぼり読む。配達の自転車が長屋を回り終え去っていくころには、のっぽ少年はすっかり読み終えている。「また1カ月待つのかあ」。遠ざかる配達のお兄さんの背中が、いかに切なかったことか!
小学校時代には、少々背伸びした読書体験も味わった。
「4年の時、兄の岩波文庫に目をつけました。それしか家に本がなかったので。本棚に並ぶ文庫をすべて読破しました。島崎藤村、有島武郎、夏目漱石に石川啄木……。難しくて分からない本もあったけれど、実に面白かったですねえ」
その後、本どころではない疎開生活を経て、戦後、再び書物の豊かな世界と出合う。
中学1年の時、気になる女の子がいた。父親は大学の先生だったという人で、大変な蔵書の持ち主だった。女の子にお近づきになりたくて、のっぽ少年は「本を貸して」と頼んだ。
貸してくれたのは谷崎潤一郎の「細雪」。「その女の子は『あんたの胸の内なんてお見通しよ。あなたに読めるかしらん?』という感じでした。ところが、私は本を読んだ途端、彼女なんてどうでもよくなった」。なぜか。女の子よりも本の魅力にやられちゃったのである。
3年間かけて、彼女の父親の書庫の本を全部読んだ。ドストエフスキー、バルザック、モーパッサン、ツルゲーネフ、ゴーゴリ……。乱読で出合う書物はどれも新鮮で、そのたび新しい世界が広がる思いがした。
「乱読、多読の時期を経ることで、好みが生まれ、後で振り返った時、その人の色、つまり個性に気づく。最初から個性に応じた本選びなんてナンセンス」。だから、のっぽさんに「子ども時代に出合った一番印象的な本は?」と尋ねると、必ずこんな答えが返ってくる。
「ぜーんぶっ!」
*
「全部」とはいえ、中でも20代で出合った「ガリバー旅行記」は衝撃だった。英国の風刺作家スウィフトのこの作品、「小人の国」「大人の国」の2編のみが子ども向けの版で知られるが、「子どものころに読んだから」と全編を読まぬ大人も多い。これを残念がるのっぽさん、「出版社から『子ども向けのガリバー旅行記の本を書いて』と頼んできたら断固拒否します! あれは大人の本です」ときっぱり。
20代のころ全編を通して読んだ時、「これは人間弾劾の書だ」と圧倒された。1週間、高熱で寝込んだ。興奮冷めぬまま、劇作家の飯沢匡さん(故人)に「すごい本だと知りました」と吐露したら「今ごろ気付いたの?」と笑われた。飯沢さんは、NHK教育番組「おかあさんといっしょ」の中で「三匹の子豚」をモチーフにした人形劇「ブーフーウー」などを生み出した人。「モノをつくる人は、やっぱりそういうのをわかってるんだ」とのっぽさんは痛感したという。
何を読み、何を受け止めたか。それが人をつくり、その人がモノをつくる。のっぽさんは読書のそんなプロセスを信じ、大切にしているのだ。
*
ところで「子どもが本を読まなくなった」と言われて久しい。のっぽさんも、仕事で出会う子どもたちの読書体験の貧しさに驚かされてばかり。「ガッカリを通り越して、世も末! 私たちの時代は読みたくても本がなかった。今は本があふれているのに読まないなんて」
一方、のっぽさんの元には「どうすれば子どもが本を読むのか?」と悩める親たちから相談が寄せられることも多い。「簡単だ。親が読むこと。あなたは何冊読んでいますか?」
文部科学省が小、中、高校生とその親を対象にした読書活動調査(04年度)では、1カ月に0〜1冊しか読まない人は小学2年生では6・4%とわずかなのに、小5で17・7%、中2で36・5%、高2で51・4%と増えていく。一方、親は50・5%と過半数が0〜1冊で、「0冊」の人が27・4%で最多だった。本を読まない子どもより、さらに読んでいないのが、大人というわけだ。
「第一ねえ、本の魅力を知る前の子にゲームを与えるなんて親が悪い。『子どもが本を読まない』と言う前にゲームやテレビの時間を削るべきです」
多読、乱読に加えて、のっぽさんが推奨するのは、本を通して親子で語り合うこと。「本を読もうとしない子には、親が面倒がらずに読み聞かせてください。小学校高学年の子だって、読み聞かせてやれば喜ぶものです。そして本をはさんで親子で語り合ってみてください。その時間は親子の宝物ですよ」
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■人物略歴
◇たかみ・のっぽ
1934年、京都市出身。70年からNHK教育テレビ「できるかな」で、しゃべらないキャラクター「ノッポさん」を20年間務める。幼児番組「ひらけ!ポンキッキ」の脚本を10年間担当したほか、絵本や童謡も数多く手がける。
■掲載年月日 2007年04月17日
■食べたい:しあわせ食堂
■中村吉右衛門さん「のり弁当」
◇重ねて、だんだん−−手間かけてくれた「ばあやの味」
懐かしい食べ物といえばやはり「のりだんだん」です。ご飯とかつお節と海苔(のり)を段々重ねにしたお弁当のことを、我が家では「のりだんだん」と呼んでおりました。
作ってくれた人は、村杉たけ、と申します。私の実母の嫁入りの際に、一緒に来た人で、私を育て上げてくれました。ですから私にとっては、いわゆる「ばあや」です。三度の食事も作ってくれましたから、ばあやの味が「おふくろの味」というわけです。
小学校に上がると、ばあやはよく「のりだんだん」を作ってくれました。我が家は海苔というものが代々好きでございまして。初代吉右衛門の名言、いえ迷言でしょうか、戦争中の食べ物のない時期に「僕はぜいたくを言わないよ。海苔と生卵と白いご飯があればそれでいいんだよ」と言った、という話もございます。どれも当時、一番手に入りにくいものでしたのに。それほど、養父は海苔が好きだったんでしょう。
その影響かDNAか分かりませんが、私も海苔が大好きで、幼いころからしょっちゅう海苔海苔と言っておりました。しかし戦後の食糧難の時代ですから、海苔はなかなか手に入りません。ばあやが自分の田舎の千葉の親類から買い求めてくれていたようです。
今のように黒々とした美しい海苔ではなく、もっと紫色っぽい海苔。それを片面だけさっと炭火であぶります。ガスはまだございませんでしたから。軽くあぶると色が少し黒くなり、パリパリのおいしい海苔になる。両面をあぶっちゃいけません。パリパリになりすぎてしまいますから。
お弁当箱にご飯を敷き詰め、その上におかかを乗せ、さらにその上に海苔を敷く。もう一段重ねることもあります。だから「のりだんだん」。これがね、熱いうちも大変おいしいんですが、冷めてもおいしいんですよ。それをおはしで区切って食べる。これがあれば、おかずも、梅干しもいらない。
学校だけでなく、夜の舞台がある時も、ばあやのお弁当が多かったですね。最後に食べたのは高校時代でしょうか。母親代わりだったばあやも65年に亡くなりました。私が二代目吉右衛門を襲名したのは翌年でして、ばあやにその姿を見てもらえなかったのだけが心残りです。
舞台の合間にいろいろなお弁当を頂戴(ちょうだい)しますけど、どれも素晴らしいお味ながら、やはり三つ子の魂でしょうか。昔の味というのは、ふとよみがえり、食べたいなあ、と思うものです。味だけでなく、いろいろな思い出も同じですね。
今思えば簡単なようで、実は手間のかかったお弁当でした。ご飯は火をおこして炊いていたし、かつお節も家で削っておりました。手間ひまかけた手作りのおいしさは、インスタントでは味わえません。歌舞伎も同じ。手間ひまかけた舞台を、ぜひ劇場で味わっていただければ幸いです。
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■ごちそうさま(取材を終えて)
今どきの子どもは、お煮しめ中心の「茶色いお弁当」を嫌がるらしい。彩り重視で、アニメの主人公を食材で描く「キャラ弁(キャラクター弁当の略)」も大流行。一方、吉右衛門さんの「のりだんだん」は一面真っ黒ながら、聞くからにおいしそう。弁当は見かけより味。今度息子に作ってやろう。
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■人物略歴
◇なかむら・きちえもん
歌舞伎役者。1944年、東京生まれ。母方の祖父、初代吉右衛門の養子となり、66年10月、二代目を襲名。屋号は播磨屋。5月1〜25日、新橋演舞場で「鬼平犯科帳」の長谷川平蔵役のほか、「隅田川続俤」の法界坊に10年ぶりに挑む。
■掲載年月日 2007年04月04日
■なぜこんなにも切ないの、「オカン」のヒミツ
■樹木希林さんに聞く
お母さん、と声に出すだけで胸がいっぱいになる時がある。母の思い出は、なぜこんなにも切ないのだろう。亡き母の人生をつづり、日本中の読者を泣かせたベストセラー小説「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」の映画化作品で、母親役を演じた樹木希林さん(64)に「お母さん」の切なさのヒミツを聞いた。
化粧っけのない顔に、黄八丈の着物。帯揚げも帯締めも使わず、黒い帯をお太鼓に結んでいる。「私、帯の中で体が動かないといやなの」と体を揺する。緩やかな帯にも着崩れない着物がまるで魔法みたいだ。
「東京タワー」は200万部を超えるベストセラー。多くの読者は、著者リリー・フランキーさんの母、つまり「オカン」に自身の母親の面影を重ね、涙ぐんだといわれる。樹木さんは「オカン」をどう演じたのか。
「そうね、夢を抱きしめ、一人の女として花開こうとして、けれど厳しい現実にぶつかるたび『まあ、こんなものか』と折り合いをつけ、一生を終えていく。そんな女性。家にいつかないオトン(夫)との間に築けなかった何かを、息子に肩代わりさせたわけではなくても、おのずと一人息子への思い入れは強くなる。それでも最後は、東京の美大に行くという息子の選択を懸命に後押しする。本当はずっと手元に置いておきたいだろうに。息子を『自分の子』というだけでなく一人の人間として向き合っていたのでしょう」
映画にこんなシーンがある。東京の息子から、初めて出版したという本が「オカン」の暮らす筑豊に届く。がんが完治しないままのオカンは、息子に電話する。脚本では「この本を読んで元気出すけん、ありがとうね」と明るく言う場面だ。
ところが樹木さん、涙ぐみながら、受話器の向こうの息子に頭を下げた。「ありがとうございました」と。なぜ? 「言ってみたくなったから。心で『自分の子』という気持ちが勝っていたなら、あの言葉は出ない。あれは息子を一人の人間として尊重する母親の言葉なんです」
これまでも数々の魅力的な「母」を演じてきた人だ。31歳の時、ドラマ「寺内貫太郎一家」では41歳の小林亜星さんの母親を演じた。NHK朝の連続テレビ小説「はね駒」の母親役で芸術選奨も受賞した。
象徴的なエピソードがある。30年前、テレビ番組で一番大事なものをオークションに掛けるという企画があった。樹木さんは当時の芸名「悠木千帆」を2万円余で売った。「樹木希林」はこの時、自分で考えた芸名だが、当時TBSプロデューサーだった作家の久世光彦さん(故人)は別の芸名を強く推した。
それは「母」の一文字。
「最初は『はは』と読ませ、年を取ったら『母』に『゛』をつけて『ばば』にしようって。私は母性のない女を演じるほうが得意だったから、私のイメージというより、むしろ久世さんに母親という存在への強いあこがれがあったんでしょう」
ご本人はこう振り返るが、当時の新聞記事にはこうある。
<彼女の演技の底に流れる『涙』=『母なるもの』につながる存在感を、ずばり芸名で表現しようというわけだ>
映画では、本格的な演技は初めてという樹木さんの娘、内田也哉子(ややこ)さん(31)が、若き日のオカン役を演じている。樹木さんと也哉子さん。2人は単に顔や表情だけでなく、存在感のようなものが似通っていて、映画の「オカン」に不思議なリアリティーを与えている。
たぶん、親子で相当役作りを練ったのだろうと思っていたら、樹木さんは否定した。「娘と演技や映画について話したことは一度もありません。私は自分の出た映画を見ないので、娘の演技も一切見てません」
では、なぜ2人はあんなに自然に同じ人物を演じられたのか。まるで一人の女が年輪を刻んだかのように。考え込む私に、樹木さんは昔話をしてくれた。
89年、美空ひばりの生涯を描いたテレビドラマで、樹木さんは母親役を演じた。名の知れた当時の人物たちを、今の役者が演じた。「でも格好だけをまねている人は、全然、本人に似てみえない。逆に、精神が、目指すところが同じであれば、姿格好に関係なく似てみえてくる。娘と私は『オカン』という女への気持ちが似ていたのかも」
母から子へ、またその子へと引き継がれる何か。樹木さんにも亡き母から受け継いだものがある。「カフェを経営していた母は『仕入れ先の商人を泣かすな』が信条でした。仕入れたらすぐに支払う。今の私もそう。もう一つは着物。母が着物を着たり、帯をたたむ姿は記憶にはっきり残ってる。だから、18歳で文学座に入り、着物のお芝居をした時、着物の扱いが上手だってほめられましたっけ」
では娘さんに伝えたものは?
「忙しくて構ってやれなかったけど、一つだけ胸張れるのは食べ物。米やみそ、塩、酢など、基本をきちんとしました。娘のお弁当はお友達に『まずそー』と言われたそうです。見た目勝負のお弁当と違い、玄米にオカカにのりでしたからね」
ふふふ、と笑うと、母から譲り受けたという黄八丈の着物のすそがふうわり揺れた。
「オカン」に涙する読者の気持ちが、樹木さんは分かるという。「キラキラとした時を過ごした女も、自分を犠牲にして子を育てることで母性を培っていく。それが日本人の母という存在への思い。だから誰もがオカンに懐かしさを感じてしまう」
原作を読んで、一番演じたかったもの。それは「人間ってかなしい」ということだ。
「オカンは息子のためにいつも一生懸命。原作で、金に困った東京の息子に、貸衣装屋から譲り受けた白いタキシードやらラメ入りの服を段ボールに山盛り詰めて送る話があるでしょう? 『東京なら売れるだろ』と信じ、きてれつな洋服を必死で箱詰めするオカンの必死さは、はた目には滑稽(こっけい)です。的はずれで笑えるくらいで……」
樹木さん、ちょっと黙り、こう付け加えた。
「でもね、おかしいからこそ、人間はかなしいの」
そうか。お母さんは、だからこんなに切ないんだ。
■掲載年月日 2007年04月03日
■しあわせ食堂
■加藤登紀子さんの 「エスカルゴ」
私とエスカルゴの関係は、私とシャンソンとの関係に似ています。
エスカルゴを初めて食べたのは、シャンソンコンクールで優勝した21歳の夏。シャンソンの先生に連れられて行った銀座の高級フランス料理店で“食べるカタツムリ”に出会ったの。
当時は世間知らずの大学生。シャンソンは好きでも「フランスかぶれ」ではなかったから、エスカルゴなんて知りませんでした。高級な雰囲気に緊張し、何度もフランスパンがのどに詰まりそうになりましたっけ。
あのころの私は、シャンソンを歌っていくことに迷いがありました。借り物の歌を背伸びして歌っているようで。悩み抜いた末、一度はシャンソンから遠ざかりました。「私が私であるために、自分で作った歌を歌おう」と。だから長い間、シャンソンのレコーディングも、フランスに行くことも避けていたんです。
ところが88年、ニューヨークのカーネギーホールでコンサートを開いた時、地元紙が「シャントゥーズ(シャンソン歌手)の声だ」と書いてくれた。沖縄や韓国などアジアの歌が中心で、シャンソンなど一曲も歌わなかったのに。
わだかまっていたフランスやシャンソンへの何かブレーキみたいなものが、心の中で溶けていった。翌89年、「シャントゥーズ」の一言に背中を押されるようにパリに行き、初めてレコーディングをしました。
レコーディングしていた時期に、フランスでエスカルゴを久しぶりに食べました。お気に入りの家庭的なレストランで、一番よく注文したのがエスカルゴでした。フランス人は猫舌だから、熱々のお料理ってあまり出てこない。でもエスカルゴなら必ず熱々で、外れがない。
不思議ね。初めて食べた時は、あんなに緊張したのに。フランスでは素直においしいと思えたんです。
さらにデビュー40周年を過ぎ、夫の三回忌を終えて……。今、気づけば目の前にシャンソンがある。誰かに伝えたい言葉を自然に歌えば、シャンソンになる。フランス人シャンソン歌手のエディット・ピアフにあんなにあこがれたけれど、ふと気づけば、いつの間にか私は、ピアフが死んだ47歳という年齢をすっかり越えてしまっている。「あなたも大変だったよね」と、同じ一人の女として今なら語りかけられる。
去年、シャンソンの歌詞を自分で日本語に訳し、歌ったアルバム「シャントゥーズTOKIKO〜仏蘭西情歌〜」を出しました。今年5月にはアルバム「シャントゥーズ2〜野ばらの夢〜」を出します。日本のロック畑のミュージシャンが、私のためにシャンソン風の曲を作ってくれたんです。いわば、さざえをエスカルゴ風にお料理した、って感じかしら?
だから今、私は自然体。エスカルゴを食べる時も、シャンソンを歌う時も。
■ごちそうさま(取材を終えて)
家族でドギマギしつつしゃれたフランス料理店に初めて入った日を思い出した。ビールを注文した父は「当店はワインだけ」と出はなをくじかれ、ぶぜん。白けた場を盛り上げようと、私と母はオニオンスープに感嘆の声を上げたが、本当は苦いだけだった。今はただ懐かしい、大切な思い出だ。(おぐに)
■掲載年月日 2007年03月16日
■この国はどこへ行こうとしているのか
■ふるさと
■ダニエル・カールさん
◇足りないものは「時間」だ
◇心に余裕あれば、地元を守っていく大切さに気づくはず
マンサクの黄色い花が寒風に揺れていた。「まず咲く」という意味の、春を告げる花。桜のつぼみは小さく、まだ固い。山形県米沢市にある上杉神社の境内には、2月の雪灯籠(どうろう)祭りの名残だろうか、解けかかった雪の灯籠がいくつも並んでいた。
東京の事務所でお会いした時、ダニエル・カールさん(46)が「山形の春はいいスよー」とあまり言うものだから、つい新幹線に乗ってしまった。わずか2時間。東京・上野では早咲きの桜が散り始めていたのに、こちらでは除雪車が雪を噴き上げている。
雪の参道に上杉鷹山(ようざん)の銅像を見つけた。出羽国米沢藩9代目藩主。傾いた藩財政を立て直した江戸時代屈指の名君。「為(な)せば成る為さねば成らぬ何事も。成らぬは人の為さぬなりけり」の歌も有名だ。これが座右の銘というダニエルさん、「銅像の前で鷹山さんと同じポーズを取り、『今日は米沢にいますっ!』って、テレビで何百回とリポートしたなあ」。
*
米国カリフォルニア州出身。高校の1年間は奈良県の私立高で、大学時代には4カ月、関西外大で学んだ。京都の二尊院にホームステイしたり、佐渡島で文弥人形つかいに弟子入りしたことも。だから81年夏、文部省の英語指導主事助手として山形県に赴任した時には、関西弁も佐渡弁も話せた。言葉には自信があった。ところが……。
山形で「んだ、んだ」という相づちを聞き、「ん、で始まる日本語はないのではないのかっ!」と茫然(ぼうぜん)自失。猛勉強し、県内の地域ごとの方言の違いまでマスターした。
米沢出身の妻と上杉神社で結婚式を挙げ、84年春に上京。セールスマン、翻訳・通訳会社社長を経て、テレビのリポーターや司会でお茶の間の人気者に。並みいる「外人タレント」の中で異彩を放ったのも、山形弁のお陰だ。
「ガイジン」と「東北弁」の取り合わせを笑うテレビ界。しかし山形弁に愛着を持ち、胸張ってしゃべるダニエルさんの姿は、誰より地元山形の人々を勇気づけた。「方言を恥ずかしがることはなかったんだなあ」と。
大場登・山形市教育長は、ダニエルさんが山形赴任中、県教育庁指導主事として彼の面倒をみた人だ。「彼がテレビに出演し始めると、山形では多くの人が『山形弁を教えたのはおれだ』『オラも』と喜んだ。土地の言葉をよその人が努力して覚えてくれたのが、本当にうれしかったんだ。地元の人は今も彼を山形の代表だと思ってます。外の世界を知ってる外国の人が山形自慢をしてくれるっていうのが、また格別なんでしょうね」
外国の人に自分のふるさとをほめられる喜び。「自慢していいのだ」という自信。この国には、外国人が見いだした「ふるさと」を尊ぶようなところがある。英国人宣教師ウォルター・ウェストンが紹介した日本アルプス、カナダ人宣教師アレキサンダー・クロフト・ショーが保養地として見いだした軽井沢……。
山形も多くの外国人を魅了した土地だ。明治初期、米沢を旅した英国人旅行家イザベラ・バードは、豊かな野菜と親切な人々に感激し、「東洋のアルカディア(桃源郷)」とたたえた。駐日米大使だったライシャワー氏は山形を「もう一つの日本」と呼び、自然と人間との調和の取れた街のありようをほめた。
ダニエルさんの好きな上杉鷹山を有名にしたのはJ・F・ケネディ元米大統領だ。日本人記者団から日本で尊敬する政治家を尋ねられ、大統領は鷹山の名を挙げた。記者たちは誰も鷹山を知らなかった、というオチもある。
*
山形に暮らしたのはわずか3年足らず。東京暮らしの方がずっと長いのに、今も山形を「心のふるさと」と呼び続ける。事務所の名前は「DOMOS」、つまり山形弁の「どうもっす」。月に何度も山形に足を向け、毎秋の芋煮会も欠かさない。
「芋煮はいい。秋はいい季節だあ、山の神様に感謝だあ、って気持ちがこもってる。大自然の恵みをいただいて生きていられる。昔は日本人全員が持っていた感覚だべ。どの山にも川にも木にも神様がいた。山形にはそんな感覚がまだ残っていて、それを感じるたび、山形がますます好きになる」
翻って、東京はどうか。
「子育てする所じゃねえ。特にマンション暮らしはダメだっづ!」。強く言い切ってから、ペコリと頭を下げ、「ごめんなさい、でも、僕も東京のマンション暮らしで子育てしてます」。
だから「オアシス運動」を始めた。「当時、山形県内の多くの学校で取り組み始めていた運動です。『オ』はおはよう。『ア』はありがとう。『シ』はしつれいします。『ス』はすみません。東京さ来て、驚いたのは『あいさつを全然交わさない、冷てーな』ってこと。だから自分の暮らすマンションでは『おばんですー』と自分からあいさつしてみたんだ」。最初は「東北なまりの変なガイジン」と敬遠されもした。しかし今ではマンション中で、自然にあいさつが生まれている。
自身がビジネスをやってみたくて上京した身だから、東京一極集中は仕方ないと思う。それでも東京から山形に戻るたび、体中の細胞がよみがえり、食欲がわいてくる。「オラのふるさと」と強く感じる。だから将来、テレビの仕事を引退したら、山形で暮らすと決めている。「山奥で隠居して、上杉鷹山先生の研究をするのが夢なんだー」
毎日のように地方と東京を飛行機で往復しながら、思う。「空から見ると日本って変だ。高速道があって、数メートル隣にバイパス、さらに農道が何本も走ってる。道路に切り取られた長細い田んぼ以外は全部コンクリート。これじゃ生き物も人間も生きにくい」
東京にいて、ふるさとを思う。思うことはたやすいが、守ることは難しい。
「今、日本人に一番必要なのはモノじゃない。時間だ。引退後の悠々自適な暮らしのために、今働き過ぎちゃう。何にも不足のないこの国で、時間だけが足りない。人々に時間がもっとあれば、ふるさとを大事にする心の余裕が生まれ、ふるさとを守っていく大切さに、皆がもっと気づくんじゃないかなあ」
米沢駅への帰り道、雪が舞った。ダニエルさんがこよなく愛する「長い長いトンネルを抜けた後みたいにきっぱりと訪れる北国の春」が待ち遠しい。
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■人物略歴
1960年米国カリフォルニア州出身。初恋の相手が日本人で、日本に関心を持った。パシフィック大卒業。4月から、岩手県が舞台のNHK朝の連続テレビ小説「どんど晴れ」に大学の先生役で出演。妻と中学3年の息子の3人暮らし。
■掲載年月日 2007年03月12日
■ドーンとやってみよう!
■欽ちゃん流、若手育成法
◇回り道、大事−−成功する子は「損」我慢できる
◇皆の前で特別扱い、自信につながる
◇夢より目標抱け。いつでも捨てられるから
旅立ちの春を前に、タレントの萩本欽一さん(65)に会いたくなった。コント55号、「欽ドン」「欽どこ」、そして野球チーム「茨城ゴールデンゴールズ(GG)」……。着実に夢を形にする一方で若手を育ててきた人である。この春社会に出る若者とその上司に送ります、「欽ちゃん流若手育成法」!
お茶の間で見る欽ちゃんはニコニコしているが、若手には結構強面(こわもて)だ。若手のあいさつには返事せず、無視する。
「僕から返事をもらっただけで安心し、自分で考えることをやめてしまうから。手取り足取り伸ばしてやるのではなく、伸びる子が伸びられるだけの環境を作ってるの」
こんなエピソードも。約30年前、放送作家志望の若者が萩本家に住み込んでいた。ところが師匠が教えてくれるのはマージャンと将棋だけ。若者は「いつ書かせてくれるのか」と焦りつつ、将棋盤の前でひたすら耐えた。5年近くがたったある日、欽ちゃんは突然言った。
「おめでとう。おまえは明日から作家だ。一生懸命、おまえのために仕事を取ってくるよ」
この時、将棋盤に落ちた若者の大粒の涙を、欽ちゃんは今も忘れない。後に「欽ドン」「欽どこ」の構成を手がけ、最近は「王様のブランチ」「SMAP×SMAP」でも活躍中の放送作家、鶴間政行さん(52)の修業時代のエピソードである。
「『石の上にも三年』と言うけどあれはウソ。3年辛抱すればそれなりのことはできるが、デカイものには当たらない。僕は見込みのある子には5年我慢させた。いつか報われるなんて教えず、損だらけの5年間。でも成功する子はその『損』を我慢できる。あるいは『損』と気付かない。鶴間の時、僕は5年間、『頼む、我慢しろ。今逃げ出すな』と心で祈ってた」
*
厳しいけれど、義理人情の人である。しかし、今や、3人に1人が入社3年以内に辞める時代だ。欽ちゃんも「今の子に5年は無理」と認める。では茨城GGの監督として、若い選手とどうかかわっているのだろう。
「今の子は、自力では突破口を開けない。出しゃばるのが嫌なのか、恥ずかしいのか、2年間も僕に話しかけられなかった選手もいた。とにかく人付き合いが下手だ。だから僕、普段は選手とベタベタしないけど、彼らが声をかけてきた時はタイミングを逃さない。声をかけてきた勇気を派手にほめ、感激してやり、10倍にして返してあげるの」。緩急が肝心なのである。
かつて不調で球団を辞めようと思い詰めた投手がいた。これに気付いた欽ちゃん、球場へ行き、この投手に「今日はおまえのためだけに来た」。それから2人でヒソヒソ話。欽ちゃんは投手に「適当にうなずけよ」と耳打ちする。
周囲にたっぷりと「特別扱い」を見せつけつつ、欽ちゃんは投手にささやいた。
「おまえが優れた投手だということはおれも知ってる。でも最近はおまえ自身や皆が、おまえはダメかも、と思い始めてしまった。だからおれは今日、おまえが特別な人間なんだって皆に知らせるために来たんだ。次回はいいピッチングをして、皆に『監督の一言があいつを変えた』と思わせてよ」
と、本音を伝えた。この日を境に投手は好投。「今じゃうちの大事なエースです」と欽ちゃんは実にうれしそう。「普通、特別扱いはこっそりとやるでしょ。でも僕は皆の前でしてあげるんだ。それが自信につながるから」。厳しいようで、案外気遣いの人なのだ。
*
新入社員を何とか辞めさせないように悪戦苦闘する世の上司たちに、欽ちゃんは提案する。
「今の子は全員集合させて『頑張れ』と励ましても、誰も頑張らない。でもね。1人ずつ耳元で『頑張ってね』とささやいてやると、案外頑張るんだ。入社式で何百人もの新入社員に社長が『みんな頑張れ』と言ったってダメ。そりゃ3年で辞めるよ。今の時代は、社長が個別に励まさなきゃ」
「普通はダメな子には小さな仕事しか背負わせない。でも僕は逆。あえて大きな仕事を背負わせる。するとダメな子なりに死に物狂いで運を引っ張ってくる。経験上、成否は五分五分かな。でも失敗してもせいぜい『−(マイナス)1』でしょ。成功すれば『+(プラス)10』で返ってくるよ」
次は、悩める新人君たちへのメッセージ。
「20代は損だらけなの。損に気付かないくらい鈍感な方がいい。上司に『たばこ買ってこい』と言われたら『たばこを買うために就職したんじゃない』と腹が立つだろう。でも、それは20代の自分の体に失礼だ。20代って自然に体が動き、自販機に買いに走れる時期なの。考えて行動するな。行動してから考えろ。答えは体が出してくれる」
わかる。でも難しい。だって若者には夢がある。ところが日々の仕事は単調で、夢につながるとは到底思えない。だから、これでいいのか、と迷い始める。
すると欽ちゃん、意外なことを言う。「20代は夢を持っちゃいけない」。次々と夢をかなえてきたあなたが、なぜ?
「20代の現実は厳しい。夢が遠くに見えて、だから、段々とつらくなる。夢を抱くのはやめときな。抱くなら目標。目標ならいつでも捨てられるから。でも夢は捨てられないだろう? 捨てられない夢にこだわり続ける20代はつらいよ。夢は、目標の先にある。夢には一直線に向かうな。回り道が大事なんだ」
*
似た言葉を2年前、「踊る大捜査線」シリーズで人気の放送作家、君塚良一さん(48)が言っていたっけ。彼もまた、萩本家で修業した一人。当時、シリアスなドラマ脚本を志向していたが、コントばかり書かされた。でも「若いころにコントの勉強をしたおかげで、コメディーも書けるドラマ脚本家になれた。最初から『青春とは』『人生とは』というドラマだけ書いていたら、今みたいなテレビの脚本は書けなかっただろう」。
まさに、回り道の勝利だ。
こんな、かつての弟子の言葉を欽ちゃんに伝えると、師匠は遠いまなざしでぽつり。「あいつは5年どころか『石の上にも10年』。初ヒットのドラマまで10年辛抱したもんな」。顔をくしゃくしゃにして笑った。
旅立ちの春は、もうすぐ。悩んだ時は「欽ちゃん流」で、ドーンとやってみよう!