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記事241◆「おふくろの味」の土井勝さんを忍ぶ記事

2006年夏の連載企画は、今はもう亡くなってしまった人に、「会いにいく」記事。今回は、デスクから、「おふくろの味」の土井勝さんを、と指名され、大いに悩んだのでした。
だって、自分自身、ワーキングマザーで、「おふくろの味」とか全然実践できてないし、そもそも、「おふくろの味」という言葉にしみついたオヤジたちの哀愁とか郷愁みたいなものも大嫌いなもので……とほほ。


■掲載年月日 2006年08月17日
■06夏・会いたくて/6
■土井勝さん(95年死去・74歳)
◇手作りこそ愛--料理研究家、「おふくろの味」生みの親
◇「家族の楽しい食事」こだわって


 うわ、男ばっかり。
 東京・神田にある居酒屋の引き戸を開けて、ちょっとひるんだ。偶然か、お客さんみんなワイシャツ姿のサラリーマン! 切り盛りするのはエプロン姿のおばさんたち。まるで田舎の母が台所から抜け出してきた感じ。

 ここは「おふくろの味」が看板の店。おじさんが甘えた声で呼ぶ。「ママさ~ん」。「あんたのママか?」と出かかった声を、私はビールで流し込む。でもおじさんたち、実に幸せそうだ。肉じゃが、切り干し大根、そしておふくろの味という言葉……。

 外食でモテモテの「おふくろの味」、肝心の家庭の食卓では出番が減った。服部栄養専門学校校長の服部幸應(ゆきお)さん(60)は「おふくろの味は『袋の味』」と言った。つまりレトルトパックの「袋」を開けるだけの食事になったというわけだ。その一方で「キレない食事」をうたう本が売れ、「食育」の名のもと、子供料理教室やコンテストも盛況だ。

 「どう思う?」。心で呼びかけた相手は「おふくろの味」の言葉の生みの親、料理研究家の土井勝(どいまさる)さん。あの柔らかい関西弁で語る料理のイロハ、懐かしい。生きていたならこの風景を何と……。

 勝さんは1921年、香川県に生まれ、大阪で育った。母の手料理が大好きな食いしん坊。幼い日、母から聞いた「あなたは火と水のお不動さんがついている。火と水を使う仕事を」という一言を胸に15歳で日本割烹(かっぽう)学校長のかばん持ちに。母の味が「師」だった。
 テレビ放送が始まった53年から料理番組に多数出演した。開設した料理学校の生徒は最盛期で1万2000人、卒業生は実に26万人。最後の著書になった「土井勝 日本のおかず500選」(テレビ朝日)は今もなお子や孫への贈り物とされるロングセラーである。

 正直いうと「おふくろの味」には少々の負い目と反発を感じてきた。共働きのわが家ではレトルトや冷凍食品は強い味方だし、第一、料理は女だけの仕事ではないはず。でも、亡き母が釜底に残るお焦げご飯で握ってくれた塩だけのおむすびを思い出すと、鼻の奥がツンとなる。手抜き料理が信条のくせに炊飯器ではなく土鍋で米を炊いている。「母の味」は思いのほか体に染みこんでもいる。

 「おふくろの味」にこめた勝さんの思いが知りたくて、妻信子さん(75)を大阪市に訪ねた。住吉大社にほど近いお好み焼き屋さんに誘われ、鉄板を前に並んで座った。「主人は生まれて半年で父親を亡くしたんです。母親は女手一つで5人の子を育てました。父親のいないふびんを手料理で補おうとした。『おなかいっぱいなら心も大丈夫』と信じて。だから主人の味の原点は母の手料理やったの」

 勝さんが「おふくろの味」を唱えだした昭和40年代は、まさにファストフードが日本に上陸し、レトルト食品が登場した時代だった。すでに風前のともしびだったからこそ、勝さんは「おふくろの味」にこだわった。なぜなら彼自身がその味で育ち、生きてきたから。

 「ほんと家で食べるのが好きな人やった。たまに外食しようと誘っても『家がいい。お茶漬けでもいい』って。出張のたびに私のおにぎりを持参して、新幹線の車掌さんに『先生、またですか』と覚えられてしまうほどでね」

 勝さんの思い出話を楽しませてもらいながらも、やはりひっかかる。聞いてみようか。「でも料理は女だけの仕事じゃないですよね」。そしたら信子さん、クスクス。「まあ、時代やったのねえ。主人の母は、主人が自宅の台所で試作料理を作ろうとしただけで『男子厨房(ちゅうぼう)に入るべからず』と怒ったんよ。料理の先生やのにねえ」

 亡くなる前年に出版された勝さんの「ほんとうの味 ほんとうの幸せ」(経済界)におもしろい挿話があった。母譲りなのか、「男子厨房に入るべからず」の信念で料理学校に男の生徒を受け入れなかった勝さん、78年に訪中した際、共働き家庭の中国人の男性は当然のように台所に立つ、と知った。そんなこともあって、92年に「男の料理」クラスを開講した。

 ある日、生徒からこう打ち明けられる。「先生、料理を習って本当によかった。長く反抗して口も利いてくれなかった娘が、私の手料理を食べて『手伝おうかな』と隣に立ってくれたんですよ」

 感動した勝さんは書いている。

 <手づくり料理を一緒に食べることによって、家族のコミュニケーションがよくなるということ、これは『男の料理』の生徒さんが例外なくおっしゃることです>

 そして、高度成長の時代、忙しすぎる父親が家庭の食卓にいなかったことを指摘し、書いている。

 <日本の家庭の食卓が本当に豊かな姿を獲得するのは、これからだと思います。そのためには、忙しくても『家族がいかに協力し、いかに楽しく食事しようか』ということを、大切に考えてほしい>

 じゅーじゅー、さっきからお好み焼きがいいにおい。土井家にも「おやじの味」があった。それが、お好み焼きだった。「準備は私。焼いて、等分に切り分けて子供の皿に分けるのがあの人の役目でね。子供は大喜び。食べることより父親とのおしゃべりがうれしかったんやろうねえ。すき焼きやカレーも作ってくれましたよ」

 さて、その勝さんが亡くなって十年余。あれから私たちの食卓は本当に豊かになったろうか。

 東京・自由が丘のキッチンスタジオに勝さんの二男で料理研究家の善晴さん(49)を訪ねた。「そうですね、父の言った『おふくろの味』は何も凝った料理じゃない。親が当たり前に作った当たり前の料理を子供が食べる。それが大切。だって親の手料理は作ることが愛情で、子どもは食べることで親の愛を受け止めるのですから」

 胸にぐっときた。確かに。我が家でも息子が学校からしょげ帰ってきた時には「どうしたの」と聞き出すより、夕飯に好物を出してやったり、一緒に豆のさやをむかせたりする方が元気になる。手料理には不思議な力がある。

 食べ物を通して戦後日本を見つめてきた料理記者、岸朝子さん(82)はこう言っておられた。「亡き母に教わったのは『悲しんでる人にはおいしいものを』という言葉でした。料理は人を幸せにするから。今でも私、風邪で寝込んだ日に母が作ってくれたおかゆや煮物の味を忘れない。料理は、命をつなぐ営みなのです」

 だから懐かしい家族の思い出はいつも食卓の味によって紡がれる。これを誰より知っていたのが勝さんだったのだろう。

 「インスタントラーメンも家族の健康を考え、野菜炒めをのせれば立派な『おふくろの味』」とも語っていた勝さん。何も難しいことではない。ちょっとした心遣い。信子さんの言葉があらためて心に染みた。「あの人が『おふくろの味』という言葉で本当に伝えたかったんは、家族への愛情のこもった手料理が一番尊い、ということやったんと違いますか」

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プロフィール

おぐにあやこ

Author:おぐにあやこ
名前■おぐにあやこ
生年■1966年 ひのえうま
仕事■07年秋まで新聞記者。仕事を辞めて渡米。11年、新聞記者に出戻り。
趣味■読書、歌、旅
目標■ちょっと背伸びして、
 疑問符を感嘆符に変える事
苦手■勧善懲悪


著書■
▼「薬(ドラッグ)がやめられない 子どもの薬物依存と家族」(青木書店)
「ベイビーパッカーでいこう 赤ん坊とザックかついでスペインの旅」(日本評論社)
「魂の声 リストカットの少女たち」(講談社)
「いいじゃない いいんだよ 大人になりたくない君へ」(共著、講談社)
「アメリカなう。」(小学館)
「アメリカの少年野球 こんなに日本と違ってた」(径書房、ミズノスポーツライター賞)
「?が!に変わるとき  新聞記者、ワクワクする」(汐文社、読書感想画中央コンクール課題図書、高校生の部)

訳書■
「自傷からの回復 隠された傷と向き合うとき」(みすず書房)

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