新聞記者でした。「行って、見て、書く」ことを大切に、現場を歩いたり、人と出会うことで、心の中の「?」が、ちょっと背伸びして「!」に変わっていく瞬間を、できるだけ毎日、書いてみたいです。(小国綾子)

記事259◆藤田まことさんの「おにぎり」の記事

■掲載年月日 2006年12月05日
■しあわせ食堂
■藤田まことさん「おにぎり」

 幼い日の、おにぎりの思い出なんて、実は一つもありません。戦中派の僕らの苦労といえば、全部食いもんの苦労だから。真っ白な米のおにぎりなんて、食べたこともなかったです。
 小学校3年まで東京に住んでました。近所のそば屋から、まず丼ものが消え、うどんが消え、最後にそばが消えて、店はのれんを畳みました。同じころ僕の家からも米がなくなった。少しの米に麦や芋を混ぜて炊いた時代だから、握ってもおにぎりみたいに固まらなかったんでしょうね。
 おにぎりの思い出は一つもないのに、戦死した兄貴に、今何を食べさせてやりたいか、と考えた時、真っ先に思いついたのがおにぎりでした。
 今年9月、沖縄の海に行ってきました。実は僕の兄貴は、あの海で戦死したんです。17歳の兄貴が乗った輸送船「江龍(こうりゅう)丸」は1944年10月10日、石垣島から沖縄本島へ向かう途中、米軍の爆撃を受けました。
 優しい人でした。兄に怒られたのは一度だけです。僕の実母は物心がつく前に死んで、小学生の時には新しいお母さんがやってきた。兄弟の中で僕だけが最後まで彼女に反発し続けたため、兄貴に「お母さん、と呼べ」とどつかれた。僕はそれでも絶対に「お母さん」と呼ばなかった。
 兄が志願兵として出征した後、姉から「おまえがお母さんに反発して家がむちゃくちゃになったから、お兄ちゃんは居づらくなって戦争に行ったんだ」と聞かされました。兄貴から最後のハガキが届いたのはその後でした。「お父(と)ぅさんとお母(か)ァさんの言ふ事を聞いてしっかり勉強して下さい」って。僕のことばかり心配した手紙でした。
 今もハガキを見るたび悔やむ。僕が新しいお母さんとうまくやれていたら、兄貴は戦争で死なずに済んだんじゃないか。なんで僕はあの時、「お母さん」と呼べなかったんだろう。
 兄貴が死んだ海に出る前に、沖縄の食堂で「何か食べ物を持っていこう」と。その時、最初に思いついたのが、おにぎりだったんです。食べたくても食べられなかった、真っ白な米のおにぎり。
 食堂の人には「中身に何も入れないで」と頼みました。サケやつくだ煮なんてぜいたく品が入っていたら、死んだ兄貴が「こんなおにぎり、見たことがない」と驚いてしまう気がしたから。
 2個のおにぎりのうち、僕が1個食べ、残り1個を海に投げました。「兄貴、ごめんな」って。沖縄の海をずっと気にしながら、忙しさにかまけたり、心の整理がつかなかったりして、来るまでに60年以上もかかってしまった。
 誰もが真っ白な米のおにぎりを食べられる国が一番なんです。国のお偉方も、核の議論より、おにぎりの議論をすればいいのにね。



 ■ごちそうさま
 私の「おにぎり」の思い出は、亡き母がご飯をおひつに移した後、釜に残ったご飯で小さく握ってくれたもの。今も泣きたいくらい懐かしい。だから藤田さんにも「幼い日の思い出」を尋ねた。「食べたことすらない」という返事にドキリとした。藤田さんにとって、おにぎりは「平和」の象徴なのだ。(おぐに)


記事258◆作家、田辺聖子さんロングインタビュー

■掲載年月日 2006年12月01日
■この国はどこへ行こうとしているのか 田辺聖子さん
□戦後生まれの首相へ

 花、花、花。
 ご自宅の扉を開いて最初に目に飛び込んだのは花だった。玄関に咲き誇る大ぶりのユリ。数々のアートフラワー。リビングに入れば今度はテーブルクロスから壁紙の模様まで花尽くし。
 田辺聖子さんはソファにちょこんと腰掛けていた。声を聞いて驚いた。なんとかわいらしい声! 「小説家は座業ですから。彩りあるものを身の回りにたくさん置いておきたいの」
 ふふふ、と笑う姿はまるで「永遠の夢見る少女」といった雰囲気である。

       *      

 「感傷旅行(センチメンタル・ジャーニイ)」で芥川賞を受けたのが35歳。以来、庶民の視点を大切に、主に恋愛小説を通して戦後日本を描いてきた。「田辺聖子全集」(全24巻・別巻1、集英社)も11月に完結。自身がモデルのNHK朝の連続ドラマ小説「芋たこなんきん」も好評放映中だ。
 藤山直美さん演じるヒロインは、文学賞の受賞直後に男やもめの子連れ中年医師と結婚する。夫の両親と妹、風来坊の兄、子ども5人の11人家族。これも実話ですかと問えば「子どもの数は本当は4人。でも兄の代わりに神戸大生の弟、さらに姑(しゅうとめ)の妹もいたからやっぱり11人家族やね」。誰が聞いても大変そうな新婚生活。ところが本人は「おもしろかった。私も大家族の生まれですから」と懐かしげに振り返る。

 大阪市内にあった生家の「田辺写真館」では曽祖母に祖父母、両親、親せき、若い写真技師ら20人近くが寝起きしていた。「食事はピンポン台みたいな大きなテーブルを全員で囲んで同じものを食べる。誰かが『こうや』と言えば『そうやない』と別の誰かがいう。さらに目上が『何いうとんねん。世の中はそんなもんやない』と一喝。でも人が多いから誰かが言い負かされても『そやけどな』と選手交代。最後は曽祖母が『みな、あっちへ行きなはれ! 片づけなならん』と言っておしまい」
 幼いころから、ちょっとおませな本の虫。大きなテーブルにかじりつき、大人の話に夢中で耳を傾けていたという。

 「親せきでもないし、どういう関係かよく分からない人も家に住んでてね。掛人(かかりうど)、つまりいうたら居候。台所仕事を手伝ったり、みんなの相談相手になったり。『ごはんですよー』と呼ばれれば遠慮なく『ほな、よばれまひょ』とみなと一緒に食べる。普通の光景でした。昔は人間関係がゆるやかやったから困った時にどこかしら身を任せられるところがあったのねえ」

 何だか「いじめ自殺」の対極にあるような話。「そうね。今の時代は学校も家庭もいちいち帳面つけて出席を取ってる感じ。子どももかわいそうやね」

      *       

 「今の幸福は上の世代の犠牲の上に成り立っている」と繰り返し語ってきた人である。
 田辺さんに会いに行く途中、新幹線の中で読んだのが95年の小説「おかあさん疲れたよ」だった。「昭和への鎮魂歌」とも言われる恋愛小説。空襲下をともに逃げた男女が戦後、互いに引かれながらも、戦争を引きずり、別々の人生を歩む。

 「書いておけば誰かが読んでくれると思って。戦争を防ぐのは難しいという人もいるけど、戦争に傷ついた人の物語を知れば、再び戦争を起こすことはないと思うから。大きな流れになったら巻き返しようのないことも多いから、小さな芽を見つけていかないとね」

 私たちはすでに「大きな流れ」の中にいないか。「小さな芽」を見逃さぬために何をすればいいのだろう。

 「テレビや映像じゃなく、本をうんと読んでほしい。国と国の戦争も人と人のけんかも似てる。争いはお互いの気持ちが見えなくなってしまった時に起こる。『戦争をやろう』とどこかの国が言い出した時、『まあまあ、待てや』『とりあえず考えまひょ』『お互いに損でっせ』といろいろな国が衆知を結集して衝突を避けるしかない。書物を読んで『違う考えの人もいる』『向こうにも言い分がある』と学ぶことが大事と違うかな」

 重く難しい問題をいつもと変わらぬ柔らかい口調で語る。ユーモアを
忘れない。

 安倍晋三首相の人物評を求めると「あまり違和感ないね。お育ちよさそうだし。ふふふ。人間、育ちの良い人にはそれだけのもんがあるし、悪い人には何ともいえない魅力がある」。論議の的の「愛国心」についても「わざわざ教えなくても自然ともう身に着いてる。身内への愛みたいなもの。同じもの食べて、同じ言葉しゃべって。みーんな身内。ニッポン一家!……って清水の次郎長みたいやね」
 ニコニコ笑う横顔を見つめていたら、ふと、田辺さんが作ったという川柳が脳裏にひらめいた。

 <ユーモアは戦争避けるもとのもと>

      *      

 生家の「田辺写真館」は45年6月の空襲で焼け落ち、優しかった父は終戦直後に死んだ。残された約50葉の写真で編んだのがフォトエッセー「田辺写真館が見た“昭和”」だ。幸せそうな家族の肖像。大振り袖姿の叔母の見合い写真。正月に新調した晴れ着姿の子どもたち。背広姿の若き写真技師の集合写真。華やかでハイカラで、だからこそ胸が詰まる。その後に起こったことを思ってしまうから。
 本のあとがきに、田辺さんはこう書いている。<日本は、敗戦の日に生まれたのではなく、それ以前から厚みのある庶民文化がすこやかに機能していて、いろんな文化の花を咲かせていたことを、若い人たちに知ってほしい。戦前も、ハイカラで、贅沢(ぜいたく)で、それぞれの境遇に応じて、人々は人生を楽しんでいたことを知ってほしい>

 あらためて戦争に破壊されたものの大きさと重さを思う。

 「平和が続くと文化は自然と華やかになるものよ。戦前の日本って……まるで春やったわあ。でも戦争は長かったし、致命的でした」。少し黙り込み、やっぱり変わらぬ笑顔のままで言い添えた。
 「文化とは何なのか。人は何のために生きてるのか。この国は何のためにあるのか。軍人さんはそんなことを考えてくれなかった。国威発揚とか富国強兵とかばかり。男の人だけに国を任したらいけないね。女はきれいなお化粧して、いいもの着て、おいしいもの食べて、いいおうちに住みたいもの。女の欲望を無視しちゃだめね」
 昭和とともに生きてきた田辺さんの、我々への伝言である。

記事257◆憂楽帳8回 「祖母と父の記憶」

これも、似た経験談を読者から、たくさん寄せていただいた記事です。

■掲載年月日 2006年12月01日
■憂楽帳:祖母と父の記憶

 昭和12年生まれの父には戦後の苦労を聞かされて育った。貧しくて小学校で一人だけ遠足に行けなかった話。生卵1個を姉弟と3等分しようと何度もやり直した話。20年前、健康食にかぶれた私が麦入りのご飯を炊いた時のことは忘れがたい。日ごろは温和な父が「麦は死んでも食べない」と目を真っ赤にして怒った。父の涙を見たのはこれと母が死んだ時だけだ。

 一方、大正2年生まれの祖母は女学校で英語を習い、ダンスホールでよく踊ったという。父の話とのあまりの落差に、幼かった私は「日本は段々豊かになったんじゃないの」と混乱したものだ。

 最近、田辺聖子さんのフォトエッセー本で、田辺さんの生家の写真館が撮影したという戦前の古い写真を見た。洋装、カフェ、正月の晴れ着。祖母が私に語ってくれたハイカラな世界がそこにあった。これが戦火に焼かれ、父の記憶へとつながっていくのかと思うと、写真の中の笑顔や華やかさが切なく胸に迫る。

 本日夕刊特集の田辺さんのインタビュー。父と祖母の話を懐かしみつつ書きました。

記事256◆憂楽帳7回 「名だけのハンコ」

■掲載年月日 2006年11月24日
■憂楽帳:名だけのハンコ

 大掃除の最中、真新しいハンコが出てきた。印面には「綾子」の2文字。5年前、実印や銀行印は名前だけでもいいと聞いて注文したものだ。ところが印鑑の変更手続きを面倒がっているうち紛失。だらしない性格がたたり、掃除のたびに見つけてはまたなくす、を何度か繰り返してきた。

 5年前のあの日、夫婦別姓が近い将来実現すると信じ、「戸籍上の名字を旧姓に戻す時、登録変更しなくて良いように」と先回りして作ったのだっけ。仕事も近所付き合いも旧姓を使う身に、夫の姓の印鑑は借り物のようで、「夫婦別姓の実現を待つより、印鑑にだけでも自分の名前を取り戻そう」なんて記事も書いた。生まれて死ぬまで変わらない「綾子」のハンコが完成した時は、本当にワクワクした。しかし、今なお夫婦別姓は実現していない。

 夫婦別姓を方向付けた法制審議会答申から10年、別姓制度賛成が反対を上回った内閣府世論調査から5年。待ちくたびれて迎えた節目の年もあとわずか。まずは今度こそこのハンコ、なくさず手続きしなくちゃね。

記事255◆世界史未履修は損だ!、の記事

私は、世界史に無知である。
理由ははっきりしている。
共通一次を日本史で受けることを決めた後、高校3年生で習った世界史の授業を、ほとんど寝て過ごしたためだ。
今、ものすごく後悔してる。
社会人になって、ものすごく必要な知識や教養の一つが世界史じゃないだろうか。
そんな思いから、この記事を書きました。


■掲載年月日 2006年11月21日
■世界史は面白いゾ
■高校生諸君、未履修こそ損だ!


 8万人を超える高校3年生が巻き込まれた必修科目の未履修問題。「履修逃れ」の最大の標的となったのが世界史だ。必修科目でありながら受験科目としては最も人気がなく、今回の騒動では受験生から「まじめに勉強して損した」という声すら上がる。嫌われモノの世界史だが、学んだことは本当に「損」なのか。

 「損」と言われるほどに世界史の授業はつまらないのだろうか。私も高校時代、暗記物の多い世界史が苦手だった。そこでまず、「面白い」と評判の授業を受けてみることにした。

 潜り込んだのは代々木ゼミナール。世界史の人気講師、佐藤幸夫さん(39)の教室だ。この日のテーマは第一次大戦後の「ベルサイユ体制」。講義では聞き慣れない条約名が次々と。「サンジェルマン条約、ヌイイ条約、トリアノン条約、セーブル条約……」。ああ、もうだめ。怒とうのカタカナ用語に高校時代の苦手意識がよみがえる。

 ところが佐藤さんの授業はどうも勝手が違った。受験が目的だから、記憶すべき用語を列挙し、下ネタ交じりの語呂合わせまで披露するのだが、一方で歴史を身近に感じさせるエピソードや、自身の世界60カ国以上の旅の体験談を交え、歴史を壮大な物語として語るのだ。
 パリ講和会議でフランス代表クレマンソーが怒鳴ってテーブルをひっくり返しただの、米国代表ウィルソンにつかみかかろうとしたのを仲裁したのが英国代表ロイド・ジョージだの。授業というより、講談みたいだ。
 聞いていると次第に、ドイツや日本がなぜ孤立していったのか、国際連盟がなぜ無力だったのかが見えてくる。「これ、大戦のわずか20年後になぜ再び大戦が起こってしまったのかを理解する授業なのかも」と途中で気づいた。

 そう。歴史から学ぶべきことはたくさんあるのだ。

     ■

 なのに世界史は人気がない。日本史と地理はどちらかを履修すればいいが、世界史は必修科目。しかし、大学入試センター試験の受験者数は日本史がトップで世界史はビリ。記憶するのが大変そう、と受験生が敬遠するためだ。佐藤さんも「地理は横の広がり。日本史は縦のつながり。でも世界史は縦と横だから学ぶのも教えるのも難しい。しかも、必修になってからというもの、世界史の教師数は不足気味。専門外の先生が教えることも多く、授業はさらにつまらなくなる」と説明する。

 ところがこの世界史、社会人が「勉強しておけばよかった」と後悔しがちな教科なのだ。

 日本旅行販売部マネジャーで、ファンクラブの会員数は2万人というカリスマ添乗員、平田進也さん(49)は「この仕事、世界史を知らないと話にもなりません」。
 未履修問題について「人間形成に大切な思春期に、何で世界史に出会わせてあげへんのですか。島国日本を一歩出たら外国の人と歴史を語り合う場面はいくらでもある。受験だけでなく、人生のどこでテストされるか分からへん。『知りません』は恥ずかしい。世界史を学ぶことは人間の幅を広げることなんです」。

 年間で1740万人(05年)もの日本人が海外旅行に出かける時代だ。世界史の知識が豊かだと旅行はより楽しいはず。

 ソニーの女性管理職第1号で、国内外に人脈を持つ東京電機大講師、落合良さん(70)は高校時代に学んだ世界史を「私の人生の土台」と表現する。「人生を選ぶのは自分自身。でも土台がなければ選ぶことすらできない。これからの時代、国際的に生きるのが当たり前。履修逃れは子どもたちの可能性を殺してしまう」
 ソニー時代、海外で日本のビジネスマンが商談を終えた途端に黙り込む姿を何度も見てきた。「相手の歴史も文化も身についていないと、話題が続かない。あれでは世界でネットワークを築けません」

 世界史を学んだことは、決して「損」ではないのだ。

     ■

 ところで、佐藤さんは「知識だけの世界史にしたくない」と、大学生を連れて世界史の舞台を巡るツアーも続けている。もし受験に関係なく教えるなら、どんな授業をするのだろう。
 「歴史上の人物を1年に100人くらい選び、当時の歴史をドラマチックに物語ってみたいですね。将来、外国人と会話する時、相手の国の有名人について自分の思いを自分の言葉で話せるように」
 そんな授業なら、私も受けてみたい。今になって、社会人向けの世界史のハウツー本とにらめっこしている身としては……。

記事254◆親子でイカを求めて函館へ、の記事

当時「旅したい」という連載がありまして、コンセプトは記事が誰かと2人で旅をしてルポを書く、というもの。2人、というのがネックで、どうやっても自分のプライバシーを切り売りするため、会社の経費で旅ができるおいしい企画のわりには、書き手が全然いなかった。
話が回ってきたので、二つ返事で引き受け、東京から一番遠くて、記事も書きやすそうな場所を選んだ、というわけ。

■掲載年月日 2006年11月18日
■旅したい
■生きた教育?食欲? 函館朝市へ

◇母ちゃん。すごい。ホントに透明なイカだっ!
◇イクラ、カニ、ウニ…海鮮好き、小2息子大喜び

 小学2年生の息子がテレビを指さし、こう言った。「このイカ、透明だ! 刺し身のイカは白いのに」。テレビ画面では透明なイカの群れが青い海を悠々と泳いでいる。その途端、息子に透明なイカを無性に見せたくなった。「よし、行こう」。
 かくして私は息子を連れて、函館へ――。

 朝7時15分。函館朝市は観光客で大にぎわい。「サケでかーい」「カニが動いてる!」。海鮮物好きの息子はすっかり興奮している。威勢の良い売り子たちの掛け声をくぐり抜け、まずは今回の旅の目的、「透明のイカ」を探す。
 たどりついたのは、函館朝市名物の活(い)きイカ釣り。釣り堀でイカを釣り上げ、その場で刺し身にしてもらう。泳ぐのは早朝に水揚げされたばかりの数十匹のヤリイカ。スルメイカより小ぶりだが透明感がある。息子が釣り堀をのぞき込み、叫ぶ。

「母ちゃん。すごい。ホントに透明だっ!」

 息子は緊張した顔で、釣り糸をそっと釣り堀にたらした。しかしヤリイカは元気いっぱい。すぐに逃げてしまう。息子は段々と弱気になってきて「これを釣ってもいい?」。指さす先にはプカプカと浮かぶ死にかけのイカ。おいおい。前日は「一番大きいのを釣るぞ!」と宣言していたんじゃなかった?

 それでも数十秒後、「ひっ」という息子の声の後に、ピューッとイカが水を吐き出す音が続き、元気なヤリイカを釣り上げた。
 めでたしめでたし。

     ◇

 息子はイカに目がない。刺し身との出合いは満1歳のころで、まだおっぱいを吸っていた。保育園時代、スルメや塩辛の深遠なる味にもはまり、今年の夏休みはイカを自由研究の素材に選んだ。スーパーで買ったスルメイカをハサミや包丁で解体し、炒め物や刺し身、内臓を使って好物の塩辛も作った。さらにイカ墨で習字や絵も描いた自由研究は随分と好評だったらしい。

 息子を函館まで連れてきたのは、東京のスーパーに並ぶイカと海で泳ぐイカがつながっていると知ってほしかったから。実は私、「魚の切り身が海で泳いでいる」と勘違いしているらしい今どきの子どもを笑えない。昔、イクラを食べながら「海をキラキラと泳ぐ姿はすてきでしょうね」と言い、大恥かいた。息子に同じ轍(てつ)を踏ませたくなくて、昨冬は自宅でイクラをふ化させ、サケの稚魚を親子で荒川に放流しにも行った。

 だから、今回の旅は「自由研究の最終章」と位置づけた。そう。キャッチフレーズは「生きた教育」。決して母親の食い気を満たすための旅ではないのだ。

     ◇

 息子の獲物を早速さばいてもらった。調理代込みで1杯1000円(時価)。ウネウネと足をくねらせるイカが、見る見る刺し身へと姿を変えるのを、息子がじっと見つめている。生き物が食べ物に変わる瞬間だ。
 おろしたてのイカ刺しは、ところてんのように透明で、角が立っていて美しい。コリコリとした食感。感動の味なのである。この日はヤリイカだったが、スルメイカの日は内臓も刺し身で食べられるそうだ。
 「ホントに透明だね」「吸盤が口に吸い付くぅ」「おしょうゆは付けないほうがいいよ。甘いのが分かるから」。さっきの弱気はどこへやら。我が家の「イカ食い」君は、実に幸せな、いい顔をしている。

 ふと思う。
 「おいしい」と「幸せ」は似ているな。

 見る見るうちに刺し身の皿は空っぽ。「次はイクラ丼だっ」と立ち上がるころには、「透明なイカ」はすっかり腹に収まり、「生きた教育」なんて大義名分は私の頭から抜け落ちていた。イカ、イクラ、カニ、ホタテ、ウニ……。あとはもう、食欲の導くままに。

 異国情緒漂う北の街で、我々親子はロマンチック路線に背を向け、ただ幸せをムシャムシャと食べ尽くしたのだった。

記事253◆憂楽帳6回 「サンタの涙」

ものすごくたくさんの反響をいただいた記事です。
共感や思い出をたくさんいただきました。
が、一方で、「あなたの子どもは新聞など読めないかもしれないけれど、うちの子は小学生低学年で新聞をすらすら読みます。うちの子の夢を壊した責任をどう取ってくれるのですか」という批判も。
これは真摯に反省いたします!

■掲載年月日 2006年11月17日
■憂楽帳:サンタの涙

 「サンタさん、本当はいないんでしょ」。小学2年の息子に問いつめられた。「いるに決まってる」と言い繕ったものの、「うそつきは泥棒の始まり」としつけてきた手前、居心地が悪い。ふと、幼い日の思い出がよみがえった。

 あれは確か私が10歳のころ。「サンタはいない」と笑う友達に「絶対にいる。命賭ける」とたんかを切った。「絶対いるよね。命賭けちゃった」とすがったら、母は「ごめん」とうつむき、ホロホロと泣いたのだっけ。

 今も不思議。なぜあの日、母は泣いたんだろう。尋ねそびれているうち母は死に、私は長じて母になった。トリックや小道具を駆使した母親譲りの演出で、毎年、サンタの来訪を息子に信じ込ませてきた。たくさんうそも重ねた。ただ息子の喜ぶ顔が見たくて。

 「サンタさんが母ちゃんであるはずがない」。検証の末、自分なりの結論を出した息子の幼い横顔をみながら、ふと思う。いつか私にも息子に「ごめん」と泣いて謝る日が来るのだろうか。その日になれば、私にも母の涙の意味が分かるのだろうか。

記事252◆憂楽帳5回 「明日という字は」

■掲載年月日 2006年11月10日
■憂楽帳:明日という字は

 白衣の彼女は毎月のようにやってきて、私のこった首や肩をほぐしてくれる。21歳。カイロプラクターの卵だ。「私が小国さんを癒やす側にいるなんて不思議」と彼女が笑うたび、私はうれしくて泣き出しそうになる。白衣からのぞく腕にはリストカットの跡。彼女と取材で出会って3年になる。

 中学校時代にいじめを受け不登校に。10代後半は過食とリストカットに苦しんだ。去年の今ごろはまだ「死にたい、消えたい」と訴え、薬を過剰摂取しては「飲んじゃった」と泣きながら電話をよこしたものだ。10カ月前、カイロプラクティックと出合い、夢に向かって歩き出した。今は患者の「ありがとう」が生きる支えだ。

 長いトンネルを抜けたばかりの彼女の言葉をここに記そう。「いじめも不登校の経験も今の私にはプラスに生きてます。他人のつらさが倍分かるから。こんな言葉、苦しみの渦中にいる人には届かないと経験上知っているけど。明日という字は明るい日と書きます。どうか死なないで。私は生きててよかったです」。自殺の連鎖が止まりますように。

記事251◆天才アラーキー、東京を撮って44年

ものすごく取材をするのに緊張する相手でした。
でも会ってみたら、とんでもなく優しい人でした。
言葉の一つひとつにエッジが効いていて、ものすごい刺激を受けました。
(「男根」という文字をこれだけ盛りこんだ記事は、ほかにないと思います)


■掲載年月日 2006年11月06日
■撮り続けて44年 東京は墓場だ−−by天才アラーキー

 44年間、東京を撮り続けてきた人がいる。「天才アラーキー」を名乗る写真家、荒木経惟(のぶよし)さん(66)。女性のエロスを過激に写す一方で、変わりゆく東京の街に三脚を立ててきた。今、彼は言う。「東京は墓場だ」

 首都高を走る車の窓から、真正面にそびえる六本木ヒルズが見えた。「お、男根だね!」。荒木さんが後部座席からカメラを構える。「初めて撮った時、『東京に男根あらわる』と思ったね。高層ビルは男根。そして墓標でもある。東京は墓場ばかり造ってるな。がっはっは」

 女性を撮り続けてきた荒木さんが、一方でこだわってきたのが街。つまり東京だ。「東京」と名の付く写真集は30冊を超え、10月には44年間の作品を集めた「東京人生」をバジリコから出版。同タイトルの写真展を12月24日まで江戸東京博物館で開催中だ。

 台東区三ノ輪のげた職人の子に生まれ、情感あふれる下町写真を撮ってきた人だから、「東京は墓場だ」という言葉は変容する街への批判かと思っていた。ところが、「開発批判? 全然違うよ。変わっていくのが都市の魅力。古いモノから新しいモノへ、変わり目の混とんがいいんだ」という。

 それでは「墓場」は何を意味するのか。そこに<アラーキーの東京論>の根っこが潜んでいる気がした。だから、車は首都高をひた走る。一路、荒木さんが生まれ育った街の墓場へ。

   ■

 秋深い墓地。荒木さんは一抱えもあるコスモスの花束を、なぜか半分だけ、妻陽子さんの墓に手向けた。陽子さんの死から16年。「まだカッカしてんだろ、頭冷やせよ」と柄杓(ひしゃく)の水を墓石の真上からかける。
 ここは浄閑寺(じょうかんじ)。荒木さんの生家とは目と鼻の先。新吉原の遊女が2万5000人余も葬られ「投げ込み寺」とも呼ばれる。永井荷風も好んで訪れた。ここが幼き日の荒木さんの遊び場だ。「墓石の上をつたい跳びして、どこまで行けるか競争したり、卒塔婆でチャンバラしたり、遊女の骨つぼを開け、骨を混ぜ合わせたり。アタシはこの街から始まったんだよ」

 思い出を語りながら、順々に遊女の墓や慰霊塔を訪ね、残りのコスモスを手向けては、撮る。枯れかけた深紅の仏花を目に留め、ファインダーをのぞく。「死にゆく者のエロスだねえ。女も花も枯れかけがいいね」なんて言いながら。

 「こいつ、泣いてるんだよ」。ふと足を止め、妻の墓の隣にある小さな弁財天像を指さした。なぜかほおに涙のような跡がある。「おまえにもコスモスをやろうな。泣いていいぞ」。おもむろに妻の墓から花を数本抜き取ると、弁財天に飾る。「いいよ、いいねえ」。まるで目の前の女性モデルにでも話しかけるように、コスモスと弁財天を繰り返しほめ、そして撮る。

 荒木さんのそんな姿に、1冊の写真集を思い出した。「センチメンタルな旅・冬の旅」。妻陽子さんの死のあとさきを撮ったものだ。病室で妻の死を迎えた瞬間も、亡きがらと自宅に戻る時も、荒木さんはひたすらシャッターを切り続けた。こぶしの花を抱えて病室に向かう自分の影も、ひつぎに眠る妻の顔も、焼き場へと向かう霊きゅう車も。「撮る」ことが愛情であり、鎮魂であるかのように。

 妻を亡くしてしばらくはモノクロで空ばかり撮っていたという荒木さん。「墓場」の意味を問うたらこんな答えが返ってきた。「一番好きな場所。安堵(あんど)できる所。永い眠りにつくところ。アタシにとって、墓場は楽園と同義語なんだよね」

 寺を出た。荒木さんは目の前の道を「昔と全然変わってない。今も真っすぐだ。素晴らしい」とほめては撮り続けている。不思議な人だ。実家は取り壊され、駐車場になっている。昔ながらの看板建築も今はない。それでも荒木さんは「全部変わっちまった」と嘆かない。むしろ「変わらない」という。

 近所の喫茶店の中では、店のママが荒木さんの姿に驚き、頭を下げている。荒木さんも「自転車屋の娘じゃないか!」。お隣は歯科医院。「おい、昔は将棋仲間だったやつが今は院長かよ」
 いとおしそうに街を歩きながら言う。「街ってやつは、どんなに変わっても、総取っ換えにはならないよ。必ず何かが残る。建物が変わっても、真っすぐな道が残る。人々が暮らしている。ノスタルジーだな。大人はノスタルジーをばかにするけど、どんどん乾いていくこの時代には、涙っぽい過去は引きずったほうがいい。湿り気や体温があって、ほどほどに汚れてる街に幸せがある。だから過去のある街はいいんだ」。それからちゃめっ気たっぷりに「女だってそうだろ?」と付け加え、私の肩を軽くつついた。

   ■

 過激なヌード写真で世間を騒がせてきた人だ。「女陰カメラマン」と呼ばれたり、警察から摘発されたこともある。「女の一番美しいところを引き出す」と豪語し、女性を撮る時は乳首に触れたり、耳たぶをもんだりして被写体に絡みながら、撮影するという。時には自分も服を脱ぎ、自らをさらけ出す。なぜなら「写真を決めるのは被写体とアタシとの関係性だから」。

 それは街を撮る時も変わらない。「いいね、いいね」と街角や建物に声をかけ、路地の奥へと迷い込み、その地に染みついた記憶に思いをはせて、街に絡む。「すると街は何かしらごほうびをくれる。美しい花とか、黒猫とかが目の前に現れる。街中が身をよじって『撮って撮って』とうごめき出すんだ」

 そんなふうにずっと東京で撮ってきた。生まれ育った三ノ輪の街。渋谷のスクランブル交差点。新宿副都心の高層ビル群。そして東京に暮らす人たちも。「東京に『ふるさと』がないなんてウソだね。坂もあれば川もある。とてもミステリアスだ」

 帰路を急ぐ車は、再び都心のビルをすり抜け、首都高をゆく。「男根ビル、もっといっぱい建てればいいねえ。東京を上から見たら墓標が立ち並ぶ墓場にそっくりだろう。ビルよ、勃起(ぼっき)せよ! なんてね。あ、新聞記事で『勃起』はまずいか。アラーキーのボッキード問題、だな。わっはっは」

 黒縁の丸眼鏡の奥でまなざしが優しく揺れた。車窓の向こうに再び、あの「男根ビル」が見えてきた。

記事250◆憂楽帳4回 「野菜の甘さ」

■掲載年月日 2006年10月27日
■憂楽帳:野菜の甘さ

 甘いトマトを食べ「お日様の味ね」と喜んでいる私に、農業を営む義弟がプチトマトをくれた。驚いた。ハウス物の方が露地物より甘い。「最近のトマトが甘いのは、品種改良や給水を減らし、ストレスをかける栽培方法の結果」と義弟はいう。「甘さ」は、太陽の恵みだけではなかったのか。

 今夏、横浜市の畑に放置したトウモロコシの実に100匹ものカブトムシが群がり、話題になった。甘い樹液を求める虫がなぜトウモロコシ? 調べてみると、最近は「カブトムシも食べる甘さ」がトウモロコシの宣伝文句にもなるらしい。メロンより甘い品種もあるというからビックリ。

 義弟と結婚し、毎日取れたての野菜を食べている妹は「枝豆とトウモロコシ、甘くなって味が似てきたね」という。種苗会社「サカタのタネ」の担当者に尋ねると「確かに両方とも今『いかに甘いか』で品種改良を進めている野菜です」。甘さを「太陽の恵み」と信奉し、より甘い野菜を求めてきた私。いつの間にか野性味をきちんと味わえる舌を失いかけているようで、どきっとした。

記事249◆秋空の下、口笛を、の記事

■掲載年月日 2006年10月25日
■秋空の下、軽やかに口笛
■変幻自在、どこでも音楽会


 口笛が今、静かなブームを呼んでいる。吹き方を教える教室が登場し、今年は初の全国大会も開かれた。晴れた秋空の下で美しい口笛を吹けたら、どんなにすてきだろう。楽器のいらない、一番身近でシンプルな“楽器”、口笛の世界を歩いた。

 「さあ、息を吸って。ほっぺを柔らかく」
 「高い音の時は唇を絞って」

 ここはヤマハミュージック横浜「大人の音楽レッスン」の一部屋。譜面立てがずらりと並び、20〜60代の男女10人が練習中だ。
 見た目は極めて地味である。動きがない。イスに座っているだけ。中には「考える人」のポーズで吹き続ける男性もいる。楽器もなければ、手足も動かさない。カメラマンが「写真、難しいです……」とうめく。確かに、写真だけでは演奏中と分からないかも。
 しかし、動きはないが、部屋に満ちる口笛の音は変幻自在。みなで合奏する「遠き山に日は落ちて」のふるえるような高音を耳にし、不思議な気がした。目の前には一つの楽器もないのに、立派な管楽合奏みたい。

 習い始めて3年目の男性(51)は「子供が大学生になった途端、休日が暇になった。家内から『何かやれば』と勧められて……」。一方、夫婦で通う人も。夫(68)が「一緒にできる趣味がほしくてね」といえば、妻(64)も「主人に聞いてもらいながら練習しています」。
 口笛の魅力は、手軽さと音色にあるようだ。「40歳を目前に音楽がやりたくなったが僕は音符も読めず、楽器もできない。でも口笛なら、ね」と弁護士の男性(39)。「楽器がいらないからどこでも演奏できる。体の一部が楽器になるなんてすてきだわ」という会社員の女性(60)はなんと千葉県から片道2時間かけて通っている。

 社会人1年生の女性から定年退職した人まで、世代を超えて和気あいあい。彼らが目指すのは日本初の「口笛コーラス隊」の四部合奏だ。

 同教室の講師、高橋一眞(かずま)さん(67)は口笛講師歴10年。メディアに紹介されるたび、「こんな教室を待っていた」と参加者が増えるそうだ。健康ブームも一因らしい。「腹式呼吸だから健康にもいい。座ってできるジョギングのようなものです。口の周りの筋肉を鍛えるから、口元が引き締まり、表情も若返りますよ」。中高年には格好の趣味なのかも。

 口笛は吹くだけでなく吸っても音が出る。訓練すれば音域も3オクターブ近く出すことができ、思った以上にその表現は奥深い。「海辺や原っぱで1人口笛を吹いてごらんなさい。心が澄み、無限の安らぎを感じる。幼い日に口笛を吹いた日々が懐かしい人もいるはず。大量定年時代、口笛人口は増えるでしょうね」。高橋さんは言うのである。

       ♪

 口笛はかつて、あまり上品なものではなかった。魅力的な女性とすれ違った男たちが吹く「ヒュー」や、親にしかられた悪たれ坊主がごまかそうと吹く「ヒューヒューヒュー」。ところがこの手の口笛、めっきり聞かなくなった。今やテレビドラマや漫画に残るだけではないか。そういえば「夜口笛を吹くと蛇が出る」という言い伝えも聞かなくなって久しい。

 一方、音楽としての口笛は、定年目前の団塊世代がまだ子どもだった昭和30年代に一世を風靡(ふうび)した。坂本九の「上を向いて歩こう」が大ヒット。みなが口笛のパートを一生懸命に練習した。米国映画の挿入曲「史上最大の作戦のマーチ」や「クワイ河マーチ」なんていうのもあった。今、口笛を吹くと懐かしい気持ちになるのは、忘れかけた思い出がよみがえるからかもしれない。

 口笛の教室が増えてきたのはここ数年のこと。02年には、サザンオールスターズの関口和之さんのウクレレと、俳優の竹中直人さんの口笛で全曲作ったアルバム「口笛とウクレレ」が話題になった。「実数は未公表ですが、息の長い作品。4年前の発売時の倍近い枚数が今までにじわじわと売れてきた。珍しい現象です」(ビクターエンタテインメント広報担当)という。

 そして今年はとうとう、初の口笛全国大会が開催された。

       ♪

 全国大会の旗振り役は、「口笛音楽文化の構築」を目指すプロ奏者、もくまさあきさん(64)だ。個人のホームページで参加を呼びかけただけだったのに、なぜか青森から広島まで約100人がテープ審査に応募した。30人に絞って昨年10月に予選を行い、さらに選ばれた10人が今年3月の全国大会に出場。第2回全国大会は来年秋とまだまだ先だが、すでに問い合わせがくるという。

 もくさん自身がプロの口笛奏者になったきっかけは、飛び込み参加した92年の米国の口笛世界大会。世界中の口笛愛好家たちが集まる真剣勝負だ。大好評だったのに気をよくして、00年、正式にエントリーし、ポピュラー部門で見事2位入賞を果たした。

 ところで、口笛教室などなかった時代、もくさんは「世界2位」の技術をいったいどこで磨いたのか。「実は、会社勤めの30年間、ずっと営業マンをやってましてね。宴会部長として口笛で場を盛り上げているうち、上手になっちゃった」。そういえば横浜教室講師の高橋さんも「会社員時代にスナックで古賀政男の『影を慕いて』を口笛で吹いたらママに大受け。それから接待カラオケで演奏するようになった」と言っていたっけ。

 今、この記事を読んでるアナタも近い将来、口笛コンサートを開催してるかも?


◇個性出やすい「楽器」
−−動物ものまね・江戸家小猫さんのお話

 コオロギやスズムシなどの秋の虫や鳥のさえずりの模写に口笛は欠かせない存在です。例えばコオロギが羽をこすり合わせる音。あれは吸って口笛の音を出しそれを上あごに当てて音を転がして出しています。
 僕たち団塊世代は、誰も結構口笛が得意です。子供時代、めんこ同様に口笛は男の子の遊びでしたから。学校帰りなんかによく吹いたものです。特に僕にとって口笛は家業ですから。友達が「クワイ河マーチ」なんかを練習する横で、おやじ(江戸家猫八さん)に習った「吸う口笛」をよく練習しました。コオロギの音を出せたのは確か、小学6年生の時だったと思います。
 口笛の魅力は、歌声の音域よりもはるかに高い音を出せること。低い声の男性でも美しい高音を出せるのは、声帯を使わず、口を楽器のように使って出す音だからです。また、口笛は音に個性が出やすい「楽器」。口の形は一人ひとり違うから。吹けるようになってから、音に自分の持ち味を出せるまでの奥深さが最大の魅力だと思います。

記事248◆憂楽帳3回 「語るより聞いて」

■掲載年月日 2006年10月20日
■憂楽帳:語るより聞いて

 薬物依存に詳しい国立精神・神経センターの松本俊彦医師から聞いた話。治療に来た若者が家で嫌だった体験としてよく挙げるのが「父親の晩酌」だという。薬物依存の背景には虐待がよく指摘されるが、なぜ晩酌?

 つまりこうだ。普段は子供とすれ違いの父親が久しぶりに早く帰宅する。「今夜こそ」と意気込んだ父親は「どうだ勉強は」と子供を質問攻めにし、「人生ってのはな」と語りがち。おまけに酔えば人間くどくなる。父が熱く語るほどに子の心は冷めていく。「日ごろの信頼関係のない親子間で一方的に価値観を押し付けるのは『虐待』と同じ」と松本医師は説明する。父親も子供にかかわろうと必死なだけに何だか切ない話だ。

 父親の教育熱が高まっている。マニュアル本や雑誌は「受験こそ父親の出番」「自分の仕事を子に語ろう」「週1回本気で対話を」とあおる。私も父親の育児参加には大賛成。でも松本医師は「語るよりむしろ聞いて」という。

 熱く語るのは易しい。でも思春期の子供が語るまで待つのは、実はとても難しい。

記事247◆ラブレターを綴ろう、の記事

■掲載年月日 2006年10月19日
■ラブレター、綴ろう
■物思う秋、妻に夫に恋人に


 物思う秋。でも思ってるだけじゃ、伝わらない。手紙を書きませんか。恋人に、妻に、夫に、綴(つづ)る大人のラブレター。ほらほら、恥ずかしがらないで。だって秋だもの。


 最近の若者はラブレターをあまり書かないらしい。電子メールのこの時代、パソコン画面でコピーを繰り返せば、「好き好き好き」と100回重ねた言葉の文も1分以内にできあがり。クリック一つで送信完了だ。
 こんな時代だからこそ大人がラブレターを書こうじゃないか。そう。年を重ねた大人にしか書けない大人のラブレター。ところが青春時代ならいざ知らず、今さらラブレターを書くのは案外、難しい。

 まずはラブレターの達人で作家の小嵐九八郎さん(62)に教えを請うた。小嵐さん、これまでに書いたラブレターは「合計750通ぐらいかな。このうち妻へが500通」とか。高校1年の時、1学年上の女性に一目ぼれ。9年間、ラブレターを書き続け、見事恋を成就させた。初めて床を共にした日、「手紙が効いたのよね」とささやかれたそうな。このお相手が今の愛妻というから、お見事!

 「ラブレターの中身は相手との関係で書き分けねばなりません。名乗り合う前の相手なのか、恋人一歩手前なのか、すでに恋人なのか、夫や妻なのか。例えば『すました時の唇の縦じわがいいね』と書いた手紙を、名乗る前の相手に渡せばただのストーカーです。しかし、恋人一歩手前の相手になら、さりげなく接吻(せっぷん)したい思いをにおわせることもできるでしょう?」

 なるほど。恋人向けと夫や妻向けに分け、コツを整理してもらった。
 「恋人や恋人以前の相手には直接的な表現より、何重にも意味が取れる含みのある文章がいい。相手の重荷にならず、あれこれ想像してもらうことで恋が盛り上がるから」となかなか高度なテクニック。

 例えばこれ。

 <横山大観の絵をがらにもなく見にいきました。桜の絵がすごい。でも桜も散るんですよね。現実の桜は。それで○○子さんを思っちまいましたよ。青春、疾走してください>

 小嵐さんがある女子大生に出したハガキだ。「思っちまいました」は単に「思いついた」から「愛(いと)おしく想(おも)った」まで解釈が可能。最後に「青春、疾走して」とオジサンらしい余裕を見せるあたりが心憎い。

   *

 では、夫や妻へのラブレターはどうか。「こちらは逆。普段なかなか言えない感謝やおわびの思いを極力ストレートに書く。多少気恥ずかしいくらいの言葉をはっきりとね」。ご自身、仕事で5日も家を空ければ、必ず妻に手紙をしたためるという。例えばこんなふうに。

 <今朝、眉山(びざん)という山に登り徳島市内を見渡した。霞(かす)む海が見え、あの先におまえがいると、はや、里ごころ。この城下町は藍染(あいぞ)めが昔から盛ん。取材より、おまえへの土産探しで忙しい。火の用心>

 肝心の思いはどんな言葉で伝えよう? 「愛してます」だろうか。それとも……。

 ところが小嵐さんは「愛の告白なんていらない。自分の思いなどは手紙の1割でいい。9割は相手中心に書く。例えば、相手の良さを自分なりの言葉でほめてあげる。美しい人に美しいといっても喜ばれない。むしろ本人が欠点と思っている点をほめる」。例えば、絵が上手と自分で思い込んでいる口下手の女性にはこんな感じ。

 <デフォルメの奔放な絵手紙に感激です。赤いカラス瓜(うり)と、なお青い葉が、過ぎた夏と秋を二重写しにしていて、音なき音楽を思いました。寡黙なあなただけが描ける世界です>

 確かに「好き」と言われるより、ほめられるほうが人間はずっとうれしいのかも……。

    *

 「『好き』『愛してます』は、できれば書かないほうがいいほどです」とおっしゃるのは法政大社会学部の田中優子教授だ。著書「江戸の恋」(集英社新書)で江戸時代の恋文について書いている。

 「江戸時代、遊女にとって恋文を書けるかどうかは命綱でした。さらにさかのぼれば、源氏物語の男女は相手の顔を知らないままで恋をする。つまり手紙に恋をするというわけ。文字、文体、織り込む詩歌、背景に見え隠れする教養や精神性……。手紙は人となりを伝えるのに格好の手段なのです」

 江戸時代の寺子屋では、手紙文でできた往来物と呼ばれる教科書がよく使われた。「手紙を手本にすることで、言葉遣いや表現を覚えると同時に、人間関係を築く技術も身につけ、大人になっていった。手紙はコミュニケーションの基本です」と田中教授はいう。

 しかし、田中教授自身は「好き」「愛してます」と書いた手紙を送ったり、送られたりしたことはないという。「私がこれまでに書いたのも、もらったのも、『好き』『愛してる』という言葉のないラブレター。ずっとそのほうが魅力的だと思います。だって『好き』や『愛してる』という言葉は勝手に自己完結している感じで、相手には届かないですから」

    *

 小嵐師匠の著書「せつない手紙 こころを伝える綴り方講座」(ちくま新書)に愛妻へのこんな手紙を見つけた。

 <いとしの妻よ。照れるのでいいにくいけれど、本当は離れて一人で眠るときも、いっしょに手をつないで眠るときも、必ずおまえを五分間、凝縮して思っています。いままでこのことを隠していてごめんよ。(中略)死ぬ時は、最愛のおまえに看取(みと)られて死にたいと改めて強く思う毎日だ>

 やけに直球勝負の表現に「こんな情熱的な手紙、ほしいな」とうっとりしつつ、読み進めた私は途中であぜん。なんとこれ、小嵐さんの「悪さが発覚した時」の手紙。でも、手紙のおかげで妻は「ちょっぴりだけ機嫌を回復させてくれた」という。

 なーんだ、あきれた。

 でも、さすがは「大人のラブレター」。許せないことまで、つい許しちゃうかも。

 「達筆でなくていい。むしろ素朴な思いを伝えるには達筆でないほうがいい。手触りを大事に、紙を、ペンを、切手を選ぶ。手紙が相手に伝える繊細さや重さは電話や電子メールの比じゃありません」と小嵐さん。

 澄んだ秋の空の下、アナタも思いを手紙に託してみては?

記事246◆憂楽帳2回 「ナカちゃん」

■掲載年月日 2006年10月13日
■憂楽帳:ナカちゃん

 まだ凍ったままらしい。何かというと徳島県の那賀(なか)川で人気者だったアゴヒゲアザラシのナカちゃん。8月に死んでから、ずっと動物園のエサ用冷凍室の中にいる。

 自治体には「市民葬に」「遺体を見せ物にするな」など住民の声が約50件。博物館が学術利用すると決まり、目下、骨格標本案が有力だが、「残酷」「子供はショックでは」という意見も。「擬人化された存在だけに、すぐ骨にすると住民感情が……」と博物館関係者も案じており、体長188センチの冷凍保存は当分続きそうだ。

 02年夏、人気アザラシの先輩格タマちゃんの見物客に「なぜ冷房の利いた水族館に行かないの?」と聞いたことがある。ある小学生の答えは「タマちゃんはホンモノだから」。きっと「野生動物だから」と言いたかったのだろう。

 今や阿南市特別名誉市民のナカちゃんだが、海岸に打ち上げられたウミガメやクジラと同じように、野生動物として骨格標本にしてあげてはどうか。子供が骨を見て泣いたなら、私たち大人が動物の生き死にについて言葉を尽くせばいい。

記事245◆憂楽帳1回 「あの日」

夕刊のコラム「憂楽帳」に連載することに。
その初回に書いた記事です。
会社に届いたのは共感の手紙ばかり。
逆にネットではあれこれ批判も浴びました。


■掲載年月日 2006年10月06日
■憂楽帳:あの日

 「皇室に男児誕生」の報に日本が沸いた日から今日で1カ月。新しい命の誕生に、まずは心から「おめでとう」と言いたい。でも、あの日の報道は変だった。メディアの選んだ「街の声」は祝福ばかり。テレビ画面では、サラリーマンが、若い母親が「おめでとう!」と口をそろえて笑っていた。

 ところが私の周囲はそうでもなかった。命の誕生を歓迎しつつも「男児男児って騒ぐのは変」「雅子さまの気持ちが心配」「社会が女に求める役割は今も『産む性』?」。
 私はといえば息子を出産した日を思い、母子のご無事を祈りつつも、なかなか妊娠できず病院に通った日々の切なさがよみがえり、「おめでとう」一色の報道に小さくため息をついた。

 女たちの多くがあの日、それぞれの立場で切実な思いを抱き、「おめでとう」という思いとのはざまで戸惑い、葛藤(かっとう)したのではないか。でもメディアが伝えた「街の声」は、薄っぺらで分かりやすい祝福の物語だけだった。私はあの日、女たちの声を一つ一つ拾いながら、いつかこのことを言葉にしよう、と思った。

記事244◆飼い犬の世界にもお受験?!、の記事

かつて、犬を飼う世界と、人間の子育てとの類似点について、本を書けないかと思ったことがあります。「公園デビュー」から「過干渉」まで、何でもありですから。それでも、犬は「お受験」とは無縁だと思ってたんですけどねえ……。


■掲載年月日 2006年10月04日
■犬もお受験ブーム!?
■「賢さ」にこだわる飼い主
■人間の子育てと同じ、期待はほどほどに…


 犬の「賢さ」にこだわる飼い主が増えている。犬の知能指数(IQ)診断が人気を集め、犬用の知育玩具まで登場。子犬が通う幼稚園も大人気だ。もしかして犬の世界も「お受験」ブーム?


□「個性尊重、ほめて育てる」

 ここは「犬のようちえん」(東京都目黒区)。女性トレーナーが指を立てると、じゃれ合っていた子犬たちが次々とお座りして見せた。トイプードルにチワワにヨークシャーテリア。毎日、人気の犬種の子犬たち約20匹が通う。送迎バスで登園、ドッグフードの弁当を食べ、散歩や昼寝をし、連絡帳だってある。ホンモノの幼稚園そっくり!
 お座り、待て、伏せなどの指示やトイレ習慣のほか、社会性を身につけるのが目的だ。週3回計36回の小型犬向けコースで授業料は約26万円。決して安くはないが、「楽しそうに通う愛犬の姿がうれしい」「しつけに迷った時の心の支えになってくれる」「幼犬のうちに正しいしつけを教えられる」と飼い主たちの評判は上々なのだ。
 運営するアニマルプラザによると、00年に開園した当時は「日本初の試み」(同社)だったが、6年間で同社だけでも5園に増えた。幼稚園や保育園を名乗る同業他社も増え始めたという。
 「犬のようちえん」の教育方針は「個性を尊重し、ほめて育てる」こと。ホームページでは「最近急増中の『キレる犬』や『犬見知りする犬』になりません」と宣伝する。これを見た時は、1児の母である私も驚いた。これじゃまるで人間の子育てだ。
 そういえばここ数年、犬の飼育と子育てが段々と似通ってきている。飼い主同士が「○○ママ」「○○パパ」と呼び合うのは序の口。約10年前、育児雑誌が「公園デビュー」向けの服装やマナーなどを特集した時には、ペット雑誌も飼い主向けの公園デビュー特集を組んだっけ。

□一緒にDVD

 「犬の飼育は今や、人間の子育てと全く同じ」と断言するのは、かまくらげんき動物病院(神奈川県鎌倉市)の石野孝院長だ。「実は、初めて犬を飼う人の間で最近、『どうやってしつけたらいいの?』という育児ノイローゼが増えているんです。一方で、犬とダンスする教室やフライングディスク大会など、犬関連の競技会が過熱しています。犬の世界でも『お受験』ブームと言えるほどです」という。
 そんな石野院長のアイデアで6月に発売されたのが「ポチ教授の犬Q(ワンキュー)診断」(4980円)という名のDVD。犬とDVDを見て、画面で突然鳴り出す赤いサイレンに犬がどう反応するか、飼い主が着ぐるみを着て犬に接した時、犬は飼い主と気付けるか、などの質問に答えるうち、犬のIQや性格が分かる、という商品だ。レンタル用も含めて約1000枚が売れた。特に犬を我が子のように育てる夫婦や年配者に人気だという。
 このDVDを2歳のミニチュアダックスフントに試した都内の会社員女性(43)は、「IQは82でした。性格診断は『マイペース』と出て、なるほど当たってる、と思いました。犬を3匹飼ってる友人にDVDの話をしたら、彼女も『おもしろそう。やってみたい!』と言ってましたよ」と語る。
 飼い主はなぜ、犬の「賢さ」が気になるのか。石野院長は「犬の社会的な地位の変化」を一番の理由に挙げる。「犬はかつては番犬でした。でも今は共同生活者。マンションで暮らしたり、レストランに一緒に入るためには、しつけは欠かせません。また、消費者金融のマスコット犬、くぅ〜ちゃんのようなスター犬が登場したことで、自分の犬を他の犬と差別化したい飼い主も増えているのでしょう」

□本当の愛情って

 そんな折、売れ始めたのが犬向けの知育玩具。欧米諸国からの輸入商品しかなかったが、数年前から国産品が現れた。業界関係者は「右肩上がりが期待されるマーケット」と口をそろえる。多くは押したり転がしたりして中のエサを取り出す仕組みで、犬の学習能力を高める効果があるという。
 ただし、飼い主たちが犬の英才教育のために買っているかというと、案外そうではないらしい。開発販売に取り組む大手ペット関連会社「ドギーマンハヤシ」(大阪市)の営業企画部長は「犬の能力開発という以上に、犬が玩具に熱中してくれると、その間は飼い主も楽ができる、ということでも喜ばれています」。ドキッ。これって、親が子どもに玩具を与える時の心理に似ているかも……。
 さて、子どもにも犬にも親(飼い主)の思いが重くのしかかるこの時代。自らも犬を飼い、「本物の愛犬家」を自負する哲学者、池田晶子さんは「犬の潜在能力を知りたい飼い主の気持ちもよく分かるし、IQ診断や玩具を通して犬と飼い主が一緒に楽しめるなら、それはすてきなことだと思う」と語る。「ただ、子育てにおける『お受験』みたいになってしまったら、それは犬への純粋な愛情かしら?」とも。
 子どもにも、犬にも、期待するのはほどほどがいいかも……。

◇目指すゴールは違うから
−−帝京科学大アニマルサイエンス学科・横山章光助教授

 子育てと犬を飼うことは確かに似ていますね。特に最近は、人間の子育て並みの過剰な期待を犬に寄せる飼い主もちらほらみかけます。
 ただ、親(飼い主)が子ども(犬)に求めるものや、目指すゴールは、やはり違う気がします。人間の場合、子どもは親の死後も生きる。だから子どもに施す親の教育が、子の将来にかかわってきます。一方、犬の場合、犬は飼い主より先に死ぬことがほとんどなので、飼い主の死後の犬に生活力があるか、自立できるかなどの問題を考える必要はありません。
 IQ診断などに人気が集まっているのも、自分の犬の優秀さを確かめたい、という思いが強いというよりは、できればできたでほめ、できなければできないで「かわいいねえ」と笑う、そんな犬を通したコミュニケーションが楽しいからではないでしょうか。
 過剰な期待や方向性を押しつけている、という点では、僕はむしろ犬の飼い主より、人間の子育てのほうが心配です。犬の飼い主のほうが、「できないところが、これまたかわいい〜」という心の余裕があるように見えるから。
 その点では、人間の子育てのほうが犬の飼育に学んでもいい時代かもしれませんよ。

記事243◆青木玉さんに聞いた煮豆話

大好きな作家幸田文さんの娘である青木玉さん。
憬れの方は、着物姿で出迎えてくださった。

■掲載年月日 2006年09月26日
■しあわせ食堂 青木玉さん「煮豆」
■コトコト罪滅ぼし−−母も好きでした

 秋になると、豆を買います。顔つきの良い新豆を選び、コトコトと煮る。普段はせわしなくて、ゆっくりと料理をしない私の、せめてもの罪滅ぼしです。豆を煮るのは心に余裕がある時。次の日に原稿の締め切りを抱えていない時。だから豆を煮ている時の私は機嫌がいいの。
 慌ててみても豆ばかりはせっかちに煮てはだめ。水に一晩漬けなきゃいけないし、煮ている間は家を出られない。だから洗濯やガラス拭(ふ)きなど家の中の手仕事と組み合わせる。煮たら煮たで、まめ(・・)に火を通さないとだめ。豆は足が早いから。手をかけた時間と一緒に食卓に乗るのが、煮豆なんですね。
 煮えるにおいも好き。時間のあるにおい。お砂糖がからんだ甘いにおい。ちょっと湿り気のある、何て言うのでしょうねえ。多少歳(とし)のいっている女が家にいるにおい?
 私がよく煮るのは、白いインゲン豆。若いころは大ぶりの白花豆でしたが、今は小ぶりの手芒(てぼう)豆。和菓子の白あんにする豆です。うずら豆や金時豆のような赤い豆もあれば、うぐいす豆、虎豆、鞍掛(くらかけ)豆なんかも。豆の名前っておもしろいのね。
 母(幸田文)も煮豆が好きでした。豆を煮ては母によく届けたものです。母は「あんたは気が長いから豆を煮るのにむいているよねえ」と言ってました。物書きの母は、豆を煮ているのを気にしながら、鍋を焦がしてしまう。一方、私は当時、主婦でしたから、のんびりと「お豆煮えたかな」なんてね。
 ところが90年に母が亡くなり、60歳を過ぎてから物書きになって、今はもう煮豆の鍋をしょっちゅう焦がしています。鍋底にべったり。母と同じです。
 祖父(幸田露伴)は糖尿病で、甘い煮豆は食べませんでした。祖父が存命のころのわが家は、すべて祖父中心に回っていましたから、豆を甘く煮ることはあまりありませんでした。甘いものは作らないけれど、お酒のさかなはつぎつぎ作らなきゃいけない。祖父が長く飲みたいときに、さっきと同じ料理を出すなど許されないから。
 私は罰あたりな孫で、祖父が亡くなった時は「一日中しかられない日があるっていいな」と思いました。でも母は「お父さんがおいででなくて、張り合いがない」とふぬけみたいにしょんぼりなっているのね。私は「あんなに父親に尽くして、それでもまだ足りないのか」と思ったものです。
 いい親子でした。とびっきりのね。片方はわがまま放題。もう片方は何とかそれを叶(かな)えてあげたいと夢中になっていた。それが母の幸せでもあったのです。
 みなさんは、離婚後ずっと独りだった母について、「好きな人がいたのでは?」などとおっしゃるけれど。祖父ほどの器量の人がそういるかしら。もしそうなら、女はたまったもんじゃありませんよ。

■ごちそうさま
 煮豆は新聞記者にとってハードルの高い料理です。豆を水に漬けた翌日に限って急な仕事が入る。煮ないまま水の中で腐らせたことも。無事に豆を煮上げた時は達成感すらあります。だから「手をかけた時間と一緒に食卓に乗るのが煮豆」という青木さんの表現に共感し、思わずひざを打ちました。(おぐに)


記事242◆「これってホメことば?」現象

■掲載年月日 2006年09月20日
■「なにげに」話題沸騰
■ことばおじさんが歌う「これってホメことば?」

◇フツー→わりと、やばい→かっこいい
◇年配「若者語がわかった」 10代「理解されうれしい」

 「これってホメことば〜?、これってホメことば〜?」というフレーズがやたら耳に残るロック調の曲をご存じだろうか?「なにげに」や「フツーに」といった若者語の意味に付いていけず戸惑う中年男の悲哀を、NHKのアナウンサーが歌い上げた曲が、家庭で職場で話題沸騰なのである。

 この曲はNHKのテレビとラジオの番組「みんなのうた」で8月から放送中の「これってホメことば?」。日本語に関する視聴者からのハガキを下敷きに、伊達正隆アナウンサー(35)が作詞。NHKの番組「お元気ですか日本列島」で「気になることば」を担当し、「ことばおじさん」として知られる梅津正樹アナウンサー(57)が歌っている。

 日本語ブームを背景に、反響は300件を超え、着メロのダウンロードも2500件を突破。22日にはCDとDVDを発売。9月末に放送終了の予定だったが延長され、10月中も何度か放送されることが決まった。

 まずは歌詞を見てほしい。中年男性がカラオケでは部下に「なにげに歌うまいっすね」と言われ、すしをおごった自分の娘には「フツーにおいしいよ」とあしらわれ、洋服店では選んだ服を若い店員に「めっちゃやばい」と言われ、花束をプレゼントしたお嬢さんからは「この花、よくなくな〜い?」。中年男性は戸惑うが、実はこれ、若者語では全部ほめ言葉。サビの部分で梅津アナは「これってホメことば〜?」と絶唱する。

 作詞を担当した伊達アナは放映前、「NHKが日本語の乱れを助長するのか」などの視聴者の批判も覚悟していたという。しかし、ふたを開けてみれば批判はごくわずか。10代の女の子たちからは「若者語を理解しようとしてくれてうれしい」「学校でみなで歌っています」▽母親からは「子供の言葉の乱れにやきもきしつつ、親子で楽しく歌ってます」▽年配者からは「歌を聞いて『そうそう』と独り言を言ってしまった」――など、幅広い年齢層から好意的な反響が寄せられている。

 続きの歌詞を募集したところ、投稿は100件を突破。「ありえなーい」(想像以上にびっくり)、「ブサかわ」(ブサイクかわいい)、「ばりスゴ」(かなりスゴイの博多弁)など若者流の「ホメことば」が続々と集まっている。梅津アナは「日本語の乱れや変化を頭から否定するのではなく、この曲をきっかけに、なぜそんなふうになったのか、どうしていけばいいのかを皆で考えてほしい」と語る。

  ♪

 「10年前なら、もっと批判が多かったかも」というのは椙山(すぎやま)女学園大学人間関係学部の加藤主税(ちから)教授。95年と04年の2度、若者の言葉について調査した。「若者語について、10年前の年配者は『けしからん!』『娘が使ったら怒る』と答えたが、今は『面白い』『使ってみたい』が増えた。年配者が若者語にすり寄っている」と指摘する。

 一方、若者の側にも変化が。「10年前の若者は、大人の前であまり若者語を使わなかった。使えばしかられるし、後ろめたさも感じていた。でも今は逆に優越感を持って使っている。若者語と自覚せずに使う子も多い」。だから世代間のコミュニケーションエラーが発生する。
 例えば、会社の会議では上司の提案したプロジェクトに20代の部下が「課長、それ、やばいっすよ」。部下は賛辞を述べているつもりなのだ。また、事件を目撃した若者が容疑者について「やばい人と思った」と証言し、警察側は「危険人物と思った」という意味だと理解していたが、若者の方は「カッコイイ人!」と言ったつもりだった、という笑えない話も。

 「これってホメことば?」の歌詞について、加藤教授は「2番の歌詞で『フツー』を『わりと』の意味だと説明しているが、今では『大変に』『すごく』という意味も持っている。強調を好む若者が『すごく』『超』と言い過ぎた結果、言葉のインフレが起き、逆に『普通』の希少価値が高まった。その結果、『大変に』『すごく』という意味も付加されたのでしょう」。

  ♪

 ところでNHK放送センターのある東京・渋谷は若者語の震源地。今、どんな言葉が流行しているのだろう。女子高生を中心としたマーケティング会社「アイ・エヌ・ジー」(渋谷区)の竹永新治社長にも聞いてみた。
 「若者語というより、いわゆる渋谷のギャル語では、例えば『うけるー』『ぱねぇ』でしょうか」と竹永社長。「うけるー」は本来、面白い話に「それ、うける」などと使われていたが、今は「へー、そうなの」という単なる相づちの意味に転じている。一方「ぱねぇ」は「半端じゃない」→「ぱない」と変化した強調の言葉で、文章の中でよく使われるという。

 若者語と見るや「オトナ語」に訳したくなるのが我々大人の習性だが、竹永社長は「それは不可能」と断言する。例えば2番の歌詞の「フツーにおいしい」についても、「若者は語感やリズム感で言葉を選び、意味は重視しない。ある子にとっては『おいしいの中の普通』であり、ある子にとっては『ただのおいしいよりはずっとおいしいけれど、超おいしいよりは下』。使ってる若者たちの間でも厳密な定義はないのです」。

 同社は女子高生を対象とした流行語のアンケートを実施しているが、「これってホメことば?」に登場する「なにげに」や「やばい」はランキング入りしていない。竹永社長は「大人の目には若者語の代表格であるこれらの言葉は、女子高生にとっては既に定番で、流行語ではないから」と説明する。

 実際、NHKには「お陰で若者の流行語の意味がわかった」という年配者の喜びの声とともに「私たちには常識的な言葉がオジサンには分からないんだ」という10代の驚きの声も寄せられているとか。世代間ギャップはかくも深刻なのだ。
 ところでこの曲、カラオケ配信も始まったらしい。オジサンの絶唱が街に響くかも……。

記事241◆「おふくろの味」の土井勝さんを忍ぶ記事

2006年夏の連載企画は、今はもう亡くなってしまった人に、「会いにいく」記事。今回は、デスクから、「おふくろの味」の土井勝さんを、と指名され、大いに悩んだのでした。
だって、自分自身、ワーキングマザーで、「おふくろの味」とか全然実践できてないし、そもそも、「おふくろの味」という言葉にしみついたオヤジたちの哀愁とか郷愁みたいなものも大嫌いなもので……とほほ。


■掲載年月日 2006年08月17日
■06夏・会いたくて/6
■土井勝さん(95年死去・74歳)
◇手作りこそ愛−−料理研究家、「おふくろの味」生みの親
◇「家族の楽しい食事」こだわって


 うわ、男ばっかり。
 東京・神田にある居酒屋の引き戸を開けて、ちょっとひるんだ。偶然か、お客さんみんなワイシャツ姿のサラリーマン! 切り盛りするのはエプロン姿のおばさんたち。まるで田舎の母が台所から抜け出してきた感じ。

 ここは「おふくろの味」が看板の店。おじさんが甘えた声で呼ぶ。「ママさ〜ん」。「あんたのママか?」と出かかった声を、私はビールで流し込む。でもおじさんたち、実に幸せそうだ。肉じゃが、切り干し大根、そしておふくろの味という言葉……。

 外食でモテモテの「おふくろの味」、肝心の家庭の食卓では出番が減った。服部栄養専門学校校長の服部幸應(ゆきお)さん(60)は「おふくろの味は『袋の味』」と言った。つまりレトルトパックの「袋」を開けるだけの食事になったというわけだ。その一方で「キレない食事」をうたう本が売れ、「食育」の名のもと、子供料理教室やコンテストも盛況だ。

 「どう思う?」。心で呼びかけた相手は「おふくろの味」の言葉の生みの親、料理研究家の土井勝(どいまさる)さん。あの柔らかい関西弁で語る料理のイロハ、懐かしい。生きていたならこの風景を何と……。

 勝さんは1921年、香川県に生まれ、大阪で育った。母の手料理が大好きな食いしん坊。幼い日、母から聞いた「あなたは火と水のお不動さんがついている。火と水を使う仕事を」という一言を胸に15歳で日本割烹(かっぽう)学校長のかばん持ちに。母の味が「師」だった。
 テレビ放送が始まった53年から料理番組に多数出演した。開設した料理学校の生徒は最盛期で1万2000人、卒業生は実に26万人。最後の著書になった「土井勝 日本のおかず500選」(テレビ朝日)は今もなお子や孫への贈り物とされるロングセラーである。

 正直いうと「おふくろの味」には少々の負い目と反発を感じてきた。共働きのわが家ではレトルトや冷凍食品は強い味方だし、第一、料理は女だけの仕事ではないはず。でも、亡き母が釜底に残るお焦げご飯で握ってくれた塩だけのおむすびを思い出すと、鼻の奥がツンとなる。手抜き料理が信条のくせに炊飯器ではなく土鍋で米を炊いている。「母の味」は思いのほか体に染みこんでもいる。

 「おふくろの味」にこめた勝さんの思いが知りたくて、妻信子さん(75)を大阪市に訪ねた。住吉大社にほど近いお好み焼き屋さんに誘われ、鉄板を前に並んで座った。「主人は生まれて半年で父親を亡くしたんです。母親は女手一つで5人の子を育てました。父親のいないふびんを手料理で補おうとした。『おなかいっぱいなら心も大丈夫』と信じて。だから主人の味の原点は母の手料理やったの」

 勝さんが「おふくろの味」を唱えだした昭和40年代は、まさにファストフードが日本に上陸し、レトルト食品が登場した時代だった。すでに風前のともしびだったからこそ、勝さんは「おふくろの味」にこだわった。なぜなら彼自身がその味で育ち、生きてきたから。

 「ほんと家で食べるのが好きな人やった。たまに外食しようと誘っても『家がいい。お茶漬けでもいい』って。出張のたびに私のおにぎりを持参して、新幹線の車掌さんに『先生、またですか』と覚えられてしまうほどでね」

 勝さんの思い出話を楽しませてもらいながらも、やはりひっかかる。聞いてみようか。「でも料理は女だけの仕事じゃないですよね」。そしたら信子さん、クスクス。「まあ、時代やったのねえ。主人の母は、主人が自宅の台所で試作料理を作ろうとしただけで『男子厨房(ちゅうぼう)に入るべからず』と怒ったんよ。料理の先生やのにねえ」

 亡くなる前年に出版された勝さんの「ほんとうの味 ほんとうの幸せ」(経済界)におもしろい挿話があった。母譲りなのか、「男子厨房に入るべからず」の信念で料理学校に男の生徒を受け入れなかった勝さん、78年に訪中した際、共働き家庭の中国人の男性は当然のように台所に立つ、と知った。そんなこともあって、92年に「男の料理」クラスを開講した。

 ある日、生徒からこう打ち明けられる。「先生、料理を習って本当によかった。長く反抗して口も利いてくれなかった娘が、私の手料理を食べて『手伝おうかな』と隣に立ってくれたんですよ」

 感動した勝さんは書いている。

 <手づくり料理を一緒に食べることによって、家族のコミュニケーションがよくなるということ、これは『男の料理』の生徒さんが例外なくおっしゃることです>

 そして、高度成長の時代、忙しすぎる父親が家庭の食卓にいなかったことを指摘し、書いている。

 <日本の家庭の食卓が本当に豊かな姿を獲得するのは、これからだと思います。そのためには、忙しくても『家族がいかに協力し、いかに楽しく食事しようか』ということを、大切に考えてほしい>

 じゅーじゅー、さっきからお好み焼きがいいにおい。土井家にも「おやじの味」があった。それが、お好み焼きだった。「準備は私。焼いて、等分に切り分けて子供の皿に分けるのがあの人の役目でね。子供は大喜び。食べることより父親とのおしゃべりがうれしかったんやろうねえ。すき焼きやカレーも作ってくれましたよ」

 さて、その勝さんが亡くなって十年余。あれから私たちの食卓は本当に豊かになったろうか。

 東京・自由が丘のキッチンスタジオに勝さんの二男で料理研究家の善晴さん(49)を訪ねた。「そうですね、父の言った『おふくろの味』は何も凝った料理じゃない。親が当たり前に作った当たり前の料理を子供が食べる。それが大切。だって親の手料理は作ることが愛情で、子どもは食べることで親の愛を受け止めるのですから」

 胸にぐっときた。確かに。我が家でも息子が学校からしょげ帰ってきた時には「どうしたの」と聞き出すより、夕飯に好物を出してやったり、一緒に豆のさやをむかせたりする方が元気になる。手料理には不思議な力がある。

 食べ物を通して戦後日本を見つめてきた料理記者、岸朝子さん(82)はこう言っておられた。「亡き母に教わったのは『悲しんでる人にはおいしいものを』という言葉でした。料理は人を幸せにするから。今でも私、風邪で寝込んだ日に母が作ってくれたおかゆや煮物の味を忘れない。料理は、命をつなぐ営みなのです」

 だから懐かしい家族の思い出はいつも食卓の味によって紡がれる。これを誰より知っていたのが勝さんだったのだろう。

 「インスタントラーメンも家族の健康を考え、野菜炒めをのせれば立派な『おふくろの味』」とも語っていた勝さん。何も難しいことではない。ちょっとした心遣い。信子さんの言葉があらためて心に染みた。「あの人が『おふくろの味』という言葉で本当に伝えたかったんは、家族への愛情のこもった手料理が一番尊い、ということやったんと違いますか」

記事240◆詩人が死んでゆく、という記事

たぶん、この年に書いた記事の中では一番深く心に残っている記事です。茨木のり子さんが亡くなり、さらに宗左近さんが亡くなった時、
「詩人が死んでいく」という一文が頭に浮かび、この喪失感をただ記事に書きたい、と強く思ったのでした。


□掲載年月日 2006年07月27日
□詩人逝く、この喪失感
□茨木のり子さん、宗左近さん
□言葉の力刻み続けたい

 詩人が死んでいく。2月には茨木のり子さん(79)、6月には宗左近さん(87)。戦争体験を自分の言葉で書きつづった詩人たちの相次ぐ死に、こみ上げてくるこの喪失感は何なのか。

■根府川の海

 長梅雨にぬれた根府川(ねぶかわ)駅(神奈川県小田原市)に降りた。がけの上のホームから見下ろすと、一面に淡く光る太平洋。大ぶりのカンナの花が咲き乱れている。少女時代の茨木さんが車窓から見たのもこの花の色、海の色だったのだろうか。

根府川
東海道の小駅
赤いカンナの咲いている駅
たっぷり栄養のある
大きな花の向うに
いつもまっさおな海がひろがっていた
(「根府川の海」より)

 東京から1時間半かけて海を見に来たのは、詩人たちの死に感じた喪失感の正体を自分なりに見極めたかったからだ。
 15歳で開戦、19歳で敗戦を迎えた茨木さん。「あふれるような青春をリュックにつめこみ動員令をポケットにゆられていった」時も「燃えさかる東京をあとにネーブルの花の白かったふるさとへたどりつく」時も、車窓からこの海を見た。戦争と隣り合わせの青春。この海にどんな思いを閉じこめたのか。

 無人の駅舎には、この詩の額縁が飾られている。今もこの詩に導かれて駅に降り立つ人が絶えないという。がけを下りればそこは平和な海。ダイビングする若者が笑い合っていた。

■ブラウスをまくり

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた
(「わたしが一番きれいだったとき」より)

 中学生の時、茨木さんのこの詩を教科書で読んだ。父はよく戦後の貧困を私に物語った。祖父は戦死、祖母は被爆者手帳を持っていた。でも高度成長期に生まれた身には、戦争はどこか昔話だった。けれども、この詩は不思議と胸に届いた。自身が青春の入り口にいたからだろうか。踏みにじられた季節。それでも「のし歩く」力強さ。これが彼女の詩との出合いだった。

 一方、宗さんとは03年暮れに実際にお会いした。千葉県市川市の彼の書斎で江戸川に燃え落ちる夕日を見ながら、戦争の話を聞かせてもらった。
 東京大空襲で母を亡くした。助けられなかった。炎に溶けていく母を見つつ、置き去りにして逃げた。67年、詩集「炎(も)える母」を発表。

母よ呪ってください息子であるわたしを
あなたを生きながら焼いたことをではなく
あなたを生きながら焼いたのにもかかわらず
そのことのために生きながら焼かれていないわたしを
 (「炎える母」より)

 3年前のあの日、宗さんは言った。
 「平和憲法の下には戦死者が埋まっている」。
 戦死者とは死んだ母や親友たちのことだったろう。その2日後の12月19日、航空自衛隊にイラクへの先遣隊派遣命令が下ったのだった。

■9・11の後だから

 死の1週間前、病床の宗さんは回らぬ口で「助ケテクレ。俺(おれ)ハ書キタイ。書キタイ」と叫び続けた。妻、香さん(73)が「宗左近はたくさん書いてきた! 休んでもいいの」と必死で語りかけると、宗さんは静かに眠った。「叫び疲れては眠り、起きてまた叫び。最期まで詩句のような言葉を口にし続けました」と香さん。書き留めた言葉は大学ノート2冊になった。

 一方、1人暮らしだった茨木さんは「倚(よ)りかかるとすればそれは椅子の背もたれだけ」と詩に書いた通り、一人で死んでいった。生前に準備してあった「死亡の挨拶(あいさつ)」は死後、遺族の手で知人たちの元に届けられた。

 会ったこともない茨木さんや一度会っただけの宗さんの死を悲しむことの独り善がりを自覚してもなお、喪失感が消えない。感受性豊かな若い時代を戦下に過ごし、そこに詩句を積み重ねた詩人たちが今、次々と鬼籍に入っていく。それが心細い。

 喪失感の理由はきっと、親から語り継がれた戦争を我が子に語り継ぐ自信がないからだ。この国にいてイラク戦争を自分の言葉で語る自信もないからだ。

 2人と親交があった詩人、新川和江さん(77)は「難しいわね」と首を振る。「だって、あなたは日露戦争の話に時代の空気を感じられる?」。……確かに。今の子供たちと太平洋戦争は、私と日露戦争ほども遠い。

 在野の哲学者、長谷川宏さん(66)は茨木さんとの共著「思索の淵にて」で「わたしが一番きれいだったとき」を取り上げ「(若い一女性が)とにかく生きたい、生きつづけたい、という強い意志をもちつづけるとき、死と破壊への道を突きすすむ戦争の残虐さがくっきり浮かび上がる」と書いた。これを読み、長谷川さんに電話した。
 長谷川さんは優しく言った。「僕は9・11の米国同時多発テロの後だから、この文章を書いたんだ。彼女の詩は世代を超えて伝わっていきますよ。だって今の時代にも戦争は、そしてこの詩は決して遠くなってないでしょう?」

■ばかものよ

 新川さんがさらりと言った。「詩人は死んでも作品は消えないの」。虚を突かれた。新聞記者になった時、心に据えた茨木さんの詩がよみがえった。

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
(「自分の感受性くらい」より)

 「茨木さんはね、自分を励ますためにこの詩を書いたのよ」

 ばかものよ。ばかものよ。心で繰り返したら泣けてきた。
 宗さんの一行詩を思った。

 「横倒しされた永遠 水平線」

 詩の題名は「未来」だったっけ。

 言葉に本当に時代を超える力があるのなら――。海の青、カンナの赤い色とともに、何度でもその言葉を胸に刻もう。


記事239◆俳優寺田農さんと見るW杯サッカー

□掲載年月日 2006年07月04日
□俳優・寺田農さんのW杯

□たかがサッカー、たかが人生だ
□だからこそ、人はあがき、ベストを尽くさねばならぬ


 サッカーのワールドカップ(W杯)ドイツ大会は、いよいよベスト4が出そろった。日本敗退にも「お楽しみはこれから」というのが無類のサッカー好きで知られる俳優、寺田農さん(63)だ。25年間率いてきた草サッカーチームは、その名も「インポッシブル・ドリーム(見果てぬ夢)」。今、寺田さんが語る見果てぬ夢とは……。

■スポーツバーにて

 ここは東京・恵比寿のスポーツバー「THE FooTNiK」。サッカー好きのサポーターの根城だ。選手のユニホームや写真が壁を埋め、二つのテレビ画面ではW杯決勝トーナメントの再放送が流れている。
 寺田さんが店にやってきた。ピンと立てた短い髪。真っ黒に日焼けした精悍(せいかん)な顔。ジャケットの襟元には舌を出したローリングストーンズの真っ赤なピンバッジが光っている。
 何だかいつもとイメージが違う。テレビでは、大企業の重役や弁護士、医者など権威に満ちたインテリや仇(かたき)役を演じることが多い。スーツ姿に黒いアタッシェケースがやたら似合う。ところがこの日は、むしろスポーツマン然として、店内のテレビ画面に目をやり「アルゼンチン―メキシコ戦か。いい試合だったね」などと目を細めるのだ。

■現役「10番」で活躍

 実は、無類のサッカー好きである。小学校3年でボールを蹴(け)り始め、高校では先輩とサッカー部を作った。25年前には、俳優業のかたわら「インポッシブル・ドリーム」を始めた。今もフォワードで司令塔の背番号10を背負う。タレントらに加え、元日本代表主将、前田秀樹選手など引退した一流選手もいる本格チームである。
 芸能人が中心となってつくった別のチームの一員でもある。「釜本(邦茂)さんのアシストを受けヘディングシュートを決めたのが最高の思い出。かつての名選手、ドイツのリトバルスキーと試合に出たり、オランダのクライフと2トップを組んだこともあるんだ」。入れ込みようは半端じゃない。

 「W杯は見られる試合は全部生中継で見ている」という寺田さん。日本の1次リーグ敗退にも「これが日本の実力さ。僕の予想は3戦全敗だったから」と淡々としたものだ。
 「良い役者は客が育てる。サッカー選手を育てるのはサポーターだ。日ごろはJリーグを応援しないのにW杯になると大騒ぎし、負けたら『夢をありがとう』だって? 良い試合をするよう選手にプレッシャーをかけるのがサポーターの役目。メディアの大騒ぎも見苦しいよ」と苦言を呈した後、真顔でこう言った。「Jリーグ設立以来、日本サッカーは100年構想なんだ。それこそ見果てぬ夢さ。悔しかったら100年生きればいい。その時には本当に優勝してるかも」

■最期へのこだわり

 野球やラグビーと違い、サッカーで人生論を語る人は多くない。だからこそ寺田さんに語ってもらうつもりだった。しかし寺田さん、こちらの意図を見抜いたのか、先制攻撃をかけてきた。

 「サッカーを人生に例えるなんて実にくだらないね。たかがサッカーだ。そして、たかが人生だ。オシムさん(J1ジェフ千葉監督)は『サッカーは人生に似ている。ただ人生にはサッカーより大事なことがいっぱいある』と言ったがその通り。サッカーにろくでもないゲームが山ほどあるように、ろくでもない人生も山ほどあるさ」
 それからニカッと笑い、こう付け足した。「だからこそ、『たかが』にならないために、人はあがくんだろう?」

 「人生はしょせん、なるようにしかならない」が持論だ。でもこの少々投げやりな人生訓には続きがある。「懸命にベストを尽くさないと、なるようにすらならない。たかが人生、死ぬまでの暇つぶし。でも、ありとあらゆる所に好奇心と興味を持って首つっこみ、何事も一所懸命やらないと、人生の暇つぶしなんてできないんだよ」

 なるほど。だからこそ俳優業に収まらず、ナレーション、果てには「奥の細道」の朗読CDやアダルトビデオの監督・脚本まで新たな分野に挑み続けてきたのだろう。来年、映画を監督するための準備も進めている。

 あなた自身の「見果てぬ夢」は、と尋ねたら、「いい死に方をすること」とすぐに答えが返ってきた。「やりたいことを毎日やって、最期は『まあ、こんなもんかな』なんて言いながら死にたい。これが究極の夢だな」

■フランスの流麗さ

 寺田さんはなぜサッカーが好きなのか。「そりゃ、誰にも先が読めないからね。サッカーは統計上はわずか17秒で1点を入れる事が可能なんだそうだ。だからこそ目が離せない」
 寺田さんが好きな選手は、フランスで「将軍」と呼ばれたプラティニ選手。「当時のフランスは『シャンパン・サッカー』と呼ばれた。華麗でオシャレなサッカー。流れるようなパス。ジダン選手が絶好調の時のフランスのサッカーも流麗だったね。ブラジルが技術で攻めるのに比べ、フランスは技巧を目立たせない華麗さがあるんだな」

 思わず、話に引き込まれた。「流麗なるサッカー」を語る時の寺田さんの表情は、まるで音楽や文学を語る時みたいだ。本当に美しいサッカーは彼にとって芸術なのだろう。「技巧を隠した華麗さ」は、彼の「努力しても苦労は表に出さず、不良を気取る」というライフスタイルにも重なる。

 W杯で残る4試合に期待するのは「勝ち負けを超越したサッカー」だ。「芸術的な試合を前にすると、人はもう勝敗などどうでもよくなる。勝敗を超越したところにその国の文化や、民族の資質がにじみ、ああ、サッカーは文化なんだ、と実感できる。残念ながら今回の日本戦ではそんな瞬間は皆無だったけどさ」
 だからこそ、W杯は決勝トーナメントこそ目が離せない。寺田さんが注目するのはフランスだ。「ブラジル戦では、流麗なるサッカーをみじんも見せないほど、フランスはなりふり構わなかった。そのひたむきさが、ブラジルの超絶技巧を制した。優勝するかもね」

記事238◆森昌子さん再デビューでインタビュー

□掲載年月日 2006年06月07日
□森昌子さん、20年ぶり再デビュー
□今、心から歌いたい
□結婚、育児、離婚を体験し私は強くなった。


 森昌子さん(47)が7日、新曲「バラ色の未来」で20年ぶりに「再デビュー」した。結婚、出産、離婚、そして父の死。さまざまな経験を乗り越えた今、かつての「天才少女」は何を歌うのか。

■新人歌手みたいに

 レコード会社の会議室で、青いスーツ姿の昌子さんは新人歌手のように背筋をピンと伸ばして言った。「昔の私には『優等生の森昌子』というイメージが重く苦しかった。歌いたいのではなく、ただ歌わされているだけの気がして、歌手をやめたかった。いつも自分探しをしてました」

 意外な告白だった。「せんせい」でデビューしたころから歌唱力は抜群。「天才少女」と呼ばれ、NHK紅白歌合戦にも15歳で最年少出場(当時)を果たし、引退前には司会やトリも務めた。まさかあの活躍の日々を、「歌わされていただけ」と語るなんて。
 昌子さんは続けた。「この年になって初めて私、自分の意思で歌う喜びに気付きました。だから『復帰』ではなく『再デビュー』。一からのスタート。過去の同じ場所に戻るための『復帰』ではないんです」。ふっきれた笑顔だった。

■穏やかな歌声

 実はこのインタビューの直前、私は7日発売の「バラ色の未来」を聴いた。驚き、少々落胆もした。引退前の「越冬つばめ」や「哀(かな)しみ本線 日本海」の切なく凍えるような歌声を期待していたから。しかし、新曲CDの昌子さんの声は、昔とは全然違った。ただ穏やかで、柔らかく、まるい。

 かつて「もしも死んだら泣いてくれますか」と悲恋を歌った人が、「バラ色の未来があるから」と明るく歌っている。離婚騒動で傷つき、昨年の今ごろは人の視線が怖くて家から出られなかったというのに。この歌声の穏やかさは何なのだろう?

 新曲を作詞した作家、なかにし礼さん(67)が、レコーディング秘話を明かしてくれた。「彼女は初め、昔と同じ歌い方で歌おうとしたのです。僕は違うと言いました。『20年間歌から離れていたことを認め、過去を捨てて目の前にある新しい歌に向かい合ってほしい』と。再び歌い出した彼女の声はとても素直になっていました」

 そして、もう一つ。「彼女には眉間(みけん)にしわを寄せ、悲しい顔で歌う癖がある。おそらく子供時代から上手に歌おうと必死に頑張ってきたのでしょうね。僕は言った。『バラ色の未来なんだ。心からの笑顔で歌ってごらん』。すると、驚きましたね。笑顔で歌った彼女の歌声には優しさが満ちていったのです。歌は毎日練習すればうまくなるというものではない。結婚し、子育てし、離婚してうまくなる歌もあるのです」

 昌子さん自身はこう振り返る。「先生の『笑って』という言葉が『もう何も格好つけることはないんだよ』と聞こえた気がしました。その瞬間、心が楽になって、生まれて初めて素顔の自分のままで歌えた気がしました。歌っていて『楽しい』と思えたんです」

■「ママ、歌ったら」

 昌子さん自身の歌の記憶は3、4歳にさかのぼる。歌手志望だった父親に毎晩、アイスクリームの土産と交換に流行歌を歌わされた。親せきに連れて行かれた人気テレビ番組「スター誕生」を勝ち抜き、13歳でデビューした。しかし、歌手である自分への違和感がぬぐえず、「歌わされているだけ」という思いは消えなかった。
 11歳年上の森進一さん(58)に恋したのも「おまえ、本当は歌をやめたいんだろう?」と見抜かれたからだ。「初めて本当の自分を見つけてくれた気がして、うれしかった」。それほどに孤独だったのだ。

 結婚と同時に歌を捨てた。家で歌を口ずさむこともなかった。テレビの懐メロ番組で自分の映像が流れそうになると、急いでスイッチを切った。息子に見せたくなかったし、自分も見たくなかった。「歌は結婚生活に必要ないものでした」

 そんな昌子さんが今回再び歌う決心をしたのは、息子たちのお陰だ。一時は心身を病み、パニック発作にも苦しんでいた昌子さんが、昨年3月の離婚から半年を経て元気を取り戻し始めたころ、18、16、12歳の3人の息子たちは突然こう言った。
 「ママ、そろそろ歌ってもいいんじゃないの?」「だってママには歌しかないじゃん」
 母親が歌う姿など見たこともないはずの息子たちの言葉に、昌子さんは驚いた。息子たちに背中を押されるように「歌」と向かい合った瞬間、「歌おう」と素直に思えた。「初めは『生活のため』なんて言ってましたが、今は違う。私が歌いたいんです。生まれて初めて心から」

■自然体でいい

 毎朝6時に起き、息子の弁当を作る。午前中に家事を終えてからが、「歌手・森昌子」の仕事時間だ。「実は昔の自分と比べられるのがとても怖かった。でも今は開き直りました。年を重ねたありのままの私を見てもらえばいい、って」
 再デビューが決まって以来、買い物先のスーパーで中高年女性に呼び止められることが増えた。女性たちは「実は私、主人と離婚して……」「子供を抱えて頑張ってます」などと打ち明け、「だから昌子さんも頑張って!」と手を握り締めてくる。昌子さんはそのたびに思う。「私には歌があるから恵まれている。重いものを抱えて生きる女性たちのためにも歌いたい」

 結婚時代には絶対に聴かなかった昔の自分のCDも、歌詞を覚えるために繰り返し聴いている。「昔のようには歌えません。昔にかなわないのは、何より若さ。声の張り。肌の張り。でもね、昔の自分に負けないものもあるから大丈夫」

 それは何か。「結婚生活や子育て、そして離婚を体験し、私は強くなった。もう『優等生』のイメージはいらない。自然体でいい。昔のように歌えなくても、年を重ねた今の私だから歌える歌がきっとある」

 インタビューの最後に、人生の「再デビュー」に挑んでいる人々へのメッセージを頼んだら、昌子さんは「重い質問ですねえ」と苦笑した後、自分に言い聞かせるみたいに言った。
 「あきらめないで。そして、負けないで……」

記事237◆大学で教えるちばてつやさんルポ

□掲載年月日 2006年05月16日
□大学で漫画を教えて1年
□デビュー50年・ちばてつやさん
□若者へ、「あしたのために その1」


 「あしたのジョー」(原作は高森朝雄氏)で知られる漫画家、ちばてつやさん(67)が大学で漫画を教え始めて1年がたった。17歳でデビューし、25日に50周年を迎える彼は今、若者たちに何を伝えようとしているのか。

■熱い汗を

 約束の夕方5時、文星芸術大(宇都宮市)のマンガ専攻の研究室に飛び込んだ。ところがちばさんは「実は急に生徒とソフトボールをやることになっちゃって」。大学のスポーツ大会の練習が急に決まったという。かくしてインタビューはソフトボールの取材に化けた。
 「着替えるね」。シャツを脱ぎ、長袖Tシャツ姿になるちばさん。胴囲より胸囲のほうが大きい。メタボリック症候群などどこ吹く風のスポーツマン体形。「『ちかいの魔球』という野球漫画を描いた時、取材を兼ねて始めた野球チームも45周年。あとテニスもやってます」

 地元のグラウンドを借りて早速練習。学生は2年生の男子4人、女子3人。みなが持つグラブには「ちば」と名前が。道具までちばさんが用意したらしい。
 グラウンドで一番声を出しているのがちばさんだ。学生が空振りすれば「ナイススイング!」。エラーしても「ナイスファイト!」。ほめて、ほめて、ほめまくる。学生たちも夢中で白球を追い始める。空振り続きの子に初ヒットが出た。すかさず「ナイスプレー!」と叫び、ちばさんはタオルで熱い汗をぬぐうのだ。
 何だか体育教師みたい、と驚いていたら、学生たちが口々に言った。
 「ソフトボールの練習もわれわれには授業と同じ」
 「だって『1日1回熱い汗をかく』はマンガ専攻の5カ条ですから」

 ちなみにこの5カ条は、
(1)あいさつをしっかり
(2)整理整頓
(3)遅刻・欠席をしない
(4)先生(ちばさんと、マンガ専攻講師の漫画家、高口里純さん)の全作品を読む
(5)1日1回熱い汗をかく

 (4)以外はちばさんが決めた。特にこだわるのが(5)である。
 「漫画家が流すのは締め切り間際の冷たい汗ばかり。でもイライラした時には熱い汗をかくのが一番。煮詰まった時にキャッチボールをして、汗をかいたとたんいいアイデアを思いついたこともあったよ」

 ■母の故郷で

 ちばさんはずっと「漫画は人に教わるものではない。盗め」が信条だった。アシスタントに教えたことすらない。ところが老いた母を亡くし失意に沈んでいたところに、母の故郷である宇都宮の同大から「教授に」と声がかかった。「何かの縁かも」と昨年春、教壇に立つ決心をした。それから1年。「いつの間にか若者に教えることが僕の生きがいになってしまった。まさかこんなことになるとはね」と笑う。

 朝6時に東京の自宅を出て、片道2時間半かけて大学へ。週2回の予定だったが、今年度に入ってからはつい毎日のように通っている。
 「世間はすぐに『今どきの若者は』と言うが、マンガ専攻の子たちを見る限り、若者は今も昔もそう変わっていない。漫画が好きで、親の反対を押し切って漫画家を志した子たち。ちゃんと夢も持っている」

 驚いたのは学生の絵がうまいこと。「僕が17歳でデビューした時より、彼らのほうがうまい」とも言う。一方、気がかりは「大人の世界への戸惑いや不安を作品に描く子が多い。大人なんて信じない、というテーマもよく登場します」。
 今の若者に何を伝えられるのか。ちばさんの試行錯誤の一つが「1日1回熱い汗をかけ」なのだろう。

 ■1日を一生と考えて

 ふと「あしたのジョー」に出てくる「あしたのために」というはがきを思い出した。主人公ジョーのボクシングの師、丹下段平が、少年鑑別所にいるジョーにボクシングを教えたい一心で出すはがきだ。「あしたのために その1」はジャブ。「ひじを左わきの下からはなさぬ心がまえで、やや内角をねらい、えぐりこむように打つべし」。ジョーは塀の中でこのはがきだけを信じ、「あした」のために練習を重ねたのだった。

 もしかしたら、「1日1回熱い汗」はちば流「あしたのために その1」なのかも。そこで「その2」「その3」も尋ねてみた。

 ちばさんが「その2」に挙げたのは「一所懸命」。「一生懸命、ではなく一所懸命。何でも『ひとところ』で懸命にやる。ご飯を食べるのも、お風呂に入るのも、漫画を描くのも、運動をするのも。『勝敗はどうでもいい』ではなく、勝つために努力する。結果、途中で挫折しても、負けても、勝つために頑張った人は美しい」
 「あしたのジョー」もその美しさを描いた漫画だった。「真っ白な灰」になるまで燃え尽きたジョーも、ジョーと戦うために無理な減量を重ね、試合に勝った直後に死んだライバル力石徹も。この美意識に当時の若者は夢中になった。
 力石の死が掲載された雑誌の発売から約1カ月後の70年3月、寺山修司が呼びかけて開いた告別式には700人以上のファンが駆けつけた。その1週間後には、よど号をハイジャックした赤軍派メンバーが北朝鮮の空港で「われわれはあしたのジョーである」と宣言した。

 でも今の時代、戦うべき相手や、求めるべき「あした」は何だか見えにくい。「僕らの時代は家族で働いて食べられる豊かな暮らしを目指せばよかったからね。生きる目的はいつも身近にあった。でも今は違う。今の若者はかわいそうだ」

 だから「その3」には「1日を一生と考えよう」を挙げた。「『あした』を遠くに設定すれば生きづらくなる。『あした』は明日。1日を一生と思えばいい。目覚めた時は赤ちゃん。朝食時は少年期で昼食時には青年期。疲れ果てて眠る前に『いい一日だった』と感謝できるか。その繰り返しが充実した一生につながるんだ」

 ■放課後はジャージー

 一世を風靡(ふうび)した「あしたのジョー」だが、マンガ専攻の学生の多くが「知らなかった」「読んだのは大学に入ってから」という。「両親が大ファン。母の誕生日に先生のマンガを贈ったら感激された」とも。ちばさんの「一所懸命」は、50歳の年齢差を乗り越え、学生たちに届くだろうか。

 1人の男子学生がうなずいた。「それはもう、届いちゃいますよ。入学した時は有名な漫画家なんて年に何度も講義に来ないと思ってた。そういう大学、いっぱいあるでしょ? でも先生は違う。毎日のように来てくれる。そして放課後にはジャージー姿で『キャッチボールやろう』ってね」

 夜7時過ぎ、練習終了。日の落ちたグラウンドで、女子学生が漫画のストーリー案を書いたリポート用紙をちばさんに差し出した。「これ、見てください」。ちばさんは笑顔でこう言った。「よし、これから大学に戻って話し合おう」

記事236◆小田和正さん、インタビュー

■掲載年月日 2006年04月28日
■この国はどこへ行こうとしているのか<団塊の世代から>
■歌手 小田和正さん
□徒党、組まなきゃ
□どんな歌を作る時も、意識したのは同級生の視線だった。


 東京・白金台にある小田和正さんの事務所へと歩く。イチョウ並木の向こうに、雨上がりのツルンとした青空。独特の高音を生かした小田さんの歌声みたいに、透明な空だと思う。ところが、小田さんの生の声はハスキーボイス。歌詞に出てくる「僕」ではなく「おれ」。語尾も「だよね」ではなく「だなぁ」。歌声から想像するよりずっと骨っぽく、硬派な雰囲気の人だった。

 58歳にして今なおトップアーティスト。最近のアルバム3枚は、すべてオリコンチャート1位の最年長記録を更新した。数年前、同世代に向けたメッセージを歌い始め、「団塊世代の旗手」としてメディアに登場する機会も増えた。女性客が多かったコンサートに、現在は中高年男性が詰め掛け、一緒に声を張り上げ歌っているという。
 常に自分より若いファンに支持されてきた人が、なぜ今、同世代にこだわるのだろう。

     *

 「でも、おれはずっと、どんな歌を作る時も、一番意識してきたのは同級生の視線だったんだ」

 意外な感じがした。

 「同級生」とは東北大の建築学科時代、ともに課題設計に取り組み、理想を語り合った仲間のことだ。多くが建設業界に就職する中、小田さんは迷いながら音楽の道を歩んだ。「あいつらが選んだ道が真っ当だっただけに、おれはその分きばるしかなかった。何か青い感じでね」

 70年にオフコースとしてデビュー。当時全盛のメッセージフォークは、独り善がりな感じがして共感できなかった。ヒット曲に恵まれなかった初期も、ようやく79年に「さよなら」が大ヒットしてからも、気になったのは同級生の存在だ。「商業的とか軟弱とか思われていないか」と自問し、「あいつらは、今もやりたい仕事を追いかけているだろうか」と思いをはせた。

 時が過ぎた。バブルは崩壊し、不況が建設業界を直撃した。リストラや倒産のうわさが流れ、同窓会に姿を見せない仲間が増え始めた。ゼネコンで猛烈に働いてきた同窓生が自分の心配よりも、旧友の消息を案じ合っていた。
 「それはとってもかわいそうなことで。銀行がつぶれる時代なんて誰も考えてなかったから。でも、若いころに頑張ってきたことが、たとえ形を変えてでも、いろいろな場所で今につながっていてほしいなって。もう一度頑張るなら今立ち上がるしかないぜ、と伝えたくなった」

     *

 「初めて自分を優先させた」というアルバム「個人主義」(00年)で、同世代へのメッセージを歌った。その中の曲「the flag」(ザ・フラッグ)では「この国のすべて」を「僕ら」が「変えてゆくんだったよね」と振り返り、「戦える僕らの武器」を見つけて「ここへ並ばないか」と呼びかけた。団塊世代への応援歌とも言われる。
 でも私は、同じ歌詞の中の「僕はあきらめない」「誰かそばにいるか」の方にドキリとする。応援というより、鋭い問いを突き付けられた気がして。こんな解釈を打ち明けたら、小田さんはくすくす笑って「『応援』というより『喚起』だろうね」。

 「同窓会で顔を見れば分かる。世の中を変えるなんて、もう自分の手には絶対に届かないって顔してる。でも、あのころ、ストライキとかやってとてもつらかったんだよ。大学立法反対で半年近く毎日会議やってさ。全く意味のない、戯れの、気まぐれの、若気の至りで闘っただけ、ではなかったよな?」

 今のこの国に思う。
 「国や国民を犠牲にし、自分たちの利益を守る人たちがいて、それを告発する人たちがいる。でも告発はいずれ沈静化し、結局何も変わらない。その繰り返し。だからマイナーチェンジを叫んでもむなしい」

 ふと、私の顔を見て言う。「新聞だって『許せない』と社説に書くけど、書くのは簡単だ。書いてる君ら、行動してる?」
 だから悩む。たとえ仕事の99%で妥協しても、この手に握りしめた1%だけは譲らないぞ、と踏ん張る。それが精いっぱいだけど、と正直に答え、「小田さんは?」と尋ねてみた。

 「おれの中ではまだ混とんとしてるな。でも一番大事なのは『何のために生まれてきたか』。戦争に巻き込まれるために生まれたなんてまっぴらだ。何をやるのが正しいか分からない。でも、やるべきことは本当はいっぱいあるんだ。ただし、行動には大変な自己犠牲が伴うから、結局『なんなんだよ……』とか思いつつ、おれだって何も行動しないで生きてるってわけだ」

 本当に?

     *

 かつて偏屈だとか非社交的だとか言われた小田さんが、いつしか「人と何かすること」にこだわり始めた。私には、それが新たな「行動」に見える。
 元々は徒党を組むのが苦手な人だ。学科の仲間と参加したデモで「大学立法反対」のシュプレヒコールを叫んでも、労働組合の人と「安保粉砕」を一緒に叫ぶことはできなかった。深く考えずに投石することも、ノンポリを決め込むこともできず、だから、学生運動とは距離を置いた。離れたところで一人、生き方を探した。

 しかし89年のオフコース解散を機に、意識して行動を変えた。「もっと人と交わろうと決めた。失うものはなかったから。年を重ねたお陰で、全部を共感できなくても、共感できる部分で折り合いを付ければいいと気付いた。妥協ではなく、折り合い。そこに訴えられるものが何か出てくれば、十分なんだ」

 90年代には、奥尻島や阪神大震災の神戸など、被災地に向けた救援ライブ企画「日本を救え!」にも深くかかわった。これまで拒んでいたテレビの世界でレギュラー出演し、新しい音楽番組を模索したこともあった。
 「最近思うんだ。人には変えられるものを変えていく義務がある。そのためには人とやること。人とやれば必ず何か生み出せる。徒党を組まなきゃ」

 なれ合いではなく?

 「なれ合いだっていいさ。一匹オオカミみたいな顔をしてちゃダメ」。団塊世代大量定年の07年、自らも60歳となる。

 「団塊世代の潜在的なエネルギーを集めたら大変な力になるだろう。それを束ねる役なんておれ、やる気ないけど」。それから目を閉じて少し考え、最後にこう付け加えた。「でも、誰かがやるなら……。おれは手伝うな」

記事234◆赤瀬川原平さんとのお仕事4

□掲載年月日 2006年07月26日
□第16回 三軒茶屋
■同行記者のなるほどなぁ

 三軒茶屋の地名は江戸時代、大きな茶屋がここに3軒あったことに由来する。しかし残念ながら3軒とも現存しない。三角州のようなアーケード街「エコー仲見世商店街」は戦後のバラック街に始まり、今はレトロブームに乗っている。ほかにも「世田谷のアメ横」と呼ばれる太子堂中央商店会など元気な商店街が多い。
 で、今回は太子堂である。地図にある地名を見て「太子堂って何だろう」と首をひねったあたりから、散歩が妙な方向へ。歩けども歩けどもそれらしき寺はない。駅から約1キロの円泉寺の中に聖徳太子を祭った太子堂がある、と判明した時にはすでにヘトヘト。だからだろう。たどりついた円泉寺の門が固く閉まっていた時には、みなしゃがみ込んだ。
 赤瀬川氏担当の男性編集者は瞬時に割り切り「もう、飲みに行くしかないね」。あきらめの悪い私は門のかんぬきを外側から開けようと試行錯誤。一方、カメラマン岡崎は「せめて写真だけでも押さえたい」と鉄柵にレンズをねじ込み、黙々と撮っている。
 その数十秒後、「あれ?」と隣に大きく開いた正門を発見したのは、他ならぬ赤瀬川氏だった。


□掲載年月日 2006年08月02日
□第17回 神楽坂
■同行記者のなるほどなぁ

 神楽坂は文豪の街である。夏目漱石がいて、石川啄木がいて、尾崎紅葉がいた。今も彼らが使ったのと同じ原稿用紙を売る文具店が残る。
 横丁の街でもある。本多横丁、かくれんぼ横丁、みちくさ横丁……。名前を聞くだけで歩きたくなってくる。ここの路地は「坂」だからいい。細い細い石畳の路地は急坂や階段になっていて、上った先に何があるのかワクワクさせてくれるのだ。
 ここは、フランスの香りを感じさせる街でもある。近くに東京日仏学院があるからか。街のフレンチはとてもおいしい。
 神楽坂は花街だった。昔は「三業地」と呼ばれたそうだ。三業とは「待合」「料理屋」「置屋」。客は「待合」と呼ばれるお座敷に上がり、「料理屋」から料理を取り寄せ、「置屋」から芸者を呼んで遊んだそうだ。関東大震災で大きな被害のなかったこの街に花柳界は発展し、一時は600人以上もの芸者衆がいたという。
 昼間の散歩では、花街の名残を探すのは難しい。でも今も芸者さん行きつけの和雑貨店なんかがあって楽しい坂だ。


□掲載年月日 2006年08月09日
□第18回 靖国神社
■同行記者のなるほどなぁ

 小泉首相の参拝問題で注目される靖国神社。幕末時代以降の戦死者246万人余の霊が祭られ、参拝者は年間約600万人。ところで問題。吉田松陰、坂本龍馬、土方歳三、西郷隆盛、東郷平八郎の中で、靖国神社に祭られているのは?
 答えは、吉田松陰と坂本龍馬。新選組は新政府軍から「賊軍」扱いされたので土方は対象外。西郷は西南戦争を起こしたからダメ。軍神とたたえられた東郷平八郎も戦死ではないから祭られていない、というわけ。
 歴史観が論争の的の「遊就館」で昼食を取った。レストランの「海軍カレー」は海軍割烹(かっぽう)術参考書を基に、当時の味を再現したもの。カレーは軍用食品に採用された結果、戦後、地方出身の兵士を通して全国の家庭に広まった。だから海軍カレーは日本のカレーの原点なのかも。神奈川県横須賀市では、海軍カレーを町おこしに生かしている。
 海軍カレーの歴史は今、海上自衛隊にも引き継がれている。毎週金曜日は「カレーの日」。艦ごとに秘伝のレシピもあるのだとか。いったい、どんな味なのだろう……。


□掲載年月日 2006年08月16日
□第19回 水上バス
■同行記者のなるほどなぁ

 暑いのだもの。「水上散歩」もいいよね。今回は日の出桟橋から浅草まで約40分間の船旅で、わずかに2214歩。
 昔、江戸は水の街だった。何しろ街の中心部の約2割を水路が占めていたのだ。水の都ベネチアに例えた外国人もいたという。舟運が衰退した今も、東京都観光汽船(0120・977311)や東京水辺ライン(03・5608・8869)などが東京湾や隅田川を中心に水上バスを走らせている。
 「ヒミコ」は浅草、日の出桟橋、お台場間を運航する人気の船。松本零士氏が涙のしずくをイメージし、デザインした。彼の代表作「銀河鉄道999」に登場した星野鉄郎やメーテルの声で船内放送してくれる。カッコイイ船だけど、乗ってしまえば外観が見えないのと甲板がないのが残念。他の船に乗り、「ヒミコ」とのすれ違いを楽しむのもいいかも。
 ところで、赤瀬川さんが文中で「去っていく」と列挙しているのはすべて本欄でこれまでに散歩した思い出の場所。みなさん、覚えてくださっているかしら?


□掲載年月日 2006年08月23日
□第20回 浅草
■同行記者のなるほどなぁ

 今回は、前回の「水上バス ヒミコ」を下りたところから。
 浅草地下街は日本で3番目に古い地下街だ。日本で一番古い地下街は1932年の須田町地下鉄ストア(東京都千代田区神田須田町)。2番目が52年の銀座・三原橋地下街。浅草は55年にできた。レトロな雰囲気の地下街から地上へは、ぜひ華やかな新仲見世通りへの出口を。浅田次郎の「地下鉄(メトロ)に乗って」に似たタイムスリップの気分を味わえる。
 地下鉄はもっと古い。銀座線浅草―上野駅間(2・2キロ)は27年、日本初の地下鉄が開通した区間。イケメンが多かった青い制服姿の乗務員は女性客に大人気で、開業直後は2時間待ちの日もあったという。
 さらに古い話を。628年、漁師の兄弟が隅田川で投網の中に黄金に光る仏像を見つけた。これが浅草寺の秘仏、聖観世音菩薩。地元の知識人だった郷司は驚いて自ら出家し、これを礼拝供養した。兄弟と郷司の3人を祭ったのが「三社さま」と呼ばれる浅草神社。「三社祭」の名の由縁もここにある。

記事235◆赤瀬川原平さんとのお仕事5止

□掲載年月日 2006年08月30日
□第21回 秋葉原
■同行記者のなるほどなぁ

 高度成長期には家電の街、90年代にはパソコンの街だった。ところが今や「オタクの街」。あっちこっちにアニメ絵の美少女の看板があり、われわれはただぼうぜん。「ラジオ会館」ではオタク系のテナントをはしごするだけであっという間の1時間半。「趣都の誕生 萌える都市アキハバラ」の著者、森川嘉一郎さんじゃないけれど、ここはまさに首都ならぬ「趣都」なのだ。
 ゴチャゴチャした電気部品が並ぶラジオセンターあり、家電大型店あり、レトロなアキハバラデパートあり、秋葉原ダイビルや秋葉原UDXなど真新しい高層ビルあり。この街は今、カオス状態だ。
 勇気を振り絞り「メード喫茶」にも挑戦。男性編集者N氏がこわごわとドアを開けたが「なんか違う」と再び閉めてしまった。メード姿の店員さんのセリフが「ご主人さま、お帰りなさいませ」ではなく「いらっしゃいませ」だった、と首をひねる。
 でも実は、メード喫茶はもともと、メード姿のウエートレスが給仕する普通の喫茶店。「ご主人さま」と言わない店も多いらしい。
 われわれの期待(妄想?)が過ぎたようで……。


□掲載年月日 2006年09月13日
□第22回 神保町
■同行記者のなるほどなぁ

 新刊書店30店舗、古書店160店舗、売り場面積は合計1万6500平方メートル、在庫は1000万冊、というからすごい。でもなぜ神保町は書店街になったのか。
 答えは、学生さん。明治維新後、東大の前身、東京開成学校をはじめ、明治大、中央大、一橋大、法政大、専修大、日本大などが次々この周辺に開校。学生相手の専門書を売る書店が集まった。だから書店以外にも、学生相手の商売がたくさん集中している。スポーツ用品店に楽器店。それから安い飲食店。中でもカレー屋が多いことは有名だ。マニア好きのする音楽やアイドル関連グッズを売る店も。裏通りには老舗喫茶店が。安くコーヒーを飲ませるチェーン店に押され、日本中で老舗がバタバタと店を閉じている昨今、神保町ではまだまだ老舗が健在なのだ。
 ところで古書店は靖国通りの南側に多い。一説によると、店を北向きにすることで本の日焼けを防いでいるんだとか。
 最後は地名のいわれについて。江戸時代、この地に「神保伯耆守(じんぼほうきのかみ)」という旗本の武家屋敷があったことにちなんでいる。


□掲載年月日 2006年09月20日
□第23回 青春の阿佐ケ谷
■同行記者のなるほどなぁ

 われわれの散歩は、やらせも仕込みも一切なしのぶっつけ本番。だから「民芸の店ねじめ」の2階から本物のねじめ正一さんが下りてきてくださった時には驚いた。おまけに街の案内役もしてくださるという。「何だかテレビの散歩番組みたいな展開!」と感動してしまった。
 「杉並文化人」といえば、阿佐ケ谷や荻窪周辺には関東大震災後、井伏鱒二、与謝野晶子、太宰治、三好達治、火野葦平ら大勢の文学者が住んでいた。井伏の「荻窪風土記」によると「その頃(ころ)、文学青年たちの間では、電車で渋谷に便利なところとか、または新宿や池袋の郊外などに引越して行くことが流行のやうになつてゐた」らしい。新宿郊外の中央線沿線方面には「三流作家」が、世田谷方面には「左翼作家」が、大森方面には「流行作家」が多く移り住んだという。
 「昼間にドテラを着て歩いてゐても、近所の者が後指を差すやうなことはないと言ふ者がゐた。貧乏な文学青年を標榜(ひょうぼう)する者には好都合のところである」。今も阿佐ケ谷にはそんなにおいが残っている。


□掲載年月日 2006年09月27日
□第24回 馬事公苑
■同行記者のなるほどなぁ

 今回の散歩は偶然始まった。東京農大のカフェで食事した後、「マダガスカルの動植物がいるらしい」と同大の展示温室「バイオリウム」を見学。出口を一歩出てみたら、なんとそこが馬事公苑の正門だったのだ。
 「馬、見たいねえ」。赤瀬川さんの一言で、急きょ、馬事公苑の散歩を決定。歩数が2922歩と少ないのは、馬に見とれて歩くのを忘れていたから。ここの馬には動物園とは違う、不思議な生々しさと活気がある。
 馬事公苑は面積18ヘクタール。約100頭の馬がいる。1940年に開苑。64年には東京オリンピックの馬場馬術競技の開催地ともなった。主に引退した競走馬が「普及馬」としての訓練を受ける。週末はたいてい競技大会があり、平日も訓練があるので、いつでも数頭の馬とは出合える。月1回の「馬に親しむ日」には体験乗馬やポニー演技も楽しめる。次回は10月22日。
 馬事公苑の主役は動物好きの子供と若い母親たちだ。それでも時折、馬が心底好きそうな男性客が1人、息詰めて馬を見守っていたりする。


□掲載年月日 2006年10月04日
□第25回 日比谷公園
■同行記者のなるほどなぁ

 官庁街やビジネス街に囲まれたこの都市公園は1903年、日本初の近代西洋式公園として誕生した。「公園(パブリック・パーク)」という概念自体、欧州から持ち込まれたもので、19世紀後半にできた神戸の外国人居留遊園(現東遊園地)や横浜の山手公園はどちらも外国人専用だった。多くの人に開かれた「公園」はまだ、日本人にはなじみの薄い存在だったらしい。
 日比谷公園の設計者、本多静六さんが東京市(当時)に設計案を提出した時には、「門に扉がないと花や木が盗まれるのでは?」「池が身投げの名所になりやしないか」など懸念の声も上がったという。
 なーんてことを思いつつ、日比谷公園の名物(?)、サラリーマンの昼寝姿をながめると、妙にしみじみしてしまう。
 ところで「日比谷」という地名について。徳川家康が江戸城に入城したころはまだ、今の日比谷周辺は海だった。入り江ではのり養殖が盛んで、「ひび」と呼ばれる竹の棒を立て、のりを育てていた。それで日比谷。
 今ではもう、海は随分と遠いけれど。


□掲載年月日 2006年10月11日
□第26回 汐留シオサイト
■同行記者のなるほどなぁ

 歴史ある街の散歩も楽しいが、歴史のない「作りかけの街」もいい。行くたび街の姿が違う。通行止めだった路地が開かれ、空き地にビルが現れる。汐留シオサイトはそんな街だ。旧汐留貨物駅跡地から浜松町駅に至る31ヘクタールもの再開発事業。完成時の就業人口は6万1000人、居住人口は6000人で、国内でも最大級の再開発プロジェクトである。
 もちろん、歴史がないわけじゃない。汐留は鉄道発祥の地。1872年、新橋―横浜間が開業した当時、新橋駅はここにあった。
 5年前はまだクレーンが並ぶ巨大な工事現場だった。都心に巨大な穴が開いたようで不気味ですらあった。そこに02年、ウインズ汐留や電通本社ビルが完成し、ゆりかもめや地下鉄の「汐留駅」も開業。街の全容が現れる07年以降も、この街は変化を続けるのだろう。
 「同行記者」は次回から、○○記者が担当します。どうか今までと変わらぬご声援を。感謝をこめて。

記事233◆赤瀬川原平さんとのお仕事3

□掲載年月日 2006年06月21日
□第11回 東京・本郷
■同行記者のなるほどなぁ

 赤瀬川さんの知人の画廊「ヴァリエテ本六」から散歩を始めた。ここは「文人の街」だ。本郷5、6丁目の狭い界隈(かいわい)を歩くだけでも坪内逍遥、石川啄木、宮沢賢治、樋口一葉らの旧居跡に行き当たる。近くにあった高級下宿「菊富士ホテル」には谷崎潤一郎、坂口安吾、三木清らが宿泊していた。すごい「密度」だ。
 なぜか。まず東大があった。そのため下宿屋や旅館が多かった。出版社も多かった。坂道が多く、江戸時代の薫りの残る雰囲気が文人たちを魅了した。通信事情も悪かった当時、同郷人や友人を頼るうち、自然と集中したのだろう。
 旧居跡めぐりが少々寂しいのは、「跡」しかないこと。樋口一葉の旧居跡近くには彼女ゆかりの井戸や、通った質屋の建物も残るが、多くの場合、今に残るのは案内板のみ。建物も、暮らす人も違う。旧居跡を巡るわれわれの方も、彼らの作品をどれほど読んだかと問われると自信がない。
 一方、木造三階建て下宿の本郷館は今も現役。黒光りする壮観な建物だ。築101年で、石川啄木が本郷に暮らしたころから建っていた。こちらは「跡」ではなく現役の住まいだから、お散歩の際は節度を持って。


□掲載年月日 2006年06月28日
□第12回 東京・吉祥寺
■同行記者のなるほどなぁ
 吉祥寺に、吉祥寺という寺はない。しかし文京区本駒込には吉祥寺という寺がある。なぜか。
 寺はもともと、今の千代田区神田駿河台辺りに建っていた。しかし1657年の明暦の大火で被災し駒込の今の場所に移転。一方、門前の住民は今の武蔵野市に移住した。これが吉祥寺の始まりだ。
 井の頭恩賜公園の井の頭池は、江戸時代に引かれた日本初の上水道「神田上水」の大事な水源だった。「井の頭」の地名も、徳川三代将軍家光が「一番の井戸だ」と絶賛したことで付いたといわれている。
 公園の広さは約38ヘクタール。井の頭池を一周すると半時間〜1時間の散歩だ。路上パフォーマンスやギターをかき鳴らす若者を観察するのも楽しいが、市民の寄付金で設置された153基の「思い出ベンチ」もいい。
 背もたれに刻まれた寄付主のメッセージを読みながら、その日の気分で座るベンチを選ぶ。この日は「ここで待っててくださいね。私もきっと参ります」。妻から夫への言葉だろうか。座ると背中がほんの少し温かくなった気がした。
 「思い出ベンチ」は今、都内の公園や霊園、動物園に433基ある。東京は思い出でいっぱいだ。


□掲載年月日 2006年07月05日
□第13回 田園調布と自由が丘
■同行記者のなるほどなぁ

 英国のE・ハワードは約100年前、「都市と農村の結婚」を掲げ、都市と農村両方の利点を兼ね備えた「田園都市」を提唱した。これに共感した実業家、渋沢栄一とその息子が開発したのが田園調布だ。日本初の計画都市である。放射状に延びる道路はパリの凱旋(がいせん)門周辺を模した。住民が憲章を定め、屋根や外壁の色に指針を設けるなど、高邁(こうまい)な思想に貫かれた街なのだ。
 この街で赤瀬川さんが一番見たいと望んだのは「お手伝いさん」という存在。「豪邸は金があれば建てられる。まねできないのは人間のほうだ」と。でも実は私、下見の時に見たのである。高級車が走り去った後、車庫の奥で深々とお辞儀するエプロン姿を。あの瞬間、「メード喫茶も執事カフェもしょせんニセモノ。本物にはかなわない」と感動した。が本番では遭遇できず。ああ、残念。
 一方、自由が丘はマリクレール通り、カトレア通りなど横文字の名前であふれる街。ゴンドラや水路が有名な商業施設「ラ・ヴィータ(自由が丘のベニス)」は90年開業というからバブルの落とし子か。ペット関連ショップも充実している。「すてきな子供服!」と近寄ると小型犬用の洋服だったり、逆だったりするのだ。


□掲載年月日 2006年07月12日
□第14回 等々力渓谷
■同行記者のなるほどなぁ

 等々力渓谷に必ずと言っていいほどついて回る肩書が、「東京23区内に残る唯一の渓谷」だ。奥多摩まで足を延ばせばより深い谷川や湧水があるわけで、「町の真ん中にこんな所が!」という意外性こそがこの渓谷の最大の持ち味なのだ。
 赤瀬川さんの「ディズニーランドじゃあるまいし」ではないが、街は今、「川もどき」や「滝もどき」で満ちている。おまけに、ニセモノの方が上手に演出され、それらしく見えることすらある。一方、等々力渓谷はホンモノゆえにつらい。頭上を環状8号線が横切り、車の騒音が絶えない。鬱蒼とした谷底から崖の上へと続く長い階段を上れば、そこはもう住宅地。崖っぷちまで「街」が攻めてきている感じなのだ。
 だからだろう。歩くうちに「こんな所に渓谷!?」という驚きは「よく残ったものだ」という感心へと変わる。渓谷保存に尽力する人々に頭が下がる。
 多摩川が長い年月をかけて武蔵野台地を削り取ってできた「国分寺崖線(がいせん)」と呼ばれる崖を、谷沢川が浸食してできたのがこの渓谷。全長約1キロ。深さは約10メートル。20カ所もの湧水地点が集中している。


□掲載年月日 2006年07月19日
□第15回 豪徳寺
■同行記者のなるほどなぁ

 豪徳寺周辺は招き猫でいっぱいだ。駅前の商店街の店先では猫があっちこっちで片手を上げている。時折、街角に生きた猫を見つけると「ホンモノだっ!」と声を上げたくなってしまうほどなのだ。
 ちなみに、豪徳寺の招き猫は白猫で右手を上げている。寺によると「福を招く、すなわち願い事すべての成就を招く」という。通説では、右手を上げた招き猫は「金運」を、左手を上げた猫は「人(客)」を招くのが一般的らしい。もっとも、両手を上げて金運と客の両方を招こうというあつかましい招き猫も、最近はあるそうだ。
 赤瀬川さんを「江ノ電」の気分にさせた世田谷区の緑道は現在、区内に16カ所あり、総延長は20キロを超える。暗渠を緑あふれる小道として整備したもので、住宅地の裏をすり抜ける細い路地やサイクリングを楽しめる道、せせらぎを取り戻した場所まで、変化があって楽しい。
 少し足を延ばせばボロ市(12月15、16日と1月15、16日)で有名な「ボロ市通り」。行ってみたが、普段は変哲のない普通の商店街だった。

記事232◆赤瀬川原平さんとのお仕事2

□掲載年月日 2006年05月17日
□第6回 四谷の裏路地
■同行記者のなるほどなぁ

 「四谷階段」跡地から「四谷怪談」ゆかりの神社まで地図に頼らず歩く。坂があれば下る。路地があれば入る。分かれ道では風情あるほうの路地を選ぶ。お陰で何度も袋小路に迷い込んだ。
 新宿区若葉や須賀町あたりは寺社の街だ。四谷地域には40を超える寺社があるが、多くは江戸時代、江戸城の外堀工事で市中から四谷周辺に移転したものだ。
 左門町では「於岩稲荷田宮神社」と「於岩稲荷霊神・陽運寺」が路地をはさんで向かい合う。前者は、歴史上の人物「お岩さん」ゆかりの神社。ホンモノのお岩さんは働き者で夫との夫婦仲も良く、毒薬もただれた顔も鶴屋南北氏のフィクションなんだそうだ。
 一方、後者の寺は怪談版「お岩さん」ゆかりの地という感じ。なぜか「お岩様由縁の井戸」まであった。
 四谷の裏路地はとても静かだ。最近は路地裏がブームでガイドブックに紹介された路地は週末のたび観光客で込み合う。でも、わざわざガイドブックの街に出かけなくても、東京では案外どこでも大通りから一本入り込むだけで、路地歩きを楽しめる。


□掲載年月日 2006年05月24日
□第7回 清澄ギャラリー
■同行記者のなるほどなぁ

 ここは松尾芭蕉とのらくろの街だ。芭蕉が「奥の細道」の旅に出た地であることから芭蕉記念館などゆかりの場所も多い。また「のらくろ」の田河水泡もこの地に住んでいたそうで、「のらくロード」なる商店街もある。
 でも、実は現代アートの街なのだ。現役倉庫の5〜7階に七つのギャラリーを集めた「清澄ギャラリー」(正午〜午後7時。日、月曜は休み)は、昨年11月にできた。ここから20分も歩けば東京都現代美術館だ。1日に30〜50人が訪れ、約半数は外国人客だ。第二の奈良美智さんや村上隆さんが、ここから生まれるだろうか。
 クラゲのいた運河の名は仙台堀川。なぜ仙台かというと江戸時代、各藩の米蔵が建ち並んだこの地でも、最大規模を誇ったのが仙台藩の蔵だったかららしい。クラゲは潮によって、いたりいなかったりする。
 のっぺりした倉庫街で、江戸の落とし物やアートの薫りを探すのは案外楽しい。隅田川沿いの「隅田川テラス」も気持ちいい。


□掲載年月日 2006年05月31日
□第8回 月島・佃島
■同行記者のなるほどなぁ

 もんじゃ焼きを「人間の食べ物ではない」と思ってきた関西人の私だが、今回は「ビールのつまみにはうまい」と発見。しかし最大のナゾはキャベツで作る「土手」だ。最初から全部一緒にぐちゃぐちゃと強火で素早く混ぜれば済むのでは? もっともこの「土手不要説」、東京では一度も賛同を得られたことがない。
 「もんじゃ焼き」の語源は、駄菓子屋の鉄板に溶いた小麦粉で文字を書いて焼いたという「文字焼き」。月島は「発祥の地」だそうで、現在、西仲通り商店街と周辺に約70軒ものもんじゃ屋がある。
 「月島・佃島」と並べて呼ばれるが、昔は佃1丁目周辺だけが本物の島だった。3軒の佃煮(つくだに)屋が並ぶのもこのあたりで、細い裏路地に小魚の泳ぐ水槽が置かれていたりする。一方、高層マンションの並ぶ佃2丁目周辺や月島は、古くからの埋め立て地だ。
 佃村は江戸時代、徳川家康から江戸近海の漁場免許を受けた大阪・佃の漁師が移住したのが始まり。今は廃れてしまった「佃ことば」には、関西弁の名残も存在したという。


□掲載年月日 2006年06月07日
□第9回 東大本郷キャンパス
■同行記者のなるほどなぁ

 一つの大学構内だけで散歩が成立するかしら、なんて心配は途中で消し飛んだ。レストランを探訪し、購買部を探検し、入場無料の博物館を巡っているうち、歩数は8518歩に。時間が許せば1日だって歩いたに違いない。
 龍岡門近くの広報センターでは構内地図がもらえる。カラーコピーした手作り感100%の地図の裏には、構内の全レストランや学食、コンビニ、購買部などの情報が網羅されている。
 赤門脇の「コミュニケーションセンター」では東大オフィシャルグッズを売っている。university(大学)の「U」とTokyo(東京)の「T」を組み合わせたシンプルなロゴは嫌みなくらいオシャレだ。でも赤瀬川さんは「イチョウの葉に『大學』の昔ながらのロゴの方がよかった」という。昔のロゴをあしらった古くからの東大グッズのほうは、安田講堂近くの購買部に今も並ぶ。
 週末を中心に、現役東大生がガイド役を務めるキャンパスツアーも人気だ。ホームページ(http://nw.nc.u-tokyo.ac.jp/campustour/about/main.html)からしか申し込めないのに、1カ月先まで満員というからすごい。
 「東大は散歩に限る」と赤瀬川さん。思わず納得。


□掲載年月日 2006年06月14日
□第10回 東京・中野
■同行記者のなるほどなぁ

 中野ブロードウェイは10階建て。5階以上が住宅で、地下1階〜地上4階に店舗が入る。今でこそ漫画やフィギュア、コスプレ専門店が並ぶが、66年の開業当時は違った。高級マンションを階上にいただく高級ショッピングモール。まさに今でいう六本木ヒルズや表参道ヒルズのような存在。青島幸男さんや沢田研二さんも住んでいたそうだ。
 80年、古漫画専門店「まんだらけ」が出店、徐々に店舗を増やすうち、マニア向けのショップが次々と進出した。こうして「東洋一のマンション」は「オタクの聖地」へと変身を遂げる。ある意味、どちらも「時代の先端」というわけ。開業以来40年。ビルだって「人生いろいろ」なのだ。
 一方、「新井薬師」は「目の薬師」「子育て薬師」などとも呼ばれ、信心深い人がひっきりなしにやってくる。名前の由来である寺の井戸水は、一般に開放され、地元の人が水を汲みに来る。
 赤瀬川さんが「サウナと冷泉」と例えたように全く違う雰囲気の2カ所だが、これらを結ぶ商店街や路地の散歩もお忘れなく。裏路地には現役の井戸が二つ、並んでいた。

記事231◆赤瀬川原平さんとのお仕事1

2006年春から、「赤瀬川原平の散歩の言い訳」という連載を赤瀬川さんにお願いしました。東京のあちこちを赤瀬川さんに歩いていただき、赤瀬川さんの目で街を見つめていただく、という趣向。
半年間、担当させていただきました。
毎回、「同行記者のなるほどなぁ」という小さなコラムを私も持たせていただきました。赤瀬川さんの原稿を拝読し、その街についてほかに記しておきたいことを寄せ集めたコラムなので、赤瀬川さんの原稿と合わせて読んでいただくためのものなのですが、ここに5本ずつまとめて収録しておきます。


□赤瀬川原平の散歩の言い訳

□掲載年月日 2006年04月05日
□第1回 東京タワー
■同行記者のなるほどなぁ

 赤瀬川さんから「タワーの見える街を歩こう」と提案された時は目からうろこだった。タワーは何度も登っているが、周辺を歩くことはなかったから。でも当日は結局登ってしまった。「333メートル」の魔力だろう。
 東京タワーは58年、「エッフェル塔(320メートル)を超える世界一の塔を」を合言葉に建てられた。とび職人が強風の中、総計4000トンの鉄骨を人力で運び上げた。まさに日本のものづくりの真骨頂だ。高さ250メートルの特別展望台は六本木ヒルズの展望台に並ばれたものの、都庁より約50メートル、池袋のサンシャイン60ビルより約10メートル高い。
 ところで、結局歩けなかった「タワーの見える街」についても一言。
 増上寺と東京プリンスホテルの敷地を取り巻く計12ヘクタールの芝公園には、都内最大級の前方後円墳跡「丸山古墳」や梅林「銀世界」、人工渓流「もみじ谷」など、知られざる見所がある。
 一周すれば約1キロ。こちらも散歩にちょうど良い。


□掲載年月日 2006年04月12日
□第2回 麻布の坂
■同行記者のなるほどなぁ

 大使館や屋敷の並ぶ台地から下町の古い家並みを見下ろす坂の上に立てば、坂のある街の表情の豊かさを実感することができる。暗闇坂に狸(たぬき)坂、大黒坂。麻布の坂を歩くたび「東京の町は尾根と谷でできている」という言葉を思い出す。
 氷川神社で「愛の狛犬」を見つけた時はみなで歓声を上げた。神社も気を利かせ、20年来の狛犬の愛を引き裂かずにおいてくれたのかも。麻布中の東側の塀面にはたくさんの弧が「落書き」されていた。垂れたツタが風に揺れた跡で、赤瀬川さんがかつて「植物ワイパー」と命名したものだ。
 今回の散歩の起点、麻布十番商店街はよそ行きも普段着も似合う「山の手の下町」。創業100年以上の店が並ぶ。散歩に疲れたら「麻布十番温泉」がお勧め。しにせの銭湯が戦後の水不足で地下を掘ったら、温泉が出たという。褐色の重曹泉は「黒湯」と呼ぶ。タイル絵が富士山ではなく洋館と湖とヨット、というのも麻布らしい。


□掲載年月日 2006年04月19日
□第3回 代々木の踏切
■同行記者のなるほどなぁ

 「代々木を歩こう」と赤瀬川さんが言い出した時、正直なところ「予備校と共産党しかないのでは……」と思った。ところが我らが散歩の達人は言う。「踏切があるんだよ」
 代々木の踏切に立ってみた。踏切の上だけ空が少し広い。線路の行く先を見つめるだけでワクワクする。遠くに別の踏切を見つけようものなら、無性に行ってみたくなる。次はあの踏切へ、この路地も、と際限ない。「散歩」は続くよどこまでも、なのだ。
 山手線や中央線は高架になっていて、踏切が残るのは山手貨物線。埼京線や湘南新宿ラインが走る。山手線にはもう、田端―駒込駅間に踏切が一つ残るだけだそうだ。
 暮らす者にとって「開かずの踏切」は邪魔者だ。悲しい事故の原因にもなる。都会で踏切が減るのは当然だ。でも一方で踏切ファンがいて、自らを「フミキリスト」などと呼びながら、味わい深い踏切を探して回る気持ちも、なんだか分かる気がしたのだった。

□掲載年月日 2006年04月26日
□第4回 新大久保・コリアンタウン
■同行記者のなるほどなぁ

 日本最大のコリアンタウン。韓流ファンの聖地と名高い「コリアプラザ」には大型観光バスが横付けされ、着飾った日本人女性客らが韓流スターのCDやDVDを我先にと買っていく。昔ながらのオヤジ好みの韓国食堂は脇へと追いやられ、「職安通り」には派手なハングルの看板を立てた大型店がひしめいている。
 日本中を席巻した「冬ソナ」ブームは、かつて外国人女性が日の高いうちから立った大久保の裏通りまでを、「女性向け観光地」に変えてしまった。今さらながら「ヨン様効果」のすさまじさを知る。古い連れ込み宿の並ぶ裏通りを、妻たちが目を輝かせてかっ歩していることを、夫たちは知っているんだろうか。
 韓国語の飛び交うスーパー「韓国広場」で辛口・甘口2種類ある唐辛子や珍しい食材に歓声を上げたりしていると何だかもう、ソウルあたりのスーパーを観光する日本人旅行者の気分だ。連載4回目にして早くも「海外散歩」なのだった。


□掲載年月日 2006年05月10日
□第5回 表参道ヒルズ
■同行記者のなるほどなぁ

 「果たして建物内を歩くことは散歩か?」なんて問題をはなから無視し、この場所を選んだ。2月の開業直後は「入場50分待ち」という日もあったとか。まるで東京ディズニーランドのアトラクション並みだ。
 本館には地下3階〜地上3階に吹き抜けと、それに面した全長700メートルのスロープがある。上からのんびり下るも良し。地下から建物全体を見上げ、上り詰めるも良し。どちらを選ぶかに性格が出る。私は「下から上」派。赤瀬川さんは「上から下」派だ。こうなると、汗をにじませ下から上ってくる人が同志に見えてくるからおかしい。
 同潤会アパートは、木造住宅に甚大な被害が出た関東大震災後、鉄筋コンクリートの住宅供給を目的に建てられた。一時は16カ所あったが、現存するのは上野下(台東区)と三ノ輪(荒川区)の2カ所だけだ。
 取り壊されたアパートの外壁を再利用した「同潤館」では、ぜひ窓から外をながめてほしい。昔も今も変わらぬケヤキ並木に、思わず、古い建物の記憶がよみがえる気がするから。

記事230◆民主党の岡田克也さんとお花見に行く、の記事

□掲載年月日 2006年04月04日
□民主党前代表と花見をしに行く
□花も嵐も岡田さん、「まじめ」がまぶしくて


 民主党に「春の嵐」が吹いた。偽メール問題で党執行部の総退陣が決まったのだ。その2日前、岡田克也・前民主党代表と東京・千鳥ケ淵を歩いた。嵐の前のつかの間のお花見で語った彼の言葉とは……。

■笑わん殿下登場

 花冷えの朝、岡田さんは約束の時間きっかりに、東京・千鳥ケ淵の桜並木に現れた。意志の固そうなギョロ目。口はぐいっと一文字。咲き乱れる桜を見ても、浮かれる様子はない。聞きしにまさる「笑わん殿下」ぶりだ。「まじめ」がスーツを着て歩いている。

 九段の議員宿舎から目と鼻の先にこんな桜の名所があるというのに、「花見などしたことがない」という。「桜の下で握手して回ったことはありますが」

 見上げれば花、花、花。前夜の雨にも散ることなく、雨上がりの青空に輝いている。満開である。まさか2日後に党執行部が総退陣を表明するなど思ってもいなかったのだ。隣を見ると、桜を見上げる岡田さん。胸中にあるのは、一晩の雨にも耐えた花への共感か、それとも党の行方を案ずる気持ちだったのか。

 「あせってはいけない」。岡田さんは淡々と言った。「大事なのは政治に真摯(しんし)に取り組み、国民の信頼を取り戻すことです。昨年の総選挙では、逆風の中でも民主党が2480万票を集めた。政権を担える政党に育っている証拠です。小選挙区制だから議席数は大きく減ったが、これは逆もあり得ます。国民が自民党政治の限界に気付いたら、政権が変わる。必ず変わる」。さらに桜の下で繰り返したのは、「自分たちで選んだ党代表を一丸となって支えるべきだ」という言葉だった。

 しかし、その2日後、前原誠司代表は辞任を表明した。

■「恐れず議論を」  

 党執行部総退陣、という「春の嵐」が民主党を襲った3月31日、岡田さんは中国・北京にいた。日中友好議員連盟の副会長として、自民党や公明党議員らとともに日本大使公邸を訪問していた時、日本にいる秘書から電話で党の一大事を知らされたという。
 2日前の花見では、千鳥ケ淵の桜の下で残念そうに語っていた。「民主党の代表はみな任期半ばで辞めさせられるような形で引責辞任している。『政権を取れなければ代表を辞める』という自分の言葉通りに辞任した私以外はね」。だからこそ「代表を一丸となって支えよう」とこの人は繰り返し説いた。これからの民主党に今一番必要なのは「党内で恐れず議論すること」と語ったのだ。

 中国から帰国後、今回の「春の嵐」をどう受け止めたか。「前原さんには、できれば9月まで頑張ってもらいたかった。しかし、辞任が決まった以上、新代表が7日に選ばれれば、それが誰であれ全員野球を実現すべきだ。政権交代ある政治を実現することこそ、我々が国民から託された責任であり、大切なことは、その責任を果たすという一点で団結することだ」

■地道にコツコツ

 ところで、偽メール問題で国会が混乱する中、お花見に岡田さんを誘いたくなったのは、あの「まじめ」ぶりが無性に懐かしくなったからだ。

 04年、党代表に就任した時は、「まじめ」が過ぎて「堅物」「リーダーの器じゃない」とまで言われた。しかし、小泉純一郎首相の過去の厚生年金加入時の勤務実態を国会で追及し、「人生いろいろ」答弁を引き出したあたりから、「まじめ」が実力を発揮し始める。

 民主党が躍進した同年の参院選のポスターのキャッチコピーは「まっすぐに、ひたむきに」。小泉首相の劇場型ワンフレーズポリティクスと対抗するのに、岡田さんの「まじめ」は格好の武器となっていく。総選挙前にライブドアの堀江貴文被告と会いながら、話題性に釣られたりせず、「党の考えに合わない」と出馬要請しなかったのも、「まじめ」力の功績だ。

 「党代表を辞任したら、空いた時間に茶道をしてみたい」。そう語ったのは半年前。ところがそんな時間はちっともない。今国会ではテレビ中継がない時にも衆院予算委で何度も質問に立った。「党代表経験者としては異例の地道な活動」と評価する声も多い。
 中でも3月2日の小泉首相との対決は印象的だった。格差論争である。のらりくらりと答弁する小泉首相に「(私の首相との)最後の議論かもしれませんから、きちんとした議論をしたい」と真正面から迫った。

 「小泉さんは、格差なんてない、チャンスを与えればいい、といいます。でもね、現実には、すごく頑張ったのに報われない人もいる。運が悪い人もいる。チャンスを生かせない人もいる。政治家はいつもそのことを忘れてはいけないと僕は思う」

 最近、自分が過去に小泉首相と交わした国会論戦の議事録をアジア外交や財政、イラク問題などテーマ別に整理したファイルを7冊も作った。「もう一度読み返します。小泉改革とは結局何だったかを確認するために」

 確かに昨今の劇場型政治では、「まじめ」は時に無力に見える。しかし、功を焦らずまじめにコツコツ、という「まじめ」スタイルがいつか花を咲かせることを、桜の下ではなぜか信じられるのだ。

■花より政治

 「花より政治」に見えるこの人にも、実は大切な桜の思い出がある。それは故郷三重の自宅の庭に並ぶ3本の桜だ。
 「僕は16歳で家を出た。そのころ、庭には3本の桜の木があった。当時は目立たない小さな木でね。ところが18年後、旧通産省を辞めて政治家を志し、三重の家に戻ったら、すっかり大きく育ち、美しい花を咲かせていた。それ以来、毎年、花の季節を楽しみにしてきたんです」。妻と3人の子が暮らす自宅でのささやかな花見が、ひそかな楽しみなのだそうだ。

 桜の下であの日、最後に岡田さんのまねをして、直球の質問を投げてみた。「今、ここにいるお花見客。彼らが国民です。今、国民に一番伝えたいのは何ですか?」
 岡田さんはぐいっと言葉に力を込めて言った。「まず、民主党が国民の信頼をしっかりと取り戻さなくては。まじめに政治に取り組み、地域に根を下ろしたい。そして国民に伝えたい。政治は大事だ、と。国の方向を最後に決めるのは政治だから。今は世論が排他的ナショナリズムに傾き、政治をおもしろがる風潮もある。でも、僕は国民の賢明さを心から信じている。軌道修正されていくと思う。ただし、国民のみなさんにも分かってほしい。日本に時間はあまり残されていない」

 「春の嵐」の前のつかの間のお花見は、桜の花よりも、「まじめ」がただ、まぶしかった。

記事229◆少年野球と地域力、のコラム

■掲載年月日 2006年03月29日
■編集部から

 小学1年の息子が参加する少年野球チームで「6年生を送り出す会」があった。
 「中学校でも野球を続けます」とまず6年生が泣き、母親たちがもらい泣きし、「僕は野球が苦手だから息子に悲しい思いもさせたろう」と父親が男泣き。司会役のコーチがくまのプーさんの着ぐるみの中で泣き、監督があいさつの途中でおえつすると、6年生が再び泣き出した。
 日ごろは「スポ根」とか体育会系の文化が大嫌いな私も、いつもやんちゃな少年たちがゲンコツで涙をぬぐい、休日返上で他人の子供のために監督やコーチを務めてくれる地域の大人たちが、教え子の巣立ちに男泣きする姿を見て、思わず一緒に泣いてしまった。
 息子の1年間の目覚ましい成長は、こんなにも豊かな「地域の力」のお陰なのだ、と気付いた。親からは決して学べないものを、息子は他人の中で学んでいる。

記事228◆松本善明さんインタビュー

■掲載年月日 2006年03月03日
■この国はどこへ行こうとしているのか「永田町を離れても」
■柔和なマルキシストの夢
■元共産党国対委員長・松本善明さん


 淡い色彩と柔らかなタッチで子どもを描き続け、74年に亡くなった画家いわさきちひろさんが「日本共産党の衆院議員、松本善明氏の妻」と知ったのは、私がまだ大学生だった20年前のことだ。
 混とんとした政治の世界と、透明感にあふれた絵画の組み合わせに、意外な感じがしたのを覚えている。松本さんといえば「ゼンメイさん」の愛称で知られた共産党の「顔」。国対委員長を長く務めた「やり手」というイメージが強かったから。

●「坂の上の雲」

 2月の冷たい雨の中、33年間の議員生活を3年前に終えた善明さんを、東京・下石神井の「ちひろ美術館」に訪ねた。えんじ色のベストにジャケット姿。革靴はピカピカで、「靴が傷むから」と上着のポケットに携帯用の靴べらを潜ませるあたり、案外おしゃれなのだ。

 読みかけの文庫本の背表紙には「坂の上の雲」とあった。明治後期、四国・松山出身の正岡子規や日露戦争で活躍した秋山好古、真之兄弟の生きざまを描いた司馬遼太郎の長編小説。善明さんは「司馬さんの主要著作を読み返している最中です」と言う。司馬ファンが、悠々自適の第二の人生? と思ったら、どうやら違うらしい。
 「小説に登場する日本海海戦の戦法は、実際には使われなかったという説がある。僕は日本政府がこの戦法を神話化したことが『神国日本』神話につながり、やがて日本を太平洋戦争へと駆り立てたと考えているのです。なぜ、あの戦争が起こったのかについて、僕なりに書いてみたくて。司馬さんの考えを確かめたい」

 それが司馬さんの代表作を読み返している本当の理由だった。国会を去った今なお、「なぜ太平洋戦争は起こったのか」にこだわり続けているのである。

●崩れ去った価値観

 それには理由がある。
 旧制北野中学(現大阪府立北野高校)時代、「10年後の大学者になるよりは1年後の一兵卒になれ」という校長の言葉に奮い立ち、国を守ろうと海軍兵学校へ。終戦時は最高学年だった。「2年上の先輩たちの3分の1は、特攻などで戦死してました」。戦後、それまで信じ込んできた「聖戦」も「神国」も真っ赤なうそだったと知った。信じてきたものが、すべて崩れ去った。

 「正義の戦争と信じてきたものが、侵略戦争だったなんてね。僕は大学時代、価値観を一から築き直さねばならなかった。1年ほど講義には出席せず、図書館でカント、ヘーゲル、マルクスへの流れがわかるまでこれらの著書を読んだ。そして、在学中に共産党に入ったんです」

 弁護士として労働争議にかかわった後、67年の衆院選で初当選した時は40歳だった。

●生き残った者の務め

 33年間を過ごした国会が今、善明さんの目にはこの上なく危うげに映る。「国会は国権の最高機関です。昔、政治は最高の道徳だったはず。なにしろ人の幸せにつながる仕事なんだから。政治家は高潔で、人徳と深い知識と先見性を持っていなければならなかった。それが今はどうだ。小泉チルドレン? 杉村太蔵君といったかな。料亭に行きたい? 若けりゃいいってもんじゃないでしょ」

 さらに、小泉純一郎首相についても。「小泉さんが首相になった時、僕は『ライオンの皮をかぶったキツネみたいだ』と言ったものだ。先の衆院選で自民党が大勝した時にも『うそで膨らんだ風船だ』と。その風船はまさに今、穴が開き始めた。小泉政権は末期現象、と書くメディアも現れている。この風船、すぐには落ちないかもしれないが、どんどん沈下する。穴がいくつも開いてね」

 中でも看過できないのが靖国神社参拝問題だ。「あれを彼は心の問題だという。本当にそうなら官邸で1人、手を合わせばいい。総理大臣という職にある人が参拝すれば当然政治問題になる。これを『心の問題』で片づけるなんて良識を疑う。首相どころか政治家として失格だ」

 口調は厳しい。厳しいのに、なぜだろう、この人をまとう雰囲気はいつも柔らかい。現役時代、党派を超えて女性に人気があった、というのもよくわかる。原因はたぶん目だ。常に細く笑っている。穏やかな色をたたえている。そんな表情で憲法9条を語る。
 「今の国会は自公民の改憲勢力が3分の2以上を占めている。僕らが憲法を守り切れたなら、それは国民が本当の意味で政治を動かしたってことになる。つまり、憲法を守ることは、国民が本当の意味で主権者になれるかどうかの闘いでもあるんだ。僕は、議員を辞めても憲法を守る。それが戦争を生き残った者の務めだ。だってねえ。戦争のない社会というのは世界人類の夢ですよ。それを体現しているのが憲法9条なんだ」

 善明さんが「世界人類の夢」と口にした時、ちひろさんが好んで描いた子どもたちの絵の淡い色が、ぱっと脳裏ではじけた気がした。

●やっぱりマルクス

 いま79歳。「僕」という一人称が不思議と似合う。
 「国会議員を辞めて僕の視野は広がった。議員時代には読めなかった本や出会えなかった人に会える。一市民の立場から、もう一度世の中を見直してみたい。議員時代は仕事絡みの本ばかりでしたが、今は文学部に入学し直した気持ちで、いろいろなジャンルの本を読んでます」

 若者向けの本も?
 「もちろん。若者がどういう本に関心を持っているかを知りたいですから。例えば芥川賞を取った若い女の子の本。えっと、誰でしたっけ」
 若者の身体改造を描いた「蛇にピアス」の金原ひとみさん? 「そうそう」。読んだんですか? 「いや、本の解説文を読んだだけで、なんだか読む気がうせちゃって。ワッハッハ」

 議員引退後に読んだ本で一番感動した本を尋ねた。案外ポップな書名が飛び出すのでは、と期待して。しかし善明さんの答えはこうだ。
 「そりゃ、やっぱりマルクスとレーニンです。確かに今に通用しないことや欠陥もあるが、変革の精神をもう一度深く見てみたくてねえ」。実にうれしそうにいう。少年みたいにほおを桃色に染めて。

 議員引退後、読書習慣とともに大きく変わったのが食生活だという。「議員時代は食べ物を味わったことなんてなかった。まるで『エサ』でした。熱々のカレーライスだって5分足らずで食べた。今でも早食いが直らず、妻や息子にしかられます。引退して初めて知りました。魚の味が種類によってこんなに違うことや、野菜のおいしさをね」
 最近おいしかった魚は「今朝のキンメダイの塩焼き」。前妻ちひろさんが亡くなった後、善明さんの議員生活を支えた今の妻利恵子さんは大変なお料理上手のようだ。

●芸術の力

 去年の暮れ、ベトナムに渡った。日本の戦後60年と、ベトナム戦争終結30年を記念して「いわさきちひろ展」が現地で開かれたためだ。そこで胸を打たれる出会いが待っていた。南ベトナム解放民族戦線の女性闘士と、その子どもたちを描いたちひろさんの絵本「母さんはおるす」の、モデルになった子どもたちと出会うことができたのだ。
 「当時の子どもたちも、40〜50代になっておられました。ベトナムの女性闘士の物語が日本で絵本になっていることに、ベトナムの人たちは本当に感動してくれた。ちひろの絵を見て、まるで40年前に戦死した母が戻ってきてくれたみたいだ、って」

 善明さんは最近、55歳でがんに倒れたちひろさんの芸術を改めて見直すことが増えた。「マルクスは造形芸術についてはあまり書いてないんですがね。やはり芸術の力はすごいなあと。ええ。そう思います」

 魚の味の違いすら知らないほど突っ走った議員時代。引退後も選挙応援や講演を続ける傍ら、ようやく持てた自分の時間を読書につぎ込み、今なお反戦平和にこだわる。
 「先日、知人に『人生をいくつもほしいよ』ってこぼしたら、『おまえはなんと欲深い男だ』とたしなめられました。でも、人生はいくつあっても足りないねえ。ウワッハッハ」
 善明さんの「早食い」は、まだまだ収まりそうにない。

記事227◆ホストクラブに行ってみた、の記事

□掲載年月日 2006年03月01日
□華麗で危うい異次元
□いま注目のホストクラブへ行ってみた
□癒やされたい女性たち

 ホスト界が脚光を浴びている。かつては「日陰の存在」と思われがちだったホストクラブが、最近はテレビドラマや映画の舞台にもなっているのだ。一見華やかだが、危うい雰囲気もあるその世界。いったい何が人を魅了するのか。

■顔より会話術?

 「すべての女性を幸せにする」。これ、ホストクラブを描いたテレビドラマ「夜王(やおう)」(TBS系)で主人公のホストが言う決めのセリフだ。もしかして私も、幸せにしてもらえるんだろうか。ホストクラブに行ってみた。

 東京・新宿歌舞伎町の「愛」本店は、この業界では老舗。鏡張りにシャンデリア、金ぴかの飾り物。生バンドやダンススペースも備えた古き良き「ホストクラブ」である。ここを選んだのは、内装がいかにも異次元っぽい雰囲気で、開店も午後7時半と早く、中高年の初心者でも入りやすそうだったからだ。ホストの指名やボトルキープをすれば料金は数万円に跳ね上がるが、初回は5000円で焼酎やブランデーが飲み放題。

 何人ものホストが交代で目の前に座ってくれる。九州から上京し、6畳間で同僚と2人暮らしを始めた25歳や、フリーターのまま29歳を迎え、ホストの世界に少々おびえながらも「最後の挑戦!」と一念発起した30歳もいる。「みんな大変ねえ」と苦労話に相づちを打つ私。
 でも、もしかしてそれ、世話好きオバサン向けの営業トークじゃないの?
 ホストたちは口々に「違いますよー」とさわやかに笑う。

 突然、「ハッピーバースデー」の曲が鳴り響いた。ホストたちが立ち上がり手拍子を打ち鳴らす。誕生日のケーキが女性客に運ばれてきた。「お客さんの誕生日には、ホストが自腹でケーキを用意するんです。女性がお返しにドンペリを入れてくれることもある」とホストが教えてくれた。ところで高級シャンパン、ドン・ペリニョンのお値段は? 「白が4万、ロゼは12万円」。思わず絶句。

 でも、ホストたちの語る「ホスト哲学」は結構おもしろい。
 「ホストは顔より会話術」
 「字なんか読めなくていい。場の空気を読め」
 「ホストの資質は世渡り上手と八方美人」
 「ホストは食わねど高ようじ。女性に夢を売ってるんだから、お金がなくても見えは張る」。
 そして目標はやはり、「売り上げトップ」なのである。
 
■漫画、そしてテレビ

 昨今のブームは漫画から始まった。数年前から、ホストが登場する漫画が急増。男性漫画では主人公のホストが売り上げトップを目指す男の成長ストーリーが王道で、少女漫画なら主人公の少女に夢を与える存在として登場する。代表格は「ヤングジャンプ」(集英社)連載中の「夜王」。1〜12巻で約200万部を売り、女性読者も多い。担当編集者は「一度は見たいのがホストクラブの世界。知られざる世界が舞台だが、基本のストーリーは男の成長物語で、女性をめぐって男と男が戦う分かりやすい構図なのが人気の理由かも」と分析する。

 一方、テレビではホストに密着取材したドキュメンタリーが人気。ホストが芸能界デビューを果たしたり、バラエティー番組に登場したこともあって、露出度がますますアップした。漫画をテレビドラマ化した「夜王」の視聴率も好調だ。3月には映画「ウォーターズ」が公開予定。夢破れた男7人が再起を懸けて素人ホストクラブを開く青春映画という。ホストクラブで遊べるチケット付き前売りペア券は6000円。100組を発売してすでに半分が売れた。

 ところで私、ホストクラブの取材は2度目だ。最初は10年前。「援助交際」で得た金をホスト遊びにつぎ込んだ女子高生を取材した。昨年には前橋市で、強盗傷害容疑で逮捕された女子高生2人が「ホストクラブの未払いがたまっていた」などと供述している。金をつぎ込み人生を狂わされた女性もいれば、未成年への酒類提供や無許可営業などの風営法違反で摘発される店も少なくない。そんな危うさを併せ持つこの世界を、なぜ、お茶の間は受け入れるのか。

 テレビドラマ「夜王」の主な視聴者は、実は女子中高生とその母親たちだ。プロデューサーの加藤章一さんは「ホスト界のドロドロした部分に焦点を当てるのではなく、あえて人と人とのピュアな結びつきを描いたことで、ホストクラブに縁のない普通の女性に受け入れられた。中高生に受けるのは、非日常的な異空間に格好良い男の子がたくさん登場するから。30〜40代の働く女性や主婦たちに受けるのは、仕事や家庭で女性として扱われる機会が減っている中で、ホストクラブに実際に行ったような気分になれて、癒やされるからでしょう」と分析する。

 番組のホームページの掲示板には女性たちからこんな感想が。「主婦にとっては夢のまた夢。すてきなホストが勢ぞろいで本当にウットリしてしまいます」「ドラマとはいえ、幸せにしてもらっていることにありがとう」「楽しい時はもちろん、寂しいとき、つらいとき、お店に行ったらなごませてくれそう」。もしかしたら、ホストの「お茶の間デビュー」を支えているのは、ホストクラブに無縁な暮らしを送りつつも、テレビの疑似体験で癒やされたいと願う女性たちなのかもしれない。

■心が満たされていれば

 もっとも、疑似体験で済む人もいれば、済まない人もいるのが世の常で、メディアにおけるブームの余波は、現実のホストクラブにも当然広がっている。「愛」本店の愛田武社長によると、「歌舞伎町のホストクラブやボーイズバーはバブル崩壊で一時は100店ほどに減ったが、今回のブームでバブル全盛期並みの約150店まで盛り返した。テレビや雑誌の取材件数は5年前の8割増。『ちょっとのぞいてみよう』と初回料金を利用する普通の20、30代の働く女性や主婦たちが増えています」。

 同店は「はとバス」の団体向けコースにも入っている。主な客層は「行ってみたいけど1人じゃ怖い」という50〜60代の女性たちだ。「最初は緊張していても、慣れるとカラオケに、ダンスにすごく元気。ホント、女性が強い時代になったよね」。同店を35年経営する愛田社長はそう感心しつつ、一方でこうも言う。「でも昔から、女性はどこか悩みがあるからホストクラブにやって来るんだよね。癒やしを求めて。心が平和で満たされていたら来ないよ」

 見上げれば、まばゆいほどのシャンデリア。男女の嬌声が響く。夜が更けるほどに若い客が増えていく店内で、ふと、例のセリフを再び思い出した。「すべての女性を幸せに」。それって簡単じゃないよな、と思った。

記事226◆中学生の1割近くが自傷経験あり、の記事

こちらは普段の夕刊編集部のルーティーンワークではなく、個人の思い入れで記事にしたもの。社会面に掲載されました。


■掲載年月日 2006年02月06日
■自傷行為:悩む学校
■「数増え相談時間ない」「教師も精神的に負担」
■初の実態調査

 刃物で自分を傷つける「リストカット」などの自傷行為について、学校内で深刻な状況になっていることが6日、国立精神・神経センター精神保健研究所の松本俊彦医師らのグループの調査で分かった。リストカットは中高生の間で目立ち始めたといわれていたが、国内での実態調査は初めて。学校現場も対応に苦悩している。

 調査は神奈川県内の私立女子高(1校)の2年生126人と、公立中学校(同)の2、3年生477人を対象に04年に行った。「これまでにナイフなどとがったもので身体を傷つけたことがあるか」などの質問に無記名で回答してもらった。
 その結果、女子高生のうち14・3%が1回以上自傷しており、10回以上が6・3%に上った。中学生でも女子生徒238人のうち9・3%、男子生徒239人のうち8・0%が刃物で自分を切ったことがあった。また、「頭やこぶしを壁などにぶつけたことがあるか」との質問には、中学、高校合わせて男子の27・7%、女子の12・2%が「ある」と答えた。

 自傷の理由については、言葉にできない孤独や不安、怒りなどの感情から逃れるためだったり、助けを求める表現などさまざまだ。

 学校現場も対応に追われている。首都圏のある公立中学校では昨年、3年生の間にリストカットが突然広まった。最初は数人だったが、その後続発し、200人足らずの3学年の中で学校が把握しているだけでも20人を超えた。何人もの生徒が次々に「切っちゃった」と保健室を訪れる事態になった。

 保健室で手当てした養護教諭は「片手で生徒の手首の手当てをしながら、もう一方の手で別の子の手を握り締めたこともありました。誰もがみんな自分の苦しさに気付いてもらいたがっているようでした」と振り返る。

 現在、中学や高校の養護教諭たちによるリストカットの勉強会も各地で開かれるようになった。だが、「自傷者の数が増えて、一人ひとり話をじっくり聞く場所と時間を確保できない」「毎日、生徒に手首の傷を見せられると教師の側も苦しく、精神的に負担だ」「学校は家庭にどこまで踏み込めるのか」など悩みはつきない。

 「夜回り先生」で知られる元定時制高校教師、水谷修さん(49)にも自傷の相談が多数寄せられている。東北地方の中学校の女子バスケットボール部では、顧問の教師が1人をしかった後、部員全員が「私のせいでしかられた」と自分を責めて自傷したこともあった。

 松本医師は「人間関係の苦手な子たちは身近に自傷している子を見ると、仲間意識や所属意識を感じるために切り始める面もある」と指摘。そのうえで、「『苦しいんだね』と共感の言葉を伝え、相手にも言葉で苦しみを表現する機会を用意してやり、気持ちを受け止めてやってほしい」とアドバイスしている。

記事225◆「ホリエモン」で子どもに何を伝えるか? 小宮山量平さんインタビュー

ライブドア事件で堀江氏が逮捕された後も、子どもたちの中にはドラえもんならぬ「ホリエモン」の呼称が随分長く定着していました。だからこそ、「子どもに何を伝えるか」というテーマで識者に話しを聞きました。私が担当したのは、理論社にいた小宮山量平さん。子ども時代、この方が世に出した本に、私は何度心を打たれ、泣いたことでしょう!


■掲載年月日 2006年01月31日
■「ホリエモン」で子供に何を伝えるか

 ライブドア事件の堀江貴文容疑者(33)は、逮捕前からメディアを通じて子供たちにもなじみが深かった。時代のスポットライトを浴びた「ホリエモン」が塀の向こう側に消えたいま、親は、大人は子供たちに何を伝えたらいいのだろう。

◇同時代を生きる当事者として
−−作家・編集者、小宮山量平さん(89)

 今や、みんな傍観者だ。堀江君を持ち上げたテレビは手のひらを返したように彼をたたく。「私の息子」と当事者ぶっていた自民党の武部勤幹事長も大急ぎで傍観者へと逃げ込んだ。だが、子供に語る時に絶対に失ってはいけないのは当事者意識だ。僕は、火事場見物する傍観者より、火をつけ、時には消そうともした堀江君の方が偉いと思う。
 子供や若者の中には、堀江君の新しい夢に挑戦する姿にあこがれた子もいただろう。大人もかつては「たいしたヤツだ」と言っていた。それが逮捕された途端、「ああいうことをしちゃダメだぞ」と傍観者を決め込む。この時、子供に伝わるメッセージは「夢なんか持つな」だ。こんな傍観者的行為が、子供の瞳から輝きを奪う。「労せずして金をもうけるつもりならコンピューターができないと」と子供をそそのかしてきたのは、ほかでもない世間ではなかったか。
 トラブルの最中こそ物事の本質が見える。火花が燃え上がる時、周囲を明るく照らし出すように。今がその時だ。特に親たちは本質を見つめ、自分の言葉で子供たちに語りかけるべきではないか。
 僕なら今、子供たちに「本当の豊かさ」の思想を語りたい。堀江君には夢に挑戦する勇気も反骨心もあったが、残念なことに「小泉劇場」のお先棒を担ぎ、権力にすり寄った。なぜか。思想=哲学が欠如していたからだ。だからルールなきマネーゲームに奔走した。
 しかし世の中には物欲よりはるかに豊かな世界がある。あらゆる欲と潔く対決する「清貧」の思想だ。単なる貧乏ではなく物の本当の価値を知ること。ノーベル平和賞を受けたマータイさんの「もったいない」も「清貧」に通じる。日本には兼好法師や良寛などの昔からこんなにも豊かで美しい思想が伝統的にあったのだと、今こそ僕は子供たちに語りかけたい。

記事224◆深淵なるトイレ掃除の世界、の記事

□掲載年月日 2006年01月31日
□トイレ磨けば心輝く
□会社で早朝掃除、創業来45年の哲学

 45年間、掃除の道を極め「トイレ掃除で学校も社会も変わる」と説く人がいる。カー用品の全国チェーン店を一代で築いた鍵山秀三郎さん(72)だ。なぜ今、掃除なのか?

■素手でゴミ分別

 朝7時前。スーツ姿の男たちが自動車用品卸売販売のイエローハット本社(東京都目黒区)に次々と吸い込まれていく。始業時間は8時50分だから、2時間も早い出勤だ。数分後、約30人の社員が再び建物の外に現れた。今度は長靴にジャンパー姿。腰からポリ袋を下げている。いよいよ、同社恒例の早朝掃除の始まりである。
 単にほうきで掃くだけではない。本格的である。歩道の排水溝の鉄格子を外し、たまった枯れ葉やゴミをすくい上げる。汚水混じりの枯れ葉やゴミを、社員が素手で分別する。寒さにかじかむ手が赤い。
 ゴミを除いた枯れ葉は近所の公園で積んで堆肥(たいひ)に。拾った空き缶やペットボトルは水洗いし、つぶして回収業者へ。段ボールも拾ってきてはつぶし、重ねて縛る。自分のゴミも他人のゴミも分け隔てなく分別し、リサイクル。徹底している。

 排水溝に上半身を突っ込み、社員の先頭切ってゴミと格闘していたのが、同社創業者で現在は相談役の鍵山さんだ。「きれいになるでしょう?」。排水溝をのぞき込んでは、実に幸せそうに目を細め、笑う。
 会社を中心に東西2キロ、南北300メートルもの範囲を、毎朝少しずつ順番に掃除する。社員は自由参加で手当も付かない。それでも、本社勤務の約200人のうち数十人が参加する。早朝掃除の社風を望んで入社する社員もいるという。毎朝6時に出勤し、掃除に参加する男性社員(67)は「掃除すると無の境地になり、ストレスが消える。体力も付く。早朝掃除のお陰で何の運動もしていないのに、体のどこも悪くないんです」。

■最初は1人で

 鍵山さんの掃除は会社創業の1961年、独りぼっちのトイレ掃除から始まった。誰より早く出社し、素手に素足で便器を磨く社長に、最初は社員も戸惑った。しかし10年を過ぎたころから手伝う社員が増え始め、20年を過ぎると数十人の社員で会社の外も掃除するのが定着。うわさを聞いた他の企業が掃除研修に来るほどになった。会社も成長を続け、今や海外を含めて500店舗以上を持つチェーン店に。鍵山さんは「成功は掃除のお陰」と信じて疑わない。

 では、なぜトイレ掃除なのか。鍵山さんは「人の嫌がるトイレを掃除することで、謙虚になれる、気付く人になれる、感動の心をはぐくむ、感謝の心が芽生える、心を磨く」と五つの効能を説く。「心を取り出して磨くことはできないが、代わりに目の前のモノを磨くことで心を磨くことができる」とも。こうなると掃除というより哲学である。

 93年には、「掃除哲学」に感動した有志が「日本を美しくする会」を結成し、全国の学校や街を掃除する活動を始めた。国内にとどまらず、ブラジルや中国などでも「素手でトイレ掃除」を披露した。現在は全都道府県に支部を持ち、年間の掃除参加者は延べ1万人近いという。
 熱狂的な支持の一方、反発もなくはない。ゴミ集積所のゴミの分別をやり直していて、住民らに「他人のゴミ袋を開けるな」と文句を言われたり、「道路使用許可を得ていない」とパトカーを呼ばれたこともある。

 それでも鍵山さんは暑い日も寒い日も掃除をやめない。「今やめたら昨日までの努力が無駄になる。捨てて惜しくないような努力では決してなかったですから」。昨年出版した本の書名は「掃除道」(PHP研究所)。まさに45年間の長い道のりだったのだ。

 この「掃除哲学」が今、教育現場でにわかに注目を浴びている。トイレ掃除で学校が変わる、というのである。鍵山さんがトイレを掃除した学校は400校を超え、今年もすでに約40校に招かれている。「最初は掃除を嫌がる生徒も、教師やボランティアの大人が素手に素足で掃除する姿を見ると、参加する。いつの間にか夢中で便器を磨き、便器が輝くころには子供たちの目も輝いている。子供は大人よりずっと変わるのが早いです」と鍵山さん。

 登下校を警察官が見守らねばならないほど荒れていた高校で7年ぶりに体育祭が復活したり、退学者が激減したり、トイレ掃除で学校が変わる姿を鍵山さんは数多く見てきたという。

 学校だけではない。「日本を美しくする会」は2年半前から新宿で月1回の掃除をしている。新宿東口商店街振興組合の安田眞一さんは「以前は排水溝にヘドロがたまり、汚臭の発生源となっていた。掃除のお陰で街の汚臭が消えました」と語る。「歌舞伎町では掃除を始めて以降、犯罪件数も減ったそうです」と鍵山さん。「掃除力」は計り知れないのである。

■道具はきれいに

 ところで、この実践を家庭の掃除に生かす方法はないものか。鍵山さんの助言は「道具をきちんとそろえ、道具の置き場を決め、工夫しながら掃除すること」。早速、同社の掃除道具置き場を見せてもらって驚いた。きれいに洗ったほうきやスコップが定位置にずらりとつり下げられ、ホームセンターの売り場に並ぶ新品のようだ。
 「道具が汚れていたり、そろっていないと掃除をする気がそがれます。また、範囲を区切って毎日徹底的に磨くことで、汚いところときれいなところの差がはっきりし、掃除が嫌いな人でも汚いところを放っておけなくなります」と鍵山さん。

 掃除は苦手で、おまけに大嫌いな私だけど、まずは掃除道具の掃除から始めてみようか。

記事223◆「ママでも金」目指す谷亮子さんインタビュー

■掲載年月日 2006年01月13日
■知りたい!
■仕事と出産、究極の両立
■柔道・谷亮子さん「ママでも金」


 女子柔道のシドニー、アテネ両五輪の金メダリスト(48キロ級)、谷亮子さん(30)=トヨタ自動車=が昨年の大みそかに長男を出産し、子育てに奮闘中だ。「ママでも金」を目指すヤワラちゃんの心境は?

 新生児の世話は大変。産後の疲れの中で、3時間ごとの授乳が夜中も続く。だが、亮子さんは電話で開口一番、「楽しくやってます! 出産直後から母乳もちゃんと出てます。順調です」と喜びいっぱい。
 パパのプロ野球オリックス外野手、谷佳知さん(32)とママの名前を一文字ずつもらった佳亮ちゃん。九州から手伝いに来ている亮子さんの母親は「どちらかというとパパ似。最近はよく寝てくれて、いい子です。夜中の授乳? ええ、ママ(亮子さん)が頑張ってますよ」

 佳亮ちゃんの将来について、亮子さんは「夫婦で『何かスポーツをやらせたいね』と話してますけど、本人がやりたいことをやらせてあげたい。だって世界中には本当にいろいろなことがあるんですから」と話す。

 亮子さんの目標は、08年北京五輪での優勝だ。とはいえ、五輪金メダリストが出産し、再び金メダルを勝ち取った例は、00年のシドニー五輪陸上一万メートルのデラルツ・ツル選手(エチオピア)がいる程度。03年の世界柔道では、出産後に現役復帰したアマリリス・サボン(キューバ)が52キロ級で優勝した。

 日本に限れば、出産経験のあるメダリストは64年の東京五輪体操女子団体(銅メダル)の小野清子・参議院議員と池田敬子・日本体育大名誉教授の2人だけ。

 日本医科大の中井章人助教授(産婦人科・スポーツ医学)は「妊娠中や出産時にトラブルがなければ、出産後6週間で体は元に戻る。妊娠中に医師や専門家の指導のもとで適度なトレーニングを続け、筋力をあまり落とさず出産できれば、スキルダウン(技能低下)もわずかなものにとどめることは可能」と説明する。

 多くの働く女性が悩む「仕事のキャリアと出産」。亮子さんは語る。

 「結婚し、家庭を守りながらアテネ五輪で結果を出せたことは、私を大きく成長させてくれた。今回の出産もそうなると思う。出産で柔道を休んだことで時間的な余裕も得られました。出産で、私の柔道選手生命はむしろ延びると思います」

 浦沢直樹さん原作の漫画「YAWARA!」のモデルといわれ、今は全日本柔道連盟女子強化委員として女子柔道界を引っ張る山口香さんは、女子選手の指導経験から「ママでも金」の課題を次のように指摘する。「長期遠征は周囲のサポート次第で乗り切れる。むしろ母親が子供を置いて家を空けることに罪悪感を感じず、上手に心の折り合いを付けられるかがカギでしょう」

 そのうえで、山口さんは「出産によるメンタル面のプラスは大きい。どんな苦境でも、命がけで産んだ子供という存在が勇気をくれるはず。出産をプラスにとらえて、『母は強し』で夢に挑戦してほしい」とエールを送っている。

記事222◆ある交通事故遺族との交流、のコラム

■掲載年月日 2005年12月28日
■編集部から

仙台の玉枝さんから電話があった。12年前、高校生の息子、拓弥君の命を信号無視のトラックに奪われた。2000年に玉枝さんを取材した時は私自身も母親になったばかりで、玉枝さんの深い悲しさが胸に迫り、泣きながら記事を書いた。

 きょう28日は拓弥君の13回忌。残された夫婦で開いたギャラリー「拓坊」で追悼コンサートを開くという。「拓弥の昔の同級生が子連れで来てくださるの」と話す玉枝さんの声がいつになく喜びを帯びていて、私は少しだけほっとした。

 新聞記事にすればわずか十数行かもしれない交通事故がどんなに人を悲しみに追い込むかを、私は拓弥君と玉枝さんに教えられた。どんな小さな死亡記事の向こうにも「玉枝さん」がいることを忘れない記者であろうと思い続けてきた。

 年が明けたら、久しぶりに「拓坊」を訪ねようと思う。

記事221◆三木睦子さん「不戦の心」インタビュー

□掲載年月日 2005年12月22日
□貫く
□三木睦子さん
□不戦の心
□信頼、謙虚さ取り戻せ


 初めてお目に掛かった三木睦子さんは、モスグリーンのスーツ姿。眼鏡がオシャレだ。「老眼は最近治ってしまって、今は眼鏡なしでも新聞を読めるんですよ」と、いたずらっぽく笑う。白くて細い髪が、額のあたりで優雅に巻き上がっている。

 ここは東京都渋谷区南平台町の三木武夫記念館。三木元首相と睦子さんの居宅を改造し、一般公開している。窓ガラス越しに見える中庭には桜にシャクナゲ、ハクモクレン。計算し尽くされた庭の美しさはないが、いろいろな木が思い思いに枝を伸ばし、花の季節のにぎやかさが想像できる。

 「わたくしたち夫婦が好きな白い花ばかり集めているうちに、こんなお庭になりまして……」。木々の下には、陶芸好きの睦子さんが焼いたという灯ろうが並んでいた。何か自由がにじみ出すような、おおらかな庭なのである。

●ネコとひなたぼっこ

 さて、一貫して不戦を唱えてきた睦子さんも88歳。今の政治に何を思うのか。
 「もう、わたくし、おばあさんですから……。あまり意見もないんですよ。ふふふ。ぼやーっと、ネコでも抱いてひなたぼっこしている年ですからねえ」
 開口一番の「ネコとひなたぼっこ」発言に、記者は少々肩すかしを食ってしまう。小泉純一郎首相の対中外交やら、憲法改正問題やら、怒りの一言が飛び出すとばかり思い込んでいたからだ。

 なにしろ睦子さん、かつては「永田町の女傑」とも言われた人である。三木氏が亡くなって以来、脇役から主役に転じ、日本初の女性衆院議員で104歳で亡くなった加藤シヅエさんや「難民を助ける会」会長の相馬雪香さん(93)と3人で「三猛女」の異名を取ったこともある。

 本当にネコとひなたぼっこですか? と問えば、「うちにはネコはいませんの」とにっこり。あれれ、ご冗談でしたか。

●家庭内野党

 最近の睦子さんは、よく「ネコとひなたぼっこ」を口にする。改憲論議に怒り、歴史教科書問題に怒り、イラク開戦に怒り、批判の精神を失わず、どこへでも一人で出掛けてしまう睦子さんに、ご家族は随分心配しているらしい。「子や孫に『なるべくお静かにお静かに』って言われまして。できるだけ出しゃばらないようにしています。時にはお世辞なども言ったほうがいいかしら。ふふふふふ」

 それからぐっと身を乗り出し、ちゃめっ気たっぷりに付け加える。
「でも、わたくしは天衣無縫に育ったものですから、他人様の悪口を言うとスッキリするの。そういうこと、あなた、ない?」

 見れば、眼鏡の奥で目が笑っている。三木氏の「家庭内野党」とまで呼ばれた女性の素顔が、一瞬かいま見えた気がした。

 「家庭内野党」は、政治家や新聞記者たちが付けた。「年がら年中、三木のもとには代議士さんやら新聞記者さんが来て議論するでしょう? つい口を出しちゃうんですよね、この家庭内野党が……」。ほほほと高笑い。

●信なくば立たず

 夫もまた「一貫な人」だった。戦前から日米不戦を訴え、1942(昭和17)年の翼賛選挙では、大政翼賛会の非推薦で当選。反金権の政治姿勢で「クリーン三木」、「議会の子」とも呼ばれた。首相時代にはロッキード事件の徹底究明を求め、田中角栄元首相を逮捕に追い込んだ。
 睦子さんは夫に一度だけ尋ねたことがある。「どうしてあなたは自民党にずっといるの?」。夫が保守の側に立っていることが不思議でならなかったからだ。その時の夫の答えは今も胸に残る。
 「三木はこう言ったんです。『僕がここでひるんで他の党に行ったら、憲法9条は守れないんだ』と。その覚悟のほどにドキッとしましてね。もう二度と同じ質問はできませんでした」

 それから30年以上を経た今、改憲ムードがこれまでになく盛り上がり、国民の抵抗感も薄れ始めたように見える。睦子さんは常々、「こんな日本では恥ずかしくて、あの世で三木に報告できません」と護憲を声高に訴えてきた。しかし、この日はポツリとこう言うのである。「三木は早くに亡くなってよかったのかも」

 返事もできぬまま黙する記者に、睦子さんは言葉を継いだ。「あの人は大声で怒鳴るタイプではないけれど、今生きていたら理路整然と、でも必死で憲法9条を守ろうと訴えたでしょうね。昔の憲法や戦争を踏まえて意見を言えるのは、私たちロートルばかり。今の政治家たちは総理大臣をはじめ、終戦時にまだヨチヨチ歩きでしたものねえ」と、ため息一つ。

 今年の流行語大賞にも選ばれた「小泉劇場」。先の衆院選についても尋ねると「国会議員が何たるか知らないで当選してしまった若い代議士さん。ひょいと『ここの選挙区に行って選挙してごらん』と言われ、何もしないで当選しちゃったような女性議員。本当に国民に望まれ、『この人に我々の意思を託して立派な政治をしてもらおう』という選挙とは違いましたねえ」。

 女性の代表を国会に送ろうと活動してきた身ではあるが、今回の「小泉チルドレン」旋風は素直に喜べない。

 ところが最近は、「小泉首相は三木元首相の遺志を継いでいる」などと言う人もいるらしい。民衆の信頼の大切さを説く「信なくば立たず」という言葉は、三木氏の座右の銘として有名だが、小泉首相も好んで口にする。「でもねえ。三木のいう『信』と、小泉さんの『信』、どうも違う気がするのです。『信』は信頼であって、人気ではありませんもの」

●型破り

 睦子さんの父は昭和電工創業者。22歳で10歳年上の三木氏と結婚した。今も亡き夫のことを語る時は、目が優しくなる。
 「三木は『玄関に入ったら威厳は君に全部あげる』とよく言いました。国家予算のことは分かっても家計は全然分からない人で、全部わたくしに任せっぱなし。畳替えをするのに、一畳19円のところを17円にしてくれるのよ、っていうと『そりゃ安い。全部やってもらえ』と。一部屋17円だと勘違いしてるんです。そりゃまあ、頭のいい人でござんしたわよ」

 夫に先立たれた途端、悩みの種だった頭痛がピタリとやんだという。「なぜでしょうねえ。三木は面白い人でね。体調を悪くして『先に寝させていただきたいのですが』とわたくしが言うと『いいよ、寝たまえ寝たまえ』と優しいのよね。ところがわたくしがお布団を延べて枕をチョンと置くと、そこへ自分がゴロッと転がって『おおい、たばこ!』だもの。なぜわたくしが布団を敷いたのか、まるで分かっていないの。ふふふ」

 もちろん当の睦子さんも、政治家の妻としては随分とユニークだ。三木氏が科学技術庁長官(当時)として入閣することが決まった日、睦子さんは子供たちと3人で欧州旅行中だった。フランスでは公使が航空券を準備して待ちかまえ、「すぐに日本へお帰りください」。しかし、睦子さんは「日本に到着するころにはお祝いのタイは腐ってますでしょうから」と旅を続けたという。夫唱婦随の時代に、かなり型破りだったに違いない。
 「若いころ、イギリス留学をしたくて兄嫁の妹と船の予約までしていたのだけど、父が『寂しくて待てない』と。この一言にほだされてやめてしまったの」。今も少々悔しそうにいう。

●アジアに目を向けて

 そんな睦子さんも最近は、医者の言いつけを守り、遠方での講演を控えている。「もうネコとひなたぼっこしている年」と自分に言い聞かせるように繰り返しながら、それでも、不戦への思いはあふれんばかりだ。

 若い世代へのメッセージを、とお願いした。さて、女傑の「喝」が飛び出すか。それとも……。

 「えらそうなことを言える立場じゃないんですよ。やっとヨタヨタと生きているだけ。戦争にも抵抗はしたけれど、やめさせることはできなかったんですからね」
 それからしばらく目を閉じて考えて、静かにこう付け足した。
 「ただね。これから日本を背負って立つ若い人にはやはり、アジアにもっと目を向けてほしいと思います。あっちにも、こっちにも、戦争のつめ跡が残っているのですから。私たちはもっと謙虚であらねばならないと思うんです」

 かつてのような強い語気や勇ましさが消えた睦子さんの言葉は、その分、より深い憂いと怒りをたたえ、聞く者の心に沈んでいく。

記事220◆「安全マップ」を作る小学生ルポ

□掲載年月日 2005年12月22日
□子供が作る安全マップ
□被害に遭わぬ力付ける
□歩き、聞き、考える


 子供が被害に遭う事件が相次ぐ中、大人が守るばかりでなく、子供自身の被害防止能力を育てよう、という試みが始まっている。立正大の小宮信夫助教授(犯罪社会学)が提唱する「地域安全マップ」づくり。子供たちはどんなプロセスを経て危険を察知し、回避する能力を身につけるのか。マップづくりに参加してみた。

■クイズ形式で

 12月上旬、埼玉県坂戸市立泉小学校で、4年生50人を対象に「地域安全マップ」づくりの授業が行われた。まずは座学から。小宮さんは「犯罪者は誰もが『入りやすい場所』と周囲から『見えにくい場所』が好きです」と説明し、黒板にガードレールのある歩道とない歩道の絵を描いて見せた。「どっちが安全?」
 首をひねる子供たち。小宮さんが車道に車を書き足すと、すぐに「ガードレールのある方」と声が上がった。「当たり。ガードレールがあると、車に連れ込まれにくいんだ。ない方は『入りやすい』から危険なんだ」。さらに、クイズ形式で「入りやすい場所」と「見えにくい場所」を具体的に教えていく。囲いがあるより、ない公園のほうが「入りやすい」から危険。でも同じ囲いでも高いフェンスより、コンクリートの高い壁のほうが「見えにくい」から危険。
 最後の問題は「ベンチに落書きがあってゴミも散乱している公園と、落書きもゴミもないきれいな公園。どっちが危険か」。意見が真っ二つに割れた。小宮さんは「みんなはどっちに行きたい?」。今度は全員が迷わず「きれいな公園」。「そうだね。みんなを助けてくれるような人もきれいな公園に集まるからそこは『見えやすい』。落書きやゴミのポイ捨ては『見えにくい場所』、つまり危険な場所の証拠なんだよ」

■インタビューも

 続いて街探検だ。4〜5人の班に、小宮ゼミの大学生が2人ずつ同行して地元を歩く。班長や地図係、写真係なども決めた。「マップづくり、頑張るぞー!」と気勢を上げ、出発。記者も同行させてもらった。
 最初に行ったのは近所の公園。「生け垣が低くて見通しがいい……ということは?」と大学生が問えば「見えやすくて安全!」と子供たち。「マンションの窓はどこを向いてる?」「公園を向いてる。あ、見えやすいから安全だ」「トイレは?」「誰でも入れて中が見えにくいから危険?」「当たり!」
 時には街の人にインタビューも。「泉小学校4年生です。授業で地域安全マップづくりをしています。犯罪が起こりそうな所はありますか?」。班長の男の子が問うと、近所の人は「夜の公園や土手は怖いわね」。早速、地図係の子が地図に書き込む。「あっ、落書き!」。一人が地下道の壁を指さした。「落書きは『見えにくい場所』の証拠だったよね」と、同行していた小宮さんもニッコリ笑う。

■「ひっかからないぞ!」

 30分もすると、子供たちが主導権を握り始める。「ここは壁も木も高くて見えにくい」「それに街灯もない」「よし。危険な場所だ!」。写真係がパチリ。やっと子供だけで「危険」を発見できた。と、その時だ。小宮さんが「珍しい動物がいるよ。来て!」と狭い路地から手を振った。「どこに?」と駆け寄る子供たち。路地に深く入り込んだ瞬間――。

 「ウォーーーッ」

 小宮さんが振り向きざまに叫び、先頭の子を捕まえた。一瞬、子供たちの表情が凍りつく。小宮さんが「危険だって自分たちで言ってたのに、路地裏に連れ込まれちゃったね」と笑うと、みんなじだんだ踏んで悔しがる。しかしその後、小宮さんが再び「珍しい動物が」と声をかけた時には、子供たちは逃げ、「絶対にひっかからないぞ!」。何とも自信に満ちた表情を見せた。

 小宮さんは言う。「教室で『知らない人に注意しよう』と諭しても、子供には実感がわかない。街に出て自分で危険を発見したり、それを回避する体験を重ねることで、初めて被害防止能力は身につくのです」

■押し付けではなく

 学校に帰ると、地図づくりだ。大きな模造紙に道路や川、学校、公園などを描き込み、危険な場所や安全な場所の写真を張り付ける。「カギのかかっていない倉庫は入りやすいし、見えにくいから危険」などと説明書きも添える。
 見学していたPTA会長の田中さんは「子供の安全を守るのは地域のコミュニケーションだから、親としては子供に『知らない人と話しちゃダメ』とは言いたくない。地域の人にインタビューしながら自分たちで危険な場所を見分ける力を身につけられたことは、一生の宝物になったと思います」。
 小宮さんも「本当に大事なのは出来上がった地図じゃない。子供たち自身が歩き、考え、気付くプロセスなんです。大人がつくった安全マップや不審者情報マップを子供に与えるのとは根本的に違うのです」という。

 各班の地図を見て回るうちに気づいた。放置自転車の写真に「危険」ではなく「片づけよう」と書き込んだ班。「坂戸大好き」とハートマークを添えた班もある。マップづくりを通し、自分たちの街をいとおしく思えるようになったのかもしれない。「あっちもこっちも危険」と並べ立てるだけでなく、ゴミを片づけ、落書きを消し、地域の人との対話を増やすことが安全につながることを、自然に学んでいるようにも見えた。

 最後に、小宮さんが「みんな危険な場所が分かったから、もう地図はいらないね。破いちゃおう!」と、ある班の地図に手を伸ばした。「いやだ!」と子供たちは叫ぶ。

 小宮さんはこう言い添えた。「みんなが一生懸命つくった地図をビリビリに破いてしまうように、昔からコツコツ築き上げた地域の安全を粉々にしてしまうのが犯罪なんだ。だからみんな犯罪には遭わないように、犯罪をする側にも回らないようにね。おうちの人にもこの話をしてくれるかな?」

 体育館に集まった50人の子供たちが一斉に手を挙げた。

記事219◆セイコガニを食べよう、の記事

新聞掲載後、「私も食べたい!」「どこで取り寄せられるのか」など問い合わせが殺到した記事です。
やはり、おいしいものは誰でも好きですものね。

■掲載年月日 2005年12月14日
■カニを味わう
■珠玉の外子、内子とみそ…セイコガニ
■意外な安さに、じわり喜び


 冬の風物詩、ズワイガニの季節である。越前ガニや松葉ガニといった主役の陰で、あまり知られていない小さなカニがいる。ズワイのメス、セイコガニ。開高健さんがこよなく愛したというこのカニを、とびきりおいしく食べる方法を探った。

□■海の宝石箱

 ズワイガニは水揚げされる地域によって呼称が違う。北陸では「越前ガニ」、山陰では「松葉ガニ」と呼ぶ。これらはいずれもオス。一方、メスはオスよりはるかに小さく、甲羅の幅も10センチ足らず。福井県ではセイコガニやセコガニ、石川県ではコウバコガニなどと呼ばれる。「セイコ」は「背に子(卵)」から名付けられたといわれている。ズワイやタラバが足のカニ肉とカニみそを楽しむものなら、セイコで一番うまいのは卵(外子)、オレンジ色の卵巣(内子)、そしてカニみそだ。

 オスに比べて値段もずっと安い。福井県の大手卸売業者「福井中央魚市」の担当者によると、「オスは浜値で1キロものが1杯2万〜2万5000円。ところがメスは大きいものでも1500〜2000円。小さいのなら400円くらい」。これなら庶民の口にも入りそうだ。
 このカニを愛したのが開高健さん。サントリーの広報誌「サントリー・グルメ」第1号に「越前ガニ」のタイトルでこんな文章を残している。

 <雄のカニは足を食べるが、雌のほうは甲羅の中身を食べる。それはさながら海の宝石箱である。丹念にほぐしていくと、赤くてモチモチしたのや、白くてベロベロしたのや、暗赤色の卵や、緑いろの“味噌”や、なおあれがあり、なおこれがある。これをどんぶり鉢でやってごらんなさい。モチモチやベロベロをひとくちやるたびに辛口をひとくちやるのである。脆美、繊鋭、豊満、精微。この雌が雄にくらべるとバカみたいに値が安いのはどういうわけかと怪しみ、かつ、よろこびたくなる>

 開高さんが通い詰めた福井県越前町の老舗旅館「こばせ」の主人、長谷政志さんは懐かしそうに語る。「1965年でしたか。ベトナム戦争から命からがら帰国した開高先生がこちらに来られました。先生はセイコガニを『海の宝石箱』と呼んでおられましたので、私、『今夜は手元が狂って宝石箱をひっくり返してしまいました』と差し上げたのが今の『開高丼』です」

 炊きたての白いご飯にセイコガニのみそや卵をたっぷりのせて、しょうゆをかけて食べる。長谷さんが開高さんに差し出した丼には、なんと25杯分のカニを使ったという。今でもこの宿では約7杯のセイコガニで作った4〜5人用の「開高丼」(1万円)が人気だ。

□■バブルの後遺症

 ズワイガニが水揚げされる地方以外で、セイコガニを味わうにはどうすればいいのか。東京の市場にはほとんど出回らない。そもそも最近は、福井の地元でも食べ方を知らない若い人が増えているという。「バブルの後遺症です。地元ではかつて子供がおやつ代わりに食べたものですが、バブルで値段が暴騰し、浜値で1杯4000円ぐらいまで跳ね上がった。オスの越前ガニが5万も10万もした時代です。あれ以降、家庭でセイコガニを食べる習慣が減ってしまった」(福井中央魚市)という。もったいない話だ。

 東京でこの「海の宝石箱」を食べるには主に二つの手がある。一つは越前料理を食べさせる店に行くこと。もう一つは、通信販売である。最近はインターネットを使って1杯1000〜2000円で取り寄せられるようになった。

□■ネット注文も

 試しにネットで注文してみた。一部足が折れた格安のものが6杯6040円(送料込み)。数日後には氷詰めのゆでガニがクール宅配便で届いた。
 まずは、腹の部分を開く。赤黒い卵がたっぷり。これが外子だ。プチプチとした食感がたまらない。尻の付け根にあるオレンジ色の内子は味も最高なので食べ忘れないこと。次は甲羅を尻の方からはがす。甲羅の口の部分にあるくちばしを外側から押すように外す。くちばしについたカニみそを上手に吸い出す。

 甲羅の中身をきれいに食べたら、次はいよいよ本体部分。深緑色のカニみそと、オレンジ色の内子が混じり合う、セイコガニの真骨頂だ。カニの両足を左右の手に持ち、縦に半分に割って、中身にしゃぶりつく。足や足の付け根に入ったカニ肉はハサミや包丁などを使って食べる。冷凍ものとは違う、カニ肉の食感もうれしい。

 次は、炊きたてのご飯に内子やカニみそをのせてみた。小さい茶わんながら「開高丼」である。しょうゆをタラッとかけ、ガッガッとかき込む。濃厚な内子やみそが米の一粒一粒にまとわりつき、口の中にぱっと広がる。これは確かに、うまい。

□■最後はスープまで

 食べ方を教えてくれた福井県に住む親類は「セイコガニで一番うまいのは内子とカニみそ。僕らの家族は細い足のカニ肉や外子は捨ててしまう」という。なんともったいない話。地元の人はそれでいいが、東京まで取り寄せた者としては、そうはいかない。食べ終わったカニの殻はオーブンでこげないよう軽く焼いて粗くつぶし、ショウガや青ネギを加えてスープを取る。カニのだしはみそ汁やおじやに最高。我が家では緑豆春雨をスープで炒め煮するのが人気だ。

 セイコガニは、オスの越前ガニより漁期が短い。オスもメスも11月6日解禁だが、オスは3月20日まで、メスは産卵保護のため1月10日まで。取り寄せるなら今のうちというわけ。
 年の暮れ、家族で「海の宝石箱」を味わってみては?

記事218◆初めての歌舞伎体験、の記事

■掲載年月日 2005年12月05日
■初めての歌舞伎
■世界遺産に登録−−予習は不要
■オペラグラスとイヤホン活用を!


 「歌舞伎」がユネスコの世界遺産(無形文化遺産)に登録された。日本人は「世界遺産」が大好きで、熊野古道も知床半島も登録直後から観光客が急増している。となると、歌舞伎にも新たなファンが増えるだろう。これを機に、「はじめての歌舞伎」の楽しみ方を探ってみよう。

 まずは質問!
 江戸時代には身分によって楽しむ芸能も違った。歌舞伎を楽しんだのはどんな人々だったか。

1、武士 2、町人 3、公家

 答えは、町人。歌舞伎は、江戸時代の町人たち一般大衆が楽しんだ芸能だった。一方、能や狂言は武士が教養として身につけるべきものだった。

◇ステップ1・鑑賞の前に

 歌舞伎の語源は「傾(かぶ)く」。常識を外れた異様な振る舞いや装いをする者を「傾(かぶ)き者」と言った。戦国時代末期、「出雲の阿国(おくに)」という女性が男装し、踊ったのが「傾き者」として庶民に喜ばれた。これが歌舞伎の起源といわれている。
 しかし、このように女性が踊る「女歌舞伎」は風紀の乱れを理由に幕府から禁止された。そこで次に美しい少年による「若衆(わかしゅ)歌舞伎」が登場したが、結局こちらも風紀を乱すと禁じられてしまう。女性や少年がだめなら、と、成人男性が舞台に上がったのが「野郎歌舞伎」だ。成人男性の髪形(野郎頭)からこの名がついた。これが今の歌舞伎の原形で、男性が女性の役を演ずる「女方(女形)」もここから生まれたといわれている。
 つまり歌舞伎は、そもそも大衆のためのエンターテインメントだから、今になって「敷居が高そう」などと尻込みするのはもったいない話なのである。30年前に始まった歌舞伎イヤホンガイドの試験放送時から、解説者を務める高木美智子さんは「歌舞伎は気持ちで見るもの。学問に無縁の江戸の大衆が楽しんだものなのですから、予習も理屈もいりません。無理に勉強しなきゃ、と思うから遠のいてしまう」と語る。
 「役者が何をしゃべっているか分からない」という初心者に高木さんが勧めるのは、劇場で借りられるイヤホンガイドだ。舞台の進行に合わせ、役者名やセリフの意味、衣装や音楽などの「実況解説」を聴くことができる。また、「筋書」と呼ばれるパンフレットを買えば、あらすじもバッチリ分かる。
 「歌舞伎は高い」という誤解もあるが、高木さんは「3階席なら2000〜4000円程度。普通のお芝居と比べれば安いくらいです。お安い席でも、持参したオペラグラスと劇場で借りたイヤホンガイドの二つがあれば十分楽しめます」という。

◇ステップ2・数回見たら

 高木さんが初めての人に勧める歌舞伎の見方は「堅苦しく考えて下調べするのではなく、まずはまっさらな気持ちで舞台を見て楽しむこと」だ。「おもしろいな、と思って、もっと知りたい気持ちがわいてきてから勉強すればいいんですから」と助言してくれる。
 何度か歌舞伎を見ているうちに、独特の表現方法や舞台の仕組みなどにも興味がわいてくるだろう。例えば、「見得(みえ)」は役者が感情の頂点に達した時、一時静止してポーズを取る演技のこと。無言こそが最大の叫び、というからおもしろい。
 顔に引かれた赤や青の化粧は「隈取(くまどり)」。どの演目でも使われているわけではないが、隈取で役どころがだいたい分かる。例えば、白塗りに紅の隈取は正義の味方。藍(あい)色は怨霊(おんりょう)や敵役。茶色は鬼や妖怪など人間以外の不気味な役に使われることが多い。顔を赤く塗った「赤っ面」は敵役だ。
 舞台装置も独特だ。花道や回り舞台、エレベーターのように舞台の一部が昇降する「セリ」がある。歌舞伎のお決まりの幕は「定式(じょうしき)幕」と呼び、黒、柿、萌葱(もえぎ)色の3色を使う。
 演目の分類は、切り口によってさまざまだ。高木さんによると「大きく分けると四つに分類できます」という。平安や鎌倉など江戸時代以前を時代背景にし、武家や公家の世界を描いたのが「時代物」。現在の映画やテレビでいえば時代劇である。一方、江戸時代の町人の世界を描いた現代劇が「世話物」。中でも特に、江戸時代の庶民の暮らしを生き生きと演じたものを「生世話(きぜわ)物」と呼ぶ。今でいうトレンディードラマである。
 ほかに「所作事(しょさごと)」と呼ばれる舞踊や、明治以降に文学者らによって書かれた「新歌舞伎」がある。「新歌舞伎」以前の江戸時代は狂言作者によって書かれていた。
 江戸時代には、武士社会の事件を脚色上演することは禁じられていたので、江戸時代の出来事なのにあえて「時代物」にした作品もあった。例えば、赤穂浪士の討ち入り。幕府からの弾圧を避けるため、時代を室町時代に、舞台を鎌倉に設定して脚色したのが、有名な「仮名手本忠臣蔵」である。

◇ステップ3・「通」への道

 贔屓(ひいき)の役者ができると、歌舞伎はぐんと楽しくなる。江戸時代には役者だけでなく贔屓も世襲だった。江戸時代、役者は自分の衣装を自前で負担した。金銭的に援助をしたのが、贔屓客たちだ。
 初心者には難攻不落に見えるのが「掛け声」だろう。芝居の絶妙なタイミングで「成田屋!」「音羽屋!」などと叫ぶ、あれである。高木さんは「素人の方はやらないほうが無難。タイミングを外すと役者さんも困ります。まずは通の方の掛け声を聞いて楽しんでください」と語る。
 「通」への道は少々遠そうだが、最初の一歩はやはり、歌舞伎を実際に見に行くことなのだ。
 高木さんは言う。「歌舞伎は、堅苦しく考えてお蔵にしまい込んでおくようなものではないんです。もっと気楽に見て、楽しんでください。かならずおもしろさが見つかるし、日本人に生まれてよかったと思えるはずですよ」

記事217◆「あらしの夜に」の読まれ方…作者インタビュー

■掲載年月日 2005年11月24日
■「あらしのよるに」の読まれ方
■異種の友情が問う、私自身の人間関係
■7巻250万部

 現実でも、絵本の世界でも、オオカミはヤギを食らうもの。ところが、この動物の友情を描いた連作絵本「あらしのよるに」(講談社)がシリーズ全7巻で250万部を売る人気だ。12月10日のアニメ映画の公開を前に、作者の木村裕一さん(57)と人気のヒミツについて考えた。

□■恋愛論から企業論まで

 「あらしのよるに」が出版されたのは11年前の94年。主人公はオオカミとヤギ。嵐の夜、真っ暗な小屋の中で、食う者と食われる者が互いにそれと知らず、一緒に雨宿りする。オオカミは相手のことをオオカミ仲間と思い、ヤギの方も相手をヤギ仲間と信じ、「明日、この小屋の前で」と再会を約束するのである。
 再会の直前で物語が終わる、というこの結末は当時、物議をかもした。木村さんによると「『あの終わり方は無責任。続きが気になる』と言う人もいれば、『続きは不要。書くな』という人もいた。賛否両論だった」という。

 ところが95年、この絵本が講談社出版文化賞絵本賞を受賞。周囲の続編への期待は高まり、翌96年、続編「あるはれたひに」を出版。続編は、互いの姿に驚いたオオカミとヤギが、それでも友情を大切に思い、一緒にお弁当を持ってピクニックに出かける話。途中で弁当を谷底に落としてしまったオオカミが、食欲と友情とのはざまで葛藤(かっとう)する。
 「続編には大人の反響が急増した。若い女性からは『葛藤するオオカミがかわいい。こんな男性ならすぐに好きになっちゃう』なんてね。実はヤギは当初オスを想定していたのですが、途中で性別をオスともメスとも分からないように書き換えた。その結果、『オオカミ=男、ヤギ=女』というふうに、恋愛論として読む大人の読者が増えたのでしょう」
 第3巻(97年)、4巻(99年)、5巻(00年)と続編を重ねる中、オオカミにはガブ、ヤギにはメイという名前もついた。捕食関係にあった2匹の秘密の友情はそれぞれの仲間にばれ、いつしか2匹は群れの中で孤立を余儀なくされていく。

 大人の読者はさらに多様な読み方をし始めた。「企業の社内報からも取材を受けました。群れの論理と個人の友情との間で葛藤するこの絵本には、企業か個人か、という命題が隠されている、というわけです」
 いつしか反響の多くが、子供から大人へと変わっていった。自らの不倫体験に重ねて苦しい思いを書きつづった若い女性。「高校生の息子と夫に絵本を勧めた後、あこがれの男性にも勧めちゃいました」という主婦からの告白。演出家の宮本亜門さんのように、民族や宗教対立の問題として読んだ人もいた。

□■結末の結末

 木村さんは02年、第6巻「ふぶきのあした」を出した。完結編のつもりだった。2匹は群れから飛び出し、雪山を越え、種族の違いを超えてともに暮らせる緑の森を目指す。しかし、メイを守るため、ガブは雪崩に巻き込まれる。それを知らぬメイは、緑の森にたどりつき、ガブの名を呼び続ける。
 6巻目の出版までに、すでにシリーズを通して14万部を売り上げていたが、人気が爆発したのは6巻目出版の直後だった。数カ月後には100万部を突破。「もう一度2匹を会わせてやって」という手紙やメールが殺到した。朗読会では女児が泣きじゃくり「7巻目を出してください」と訴えた。

 「僕は『絵本の結末はハッピーエンド』という従来のセオリーを破ってしまったのでしょう。しかしハッピーって、幸せって、何でしょう? 単に長く生きることですか。僕らは何のために生まれてきたのか。何が一番大切なのか。ガブとメイは納得し、覚悟のうえで一緒に雪山を越えようとした。あの結末は2匹にとっては単なる悲劇ではない。『ハッピーエンド』とも言えると思った。だから次を出す気はなかった」

 ところが今年11月、木村さんは第7巻「まんげつのよるに」を出版した。
 「僕はある日、これまでの物語には一つだけ、大切な要素を描いてこなかったと気付いた。それは『心は変わる』ということ。1〜6巻では、2匹が葛藤を乗り越え、友情を築く姿を描いた。でもね、たとえ深い友情であっても、心が変わることはある。それが生きるということ。悲しいけれど、悲しむべきことではない、受け入れるべきこと。それを描いてみたくなった」

 11年かけて完結したこの絵本は、12月10日からアニメ映画「あらしのよるに」(東宝系)として公開予定だ。

□■本音の関係が新鮮

 大人の読者はなぜ、この連作絵本に心をとらわれたのか。
 シリーズを終えて今、木村さんはこう考える。「僕は1〜7巻すべてで、2匹が本能の部分では食う食われるの関係だという原点にこだわった。ガブは空腹になるとメイがエサに見えて苦しむし、メイもガブが肉食であることを頭で理解しつつ心情的には受け入れない。2匹が友だちであり続けるためには、本能を克服するしかない。人間もそうだ。いつも本能を理性でコントロールして暮らしている。嫌いな上司だって殴らないで我慢する。好きな相手にいきなり抱きついたりしない。2匹の物語が大人の心に染みたのは、みな葛藤の中で生きているからではないでしょうか」

 多くの子供が、大人が、身近な人間関係に重ねて2匹の物語を読んだ。木村さんは言う。「ガブもメイも相手に真剣に立ち向かい、思いを率直にぶつけて、互いの違いを許し、認め合い、乗り越えることで心のきずなを深めた。でも、私たちはそんな本音の関係を身近な人々と結んでいるでしょうか。こんな時代だからこそ、大人にも子供にもガブとメイの関係が新鮮に映ったのかもしれませんね」

記事216◆老舗かまぼこやで見たもの、のコラム

■掲載年月日 2005年11月24日
■編集部から

 東京・日本橋のはんぺんの老舗「神茂(かんも)」で、着物姿の女将さんがお客さんと語り合っているのをお見かけした。「このあたりは魚市場でございましたから……」で始まる語り口も、立ち姿も、とてもりんとしていた。

 壁の額縁の装丁に使われている布がすてきだなあ、と思っていたら、なんと、店の先々代の女将が身につけていた着物の帯を使ったものという。「嫁いだ私に商いの心を教えてくれたのが、おばあちゃまでした。おばあちゃまの言葉を忘れたくなくて、帯を額縁の装丁にし、毎日目にしては肝に銘じているのです」

 彼女がほろりとこんな一言を漏らした。「時にはのれんの紋が重うございます」。ああ、と思った。老舗の女将、という人生が一言に凝縮されている気がして。味見させていただいたかまぼこの味が舌にも、心にも残った。

記事215◆ダルデンヌ兄弟監督インタビュー

■掲載年月日 2005年11月16日
■ベルギー版ニート映画
■兄弟監督が見た、日本の若者

 今年のカンヌ国際映画祭でパルムドール大賞を受けた映画「ある子供」。日本では「ベルギー版ニート映画」という観点での前評判も高い。12月10日の公開を前に、来日した兄弟監督のジャン・ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ両氏に話を聞いた。兄弟2人が見た日本の若者像とは……。

□■東京の孤独

 2人は「ある子供」を含め4作品でカンヌ国際映画祭の主要賞を受賞した名監督。これら4作品のすべてに若者の主人公が登場する。
 「ある子供」の主人公は20歳の青年ブリュノ。定職に就かず、仲間と盗みを働いて暮らしている。18歳の恋人ソニアに赤ちゃんが生まれ、ブリュノは父親になるが、父親としての実感はない。赤ん坊はカネになると聞き、自分の赤ん坊を売り飛ばしてしまう。

 「ベルギーの若者の失業率は20%。映画の舞台である街スランは、鉄鋼の街です。4万人の雇用があったのに、経済危機で3万人が職を失いました。貧しい階層に生まれ、社会のどこにも居場所がなく、麻薬の密売を始めるなど、貧困の中で大人になれない若者たちがたくさんいます」

 これがダルデンヌ兄弟の描いた「ベルギー版ニート」の姿だという。

 一方、日本でも今、「ニート」問題は論議の的だ。ダルデンヌ兄弟も来日中、日本の若者をもっと知るため、東京都内の区民講座に出かけた。今月3日夜、世田谷区の代田区民センターに集まったのは20代の若者からシニア世代までの約50人。「ある子供」の上映会後、ダルデンヌ兄弟が登場し、会場の日本人と本音で語り合った。

 この時、2人をドキリとさせたのは、25歳の女性の言葉だ。「地方から上京し、フリーターを1年間やっています。親の援助もないし、帰る実家もない。いつも不安です。いつか病気で働けなくなったら、私もブリュノみたいになるんじゃないか、って」

 弟のリュックさんは翌日、私とのインタビューでこの女性の話を持ち出してため息をついた。「彼女の発言を聞いた瞬間、東京という街が別の姿になった。巨大な街で、独りぼっちで自分の位置づけが分からなければどんなにか不安だろう。それまでエキゾチックに見えていた東京という街が、人間が生きるのを妨げる恐ろしいものに見えたのです」

□■質問攻め

 もう一つ、ダルデンヌ兄弟の心に残った区民講座での発言があった。それは年配の男性の言葉だ。「主人公ブリュノは盗みをしてでも生きようとしている。すごい生命力だ。しかし日本では逆のことが問題になっている。それは若者の生命力の希薄さです」

 ダルデンヌ兄弟は言う。「確かに主人公ブリュノは孤独だが、常に生きようとする側にいる。生命力の強い人間です。ベルギーでは現実に、失業中の若者は『我々は失業者だが犬ではない』という名の組織を発足させ、互いに助け合っている。人とつながることを知っている。これは親や祖父母から受け継いだものだと思う。貧しい階層の親や祖父母たちは、政治闘争や労使闘争を通して権利を勝ち取ってきた世代だから。しかし、豊かな階級の子供が同様に強い生命力を保てるかどうか疑問に感じている」。だからこそ、日本の若者に興味があるという。

 インタビューの席で、ダルデンヌ兄弟が逆に質問してきた。日本の若者について情報収集しているらしい。「『引きこもり』や『ニート』の人はどこでどんなふうに暮らしているのですか」

 ケース・バイ・ケースだが、両親と一緒に暮らす人が比較的多いことを説明した。するとリュックさんが首をひねった。「まさか一日中、コンピューターに向かってるわけないですよね? せめて両親とは会話するんでしょう?」

 「引きこもり」と呼ばれる人たちの中には、親との接触も避ける人もいると説明すると、2人は信じられないと驚き、「いったい彼らは何歳なのですか?」と聞く。

 引きこもりは長期化している。主流は、20代後半と30代といわれる。2人は深刻な顔で「私たちもぜひ、ベルギーで生きる欲求の落ちている若者が増えていないか調べてみたい」というのだった。

 リュックさんの質問は続いた。「子供はいつか親に反抗し、乗り越えていくものだ。私も17歳の時に父に反抗し、家を出た。家を出ていかないとしたら、日本の親は高圧的で『成功しろ』と子供に押しつけているのだろうか。子供は拒絶できないのだろうか」

 さて、どうだろう。いったい何が「成功」なのかも不透明なこの時代、親たちは昔ほど「成功しろ」と言わなくなったのではないか。むしろ、「やりたいことを見つけろ。好きなことをすればいい」という親が多い。「ニート」問題でも、「やりたいことがわからない」と立ち止まってしまう若者の存在が指摘されている。

 そんなふうに説明すると、リュックさんはようやく納得したようにうなずいて語った。「子供の欲望を先回りし、満たしてしまってはいけない。それは欲望が生まれる前に殺してしまうのと同じこと。欲望というのは、何かが欠けた時に生まれてくる。争いや葛藤(かっとう)を避けようと、社会が先回りしすぎているのではありませんか」

□■人は変わる

 映画の中で、ブリュノは少しずつ成長する。赤ん坊を売り飛ばしながらも、ソニアの深い悲しみに触れ、盗みの仲間だった子供を守ろうとする中で、人間らしい感情を取り戻していく。映画の最後に残るのは「希望」だ。ダルデンヌ兄弟は言う。「どんな人間であっても、人は変わることができるのです」
 では、何が人を変えるのか。何が、大人になれなかった若者を成長させるのか。「それは他者との出会いです。私たちの映画の登場人物は、自分の殻に閉じこもっている人が多い。しかし他者と出会うことで、立ち直っていく。特に、同世代の他者との出会いや友情、助け合いでね」

 こちらが質問するはずが、質問攻めに遭ったインタビュー。別れ際、2人は言った。「もっと日本の若者の話を聞きたかったですよ」

記事214◆数学者の森毅さんインタビュー

京大時代、この人にはお世話になりました。教養部で「単位楽勝講座」として有名だった森教授の数学。当然、私も受講し、試験のレポートに中国旅行記を適当に提出したのですが……。
数日後、学内の掲示板に、私の青刷りコピーの中国旅行記がペタンと貼ってあって、「これを提出した人は僕の研究室に来るように。名前が書いてありません!」と添え書きが……。
大恥かきながら、レポートを掲示板からはがし、研究室に謝りに行ったのでした。無事、単位はいただきました。
この場を借りて、御礼申し上げます。

■掲載年月日 2005年11月11日
■この国はどこへ行こうとしているのか
■数学者・森毅さん
■「ええんちゃうの」の反骨心−−京都からの発言

□だまさへん政府、学校なんか不可能よ。
□だますもんやと思って、
□だまされへんように考えるほうが大事でしょ。


 高瀬川を左手に見ながら、やってきたのは四条木屋町の裏路地、喫茶店「フランソア」。1934(昭和9)年の創業で、国の有形文化財にも登録されているという建物だ。中に入るとドーム形の天井にアーチ。ステンドグラスまである。

 数学者で京大名誉教授の森毅さん(77)は、ステンドグラスを背にビロード張りの小さなイスにひょいと座った。白髪にステンドグラス越しの柔らかい光が落ちると、そこだけ昭和モダンの色になる。「この店には三高時代によう来ましてなあ。夕方になると起き出して、学生仲間とぶらぶら歩いて。一番安いカルピスにストロー3本注文し、3人で1杯を回し飲みしつつ議論したもんよ」

 この日注文したのはコーヒーと洋なしのタルト。小さなテーブルで肩を丸め、ケーキをつつきながら、まずは若者談議となった。森さんは34年間、京大生と付き合ってきた若者ウオッチャーでもある。退官から14年。喜寿を迎えた森さんの目に、今の若者はどう映るのか。

 「幼く見えませんか」と尋ねたら、早速、人をけむに巻く語り口で「むしろ『おじさん化』が進んでるねえ」。「おじさん化」とは何ぞや。

 「やたら『みんなこうするもんや』とか『誰でもこうしてるんや』と物事を単純に断定したがる人のこと。世間のおじさんは一番忙しい年齢層やから、ああでもない、こうでもない、と考えをめぐらせるヒマもないのよ。こんなおじさんの言説を原資に、時代の常識は作られているわけ」

 そこで、ぷかりと一服。

 「そやけど若者は違う。若者が『おじさん』になったら時代は止まってしまう。若者の良さは時代に背を向け、行動すること。学生運動かてそう。若者の勢いで世の中って案外動くんよ。だから若者は時代からちょっとずれてるのがよろしい。ところが今の若い人は言うことなすこと、おじさんそのものや」

●やぎさん郵便

 かと言って若者に怒るわけでも世を憂うわけでもない。飄逸(ひょういつ)である。決めゼリフはいつも「ええんちゃうの」。
 例えば郵政民営化の是非を聞いても「ええんちゃうの」。「衆院選の『小泉圧勝』現象は?」と話を振っても「人は、はやってるものに固まるのよ。昔の京大もそうや。『今はヘルメットの季節や!』いうて学生が固まったやんか」と笑う。

 どうもこのインタビュー、森さんの手のひらで転がされている気がする。「この国はどこへ行こうとしているのか」とこちらがまなじりを決しても、のらりくらり、のれんに腕押し。

 「僕は、小泉さんのプロデューサーとしての才能を買ってるの。政治家も当たる興行を打たなあかん。今回の自民党圧勝は時代の節目のお祭り。どうってことないわ。小泉さんは祭りの音頭取りやから、僕らもそれにうまいこと付き合ったらええ」。これが森さんの小泉論。

 郵政民営化問題では、「何十年か後に、童謡の『やぎさん郵便』を歌いながら『昔は郵便局っていうのがあったんやなあ』と懐かしがったらええ。『村の渡しの船頭さん』や『村の鍛冶(かじ)屋』と同じよ。国鉄も民営化したら懐かしさが募って『鉄道員(ぽっぽや)』がはやった。郵便局も今後、興行的には受けるんとちゃう? 僕かて古いもんは好きやけど、好きやから残そう、というのは間違い。無理やもの。世の中は変わっていくもんなのよ」

●だまされへん用意

 インタビューが始まってはや3時間。森さんは延々と、京大の学生運動から米国の戦後占領政策、17世紀のオランダ文化、フーリエの「情念」理論まで持ち出して持論を展開し続ける。それらが全部、専門の数学と分野が違うというのだからまさに博覧強記だ。
 それでいて、どうも森さんの本音にたどりつけていない気がする。肩すかしのユニークな言説こそが森さんの持ち味と知ってはいるけれど、何かもどかしい。最後はやぶれかぶれで「直球」を投げてみた。

 「でも『ええんちゃうの』で戦争を止められますか?」

 そしたら森さん、跳ねっ返りの学生を諭すかのように静かにこう話し始めた。

 「そりゃ、あんた、無理やでえ。そんな力あらへんもん。戦争はいややけど」

 それから、ほう、と一つため息をつき、言葉を継いだ。
 「戦後平和教育の失敗やろなあ。成功してたら、こんなに戦争好きの人で世の中いっぱいになるはずない。世の中が『闘争心を持つのはいいことや』と言い過ぎてないか? いつの世にも戦争が好きなやつと嫌いなやつはおる。仕方ないのよ。僕は嫌いやった。戦中でも闘争心はゼロ。軟弱非国少年なりに、その時代をいかに生きるかを僕は必死で考えたのよ」

 言葉が段々と熱を帯びる。喫茶店に流れるBGMは、ベートーベンの交響曲。バイオリンの音色が空気を緊張させる。

 「軍国主義を警戒するのも必要やけどな。もしも軍国主義になった場合、生き残るためにはどうしたらいいのかを考えるのも、大事とちゃうやろか。原体験があるのよ。戦争が終わった後、大人はアホやと僕は思ったよ。何が『国民をだまさない政府を作ろう』や。何が『子どもをだまさない学校を作ろう』や。アホ言うな。政府も学校もだますもんよ。だまさへん政府や学校なんか不可能よ。だますもんや、と思って、だまされへんように考えるほうが大事でしょ。国民はねえ、だまされへん用意をせなあかん」

 意外なほど「直球」の返事にドギマギする私に気付いたか、森さんはすぐに笑顔に戻り、軽くこう付け加えたのであった。「だまされん用意ってのは、まあ、振り込め詐欺に強い大阪のオバチャンみたいなもんよ。ほっほっほ」

 好々爺(こうこうや)然とした語り口も、ひょうひょうとした風貌(ふうぼう)も、絶妙なバランス感覚も、他人をけむに巻くユーモアも、意外と戦争体験の果てに生み出された生活の知恵なのかも、とふと思った。

●路地の掃除のごとく

 「戦争中はみんな愛国心に燃えてた、なんて、あれウソや。愛国少年と非国少年を分けたら世間でも6対4。三高の中は4対6で、非国少年が多数派やった。イデオロギーが違っても、お互いに議論できた。むしろ戦後のほうがきつかったよ。『みんな仲間。一致団結、がんばろー』みたいな仲間の強制力は戦後、逆に強まったんとちゃうのかな? 今はそれがもっと強くなってるね。戦争中よりも、今みたいに価値観が多様化する時代のほうが、『同じであれ』という強制力が強いのよ。なぜなら、多様化する社会の中で多様性を維持するのは実は大変だから。みんなが不安になるからね。多様化の時代だからこそ、人は不安になって統一を求める。安心したくなる」

 それから森さん、おもむろにこんな話を始めた。「大阪の下町には世話焼きバアサンがいて、両隣の家の前の路地まで掃除する。ありがたいけどうっとうしい。一方、東京ではきっかり自分の家の前の路地だけ。気楽だけど冷たい。京都人はどうするか。『ついはずみで』って感じで時々、思い出したように他人の家の前も掃除する。常に境目が揺らぐ。極端に走らない。『ほどほど』を知ってるのよ。僕がこの街で生きやすいのはそのせいかなあ」

 つまり「ええかげん」に見えて「良い加減」ということか。

 「大事なのは多様性。極端にどちらかに偏らないこと。生態系もそうよ。森で棲(す)むやつは、鳥は鳥、虫は虫のリズムで生きてる。だからお互い食い違うに決まってる。違いをなんとかやりくりして生きている。みんなが一緒になったらあかんのよ。人の心も。いろいろあったほうがいい」

 ふと気付けばいつの間にか時計は進み、バロック様式の店内は、昼の客から夜の客へと変わろうとしていた。あわてて店を出てしばらく歩けば、そこはもう四条の繁華街。京都は新旧を上手に取り混ぜた街なのだった。

 鴨川越しに夕焼けを見ながらの別れ際、森さんは教え子を案ずるかのように、最後にこう言った。「僕もおしゃべりやから、つい、ぎょうさんしゃべってしまったけどね、新聞記事には一つか二つ選んで、あとは適当でええんよ。無理して全部入れようとしたら大変よ。ほどほどでええのやからね」

記事213◆ヤクルトの青木宣親選手インタビュー記事

青木選手を取材した当時、息子は小学1年生。すでに少年野球を始めていて、私が青木選手に会った、というだけで、母親としての(?)お株がグググーーーーーン!と上がったものです。

でも私はまだまだ少年野球母としての経験が乏しく、野球も全然わかっておらず、だからなんともお粗末なインタビューでした。

「緊張しません?」「いや、普通にしますよ」「でも、あああ、緊張する緊張する緊張する、どうしよー、とかは、ならないんですよね?」「は?……プロの選手だったら、そうならないのはフツーですけど」

こんなやりとりもあって、思い切り、あきれられていたように思います。私。


■掲載年月日 2005年11月09日
■ヤクルト・青木外野手
■202安打、探究心に磨き

 早稲田大からプロ入り1年目の昨年はわずか3安打だったヤクルトの青木宣親外野手(23)が今季202安打を達成し4日、新人王を獲得した。210安打を放った94年のイチロー選手(当時オリックス、現大リーグ・マリナーズ)に次ぐ快挙の背景は?

◇「オレ様」捨てた早大時代−−「初球からフルスイング」

 今年4月の打率は2割3分。内角球に苦しんだ。青木選手は若松勉監督(当時)や古田敦也捕手(現監督兼任)らに助言を求めて回った。古田捕手から「ボールに対してバットを平行に出したほうがロスがない」と聞いて、投手側に傾けて構えていたバットを寝かせた。イチロー選手のフォームも取り入れた。
 「常に手探りの状態でした。僕は他人の助言は必ず試してみよう、という気持ちが強いんです」

 早大の野村徹前監督は「探究心もあったが意固地だった」と振り返る。宮崎県立日向高では「投手で3番」だったが、早大で「つなぎ打者」を求められた。
 「左に流して足を生かせと言っても、目を離すと大振り。『小さいバッターになりたくない』と。2年間も葛藤(かっとう)し、迷いを捨て、不動の2番打者となった。この経験で助言に謙虚になったのでしょう」と野村前監督は言う。

 プロ入りする選手の多くは高校や大学では「エースで4番」。ところがプロでは、まず「つなぎ打者」役を求められる。スポーツライターの永谷脩さんは「青木選手は大学時代に意識改革が済んでいたからプロですぐ活躍できた」と指摘する。

 03年にドラフト4巡目でヤクルトに入団。昨季は1軍で15打数3安打だったが、「今季はずっと使ってもらったから、創意工夫を試してシーズン中に成長できた」。記録を目前に無安打が2試合続いた時は、古田捕手の助言が効いた。「『200なんて誰かが勝手に決めた区切りだろ』って。これで吹っ切れた」

 心がけたのは「1試合4打席として1打席ダメでもまだ3打席ある。だから初球からフルスイングでいこう」。永谷さんは「1番打者の仕事は投手に多く投げさせること。ところが青木選手の場合、打席の8割は3球までに打ちにいった。積極的な姿勢はイチロー選手が210安打を達成した時と同じ」と語る。

 昨年7月のフレッシュオールスターMVP賞で得た100万円の賞金を歯の矯正に投じた。矯正後は「肩こりと頭痛が解消。バッティングも上向いた」。永谷さんは「賞金を自分の体の手入れに使ったのは、今季にかけた意気込みの表れだった」と言う。

 来季の目標は? 「200安打は達成したかったけど目標じゃない。優勝に貢献したい」

記事212◆俳優の吉岡秀隆さんロングインタビュー

■掲載年月日 2005年11月07〜10日連載
■この人、この時
■俳優・吉岡秀隆さん
■迷い悩んで

◇「三丁目の夕日」−−「役作り」より自然体で

 <新作は、シリーズで1400万部を売り上げた人気漫画の映画化。演じるのはひょんなことから身よりのない少年を引き取った売れない作家「茶川(ちゃがわ)」である>

 僕はいつもそうなんだけど、撮影初日に現場に入るまでは本当に怖い。だって「茶川」は会ったことのない男だし。僕はとっても臆病(おくびょう)だから「こんなお芝居を求められたらどうしよう」などと一人で考え込んでしまう。
 結局、答えが見つからないまま朝が来る。ところが頭を真っ白にして撮影現場に入れば、そこに答えがいっぱい転がっている。「茶川」が細々とやっている駄菓子屋のセットに入れば、彼の生活が手に取るようにわかる。

 だから僕、いつも「役作り」って特にしないんです。最初は不器用でも一生懸命に演じる。セットや小道具に体をなじませ、監督と共通言語を見つけ、スタジオや撮影現場の空気を吸っていれば、いつか自然と僕の「茶川」になれるんじゃないかな、と。

 本も売れず、誰にも相手にしてもらえない「茶川」は最初、人間が少し曲がっている。でもそれは自分の夢を追い過ぎたから。夢を信じ過ぎたから。身よりのない少年との交流で変わっていける「茶川」は、本当は愛すべき人なんです。脚本を初めて読んだ時、「茶川」の本当の優しさが伝わってきました。

 <映画の舞台は昭和33年。東京タワーが半分しかできていなかった時代だ>

 僕は今35歳。映画の舞台は、僕の両親が働き始めた時代です。僕はNHKの番組「プロジェクトX」で東京タワーをテーマにした回が好き。強風の吹く地上約300メートルで作業した男たち。世界一のテレビ塔を作るんだ、って。そんな人々の心意気に胸を打たれました。
 敗戦から立ち直るまでの日本を支えた人たちだから、きっと背負っているものも違ったんだと思う。僕は、がむしゃらに懸命に「茶川」を演じました。だって、その時代を生きた人たちから「オレらはこんないいかげんな生き方ではなかったぞ」と思われるのだけは怖かったから。

◇子役−−やめようと思ったけれど

 <4歳で劇団に入った。おとなしくて人前で話せないことを両親が案じたためだ。映画「遥かなる山の呼び声」で山田洋次監督と出会う>

 当時まだ8歳だった。台本を読むかわりに、山田監督が場面を説明してくれた。「今、学校から帰ってきた君は、お母さん役の倍賞千恵子さんが泣いているのを見て、どう思うかな」などとその場でセリフを作り、行動を決めてくれたんです。倍賞さんの泣き顔を見て、お芝居ではなく本当に悲しくて泣いたこともよく覚えています。
 中学3年の進路指導で学校から「芸能活動を続けるんですか」と問われた時にはびっくりした。「北の国から」の撮影は3年に1度、「男はつらいよ」も1年に1度のペースで、それ以外の仕事はなかったから、芸能活動をしているという自覚は全然なかったんです。

 悩んだ末、役者はもうやめようと思った。街で「純」「満男」と声を掛けられるのも苦痛だったし、有名になりたくもなかった。高校卒業後、俳優をやめる決意をしたところに、黒澤明監督から映画出演のお話をいただいて「もうちょっとやってみようかな」と。だから実は今にいたるまで「役者でやっていくぞ」と決意表明をしたことないんです。あまりカチッと決めたくないな、という思いがまだあるんです。35歳になっても。

 <新作「ALWAYS 三丁目の夕日」では子役との共演が多かった>

 今の子役って、プロですね。自分自身と自分の演じる役柄とを上手に切り離し、違いをきちんと理解している。
 僕は子役時代、それができなかったからつらかったんでしょうね。役柄と自分自身をいつもだぶらせていた。「北の国から」も「男はつらいよ」も、僕の成長に合わせて脚本を作ってくださったので、なおさら、演技ではなく、いつも本気を要求されました。

 今の子役たちもいつか僕と同じ壁にぶつかるのかな。きっと僕は何も言えないだろうな。「自然でいいよ。無理するのが一番つらいんだよ」ぐらいしか。

◇純と満男−−役に育てられ、救われた

 映画「男はつらいよ」の撮影で1年ぶりに山田洋次監督や渥美清さん、倍賞千恵子さんに再会しても、どなたも僕にどんな1年だったかなんて尋ねない。でも僕はいつも見透かされている気がして、とても怖かった。
 普段から地に足をつけてきちんと生きてなければ「満男」役は演じられない。普通に暮らさなきゃ。自然に。いつもそう感じていた。役から離れるためではなく、年に1度、演じるために。

 寅さんがすごいのは、スクリーンの向こう側に渥美さんの生き方があるからだと教わったから。できるだけ自然に、自然体で、どこにも力を入れないで生きていければ、と思ったんです。

 <「男はつらいよ」は95年、「北の国から」は2002年にシリーズを終えた。>

 「寅さん」が終わった時は悲しかった。もう満男を演じられない、満男の成長はもう想像でしかないんだ、と。虚脱感があった。だから「北の国から」が終わる時、僕は「今度こそ、そうならないように」と自分に念じていた。でもやっぱり、だめだった。空っぽになってしまったんです。「純君」と呼ばれるのがあんなに嫌で、「純と自分とは違う。もう一人の自分なんかじゃない」と思ってきたはずなのに。

 そんな時、テレビドラマ「Dr・コトー診療所」の「コトー先生」役の話をいただいた。コトー先生は、都会の大学付属病院を離れ、知り合いのいない離島で医者の道を模索する。一生懸命にやるしかないわけです。それが僕自身に重なった。僕も2本の長かった大きな作品から離れ、初めてのスタッフに囲まれて、新しい仕事をしていたから。
 コトー先生が「みんなが元気になってくれれば僕はそれでいいんです」と言った時、同じだと思った。テレビを見ている人が喜んでくれたら僕もまた救われるんだと。
 コトー先生は、テレビの中の患者だけでなく、僕自身をも救ってくれたんです。演じた後、しばらくして気付くことだけど。今作「ALWAYS 三丁目の夕日」の「茶川」役もきっとそう。1年後ぐらいに気付くんだろうな。

◇ドラマ−−人のつながり演じたい

 <数多くの役を重ねるほどに自信が付くものかと思えば、そうではないという。>

 僕の場合は逆です。演じれば演じるほどに背負うものも増えていく。新しい役を演じる時、過去に演じた人が心に現れ「おまえ、そんな演技でいいのか。僕を演じた時はもっと一生懸命だったろう?」と心に語りかけてくるんです。
 「北の国から」の「純」や「男はつらいよ」の「満男」がそうだったし、今回の「茶川(ちゃがわ)」もそうだと思う。それがプレッシャーになるから、僕は新しい役に向かう時は過去の役を一度心の中から消すことにしています。あとは監督を信じて演じる。監督が一番、その映画の色や空気をよく分かっているんだから。

 自信なんか今もない。ただ懸命にやってるだけ。役者なんて戦争が始まったら最初になくなる職業です。だからこそ、心をこめて演じたい。
 テレビドラマ「Dr・コトー診療所」の放映後、離島医療に興味を持つ医者が増えたそうです。僕が思ってもみなかった答えが返ってきた時、本当にこの仕事をやっていてよかったと思う。いいかげんじゃだめだな、とも。

 <演じたいのは、人同士のつながりだ。>

 だって映画の一番の魅力は人だから。人が人と出会うことで成長し、救われる。それが僕の絶対的なテーマです。
 例えば、村に悪さばかりして嫌われ者の大男がいる。ある日改心して、村人のために尽くして尽くして「ほかに何をしてほしい?」と尋ねたら、村人は「あなたにいなくなってほしい」と。山田洋次監督は教えてくれました。「この時の大男のショックこそがドラマなんだよ」と。
 「男はつらいよ」もそう。寅さんは人のために一生懸命。でもみんなには迷惑。そんな寅さんの悲しみが、僕にはよく分かる。だからそんな人間ドラマを演じたい。人間は人間によって傷つけられるけど、一方で、人間によって救われる。だって行き着くところ、人は一人では生きていけないから。

記事211◆女優の藤山直美さんロングインタビュー

■掲載年月日 2005年10月24〜29日連載
■この人、この時
■女優・藤山直美さん
■舞台で生きる


◇決意−−40歳で心に踏ん切り

 <喜劇役者、藤山寛美の三女。幼い日は名子役で鳴らした>

 最初の舞台は2歳。日舞の発表会です。3歳のとき、「桂春団治」で父と共演したのが初めてのテレビ出演でした。3歳の子役が必要で、偶然その時に私が3歳だっただけなんですけど。
 子役をやっていた小学校時代の記憶はぼんやりとしかないし、中学、高校時代は子役もやめ、役者になる気はありませんでした。高校卒業後、また舞台に立つようになっても「結婚までのアルバイト」と思ってました。

 <90年5月、突然、父寛美が死去。人生が大きく変わった>

 当時、私は31歳。実は結婚したいと思った男性もいてました。でも本格的に舞台に立つ日々が始まると、その方との縁はガラス細工みたいに崩れてしまった。そういう運命やったんでしょうね。
 つらかったけど、懸命に人を好きになったことが今の演技に生きてます。その方には今も本当に感謝してるんです。
 人生って「この部分は好きやないから消しゴムで消しましょ」なんてできませんものね。父の突然の死も、好きな人とご縁がなかったことも、体や心に染みついて、一生忘れられへんねえ。でも忘れる必要もないし、忘れたらあかん、と思う。

 世間では「父の死を機に役者として生きようと決意」とか書かれてますけど、「舞台で生きていこう」と本当に腹をくくったのは実は40歳を過ぎてから。父の死後、本格的に舞台に立つようになってからも、子供がほしかったし。私、結婚して子供もつくって、家庭に収まるのが小さいころからの夢やったんです。
 40歳を過ぎて、「今さら結婚してもなあ」「子供はもうええかな」と段々あきらめることが増えていき、心に踏ん切りをつける中で、ようやく覚悟したんでしょうねえ。「私は舞台で生きていくしかない」って。

 今、47歳。気付くのが遅すぎますよね。幼かったのか思慮が浅かったのか。でも「私の人生ってこういうことなんや」と、おなかの底や魂の底から感じられるのって、30歳ちょっとでは無理やったんです。

◇一人−−父は「俯瞰しろ」といった

 <市川猿之助さん門下の若手俳優で結成した「21世紀歌舞伎組」との「スーパー喜劇 狸御殿」が大阪では11月1日、東京でも12月2日に初日を迎える>

 猿之助さん、大好きなんです。高校時代、セーラー服姿で追っかけをやったほどです。
 猿之助さんには一度、大事な相談に乗っていただいたことがあります。90年にうちのお父さん(藤山寛美)が死んで、3年後ぐらいの話。

 父のいた松竹新喜劇に所属せず、自分で一座を立ち上げることもせず、一人で役者をやっていこうと決めたことを伝えたら、猿之助さんは「あなたの信じた道を行きなさい。それでいい。もしもあなたに必要なことなら自分から追わなくても、向こうからあなたを追いかけてくれる」と。うれしかったですね。

 父の死後、本格的に舞台に立つ日々が始まって、「寛美の娘を松竹新喜劇に」という声はファンの方々の間でも高まっていました。でも私、どうしても一つの劇団に縛られるのではなく、いろいろな舞台をやってみたかった。悩んで悩んで、結局選んだのが「一人」やったんです。

 <「喜劇王」寛美の突然の死。周囲が動揺する中、冷静に判断できたのは亡き父の一言のお陰だ>

 父は生前、私に何度も言った。「常に冷静に周りを俯瞰(ふかん)してなさい」って。「周囲がどんなに盛り上がっていても踊らされたらあかん。人に『冷たいやつや』と言われてもいいから俯瞰してなさい」と。今思えばあの人、自分が死んだ時のことを言ってたんですね。

 「一人でいる」とあの時に選んだこと、今は本当によかったと思う。いろいろな人との出会いがあったから。今回の21世紀歌舞伎組もそう。沢田研二さんや東京乾電池のみなさんとの共演もそう。映画「顔」への出演も。一人だから自由にやってこられた。

 一人はもちろん怖いです。孤独やし不安です。でも、だからこんなに毎日必死でおけいこしてこられた。一人だったから役者を続けてこられたのかもしれへんね。

◇親子−−「似ている」が重かった

 記憶の中の父藤山寛美は「普通のお父さん」。楽屋で寝起きし、1カ月に2日しか自宅にはいなかったけど、それが普通と思っていたので寂しくもなかったです。
 家にいる時は寝転がってテレビを見て、ご飯を食べて、お風呂に入る。一緒に西部劇や映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」をテレビで見たのを覚えてます。でも芝居を一緒に見に行ったことはなかった。役者として接したこともなかったです。共演もほんの数回しかしてないんです。

 <しかし、舞台では父親の生き写しと言われる。間の取り方や振り向きざまの姿がそっくり、とも。>

 顔も似てますけどね、一番似てるのは思考回路。私はああいう天才肌とは違うけど。舞台の上での感覚というか、感じるものが似てるんやろね。親子やもん。「それは何ですか?」と聞かれても言葉で答えようがない。
 「似てる」と言われるのが重かった時期もあります。ずっと「よくぞ女に産んでくれた」と感謝してきました。もし男やったら私、ようやらんわ。「父親は40歳でこの芝居を演じ切ったのに」とか言われたやろしね。

 両親は女に産むことで私が深呼吸できるよう、空気孔を開けてくれた。お陰で、まともに父と比べられずに済んだ。それに今もいろいろな人とお芝居をさせていただけるし、私はお父さんより少し自由やよね。

 <父の十八番だった芝居を、女役に書き換えた台本で何度も舞台に立ってきた。>

 でも、最近になって「もし男やったらこの役をやりたかった」という
気持ちが生まれてきたんです。例えば父の十八番だった「桂春団治」。あれを通し狂言でやりたいなあ。47歳の今から60歳までの13年かけてね。
 こんなこと、30代では絶対によう考えませんでした。でも、30代で許されないことが40代なら許される、ってあるでしょう? 規定や法律じゃない。自分が勝手に作った心の節目やろうね。

 自信はない。でも周囲の非難も怖くない。男やったら「春団治」を目指すわ、絶対。

◇演技−−薄い紙を重ねるように

 舞台に立つのは、半紙のような薄い紙を一枚一枚重ねる作業と似てます。例えば、電話帳。紙1枚はすごく薄い。でも電話帳の厚さになると、絶対にやぶられへん。おけいこや舞台を重ね、楽日には絶対に破れない電話帳に仕上げる。
 上手な演技、と言われたくないんです。技術が見破られたようで。うれしいのは「地(じ)でしょ」と言われたり、「そういう人、親せきにいてるわ」と言われた時です。

 本当はね、演じるのが怖いこともあるんです。だって「夫婦善哉」なんか想像の世界やもの。私は夫もおらへん。わが子を胸に抱いたこともない。妻ある人との駆け落ちも未経験。お客さんのほうがずっと人生経験が豊かなこともある。
 泣いてるほうが悲しそうやろか、笑ってるほうが悲しそうやろかと、ひたすら考えています。

 <舞台に立つ前、父藤山寛美を思い出すことが増えた>

 今になって父の気持ちがわかるようになりました。家の階段を下りながら、あるいはトイレの中で、テレビの前で、いつも何か別の物を見ているような目をしていた。きっと舞台のことをずっと考えてたんやろうねえ。
 私も同じなんです。普段から舞台のことばかり考えてる。そんな瞬間、はっとする。「お父さんもこうやったんか」と。

 年を重ねるのはうれしいんです。できる役が増えていくから。娘役なんかはできなくなっていきますけどね。自分が演じられなくなった役は、次に演じる人のために大事に置いておいてあげたい。ぐしゃっと放っておくんじゃなくてね。父と母から「引き際に人間性が出る」とよく言われました。何かをあきらめる時、別れを言う時、引き際に人間性が問われる。

 人生の引き際もそう。舞台で生きようと決めた人生の選択が正しかったのかなんて、三途(さんず)の川を渡るまでわからへん。悔やむかもしれない。でもいいかげんは嫌。一生懸命に毎日生きる。最期に「いい人生やった」と言えたら。ほんまにええやろねえ。

記事210◆秦万里子さんのライブを見に行く、の記事

□掲載年月日 2005年10月11日
□作曲家・秦万里子さんのライブ
□夫婦、共感し泣き笑い
□「元気もらえた」「夫や子をもっと愛せそう」

 作曲家、秦万里子さん(49)のライブが女性たちに人気だ。歌うテーマは、子育てに掃除、料理にダイエット。身の回りの悲喜こもごもを織り込んだ歌に、悩める若き母親や疲れ気味の主婦たちが元気を取り戻しているという。

■掃除洗濯放り出し

 いきなりピアノがポロローンと鳴って、秦さんは開口一番こんなあいさつ。「今日は掃除、洗濯放り出して、来てくださってありがとう!」。神奈川県藤沢市のライブハウスに集まった女性客は、のっけから大笑い。
 何しろまだ朝の10時である。夫や子供を家から送り出し、着替え、化粧して大急ぎで家を出ないと間に合わない。当然、掃除洗濯のヒマはない。

 秦さんはこの日、黒いタートルネック姿。1曲目は、汚れが目立たず、何にでも合う無難な黒のタートルばかり着てしまう女の現実を歌った「黒のタートルブルース」。「私も、私も」と女性客は拍手喝さい。さらに、バーゲンセールの楽しみは「シールの下の本当の値段」と歌うと、会場は爆笑に包まれた。

 見渡せば約40人の観客は2、3人の男性を除けば全員女性。年齢層は20〜70代と幅広いが、この時間帯に集まるのだからほぼ全員が主婦らしい。今どき、音楽会や芝居の客は女性上位が当たり前だが、秦さんのライブに特徴的なのは、子育て中の20、30代が多いこと。幼児連れのママもいれば、会場を走り回る子供もいる。何ともアットホームなのである。

■子連れもOK

 秦さんの歌は、ブルースあり、ジャズあり、ポップスあり。自らも中学1年の双子の娘がいるから、曲には母親の実感がこもる。冷蔵庫の中で汁がこぼれた歌、子育て仲間との公園の思い出、ダイエットの歌……。「あなたがいないと生きられない」というから何かと思えば、電子レンジの歌なのだ。

 夫への思いを歌った「あ〜 あなたって」。電話一本よこさず、外食して帰ってきた夫が、仕方なく一人で夕飯を食べる妻を見て一言。「こんなに遅く食べると太るだけだぞ」。笑い続けている女性客は、もしかして同じ一言を夫から最近言われたか。
 「あなたって」と愚痴交じりに歌うこの曲にはオチも。「でもそんなあなたに、ン10年連れ添ってきた、ああー あたしって」。客席を見渡せば、女たちがみなトホホと笑っていたのだった。

 秦さんのトークの最中に、2歳の女の子がママのひざの上でぐずり始めた。ママは必死で「しーっ」。ところが秦さん、「大丈夫よ、話してても」と女の子にほほ笑みかけ、童謡「犬のおまわりさん」を弾き始めた。
 それでも泣きやまない女の子。周囲の目は温かい。「あのころが懐かしいね」と、女の子をうっとり見つめる中高年女性もいる。このライブ、子連れでも肩身が狭くないのだ。だって、みんな知っている。
 母は、妻は、大変だって。

■「代弁してくれた!」

 秦さんは藤沢市で、自分の両親と娘2人との5人暮らし。音大でクラシックピアノを学び、その後、米国でジャズを学んだ。娘が3歳になるのを待って作曲の仕事を始め、日本テレビ「スクスクのびのび」のテーマ曲や森永チョコボールのキャンペーンソングなどを手掛けた。

 4年前、人前で歌い始めた。曲は次々に生まれ、歌詞が足りなくて妹の典子さんにも書いてもらった。「子育ては確かに大変。でも『我が家だって大変よ』と明るく歌うことで、みんなで一緒に笑い飛ばせればと思った」と秦さんはいう。

 だからだろう。客の多くが主婦だ。「元気がもらえた」「ライブを聴く前より、子供や夫を愛せる気がした」などの感想が多い。「私の思いを代弁してくれてありがとう!」という声もある。「今の若いお母さんたちって、誰かに聞いて、分かってほしいことがたくさんあるんですね、きっと」と秦さん。最近は男性客も増え、「妻の本音がやっとわかった」などの感想も届くという。

 ジャズでもポップスでもカンツォーネでも演歌でも、即興で作曲してしまう。この日もトークの途中に「何だかしゃべってばかりね」と、いきなりジャズの音色に乗せ、トークの続きを語り始めた。トイレからこっそり自席に戻る人を見つけては、「おトイレからお戻りになりました〜」と即興曲で出迎える。

■ママだって大変

 笑いばかりではない。
 子供への母の愛を歌った「カカアイコ」の歌詞に、こんな短いフレーズがあった。「こぼす よごす たおす ゆるす」「つらい ねむい おもい まよい」。わずか12文字に、子育ての日々が凝縮されている。
 大変だけど、大変なだけでは決してない日々の暮らしを反すうしているのだろうか。若いママがハンカチで目をぬぐう。

 「あなたへ」という曲は、子を産み、母となって感じた自分の母親への思いを歌っている。「あなたの子供でよかった そう私が思うように 私を産んでよかったと 思ってくれればうれしい」。そんな歌詞に、女性たちがホロホロと泣き始める。ふと見ると、秦さんも歌いながら泣いていたのだった。

 「彼女のライブって、笑ったり、泣いたり、忙しい……」。子供が幼稚園にいるほんの短い時間に家を抜け出し、ライブに駆けつけたという30代の母親たちが泣き笑いしていた。泣いた分、笑った分、家族にも自分にも優しくなれるのだそうだ。

 「女は元気でいいよな」と世の男たちは言う。でも、ママたちは本当に元気なんだろうか。観光地や音楽会や劇場にいるのは、子育てを終えたシニア女性たちばかり。若いママの中には、映画館や美容院にすらめったに行けない人もいる。今は外出三昧のシニア女性にだって、家族に尽くした日々があったのだ。

 「やっぱり、お母さんたちを元気にしてあげないとねー」。秦さんは、これまで誰もあまり歌ってこなかったほんの身近な喜怒哀楽を、今後も大事に大事に歌っていくつもりだ。
 (秦さんのオフィシャルサイトは、http://www.ne.jp/asahi/lampappa/net/)


◇「あ〜 あなたって」(作詞秦典子、作曲秦万里子)
ねえどうして 朝話したこと
覚えてないの?
今晩カレーにするって
言ったはずじゃない
玄関入るなりこう言うの
「何だよ、カレーライスか……
昼食っちまったよー」
ああー、あなたって(繰り返し)
(中略)
ねえどうして
すぐに私に 伝えないの?
今更掃除片付け
間に合わないじゃない
直前になってこう言うの
「そーいやーおふくろ
今日来るって言ってたぞ」
ああー、あなたって(繰り返し)
(中略)
でもそんなあなたに、ン10年
連れ添ってきた
ああー あたしって
プロフィール

Author:おぐにあやこ
名前■おぐにあやこ
生年■1966年 ひのえうま
仕事■07年秋まで新聞記者。
   仕事を辞めて渡米。
   メリーランド州在住。
   現在、週刊ポストに
   「ニッポンあ・ちゃ・ちゃ」
   を連載中。
趣味■読書、ピアノ、旅、昆虫飼育
目標■ちょっと背伸びして、
    疑問符を感嘆符に変えること
苦手■勧善懲悪
著書■
▼「薬(ドラッグ)がやめられない 子どもの薬物依存と家族」(青木書店)
「ベイビーパッカーでいこう 赤ん坊とザックかついでスペインの旅」(日本評論社)
「魂の声 リストカットの少女たち」(講談社)
「いいじゃない いいんだよ 大人になりたくない君へ」(共著、講談社)
訳書■
「自傷からの回復 隠された傷と向き合うとき」(みすず書房)

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