■掲載年月日 2006年12月05日
■しあわせ食堂
■藤田まことさん「おにぎり」
幼い日の、おにぎりの思い出なんて、実は一つもありません。戦中派の僕らの苦労といえば、全部食いもんの苦労だから。真っ白な米のおにぎりなんて、食べたこともなかったです。
小学校3年まで東京に住んでました。近所のそば屋から、まず丼ものが消え、うどんが消え、最後にそばが消えて、店はのれんを畳みました。同じころ僕の家からも米がなくなった。少しの米に麦や芋を混ぜて炊いた時代だから、握ってもおにぎりみたいに固まらなかったんでしょうね。
おにぎりの思い出は一つもないのに、戦死した兄貴に、今何を食べさせてやりたいか、と考えた時、真っ先に思いついたのがおにぎりでした。
今年9月、沖縄の海に行ってきました。実は僕の兄貴は、あの海で戦死したんです。17歳の兄貴が乗った輸送船「江龍(こうりゅう)丸」は1944年10月10日、石垣島から沖縄本島へ向かう途中、米軍の爆撃を受けました。
優しい人でした。兄に怒られたのは一度だけです。僕の実母は物心がつく前に死んで、小学生の時には新しいお母さんがやってきた。兄弟の中で僕だけが最後まで彼女に反発し続けたため、兄貴に「お母さん、と呼べ」とどつかれた。僕はそれでも絶対に「お母さん」と呼ばなかった。
兄が志願兵として出征した後、姉から「おまえがお母さんに反発して家がむちゃくちゃになったから、お兄ちゃんは居づらくなって戦争に行ったんだ」と聞かされました。兄貴から最後のハガキが届いたのはその後でした。「お父(と)ぅさんとお母(か)ァさんの言ふ事を聞いてしっかり勉強して下さい」って。僕のことばかり心配した手紙でした。
今もハガキを見るたび悔やむ。僕が新しいお母さんとうまくやれていたら、兄貴は戦争で死なずに済んだんじゃないか。なんで僕はあの時、「お母さん」と呼べなかったんだろう。
兄貴が死んだ海に出る前に、沖縄の食堂で「何か食べ物を持っていこう」と。その時、最初に思いついたのが、おにぎりだったんです。食べたくても食べられなかった、真っ白な米のおにぎり。
食堂の人には「中身に何も入れないで」と頼みました。サケやつくだ煮なんてぜいたく品が入っていたら、死んだ兄貴が「こんなおにぎり、見たことがない」と驚いてしまう気がしたから。
2個のおにぎりのうち、僕が1個食べ、残り1個を海に投げました。「兄貴、ごめんな」って。沖縄の海をずっと気にしながら、忙しさにかまけたり、心の整理がつかなかったりして、来るまでに60年以上もかかってしまった。
誰もが真っ白な米のおにぎりを食べられる国が一番なんです。国のお偉方も、核の議論より、おにぎりの議論をすればいいのにね。
■ごちそうさま
私の「おにぎり」の思い出は、亡き母がご飯をおひつに移した後、釜に残ったご飯で小さく握ってくれたもの。今も泣きたいくらい懐かしい。だから藤田さんにも「幼い日の思い出」を尋ねた。「食べたことすらない」という返事にドキリとした。藤田さんにとって、おにぎりは「平和」の象徴なのだ。(おぐに)