■掲載年月日 2006年12月05日
■しあわせ食堂
■藤田まことさん「おにぎり」
幼い日の、おにぎりの思い出なんて、実は一つもありません。戦中派の僕らの苦労といえば、全部食いもんの苦労だから。真っ白な米のおにぎりなんて、食べたこともなかったです。
小学校3年まで東京に住んでました。近所のそば屋から、まず丼ものが消え、うどんが消え、最後にそばが消えて、店はのれんを畳みました。同じころ僕の家からも米がなくなった。少しの米に麦や芋を混ぜて炊いた時代だから、握ってもおにぎりみたいに固まらなかったんでしょうね。
おにぎりの思い出は一つもないのに、戦死した兄貴に、今何を食べさせてやりたいか、と考えた時、真っ先に思いついたのがおにぎりでした。
今年9月、沖縄の海に行ってきました。実は僕の兄貴は、あの海で戦死したんです。17歳の兄貴が乗った輸送船「江龍(こうりゅう)丸」は1944年10月10日、石垣島から沖縄本島へ向かう途中、米軍の爆撃を受けました。
優しい人でした。兄に怒られたのは一度だけです。僕の実母は物心がつく前に死んで、小学生の時には新しいお母さんがやってきた。兄弟の中で僕だけが最後まで彼女に反発し続けたため、兄貴に「お母さん、と呼べ」とどつかれた。僕はそれでも絶対に「お母さん」と呼ばなかった。
兄が志願兵として出征した後、姉から「おまえがお母さんに反発して家がむちゃくちゃになったから、お兄ちゃんは居づらくなって戦争に行ったんだ」と聞かされました。兄貴から最後のハガキが届いたのはその後でした。「お父(と)ぅさんとお母(か)ァさんの言ふ事を聞いてしっかり勉強して下さい」って。僕のことばかり心配した手紙でした。
今もハガキを見るたび悔やむ。僕が新しいお母さんとうまくやれていたら、兄貴は戦争で死なずに済んだんじゃないか。なんで僕はあの時、「お母さん」と呼べなかったんだろう。
兄貴が死んだ海に出る前に、沖縄の食堂で「何か食べ物を持っていこう」と。その時、最初に思いついたのが、おにぎりだったんです。食べたくても食べられなかった、真っ白な米のおにぎり。
食堂の人には「中身に何も入れないで」と頼みました。サケやつくだ煮なんてぜいたく品が入っていたら、死んだ兄貴が「こんなおにぎり、見たことがない」と驚いてしまう気がしたから。
2個のおにぎりのうち、僕が1個食べ、残り1個を海に投げました。「兄貴、ごめんな」って。沖縄の海をずっと気にしながら、忙しさにかまけたり、心の整理がつかなかったりして、来るまでに60年以上もかかってしまった。
誰もが真っ白な米のおにぎりを食べられる国が一番なんです。国のお偉方も、核の議論より、おにぎりの議論をすればいいのにね。
■ごちそうさま
私の「おにぎり」の思い出は、亡き母がご飯をおひつに移した後、釜に残ったご飯で小さく握ってくれたもの。今も泣きたいくらい懐かしい。だから藤田さんにも「幼い日の思い出」を尋ねた。「食べたことすらない」という返事にドキリとした。藤田さんにとって、おにぎりは「平和」の象徴なのだ。(おぐに)
■掲載年月日 2006年12月01日
■この国はどこへ行こうとしているのか 田辺聖子さん
□戦後生まれの首相へ
花、花、花。
ご自宅の扉を開いて最初に目に飛び込んだのは花だった。玄関に咲き誇る大ぶりのユリ。数々のアートフラワー。リビングに入れば今度はテーブルクロスから壁紙の模様まで花尽くし。
田辺聖子さんはソファにちょこんと腰掛けていた。声を聞いて驚いた。なんとかわいらしい声! 「小説家は座業ですから。彩りあるものを身の回りにたくさん置いておきたいの」
ふふふ、と笑う姿はまるで「永遠の夢見る少女」といった雰囲気である。
*
「感傷旅行(センチメンタル・ジャーニイ)」で芥川賞を受けたのが35歳。以来、庶民の視点を大切に、主に恋愛小説を通して戦後日本を描いてきた。「田辺聖子全集」(全24巻・別巻1、集英社)も11月に完結。自身がモデルのNHK朝の連続ドラマ小説「芋たこなんきん」も好評放映中だ。
藤山直美さん演じるヒロインは、文学賞の受賞直後に男やもめの子連れ中年医師と結婚する。夫の両親と妹、風来坊の兄、子ども5人の11人家族。これも実話ですかと問えば「子どもの数は本当は4人。でも兄の代わりに神戸大生の弟、さらに姑(しゅうとめ)の妹もいたからやっぱり11人家族やね」。誰が聞いても大変そうな新婚生活。ところが本人は「おもしろかった。私も大家族の生まれですから」と懐かしげに振り返る。
大阪市内にあった生家の「田辺写真館」では曽祖母に祖父母、両親、親せき、若い写真技師ら20人近くが寝起きしていた。「食事はピンポン台みたいな大きなテーブルを全員で囲んで同じものを食べる。誰かが『こうや』と言えば『そうやない』と別の誰かがいう。さらに目上が『何いうとんねん。世の中はそんなもんやない』と一喝。でも人が多いから誰かが言い負かされても『そやけどな』と選手交代。最後は曽祖母が『みな、あっちへ行きなはれ! 片づけなならん』と言っておしまい」
幼いころから、ちょっとおませな本の虫。大きなテーブルにかじりつき、大人の話に夢中で耳を傾けていたという。
「親せきでもないし、どういう関係かよく分からない人も家に住んでてね。掛人(かかりうど)、つまりいうたら居候。台所仕事を手伝ったり、みんなの相談相手になったり。『ごはんですよー』と呼ばれれば遠慮なく『ほな、よばれまひょ』とみなと一緒に食べる。普通の光景でした。昔は人間関係がゆるやかやったから困った時にどこかしら身を任せられるところがあったのねえ」
何だか「いじめ自殺」の対極にあるような話。「そうね。今の時代は学校も家庭もいちいち帳面つけて出席を取ってる感じ。子どももかわいそうやね」
*
「今の幸福は上の世代の犠牲の上に成り立っている」と繰り返し語ってきた人である。
田辺さんに会いに行く途中、新幹線の中で読んだのが95年の小説「おかあさん疲れたよ」だった。「昭和への鎮魂歌」とも言われる恋愛小説。空襲下をともに逃げた男女が戦後、互いに引かれながらも、戦争を引きずり、別々の人生を歩む。
「書いておけば誰かが読んでくれると思って。戦争を防ぐのは難しいという人もいるけど、戦争に傷ついた人の物語を知れば、再び戦争を起こすことはないと思うから。大きな流れになったら巻き返しようのないことも多いから、小さな芽を見つけていかないとね」
私たちはすでに「大きな流れ」の中にいないか。「小さな芽」を見逃さぬために何をすればいいのだろう。
「テレビや映像じゃなく、本をうんと読んでほしい。国と国の戦争も人と人のけんかも似てる。争いはお互いの気持ちが見えなくなってしまった時に起こる。『戦争をやろう』とどこかの国が言い出した時、『まあまあ、待てや』『とりあえず考えまひょ』『お互いに損でっせ』といろいろな国が衆知を結集して衝突を避けるしかない。書物を読んで『違う考えの人もいる』『向こうにも言い分がある』と学ぶことが大事と違うかな」
重く難しい問題をいつもと変わらぬ柔らかい口調で語る。ユーモアを
忘れない。
安倍晋三首相の人物評を求めると「あまり違和感ないね。お育ちよさそうだし。ふふふ。人間、育ちの良い人にはそれだけのもんがあるし、悪い人には何ともいえない魅力がある」。論議の的の「愛国心」についても「わざわざ教えなくても自然ともう身に着いてる。身内への愛みたいなもの。同じもの食べて、同じ言葉しゃべって。みーんな身内。ニッポン一家!……って清水の次郎長みたいやね」
ニコニコ笑う横顔を見つめていたら、ふと、田辺さんが作ったという川柳が脳裏にひらめいた。
<ユーモアは戦争避けるもとのもと>
*
生家の「田辺写真館」は45年6月の空襲で焼け落ち、優しかった父は終戦直後に死んだ。残された約50葉の写真で編んだのがフォトエッセー「田辺写真館が見た“昭和”」だ。幸せそうな家族の肖像。大振り袖姿の叔母の見合い写真。正月に新調した晴れ着姿の子どもたち。背広姿の若き写真技師の集合写真。華やかでハイカラで、だからこそ胸が詰まる。その後に起こったことを思ってしまうから。
本のあとがきに、田辺さんはこう書いている。<日本は、敗戦の日に生まれたのではなく、それ以前から厚みのある庶民文化がすこやかに機能していて、いろんな文化の花を咲かせていたことを、若い人たちに知ってほしい。戦前も、ハイカラで、贅沢(ぜいたく)で、それぞれの境遇に応じて、人々は人生を楽しんでいたことを知ってほしい>
あらためて戦争に破壊されたものの大きさと重さを思う。
「平和が続くと文化は自然と華やかになるものよ。戦前の日本って……まるで春やったわあ。でも戦争は長かったし、致命的でした」。少し黙り込み、やっぱり変わらぬ笑顔のままで言い添えた。
「文化とは何なのか。人は何のために生きてるのか。この国は何のためにあるのか。軍人さんはそんなことを考えてくれなかった。国威発揚とか富国強兵とかばかり。男の人だけに国を任したらいけないね。女はきれいなお化粧して、いいもの着て、おいしいもの食べて、いいおうちに住みたいもの。女の欲望を無視しちゃだめね」
昭和とともに生きてきた田辺さんの、我々への伝言である。
これも、似た経験談を読者から、たくさん寄せていただいた記事です。
■掲載年月日 2006年12月01日
■憂楽帳:祖母と父の記憶
昭和12年生まれの父には戦後の苦労を聞かされて育った。貧しくて小学校で一人だけ遠足に行けなかった話。生卵1個を姉弟と3等分しようと何度もやり直した話。20年前、健康食にかぶれた私が麦入りのご飯を炊いた時のことは忘れがたい。日ごろは温和な父が「麦は死んでも食べない」と目を真っ赤にして怒った。父の涙を見たのはこれと母が死んだ時だけだ。
一方、大正2年生まれの祖母は女学校で英語を習い、ダンスホールでよく踊ったという。父の話とのあまりの落差に、幼かった私は「日本は段々豊かになったんじゃないの」と混乱したものだ。
最近、田辺聖子さんのフォトエッセー本で、田辺さんの生家の写真館が撮影したという戦前の古い写真を見た。洋装、カフェ、正月の晴れ着。祖母が私に語ってくれたハイカラな世界がそこにあった。これが戦火に焼かれ、父の記憶へとつながっていくのかと思うと、写真の中の笑顔や華やかさが切なく胸に迫る。
本日夕刊特集の田辺さんのインタビュー。父と祖母の話を懐かしみつつ書きました。
■掲載年月日 2006年11月24日
■憂楽帳:名だけのハンコ
大掃除の最中、真新しいハンコが出てきた。印面には「綾子」の2文字。5年前、実印や銀行印は名前だけでもいいと聞いて注文したものだ。ところが印鑑の変更手続きを面倒がっているうち紛失。だらしない性格がたたり、掃除のたびに見つけてはまたなくす、を何度か繰り返してきた。
5年前のあの日、夫婦別姓が近い将来実現すると信じ、「戸籍上の名字を旧姓に戻す時、登録変更しなくて良いように」と先回りして作ったのだっけ。仕事も近所付き合いも旧姓を使う身に、夫の姓の印鑑は借り物のようで、「夫婦別姓の実現を待つより、印鑑にだけでも自分の名前を取り戻そう」なんて記事も書いた。生まれて死ぬまで変わらない「綾子」のハンコが完成した時は、本当にワクワクした。しかし、今なお夫婦別姓は実現していない。
夫婦別姓を方向付けた法制審議会答申から10年、別姓制度賛成が反対を上回った内閣府世論調査から5年。待ちくたびれて迎えた節目の年もあとわずか。まずは今度こそこのハンコ、なくさず手続きしなくちゃね。
私は、世界史に無知である。
理由ははっきりしている。
共通一次を日本史で受けることを決めた後、高校3年生で習った世界史の授業を、ほとんど寝て過ごしたためだ。
今、ものすごく後悔してる。
社会人になって、ものすごく必要な知識や教養の一つが世界史じゃないだろうか。
そんな思いから、この記事を書きました。
■掲載年月日 2006年11月21日
■世界史は面白いゾ
■高校生諸君、未履修こそ損だ!
8万人を超える高校3年生が巻き込まれた必修科目の未履修問題。「履修逃れ」の最大の標的となったのが世界史だ。必修科目でありながら受験科目としては最も人気がなく、今回の騒動では受験生から「まじめに勉強して損した」という声すら上がる。嫌われモノの世界史だが、学んだことは本当に「損」なのか。
「損」と言われるほどに世界史の授業はつまらないのだろうか。私も高校時代、暗記物の多い世界史が苦手だった。そこでまず、「面白い」と評判の授業を受けてみることにした。
潜り込んだのは代々木ゼミナール。世界史の人気講師、佐藤幸夫さん(39)の教室だ。この日のテーマは第一次大戦後の「ベルサイユ体制」。講義では聞き慣れない条約名が次々と。「サンジェルマン条約、ヌイイ条約、トリアノン条約、セーブル条約……」。ああ、もうだめ。怒とうのカタカナ用語に高校時代の苦手意識がよみがえる。
ところが佐藤さんの授業はどうも勝手が違った。受験が目的だから、記憶すべき用語を列挙し、下ネタ交じりの語呂合わせまで披露するのだが、一方で歴史を身近に感じさせるエピソードや、自身の世界60カ国以上の旅の体験談を交え、歴史を壮大な物語として語るのだ。
パリ講和会議でフランス代表クレマンソーが怒鳴ってテーブルをひっくり返しただの、米国代表ウィルソンにつかみかかろうとしたのを仲裁したのが英国代表ロイド・ジョージだの。授業というより、講談みたいだ。
聞いていると次第に、ドイツや日本がなぜ孤立していったのか、国際連盟がなぜ無力だったのかが見えてくる。「これ、大戦のわずか20年後になぜ再び大戦が起こってしまったのかを理解する授業なのかも」と途中で気づいた。
そう。歴史から学ぶべきことはたくさんあるのだ。
■
なのに世界史は人気がない。日本史と地理はどちらかを履修すればいいが、世界史は必修科目。しかし、大学入試センター試験の受験者数は日本史がトップで世界史はビリ。記憶するのが大変そう、と受験生が敬遠するためだ。佐藤さんも「地理は横の広がり。日本史は縦のつながり。でも世界史は縦と横だから学ぶのも教えるのも難しい。しかも、必修になってからというもの、世界史の教師数は不足気味。専門外の先生が教えることも多く、授業はさらにつまらなくなる」と説明する。
ところがこの世界史、社会人が「勉強しておけばよかった」と後悔しがちな教科なのだ。
日本旅行販売部マネジャーで、ファンクラブの会員数は2万人というカリスマ添乗員、平田進也さん(49)は「この仕事、世界史を知らないと話にもなりません」。
未履修問題について「人間形成に大切な思春期に、何で世界史に出会わせてあげへんのですか。島国日本を一歩出たら外国の人と歴史を語り合う場面はいくらでもある。受験だけでなく、人生のどこでテストされるか分からへん。『知りません』は恥ずかしい。世界史を学ぶことは人間の幅を広げることなんです」。
年間で1740万人(05年)もの日本人が海外旅行に出かける時代だ。世界史の知識が豊かだと旅行はより楽しいはず。
ソニーの女性管理職第1号で、国内外に人脈を持つ東京電機大講師、落合良さん(70)は高校時代に学んだ世界史を「私の人生の土台」と表現する。「人生を選ぶのは自分自身。でも土台がなければ選ぶことすらできない。これからの時代、国際的に生きるのが当たり前。履修逃れは子どもたちの可能性を殺してしまう」
ソニー時代、海外で日本のビジネスマンが商談を終えた途端に黙り込む姿を何度も見てきた。「相手の歴史も文化も身についていないと、話題が続かない。あれでは世界でネットワークを築けません」
世界史を学んだことは、決して「損」ではないのだ。
■
ところで、佐藤さんは「知識だけの世界史にしたくない」と、大学生を連れて世界史の舞台を巡るツアーも続けている。もし受験に関係なく教えるなら、どんな授業をするのだろう。
「歴史上の人物を1年に100人くらい選び、当時の歴史をドラマチックに物語ってみたいですね。将来、外国人と会話する時、相手の国の有名人について自分の思いを自分の言葉で話せるように」
そんな授業なら、私も受けてみたい。今になって、社会人向けの世界史のハウツー本とにらめっこしている身としては……。
当時「旅したい」という連載がありまして、コンセプトは記事が誰かと2人で旅をしてルポを書く、というもの。2人、というのがネックで、どうやっても自分のプライバシーを切り売りするため、会社の経費で旅ができるおいしい企画のわりには、書き手が全然いなかった。
話が回ってきたので、二つ返事で引き受け、東京から一番遠くて、記事も書きやすそうな場所を選んだ、というわけ。
■掲載年月日 2006年11月18日
■旅したい
■生きた教育?食欲? 函館朝市へ
◇母ちゃん。すごい。ホントに透明なイカだっ!
◇イクラ、カニ、ウニ…海鮮好き、小2息子大喜び
小学2年生の息子がテレビを指さし、こう言った。「このイカ、透明だ! 刺し身のイカは白いのに」。テレビ画面では透明なイカの群れが青い海を悠々と泳いでいる。その途端、息子に透明なイカを無性に見せたくなった。「よし、行こう」。
かくして私は息子を連れて、函館へ――。
朝7時15分。函館朝市は観光客で大にぎわい。「サケでかーい」「カニが動いてる!」。海鮮物好きの息子はすっかり興奮している。威勢の良い売り子たちの掛け声をくぐり抜け、まずは今回の旅の目的、「透明のイカ」を探す。
たどりついたのは、函館朝市名物の活(い)きイカ釣り。釣り堀でイカを釣り上げ、その場で刺し身にしてもらう。泳ぐのは早朝に水揚げされたばかりの数十匹のヤリイカ。スルメイカより小ぶりだが透明感がある。息子が釣り堀をのぞき込み、叫ぶ。
「母ちゃん。すごい。ホントに透明だっ!」
息子は緊張した顔で、釣り糸をそっと釣り堀にたらした。しかしヤリイカは元気いっぱい。すぐに逃げてしまう。息子は段々と弱気になってきて「これを釣ってもいい?」。指さす先にはプカプカと浮かぶ死にかけのイカ。おいおい。前日は「一番大きいのを釣るぞ!」と宣言していたんじゃなかった?
それでも数十秒後、「ひっ」という息子の声の後に、ピューッとイカが水を吐き出す音が続き、元気なヤリイカを釣り上げた。
めでたしめでたし。
◇
息子はイカに目がない。刺し身との出合いは満1歳のころで、まだおっぱいを吸っていた。保育園時代、スルメや塩辛の深遠なる味にもはまり、今年の夏休みはイカを自由研究の素材に選んだ。スーパーで買ったスルメイカをハサミや包丁で解体し、炒め物や刺し身、内臓を使って好物の塩辛も作った。さらにイカ墨で習字や絵も描いた自由研究は随分と好評だったらしい。
息子を函館まで連れてきたのは、東京のスーパーに並ぶイカと海で泳ぐイカがつながっていると知ってほしかったから。実は私、「魚の切り身が海で泳いでいる」と勘違いしているらしい今どきの子どもを笑えない。昔、イクラを食べながら「海をキラキラと泳ぐ姿はすてきでしょうね」と言い、大恥かいた。息子に同じ轍(てつ)を踏ませたくなくて、昨冬は自宅でイクラをふ化させ、サケの稚魚を親子で荒川に放流しにも行った。
だから、今回の旅は「自由研究の最終章」と位置づけた。そう。キャッチフレーズは「生きた教育」。決して母親の食い気を満たすための旅ではないのだ。
◇
息子の獲物を早速さばいてもらった。調理代込みで1杯1000円(時価)。ウネウネと足をくねらせるイカが、見る見る刺し身へと姿を変えるのを、息子がじっと見つめている。生き物が食べ物に変わる瞬間だ。
おろしたてのイカ刺しは、ところてんのように透明で、角が立っていて美しい。コリコリとした食感。感動の味なのである。この日はヤリイカだったが、スルメイカの日は内臓も刺し身で食べられるそうだ。
「ホントに透明だね」「吸盤が口に吸い付くぅ」「おしょうゆは付けないほうがいいよ。甘いのが分かるから」。さっきの弱気はどこへやら。我が家の「イカ食い」君は、実に幸せな、いい顔をしている。
ふと思う。
「おいしい」と「幸せ」は似ているな。
見る見るうちに刺し身の皿は空っぽ。「次はイクラ丼だっ」と立ち上がるころには、「透明なイカ」はすっかり腹に収まり、「生きた教育」なんて大義名分は私の頭から抜け落ちていた。イカ、イクラ、カニ、ホタテ、ウニ……。あとはもう、食欲の導くままに。
異国情緒漂う北の街で、我々親子はロマンチック路線に背を向け、ただ幸せをムシャムシャと食べ尽くしたのだった。
ものすごくたくさんの反響をいただいた記事です。
共感や思い出をたくさんいただきました。
が、一方で、「あなたの子どもは新聞など読めないかもしれないけれど、うちの子は小学生低学年で新聞をすらすら読みます。うちの子の夢を壊した責任をどう取ってくれるのですか」という批判も。
これは真摯に反省いたします!
■掲載年月日 2006年11月17日
■憂楽帳:サンタの涙
「サンタさん、本当はいないんでしょ」。小学2年の息子に問いつめられた。「いるに決まってる」と言い繕ったものの、「うそつきは泥棒の始まり」としつけてきた手前、居心地が悪い。ふと、幼い日の思い出がよみがえった。
あれは確か私が10歳のころ。「サンタはいない」と笑う友達に「絶対にいる。命賭ける」とたんかを切った。「絶対いるよね。命賭けちゃった」とすがったら、母は「ごめん」とうつむき、ホロホロと泣いたのだっけ。
今も不思議。なぜあの日、母は泣いたんだろう。尋ねそびれているうち母は死に、私は長じて母になった。トリックや小道具を駆使した母親譲りの演出で、毎年、サンタの来訪を息子に信じ込ませてきた。たくさんうそも重ねた。ただ息子の喜ぶ顔が見たくて。
「サンタさんが母ちゃんであるはずがない」。検証の末、自分なりの結論を出した息子の幼い横顔をみながら、ふと思う。いつか私にも息子に「ごめん」と泣いて謝る日が来るのだろうか。その日になれば、私にも母の涙の意味が分かるのだろうか。
■掲載年月日 2006年11月10日
■憂楽帳:明日という字は
白衣の彼女は毎月のようにやってきて、私のこった首や肩をほぐしてくれる。21歳。カイロプラクターの卵だ。「私が小国さんを癒やす側にいるなんて不思議」と彼女が笑うたび、私はうれしくて泣き出しそうになる。白衣からのぞく腕にはリストカットの跡。彼女と取材で出会って3年になる。
中学校時代にいじめを受け不登校に。10代後半は過食とリストカットに苦しんだ。去年の今ごろはまだ「死にたい、消えたい」と訴え、薬を過剰摂取しては「飲んじゃった」と泣きながら電話をよこしたものだ。10カ月前、カイロプラクティックと出合い、夢に向かって歩き出した。今は患者の「ありがとう」が生きる支えだ。
長いトンネルを抜けたばかりの彼女の言葉をここに記そう。「いじめも不登校の経験も今の私にはプラスに生きてます。他人のつらさが倍分かるから。こんな言葉、苦しみの渦中にいる人には届かないと経験上知っているけど。明日という字は明るい日と書きます。どうか死なないで。私は生きててよかったです」。自殺の連鎖が止まりますように。
ものすごく取材をするのに緊張する相手でした。
でも会ってみたら、とんでもなく優しい人でした。
言葉の一つひとつにエッジが効いていて、ものすごい刺激を受けました。
(「男根」という文字をこれだけ盛りこんだ記事は、ほかにないと思います)
■掲載年月日 2006年11月06日
■撮り続けて44年 東京は墓場だ−−by天才アラーキー
44年間、東京を撮り続けてきた人がいる。「天才アラーキー」を名乗る写真家、荒木経惟(のぶよし)さん(66)。女性のエロスを過激に写す一方で、変わりゆく東京の街に三脚を立ててきた。今、彼は言う。「東京は墓場だ」
首都高を走る車の窓から、真正面にそびえる六本木ヒルズが見えた。「お、男根だね!」。荒木さんが後部座席からカメラを構える。「初めて撮った時、『東京に男根あらわる』と思ったね。高層ビルは男根。そして墓標でもある。東京は墓場ばかり造ってるな。がっはっは」
女性を撮り続けてきた荒木さんが、一方でこだわってきたのが街。つまり東京だ。「東京」と名の付く写真集は30冊を超え、10月には44年間の作品を集めた「東京人生」をバジリコから出版。同タイトルの写真展を12月24日まで江戸東京博物館で開催中だ。
台東区三ノ輪のげた職人の子に生まれ、情感あふれる下町写真を撮ってきた人だから、「東京は墓場だ」という言葉は変容する街への批判かと思っていた。ところが、「開発批判? 全然違うよ。変わっていくのが都市の魅力。古いモノから新しいモノへ、変わり目の混とんがいいんだ」という。
それでは「墓場」は何を意味するのか。そこに<アラーキーの東京論>の根っこが潜んでいる気がした。だから、車は首都高をひた走る。一路、荒木さんが生まれ育った街の墓場へ。
■
秋深い墓地。荒木さんは一抱えもあるコスモスの花束を、なぜか半分だけ、妻陽子さんの墓に手向けた。陽子さんの死から16年。「まだカッカしてんだろ、頭冷やせよ」と柄杓(ひしゃく)の水を墓石の真上からかける。
ここは浄閑寺(じょうかんじ)。荒木さんの生家とは目と鼻の先。新吉原の遊女が2万5000人余も葬られ「投げ込み寺」とも呼ばれる。永井荷風も好んで訪れた。ここが幼き日の荒木さんの遊び場だ。「墓石の上をつたい跳びして、どこまで行けるか競争したり、卒塔婆でチャンバラしたり、遊女の骨つぼを開け、骨を混ぜ合わせたり。アタシはこの街から始まったんだよ」
思い出を語りながら、順々に遊女の墓や慰霊塔を訪ね、残りのコスモスを手向けては、撮る。枯れかけた深紅の仏花を目に留め、ファインダーをのぞく。「死にゆく者のエロスだねえ。女も花も枯れかけがいいね」なんて言いながら。
「こいつ、泣いてるんだよ」。ふと足を止め、妻の墓の隣にある小さな弁財天像を指さした。なぜかほおに涙のような跡がある。「おまえにもコスモスをやろうな。泣いていいぞ」。おもむろに妻の墓から花を数本抜き取ると、弁財天に飾る。「いいよ、いいねえ」。まるで目の前の女性モデルにでも話しかけるように、コスモスと弁財天を繰り返しほめ、そして撮る。
荒木さんのそんな姿に、1冊の写真集を思い出した。「センチメンタルな旅・冬の旅」。妻陽子さんの死のあとさきを撮ったものだ。病室で妻の死を迎えた瞬間も、亡きがらと自宅に戻る時も、荒木さんはひたすらシャッターを切り続けた。こぶしの花を抱えて病室に向かう自分の影も、ひつぎに眠る妻の顔も、焼き場へと向かう霊きゅう車も。「撮る」ことが愛情であり、鎮魂であるかのように。
妻を亡くしてしばらくはモノクロで空ばかり撮っていたという荒木さん。「墓場」の意味を問うたらこんな答えが返ってきた。「一番好きな場所。安堵(あんど)できる所。永い眠りにつくところ。アタシにとって、墓場は楽園と同義語なんだよね」
寺を出た。荒木さんは目の前の道を「昔と全然変わってない。今も真っすぐだ。素晴らしい」とほめては撮り続けている。不思議な人だ。実家は取り壊され、駐車場になっている。昔ながらの看板建築も今はない。それでも荒木さんは「全部変わっちまった」と嘆かない。むしろ「変わらない」という。
近所の喫茶店の中では、店のママが荒木さんの姿に驚き、頭を下げている。荒木さんも「自転車屋の娘じゃないか!」。お隣は歯科医院。「おい、昔は将棋仲間だったやつが今は院長かよ」
いとおしそうに街を歩きながら言う。「街ってやつは、どんなに変わっても、総取っ換えにはならないよ。必ず何かが残る。建物が変わっても、真っすぐな道が残る。人々が暮らしている。ノスタルジーだな。大人はノスタルジーをばかにするけど、どんどん乾いていくこの時代には、涙っぽい過去は引きずったほうがいい。湿り気や体温があって、ほどほどに汚れてる街に幸せがある。だから過去のある街はいいんだ」。それからちゃめっ気たっぷりに「女だってそうだろ?」と付け加え、私の肩を軽くつついた。
■
過激なヌード写真で世間を騒がせてきた人だ。「女陰カメラマン」と呼ばれたり、警察から摘発されたこともある。「女の一番美しいところを引き出す」と豪語し、女性を撮る時は乳首に触れたり、耳たぶをもんだりして被写体に絡みながら、撮影するという。時には自分も服を脱ぎ、自らをさらけ出す。なぜなら「写真を決めるのは被写体とアタシとの関係性だから」。
それは街を撮る時も変わらない。「いいね、いいね」と街角や建物に声をかけ、路地の奥へと迷い込み、その地に染みついた記憶に思いをはせて、街に絡む。「すると街は何かしらごほうびをくれる。美しい花とか、黒猫とかが目の前に現れる。街中が身をよじって『撮って撮って』とうごめき出すんだ」
そんなふうにずっと東京で撮ってきた。生まれ育った三ノ輪の街。渋谷のスクランブル交差点。新宿副都心の高層ビル群。そして東京に暮らす人たちも。「東京に『ふるさと』がないなんてウソだね。坂もあれば川もある。とてもミステリアスだ」
帰路を急ぐ車は、再び都心のビルをすり抜け、首都高をゆく。「男根ビル、もっといっぱい建てればいいねえ。東京を上から見たら墓標が立ち並ぶ墓場にそっくりだろう。ビルよ、勃起(ぼっき)せよ! なんてね。あ、新聞記事で『勃起』はまずいか。アラーキーのボッキード問題、だな。わっはっは」
黒縁の丸眼鏡の奥でまなざしが優しく揺れた。車窓の向こうに再び、あの「男根ビル」が見えてきた。
■掲載年月日 2006年10月27日
■憂楽帳:野菜の甘さ
甘いトマトを食べ「お日様の味ね」と喜んでいる私に、農業を営む義弟がプチトマトをくれた。驚いた。ハウス物の方が露地物より甘い。「最近のトマトが甘いのは、品種改良や給水を減らし、ストレスをかける栽培方法の結果」と義弟はいう。「甘さ」は、太陽の恵みだけではなかったのか。
今夏、横浜市の畑に放置したトウモロコシの実に100匹ものカブトムシが群がり、話題になった。甘い樹液を求める虫がなぜトウモロコシ? 調べてみると、最近は「カブトムシも食べる甘さ」がトウモロコシの宣伝文句にもなるらしい。メロンより甘い品種もあるというからビックリ。
義弟と結婚し、毎日取れたての野菜を食べている妹は「枝豆とトウモロコシ、甘くなって味が似てきたね」という。種苗会社「サカタのタネ」の担当者に尋ねると「確かに両方とも今『いかに甘いか』で品種改良を進めている野菜です」。甘さを「太陽の恵み」と信奉し、より甘い野菜を求めてきた私。いつの間にか野性味をきちんと味わえる舌を失いかけているようで、どきっとした。
■掲載年月日 2006年10月25日
■秋空の下、軽やかに口笛
■変幻自在、どこでも音楽会
口笛が今、静かなブームを呼んでいる。吹き方を教える教室が登場し、今年は初の全国大会も開かれた。晴れた秋空の下で美しい口笛を吹けたら、どんなにすてきだろう。楽器のいらない、一番身近でシンプルな“楽器”、口笛の世界を歩いた。
「さあ、息を吸って。ほっぺを柔らかく」
「高い音の時は唇を絞って」
ここはヤマハミュージック横浜「大人の音楽レッスン」の一部屋。譜面立てがずらりと並び、20〜60代の男女10人が練習中だ。
見た目は極めて地味である。動きがない。イスに座っているだけ。中には「考える人」のポーズで吹き続ける男性もいる。楽器もなければ、手足も動かさない。カメラマンが「写真、難しいです……」とうめく。確かに、写真だけでは演奏中と分からないかも。
しかし、動きはないが、部屋に満ちる口笛の音は変幻自在。みなで合奏する「遠き山に日は落ちて」のふるえるような高音を耳にし、不思議な気がした。目の前には一つの楽器もないのに、立派な管楽合奏みたい。
習い始めて3年目の男性(51)は「子供が大学生になった途端、休日が暇になった。家内から『何かやれば』と勧められて……」。一方、夫婦で通う人も。夫(68)が「一緒にできる趣味がほしくてね」といえば、妻(64)も「主人に聞いてもらいながら練習しています」。
口笛の魅力は、手軽さと音色にあるようだ。「40歳を目前に音楽がやりたくなったが僕は音符も読めず、楽器もできない。でも口笛なら、ね」と弁護士の男性(39)。「楽器がいらないからどこでも演奏できる。体の一部が楽器になるなんてすてきだわ」という会社員の女性(60)はなんと千葉県から片道2時間かけて通っている。
社会人1年生の女性から定年退職した人まで、世代を超えて和気あいあい。彼らが目指すのは日本初の「口笛コーラス隊」の四部合奏だ。
同教室の講師、高橋一眞(かずま)さん(67)は口笛講師歴10年。メディアに紹介されるたび、「こんな教室を待っていた」と参加者が増えるそうだ。健康ブームも一因らしい。「腹式呼吸だから健康にもいい。座ってできるジョギングのようなものです。口の周りの筋肉を鍛えるから、口元が引き締まり、表情も若返りますよ」。中高年には格好の趣味なのかも。
口笛は吹くだけでなく吸っても音が出る。訓練すれば音域も3オクターブ近く出すことができ、思った以上にその表現は奥深い。「海辺や原っぱで1人口笛を吹いてごらんなさい。心が澄み、無限の安らぎを感じる。幼い日に口笛を吹いた日々が懐かしい人もいるはず。大量定年時代、口笛人口は増えるでしょうね」。高橋さんは言うのである。
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口笛はかつて、あまり上品なものではなかった。魅力的な女性とすれ違った男たちが吹く「ヒュー」や、親にしかられた悪たれ坊主がごまかそうと吹く「ヒューヒューヒュー」。ところがこの手の口笛、めっきり聞かなくなった。今やテレビドラマや漫画に残るだけではないか。そういえば「夜口笛を吹くと蛇が出る」という言い伝えも聞かなくなって久しい。
一方、音楽としての口笛は、定年目前の団塊世代がまだ子どもだった昭和30年代に一世を風靡(ふうび)した。坂本九の「上を向いて歩こう」が大ヒット。みなが口笛のパートを一生懸命に練習した。米国映画の挿入曲「史上最大の作戦のマーチ」や「クワイ河マーチ」なんていうのもあった。今、口笛を吹くと懐かしい気持ちになるのは、忘れかけた思い出がよみがえるからかもしれない。
口笛の教室が増えてきたのはここ数年のこと。02年には、サザンオールスターズの関口和之さんのウクレレと、俳優の竹中直人さんの口笛で全曲作ったアルバム「口笛とウクレレ」が話題になった。「実数は未公表ですが、息の長い作品。4年前の発売時の倍近い枚数が今までにじわじわと売れてきた。珍しい現象です」(ビクターエンタテインメント広報担当)という。
そして今年はとうとう、初の口笛全国大会が開催された。
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全国大会の旗振り役は、「口笛音楽文化の構築」を目指すプロ奏者、もくまさあきさん(64)だ。個人のホームページで参加を呼びかけただけだったのに、なぜか青森から広島まで約100人がテープ審査に応募した。30人に絞って昨年10月に予選を行い、さらに選ばれた10人が今年3月の全国大会に出場。第2回全国大会は来年秋とまだまだ先だが、すでに問い合わせがくるという。
もくさん自身がプロの口笛奏者になったきっかけは、飛び込み参加した92年の米国の口笛世界大会。世界中の口笛愛好家たちが集まる真剣勝負だ。大好評だったのに気をよくして、00年、正式にエントリーし、ポピュラー部門で見事2位入賞を果たした。
ところで、口笛教室などなかった時代、もくさんは「世界2位」の技術をいったいどこで磨いたのか。「実は、会社勤めの30年間、ずっと営業マンをやってましてね。宴会部長として口笛で場を盛り上げているうち、上手になっちゃった」。そういえば横浜教室講師の高橋さんも「会社員時代にスナックで古賀政男の『影を慕いて』を口笛で吹いたらママに大受け。それから接待カラオケで演奏するようになった」と言っていたっけ。
今、この記事を読んでるアナタも近い将来、口笛コンサートを開催してるかも?
◇個性出やすい「楽器」
−−動物ものまね・江戸家小猫さんのお話
コオロギやスズムシなどの秋の虫や鳥のさえずりの模写に口笛は欠かせない存在です。例えばコオロギが羽をこすり合わせる音。あれは吸って口笛の音を出しそれを上あごに当てて音を転がして出しています。
僕たち団塊世代は、誰も結構口笛が得意です。子供時代、めんこ同様に口笛は男の子の遊びでしたから。学校帰りなんかによく吹いたものです。特に僕にとって口笛は家業ですから。友達が「クワイ河マーチ」なんかを練習する横で、おやじ(江戸家猫八さん)に習った「吸う口笛」をよく練習しました。コオロギの音を出せたのは確か、小学6年生の時だったと思います。
口笛の魅力は、歌声の音域よりもはるかに高い音を出せること。低い声の男性でも美しい高音を出せるのは、声帯を使わず、口を楽器のように使って出す音だからです。また、口笛は音に個性が出やすい「楽器」。口の形は一人ひとり違うから。吹けるようになってから、音に自分の持ち味を出せるまでの奥深さが最大の魅力だと思います。
■掲載年月日 2006年10月20日
■憂楽帳:語るより聞いて
薬物依存に詳しい国立精神・神経センターの松本俊彦医師から聞いた話。治療に来た若者が家で嫌だった体験としてよく挙げるのが「父親の晩酌」だという。薬物依存の背景には虐待がよく指摘されるが、なぜ晩酌?
つまりこうだ。普段は子供とすれ違いの父親が久しぶりに早く帰宅する。「今夜こそ」と意気込んだ父親は「どうだ勉強は」と子供を質問攻めにし、「人生ってのはな」と語りがち。おまけに酔えば人間くどくなる。父が熱く語るほどに子の心は冷めていく。「日ごろの信頼関係のない親子間で一方的に価値観を押し付けるのは『虐待』と同じ」と松本医師は説明する。父親も子供にかかわろうと必死なだけに何だか切ない話だ。
父親の教育熱が高まっている。マニュアル本や雑誌は「受験こそ父親の出番」「自分の仕事を子に語ろう」「週1回本気で対話を」とあおる。私も父親の育児参加には大賛成。でも松本医師は「語るよりむしろ聞いて」という。
熱く語るのは易しい。でも思春期の子供が語るまで待つのは、実はとても難しい。
■掲載年月日 2006年10月19日
■ラブレター、綴ろう
■物思う秋、妻に夫に恋人に
物思う秋。でも思ってるだけじゃ、伝わらない。手紙を書きませんか。恋人に、妻に、夫に、綴(つづ)る大人のラブレター。ほらほら、恥ずかしがらないで。だって秋だもの。
最近の若者はラブレターをあまり書かないらしい。電子メールのこの時代、パソコン画面でコピーを繰り返せば、「好き好き好き」と100回重ねた言葉の文も1分以内にできあがり。クリック一つで送信完了だ。
こんな時代だからこそ大人がラブレターを書こうじゃないか。そう。年を重ねた大人にしか書けない大人のラブレター。ところが青春時代ならいざ知らず、今さらラブレターを書くのは案外、難しい。
まずはラブレターの達人で作家の小嵐九八郎さん(62)に教えを請うた。小嵐さん、これまでに書いたラブレターは「合計750通ぐらいかな。このうち妻へが500通」とか。高校1年の時、1学年上の女性に一目ぼれ。9年間、ラブレターを書き続け、見事恋を成就させた。初めて床を共にした日、「手紙が効いたのよね」とささやかれたそうな。このお相手が今の愛妻というから、お見事!
「ラブレターの中身は相手との関係で書き分けねばなりません。名乗り合う前の相手なのか、恋人一歩手前なのか、すでに恋人なのか、夫や妻なのか。例えば『すました時の唇の縦じわがいいね』と書いた手紙を、名乗る前の相手に渡せばただのストーカーです。しかし、恋人一歩手前の相手になら、さりげなく接吻(せっぷん)したい思いをにおわせることもできるでしょう?」
なるほど。恋人向けと夫や妻向けに分け、コツを整理してもらった。
「恋人や恋人以前の相手には直接的な表現より、何重にも意味が取れる含みのある文章がいい。相手の重荷にならず、あれこれ想像してもらうことで恋が盛り上がるから」となかなか高度なテクニック。
例えばこれ。
<横山大観の絵をがらにもなく見にいきました。桜の絵がすごい。でも桜も散るんですよね。現実の桜は。それで○○子さんを思っちまいましたよ。青春、疾走してください>
小嵐さんがある女子大生に出したハガキだ。「思っちまいました」は単に「思いついた」から「愛(いと)おしく想(おも)った」まで解釈が可能。最後に「青春、疾走して」とオジサンらしい余裕を見せるあたりが心憎い。
*
では、夫や妻へのラブレターはどうか。「こちらは逆。普段なかなか言えない感謝やおわびの思いを極力ストレートに書く。多少気恥ずかしいくらいの言葉をはっきりとね」。ご自身、仕事で5日も家を空ければ、必ず妻に手紙をしたためるという。例えばこんなふうに。
<今朝、眉山(びざん)という山に登り徳島市内を見渡した。霞(かす)む海が見え、あの先におまえがいると、はや、里ごころ。この城下町は藍染(あいぞ)めが昔から盛ん。取材より、おまえへの土産探しで忙しい。火の用心>
肝心の思いはどんな言葉で伝えよう? 「愛してます」だろうか。それとも……。
ところが小嵐さんは「愛の告白なんていらない。自分の思いなどは手紙の1割でいい。9割は相手中心に書く。例えば、相手の良さを自分なりの言葉でほめてあげる。美しい人に美しいといっても喜ばれない。むしろ本人が欠点と思っている点をほめる」。例えば、絵が上手と自分で思い込んでいる口下手の女性にはこんな感じ。
<デフォルメの奔放な絵手紙に感激です。赤いカラス瓜(うり)と、なお青い葉が、過ぎた夏と秋を二重写しにしていて、音なき音楽を思いました。寡黙なあなただけが描ける世界です>
確かに「好き」と言われるより、ほめられるほうが人間はずっとうれしいのかも……。
*
「『好き』『愛してます』は、できれば書かないほうがいいほどです」とおっしゃるのは法政大社会学部の田中優子教授だ。著書「江戸の恋」(集英社新書)で江戸時代の恋文について書いている。
「江戸時代、遊女にとって恋文を書けるかどうかは命綱でした。さらにさかのぼれば、源氏物語の男女は相手の顔を知らないままで恋をする。つまり手紙に恋をするというわけ。文字、文体、織り込む詩歌、背景に見え隠れする教養や精神性……。手紙は人となりを伝えるのに格好の手段なのです」
江戸時代の寺子屋では、手紙文でできた往来物と呼ばれる教科書がよく使われた。「手紙を手本にすることで、言葉遣いや表現を覚えると同時に、人間関係を築く技術も身につけ、大人になっていった。手紙はコミュニケーションの基本です」と田中教授はいう。
しかし、田中教授自身は「好き」「愛してます」と書いた手紙を送ったり、送られたりしたことはないという。「私がこれまでに書いたのも、もらったのも、『好き』『愛してる』という言葉のないラブレター。ずっとそのほうが魅力的だと思います。だって『好き』や『愛してる』という言葉は勝手に自己完結している感じで、相手には届かないですから」
*
小嵐師匠の著書「せつない手紙 こころを伝える綴り方講座」(ちくま新書)に愛妻へのこんな手紙を見つけた。
<いとしの妻よ。照れるのでいいにくいけれど、本当は離れて一人で眠るときも、いっしょに手をつないで眠るときも、必ずおまえを五分間、凝縮して思っています。いままでこのことを隠していてごめんよ。(中略)死ぬ時は、最愛のおまえに看取(みと)られて死にたいと改めて強く思う毎日だ>
やけに直球勝負の表現に「こんな情熱的な手紙、ほしいな」とうっとりしつつ、読み進めた私は途中であぜん。なんとこれ、小嵐さんの「悪さが発覚した時」の手紙。でも、手紙のおかげで妻は「ちょっぴりだけ機嫌を回復させてくれた」という。
なーんだ、あきれた。
でも、さすがは「大人のラブレター」。許せないことまで、つい許しちゃうかも。
「達筆でなくていい。むしろ素朴な思いを伝えるには達筆でないほうがいい。手触りを大事に、紙を、ペンを、切手を選ぶ。手紙が相手に伝える繊細さや重さは電話や電子メールの比じゃありません」と小嵐さん。
澄んだ秋の空の下、アナタも思いを手紙に託してみては?
■掲載年月日 2006年10月13日
■憂楽帳:ナカちゃん
まだ凍ったままらしい。何かというと徳島県の那賀(なか)川で人気者だったアゴヒゲアザラシのナカちゃん。8月に死んでから、ずっと動物園のエサ用冷凍室の中にいる。
自治体には「市民葬に」「遺体を見せ物にするな」など住民の声が約50件。博物館が学術利用すると決まり、目下、骨格標本案が有力だが、「残酷」「子供はショックでは」という意見も。「擬人化された存在だけに、すぐ骨にすると住民感情が……」と博物館関係者も案じており、体長188センチの冷凍保存は当分続きそうだ。
02年夏、人気アザラシの先輩格タマちゃんの見物客に「なぜ冷房の利いた水族館に行かないの?」と聞いたことがある。ある小学生の答えは「タマちゃんはホンモノだから」。きっと「野生動物だから」と言いたかったのだろう。
今や阿南市特別名誉市民のナカちゃんだが、海岸に打ち上げられたウミガメやクジラと同じように、野生動物として骨格標本にしてあげてはどうか。子供が骨を見て泣いたなら、私たち大人が動物の生き死にについて言葉を尽くせばいい。
夕刊のコラム「憂楽帳」に連載することに。
その初回に書いた記事です。
会社に届いたのは共感の手紙ばかり。
逆にネットではあれこれ批判も浴びました。
■掲載年月日 2006年10月06日
■憂楽帳:あの日
「皇室に男児誕生」の報に日本が沸いた日から今日で1カ月。新しい命の誕生に、まずは心から「おめでとう」と言いたい。でも、あの日の報道は変だった。メディアの選んだ「街の声」は祝福ばかり。テレビ画面では、サラリーマンが、若い母親が「おめでとう!」と口をそろえて笑っていた。
ところが私の周囲はそうでもなかった。命の誕生を歓迎しつつも「男児男児って騒ぐのは変」「雅子さまの気持ちが心配」「社会が女に求める役割は今も『産む性』?」。
私はといえば息子を出産した日を思い、母子のご無事を祈りつつも、なかなか妊娠できず病院に通った日々の切なさがよみがえり、「おめでとう」一色の報道に小さくため息をついた。
女たちの多くがあの日、それぞれの立場で切実な思いを抱き、「おめでとう」という思いとのはざまで戸惑い、葛藤(かっとう)したのではないか。でもメディアが伝えた「街の声」は、薄っぺらで分かりやすい祝福の物語だけだった。私はあの日、女たちの声を一つ一つ拾いながら、いつかこのことを言葉にしよう、と思った。
かつて、犬を飼う世界と、人間の子育てとの類似点について、本を書けないかと思ったことがあります。「公園デビュー」から「過干渉」まで、何でもありですから。それでも、犬は「お受験」とは無縁だと思ってたんですけどねえ……。
■掲載年月日 2006年10月04日
■犬もお受験ブーム!?
■「賢さ」にこだわる飼い主
■人間の子育てと同じ、期待はほどほどに…
犬の「賢さ」にこだわる飼い主が増えている。犬の知能指数(IQ)診断が人気を集め、犬用の知育玩具まで登場。子犬が通う幼稚園も大人気だ。もしかして犬の世界も「お受験」ブーム?
□「個性尊重、ほめて育てる」
ここは「犬のようちえん」(東京都目黒区)。女性トレーナーが指を立てると、じゃれ合っていた子犬たちが次々とお座りして見せた。トイプードルにチワワにヨークシャーテリア。毎日、人気の犬種の子犬たち約20匹が通う。送迎バスで登園、ドッグフードの弁当を食べ、散歩や昼寝をし、連絡帳だってある。ホンモノの幼稚園そっくり!
お座り、待て、伏せなどの指示やトイレ習慣のほか、社会性を身につけるのが目的だ。週3回計36回の小型犬向けコースで授業料は約26万円。決して安くはないが、「楽しそうに通う愛犬の姿がうれしい」「しつけに迷った時の心の支えになってくれる」「幼犬のうちに正しいしつけを教えられる」と飼い主たちの評判は上々なのだ。
運営するアニマルプラザによると、00年に開園した当時は「日本初の試み」(同社)だったが、6年間で同社だけでも5園に増えた。幼稚園や保育園を名乗る同業他社も増え始めたという。
「犬のようちえん」の教育方針は「個性を尊重し、ほめて育てる」こと。ホームページでは「最近急増中の『キレる犬』や『犬見知りする犬』になりません」と宣伝する。これを見た時は、1児の母である私も驚いた。これじゃまるで人間の子育てだ。
そういえばここ数年、犬の飼育と子育てが段々と似通ってきている。飼い主同士が「○○ママ」「○○パパ」と呼び合うのは序の口。約10年前、育児雑誌が「公園デビュー」向けの服装やマナーなどを特集した時には、ペット雑誌も飼い主向けの公園デビュー特集を組んだっけ。
□一緒にDVD
「犬の飼育は今や、人間の子育てと全く同じ」と断言するのは、かまくらげんき動物病院(神奈川県鎌倉市)の石野孝院長だ。「実は、初めて犬を飼う人の間で最近、『どうやってしつけたらいいの?』という育児ノイローゼが増えているんです。一方で、犬とダンスする教室やフライングディスク大会など、犬関連の競技会が過熱しています。犬の世界でも『お受験』ブームと言えるほどです」という。
そんな石野院長のアイデアで6月に発売されたのが「ポチ教授の犬Q(ワンキュー)診断」(4980円)という名のDVD。犬とDVDを見て、画面で突然鳴り出す赤いサイレンに犬がどう反応するか、飼い主が着ぐるみを着て犬に接した時、犬は飼い主と気付けるか、などの質問に答えるうち、犬のIQや性格が分かる、という商品だ。レンタル用も含めて約1000枚が売れた。特に犬を我が子のように育てる夫婦や年配者に人気だという。
このDVDを2歳のミニチュアダックスフントに試した都内の会社員女性(43)は、「IQは82でした。性格診断は『マイペース』と出て、なるほど当たってる、と思いました。犬を3匹飼ってる友人にDVDの話をしたら、彼女も『おもしろそう。やってみたい!』と言ってましたよ」と語る。
飼い主はなぜ、犬の「賢さ」が気になるのか。石野院長は「犬の社会的な地位の変化」を一番の理由に挙げる。「犬はかつては番犬でした。でも今は共同生活者。マンションで暮らしたり、レストランに一緒に入るためには、しつけは欠かせません。また、消費者金融のマスコット犬、くぅ〜ちゃんのようなスター犬が登場したことで、自分の犬を他の犬と差別化したい飼い主も増えているのでしょう」
□本当の愛情って
そんな折、売れ始めたのが犬向けの知育玩具。欧米諸国からの輸入商品しかなかったが、数年前から国産品が現れた。業界関係者は「右肩上がりが期待されるマーケット」と口をそろえる。多くは押したり転がしたりして中のエサを取り出す仕組みで、犬の学習能力を高める効果があるという。
ただし、飼い主たちが犬の英才教育のために買っているかというと、案外そうではないらしい。開発販売に取り組む大手ペット関連会社「ドギーマンハヤシ」(大阪市)の営業企画部長は「犬の能力開発という以上に、犬が玩具に熱中してくれると、その間は飼い主も楽ができる、ということでも喜ばれています」。ドキッ。これって、親が子どもに玩具を与える時の心理に似ているかも……。
さて、子どもにも犬にも親(飼い主)の思いが重くのしかかるこの時代。自らも犬を飼い、「本物の愛犬家」を自負する哲学者、池田晶子さんは「犬の潜在能力を知りたい飼い主の気持ちもよく分かるし、IQ診断や玩具を通して犬と飼い主が一緒に楽しめるなら、それはすてきなことだと思う」と語る。「ただ、子育てにおける『お受験』みたいになってしまったら、それは犬への純粋な愛情かしら?」とも。
子どもにも、犬にも、期待するのはほどほどがいいかも……。
◇目指すゴールは違うから
−−帝京科学大アニマルサイエンス学科・横山章光助教授
子育てと犬を飼うことは確かに似ていますね。特に最近は、人間の子育て並みの過剰な期待を犬に寄せる飼い主もちらほらみかけます。
ただ、親(飼い主)が子ども(犬)に求めるものや、目指すゴールは、やはり違う気がします。人間の場合、子どもは親の死後も生きる。だから子どもに施す親の教育が、子の将来にかかわってきます。一方、犬の場合、犬は飼い主より先に死ぬことがほとんどなので、飼い主の死後の犬に生活力があるか、自立できるかなどの問題を考える必要はありません。
IQ診断などに人気が集まっているのも、自分の犬の優秀さを確かめたい、という思いが強いというよりは、できればできたでほめ、できなければできないで「かわいいねえ」と笑う、そんな犬を通したコミュニケーションが楽しいからではないでしょうか。
過剰な期待や方向性を押しつけている、という点では、僕はむしろ犬の飼い主より、人間の子育てのほうが心配です。犬の飼い主のほうが、「できないところが、これまたかわいい〜」という心の余裕があるように見えるから。
その点では、人間の子育てのほうが犬の飼育に学んでもいい時代かもしれませんよ。
大好きな作家幸田文さんの娘である青木玉さん。
憬れの方は、着物姿で出迎えてくださった。
■掲載年月日 2006年09月26日
■しあわせ食堂 青木玉さん「煮豆」
■コトコト罪滅ぼし−−母も好きでした
秋になると、豆を買います。顔つきの良い新豆を選び、コトコトと煮る。普段はせわしなくて、ゆっくりと料理をしない私の、せめてもの罪滅ぼしです。豆を煮るのは心に余裕がある時。次の日に原稿の締め切りを抱えていない時。だから豆を煮ている時の私は機嫌がいいの。
慌ててみても豆ばかりはせっかちに煮てはだめ。水に一晩漬けなきゃいけないし、煮ている間は家を出られない。だから洗濯やガラス拭(ふ)きなど家の中の手仕事と組み合わせる。煮たら煮たで、まめ(・・)に火を通さないとだめ。豆は足が早いから。手をかけた時間と一緒に食卓に乗るのが、煮豆なんですね。
煮えるにおいも好き。時間のあるにおい。お砂糖がからんだ甘いにおい。ちょっと湿り気のある、何て言うのでしょうねえ。多少歳(とし)のいっている女が家にいるにおい?
私がよく煮るのは、白いインゲン豆。若いころは大ぶりの白花豆でしたが、今は小ぶりの手芒(てぼう)豆。和菓子の白あんにする豆です。うずら豆や金時豆のような赤い豆もあれば、うぐいす豆、虎豆、鞍掛(くらかけ)豆なんかも。豆の名前っておもしろいのね。
母(幸田文)も煮豆が好きでした。豆を煮ては母によく届けたものです。母は「あんたは気が長いから豆を煮るのにむいているよねえ」と言ってました。物書きの母は、豆を煮ているのを気にしながら、鍋を焦がしてしまう。一方、私は当時、主婦でしたから、のんびりと「お豆煮えたかな」なんてね。
ところが90年に母が亡くなり、60歳を過ぎてから物書きになって、今はもう煮豆の鍋をしょっちゅう焦がしています。鍋底にべったり。母と同じです。
祖父(幸田露伴)は糖尿病で、甘い煮豆は食べませんでした。祖父が存命のころのわが家は、すべて祖父中心に回っていましたから、豆を甘く煮ることはあまりありませんでした。甘いものは作らないけれど、お酒のさかなはつぎつぎ作らなきゃいけない。祖父が長く飲みたいときに、さっきと同じ料理を出すなど許されないから。
私は罰あたりな孫で、祖父が亡くなった時は「一日中しかられない日があるっていいな」と思いました。でも母は「お父さんがおいででなくて、張り合いがない」とふぬけみたいにしょんぼりなっているのね。私は「あんなに父親に尽くして、それでもまだ足りないのか」と思ったものです。
いい親子でした。とびっきりのね。片方はわがまま放題。もう片方は何とかそれを叶(かな)えてあげたいと夢中になっていた。それが母の幸せでもあったのです。
みなさんは、離婚後ずっと独りだった母について、「好きな人がいたのでは?」などとおっしゃるけれど。祖父ほどの器量の人がそういるかしら。もしそうなら、女はたまったもんじゃありませんよ。
■ごちそうさま
煮豆は新聞記者にとってハードルの高い料理です。豆を水に漬けた翌日に限って急な仕事が入る。煮ないまま水の中で腐らせたことも。無事に豆を煮上げた時は達成感すらあります。だから「手をかけた時間と一緒に食卓に乗るのが煮豆」という青木さんの表現に共感し、思わずひざを打ちました。(おぐに)
■掲載年月日 2006年09月20日
■「なにげに」話題沸騰
■ことばおじさんが歌う「これってホメことば?」
◇フツー→わりと、やばい→かっこいい
◇年配「若者語がわかった」 10代「理解されうれしい」
「これってホメことば〜?、これってホメことば〜?」というフレーズがやたら耳に残るロック調の曲をご存じだろうか?「なにげに」や「フツーに」といった若者語の意味に付いていけず戸惑う中年男の悲哀を、NHKのアナウンサーが歌い上げた曲が、家庭で職場で話題沸騰なのである。
この曲はNHKのテレビとラジオの番組「みんなのうた」で8月から放送中の「これってホメことば?」。日本語に関する視聴者からのハガキを下敷きに、伊達正隆アナウンサー(35)が作詞。NHKの番組「お元気ですか日本列島」で「気になることば」を担当し、「ことばおじさん」として知られる梅津正樹アナウンサー(57)が歌っている。
日本語ブームを背景に、反響は300件を超え、着メロのダウンロードも2500件を突破。22日にはCDとDVDを発売。9月末に放送終了の予定だったが延長され、10月中も何度か放送されることが決まった。
まずは歌詞を見てほしい。中年男性がカラオケでは部下に「なにげに歌うまいっすね」と言われ、すしをおごった自分の娘には「フツーにおいしいよ」とあしらわれ、洋服店では選んだ服を若い店員に「めっちゃやばい」と言われ、花束をプレゼントしたお嬢さんからは「この花、よくなくな〜い?」。中年男性は戸惑うが、実はこれ、若者語では全部ほめ言葉。サビの部分で梅津アナは「これってホメことば〜?」と絶唱する。
作詞を担当した伊達アナは放映前、「NHKが日本語の乱れを助長するのか」などの視聴者の批判も覚悟していたという。しかし、ふたを開けてみれば批判はごくわずか。10代の女の子たちからは「若者語を理解しようとしてくれてうれしい」「学校でみなで歌っています」▽母親からは「子供の言葉の乱れにやきもきしつつ、親子で楽しく歌ってます」▽年配者からは「歌を聞いて『そうそう』と独り言を言ってしまった」――など、幅広い年齢層から好意的な反響が寄せられている。
続きの歌詞を募集したところ、投稿は100件を突破。「ありえなーい」(想像以上にびっくり)、「ブサかわ」(ブサイクかわいい)、「ばりスゴ」(かなりスゴイの博多弁)など若者流の「ホメことば」が続々と集まっている。梅津アナは「日本語の乱れや変化を頭から否定するのではなく、この曲をきっかけに、なぜそんなふうになったのか、どうしていけばいいのかを皆で考えてほしい」と語る。
♪
「10年前なら、もっと批判が多かったかも」というのは椙山(すぎやま)女学園大学人間関係学部の加藤主税(ちから)教授。95年と04年の2度、若者の言葉について調査した。「若者語について、10年前の年配者は『けしからん!』『娘が使ったら怒る』と答えたが、今は『面白い』『使ってみたい』が増えた。年配者が若者語にすり寄っている」と指摘する。
一方、若者の側にも変化が。「10年前の若者は、大人の前であまり若者語を使わなかった。使えばしかられるし、後ろめたさも感じていた。でも今は逆に優越感を持って使っている。若者語と自覚せずに使う子も多い」。だから世代間のコミュニケーションエラーが発生する。
例えば、会社の会議では上司の提案したプロジェクトに20代の部下が「課長、それ、やばいっすよ」。部下は賛辞を述べているつもりなのだ。また、事件を目撃した若者が容疑者について「やばい人と思った」と証言し、警察側は「危険人物と思った」という意味だと理解していたが、若者の方は「カッコイイ人!」と言ったつもりだった、という笑えない話も。
「これってホメことば?」の歌詞について、加藤教授は「2番の歌詞で『フツー』を『わりと』の意味だと説明しているが、今では『大変に』『すごく』という意味も持っている。強調を好む若者が『すごく』『超』と言い過ぎた結果、言葉のインフレが起き、逆に『普通』の希少価値が高まった。その結果、『大変に』『すごく』という意味も付加されたのでしょう」。
♪
ところでNHK放送センターのある東京・渋谷は若者語の震源地。今、どんな言葉が流行しているのだろう。女子高生を中心としたマーケティング会社「アイ・エヌ・ジー」(渋谷区)の竹永新治社長にも聞いてみた。
「若者語というより、いわゆる渋谷のギャル語では、例えば『うけるー』『ぱねぇ』でしょうか」と竹永社長。「うけるー」は本来、面白い話に「それ、うける」などと使われていたが、今は「へー、そうなの」という単なる相づちの意味に転じている。一方「ぱねぇ」は「半端じゃない」→「ぱない」と変化した強調の言葉で、文章の中でよく使われるという。
若者語と見るや「オトナ語」に訳したくなるのが我々大人の習性だが、竹永社長は「それは不可能」と断言する。例えば2番の歌詞の「フツーにおいしい」についても、「若者は語感やリズム感で言葉を選び、意味は重視しない。ある子にとっては『おいしいの中の普通』であり、ある子にとっては『ただのおいしいよりはずっとおいしいけれど、超おいしいよりは下』。使ってる若者たちの間でも厳密な定義はないのです」。
同社は女子高生を対象とした流行語のアンケートを実施しているが、「これってホメことば?」に登場する「なにげに」や「やばい」はランキング入りしていない。竹永社長は「大人の目には若者語の代表格であるこれらの言葉は、女子高生にとっては既に定番で、流行語ではないから」と説明する。
実際、NHKには「お陰で若者の流行語の意味がわかった」という年配者の喜びの声とともに「私たちには常識的な言葉がオジサンには分からないんだ」という10代の驚きの声も寄せられているとか。世代間ギャップはかくも深刻なのだ。
ところでこの曲、カラオケ配信も始まったらしい。オジサンの絶唱が街に響くかも……。
記事241◆「おふくろの味」の土井勝さんを忍ぶ記事
2006年夏の連載企画は、今はもう亡くなってしまった人に、「会いにいく」記事。今回は、デスクから、「おふくろの味」の土井勝さんを、と指名され、大いに悩んだのでした。
だって、自分自身、ワーキングマザーで、「おふくろの味」とか全然実践できてないし、そもそも、「おふくろの味」という言葉にしみついたオヤジたちの哀愁とか郷愁みたいなものも大嫌いなもので……とほほ。
■掲載年月日 2006年08月17日
■06夏・会いたくて/6
■土井勝さん(95年死去・74歳)
◇手作りこそ愛−−料理研究家、「おふくろの味」生みの親
◇「家族の楽しい食事」こだわって
うわ、男ばっかり。
東京・神田にある居酒屋の引き戸を開けて、ちょっとひるんだ。偶然か、お客さんみんなワイシャツ姿のサラリーマン! 切り盛りするのはエプロン姿のおばさんたち。まるで田舎の母が台所から抜け出してきた感じ。
ここは「おふくろの味」が看板の店。おじさんが甘えた声で呼ぶ。「ママさ〜ん」。「あんたのママか?」と出かかった声を、私はビールで流し込む。でもおじさんたち、実に幸せそうだ。肉じゃが、切り干し大根、そしておふくろの味という言葉……。
外食でモテモテの「おふくろの味」、肝心の家庭の食卓では出番が減った。服部栄養専門学校校長の服部幸應(ゆきお)さん(60)は「おふくろの味は『袋の味』」と言った。つまりレトルトパックの「袋」を開けるだけの食事になったというわけだ。その一方で「キレない食事」をうたう本が売れ、「食育」の名のもと、子供料理教室やコンテストも盛況だ。
「どう思う?」。心で呼びかけた相手は「おふくろの味」の言葉の生みの親、料理研究家の土井勝(どいまさる)さん。あの柔らかい関西弁で語る料理のイロハ、懐かしい。生きていたならこの風景を何と……。
勝さんは1921年、香川県に生まれ、大阪で育った。母の手料理が大好きな食いしん坊。幼い日、母から聞いた「あなたは火と水のお不動さんがついている。火と水を使う仕事を」という一言を胸に15歳で日本割烹(かっぽう)学校長のかばん持ちに。母の味が「師」だった。
テレビ放送が始まった53年から料理番組に多数出演した。開設した料理学校の生徒は最盛期で1万2000人、卒業生は実に26万人。最後の著書になった「土井勝 日本のおかず500選」(テレビ朝日)は今もなお子や孫への贈り物とされるロングセラーである。
正直いうと「おふくろの味」には少々の負い目と反発を感じてきた。共働きのわが家ではレトルトや冷凍食品は強い味方だし、第一、料理は女だけの仕事ではないはず。でも、亡き母が釜底に残るお焦げご飯で握ってくれた塩だけのおむすびを思い出すと、鼻の奥がツンとなる。手抜き料理が信条のくせに炊飯器ではなく土鍋で米を炊いている。「母の味」は思いのほか体に染みこんでもいる。
「おふくろの味」にこめた勝さんの思いが知りたくて、妻信子さん(75)を大阪市に訪ねた。住吉大社にほど近いお好み焼き屋さんに誘われ、鉄板を前に並んで座った。「主人は生まれて半年で父親を亡くしたんです。母親は女手一つで5人の子を育てました。父親のいないふびんを手料理で補おうとした。『おなかいっぱいなら心も大丈夫』と信じて。だから主人の味の原点は母の手料理やったの」
勝さんが「おふくろの味」を唱えだした昭和40年代は、まさにファストフードが日本に上陸し、レトルト食品が登場した時代だった。すでに風前のともしびだったからこそ、勝さんは「おふくろの味」にこだわった。なぜなら彼自身がその味で育ち、生きてきたから。
「ほんと家で食べるのが好きな人やった。たまに外食しようと誘っても『家がいい。お茶漬けでもいい』って。出張のたびに私のおにぎりを持参して、新幹線の車掌さんに『先生、またですか』と覚えられてしまうほどでね」
勝さんの思い出話を楽しませてもらいながらも、やはりひっかかる。聞いてみようか。「でも料理は女だけの仕事じゃないですよね」。そしたら信子さん、クスクス。「まあ、時代やったのねえ。主人の母は、主人が自宅の台所で試作料理を作ろうとしただけで『男子厨房(ちゅうぼう)に入るべからず』と怒ったんよ。料理の先生やのにねえ」
亡くなる前年に出版された勝さんの「ほんとうの味 ほんとうの幸せ」(経済界)におもしろい挿話があった。母譲りなのか、「男子厨房に入るべからず」の信念で料理学校に男の生徒を受け入れなかった勝さん、78年に訪中した際、共働き家庭の中国人の男性は当然のように台所に立つ、と知った。そんなこともあって、92年に「男の料理」クラスを開講した。
ある日、生徒からこう打ち明けられる。「先生、料理を習って本当によかった。長く反抗して口も利いてくれなかった娘が、私の手料理を食べて『手伝おうかな』と隣に立ってくれたんですよ」
感動した勝さんは書いている。
<手づくり料理を一緒に食べることによって、家族のコミュニケーションがよくなるということ、これは『男の料理』の生徒さんが例外なくおっしゃることです>
そして、高度成長の時代、忙しすぎる父親が家庭の食卓にいなかったことを指摘し、書いている。
<日本の家庭の食卓が本当に豊かな姿を獲得するのは、これからだと思います。そのためには、忙しくても『家族がいかに協力し、いかに楽しく食事しようか』ということを、大切に考えてほしい>
じゅーじゅー、さっきからお好み焼きがいいにおい。土井家にも「おやじの味」があった。それが、お好み焼きだった。「準備は私。焼いて、等分に切り分けて子供の皿に分けるのがあの人の役目でね。子供は大喜び。食べることより父親とのおしゃべりがうれしかったんやろうねえ。すき焼きやカレーも作ってくれましたよ」
さて、その勝さんが亡くなって十年余。あれから私たちの食卓は本当に豊かになったろうか。
東京・自由が丘のキッチンスタジオに勝さんの二男で料理研究家の善晴さん(49)を訪ねた。「そうですね、父の言った『おふくろの味』は何も凝った料理じゃない。親が当たり前に作った当たり前の料理を子供が食べる。それが大切。だって親の手料理は作ることが愛情で、子どもは食べることで親の愛を受け止めるのですから」
胸にぐっときた。確かに。我が家でも息子が学校からしょげ帰ってきた時には「どうしたの」と聞き出すより、夕飯に好物を出してやったり、一緒に豆のさやをむかせたりする方が元気になる。手料理には不思議な力がある。
食べ物を通して戦後日本を見つめてきた料理記者、岸朝子さん(82)はこう言っておられた。「亡き母に教わったのは『悲しんでる人にはおいしいものを』という言葉でした。料理は人を幸せにするから。今でも私、風邪で寝込んだ日に母が作ってくれたおかゆや煮物の味を忘れない。料理は、命をつなぐ営みなのです」
だから懐かしい家族の思い出はいつも食卓の味によって紡がれる。これを誰より知っていたのが勝さんだったのだろう。
「インスタントラーメンも家族の健康を考え、野菜炒めをのせれば立派な『おふくろの味』」とも語っていた勝さん。何も難しいことではない。ちょっとした心遣い。信子さんの言葉があらためて心に染みた。「あの人が『おふくろの味』という言葉で本当に伝えたかったんは、家族への愛情のこもった手料理が一番尊い、ということやったんと違いますか」
たぶん、この年に書いた記事の中では一番深く心に残っている記事です。茨木のり子さんが亡くなり、さらに宗左近さんが亡くなった時、
「詩人が死んでいく」という一文が頭に浮かび、この喪失感をただ記事に書きたい、と強く思ったのでした。
□掲載年月日 2006年07月27日
□詩人逝く、この喪失感
□茨木のり子さん、宗左近さん
□言葉の力刻み続けたい
詩人が死んでいく。2月には茨木のり子さん(79)、6月には宗左近さん(87)。戦争体験を自分の言葉で書きつづった詩人たちの相次ぐ死に、こみ上げてくるこの喪失感は何なのか。
■根府川の海
長梅雨にぬれた根府川(ねぶかわ)駅(神奈川県小田原市)に降りた。がけの上のホームから見下ろすと、一面に淡く光る太平洋。大ぶりのカンナの花が咲き乱れている。少女時代の茨木さんが車窓から見たのもこの花の色、海の色だったのだろうか。
根府川
東海道の小駅
赤いカンナの咲いている駅
たっぷり栄養のある
大きな花の向うに
いつもまっさおな海がひろがっていた
(「根府川の海」より)
東京から1時間半かけて海を見に来たのは、詩人たちの死に感じた喪失感の正体を自分なりに見極めたかったからだ。
15歳で開戦、19歳で敗戦を迎えた茨木さん。「あふれるような青春をリュックにつめこみ動員令をポケットにゆられていった」時も「燃えさかる東京をあとにネーブルの花の白かったふるさとへたどりつく」時も、車窓からこの海を見た。戦争と隣り合わせの青春。この海にどんな思いを閉じこめたのか。
無人の駅舎には、この詩の額縁が飾られている。今もこの詩に導かれて駅に降り立つ人が絶えないという。がけを下りればそこは平和な海。ダイビングする若者が笑い合っていた。
■ブラウスをまくり
わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた
(「わたしが一番きれいだったとき」より)
中学生の時、茨木さんのこの詩を教科書で読んだ。父はよく戦後の貧困を私に物語った。祖父は戦死、祖母は被爆者手帳を持っていた。でも高度成長期に生まれた身には、戦争はどこか昔話だった。けれども、この詩は不思議と胸に届いた。自身が青春の入り口にいたからだろうか。踏みにじられた季節。それでも「のし歩く」力強さ。これが彼女の詩との出合いだった。
一方、宗さんとは03年暮れに実際にお会いした。千葉県市川市の彼の書斎で江戸川に燃え落ちる夕日を見ながら、戦争の話を聞かせてもらった。
東京大空襲で母を亡くした。助けられなかった。炎に溶けていく母を見つつ、置き去りにして逃げた。67年、詩集「炎(も)える母」を発表。
母よ呪ってください息子であるわたしを
あなたを生きながら焼いたことをではなく
あなたを生きながら焼いたのにもかかわらず
そのことのために生きながら焼かれていないわたしを
(「炎える母」より)
3年前のあの日、宗さんは言った。
「平和憲法の下には戦死者が埋まっている」。
戦死者とは死んだ母や親友たちのことだったろう。その2日後の12月19日、航空自衛隊にイラクへの先遣隊派遣命令が下ったのだった。
■9・11の後だから
死の1週間前、病床の宗さんは回らぬ口で「助ケテクレ。俺(おれ)ハ書キタイ。書キタイ」と叫び続けた。妻、香さん(73)が「宗左近はたくさん書いてきた! 休んでもいいの」と必死で語りかけると、宗さんは静かに眠った。「叫び疲れては眠り、起きてまた叫び。最期まで詩句のような言葉を口にし続けました」と香さん。書き留めた言葉は大学ノート2冊になった。
一方、1人暮らしだった茨木さんは「倚(よ)りかかるとすればそれは椅子の背もたれだけ」と詩に書いた通り、一人で死んでいった。生前に準備してあった「死亡の挨拶(あいさつ)」は死後、遺族の手で知人たちの元に届けられた。
会ったこともない茨木さんや一度会っただけの宗さんの死を悲しむことの独り善がりを自覚してもなお、喪失感が消えない。感受性豊かな若い時代を戦下に過ごし、そこに詩句を積み重ねた詩人たちが今、次々と鬼籍に入っていく。それが心細い。
喪失感の理由はきっと、親から語り継がれた戦争を我が子に語り継ぐ自信がないからだ。この国にいてイラク戦争を自分の言葉で語る自信もないからだ。
2人と親交があった詩人、新川和江さん(77)は「難しいわね」と首を振る。「だって、あなたは日露戦争の話に時代の空気を感じられる?」。……確かに。今の子供たちと太平洋戦争は、私と日露戦争ほども遠い。
在野の哲学者、長谷川宏さん(66)は茨木さんとの共著「思索の淵にて」で「わたしが一番きれいだったとき」を取り上げ「(若い一女性が)とにかく生きたい、生きつづけたい、という強い意志をもちつづけるとき、死と破壊への道を突きすすむ戦争の残虐さがくっきり浮かび上がる」と書いた。これを読み、長谷川さんに電話した。
長谷川さんは優しく言った。「僕は9・11の米国同時多発テロの後だから、この文章を書いたんだ。彼女の詩は世代を超えて伝わっていきますよ。だって今の時代にも戦争は、そしてこの詩は決して遠くなってないでしょう?」
■ばかものよ
新川さんがさらりと言った。「詩人は死んでも作品は消えないの」。虚を突かれた。新聞記者になった時、心に据えた茨木さんの詩がよみがえった。
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
(「自分の感受性くらい」より)
「茨木さんはね、自分を励ますためにこの詩を書いたのよ」
ばかものよ。ばかものよ。心で繰り返したら泣けてきた。
宗さんの一行詩を思った。
「横倒しされた永遠 水平線」
詩の題名は「未来」だったっけ。
言葉に本当に時代を超える力があるのなら――。海の青、カンナの赤い色とともに、何度でもその言葉を胸に刻もう。
□掲載年月日 2006年07月04日
□俳優・寺田農さんのW杯
□たかがサッカー、たかが人生だ
□だからこそ、人はあがき、ベストを尽くさねばならぬ
サッカーのワールドカップ(W杯)ドイツ大会は、いよいよベスト4が出そろった。日本敗退にも「お楽しみはこれから」というのが無類のサッカー好きで知られる俳優、寺田農さん(63)だ。25年間率いてきた草サッカーチームは、その名も「インポッシブル・ドリーム(見果てぬ夢)」。今、寺田さんが語る見果てぬ夢とは……。
■スポーツバーにて
ここは東京・恵比寿のスポーツバー「THE FooTNiK」。サッカー好きのサポーターの根城だ。選手のユニホームや写真が壁を埋め、二つのテレビ画面ではW杯決勝トーナメントの再放送が流れている。
寺田さんが店にやってきた。ピンと立てた短い髪。真っ黒に日焼けした精悍(せいかん)な顔。ジャケットの襟元には舌を出したローリングストーンズの真っ赤なピンバッジが光っている。
何だかいつもとイメージが違う。テレビでは、大企業の重役や弁護士、医者など権威に満ちたインテリや仇(かたき)役を演じることが多い。スーツ姿に黒いアタッシェケースがやたら似合う。ところがこの日は、むしろスポーツマン然として、店内のテレビ画面に目をやり「アルゼンチン―メキシコ戦か。いい試合だったね」などと目を細めるのだ。
■現役「10番」で活躍
実は、無類のサッカー好きである。小学校3年でボールを蹴(け)り始め、高校では先輩とサッカー部を作った。25年前には、俳優業のかたわら「インポッシブル・ドリーム」を始めた。今もフォワードで司令塔の背番号10を背負う。タレントらに加え、元日本代表主将、前田秀樹選手など引退した一流選手もいる本格チームである。
芸能人が中心となってつくった別のチームの一員でもある。「釜本(邦茂)さんのアシストを受けヘディングシュートを決めたのが最高の思い出。かつての名選手、ドイツのリトバルスキーと試合に出たり、オランダのクライフと2トップを組んだこともあるんだ」。入れ込みようは半端じゃない。
「W杯は見られる試合は全部生中継で見ている」という寺田さん。日本の1次リーグ敗退にも「これが日本の実力さ。僕の予想は3戦全敗だったから」と淡々としたものだ。
「良い役者は客が育てる。サッカー選手を育てるのはサポーターだ。日ごろはJリーグを応援しないのにW杯になると大騒ぎし、負けたら『夢をありがとう』だって? 良い試合をするよう選手にプレッシャーをかけるのがサポーターの役目。メディアの大騒ぎも見苦しいよ」と苦言を呈した後、真顔でこう言った。「Jリーグ設立以来、日本サッカーは100年構想なんだ。それこそ見果てぬ夢さ。悔しかったら100年生きればいい。その時には本当に優勝してるかも」
■最期へのこだわり
野球やラグビーと違い、サッカーで人生論を語る人は多くない。だからこそ寺田さんに語ってもらうつもりだった。しかし寺田さん、こちらの意図を見抜いたのか、先制攻撃をかけてきた。
「サッカーを人生に例えるなんて実にくだらないね。たかがサッカーだ。そして、たかが人生だ。オシムさん(J1ジェフ千葉監督)は『サッカーは人生に似ている。ただ人生にはサッカーより大事なことがいっぱいある』と言ったがその通り。サッカーにろくでもないゲームが山ほどあるように、ろくでもない人生も山ほどあるさ」
それからニカッと笑い、こう付け足した。「だからこそ、『たかが』にならないために、人はあがくんだろう?」
「人生はしょせん、なるようにしかならない」が持論だ。でもこの少々投げやりな人生訓には続きがある。「懸命にベストを尽くさないと、なるようにすらならない。たかが人生、死ぬまでの暇つぶし。でも、ありとあらゆる所に好奇心と興味を持って首つっこみ、何事も一所懸命やらないと、人生の暇つぶしなんてできないんだよ」
なるほど。だからこそ俳優業に収まらず、ナレーション、果てには「奥の細道」の朗読CDやアダルトビデオの監督・脚本まで新たな分野に挑み続けてきたのだろう。来年、映画を監督するための準備も進めている。
あなた自身の「見果てぬ夢」は、と尋ねたら、「いい死に方をすること」とすぐに答えが返ってきた。「やりたいことを毎日やって、最期は『まあ、こんなもんかな』なんて言いながら死にたい。これが究極の夢だな」
■フランスの流麗さ
寺田さんはなぜサッカーが好きなのか。「そりゃ、誰にも先が読めないからね。サッカーは統計上はわずか17秒で1点を入れる事が可能なんだそうだ。だからこそ目が離せない」
寺田さんが好きな選手は、フランスで「将軍」と呼ばれたプラティニ選手。「当時のフランスは『シャンパン・サッカー』と呼ばれた。華麗でオシャレなサッカー。流れるようなパス。ジダン選手が絶好調の時のフランスのサッカーも流麗だったね。ブラジルが技術で攻めるのに比べ、フランスは技巧を目立たせない華麗さがあるんだな」
思わず、話に引き込まれた。「流麗なるサッカー」を語る時の寺田さんの表情は、まるで音楽や文学を語る時みたいだ。本当に美しいサッカーは彼にとって芸術なのだろう。「技巧を隠した華麗さ」は、彼の「努力しても苦労は表に出さず、不良を気取る」というライフスタイルにも重なる。
W杯で残る4試合に期待するのは「勝ち負けを超越したサッカー」だ。「芸術的な試合を前にすると、人はもう勝敗などどうでもよくなる。勝敗を超越したところにその国の文化や、民族の資質がにじみ、ああ、サッカーは文化なんだ、と実感できる。残念ながら今回の日本戦ではそんな瞬間は皆無だったけどさ」
だからこそ、W杯は決勝トーナメントこそ目が離せない。寺田さんが注目するのはフランスだ。「ブラジル戦では、流麗なるサッカーをみじんも見せないほど、フランスはなりふり構わなかった。そのひたむきさが、ブラジルの超絶技巧を制した。優勝するかもね」
□掲載年月日 2006年06月07日
□森昌子さん、20年ぶり再デビュー
□今、心から歌いたい
□結婚、育児、離婚を体験し私は強くなった。
森昌子さん(47)が7日、新曲「バラ色の未来」で20年ぶりに「再デビュー」した。結婚、出産、離婚、そして父の死。さまざまな経験を乗り越えた今、かつての「天才少女」は何を歌うのか。
■新人歌手みたいに
レコード会社の会議室で、青いスーツ姿の昌子さんは新人歌手のように背筋をピンと伸ばして言った。「昔の私には『優等生の森昌子』というイメージが重く苦しかった。歌いたいのではなく、ただ歌わされているだけの気がして、歌手をやめたかった。いつも自分探しをしてました」
意外な告白だった。「せんせい」でデビューしたころから歌唱力は抜群。「天才少女」と呼ば