新聞記者でした。「行って、見て、書く」ことを大切に、現場を歩いたり、人と出会うことで、心の中の「?」が、ちょっと背伸びして「!」に変わっていく瞬間を、できるだけ毎日、書いてみたいです。(小国綾子)

記事135◆紅葉の森で選挙を考えた、の記事

この10年くらいで最も悩み、苦しんで取材し、書いた記事の一つ。
大尊敬する上司が、選挙戦の最中に、こうのたまったのだった。
「おぐに。紅葉でも見に行ってこいや。紅葉の森でも歩いて、選挙のことを書いてくれや」

はぁ〜〜?
これほど悩んだ課題もありません。
で、こうなりました。


■掲載年月日 2003年11月07日
■紅葉の森を歩く 森の生命力がただまぶしい−−東京・奥多摩
■自殺、事件、不況…枯れていくかに見えるこの国で


 紅葉は、山から里へと下りてくる。街が色づくまで待ちきれず、一足先に山へ出かけた。選挙カーの騒がしい街を逃れ、登った先は東京・奥多摩の御前山(ごぜんやま)(1405メートル)。そこで紅葉の森と出合った。


 ■水の音、落葉の音

 水の音だ。

 思わず歩調を速める。登山道が沢筋から外れて十数分、木漏れ日の散る広葉樹林帯を縫うように、つづら折りの道を登り切ると、木々の向こうに水音の主が見えた。
 滝だ。
 
 「変化に富んだ森が楽しめ、紅葉が美しい山を」という私の注文に、奥多摩観光協会はこの御前山を選んでくれた。奥多摩駅からバスで約10分の奥多摩湖畔から「奥多摩体験の森」を経て、山頂を目指す。

 標高が1000メートルに近づいたころ、広葉樹林にカラマツが交じり始めた。金茶色の葉が青空によく映える。足を止めると、聞こえるのは鳥の声。それから枯れ葉が落ちる音。風が吹くと、カラマツの金茶色の細い葉が糸を引くように舞い落ちてくる。

 静かだ。1人で歩く森は、怖いほどに静かだ。

 ■選挙カ−

 街はあんなにも騒がしいのに、と思う。総選挙公示日の10月28日、東京に久しぶりの雨が降った。ぬれた街で選挙カーが叫んでいた。「有権者のみなさまの声を聞かせてください」。でも、選挙カーは叫ぶばかりで、通行人の声に耳を傾けているようには見えなかった。

 マニフェスト、政権選択、天下分け目の決戦……。評論家もマスコミもいつになく盛り上がるが、肝心の有権者はどうだろう。前哨戦として注目された同26日の参院埼玉補欠選挙の投票率は27・52%。これも現実だ。

 ■森の秘密

 カラマツの交じる雑木林は、不思議な森だった。普通、カラマツの人工林は、北原白秋も<からまつはさびしかりけり>とうたったように、寂しいほど整然とした美しさが特徴だ。ところが、御前山のカラマツは違う。広葉樹林の中で無秩序に、遠慮がちにポツリ、ポツリと伸びている。自生でもなさそうだ。

 いったい、この森は何?

 「奥多摩体験の森」の山田彰さんが教えてくれた。「森が昔の姿を取り戻しつつあるのです」
 日本の森が、天然の広葉樹林から針葉樹の人工林へと姿を変えたのは、昭和30年代にさかのぼる。空前絶後の木材需要を背景に、広葉樹の天然林は皆伐され、紙パルプの原料に消えた。代わりに、広葉樹より成長が速いスギやヒノキが植えられた。高地や寒冷地では寒さに強いカラマツがもてはやされた。
 供給不足から針葉樹の値段は高騰し、針葉樹の森は「宝の山」と思われた。しかしほどなく木材が輸入自由化され、安い外材が大量になだれ込んだ。収穫期を迎えた「宝の山」は収穫されぬまま放置されたり、伐採後に荒れ果てていった。

 御前山のカラマツもまた、似た経緯から一斉に植えられた。ところが、もともと広葉樹の生育に適した土地だったため、長い年月をかけて森林遷移が進み、皆伐されたはずの広葉樹林がよみがえったのである。

 今、山田さんたちは枯れかけたカラマツを間伐して遷移を早め、広葉樹の森の復活を手助けしている。「何十年かかるか。気の長い仕事です」

 森の秘密が解けた。気の遠くなるような時間をかけて、森が回復しつつあるのだ。

 ■キツネとタヌキ

 山頂で、ようやく登山者と会った。男性4人組で、同じ会社を定年退職した仲間という。選挙談議に誘うと「マニフェスト? 言葉だけ新しくしてもダメだよ。昔から公約はあったんだから」「政権選び選挙と言われてもねえ。キツネとタヌキ、どっちかを選べって言われているようなもんでしょ」。

 キツネとタヌキ。山の上の選挙談議にふさわしい表現に思わずフフフと笑ってしまった。

 ■水の森

 今度は山を下りる。「奥多摩体験の森」が「回復しつつある森」なら、こちらの大ブナ尾根は「回復した森」といえるかもしれない。広葉樹の天然林に風が吹くと、ミズナラやカエデやブナの赤や黄色の葉が何十枚も落ちてくる。落ち葉で足首まで埋まる急坂を、ザボザボと歩く。ホオノキの大きな葉で何度も滑って転ぶが、落ち葉のクッションのおかげで痛くない。

 早朝のJR青梅線の電車で気付いたことがある。車窓から見える森はすべて、スギやヒノキといった針葉樹の人工林だった。黒々とした人工林がゆけども、ゆけども続いていた。ところが奥多摩駅を降り、バスで奥多摩湖を目指し始めたころから、山の色合いが変わった。

 錦模様の美しい落葉広葉樹林が、黒々とした針葉樹林を圧倒し始めたのだ。御前山はまさに、そんな山だ。針葉樹林と広葉樹林のパッチワーク。紅葉の季節には違いがよくわかる。

 なぜ奥多摩湖より奥の山々に、広葉樹の天然林が残されているのだろう。山が深く、植林に適さなかったのも一因だが、最大の理由は「水」だ。

 ■緑のダム

 御前山の大ブナ尾根は、東京都水道局の管理する水道水源林、つまり水のための森だ。
 奥多摩の山は明治維新後、盗伐や焼き畑で荒れた。多摩川の渇水を警告する学者も現れた。これを受けて、東京都(当時は府)は1901年以来、山梨県などから山林を徐々に買い足し、手をかけ、100年かけて水源の森を回復させてきた。
 御前山の大ブナ尾根もその一つだ。歩けば分かる。枯れ葉の下の土はふかふかと柔らかい。スポンジのような土が水をたくわえ「緑のダム」となる。

 いきなり眺望が開け、眼下に小河内ダムと奥多摩湖が見えた。建設後43年を経ても、堆砂(たいさ)率はわずか2・7%。あと1000年は持つ、といわれるダムだ。

 なぜか。

 上流の森が土砂をしっかりとつかんでいるからだ。水道局はこの夏、「多摩川水源森林隊」を本格始動させた。荒れている民有地のスギやヒノキの人工林を、涵養(かんよう)能力の高い生きた森へと再生させるため、ボランティアを募り、植林や間伐を行っている。登録人数は18〜80歳の237人に上る。

 「日本の美林」(岩波新書、井原俊一著)の一節が脳裏にひらめいた。

<里山に美林があるとすれば、丹精こめて育ててきた人がいるからにちがいない。人里離れた奥山に美林が残っていれば、ある時代、誰かが、なんらかの意思をもって保護を図ったからであろう>

 人間は森を壊してきたが、守ってもきたのだ。

 ■ドングリの根

 休憩を取ろうと座り込んだら、あたり一面にドングリが落ちていた。ミズナラだ。青いのも、帽子をつけたのもいる。童心に戻り、拾い集めた。ふと見ると、いくつかのドングリのとがった先が割れ、緑白色のものが見えている。根だ。無造作に転がっているのに、根だけはまっすぐに地面を目指している。

 この実から1本の木が育ち、私の背を追い越すだろう。いつか、大きな森になるのだろう。森の生命力に触れた気がして、持ち帰ろうと集めたドングリを、再び地面に返した。

 自殺率が高止まりし、子供の絡むいやな事件が続く。経済だけでなく人々の心までが枯れてゆくかに見えるこの国で、森の生命力がただ、まぶしい。

 静かなドングリの森で、小さく顔を出した根をいつまでも見つめていた。森に甲高い音が響く。またどこかで、ドングリが落ちた。

記事134◆小泉首相の「改革の芽」を探しに行く、という記事

当時の小泉首相が「改革の芽は出てきたっ!」と余り言うものだから。
うちの上司が突然、こう言った。
「おぐに、おまえ、その『改革の芽』とかいうやつを、探してこいや」。
まったく。私は上司の、こういうセンスが大好きなんである。
ということで、探しに行きました。
芽はどこに出てるのかな?と。


■掲載年月日 2003年10月22日
■小泉首相の言う「改革の芽」はどこに?
■自助努力の「花」は咲いていたが…
■「生産」「雇用」「消費」の現場へ


 小泉純一郎首相の「改革の芽」という言葉が、妙に耳につく。「ようやく改革の芽が出てきた!」と何度も聞かされているうちに、日本経済も、そして自分自身も、芽吹きの春を謳歌(おうか)できそうな気分になってくる。しかし肝心の「芽」はどこにあるのだろう。「改革の芽」を探しに出かけた。


 <改革の痛みに直面しながらも、多くの国民の努力によって、日本再生に向けた改革にようやく芽が出てまいりました。新しい体制の下、構造改革路線を堅持し、改革の芽を大きな木に育ててまいります>

 小泉首相は9月25日、所信表明でこう述べた。「改革の芽」とは何だろう。小泉首相は所信表明の中で、具体的な数字を挙げて説明している。

 <倒産件数は前年同月比で12カ月連続減少している>
 <経済成長はこの1年半連続で実質プラスになった>
 <主要銀行の不良債権残高は03年3月期で前年同期に比べ24%減少した>
 <3年間で約200万人の雇用が創出されたと見込まれる>

 とどのつまり景気が少しは上向いてきたってことだ。「生産」「雇用」「消費」の三つの現場には、どんな「芽」が出ているのだろう。

 ●創意工夫の結果

 東京都大田区の工場地帯。政治家もマスコミも、不況下にある日本の「ものづくり」の現場を知りたい時、ここにやってくる。小泉首相とて例外ではない。
 昨年4月、小泉首相はここで二つの企業を見学した。そのうちの一つが、京浜島にある金属部品メーカー、北嶋絞製作所だ。従業員わずか23人だが「機械に勝る職人技」で花瓶からH2ロケットの部品まで作っている。小泉首相をして「私も元気が出てきた。日本の潜在力は大きい。自信を持つべきだ」と言わしめた製作所なのである。

 専務の北嶋實さん(58)は「今回の不況はオイルショックより長く、苦しい。それでも今年の売り上げは去年よりいい。新しい仕事も途切れず入るようになった」という。早くも「改革の芽」が見つかった!と早合点したが、北嶋さんはこう続ける。「しかし、構造改革の成果、という実感はありませんね。我々下請けの下請けに景気変化の影響が届くのはだいぶ先の話です」。売り上げ上昇の理由は、技術力を積極的にアピールした結果だという。

 政治への期待を尋ねると、北嶋さんは「なんにも」と笑った。事務所には、見学に来た小泉首相のサインや写真が飾ってある。「私たちは自分の責任で会社をやっている。小泉さんもご自身の信念を貫かれるのがいい。頑張ってるのは立派ですよ。結果はともかくね」

 大田区産業振興課の川上立雄係長は「春に比べると、明かりが見えてきた。『仕事が戻ってきた』『銀行が貸してくれるようになった』という声も複数の工場主さんから聞いています」と語る。しかし、これも「改革の芽」とは言い切れないようだ。
 「主に企業の創意工夫の結果でしょう。小さい工場主たちは政治の恩恵より、『痛み』を受ける方が多かったのです」。小泉内閣発足後、銀行が不良債権処理にあせって一斉に債権回収に走った。その結果、区内の多くの工場が借金返済を迫られ、打撃を受けた記憶は今も生々しい。

 結局、ここ、ものづくりの現場で見つかったのは「改革の芽」ではなく、自助努力で咲かせた「花」だった。

 ●1カ月1万人

 次は「雇用」の現場。渋谷の繁華街にある「ヤングハローワークしぶや・しごと館」は、30歳未満の若者が対象だ。いつも込んでいて、コンピューター端末や相談窓口はほぼ満員。順番待ちの人もいる。
 利用者は1カ月約1万人。24〜25歳が多い。フリーターもいるが無職の人が3分の2を占める。改革が生んだという<200万人の雇用>は、ここにどんな「芽」を出したのか。

 前田徳英・職業相談部長は「現場レベルでは変化ないですねえ」という。確かにサービス産業の求人は少し伸びる傾向にあるものの、情報処理やIT(情報技術)など高度な技術を求める求人が多く、未熟練な若者の受け皿にはならないのだ。

 元システムエンジニアの男性(27)は「政治への期待? 『未経験者優遇』の仕事を増やしてほしい」。先行きの不安感から転職先を探しているベンチャー企業の男性社員(24)も「政治に期待する余裕すらない。改革の成果が出ても僕には間に合わない」とそっけない。雇用以外にも漠とした不安を口にする若者が多い。例えば年金。今と同じように年金をもらえる老後など、誰も信じていない。

 前田部長は言う。「今の若者は働く気がない、という。しかし就職に苦労しなかったバブル時代の若者は、今の若者より目的意識が明確でしたか? 働く気がないんじゃない。働く場がないんです」。若者たちの目に、「芽」はまだ映らない。

 ●育てた「芽」

 最後は「消費」の現場だ。東京都江東区のイトーヨーカドー木場店は夕方、買い物客でいっぱいになる。休憩スペースのテレビが国会中継を放映していた。熱心にテレビを見ていた男性(74)に尋ねた。改革の芽、実感しますか?

 男性は「改革で暮らしぶりが変わったという実感はないが」と前置きした後、構造改革への期待を延々と語った。「評論家は改革より経済の立て直しが先だというがね。ここまで来たら改革だ。痛みは覚悟する」
 別の女性(84)は「小泉さんのお陰で暮らしが良くなったわけじゃないけど生活できないほどではないしねえ」と大きな買い物袋を揺らす。「改革の芽」が見えますか、と尋ねると、「難しいことはわからないけど、はっきりものを言う小泉さんを支持します」と答えが返ってきた。

 どうやら年配者の間での小泉人気は予想以上に高い。「なんだかんだ言っても、年金制度は崩れない」と誰もが口をそろえる点も、ハローワークの若者とはあまりに対照的だ。

 今度は赤ちゃん連れの30代のお母さんグループに聞いた。主婦たちの小泉評は結構辛口だ。「閣僚人事で人目を引くのは上手。でも“2期目”は具体的な成果を出してほしい。主婦レベルでは改革の成果をちっとも実感できません」「年金の保険料もできれば払いたくないわ」「医療費の負担も増えたしね」

 それでも最後は小泉首相を擁護する。「小泉さんが悪いんじゃない。小泉さんでも変えられない、ってことでしょう?」

 意外だったのは、誰もが「改革の芽」という言葉を知っていたことだ。一人くらい「改革の芽って何?」という人がいるかと予想していたのだが。そして、多くの人が改革への期待を口にした。「変えてほしい」と。もしかしたら、小泉政権が2年半かけて育てた「芽」はこれだったのではないか。

 ●改革の着地点

 そして今、日本初の「マニフェスト選挙」が間近に迫る。「改革に期待する」と人々はいうが、望んでいる改革の着地点は世代や立場で大きく違う。高齢者と若者。職を持つ者と持たぬ者。勝ち組と負け組……。
 与党にしても野党にしてもいつかきっと見えるだろう「芽」をどんな木に育てるのか。それを見極めるためにも、今回は各党のマニフェストをじっくり読んで、投票に行こう。


 ◇株価・失業率・消費動向、政権前の方がよい数値も
 いくつかの経済指標を、小泉政権誕生当時と現在で比べてみた。株価は今年4月を底に大幅に改善したが、政権誕生時と比べればなお安い。完全失業率(季節調整値)は2年ぶりに5・1%の水準まで下がったが、政権誕生の前はずっと4%台だった。個人消費動向を示す小売業販売額は政権誕生前の01年3月に前年同月比1・7%でプラスを記録したが、小泉政権下では連続29カ月間マイナスだ。一方、企業倒産件数(帝国データバンク調べ)は若干減った。日銀の企業短期経済観測調査(短観)でも企業の景況感を示す業況判断指数(DI)が大企業・製造業で2年9カ月ぶりにプラスに転じた。
……………………………………………………………
 ◇経済指標で政権誕生時と現在を比較
            政権誕生時(01年)     現在
日経平均株価(終値)  13827円(4月26日)  11031円(21日)
完全失業率(季節調整値)  4.8%(4月)     5.1%(8月)
小売業販売額(×10億円)11422(4月)     10536(4月)
企業倒産件数       1631件(4月)     1238件(9月)
大企業・製造業のDI  ▼16%(4〜6月)      1%(7〜9月)
 ※季節で変動する小売業販売額は4月で比較。DIは日銀短観

記事133◆糸井重里さんと東京流行展へ行く、の記事

実は、毎日新聞社主催の展覧会のPRも兼ねた記事。
でも、何がうれしいって、憧れの糸井さんに会えたこと。
「いい気になろうぜ」という彼のメッセージは、今も心に残っています。貴重な助言だったと感じています。


■掲載年月日 2003年10月03日
■コピーライター・糸井重里さんと東京流行生活展を見に行く
■「日本人は昔、もっと自由だった」
■「この展覧会はまるで僕らのルーツ探しみたいだ。僕らがどこから来て、どこへ行くのか教えてくれる」


 江戸東京博物館(東京都墨田区)で開かれている「東京流行生活展」(毎日新聞社など主催)を、コピーライターの糸井重里さん(54)と見に行った。東京の歴史を振り返る小難しい展覧会かと思っていたら、これが意外にも「自分のルーツ探し」みたいな不思議な展覧会だったのである。

 ★牛乳を飲む男たち

 展覧会には普通、主役がいる。国宝だったり、重要文化財だったり。しかし、この展覧会は違った。主役は流行当時はもてはやされ、その後捨てられたりしたモノたちである。
 明治時代の「牛乳」の流行を伝える一角には、ガラス製ばかりではなく、ブリキ製の古い牛乳瓶もガラスケースに収められていた。正体を知らない人には、ただの「燃えないゴミ」にさえ見える。もちろん100年前には何度もリサイクルされたのだろうけど。

 この展覧会は、明治・大正・昭和から今にいたる135年間に東京で流行したものを展示している。20〜30代の学芸員3人が、明治の食べ物、大正のファッション、昭和の大量消費時代に特にこだわって展示した。

 「明治時代の牛乳は薬や滋養強壮剤といった存在だったんですよ」と同行してくれた学芸員の田中裕二さん(28)が教えてくれた。確かに瓶のサイズは、栄養ドリンク並みの小ささだ。
 壁に、牛乳を飲みながら新聞を読む男たちが描かれた絵もあった。当時はまだ喫茶店もカフェもなく、牛乳を出す「ミルクホール」が唯一の社交場だったそうな。大の男が口の周りを真っ白にさせて新聞を読んでいたというのだから、ほほ笑ましい。

 ★「いい気になる」

 さて、ミルクホールの次に流行したのが、西洋料理屋だ。
 明治末期に「カフェ」が登場するまでの間、作家や芸術家たちの文化サロンの舞台は料理屋だったのだ。パリにあるセーヌ川沿いのカフェに見立てて、隅田川沿いの西洋料理屋に集った北原白秋、高村光太郎らの「パンの会」。「パン」はギリシャ神話で出てくる“享楽”の神の名だそうだ。1900年に六本木あたりに開かれたフランス料理屋「龍土軒」には、国木田独歩や蒲原有明、柳田国男らが「龍土会」を名乗り、集った。
 展示されているのは、彼らの寄せ書きだ。有名な文学者の自筆なのに、なぜかちっとも崇高に見えない。下手な漫画の隣に「崇拝女学生」なんて書き付けてある。これはもしや、酔っ払いの落書きではあるまいか。

 そんな時、糸井さんがうれしそうに言った。「うわあ、いい気になってるなあ!」
 いい気――。広辞苑によると「一人得意になりうぬぼれている気持ち」という意味。普通は否定的に使う言葉だ。糸井さんの意図を測りかねていたら、説明してくれた。「日本のほとんどが農村だった時代に、東京で西洋料理食べて、好き勝手なこと話していたわけでしょ。すごく『いい気』になった人たちだよ。でも、だからこそ、後世に残る良いものを創(つく)り出すことができたのではないかなあ」

 ★「趣味がいい」

 次に糸井さんが「いい気になってる!」と大喜びしたのは、大正・昭和に爆発的な人気を得た「銘仙」という絹織物だ。洋風テーストを取り入れたことでモダンガールに大受けし、約10年に1億反以上が生産販売されたという。
 約40センチ四方の布地見本が26枚も展示されている。派手な色。模様も、水玉にタチバナの実あり、格子模様にバラあり、流れ星あり。西洋を取り入れた結果だろうが、斬新というよりキテレツ。中には海外でインテリアに使われていたデザインも交じっていて、当時でさえ「敷物やカーテンが歩いているようだ」と竹久夢二に揶揄(やゆ)されたという代物だ。

 ところが糸井さんはいたく感動している。「西洋の模様を知り尽くした現代の日本人にはもう絶対に作れない模様だよね。きっと、いきなり西洋のデザインを見せられたデザイナーが、『もうオレ、わけ分かんないよ』と言いながら好きに描いたんだよ。まるで岡本太郎みたいだ」と。

 「趣味悪い! こんなの着たくない」と内心思っていた私は、次の糸井さんの一言にドキリとする。「いつからだろう。僕らが『趣味がいい』って価値観に縛られ、好きなものが見えなくなったのは。なんだかクリエーティブな気分になってきたよ」

 ★今和次郎のノート

 糸井さんに言われ、あらためて見渡すと、展覧会は確かに「いい気」になった人や「いい趣味」という価値観から自由なモノに満ちていた。例えば、考古学ならぬ「考現学」を提唱した学者、今和次郎。会場には、彼のフィールドノートやスケッチが多く展示されていた。
 早稲田の学生や築地小劇場の劇団員らを動員し銀座のファッションを調査した調査票には、げたが何人、靴が何人、外套(がいとう)が何人、和服が何人という具合に、イラスト入りで細かく記入されている。「KON」の英文字サインの入る本人自筆の調査票は、彼ら彼女らのよりさらに詳しい。さすがは、昼寝のポーズから犬小屋や着物の帯の締め方にいたるまで調べたユニークな人物だけある。

 「モダンガールの丸ビル散歩コース」なんてメモもある。一人の女性が丸ビルで移動した足跡を記録している。「一寸(ちょっと)トイレに入る」「事務所ばかりで失望」など詳細なメモ付きだ。「ストーカーみたい」と中年女性の観客がぼそっとつぶやく。

 今和次郎は当時、変人扱いされたかもしれない。しかし、時代を動かし、あるいは記録したのは、他人の目を気にせず、好きなことを追求した人たちだったのだ。「今の世は小姑(こじゅうと)文化。誰もが見る側に回って好き勝手に批評する。『いい気になる』ためには、自分が見られる側に立つ決意と責任も必要なんだよね」と糸井さんは言った。

 ★そして大量消費時代

 「ぜいたくは敵」と言われた戦争時代の展示を抜けると、今度は大量消費時代の幕開けだ。70年代にもなると、懐かしいモノが次々に登場する。糸井さんがコピーライターとして活躍を始めたころだ。60〜70年代にやたら売れた花柄の魔法瓶や炊飯器。そういえばあのころ、台所は花柄だらけだった。「趣味が良い」なんて価値観そっちのけで、誰もが花柄を選んだのだ。

 お次は世界初のパーソナル電卓「カシオミニ」。思わず、演歌調で口ずさむ。「こたーえいっぱつ カシオーミニ……」。隣には、電卓とそろばんをドッキングさせた製品もあった。そろばん派にも電卓を使ってもらおう、と考案されたらしいが、ほとんど無意味な商品だ。「当時、これを見て『絶対に歴史に残る商品だ』と思ったよ。『あったよな、これ』って思い出すだろう、って」と糸井さん。予感は当たったわけだ。

 ★ぶら下がり健康器

 そして最後の部屋。展示されていたのは、ぶら下がり健康器だった。隣にはランニングマシンも並ぶ。20年前、健康ブームが日本に押し寄せ、世にあふれた品々だ。「あったわ、うちにも」と隣の客が恥ずかしそうに笑っている。
 「見つけるの、意外に大変だったんです。どの家庭でもとっくに粗大ゴミに出していたので」と田中さんが教えてくれた。
 それにしても変な展覧会だ。展示の最後を飾るのが、家庭の粗大ゴミだなんて。

 「こんなの、なぜ流行したんだろう」。ぶら下がり健康器を笑っていた私は、しかし突然気付いた。笑っている私はもう「小姑文化」に毒されているのかも。「趣味が悪い」と言われないよう無難な色や形を選び、「いい気」になることを忘れているのかも。急に、ぶら下がり健康器を笑えなくなった。

 糸井さんが「この展覧会はまるで僕らのルーツ探しみたいだ。僕らがどこから来て、どこへ行くのかを教えてくれる」と感想を語ってくれた。「展覧会を一言で言い表して」と頼むと、こんな答えが返ってきた。「日本人は昔、もっと自由だった」

 勇気のわいてくるコピーだ。これからも私たちはきっと、未来の人が見れば「なんだ、これ?」と思うような奇妙なモノをいっぱい買って、愛して、時には自分で作って、暮らしていくだろう。「いい気になろうぜ」。糸井さんの言葉が一日中、頭の中に響いていた。

   ◇  ◇  ◇

 「東京流行生活展」は11月16日まで。月曜日休館(月曜が祝日、振り替え休日の場合は翌日が休館)。一般1100円。問い合わせは03・3626・9974の同館。「図説 東京流行生活」(河出書房新社)は1800円(税別)。

記事132◆やっぱり女は元気だ、という記事(レジャー白書より)

■掲載年月日 2003年09月03日
■シニア女性の元気ぶり 「女性は強く、自由時間も一番」
■「レジャー白書」も浮き彫りに
−−温泉施設/フィットネスクラブ……


 シニア女性が元気だ。温泉でも、山でも、観光地でも、目立つのはいつも彼女たち。事実、社会経済生産性本部(東京都渋谷区)がこの夏まとめた「レジャー白書2003」でも、シニア女性がレジャー産業をけん引する実態が浮き彫りになる。レジャーを謳歌(おうか)するシニア女性たちの姿を、白書の中に追った。

 ◆ミ・ボ・ウ・ジ・ン!

 《注目されるのは「温浴施設」である。参加率が40・8%と非常に高く、中でも50代女性では49・4%、つまり2人に1人が参加している》

 レジャー白書は、最近注目されるようになった「ウオーキング」「携帯電話でのやりとり」「ペット」など24種目の余暇活動について、参加率(過去1年間に1度でもその活動をやったことがある割合)を調べている。この中で最も参加率が高いのが「温浴施設」だ。
 白書創刊時の77年には、独立した調査項目にすらなっていなかった「温浴施設」が、このところ大変な人気だ。人気の担い手は、主に中年女性やシニア女性である。

 今年、東京都心に温泉施設が次々とオープンした。「大江戸温泉物語」(台場)を代表格に、ほとんどの施設は中高年女性客でいっぱいである。唯一、若い女性客にターゲットを絞ったのが、東京ドームシティ(文京区)の「スパ ラクーア」だ。

 8月下旬の平日、あえてこの「ラクーア」に出かけてみた。ここでもシニア女性がかっ歩しているのか、知りたかったからだ。
 「ラクーア」は、若い女性を満足させる工夫に満ちている。着替え用のウエアも若者向けのデザインだし、エステや化粧品サービスも充実している。館内のショップも明らかに若者や働く女性向けだ。
 しかし、やはりシニア女性はここにもいた。数は3分の1程度だが、若い女性に交じって物おじすることもなく、サウナでうたた寝し、足湯でおしゃべりに興じている。「もう3回目」というご近所さんや、朝から夕方までのんびり過ごすというグループもいる。

 シニア女性4人組に声をかけた。近所の町会仲間だという。「温泉大好き。この前信州に行ってきたばかり」「出かけるのはいつも女友達か姉妹と」
 思わず「ご主人とは?」と尋ねたら、一瞬の沈黙の後、4人は顔を見合わせ、噴きだした。

「いないのよ。私たち全員、ミ・ボ・ウ・ジ・ン!」「だからこんなに気楽なの」
「永六輔さんが言っていたけど、女性は夫を亡くすと5年若返る。男は妻を亡くすと10年老け込むんだって。本当よね」

 4人のレジャー熱は温泉にとどまらない。レクリエーションダンスを踊り、デパートで買い物をし、時にはボランティアまで楽しんでいるという。
 あっぱれ、である。

 ◆次は第九

 《最近増えている客層として、全体では第1位に「高齢の女性」が挙げられている》

 白書では、17種類の余暇関連サービス業に対して、客層の増減について聞いている。「現在の主要な客層」では「家族客」が35・0%で1位だが、「最近増えている客層」を見ると「高年齢の女性」(28・9%)がトップに躍り出る。「主婦」(20・5%)も高い。
 一方、男性では「高年齢の男性」(28・3%)が上位に食い込むものの、「中年男性」(10・1%)と「独身サラリーマン」(8・0%)の元気のなさが際立つ。

 シニア女性が増えていると答えた業界の第1位は、「フィットネスクラブ」(69・5%)だ。なるほど、レジャーを楽しむには、まず健康、というわけである。実際、フィットネスクラブ業界のシニア女性への期待度は高い。「今後力を入れる客層」を複数回答で尋ねたところ、「高年齢の女性」がトップ。フィットネス関連事業所の実に62・0%が「高年齢の女性」を挙げているのだ。

 そこで、東京都千代田区のYWCAフィットネスワオを訪ねた。女性専用ゆえ、シニア女性にも人気が高い。会員約1000人のうち、60歳以上が34%を占める。70歳以上も14%いる。無理なく運動できる水泳や水中運動に人気が集まる。プールでは色とりどりの水着姿の女性たちが健康作りに余念がない。

 「大正生まれよ」と笑う白髪の女性(78)は、3年前から通い始めた。初めて泳げるようになった日の感動は今も忘れられないという。「毎年の老人健診でも悪いところは全然ない。薬知らずです。水泳も楽しいし、ここで知り合った女友達と旅行するのも楽しい」。今年は新たに合唱団にも入った。「年末に第九(ベートーベン交響曲第九番)を歌うのが目標。人生、常に挑戦しなくてはね」
 別の女性(60)は、健康診断で高コレステロールを指摘され、運動を始めた。「ほかに刺し子、織物、ピアノをやってます。ここに来る女性は積極的で、たいてい別に習い事をしているから、お互いの発表会なんかに誘い合って行くのよ」という。
 夫はまだ現役の勤め人。「最近は夫を映画やお芝居に誘うようにしています。『老後が寂しいわよ。定年後、一人で留守番できないでしょう』って声をかけると、私に付いてくる」とか。しかし、行った先の劇場や映画館で、夫は思わず「どうして女ばっかりなんだ?」と絶句したそうである。

 経済評論家の竹内宏氏は、シニア女性のレジャー需要はまだまだ伸びると見る。「問題は、サービスを供給する側がシニア層のマーケティングを軽んじていること。若者向けの施設には中高年は入りにくいが、若者は中高年を意識した施設への抵抗感が少ない。中高年やシニアを意識したレジャー施設は、結果的に広い世代を集められる」と指摘する。
 また、有名な観光地、山梨県・清里を例に挙げ、「清里は最近、『若者の街』から脱却を図り、中高年・シニア向けの施設を充実させることで、客を呼び戻すことに成功した好例だ」と説明する。

 ◆男は「静」、女は「動」

 《男性の特徴としては「パソコン」(ゲーム、趣味、通信など)が女性を大きく上回っている》

 《「宝くじ」「ビデオ観賞」「スポーツ観戦」「バー、スナック、パブ、飲み屋」も男性の参加希望率が高い》

 《一方、女性では「国内観光旅行」や「外食」などへの参加希望率が男性を10ポイント近く上回る》

 《「音楽会・コンサートなど」「水泳(プールでの)」も例年通り女性の参加希望率が高い》


 91種目の余暇活動について、将来やってみたいかどうかを尋ねた「参加希望率」調査では、男女差がくっきり出た。レジャー志向が男性は「静」、女性は「動」といえる。外出したり、身体を動かしたりするアクティブなレジャーを希望するのは、女性の方が多いのだ。

 レジャー産業論が専門の山田紘祥・文教大国際学部教授は、シニア女性がレジャーをけん引する背景には、当然「女性の自立」があると指摘する。「経済的にも社会的にも女性は強くなった。自由時間にも一番恵まれています」という。
 一方で、「働き盛りの男性や若者など、これまでレジャーの担い手だった層に元気がない。働く男たちは不況でレジャーどころではないし、若者は生まれながらにケチケチ世代。現在の高齢男性はレジャーの素養や経験に乏しい」。なるほど、他に元気がないから、シニア女性ばかりが目立つのだ。

 山田教授は今後のレジャー需要について、こう予測する。
 「シニア女性の潜在的願望のキーワードは『健康』『学習』『ボランティア』。癒やしに加え、社会的な交流を通じた自己実現も求めているのです。温浴施設やペット産業に加え、テーマ型の旅行などの需要もさらに高まるでしょう」
 つまり、どこへ行ってもシニア女性客ばかりが目立つ現状は今後さらに加速する、というわけだ。では最後に、「ますます肩身が狭くなる」という男性陣に耳よりな情報を一つ。
 今、男風呂は、女風呂よりずっとすいていて狙い目です。出かけてみては?


記事131◆京塚昌子さん 「肝っ玉母さん」 をしのぶ記事

2003年の夏の連載企画の一本。
亡くなった誰かを、今だから偲ぶ、という記事です。

■掲載年月日 2003年08月07日
■2003年夏・あの人に会いたい
■女優・京塚昌子さん
◇94年9月23日死去、享年64歳
◇今も生きていたら、迷える親たちに何というだろう
◇「今の世にこそ肝っ玉母さんのドラマが必要なのにねえ」


 ●台場一丁目商店街

 新橋駅から「ゆりかもめ」に揺られ、お台場に向かう。コンピューターが運転する乗り物からは、汐留の高層ビル街やレインボーブリッジが一望できる。
 大ヒット中の映画「踊る大捜査線」2作目の舞台でもある21世紀の街に、なぜか「台場一丁目商店街」はあった。昭和30年代の街並みを再現したという商店街に、駄菓子屋や銭湯、古いホーロー製の看板やダルマ型の郵便ポストが並ぶ。

 しょせんまがい物、薄っぺらなレトロブーム、と内心反発しながらも、再現された古い民家の縁側には心が和む。縁側の奥にはお茶の間があり、ちゃぶ台や白黒テレビが並んでいる。
 あの人はこういう空間に生きていたのだ、とふと思った。

 ●白い割烹着

 あの人、とは「肝っ玉母さん」のこと。9年前に亡くなった女優、京塚昌子さんが主に昭和30〜40年代、ホームドラマで演じ続けた役柄だ。白い割烹着(かっぽうぎ)にふくよかな体。泣く時も笑う時も豪快で、子供にはいつも体当たり。情にもろいが、いざとなるとデンと構え動じない。

 長崎市の男児誘拐殺人事件や東京・渋谷の4女児監禁事件があったからだろうか。親が動揺し、不安がる。あの「肝っ玉母さん」が今も生きていたら、迷える親たちに何というだろう。

 ●遠い記憶

 TBSのドラマ「肝っ玉母さん」は1968年に始まった。夫に先立たれ、女手一つで東京下町のそば屋を切り盛りする50代の大正五三子(いさこ)役を、当時38歳の京塚さんが演じた。そそっかしくてお人よしの母親が長男長女と織りなす親子愛や、長男の嫁との嫁しゅうとめ問題など、家族の機微を描いた。
 ドラマの中の母親といえば山の手の良妻賢母と決まっていた時代に、「庶民派の頼もしい母」という新しい母親像を生んだ。平均28%という高視聴率の結果、次シリーズが次々作られ、72年まで続いた。

 京塚さんの素顔も、おおらかで温かかったようだ。68年9月15日号の「サンデー毎日」には「現在のあだ名は“かあさん”。そう呼ばれると誰にでも『はいよ』と気安く返事する」とある。また記者に「肝っ玉は大きい方?」と問われ、「自分じゃそんなに小さいほうじゃないって思ってます。でも太っているわりには神経質なんですよ」とちゃめっ気たっぷりに答えている。
 しかし、私にとっての「肝っ玉母さん」の決定版はドラマ「ありがとう」4部(74年)の方だ。山岡久乃さんと水前寺清子さんが母娘を演じた1〜3部の後、4部に京塚さんがカレー屋のおかみで登場した。情感豊かで肝っ玉のある母さんぶりは、番組名こそ違うものの「肝っ玉母さん」そのものだった。

 ●1本のビデオ

 台場に来る前、1本の古いビデオテープを見た。「ありがとう」4部の第1話のテープで番組制作会社が貸してくれた。4部の第1話は母娘の親子げんかで始まる。「およし!」「そっちこそおよしよ」と母娘が言い争った揚げ句、母親役の京塚さんが振り回したフライパンが仲裁に入った人の頭にパコーン。
 ちゃぶ台に魔法瓶。野菜カレーは150円。割烹着で買い物する奥さん。「あいすみません」と電話の相手に頭を下げるおやじさん。他人の娘に遠慮なく「おやめ!」と怒鳴るご近所さん。子が親に口答えする時の決まり文句は「やなこったい」。

 ビデオを見て台場一丁目商店街を思い出した。よく似ていると思った。台場にやってきたのはそんなわけだった。

 「懐かしい」「超かわいい」。はしゃいだ声に振り向けば、若者たちが映画のセットのような民家の縁側で記念撮影している。生まれてなかったはずの彼らが、なぜ作り物の「昭和30年代」を懐かしがるのだろう。

 台場の喧騒(けんそう)の中で思った。作り物でなく、本物の「昭和40年代」に行ければ、大勢の肝っ玉母さんに会えるだろうに。

 ●消えた「肝っ玉」

 しかし、その思いこみは間違っていたのだった。「昭和40年代の肝っ玉母さんに会いたい」という私に、「肝っ玉母さん」や「ありがとう」など数多くのホームドラマを手がけた名プロデューサー、石井ふく子さん(76)はこう言った。
 「昭和40年代はもう、そんな時代じゃなかったのよ。高度成長期で誰もが豊かさを求め、一方でモラルを失いつつあった。人間は小さくまとまっちゃって『肝っ玉』がない人も多かった。だからこそ、あの番組を作った。『肝っ玉母さん』は当時でもすでに、みんなのあこがれの存在だったのよ」

 知らなかった。私はこっそりとため息をつく。
 「京塚ママには生きていてほしかった。親がでんと構えていれば子供は安心できる。子供には遠慮せず、身体でぶつかっていかなきゃ。あのころもそうだったけど、今の世にこそ、肝っ玉母さんのドラマが必要なのにねえ」。自分より年下の京塚さんを今も「ママ」と呼ぶ石井さんは何度も何度もそう言った。

 ●長男の心

 黒々とした太い柱が屋根を支えている。「みごとですね」と驚く私に、この家の主、俳優の山口崇さん(66)は「故郷の淡路島の松の木です」と教えてくれた。郷里の松林が松食い虫にやられる前に良い木を選んで切り出したという。「この松のせいでこの家を引っ越せません」。苦笑しながらも、山口さんは東京都世田谷区の自宅で、故郷から来た柱を優しくなでた。

 山口さんは「肝っ玉母さん」の長男役だった。母親思いでまじめだが少々頼りない、そんな役柄だった。「京塚のママが演じた母親は、息子に頼る時はどっぷりと溺愛(できあい)し、しかる時には涙を流し身体を震わせる、そんな人だった」。山口さんは一瞬、淡路島に一人暮らす自身の母(87)を語る時の顔になる。

 「どうも自分の母親と重ねてしまいます。似ているんです。戦争で夫を亡くし、寡婦だったのも同じです。母は、子供の目から見ても、むちゃだったりこっけいだったりしたけど、すごい信念で自分のモラルを貫き通した女性でした」

 山口さんは「肝っ玉母さん」という存在自体が当時すでに「虚構」だったという。「虚構の存在にリアリティーを吹き込んだ京塚ママの演技力はすごかった」。思わず尋ねた。「虚構? 『肝っ玉母さん』は神話でしかないのでしょうか」

 山口さんの穏やかな目が笑う。「白い割烹着はもう神話だとしてもね。神話は形を変えながら復活するものです。地球と月の間をロケットが往復する時代になったって母を慕う子の気持ちは永遠でしょう。だから今の世にだって姿形を変えた『肝っ玉母さん』はいるんじゃないかなあ。僕は信じてますよ」

 ●「母」という字

 山口さん宅からの帰り道、サトウハチローさんの「母という字を書いてごらんなさい」という詩を思い出した。京塚さんが生前、愛した詩だという。
 
母という字を書いてごらんなさい
やさしいように見えて むづかしい字です
恰好(かっこう)のとれない字です
やせすぎたり 太りすぎたり ゆがんだり
泣きくづれたり……笑ってしまったり
お母さんにはないしょですが ほんとうです
 

 私は「肝っ玉母さん」に会いたい、という以上に、一人の母親として自分もそうなりたかったのかもしれない。ノートの片隅に「母」という字を書いてみた。その字はどうにも不格好で、それが妙に気恥ずかしくて、何だか笑ってしまった。

記事130◆限りなく「子育て」に近づくペット事情、という記事

■掲載年月日 2003年07月10日
■公園デビュー/チャイドル/過保護
■ペットの擬人化はいけないのか
◇「犬の聖地」東京・駒沢公園で考えたこと


 ペットは家族。子供と同じ、と飼い主たちはいう。だからだろうか。公園デビュー、チャイドル、過保護、小児肥満……。育児の世界に見られる社会現象が今、次々とペットの世界に飛び火している。一方、その反動のように「ペットを擬人化せず、ちゃんとしつけよう」という声も強まってきた。人はなぜペットを擬人化するのか。擬人化は本当にいけないのか。多種多様の犬と飼い主たちが集まる「犬の聖地」、東京・駒沢公園で考えた。

 ■珍種は「雑種」

 今回は知人のイラストレーター、松尾たいこさんと飼い犬の「いくら君」(ケアーンテリア、生後5カ月)に協力を頼んだ。駒沢公園を取材する時、犬がいないのは少々心細い。
 駒沢公園周辺は犬連れの天国だ。多くのレストランは犬連れOK。写真屋さんはペット撮影をうたう。犬連れでなければ入りづらい場所だってある。公園内のドッグランがそうだ。ここで犬を連れていないと「何をしに来たの?」と飼い主たちから不審の目を向けられる。

 ドッグランとは、飼い犬のリード(ひも)をはずして、犬に自由に運動をさせたり、犬同士で遊ばせたりできる場所のことだ。駒沢公園には、東京都が昨年末、半年間の期限付きで実験的に設置した。リードを外して犬を遊ばせたい飼い主と、他の場所でリードを外されたくない犬嫌いの公園利用者の両方から歓迎され、6月、設置期間の延長も決まった。今では横浜市や川崎市など遠方からも飼い主たちがやってくる。

 この日、さくと二重扉に囲まれた1200平方メートルのドッグランには、飼い主十数人と犬約20匹がいた。「日曜日は犬と人間で芋洗い状態なんだけど」とたいこさん。平日は、ご近所の主婦や若者カップルが主流だ。

 走り回る犬は、チワワ、ウェルシュコーギー、トイプードルなど多種多様だが、いずれも値段の高そうな犬ばかり。ここ駒沢で一番の珍種は、間違いなく「雑種」である。飼い主の方はたいていシンプルなボーダーTシャツにチノパンが多い。カジュアルにして、おしゃれ。スウェットの上下にせった履き、なんて人は皆無だ。

 さすがは駒沢である。

 ■育児中の母親とそっくり

 ドッグランは、赤ちゃん連れの母親が集う公園の風景にとても似ている。雑誌があおった「公園デビュー」のような厄介な人間関係は、さすがに駒沢では見られなかったが、初対面の飼い主同士の会話はまさに育児中の母親同士とそっくりだ。

 「何カ月ですか?」
 「2カ月」
 「うちもそのころは本当に大変だったわ」
 「うちの子はすごくヤンチャで」
 「分かるわあ。まだまだこれからよ」

 これはコーギーの飼い主が初対面で交わした会話。同じ犬種を飼う者ほど会話を交わすのも、月齢の近い赤ちゃんの親同士で会話が弾むのと同じだ。「うちの子」という表現は当たり前。女性の飼い主を「ママ」、男性の飼い主を「パパ」と呼ぶ慣習も一部であるらしい。

 ジャックラッセルテリアが盛んにあちこちの犬を追いかけている。追われて、震えるフレンチブルドッグもいる。活発な犬の飼い主は「すみません」と口で言いつつ、顔はうれしそうだ。一方、怖がる犬の飼い主は、少々ふがいなく思っているのが分かる。「活発な子」と「おとなしい子」を持つ母親同士の確執に、妙に重なるのだった。

 震えるブルちゃんを飼い主が抱き上げた。ジャックラッセルに向かって「ごめんね、怖がってるの」と声を掛けている。もちろんこれ、実は犬の飼い主に向けた一言だ。人間に言いたい一言を犬に向けて語る、という高度な「間接的コミュニケーション」も、赤ちゃん連れの母親が頻繁に使う技だ。

 ところで肝心のいくら君、なかなか他の犬と遊びに行かない。「男の子なのに消極的で……」とこぼすたいこさん。その気持ちは、私もよく分かる。子供同士でなかなか遊ばない引っ込み思案な息子の姿に、私も何度もやきもきしたものだ。

 ■同じブランド服を着たい

 ドッグランを出て、犬連れOKのカフェで昼食を取った。次に有名なペット関連グッズの店ものぞいてみた。ガラス張りのしょうしゃな店は、入り口右手がペット用品、左手は人間用の洋服や小物だ。たいこさんによると「ペットと同じブランドを着たがる飼い主もいるからね。トータルコーディネートってわけ」。
 小さな座布団は犬の寝具だという。値段を確かめ、ぎょっとした。1万2000円。オモチャも軒並み1000円近い。驚いた。子供より金がかかる。

 「5000円のえさ入れ、イタリア製のベッドなど、一度に5万円近く使ったことがある。でも帰宅して気が付いた。5000円の食器なんて、私だって使ってないわ、って」とたいこさん。おまけに、ベッドは数カ月後、いくら君にかまれてボロボロになったという。

 しかし、一時は赤ちゃんグッズにはまり、抱っこひもだけで4種類も買い込んだ経験を持つ私は、決して彼女を笑えない。

 ◇育児の心理状態に近付く不思議
 ■「育犬」ノイローゼ?

 ペットの「子供化」が指摘されて久しい。ペットロスは深刻な社会問題となり、多くの専門家は「子供代わりにしてはダメ」「擬人化しないほうがいい」と助言を重ねてきた。
 だからだろう。最近は逆に、人間と犬との間に一線を引き、犬としてのしつけをしよう、という熱心な飼い主が増えている。犬種ごとの教室や合宿スタイルの教室、訓練士の出張派遣サービスなど、しつけに関するさまざまなサービスが人気だ。

 「犬の総合教育社会化推進機構」(NPO法人、事務局・神奈川県)が今年1〜6月に月1回実施した「しつけ教室」も毎回、予約受け付け開始後数日で満杯になった。最近は、犬と飼い主の社会性を見る「犬の社会化認定試験」の方も受講者が増え始めているという。
 「しつけに熱心な飼い主は増えている。最近は犬の飼い主ほど、マナーの悪い犬や飼い主に厳しい目を向ける。飼い主コミュニティーの中でしつけが不可欠の要素となっているのでは」と同機構は指摘する。

 たいこさんもしつけには熱心だ。「犬はあくまでペット。擬人化したくない」と心に線を引く。犬の「ママ」を自称したり、犬を溺愛(できあい)して甘やかす飼い主にはなりたくないと日本では、まだ珍しい「パピー(子犬)パーティー」をインターネットで探し、通い始めた。子犬の時期に大勢の犬や人間に接触させ、社会性を身につけさせる集まりだ。
 ところが、予想しなかった自分の心の変化に気付いた。いくら君がパーティーで課題をうまくこなせなかったり、他の犬の方が出来が良く見えた日には、落ち込んでしまう。「私のしつけ方が悪いのか」と思いつめたり、逆にイライラを犬にぶつけそうになったり。一時は「お教室」に通う子供の成績に一喜一憂する母親の精神状態に陥った。
 「まさに育犬ノイローゼ。不思議よね。将来立派な犬に育てたいとか、勉強のできる犬になってほしいとか、そんなこと考えていないのに、気が付くと思いつめていた。相手が子供だったらもっと悲惨だったかも」

 たいこさんのように「擬人化しない」と自制している人でも、擬人化は避けられない。一生懸命育てよう、しつけようと思ううち、育児中の母親のような心理状態に近付いてしまうのだ。なぜだろう。そもそも擬人化は本当にいけないのか。

 ■「ほどほど」が大事

 宮田動物病院の宮田勝重院長は「擬人化してはいけない、しつけなければ、と必死になる必要もない。犬なんだから、もっと気楽に飼えばいい」という。「『しつけないと犬が不幸だ』という欧米の考え方は、雑種やかむ犬が即処分される欧米社会だから必要とされた。日本はもともと人間とペットの境界線があいまいで、欧米式の『しつけ』はなじまない部分がある」と指摘する。

 かつて「擬人化」反対派だった井本動物病院の井本史夫院長も、今では容認派。「結局、大事なのは『ほどほど』の感覚。育児と同じで、飼い主がどっしり構えていれば、勝手に犬は育っていく。子供と違い、犬は自ら親離れしないので、その分、余計にどっしり構えた方がよいくらい」とアドバイスする。

 「ほどほど」
 「勝手に育つ」
 「どっしり構えよ」

 どこかで聞いた助言だな、と思ったら、これもまた、完ぺきな育児を目指して思い詰める最近の母親たちに向けたアドバイスだった。
 育児とペット。やっぱり本当によく似ている。

記事128◆ハッチポッチステーションのコンサートを見に行く

子どもを生んだことで、仕事に生かせたことはいっぱいありますが。
一義的には子ども文化やら、子どもの好きなキャラクターやら、テレビ番組に詳しくなった、ということがあります。
例えば、ハッチポッチステーション、というNHK教育番組。
これ、夫と2人、「絶対に大人向け番組だよな」とはまったのでした。
趣味が高じて仕事になった、という記事です。


■掲載年月日 2003年06月27日
■子供向けTV番組「ハッチポッチステーション」
■人気の秘密は?
■グッチ裕三さん、今やママのアイドル?−−育児や料理ネタ満点


 子供向けのテレビ番組なのに、なぜか大人まで楽しめてしまう。そんな番組が増えている。NHK教育テレビの「ハッチポッチステーション」はその代表格だろう。ギャグも、選曲も、およそ子供には理解不能。出演者のグッチ裕三さん(50)は今や、母親たちに大人気。この番組、本当に子供向けなのか、それとも実はママ向けなのか。

 ◇高いパパ参加率

 ステージにグッチ裕三さんが現れた。客席が拍手にわく。幸せそうに手をたたいているのは、やっぱりママたちだ。それを見て、必死でまねをするのが子供たち。パパたちは照れがあるのだろう、少々ノリが悪い。
 ここはNHK(東京都渋谷区)の公開収録用スタジオ。6月のある土曜日、数千人の応募者から選ばれた200人の家族連れが「ハッチポッチステーション」の公開収録に集まっていた。子供番組だから当然、全員が「子連れ」だ。しかし、頭数だけ見ると圧倒的に大人が多い。同じNHK教育テレビでも、幼児番組「お母さんといっしょ」の場合、やってくるのは母と子ばかり。言葉通り「お母さんだけといっしょ」の状態だ。平日ゆえか父親たちはめったにいない。

 一方、ハッチポッチの方はパパの参加率が90%近いのではないか。ほとんどが父親と母親と子供1人、あるいは子供2人の家族フルメンバー。頭数で大人が多くなるのも当たり前だ。少子化時代の象徴的な光景、と言ってしまえばそれまでだが、少々違和感が残る。父親の数が多すぎるのだ。子供向けの人形劇や音楽会でも、父親同伴がこんなに多いのを見たことがない。

 ◇懐かしの曲が童謡に

 ステージでは、耳に大きなニンニクの形のイヤリングをぶら下げた裕三さんが、食材の「エノキ」の説明から、いきなり「イノキ」へと振り、「猪木、ボンバイエ、猪木、ボンバイエ、1、2、3、ダーッ!」と叫んでいる。パパとママは大爆笑し、腕を振り上げ、一緒に叫んでいる。傍らには、親のまねをする子供たち。しかし、このギャグ、やはり子供には難しすぎないか。

 お次は歌のコーナー。83年に大ヒットした「カーマは気まぐれ」(カルチャークラブ)の曲に、童謡「うさぎとかめ」の歌詞を乗せて歌っている。サビは「カーメカメカメカメカメはのろい〜」。さらに70年代の「ブラックマジック・ウーマン」(サンタナ)。歌詞は「オー・ウーマン!」ならぬ「おうま」。「ボヘミアン・ラプソディー」(クイーン)は途中からなぜか「犬のおまわりさん」に。
 パパやママが腹を抱えて笑っているのは分かるけど、子供まで大喜びでクイーンのパロディー曲を歌っているのは不思議だ。ハッチポッチで歌を覚えた幼児が幼稚園で正調の童謡を習って「知ってる歌と違う」と驚いたとか、「うちの子は『犬のおまわりさん』を歌うと途中で裏声でハレルヤ、ハレルヤと叫び始める」といううわさは聞いてはいたが、どうやら事実らしい。

 ギャグや選曲はどう見ても大人向けなのに。なぜだろう。もと歌を知らないはずの子供たちが、実に楽しそうなのだ。

 ◇まずママの心を

 「子供ってね、親の喜ぶ顔が一番好き。特にお母さんが笑うと、子供は必死で理解し、一緒に笑おうとする。お母さんが手拍子打って歌うと、子供も必死で歌う。それって子供の本能なんだよ」。後日、裕三さんが種明かししてくれた。
 「例えば、コンサートの初めに『子供たち、元気ですか?』『はーい』とやるでしょ。次に『お母さんも、若くてきれいですか?』と呼びかけると、母親たちはどっと笑う。すると横で見ている子供は、自分も笑いたくてしかたなくなるわけ。だから、その次に『もう一度。子供たちは元気ですか』と呼びかけると、子供の反応は断然良くなる。子供の心をつかむには、お母さんの心をつかむのが一番」

 なるほど、実は理詰めなのだ。「ハッチポッチ」は子供向けか、それともママ向けか、という問題の立て方自体がナンセンスだった。子供番組だからこそ、先にママの心をつかもうとしたわけだ。

 今、裕三さんは育児中の母親たちのアイドル的存在だ。趣味が高じて料理番組に出演したら、これも当たり、料理本もよく売れている。従来、小さな子供を持つママのアイドルといえば、「お母さんといっしょ」に出てくる体操や歌のお兄さん、あるいは戦闘系テレビ番組の主人公を演じる男優あたりが定番だった。若い、細身、笑顔がさわやか、の3点が条件だったはずだ。
 では、なぜ裕三さんが人気なのか。ファンのママたちが指摘するのは「育児や料理のネタで楽しませてくれるから」。裕三さんの得意分野は、実はママたちの関心事に重なるのだ。歌にトーク、子供の相手から料理までこなす裕三さんの芸達者ぶりは、30代の母親の心のツボを見事に押さえてしまったようだ。

 ◇深夜放映の子供番組?

 「ハッチポッチステーション」は96年に始まった。「ハッチポッチ」は英語で「ごった煮」の意味。NHK教育テレビから出演を依頼された当時の裕三さんは、コミックバンドで活躍しており、むしろブラックユーモアの傾向が強く、決して「子供向け」の無難なキャラクターではなかった。
 番組担当の近藤康弘プロデューサーは「『お母さんといっしょ』みたいな正統派番組ばかりではなく教育テレビの幅の広さ、懐の深さを証明できる意外性のある番組を模索した」と明かす。いわば「お母さんといっしょ」のカウンターカルチャー。だからこそ、裕三さんに白羽の矢を立てたのだ。
 開始以来、子供番組としてはトップランクの視聴率を誇ってきた。子供のいない家庭にまで「妙な幼児番組」のうわさは広がり、熱心な大人ファンも増えた。その結果、平日夕方の10分間番組だったのが、今年春から1時間の公開収録番組として日曜日の夕方(隔週)に放送されるようになった。さらに、平日週3日間の深夜には、過去の番組を再編集した再放送も始まった。とうとう子供番組が深夜に進出してしまったのである。

 ◇パパもひそかに楽しみに

 ステージも終盤に入り、生バンドが登場し、古いポップスやロックの演奏が始まった。このころにはパパたちの恥じらいも消え、子供みたいに目を輝かせている。疲れや眠気でぐずり始めた子供に手を焼く妻の隣で、白い歯を見せて笑うパパ。子供の手首をつかみ、音楽に合わせて大きく手拍子させるパパ。ひざの上の子は半ば寝ているというのに。

 ジプシーキングの「ボラーレ」の演奏中、ずっとノリノリだったパパに声をかけた。すごく幸せそうでしたね。「最高です。僕らの世代って若いころ、バンドをやっていたから。好きな曲の生演奏はたまらなく興奮するんです」。37歳、2人の子持ちという。「ハッチポッチは職場でも話題になります。お父さんファン、実は結構多いと思うなあ」

 客席になぜ父親がこんなに多いのか、ようやくなぞが解けた。自称隠れファンのパパたちに話を聞くと「放映日が平日から日曜日に変わったお陰でゆっくり見られるのがうれしい」と恥ずかしそうに口をそろえた。
 「選曲もギャグも、僕らの世代の懐かしいツボにはまる。だから、妙に笑える」と。

 ◇背景に懐古ブームも

 「懐かしい」もキーワードである。裕三さんの歌う60年、70年代のロックやポップスは、30代後半の親たちにとって、記憶に残る一曲だったり、青春時代に聴いた「オールディーズ」だったりする。世にまん延する懐古ブームや昭和歌謡ブームも追い風となっているのだ。

 大人向けのようで、子供を意識し、子供番組なのに、親が夢中になる――。そんな番組はほかにも増えている。今春、「ハッチポッチ」に代わって始まり、早くも話題になっている「にほんごであそぼ」(NHK教育)は、「声に出して読みたい日本語」の著者、斎藤孝・明治大学教授の知恵を借りたという。かつて一世を風靡(ふうび)した「ウゴウゴ・ルーガ」(フジテレビ)も実は子供番組だった。大人と子供の境界線があいまいになっているのか。

 「ハッチポッチ」が育児疲れのママだけでなく、残業疲れのパパにとっても、週末や深夜のひそかなお楽しみとなっていることを、当の子供たちはきっと知らないに違いない。

記事127◆再び人気復活したタマちゃんの記事・春の章

■掲載年月日 2003年05月28日
■熱しやすく冷めやすい日本で…タマちゃんだけ、なぜ騒がれるの?
■登場して10カ月、第2次ブームの行方は


 出た、といっては騒ぎ、消えた、といってはまた騒ぎ。タマちゃんが相変わらず人気者だ。週末の見物人は延べ数千人に上るという。どうも変だ。我々はもっと熱しやすく冷めやすかったのではなかったか。アフガニスタンを忘れ、イラクさえも記憶の片隅に追いやり、田中耕一さんにもはや「癒やし」を感じなくなった03年春、タマちゃんだけがなぜ、今も「時のヒト」ならぬアザラシであり続けるのか――。


 タマちゃんは今、埼玉県朝霞市の荒川にすんでいる。冬のすみかだった横浜・帷子(かたびら)川の高いコンクリート護岸に比べると、ずっと緑豊かな場所だ。休日にもなると土手の斜面に1000人以上の観客が押し寄せ、川面を見守るというが、平日の昼下がりはいたって静かだ。
 5月中旬の平日、タマちゃん見物に出かけた。その日の観客は約100人。弁当を広げる人。犬と散歩中の人。「川辺って意外と心が落ち着くねえ。タマちゃんに教えられたよ」。志木市の男性(66)は毎日、自転車で20分かけてやってくる。
 目の前には、レジャーボートのGRACE3号。タマちゃんのお気に入りの場所で、今や日本一有名なボートである。持ち主の和光市、工場経営、本橋さん(55)は「月末までに船を検査に出さないと乗れなくなるんだけどねえ。小型船舶協会に検査の延期を頼んでいます。宝くじに当たったような気分です」という。

 その日、川を泳ぐタマちゃんは10分に1回の割合で水上に頭を出していた。昨夏はこれだけで拍手喝さいものだった。しかし今、誰も「頭」だけでは満足しない。タマちゃんがGRACE3号に乗り上がる瞬間を待ちわびている。巨体を狭い後部デッキに押し上げる必死の姿が、なんともカワイイのだそうだ。

 5月の連休以来、タマちゃんはかなりの確率で荒川に現れ、一日に数度は必ずボートに乗る。なぜか。秘密はその生態にある。
 鴨川シーワールド(千葉県)の海獣展示二課長、新井一利さんによると「今は毛が抜け変わる換毛期。この時期は陸上に上がる時間が長い。飼育の経験からいって換毛期は約2〜3週間。その後は再び以前のようにエサを取るため水中で過ごす時間が増えるでしょう」。
 つまり5月は、全身を見られる格好のチャンスなのである。

      ●

 さあ、いよいよ、タマちゃんがボート乗りに挑戦し始めた。ボートの船尾に小さな手を掛け、口も使いながら、必死で足をばたつかせ、おそらく百数十キロはある巨体を狭い船尾に持ち上げようとする。「がんばれ」「もうちょっとだ」「よし、いいぞ!」。人々は必死で、しかしタマちゃんを驚かさないよう小声で応援する。何度か挑戦を繰り返し、とうとうタマちゃんは船尾のお決まりの場所に体を横たえた。期せずして拍手が起きた。

 シャッターを切りまくる者。感極まって涙ぐむ女性。携帯電話で片っ端から友人に電話する若者グループ。「昔はあんなに小さかったのに、立派なアザラシになっちゃってもう……」と女子高生2人は手を取り合って感動している。まるで親せきのおばさんみたいな言い草だ。

 「タマちゃんとみられるアザラシ」人気の息の長さは尋常ではない。初めて東京・多摩川に登場したのが昨年8月上旬。連日スポーツ紙やワイドショーが報道し、便乗商法が次々に生まれた。これが第1次ブーム。
 しかし、9月、横浜市の帷子川に移動して以来、ブームは陰りを見せ、観客も20人前後にまで落ち込んだ。同じころ、ノーベル賞を受賞した田中耕一さんに、「癒やしキャラ」のお株をさらわれたかに見えた。

 しかし翌03年2月、横浜市西区が「ニシタマオ」君に住民票を交付するやいなや、人々は住民票のコピーを求めて区役所に殺到。冗談じゃないぜ、と在日外国人が住民票交付を求めて座り込み、社会問題化した。
 3月には「タマちゃんを想(おも)う会」による捕獲事件だ。さらに団体と「白装束集団」との関係が週刊誌に報じられると、たちまちワイドショーも飛びついた。第2次ブーム到来である。

 しかし荒川でのブームを不動のものとしたのは、やはり釣り針事件であろう。テレビのリポーターが「かわいそう!」と叫ぶほどに、川っぷちのギャラリーの数は膨らんでいった。

 荒川上流河川事務所は現在、ホームページで監視用カメラによるライブ映像を24時間流しているが、1日のアクセス件数は延べ約1万件。自宅のパソコンで一晩中、映像をチェックする熱心なファンも少なくない。

 タマちゃんの長い人気の一因は、仕掛け人でも付いているかのように、人気が陰るたび必ず「不幸」が訪れることではないか。北国の野生動物が真夏のヒートアイランド東京に迷い込んだ、という「不幸」を皮切りに、台風到来、捕獲騒ぎ、白装束、釣り針……。人々は「かわいそう!」を連発し、熱狂し、身勝手に感動してきたのだ。

      ●

 「ターマちゃーん!」。幼い女の子が甲高い声で叫んだ。隣で母親が「しーっ。静かに見ようね。タマちゃんがびっくりしちゃうよ」といましめる。昨年夏から多摩川、鶴見川、帷子川、荒川と「タマちゃん騒動」を追いかけてきたが、一番変わったのは観客側のマナーの変化に見える。

 「ターマちゃーん」と叫んだ夏はもう終わった。撮影のためフラッシュをたく人も減った。帷子川時代に自発的に生まれた「タマちゃんを見守る会」は定期的に、見物時のマナーを記したチラシを配布している。ゴミを持ち帰ろう、なんて一文までついている。野生動物を観察するときのマナーを、どれだけ多くの人がタマちゃんを通じて学んだことだろう。

 同会メンバーは荒川で、自然観察指導員ばりの活躍だ。「今は換毛期なんだ。体力が消耗するし、普段より陸上に上がって日光浴しなきゃいけない。だから絶対に今驚かしちゃいけないんだ」と説いて回るのは、同会メンバーの川崎市の男性(53)。仕事が夜間なので、毎日午後には荒川に通っている。

 同会メンバーは今も、タマちゃんの来なくなった帷子川に毎日のように集い、写真や情報を交換し、交流を深めてもいる。帷子川では河川浄化の機運が高まっているという。
 一過性のブームでは生み得なかった産物を、長いタマちゃんブームが私たち人間にもたらしてくれたのかもしれない。

 ところで今後のブームの行方は? もはやタマちゃんは連日のように全身をさらし、見せるところまで見せてしまった。ここ数日間、姿も見えないようであるし、さすがのブームも今回で打ち止めではあるまいか。
 社会トレンドに詳しい電通総研副主任研究員、山崎聖子さんは「まだまだ続く」と予想する。「動物キャラは今の時代に万能です。タマちゃんはゴミ袋に印刷されたり、住民登録されたり、ブランドとして定着した。ブームの浮き沈みは多少あるでしょうが、今後も釣り針が刺さったり、ゴミを飲み込んだりするたび、河川汚染などの社会問題とも結びつき、大きな話題となるでしょう」というのである。

 演出家の和田勉さん。「タマちゃんは(1)太っていることの美しさ(2)メークをしない(3)自殺をしない(4)子供を殺さぬ(5)自力更生――以上、すべてただいまのこの国のヒトをはるかに上回って頭が良い。この国のヒトは果たして人間なんでしょうか? ただ世界の出来事を見物しているだけの動物の群れかも……」

 なるほど。タマちゃんを見物し、イラク戦争を見物してきた私たちは明日、この両目に何を映すのか?

 専門家の間では「暑い夏を乗り切れば、タマちゃんは繁殖期までの数年間、東京湾に居着くのではないか」という見方も強まってきている。数年間、私たちはタマちゃんへの関心を維持できるだろうか。熱しやすく冷めやすい日本で、このブームの行方が妙に気になるのである。


記事126◆雑草ブームを読む、の記事

園芸家、柳宗民さんをインタビューした記事。
この時、ポインセチアをいただいた。強い花で、毎年毎年、美しい花を咲かせていた。
が、柳さんがなくなったその年、狂い咲いた後、葉を落とし、こちらももう二度と花を咲かせることはなかった。
とても不思議な思いがした。
合掌。


■掲載年月日 2003年05月26日
■ガーデニングブームの反動?
■なぜか今…雑草回帰
◇「身近」「懐かしさ」がキーワード


 世は相変わらずのガーデニングブームである。おまけに、最近は山野草や雑草の本なんかまで売れているらしい。日本のガーデニングブームも、行き着くところまで来てしまったのか。園芸家、柳宗民さん(76)に尋ねた。なぜ今、雑草なのですか?

             ★

 東京都小平市の泉蔵院の境内の奥に、柳さんの広々とした畑はあった。季節の花や野菜の苗が所狭しと並んでいる。
 「この奥に見事な株があってね。ほら」。柳さんが道案内してくれた畑の一番奥に、ハハコグサが綿毛に包まれた黄色い、柔らかい花をつけていた。一抱えもある群生が二つ。「こんなにきれいに咲いちゃうと抜いてしまえなくてねえ」。柳さんはいとおしそうに花をなでる。

 園芸家らしからぬ発言だ。そもそも雑草は「田畑の敵」のはず。しかし柳さん、その「敵」を憎みきれない。雑草を抜く時、「つい、気兼ねしてしまう」という。

 「雑草というのは学問的には植物の栽培に害を及ぼす草をいいます。あまりきれいでない草花が『その他大勢』として雑草にされてしまった。でもね、僕は小さい時から植物が好きだったから、園芸用の花だ、雑草だ、って線引きする前に、全部を好きになってしまった。戦中戦後は、雑草に随分とお世話になったしねえ」

 食料難の時代、柳さんは多くの雑草を口にした。「春の七草のナズナ。いわゆるペンペン草です。独特の香りがありますね。ハコベもおいしい。意外と珍味なのが、ぬめりのあるスベリヒユ……」。忘れがたい味。思い出は尽きない。

 そういえば、世は山菜ブームであるらしい。「ブームのお陰でしょう
か、昔は東京でも見られた山菜が、めっきり減ってしまった。でも山に入らなくても、足元に結構食べられる雑草がいっぱいあるんですよ」。包装され、スーパーに並んだ途端、結構な値段が付くセリやワラビなどの山菜と、道端に捨て置かれた雑草。味にさしたる区別はないのに、と柳さんの目が笑う。

            ★★

 柳さんは昨年末、季節ごとの主な雑草を取り上げ一冊の本にまとめた。地味な本がなぜかよく売れ、5度目の重版となった。園芸関連で何冊も著作のある柳さんも、「僕の本でこんなに次々重版されるのは初めてですよ」と苦笑する。なぜ今「雑草」なのか、柳さん自身も確たる理由は分からないという。
 「読者の方は『身近な野草で、私でも知っている花がありました』『懐かしい』と喜んでくれる。ガーデニングの好きな人というより、それ以外の人にも受けている感じがします」

 どうやら「身近」「懐かしさ」がキーワードらしい。レンゲ草でつくった冠。カラスノエンドウの実で吹いた笛。暗くなるまで遊んだ夏の夕方に見たエノコログサ……。雑草の存在は、懐かしい記憶をチクチクと心地よく刺激してくれるのである。
 その懐かしさは、花屋さんやガーデニングセンターではもう味わえない。ガーデニングブームが長く続く今、名前も聞いたことのないような花ばかりが店頭に並ぶようになった。誰もが目新しい色や形状の花を求め、生産者はそれに応えようと品種改良を繰り返す。熱しやすく冷めやすい人々を満足させるため、花はどんどん派手に、大輪に、鮮やかに変わっていく。

 「ガーデニングブームの中で品種改良が繰り返された結果、僕には多くの花が本来の固有の美しさを失ってしまったように見えるんです。例えばガーベラ。昔はあんなにほっそりとした花弁と茎を持っていたのに、今は花弁も茎も太い大輪の花ばかり。そんな時代だから、人々が素朴な雑草に心引かれるのかもしれません。雑草は昔から同じ表情を見せてくれるから」

 なるほど、行き過ぎたガーデニングブームを背景に、「雑草回帰」が進んでいるというわけか。

           ★★★

 「品種改良に促成栽培、抑制栽培……。来るところまで来てしまって、今じゃまるで『周年栽培』だ。今、花は季節感を失いつつある。トマトやナスが一年中スーパーに並ぶのと同じ現象が、花の世界でも起きている」と柳さんは嘆く。
 例えば、チューリップ。今では11月末に店頭に登場する。秋の花壇を彩る花、サルビアも春に店頭に並ぶようになった。冬に咲く花を追求した結果、冬花壇用のパンジーも開発された。
 「チューリップやパンジーなどの春の花は、かすみがかった春の空だから、秋のサルビアは澄んだ秋の青空だからこそ映える。その季節に咲くのが一番美しいようにできている。それが花の季節感であったはずなのに」

 確かにそうかもしれない。遠い記憶の中で、パンジーやチューリップは小学校の入学式やランドセルなど春の思い出とともに咲いていた。ところがそのパンジーが今や冬の花壇を飾る。

 「冬の花壇が寂しいからこそ、春の訪れの喜びがあるんです。冬の花壇に花が咲けば、春の花壇の喜びは消えてしまう」と柳さんは言うのである。

 一方、野に目を向けた時、雑草は季節感に満ちている。オオイヌノフグリの青いかれんな花を見て、春の訪れを知る。タンポポやペンペン草がそれに続く。雑草はひそかに日本の四季を守り続けているのだ。

 「山野草や雑草の本が売れるのは、ガーデニングブームの反動なのかもねえ」。40年間、園芸に携わるその人は、少し寂しげにため息をつくのだった。

記事125◆文京区の図書館を弾劾するぜっ!の記事

■掲載年月日 2003年05月06日
■編集部から

 近所の図書館で児童文学を選んでいて驚いた。本が書名の五十音順に並んでいる。
 松谷みよ子さんの「モモちゃん」シリーズは「ちいさいモモちゃん」が「ち」の棚、「モモちゃんとアカネちゃん」は「も」の棚とバラバラ。本好きの子供は好きな作家の作品を追うものだが、これでは探しにくい。

 都内23区の図書館にも児童文学の並べ方を聞いた。結果、23区中20区は原則著者順。書名順は文京、目黒、千代田の3区だけだった。一方、絵本の方は一番多いのが画家順で、文章を書いた作家順、書名順もあった。利用者にメリットがあるとは思えない出版社別分類は文京、豊島の2区だった。

 私の暮らす文京区では今年度、並べ順を見直すという。図書館の規模や利用者の層によって一概に「正解」を出しづらい問題ではあるが、やはり読み物は著者順、絵本は画家順がいいと思う。

記事124◆大江戸温泉物語ルポなど

■掲載年月日 2003年04月07日
■温泉ラッシュの東京都心、今なぜ
■混雑も「江戸」の演出
■裸、裸、裸〜の大迫力


 東京都心が今、温泉ラッシュに沸く。台場の「大江戸温泉物語」が完成したのに続き、5月1日には「後楽園ゆうえんち」に、6月下旬には「豊島園」に、それぞれ温泉レジャー施設がオープンする。なぜ今、都心に温泉なのか。台場で風呂につかりながら考えた。

 「大江戸温泉物語」の外観は巨大な湯屋のようだ。玄関を入ると「帳場」があり、「越後屋」の看板が掛かるカウンターで浴衣を受け取る。浴衣に着替えないと風呂にも入れない。江戸がテーマの温泉テーマパークなのである。
 館内は時代劇のセットのようだ。夕暮れ時の江戸の街並みを再現した館内に、食べ物屋や土産物屋が並ぶ。
 「ゆ」と書かれたのれんをくぐり、脱衣所に足を踏み入れた私は思わず絶句する。

  ■       ■

 裸。裸。裸。
 すごい迫力だ。100人はいる。これほど大勢の裸を一度に目の当たりにしたのは初めてだ。400人分の脱衣用ロッカーは、平日というのにほとんど空きがない。ロッカーが全部埋まり、脱衣所に風呂を待つ人の列ができた日もあったらしい。

 つい江戸の人口密度を想像してしまった。現在の人口密度全国一は東京都中野区で1平方キロに1万9854人だが、江戸の町人地は約6万人もいたというから、今の3倍だ。混雑ぶりもまた、江戸らしさの演出なのか。

 風呂の方は広かった。中央の数段高い場所にあるのが、地下1400メートルから沸く天然温泉だ。しかし私はそれに目もくれず、露天風呂を目指した。

 流れる風。
 たなびく雲。
 湯煙にかすむ山々。
 俗世を忘れ、心からリラックスできる露天風呂が大好きなのだ。ガラス戸を開け、ひんやりした屋外へ出た。

 出た、はずだった。
 が、そこにはなぜか屋根がある。目の前には、屋根まで続く石垣の高い壁。屋根の一部は格子天井になっていて、小さく切り取られた空がわずかに見えた。これって本当に「露天」なのだろうか。テレコムセンターなど台場のビル群を望む露天風呂を期待していたのに。なぜ屋根が、壁がいるのか。

 しばらくして気付いた。テレコムセンターの21階には確か、無料展望室があったはず。展望されて困るのは入浴客の方なのだ。屋根で隠すしかない。

 傍らの看板に、露天風呂の名前が書いてあった。「百景の湯」。思わず苦笑した。

 東京都環境衛生課によると、都内の温泉施設は165カ所(昨年末現在)。95、96年から目立って増えたという。「健康ランドなど日帰り入浴施設の人気が高まり、『近場で日帰りできる本物の温泉』の需要が高まった」と同課は分析する。
 思い起こせば89年、全国の市町村に1億円をばらまいた「ふるさと創生資金」で、全国約350市町村が温泉掘りに挑み、約250市町村が掘り当てたといわれる。結果、低価格の日帰り温泉は急増し温泉ブームにつながった。
 長引く不況で、箱根では宿泊客が減り、日帰り客が増えているという。同じ日帰りなら、近場がいいと思うのも当然だ。そこで都心の温泉である。入湯料が少々高くても、交通費を考えれば安いもの。実は、1500メートル程度掘れば東京の約8割の土地で温泉が出るという。

 「大江戸温泉物語」には連日約4000〜5000人が訪れる。オープン前、温泉側は「平日2500人、土日曜日8000人」と予想していたが、実際には週末と同程度の客が平日にも集まる。平日客を支えるのは中高年女性である。

 6月下旬にオープンする豊島園「庭の湯」は「遊園地の客層で一番少ない40〜50代を、温泉施設で取り込みたい。平日は低価格にし、主婦や中高年女性に利用してもらいたい」という。

 一方「後楽園ゆうえんち」の敷地内にできる東京ドームシティ「ラクーア」のターゲットは若い女性。「東京ドームの客に少ない20〜40代の女性層を集めようと、カラオケやシネマコンプレックスなども検討した結果、温泉にした」という。
 なるほど、いずれも狙うは女性客なのである。

 真新しい湯船の中で裸のインタビューを敢行した。「混雑は気になりません。なんか癒やされる」というのは26歳の会社員女性。北海道出身の54歳の女性は「込むねえ」とこぼしつつも「でも近場の温泉っていいわねえ」。
 今度はシニア夫婦10組にも声を掛けた。10人の夫全員が「妻に誘われて」。ここでも女性上位は揺るがない。湯船で「夫婦バラバラだとつまらないでしょう」と妻の側に問うと、「この適当な距離感がいいのよ」と笑顔とともに本音が返ってきた。

  ■       ■

 しかし、この混雑は何とかならないものか。人気の「砂風呂」やマッサージは予約で数時間待ち。飲食店で注文したらポケットベルを持たされ、料理ができるとポケベルが鳴るという。
 さらに週末は、混雑緩和のため4時間の時間制限がある。混雑の中、4時間で全部効率よく回るには周到な計画が必要だ。

 屋根付き露天風呂につかりながら、ついつい私は計画を練り始めてしまった。入場したら急いで浴衣に着替え、風呂に駆け込む前に砂風呂やマッサージの予約を入れること。風呂は足湯、内湯の順で効率良く回る……。ぴったり4時間の計画を練り上げたところで、我に返った。

 私、何をやってんだろ。

 頭上に鳴り響くごう音に驚き、ふと顔を上げると、格子天井に切り取られた小さな空を飛ぶ飛行機が、半分だけ見えた。


記事123◆反戦パレードを歩いての思いをコラムに

■掲載年月日 2003年03月25日
■編集部から

 反戦デモを2度歩いた。1度目は2月19日。取材が目的で、反戦デモのルポを記事に書いた。2度目は3月8日。これは個人として歩いてみた。そして気付いた。
 「個人としてデモを歩いた時より、記者として取材しながら歩いた時の方が、より自分自身を生きてる感じがする」と。

 記者になって最初の3年間、「当事者になれないこと」がつらかった。戦争の傷を今も抱える人がいる。私はそれを書く。だけど私の心に戦争の傷はない。外国人労働者を支援している人がいる。私はそれを書く。でも私は比較的安定した会社員の立場にある。いつも傍観者のようで、自分がうそっぱちなようで、悔しかった。

 あれから10年。いつの間にか「取材し、書く私」が自分なりの「当事者」だと認められるようになっていた。戦争が始まって気になるのは足元のこと。生き方、働き方を考え込むことが増えた。

記事122◆ニュージーランド入寮者殺人事件の記事

ショッキングな事件でした。
不登校やひきこもりに取り組む民間団体が、ニュージーランドに開いていた寮の中で集団暴行の果てに入寮者が一人亡くなってしまったのでした。
大変なバックラッシュが起こり、海外に拠点をもうける同種の取り組みに対してまで反発が広がろうとしていたことを危惧して、書いてみた記事です。


■掲載年月日 2003年03月12日
■ひきこもり、数十万人時代…NZ入寮者殺人事件が突き付ける課題


 不登校やひきこもりの若者たちを海外で生活させて回復を図る民間施設が出来始めている。それなりに「効果」は上がっているのだが、その中でニュージーランド・オークランドにある同様の寮で先月末、1人の男性入寮者(22)が亡くなった。同じ入寮者9人に集団暴行を受けたという。現地では「日本の社会問題の輸入ではないのか」という論議まで飛び出している。ひきこもりの若者は数十万人といわれる時代。事件は重い課題を突き付けている。

 ■「救いの寮」で何が

 事件が起きたインターナショナルコロンブスアカデミーは89年、金森克雄代表が当時勤務していた会社で不登校の子供らをヨットの外洋長期航海に連れ出したのが始まりだ。90年、会社は倒産したが、その後も金森代表は親の要請を受けて航海教室を継続。危険を伴う体験を通して他人と力を合わせることを学ぶ航海は、すでに20回を数える。
 さらに「海外で普通はできない経験を積ませ、自信をつけてやりたい」と94年、オークランドに共同生活の寮を開設。現在、入寮者の多くは現地の高校や大学、語学学校にも通っている。一方、国内でも91年、ひきこもりの若者らが就労体験できるお好み焼き屋を開店したほか、00年には親たちも参加してNPO(特定非営利活動法人)を発足させた。

 事件は2月26日未明に起きた。警察官が到着した午前3時半にはすでに、被害者の男性は頭部に重傷を負って死亡しており、捜査当局は3月12日、暴行を加えた17〜26歳の男子入寮者9人を殺人罪などで、金森代表を捜査妨害などで起訴した。

 暴行事件に発展した経緯について、寮側は「青少年たちの自主的な会議の中で、感情的になり、暴力が発生した」と説明するが、それ以上は「亡くなった被害者とご家族のプライバシーを守ることを優先したい」と公表していない。また、金森代表については「『弁護士が来るまで黙っていてもいい』と入寮者たちに黙秘権について説明したら、捜査妨害だと逮捕された」としている。

 複数の関係者によると、起訴された9人の入寮者はまとめ役的な存在で、寮で起きたトラブルについて被害男性と話し合おうとしたのがきっかけだったという。寮には10人のスタッフが夜間も常駐していたが、暴力行為を食い止めることはできなかった。寮側もこれを重く受け止め、内部調査を開始している。

 内部で何が起き、どんな事情から命を絶つまでの感情の爆発があったのか。事実は13日から始まる裁判で明らかになろうが、現地の日本領事館には、入寮者の親たちから「あの寮に親子で救われました」「家にこもり続けた息子が夢を見つけ、現地の大学を卒業するまでに成長しました」など切々と訴えるファクスが届いているという。

 ■日本で生きづらい子たち

 コロンブスのように、不登校やひきこもりの若者が親元から離れ、共同生活する宿泊型施設は徐々に増えている。特に20歳をすぎたひきこもりの場合、相談された行政側も対応できず、困り果てた親子が頼るのは、民間の援助団体しかない。5年、10年と長期化する前に親元から離れ、自立のきっかけをつかむという点で、宿泊型施設の有効性は注目されてきた。

 富山県で不登校やひきこもりの若者が共同生活をする「ピースフルハウス はぐれ雲」の川又直代表は「今回の事件で、『子供を親元から離し、環境を変え、共同生活を体験させていく』という活動自体が全否定されてはいけない。最近は『家族の中で問題解決しろ』という風潮が強まっているが、何年間も家族だけで抱えている方がずっと問題だ。親元から離れただけで、もうその子は8割がた立ち直っている」と訴える。また、これらの問題に詳しい田口教育研究所の田口正敏所長は「海外留学や海外体験をうたう援助団体は増えている。日本だから生きづらい子もいるし、閉鎖的な日本を離れ、海外に出ることで自立のきっかけをつかむ子も多い」と語る。

 実際、オークランドの寮で生活した経験のある女性(23)は「幼稚園のころから一人も友達ができなかった。高校に行けなくなり、1年間自宅にひきこもっていた。でも、ニュージーランドに行って私は変わった。寮の仲間は兄弟のようだったし、現地の高校に通って友達もできた。髪を金髪に染めても、先生は怒るどころか『グッド・カラー』と褒めてくれた」という。

 ■「親の甘やかし」と言われ

 25年以上、社会的自立ができない若者たちを家庭訪問し、共同生活させてきたNPO法人「青少年自立援助センター」(東京都福生市)の工藤定次代表はこの春、川又代表ら15年以上共同生活施設を運営し続けてきた3団体と協力し、全国32カ所の宿泊型施設を実地調査した。その結果を「ひきこもり・不登校援助団体レポート」(ポット出版)にまとめた。子供に合った施設を選ぶ情報を提供しよう、というのが目的だ。
 工藤代表は一般論としたうえで「運営者が十分にトレーニングを受けていなかったり、ソフト面が伴わない場所もある。それに、すべての子に万能な施設はない。ミスマッチの施設で何年も過ごしたり、居心地が良すぎて居着いてしまったりしないよう、施設選びは大切」と話す。

 一方、田口所長は「24時間態勢で子供の命と心の健康を守るため、施設運営者は大変な努力を重ねている。民間や個人だけの努力に頼っていていいのか」と行政の援助の必要性を説く。

 厚生労働省が全国調査によって初めてひきこもりを定義づけ、各相談機関での対応ガイドラインを配布したのは01年5月。社会復帰のための公的施設の充実、専門家の配置、関係機関のネットワーク構築など、公的対策は動き出したばかりだ。

 不登校もひきこもりも、「親が甘やかしたせい」といった偏見が根強い。親子で困惑し、一筋の希望を海外の施設に見いだしたケースもあるだろう。そんな中でニュージーランドで起きた今回の事件。この問い掛けは重い。

(現地からのレポートも添えます)

 ◇現地「日本の社会問題の輸入」論も
 「若者たちは朝、送り迎えの大きな車に乗ってどこかに行く。私も教師なので興味を持ったが、建物内はいつも静かで、中の様子は全然分からなかった」。寮の近くに住む臨時教員、ギリアン・ドーソンさん(51)はまゆをひそめた。
 緑あふれるオークランドの西部にある閑静な住宅街。コロンブスアカデミーの門には「私有地につき立ち入り禁止」の札が掲げてあった。死亡した男性(22)は、男女30人の入寮者やスタッフとともに4棟の家の一つに暮らしていたらしい。
 被害男性がニュージーランドに来たのは97年。口数が少なく、現地の学校にも慣れなかったという。唯一の楽しみは地元の「相撲クラブ」の練習だった。クラブのコーチ、グレグ・マヨさん(35)は証言する。
 「彼は英語をほとんど話さなかったが、練習は熱心だった。正月が近づいた時、日本に帰らないのかと聞くと、『帰らない』と言う。次の年も同じだった。心の問題を抱えた子だとは薄々知っていたが、まるで親に捨てられたかのような形で、彼自身も自分の境遇をあきらめているように見えた」
 アカデミーには彼のような長期滞在者が多かった。
 ここ数年は入寮者らが市内で起こすけんかや窃盗が相次いでいたという。「入寮者には、ひきこもりタイプと、日本で非行を繰り返してきたタイプがいた。それが共同生活を送るのだから、いじめなどが起きて当然といえるかもしれない」と話す日本人もいる。「日本で社会に適応できない若者を捨てる場所だったのか、と言われかねない。これからが心配だ」
 事件は地元メディアも大きく取り上げた。金森代表の経営する店も休業となり、現地の関係者は当初、「何も言えない」と繰り返すのみだった。
 野党・NZ第一党のピーターズ党首は「すでにニュージーランドは家庭内に問題を抱えた外国の若者であふれている。なぜ我々は日本の社会問題まで輸入しなければならないのか」と政府に厳重調査をするよう申し入れた。
 政府のこれまでの調べでは、アカデミーは教育訓練施設としての登録をしておらず、一部の入寮者の滞在ビザに不備があったほか、代表が経営するレストランで働く入寮者には最低水準の賃金が払われていなかった点が指摘されている。
【オークランド(ニュージーランド)で堀内宏明】

記事121◆澤地久枝さんのインタビュー記事

■掲載年月日 2003年03月05日
■この国はどこへ行こうとしているのか
■作家・澤地久枝さんに聞く


一人ひとりが「賢い個」となれば、政治を動かし戦争を回避できます。むしろ今は、市民が成熟する絶好のチャンス


 世界がじわじわと戦争に近づいてゆく。誰もが平和を望んでいるのに、それを手に入れる道が見えない。この国はどこへ行こうとしているのか。昭和史を掘り起こし、歴史の下積みとなった人々の声を記録してきた作家、澤地久枝さん(72)は今、「一人から、家族から始めよう」と語る。

 ――今の日本と、取り巻く世界状況をどう思われますか。

 ◆この国の主権者の一人として、絶望的だと感じています。米国は戦争回避の道を探ることなく、イラク攻撃を始めるきっかけをつかもうとしています。その米国に無批判に追随しているのが今の日本政府です。
 日本は第二次世界大戦で、自国の民を傷つけ死なせただけでなく、他国の軍民にも多くの犠牲を強いました。戦争がいかにむごくむなしいか、という教訓を得たはずの日本が、今独自の見解を示せずにいるのは情けない。
 世界各地で1000万人を超える人が反戦デモに参加し、それぞれの国の政権をも動かそうとしています。ところが日本はどうでしょう。「この国はどこへ行こうとしているのか」という問いへの答えは、私たち一人ひとりの今後の行動にかかっています。それを自覚し、意思表明しなければ、平和を守ってはいけませんね。投書でもいい。デモでもいい。今こそ「戦争反対」と一人ひとりが意思表明すべき時ではないでしょうか。

 ――しかし日本では反戦の意思を表明したり、行動している人は多く
ありません。欧米諸国で何十万人もが反戦デモに参加しているのとは対照的です。

 ◆日本では今、政治や経済だけでなく、市民社会も停滞しています。これだけ政治的無関心がはびこっているのに、一夜にして数十万人のデモが現れたら、その方が私は怖い。それに一夜で生まれたデモは、一夜にして消えてしまう。時間はかかっても、地道で確かな積みあげの方がいいです。
 日本は、市民社会という点ではまだまだ後進国です。一人ひとりの市民の人権が認められてから、まだ半世紀しかたっていない。市民社会が成熟していくには時間がかかるのです。
 今大切なのは、家族や友人など少人数の間で、近づく戦争そして平和について話し合うこと。一人から始まって小さな人の輪がまず各地に生まれ、一つの大きな流れとなることに希望を託します。
 私たちはまず、自分のなし得る役割について自覚したい。例えば、人はテレビニュースで世界の人々が反戦デモに参加している映像を見れば、刺激を受けますよね。勇気をもらう人もいれば、反省する人もいるでしょう。つまり、私たちは他人の行動から影響を受け、他人の行動に影響を与えながら生きている。だから一人ひとりの行動の持つ可能性は、決して小さくないと思います。
 私たち一人ひとりがそれを自覚し、考え、「賢い一つの個」となれば、市民は力を持ち、政治を動かし、戦争は回避できます。「絶望的だと感じている」とは言いましたが、希望は捨てていません。むしろ今は、市民が成熟する絶好のチャンスだと思います。社会状況が反面教師となってくれますから。

 ――ご自身も昨年12月、小田実さんや鶴見俊輔さんらと呼びかけ人になり、反戦デモの先頭に立たれましたね。

 ◆第二次大戦の時には、女に選挙権はなかった。でも今は選挙権も被選挙権も持っている。何もできなかった、と逃げるわけにはいきませんからね。今月1日には、小田実さんら呼びかけ人が中心となり、参加者一人ひとりが反戦の思いを語る集会を行いました。
 今回、私が呼びかけ人として行動しているのはこの集まりだけですが、別の集会などにもできる限り参加し、いつか大きな一つの動きとなるように努力したいと思います。

 ――著書「私のかかげる小さな旗」で「個としての一人」から始める大切さを説き、「個人を互いに支えているのは家族」と書かれています。

 ◆人は「個」として生きると同時に、「個」としての自分の思いを他に伝えようとしますね。その時、一番身近な相手はたぶん家族。たとえ家族と意見が対立しても、愛する相手とであれば折り合う道もみつかります。そうやって家族と話し合うことで、「個」は鍛えられていくと思う。家族とさえ話ができないのでは、他人と話し合うことなどできないでしょ。
 また、子供の存在は大きいですね。日本各地に残る戦争の傷跡や、日本が他国に戦争を仕掛けたために今もその国に残る貧困や病気などについても、子供を巻き込んで家族で話し合えるといいですね。子供なりにしっかり考え、意外な発想で大人を驚かせてもくれますよ。

 ――まず家族で戦争や平和について語り合うことが、世界の平和にもつながっていく、というわけですね。

 ◆そうです。1945年8月までこの国は大日本帝国でした。当時、国を構成する一番小さな単位は男子相続の「家」でした。人々は「家」のくびきにがんじがらめにされていました。 しかし戦後、特に最近、「家」ではなく「家族」がそれに代わりはじめた。誰もが人間らしく生きられる社会を作るためには、まず「家族」の中で人間らしい関係を築くことが大切と思うのです。
 もちろん、法律上の家族に限る必要はありません。私には法律上の家族はいないけれど、とても気になっている日本や外国の子供たちがいます。彼らは私の精神的な家族です。 

――今、家族関係は人間らしさを欠いて見えますか。

 ◆例えば、夫が職場でリストラ対象としていじめを受けたり、過酷な残業を強いられて自殺願望へと追い込まれるような状況の時、「あなた、辞表出したら。みんなで頑張れば何とか食べていける。大丈夫よ」といえる妻であってほしいですね。男女逆のケースもしかりです。互いに人間らしく生きることを最優先してほしいです。
 もしもあちこちで妻たちが「辞表出してもいいわよ」と言い出してごらんなさい。今の日本の会社社会は揺さぶられ、変わりますよ。女たちは今、問われているんです。ブランド物だ、何だと虚業に惑わされ、大事なものを取り落としてはいないかを。

 ――しかし、長引く不況は人々をますます経済不安へと駆り立てています。

 ◆私は1930年に生まれました。いわば不景気の落とし子のようなものです。当時の経済不安は人々の批判の心をつみ取り、生活の糧を求めようと必死にさせた。その延長上に満州事変につづく戦争の時代があったのだと思います。
 今の日本の状況は、あの時代に重なって見えます。みんなが貧しくなることに対して理由のない不安を抱えている。私は、生活レベルが少々落ちたって構わない。むしろ経済繁栄ひとすじに走り続けてきた日本人が、一度立ち止まり、深呼吸して考え直すことによって、新たに見えてくるものもあるのではないですか。
 日本の経済状況は今後もっとひどくなるでしょう。この国はもう、経済的には破たんしているんじゃないでしょうか。苦境を切り抜けるため、弱者にもっとしわ寄せがいくと思っています。

 ――こんな時代に、どんなふうに希望を見いだしているのですか。

 ◆私は、絶望したくないの。なぜなら、日本中、世界中に精いっぱい生き、戦争批判の思いをもつ人がたくさんいることを知っているから。出会ったことはないその人たちの思いと、自分の思いを重ねながら、生きていきたい。たとえ孤立しようと、どんな批判を浴びようと、私は私の考えを変えることなく表明しつづける勇気をもちたいです。
 意思表明することで、私は後戻りできないよう、自分を追い込んでいますよね。でも、それこそが自分で希望を見つけている、ということなのです。

記事120◆イラク攻撃反対パレードを歩いてみた、の記事

学生時代、デモなんかあんまりしなかった。
時々酔っぱらって、百万遍の交差点あたりをジグザグデモとかしては、大ひんしゅくをかった程度。いやーね、学生の酔っぱらいって。反省。
だいたい、シュプレヒコールってのが好きじゃないし。
「殲滅」だの「粉砕」だのの言葉も嫌い。その4文字の最初に強勢を置くイントネーションも嫌い。
でも、学生寮にたっぷり5年もいましたから、バブル時代の大学生のわりには、学生運動カルチャーを肌で感じてもいました。

そんな私が、すっごく久しぶりにデモに参加してみたら……!?
という記事。

掲載後、団塊世代らしき読者数人(すべて男性!)から、「最後のくだりで泣いてしまいました……」という手紙をもらいました。
うーむ。なぜだろう。


■掲載年月日 2003年02月27日
■日本にも広がるイラク攻撃反対「平和パレード」
■人々は何を思い、街を歩きはじめたのか

 米国のイラク攻撃に反対する平和パレードの輪が、日本にも広がっている。世界の約400都市で1000万人以上ものパレードが行われた15日には、東京・渋谷でも約5000人が集まった。遠い国で始まろうとしている戦争と、米英への支持を表明した日本。人々は今何を思い、街を歩き始めたのか。それが知りたくて19日夜、銀座のパレードを歩いた。

 パレードの前に集会が開かれた。会場の東京・日比谷野外音楽堂に足を踏み入れた瞬間、何ともいえない違和感を覚えた。円形劇場風の座席には、労組の名前を染め抜いた立派なのぼりや大きな旗がずらりと並んでいる。会場でもらった「座席配置図」によると、「自治労、全水道、日教組、都市交……」と労組ごとに座る位置まで決まっている。舞台の演説に合わせ、会場からは「よしっ」「そうだ!」と定番のかけ声も上がる。
 なんだかメーデー集会みたいだ。労組主導の集会とは前もって聞いていたが、もっと「市民」が参加していると期待していた私は少々落胆した。

 配置図によると「市民団体、個人参加者」と書かれた座席は一番隅だった。そこには何千人もの労働組合員らに押されるように、年も格好もバラバラな「市民団体、個人参加者」らしき人たちが座っていた。茶色い髪の若者が小さな手作りのプラカードをひざに抱いている。

 一般に参加を広く呼びかけた結果だろう。対立する新左翼セクトの中核、革マル両派の系列労組が、それぞれ横断幕を掲げていた。同じ集会に彼らが同席するのを初めて見た。

 背後で黄色い腕章を巻いた実行委のおじさんたちの密談が聞こえた。「中核と革マル、デモの歩く順番をどうする?」
「どっちが前でももめるぞ」
 実行委のあたふたぶりを見る限り、今回の集会はやはり、日ごろの労組集会とは勝手が違うらしい。

  □

 労組主導の雰囲気が一変したのは夜7時半ごろ、パレードが始まった時だ。先頭を歩くのは労組ではなく、「市民団体、個人参加者」たちだった。ようやく「普通の人たち」が主役に躍り出たように見える。

 オモチャのタンバリンを鳴らす男性。楽器に合わせて歌う人もいる。ほうきに紙を巻いて「戦争ほうき」というプラカードを作った女性。ハンカチで作った小さな旗を掲げる人。ブッシュ米大統領の顔写真のお面をつけ、軽やかに歩く若者たちもいる。

 「シュプレヒコール!」「よーしっ」に始まり「闘うぞ」の連呼で終わるお決まりのシュプレヒコールはない。代わりに2〜3人ずつがバラバラに、思い思いの言葉を叫んでいる。「NO MORE WAR」を繰り返す若者もいれば、「ブッシュはイラク攻撃をするな」と拳を振り上げる人もいる。「アメリカのイラク攻撃に反対するぞーっ」と昔ながらのシュプレヒコールで頑張っている男性の後ろで、「反対してるぞー」と現在形に言い直す人も現れ、笑いが起こった。

 野外音楽堂の外では、警察との小競り合いが始まっていた。デモではお決まりの展開だ。が、ブッシュ大統領のお面をつけた若者が声をかける。「平和にいきましょうよ。歩く場所からピース(平和)でやりましょう」

 実行委のメンバーがトラメガを抱え、「デモは4人隊列で!」と叫んだ後、あわてて「パレードは……」と言い直していた。そうなのだ。そもそもこれは「デモ」ではない。実行委のチラシによると「パレード」なのだ。

  □

 パレードとデモの違いはよく分からない。それでもこの日のスタイルは確かに、昔ながらのデモとは違った。ただ楽器やお面、踊りなどを取り入れたスタイルは、市民運動では十数年前からおなじみだ。この夜一番驚いたのは、実は歩くスタイルなんかではなく、参加者の顔ぶれの方だった。「市民団体やNGO(非政府組織)のメンバーばかりだろう」と踏んでいたら、とんでもない。多くが個人参加の若者や家族連れだったのだ。おまけに「デモは初めて」などと言う。

 例えば、20歳前後の男女仲良し4人組はこんな具合だ。「恋人が米軍兵だから、人ごとではないんです」という妹と、「何かやらなきゃと思って」という姉。その彼氏と友人は「意思表示、っつうより、参加したいって気持ちで来ました」という。この問題以前には、デモなんか興味もなかったというが、手には「戦争撲滅」と書いた手製のプラカードを持っている。

 「戦争反対、WE LOVE PEACE!」と掛け声を上げるのは、若い女性と年配の男女という組み合わせ。聞けば、親子3人でデモに初参加だという。母親(60)は「平和のために何かやれることをやらないとね。夫は労組主導の集会に抵抗があったみたいよ。この人、最近まで資本家の側だったから」と笑い、父親(65)は「おれだって組合の執行委員をしたこともあるんだ」と言い返す。グラフィックデザイナーの娘(24)が作ったポスターを掲げ、一番大きな声を出しているのは父親だ。

 群馬県倉渕村から5歳の息子を連れて参加した母親(39)は、息子の歩調に合わせ、ゆったりと歩いていた。「今にも戦争が始まると思うと矢も盾もたまらなくて。子供にはこれまでも、平易な言葉で戦争や平和について説明してきました。今夜歩く意味も伝えました」
 インタビューを重ねながら、もしかして本当に日本で何かが変わり始めているのではないか、とすら思った。

 個人参加者の多くが、今回のパレードのことをインターネットで情報収集したという。確かに「反戦、イラク」と検索エンジンにキーワードを打ち込めば、すぐにいくつもの反戦サイトが見つかる。中にはデータをダウンロードし、プリンターで出力すれば簡単に反戦ポスターやステッカーが作れるサイトもある。何らかの団体に所属しなくとも、反戦系のメーリングリストに登録さえしておけば、全国のパレードや集会の情報はたちまち手に入る。

 01年9月11日の米国同時多発テロの後、平和を求めて歩く「ピースウオーク」という動きが全国の若者の間に広がっていった。彼らは組織ですらなく、代表も持たない。ネットや口コミで結ばれた個人の集合体だ。それでも時には数百人の人がウオークに集まったという。
 「我々は」が主語だった時代とは違う、ゆるやかな反戦ネットワークが今、ネットのあちこちで生まれているのだ。

 パレードで出会った会社帰りの男性(42)もまた、ネットで情報収集し、個人で参加した人だった。キャメル色のロングコートに黒い書類かばん。デモの隊列より銀座の雑踏の方が似合いそうに見えた。しかし、よく見ると小さな声でシュプレヒコールを上げている。
 「これまでデモなんかするのは特殊なヤツだと思ってきました。でも世界中のデモのニュースをテレビで見て、世界では普通の人たちもデモで意思表示をするんだと知りました。僕は2カ月前に父親になりました。今夜は、子供のためにも行動してみたくなったんです」

 私は心に引っかかっていた疑問を彼にぶつけてみた。「デモで戦争は止められますか。自己満足ではありませんか」
 彼はしばらく考え、こう言った。「意思表示する方法がデモしかないなら、僕はデモでいい。テレビの前で怒っているだけでは何も変わらない。それこそ自己満足ではありませんか」

  □

 毎日新聞が1月に行った世論調査によると、日本国内でも8割の人がイラク攻撃に反対しているという。しかし政府は米国への支持を世界に表明し、「8割の国民」はそれを覆せずにいる。

 銀座の夜を、主催者発表7000人の隊列が行く。長い長い労組の隊列の一番前を歩くのは、個人参加者たちだ。
 隊列から見上げる街のネオンが、妙によそよそしく、威圧的に見えるのはなぜだろう。夜空の雲がネオンに照らされ、赤黒く光った一瞬、空の向こうに迫る戦争の気配を生々しく感じたのだった。

記事119◆歩くヒゲそり男、の記事

■掲載年月日 2003年02月18日
■編集部から

 ある月曜日の朝、私は見た。地下鉄の通路で、30代の男性会社員(たぶん)が歩きながらひげをそっている。電気ひげそりのジョリジョリという音が耳につく。「電車で化粧」女はよく見るが、「歩くひげそり」男は初めてだ。ついつい気になり、後をつけた。彼は恥じる様子もなく、電車に乗り込むまでの3分間、通路や駅を歩きながらそり続けたのだった。
 驚いた。当たり前のように堂々と電気ひげそりをほおに走らせる姿は、「電車で化粧」よりずっとインパクトがあった。何よりジョリジョリという音が嫌だ。背筋がぞわぞわっとして気味悪い。
 しかし一番驚いたのは、この話を職場で披露した時だ。「急いでたんだろう」「電車で化粧する女は許せないが、ひげそりは構わない」と男性陣はいたって寛容なのだ。皆さんはどうですか。「歩くひげそり男」を許せます?

記事118◆生きる者の記録・幸せの形・下

この記事の中で、くるみさんが大事に編んでいた膝掛け。
くるみさんにいただきました。
今も冬になると、職場でこの膝掛けにあたためてもらってます。


■掲載年月日 2003年02月08日
■「生きる者の記録」:佐藤健記者への便りから
■幸せの形/下
■描けなかった将来……闘病で得たもの、そして夢

 大阪の街で生まれ育ったくるみさん(49)は、悲しみを笑いにくるむ癖がある。
 「移植後の私の肝臓、生ゴミに出します?」と尋ねて、まじめな医師を困らせた。「持ち帰りますか」と戸惑う医師に、「食べられます?」と笑って聞いた。
 こんな具合だから、新しい入院患者が来るたび看護師に「あなたの元気で明るくしてあげて」と頼られた。しかし、心の中は不安でいっぱいだった。

 がん告知以来、一つの情景がくるみさんの脳裏から離れなくなった。
 切り立ったがけっぷちに、自分が立っている。何かに追われている。目の前に揺れるつり橋。向こう岸から夫(53)が「橋を渡れ」と叫ぶ。だけど、もし綱が切れれば落ちてしまう――。生体肝移植手術に迷うくるみさんの心の風景だった。

 移植手術のための検査が終わった昨年9月のある日、移植後の心得を書いた説明書を読んだ。免疫抑制剤を一生飲み続けること。感染性疾患の患者のそばに近付かないこと。生の食品は避け、外出する時は必ずマスクを着用……。
 制約の多さに、手術を決めていた心が再び混乱した。愛する夫の体を傷つけ、危険にさらして、大金をはたいてまでほしい暮らしって何だろう。嫌だ。やっぱり手術は受けたくない。
 「今は手術は受けません」と医師に告げた。がんをたたく塞栓(そくせん)手術が成功し、病状が好転した時期だったからだろう。医師は「ゆっくり考えて」と言った。

 揺れ続ける心を支えたのは、大好きな手芸だ。得意のレース編みを患者仲間にプレゼントし始めた。ウサギ、花かご、トンボ……。何十ものレース編みが患者の携帯電話のストラップや病室の壁飾り、看護師さんの胸のブローチになった。病棟は華やいでいった。
 喜ぶ皆の笑顔に何より励まされた。告知以来、将来を描けないでいたくるみさんの心に、ようやく新しい夢が見えてきた。
 9月25日。結局、移植を受けず退院した。

    ■  ■

 2月に入って、くるみさんは毎日、毛糸でひざ掛けを編んでいる。ブルーとグレーと黄色の優しい色合いだ。ひざ掛けを誰に贈るかは、まだ決めていない。

 体調は良くなり、寝込む日も減った。腫瘍(しゅよう)マーカーは正常値に戻った。がけの情景も脳裏から消えた。1年また1年と生き抜くうちに、新しい治療法が見つかると今は信じている。

 「がんも捨てたもんじゃないな」と思えるようになった。お陰で家族の知らなかった一面を見られた。一見気弱な夫の芯(しん)の強さ。まだ子供だと思っていた息子たちの成長ぶり。

 多くの出会いにも恵まれた。佐藤健記者が玉川温泉で闘病の友を得たように、くるみさんも入院病棟で励ましあう仲間を得た。友人の優しさにも触れた。思えば、がんは幸せの形を教えてくれたのだ。
 そして夢の形も。くるみさんは手芸作品を並べた小さな店を出す計画を進めている。


記事117◆生きる者の記録・幸せの形・上

■掲載年月日 2003年02月07日
■生きる者の記録:佐藤健記者への便りから
■幸せの形/上

 <肝臓がんの宣告を受けました。(佐藤健記者と同じ)塞栓(そくせん)手術も2回受けましたが、生体肝移植しか手がないらしいのです<大阪市生野区の主婦、くるみさん(49)のメール>

 「ご主人とご子息には既にドナー(臓器提供者)適合検査を受けてもらいました」。
 医師にそう告げられた時、くるみさんは頭の中が真っ白になった。肝臓がんを告知された昨年6月のことだ。「移植手術しか手がない」と医師は言った。
 「あの子が……あの子も検査受けたの?」。滋賀県に下宿する大学生の長男(21)の顔が浮かんだ。まだ子供だと思っていた。幼いころから怖がりで、点滴や採血さえ嫌がる子だったのに。どうしてその体を傷つけられるだろう。

 「あの子からはもらえへん」。動揺するくるみさんを夫(53)は強くさえぎった。「おれのを使う。それ(移植)をやらないと……」。夫は少し言いよどみ、「あかんようになるんや」と絞り出すように言った。

    ■  ■

 「局所療法を繰り返してもあと5年」という告知にはそう驚かなかった。十数年も前からC型肝炎の感染を聞いていたし、肝臓がんに移行しやすいことも知っていた。しかし、移植手術を受けるかどうか、という問いは重かった。
 移植手術の成功率は8割と高いが、失敗すれば数カ月の命だ。術後の免疫力の落ちた体では、がんは再発しやすく、治療しにくい。
 手術代は約1000万円。時に3000万円もかかる。息子たちが望めば大学院まで進学させてやりたかった。いつか夫婦2人のために小さなマンションを買い、週末は手をつなぎ山歩きを楽しむのが夢だった。移植手術は、そんな小さな夢さえも許してくれない。

 何よりつらいのは、ドナーとなる夫に苦痛と危険を強いることだった。自分ひとりの手術だったら、迷わず受けただろう。2〜3カ月もの長期欠勤をさせるのも申し訳なかった。

 食事中の二男(18)の背に「手術したほうがいいのかなあ」と冗談めかして尋ねてみたことがある。「当たり前やろ」。振り向いた二男は本気で怒っていた。
 長男は「おれの方が若い。おれがドナーになる」と言い張っては夫とけんかした。「子供は自分のを親に使ってほしいもんや」。二男が静かに言った。

 家族の必死の思いが心に染みた。体のだるさと不安でソファに身を横たえながら「移植を受ける価値が私の将来にあるの?」と何度も自問した。体調が悪いと、何もかもがわずらわしくなった。「今すぐ死んだ方がややこしくなくていいのに」とさえ思った。

 ある夜、夫にしがみついて泣いた。「生きたいのか、生きたくないのか、もうわかれへん」。告知後、初めて流した涙だった。「おまえは大丈夫や」。夫は大きな手で、背中を何度も、何度もなでてくれた。その胸は温かく、少しだけ安心できた。
 数日後。家族の願いに背を押され、いったんは移植を決めた。

=つづく




記事116◆生きる者の記録・恋人の時間・下

■掲載年月日 2003年01月30日
■「生きる者の記録」:佐藤健記者への便りから/2
■恋人の時間/下
■「いつも一緒にいてあげる。これからもずっと……」

 埼玉県越谷市の自宅のすぐ近くを流れる元荒川堤は、衛さん(当時52歳)と妻悦子さん(53)の思い出の場所だ。春には400本もの桜が一斉に花開く。
 昨年早春、川面を見つめ夫婦で散歩していた時、衛さんがふいにつないでいた手を解いた。そして次の瞬間、夫はもっと強く、指を絡ませてきた。

 「人前で手をつなぐことも嫌がった夫なのに。あの時の『恋人つなぎ』で、夫の心のうちにある熱いものに触れた気がしました」。泣き言一つこぼさず逝った夫の心情を思うと、悦子さんは時々たまらなくなる。

 初めて手をつないだ記憶は今も鮮やかだ。三十余年前。デモ隊ごと機動隊に囲まれた時、衛さんは「守ってあげる」と悦子さんの手を取って逃げた。23歳で結婚する時は2人で誓った。「自分たちの生き方が自分たちらしくなくなったら、勇気を持って引き返そう」
 しかし、衛さんは次第に仕事で家を空けることが多くなり、ばらばらに過ごす時間も増えた。「結局、後戻りできなかったのね」。病気になる前の長い夫婦の時を、最後の1年間のように過ごせていたなら……と悦子さんは今悔しく思う。

    ■  ■

 衛さんは4月2日、東京・錦糸町のホスピスに入所した。桜の花を楽しみにしていた衛さんへの贈り物のように、その年、桜は3月に咲いた。悦子さんはホスピスに寝泊まりし、出会った時のように2人きりで過ごした。夫は間もなく気管切開で声を失ったが、首に通した管の開口部を親指で押さえては、くぐもった声で妻に語りかけた。

 隅田川花火大会のある7月27日の朝。「今日あたり天に召されるかな」と衛さんは言った。悦子さんは無理やり、夫の小指に自分の小指を絡ませた。「一緒に花火を見るって約束して」。その夜、2人の頭上では色とりどりの花火が夜空を焼いては消えていった。

 8月1日朝。衛さんは虚空を指さし「ほら、もうすぐだよ」とつぶやいた。その夜、落雷で病室が昼間のように明るく照らされた瞬間、悦子さんは夫の両目に光る涙を見た。
 翌2日午前2時。衛さんは眠るように逝った。最後に口づけした時、夫の唇はまだほんのり温かかった。

    ■  ■

 衛さんの発病後、家族アルバムの写真が急に増えた。最後に会社のイスに座った衛さんは、病気を思わせないほど自信に満ちた笑みを浮かべている。衛さんの誕生日の写真には、娘のカメラの前でおどけて夫にキスをする悦子さんが写る。アルバムに流れるのは「恋人の時間」だ。

 生前の夫を泣かせたことがある。「長い間独りぼっちで放っておかれた私は愛されてると思えなかった」と。病室のベッドで夫は涙ぐみ、釈明した。「僕はどこにいても悦子さんを心で大切に愛していたのに」

 夫が逝った今、その言葉の意味がよく分かる。遠く離れても、愛することはできる。「不思議にね、今も寂しい気持ちがしない」。だってホスピスで衛さんは何度も約束してくれたのだ。
 「いつも一緒にいてあげる。これからもずっと」


記事115◆生きる者の記録・恋人の時間・上

毎日新聞記者、佐藤健さんが、がんの闘病生活を綴った「生きる者の記録」。佐藤さんの死の後、この連載を、何人かの記者で受け継ぐことになりました。
久しぶりに社会面で記事を書きました。
私自身、母ががんで死んでいるので。
この記事に書いた悦子さんとは、初対面なのに、そんな気がせず、気づけば二人でティッシュを挟んでワンワンと泣いていたという始末。
胸がいっぱいになる取材でした。


■掲載年月日 2003年01月29日
■生きる者の記録:佐藤記者への便りから/1
■恋人の時間/上
■余命を告げないと、夫はボロボロに…


 佐藤健様 ござを抱えて岩盤へ向かうお写真に胸がつまりました。私たち夫婦も秋田県・玉川温泉で湯治いたしました。私には第二の新婚旅行でした。
<埼玉県越谷市に住む悦子さん(53)のファクス。夫衛さん(当時52歳)は02年8月に亡くなった>



 「きれいね」
 「うん、きれいだ」

 衛さんは妻悦子さんに寄り添われ、玉川温泉の岩盤の上に寝転んでいた。青空に温泉の湯気が巻き上げられ、キラキラ光っている。川のせせらぎ、そして風の音。目を閉じると、大地に抱かれているような、空を飛んでいるような、不思議な気持ちになる。
 ちょうど1年前の冬のことだ。

 耳元で秋田県生まれの衛さんが言う。「君に一度雪国の冬を見せたかったんだ」。衛さんは半年前に末期の肺がんを宣告されていた。手術はできなかった。かぼそい希望を玉川温泉の岩盤浴につないだ。

 2人は恋人同士に戻ったようだった。温泉旅館の部屋に「く」の字に並んでいたベッドを隣り合わせに並べ替え、夜をいとおしむように眠った。樹氷が朝日を浴び、桜色に輝くのを、息を詰めてながめた。1メートルもある氷柱を折ってはチャンバラゴッコをした。
 手をつないで、浴場までの長い長い廊下を黙って歩いた。
 時が止まればいい――。ただ、そう思った。

   ◆   ◆

 01年夏、悦子さんは東京都内の病院で、精密検査の結果を聞いた。「1年の生存率は10%です」。病名は告げても余命は告げないで、と医師に頼んだ。

 広告代理店を経営していた衛さんは、「僕はせいぜいあと5年だろう? 時間がない。後継者を2年で育てなければ」と仕事を理由に入院を拒んだ。それでも、家族の説得で入院した後は、むしろ精力的に抗がん剤治療に取り組んだ。「早く職場復帰を」という一心だった。
 ある日、「この種のがんには抗がん剤はあまり効かない」と医師から告げられた。悦子さんは「治療はもうやめて!」と心の中で叫んだ。夫は助かることを信じている。だからこそ日焼けした顔が土気色に変わっても、頭髪の色が落ちても、副作用に耐え、数年先の仕事の予定を立てようとしているのだ。「余命を告げないと夫はボロボロになってしまう。悔いを残してしまう」

 医師に「真実を告げて」と頼んだ。「自殺するかも」と拒まれ、自分で告げる覚悟を決めた。「1年生きられる可能性は10%なんだって……」。悦子さんの言葉にしばらく黙っていた夫は、ただ一言つぶやいた。「そういうことだったのか」

 自宅に戻ると、パソコンにメールが届いていた。

 <最期まで冷静にいたいな。格好悪いのはいやだから>

 涙があふれた。こんな時まで格好つけてどうするのよ。独りぼっちの病室で、あなたはどんな思いでこれを書いたの? 今すぐ夫をこの手で抱きしめ、家へ連れて帰りたかった。 =つづく


記事114◆サーカスを見に行く、の記事

子どものころ、木下大サーカスを家族で見に行ったんだ。
それがあまりに懐かしくて。
つい、むきになって取材しちゃった。
そんな記事。


■掲載年月日 2002年12月25日
■木下大サーカス、100周年
■今年最後の夢を見物
■高みを目指す技と芸−−今日より明日

 赤いテントが目に入った瞬間、郷愁で胸がいっぱいになった。幼い日、心ときめかせて見た木下大サーカス。100周年を迎えたという2002年の暮れ、千葉・幕張の赤テントに、今年最後の夢を見に行った。

 赤いテントの中では、古典芸「7丁椅子」が演じられていた。高さ2・5メートルの台の上に七つの椅子を積み上げ、傾いた椅子の上で逆立ちする。椅子がぐらぐら揺れるたび、観客は悲鳴すら上げられず、息を詰める。

 演じているのは中園栄一郎さん(30)。19歳の時、空中ブランコに一目ぼれして入団した。道具置き場にホコリの積もった古い椅子を見つけた時、先輩から「昔、7丁椅子って芸があったんだ」と聞かされた。すでに演じる者もなく、ビデオも残ってなかった。手探りで技を復活させるのに3年かかった。
 スポットライトの中で、逆立ちの技が決まった。緊張に満ちた沈黙が一転、拍手喝さいへと変わる。この瞬間が中園さんは一番好きだ。

 ▲テント裏は生活の場▽▲

 まばゆいほどに華やかなテントも、裏側に一歩出るとそこはもう生活の場だ。雨上がりでぬかるんだ無舗装の地面に40以上の白いコンテナハウス。そして動物用のオリ。約60人の団員と、キリンやライオンなど8種21頭の動物が一緒に暮らしている。
 昔はテントをベニヤ板で仕切って住んだものだが、今は冷暖房完備のコンテナに変わった。食事は主に弁当。共同炊事場もある。風呂は順番だ。幼児から中学生まで7人の子供がここに暮らしている。昔はもっと多かったが、年に3〜4度も転校するため、いじめや勉強の遅れを案じ、子供が学齢期を迎える前に母親が退団し、定住するケースも増えているそうだ。

 空中ブランコ乗りの久保田千都世さん(35)は4歳、小学3年、中学生の3人の子をここで育てている。「上の子が小学校に入学した時、退団も考えました。子供を犠牲にはできないから。でもあのころ、仕事が一番楽しい時期でどうしても辞められませんでした」
 揺れる妻を支えたのは、サーカス育ちの団員で夫の勝人さん(38)の言葉だった。「大丈夫。僕は親とサーカスで一緒に暮らせてよかった。楽しかった。転校だって今ではいい思い出だ」

 今、中1の息子は全国に友だちがいる。「お母さん、きれいだったよ!」。千都世さんが舞台を降りると、時折子供たちの声が飛んでくる。

 ▲観客数世界一目指す▽▲

 木下サーカスは中国・大連で1902年、軽業や曲芸中心に旗揚げした。ロシア巡業で空中ブランコを覚え、大正時代には動物を加えて発展。戦後も50年代から海外公演を行ってきた。

 サーカスを取り巻く状況は厳しい。娯楽の少なかった50年前、国内に40もあったサーカスが、今はわずか3団体。テレビの登場がサーカスを斜陽産業に押しやったのだ。世の中が豊かになるにつれ、入団希望の若者も減った。そんな中、「木下」は新人を積極的に育て、海外からも人材をスカウトし、順調に観客数を伸ばしてきた。現在年間120万人。米国リングリング・サーカスに次ぐ世界第2位だ。4代目の木下唯志社長(52)は「次の100年で世界一を」と夢を語る。

 さらに最近、サーカスに夢を求める若者が増え始めている。就職難も背景にあるのかもしれない。「普通の会社員になりたくない」「手応えのある仕事をしたい」「人々に夢を与えたい」。そんな具合だ。

 高校の体操部出身で昨年入団した高岡由侑(よしゆき)さん(19)は「僕にしかできない芸を生みたい」が夢。今年入団した木下英樹さん(23)は社長の二男だが現在、下積み期間中。テントの外で切符を切りながら「夢は空中ブランコ」という。
 サーカスには、夢を持たない人はいない。「夢いっぱい」はサーカスのお決まりの形容詞だが、テントを満たす「夢」は実は団員たちの技にかける思いなのかもしれない。

 ▲やっぱりここが一番好き▽▲

 フィナーレは空中ブランコだ。右から左、左から右。10人近い団員が自在に飛ぶ。久保田夫妻の姿ももちろんあった。口べたなんだ、と逃げ続け、ほとんど話をしない勝人さんに尋ねたことがある。サーカスをやめよう、と思ったことはありますか――。

 「僕は小さいころからサーカスの世界しか知らない。だから外の世界を見たいとは何度も思った。でも結局外に出なかった。ここが一番好きなんだ。子供も僕らのサーカスを見ればきっと分かってくれる。だって、僕もテントで父さんの背中をずっと追いかけてきたんだから」

 昨日より今日、今日より明日。
 高みを目指し続けるサーカスの夢は、とてもまぶしくて、なぜか心に染みた。

 終演。出し物がすべて終わっても、観客の拍手はしばらくやまなかった。子供よりも、大人の方が幸せそうな顔をしていた。夢が必要なのは、子供より大人の方なのかもしれない。


記事113◆加藤登紀子さんのコンサートを聴きに行く、の記事

かつて団塊世代のマドンナだった加藤登紀子さんを、今、男女がどんな風に聴いているのかが知りたくて、取材してみました。


■掲載年月日 2002年12月19日
■2002年の「心情」を聴きに行く
■加藤登紀子・ほろ酔いコン

 加藤登紀子さんは舞台に現れると、激しいラテンのステップを踏み始めた。真っ白い衣装が揺れる。はじけるライトがまぶしい。客席をうめる50代、60代の女たちも負けてはいない。上半身がリズムに乗って激しく揺れている。鼻柱にはもう汗が浮いている。

 圧倒された。予想していたオープニングとあまりに違い過ぎたからだ。ここは登紀子さんの年末恒例「ほろ酔いコンサート」。開演前、客には日本酒が振る舞われ、登紀子さん自身も舞台で飲みつつ歌うことからその名が付いた。「これがないと年が越せない」という常連さんも多い。だから私は考えた。1曲目はきっと古いバラード。客は70年代の歌に青春時代を思い返し、涙する……。ところが実際は全然違ったのだった。
 「知床旅情」目当てで来た客は、度肝を抜かれただろうな。そう思って周囲を見回したら、斜め後ろの席に3人の男性が並んで座っていた。3人とも腕組みしている。表情が硬い。圧倒的多数の女たちに囲まれ、いかにも居心地悪そうなのだった。

 ふと、開演10分前の光景を思い出した。まるで女向けの居酒屋状態だった。ロビーはどこを見ても女、女、女。みな紙コップ片手にぐいぐいやっている。つまみ持参のつわものもいる。60代の女性グループは口々に言うのだ。「昔を懐かしむために来てるって? 冗談じゃないわ。大切なのは今よ」「そうそう。新しい音楽に次々挑戦する今のお登紀さんの生き方に共感できるのよね」「衣装もすてきだし」
 「ご主人とは来ないんですか」と尋ねたら、「あの人、仕事人間だから面白くないもの」とばっさり。話題はたちまち夫への不満と変わってしまった。

 一方、男性客の方はと言えば「彼女の歌は心に染みるね。じーんとくる。もちろん泣きはしないけど」「古い曲だけど、知床旅情が一番好きです」。45歳と53歳の職場の同僚だという。「泣きはしない」の一言が妙に哀愁を帯びていたっけ。
 お仕事、大変ですか。
 「明日はリストラの身。しがない中間管理職ですよ」。2人、はははと笑ったのだった。

    ◆   ◆

 「ほろ酔いコンサート」は毎年年末に全国各地で開かれてきたが、とりわけ今年は特別なものとなった。30周年、というだけではない。今年7月、元反帝全学連委員長の夫・藤本敏夫さんが亡くなった。結婚して30年目の夏だった。
 登紀子さんは「世代」や「時代」でよく語られる。「加藤登紀子の歌には時代背景が浮かび出ている」と語ったのは、ほかならぬ夫・藤本さんだ。デビューは65年。東大安田講堂攻防の69年に「ひとり寝の子守唄」がヒットし、連合赤軍の浅間山荘事件の72年には藤本さんと獄中結婚した。今も登紀子さんの歌に青春を重ね合わせる団塊世代の男たちは少なくない。
 1947〜49年のベビーブームに生まれた団塊世代。受験戦争にもまれ、全共闘を担い、企業に入っては日本経済をけん引する一方、ニューファミリーなど新しいコンセプトをも生んだ。しかし今、彼らはリストラの最前線にいる。数が多いゆえ、ポストが足りない。退職金支払いで会社がパンクする、と早期退職を強いられてもいる。

 横浜でほろ酔いコンサートを主催する横浜音楽鑑賞協会の浜永広生事務局長は「70年代は若い男性客ばかりでした」という。つまり若かりし日の団塊の男たちである。「女性客が男性客を圧倒するようになったのは80年代から。バブルの時代、男は忙しすぎたんでしょう。最近地方で男性客が戻り始めています。不況のせいでしょうか」

 事務所トキコプランニングの加藤幸子さん(62)も「男性ファンは奥さんに誘われてようやくやってくる。自分の方が熱烈なファンでも、握手会では奥さんの陰に隠れてしまう。一方で70年代を引きずり、そのころのカセットテープを擦り切れるまで聴いている男性も多いようです」と教えてくれた。

   ◆   ◆

 「心と体で参加して。頭はいらないから」と登紀子さんの声。コンサートの30周年を記念し、過去30年分の曲のメドレーが始まったのだ。最初の曲は「知床旅情」。「しれーとこーのみさーきにー」。気付けば誰もが歌っている。体内のアルコールが涙腺を緩ませる。ハンカチを握り締め、客がすすり泣く。
 その時だ。「おときさーん!」。誰かが叫んだ。男の声だ。そしてまた一人。「おときさーん」。これも男性。不思議だ。さっきまで女たちに押され、元気なく見えたのに、開演からわずか半時間で舞台に叫ぶのもまた、男たちの方なのだ。

 声の主は、横浜市の男性公務員(53)だった。「コンサートは72年の日比谷野外音楽堂以来です。ご主人を亡くしたお登紀さんを励ましたくて。30年分のメドレーに青春時代が走馬灯のように思い出され、胸がいっぱいになったんです」。彼は登紀子さんと一緒に東京・本郷でデモに参加したこともあるという。「僕らの世代の男は学生運動が不完全燃焼だったからか、元気のないやつが多いかも。もっと男が元気にならないとね」
 ふと振り返ると、斜め後ろの3人の男たちがいつの間にか腕組みを解き、手をたたいていた。少し調子外れの手拍子が妙に心に染みた。

   ◆   ◆

 「子育てを終え、これから互いに向かい合える時がきたのに。子も巣立ち、藤本が逝き、私は急に一人になってしまった」と語る登紀子さん。藤本さんが千葉県で無農薬農業をやる、と言い出した時、登紀子さんは迷った末、幼い子供と東京に残ることに決めた。2人とも自由を求め、やりたいことも無限にあったから、平たんな夫婦生活ではなかった。
 「ほろ酔いコンサート」でも、時には夫婦の難しさを語り、夜帰らない思春期の娘を玄関先で待ち続けた体験を語った。女性ファンたちが「お登紀さんと一緒に結婚、子育て、子離れをしてきた気がします」と言うのもそのためだろう。

 一見明るく見える女性ファンたちもまた、心の奥に重いものを抱えている。「乳がんで入院した時、『元気になってコンサートに行こう』という思いを支えに闘病した」「7年前に26歳の息子を亡くした時、彼女の歌に涙が止まらなくて……」

 今は何かが壊れ
 何かが生まれようと
 している時代。
 女は1本の
 大きな木です。

 登紀子さんは2002年の師走をこんなふうに見つめている。「今は、何かが壊れ、何かが生まれようとしている時代。女は1本の大きな木です。もしも葉を枯らしても、地面に深く根を張り、春がくれば芽生える。だけど男は違う。高い塔を作ろうと、時間の積み木を積んでいる。崩壊の時は、本当にすべてが崩れてしまう。今の時代、女の感性は救いじゃないかしら」

     ◆   ◆

 アンコール。ギター1本で歌が始まる。目を閉じると、歌声に抱かれている気がする。彼女は舞台で結局、夫の死に具体的には触れなかった。でも目尻を何度もぬぐった。「愛することって本当に大変だから。もう、きっとしないと思うわ」。泣いているような笑顔で彼女がそういうと、客席はその日一番温かい拍手で彼女を包もうとした。
 最後の曲は「花筐(はながたみ)」。亡き夫への思いを込めた一曲だ。登紀子さんが酒杯を掲げ「乾杯」と叫ぶと次々と女たちが立ち上がる。つられて男たちも立ち上がる。登紀子さんは歌う。
 
 何かがはじまるわ
 時間は動いてる
 誰にも止められない
 歩き出した 明日(あした)への足音
 
 2002年は不安の年だったと人はいう。日本は冬の時代だと。新しい年、私たちが向かう先はまだ見えない。それでも登紀子さんは歌う。客席も歌う。
 
 春が夏に変わるように
 夏が秋に変わるように
 冬もいつか
 花の季節によみがえる
 
 振り向くと最初は腕組みしていた3人の男たちが笑顔で肩を揺らし踊っていた。「冬」を背負う男が女が、今はただ「花の季節」を願い歌っている。
(JASRAC 出0216315―201)


記事112◆タマちゃんの記事・冬の章

タマちゃんがすっかり人気を失った後も、タマちゃんの追っかけは毎日頑張っていた。そんな記事。
今回は、タマちゃん年表付き。


■掲載年月日 2002年12月05日
■タマちゃん騒動 冬の章
■帷子川コミュニティーの広がり


 タマちゃん騒動って、何だったんだろう。一時は1日に5000人を集めた真夏の大騒ぎから約4カ月。とうとう今年の流行語大賞にもなってしまった。夏が終わり、秋が過ぎ、いつしか冬を迎えても、タマちゃんはコンクリートに3方を塗り固められた都会の川に生きている。人々の関心が遠ざかった今だからこそ、考えてみたい。
タマちゃん、冬の章――。

 タマちゃんが帷子(かたびら)川に居着いて2カ月半以上が過ぎた。不思議だ。多摩川の時はニュースになって10日後、鶴見川でもわずか6日間で姿を消したのに。多摩川や鶴見川は、川辺に草花の咲く郊外のオアシスだ。かたや、帷子川はコンクリートで塗り固められており、土手さえない。人の目にはあまりに殺風景なこの川を、タマちゃんはなぜか選んだ。泳ぎ疲れた体を休めるために、コンクリート護岸の決まった場所に戻ってくるのだ。
 JR横浜駅から相鉄線で2駅目。西横浜駅の改札を出ると、そこはもう帷子川だ。黄色い落ち葉に交じって、ペットボトルや空き缶が流れていく。川下に10分ほど歩くと、約20人の集団が見えてくる。タマちゃんの「追っかけ」である。

 日本中の人々がタマちゃんに飽きて、次の「癒やしキャラ」であるノーベル賞サラリーマン、田中耕一さんに夢中になっていた時も、彼らはタマちゃん一筋だった。「毎朝5時半に家を出て電車で30分かけて通っています。タマちゃんは早朝に現れるから」とは横浜市に住む内村さん(68)。動物写真が趣味だ。
 「都会のど真ん中で一生懸命に生きようとする姿が感動的なんだよね。地図で確かめたら、タマちゃんって5000〜8000キロも泳いできたんだ」。別の男性(72)が地図を広げると、たちまち人だかりができた。

 ここの面々の多くがカメラ愛好家だ。そこに動物好きの主婦やビデオ好きが集まって、いつの間にやら「タマちゃんコミュニティー」ができ上がった。最近は「タマちゃんを見守る会」まで発足し、6日から横浜市のホテル「シャトレーイン横浜」のロビーで写真展まで開く勢いなのだ。

 「今日は出ますかねえ」。つぶやく私に、みなは「無理だよ」と言う。何でも法則があって「最近は1週間に1度程度しか出ない」「早朝出なければ、午後から出ることはまずない」という。でも、「今日は出ない」と確信するなら、なぜ、みなここに集まっているのだろう? これは最大のナゾなのだった。

 「タマちゃんコミュニティー」は実に仲がいい。タマちゃんが現れたら、仲間に電話する手はずになっている。「自然発生的に連絡網ができちゃったんです」と町田市の男性(34)。毎日、誰かが菓子や果物を持参し、配って回る。この日の人気のお菓子は「タマちゃんクッキー」だった。
 会社を退職し、第二の人生を送る者から、現役の勤め人や主婦まで。「タマちゃん」という共通項がなければ、縁もゆかりもない人たちが今、タマちゃんを案じ、互いの自然観を語り、写真を見せ合っている。「みんなと一緒だとあっという間に時間が過ぎる」と内村さん。タマちゃんが現れなくても、彼らがここに通う理由が垣間見えた気がした。

    ■    ■

 タマちゃん騒動は動物学者らの間でも関心が高い。動物行動学と科学社会論が専門の堂前雅史和光大専任講師は「アザラシが日本に迷い込んだ例は過去30年間に30例以上ある。しかし、タマちゃんだけが騒がれ、まだ弱ってもいないのに保護論議が盛り上がった」と指摘する。事実、昨夏には愛知県・三河港にアゴヒゲアザラシがすみ着いたが、名前も付かなければ、保護論議も起こらなかったという。
 「タマちゃんの場合は首都圏の川だったので全国ニュースになりやすかったのだろう。また『都会の川にアザラシ』と聞くだけで反射的に『かわいそう』と思うのは、現代人の自然観の表れではないか。自分たちの暮らす都市が手付かずの自然環境ともつながっている、という事実を忘れているのだろう」というのが堂前氏の分析だ。

 保護論議は落ち着いたが、今も「毛が汚くなった」と心配するファンは少なくない。鴨川シーワールドの荒井一利海獣展示課長は「毛の抜け変わる春には灰色の毛も、この時期には茶色っぽく、汚れた感じになるのは普通の変化だ。弱れば保護も必要だが、自由に泳げるタマちゃんは自分で選んで帷子川にいる」と説明する。「独りぼっちはかわいそう。仲間のもとに戻して」という声にも、「アゴヒゲアザラシは繁殖期以外、単独で暮らすのが普通」(荒井課長)という。

 さらに今回の騒動に欠けていた視点に、野生アザラシの危険性がある。ニュージーランドの保護局のホームページには、陸に上がった野生のアザラシについて注意を呼びかけている。いわく、アザラシのかみ付く力は犬の3倍で、人にも動物にも感染する病気を持つケースが多く、アザラシの咳(せき)からも病気は感染する。つまり、タマちゃんに近づくのは「かわいそう」以前に、人間にとって危険なのだ。
 堂前氏は「この視点が欠落していたのは、人々もメディアもタマちゃんを『かわいくてかわいそうな存在』にとどめたかったからではないか」という。

 そうかもしれない。
 8月下旬、鶴見川で観客たちのこんな言葉を聞いた。「タマちゃんは、人間に川をきれいにしなさいって神様が遣わしてくれたのかも」「タマちゃんがいるだけで川が浄化されていきそうだね」。都会の人間にとって、タマちゃんは単なる野生動物ではなく、「希望」とか「祈り」とか、そんな存在だったのかもしれない。

    ■   ■

 タマちゃん騒動が9月下旬、急にしぼんだ理由は何か。理由はいくつもあるだろう。飽きられた。出没頻度が減った。それに帷子川の環境も大きい。鶴見川や多摩川では、見物後にお弁当を食べたりデートする人が多かった。しかし、帷子川には散策できる土手さえない。
 また、9月下旬から北朝鮮による拉致事件が注目され、世の中からのんびりしたムードが消えた。10月10日にはノーベル賞サラリーマンという「癒やしキャラ」の強敵も現れた。

 そして今、帷子川は静かである。今の面々は「ターマちゃーん!」などと叫ばない。護岸を走ったりしない。対岸からしか観察しない。夜や早朝、街灯がついている時は護岸に乗らない、という自主ルールさえある。人影が街灯の明かりをさえぎり、水面に届く光が揺れるからだ。
 タマちゃんが多摩川や鶴見川ではなく、帷子川を選んだのは、このあたりが原因なのだろう。人の背ほどもある高いコンクリート護岸は、人間の目には無粋に映るが、実は自動車のライトや人影から川を守っている。タマちゃんはやっと、「静かな川」を見つけたのだ。

 帰り道、橋から帷子川を望んだ。川の向こうに、横浜の繁華街が見えた。2002年夏の騒動は、日本にいったい何を残したのか。それが、商標権を持たないタマちゃんの関連グッズだけなら、あまりに悲しい。
 段ボールが川面を流れていく。この川の先にあるはずの、見たこともない北極海を思った。


■自然の使者は何を問い直しているか
■−−矢野智司京大大学院教育学科教授(人間社会学)の話

 タマちゃんは私たちに、動物園や水族館では感じることのできない「強い野生性=生命感」を与え、目の前の汚れた川が実はかなたの北の海とつながっている事実を教えてくれた。息苦しい人間界に吹き込んだ生命の風のような存在だったといえる。
 一方で「タマちゃん」という愛称を得たことで、野生性の持つ近寄りがたさは薄まった。擬人化が進み、ぬいぐるみのように「かわいい」存在へと変化した。タマちゃんは、愛称を得たことでほどよく人間化されたのだ。
 この野生性と人間化との絶妙のバランスこそが、タマちゃんの人気の秘密だ。ピーターラビットが青い服を着ることで子どもたちを魅了したように、タマちゃんは愛称を得たことで人々を魅了した。だから、タマちゃんがいつでも簡単に見られる存在となってしまえば野生性は失われ、このバランスは崩れてしまうだろう。
 野生の世界からちん入したタマちゃんを自然の使者と考え、人間と自然との関係を問い直すのか、それとも単なる癒やしの消費物で終わらせ、すぐに忘れてしまうのか。その点こそが、私たちにとって最大の分かれ目ではないだろうか。

…………………………………………

■タマちゃんの4カ月■

8月 7日 民放が夕方のニュース番組で「多摩川にアザラシ」と報道。
16日前後 メディアが相次いで報道開始。観客は延べ500人程度。保護論議始まる。
  17日 タマちゃん、台風前に消える。観客は延べ3000人程度に膨れ上がる。
  25日 8日ぶり鶴見川に現れる。人気はピークに達し、保護論議も白熱。
  30日 タマちゃん、再び消える。
9月12日 12日ぶりに今度は帷子川に現れる。
9月 下旬 出現頻度が減り、観客数も急減。大岡川にも現れることもあった。
   現在 約1週間おきに現れている。


記事111◆水谷修さんを「ひと」欄に書いた記事

この記事には、彼の自宅の電話番号を添えました。
彼がそれを望んだからです。今は非公開なので、今回再掲するにあたり、削除しました。

■掲載年月日 2002年12月05日
■ひと:「第17回東京弁護士会人権賞」を受賞した水谷修さん

 11年間、若者をむしばむ薬物汚染と闘ってきた。繁華街を「夜回り」し、生徒や知らない若者に声をかけ、「困ったら連絡しろ」と自宅の電話番号を刷った名刺を配った。
 薬物相談で携帯電話は夜中も鳴りっぱなしだ。定時制高校で教壇に立つかたわら、授業のない午前中と休日に、年間200件以上もの講演をこなす。いまかかわっている薬物依存者だけでも、13歳から57歳まで812人に上る。
 「頑張り過ぎて体を壊すぞ」と忠告されるが「『いつでも、そばに付いている。一緒に薬をやめよう』と子供と約束した。うそつきになりたくない」と、生き方を変えない。
 理由がある。11年前、シンナー漬けの教え子(当時16歳)に死なれた。「先生と暮らせばシンナーをやめられる」という子を3カ月間自宅に住まわせたが、少年は結局、シンナーに酔ってダンプカーに飛び込んだ。
 骨揚げの時、シンナーにやられた骨はサラサラと崩れて、はしでは拾えず、泣きながら手ですくった。薬物治療の病院で医師に言われた。「薬物依存は病気だ。愛の力では治らない。あんたが殺したんだ」
 以来、薬物依存について学び、病院やリハビリ施設、警察にも人脈を広げた。「まじめな、いい子ほどクスリに捕まっていく。みなつらい事情を抱えている。彼らだけが悪いのではない。クスリにすがらねば生きられない社会を作ったのは大人だ」。誰よりも、子供に寄り添う人である。

記事110◆暑すぎる冬の地下鉄に怒る、の記事

■掲載年月日 2002年11月27日
■編集部から

 冬の地下鉄は暑過ぎる。通勤電車ではマフラー、コート、ブルゾンを全部脱ぐ羽目になる。一度コートを脱がずに我慢したら、汗びっしょりになった。
 ところで最近、ドイツに10年暮らす幼なじみが帰国し、「日本の電車は暑すぎる」と言い出した。私は仲間を得たと大喜び。営団地下鉄によると、冷房には温度設定があるが、暖房にはないらしい。つまり込めば、その分暑くなる。「車掌の判断で切ってます」(営団地下鉄)というが、経験的に言ってほとんどつけっぱなしではないか。「暑過ぎます」と申し上げたら、「暑い、という声は聞きません。寒い、という方はいますが」(同)という。
 驚いていたら、今度はドイツの彼女が言った。「これじゃ氷点下のドイツの冬の公園の方がマシや」。うーん、そっちは私には寒すぎる。やはり個人差なのか。みなさんはどうですか。



記事109◆不良債権にあえぐ街、木更津を歩く、という記事

木更津での取材を終え、東京方面に帰る際、ふとバスでアクアラインを経由し、横浜に行ってしまったの。これはほんとの偶然。
でもお陰で、記事の最後を、横浜そごうで終える、という展開にできました。
後日、元上司から、「おぐにちゃん、あれ、最初から仕込んであったんでしょ? 偶然なんてウソでしょ」としつこく聞かれたけど、これはほんと、全くの偶然だったんです。だって横浜にそごうがあるなんて、知らなかったもの。ましてバス停がそごうの地下にあるなんてね。



■掲載年月日 2002年11月25日
■不良債権にあえぐ街、千葉県木更津市を歩く


 日本中で地方都市が今、不良債権にのみ込まれ、あえいでいる。自治体財政は破たんし、若者たちの就職先はなく、銀行の貸し渋り、貸しはがしで地元企業の倒産は増える一方だ。駅前の商業地の地価が3年連続で20%以上下落した千葉県木更津市は、そんな地方都市の代表格とされる。不良債権に押しつぶされそうな街、内房の木更津を歩いた。


 あんまりだ。
 JR木更津駅西口を出た瞬間、思った。正面の地上9階建てビルの白壁には、今も「SOGO」の大きな看板が残っていた。日本長期信用銀行の破たんをきっかけに木更津そごうが倒産してすでに2年。まさに不良債権の象徴だ。人々はこれまで、駅前で「SOGO」の赤い文字を見上げるたび、どんな思いをしてきたのだろう。
 せめて看板を撤去すればいいのに――。しかし、今や「SOGO」の看板を取り去ることは難しい。ビルを管理してきた第三セクターの会社は昨年12月、75億円の負債を抱えて自己破産した。現在は、わずかに61店舗が1、2階を中心に営業する。木更津そごうの持ち分の権利(ビル全体の33%)は現在競売に掛けられているが、買い手はない。「よほど余裕がないと手を出せない物件でしょうね。所有権は複雑だし、イメージが悪すぎる」と市内の不動産関係者もため息混じりにいう。

 目抜き通りの富士見通り商店街にも、人影はほとんどなかった。下ろしたシャッターはどれも落書きされ、痛々しい。冬の晴れた日には富士山も見られる美しいこの通りは、最近、「シャッター通り」と呼ばれているのだそうだ。
 旧そごうビルに入ってみた。ブティックなどの並ぶフロアを抜け、3階に上がろうとすると、エスカレーターに「立ち入り禁止」の札。上階をのぞき込むと、真っ暗闇だった。地下や3〜6階は閉鎖されているのだ。ようやく見つけたエレベーターで7階に上ると、そこは100円ショップ。お次の8階は、将来市内で店を持つ意思のある主婦や学生らを対象に、空きテナントを3坪(約10平方メートル)1万円の安値で貸しているチャレンジショップとなっていた。市の支援のもと始まった苦肉の空きテナント対策だが、店というよりフリーマーケットに近い雰囲気だ。

 このビルは、バブル最盛期の88年、南房総唯一の都市型デパートとしてデビューした。誰もが「駅前にデパートさえあれば街は発展する」と信じて疑わなかった。しかし、今、客はほとんどいない。空きテナントや立ち入り禁止の札は寂りょう感を感じさせ、SOGOのロゴのついた掲示板などがあちこちに残るさまは見る人の気持ちを暗くする。ここはまるでバブルの傷跡を集めた博物館のようだ。

  □■□

 次の場所は、人々の熱気に満ちていた。「ハローワーク木更津」である。求人情報を閲覧できる30台のコンピューター端末は常に満杯。若者や働き盛りの中年の姿が目立つ。「いい仕事なんかないさ。まあ、できる仕事もないんだけど」。大声で話す40代ぐらいの男性がいた。盛んに隣の人から前の勤め先を聞き出そうとしている。根負けしたのか、隣の男性がつぶやくのが聞こえた。「新日鉄(新日本製鉄)の下請けですよ」。一瞬の沈黙の後、うるさかった男性が静かに言った。「人生、楽じゃないね」

 木更津のにぎわいは、隣の君津市にある新日鉄の製鉄所と切っても切れない。65年に製鉄所ができると、大量採用された従業員らが木更津の繁華街に通った。市内にあった社宅は、独身寮だけで1500人分に上ったという。しかし、鉄冷えの時代、数多くの下請けが受注不振に苦しんでいる。2年前には、木更津そごうの倒産で大量の解雇者が出た。「解雇者120人のうち114人が木更津市や近隣市在住者でした。再就職先を確認できたのは67人。残りの人? もう失業保険給付期間が切れたので、うちでは把握できません」とハローワークはいう。

 帝国データバンク千葉支店によると、同市内の今年1〜10月の倒産件数は21件、負債総額は過去最高の307億円に上る。昨年の17件、175億円よりずっと多い。「建設関連の大型倒産が増えた。政府の不良債権処理策を受け、地元銀行が処理に急いだ余波もあったのでしょう」

 ふと、「市場から退出すべきは、ご退出願う」という竹中平蔵金融・経済財政担当相の言葉が脳裏に浮かんだ。「ご退出願った」後に残るのが、木更津駅前の風景だったとしたら……。ここは、不良債権を抱える日本の地方都市の「未来図」なのだろうか。
 ◇商工会議所は暮らす人のための街づくりを模索

  □■□

 市役所の屋上に上った。9月に業務上横領容疑で逮捕された須田勝勇前市長が長く君臨した場所だ。屋上から港を一望できた。その向こうに東京湾アクアラインが見える。「木更津が首都圏と近くなり、より街がにぎわう」と鳴り物入りで開通したのが97年。しかし、木更津市民は高速バスやマイカーで横浜に買い物に出かけてしまう。期待したのと逆に、人は流れた。「逆ストロー効果」というらしい。おまけにアクアライン利用者は当初予想の半分以下で、累積赤字は700億円近い。海を渡るあの長い橋自体もまた、「不良債権」なのだ。

 乗ってみよう、と思った。あれで横浜に行ってみよう。

 高速バスは木更津駅東口から出る。東口は西口より人の流れがあった。そごう倒産の翌年に東口のダイエーが撤退したが、今は別のスーパーが1階に入り、それなりににぎわっている。
 旧ダイエー前の商店街で、スケートボードを楽しむ少年に目がいった。顔中、ピアスだらけだ。隣に「スケートボード禁止」の看板が立っている。「こんなしけた街、すぐに出て行ってやる」といかにも言いだしそうだ。しかし、少年2人は口をそろえて言ったのだった。「東京? ほとんど行かないっす。アクアライン? ほとんど乗らないっす。木更津は僕らが生まれ育った街。このしみったれたところも好き」

 驚いた。買い物客にも片っ端から聞いて回った。「さびれちゃったけど、暮らすには良い場所ですよ。車があればアクアラインで便利になったし」「東京より夏は涼しく、冬は暖かい。景気は悪いけど、住みやすい街だと思うけど」。みな「住みやすい」と口をそろえるのだ。
 「木更津には横浜にないものがありますよ」。横浜市出身で、旧そごうビル8階のチャレンジショップのスタッフ、筒井啓介さん(22)はいう。大学4年生の学生起業家で、2年半前から木更津で1人暮らししている。「自転車で5分走ると『元気かい』と声を掛けてもらえる。アパートの家具はみな地元の人が分けてくれた。僕は木更津の将来を悲観してないんですよ」。最近は、商店街の空き店舗での高齢者向けデイケアセンター設立にも協力した。空き家を借りて、乳幼児の一時保育施設を作る計画もある。市は「今暮らす人にとって住みやすい街づくりこそが、新しい住民を呼ぶ近道」(中心市街地対策室)と強調し、商工会議所も「ハードよりソフトの時代。まずは壊滅した商店街のコミュニティー機能を復活させる」と意気込む。

 木更津を「死んだ街」と呼ぶ人さえいるが、ここは荒れ果てたゴーストタウンなどではない。「駅前デパート」への甘い幻想を捨てた今、暮らす人のための街づくりが小さな成果を上げ始めている。

  □■□

 横浜行きの高速バスは、補助席を使うほどの込み具合だった。片道1500円。決して安くはない。わずか40分で横浜駅に着いた。皮肉なことに、横浜の高速バスターミナルは横浜そごうの中にあった。こちらのそごうはもちろん、まばゆいほどの華やかさだ。木更津に帰るバス停の前では、横浜そごうや中華街の店の紙袋を抱えた客がずらり並んでいた。「今日はお友達とお食事。月2度ほど、アクアラインを使って川崎に習い事に行ってます」「買い物は横浜。中華街もあって楽しい」

 独りぼっちで横浜行きのバスに乗っていた小学校高学年くらいの男の子が、大急ぎで走っていく。バスの中でずっと眠っていた子だ。背中で見覚えのある有名な塾のカバンが揺れている。海を越え、塾に通っているのだ。

 外は夕暮れ。「SOGO」の看板を見上げながら、遠くて近い東京湾の向こうの街を思った。晩秋の風は冷たいが、長い斜光線は人々の背中を温かく照らしている。


記事108◆デパ屋の不思議、という記事

デパ地下ブーム、と言われて、あえて、逆張りで、デパ屋へ行ってみた記事。
なぜか学芸部の詩壇担当の記者さんから、一番ほめていただきました。
あれはうれしかったな。



■掲載年月日 2002年11月14日
■デパ屋は今 デパ地下ブームというけれど…
■「何も変わっていない懐かしさがいい」


 デパ地下ブームを中心に、時代をけん引する百貨店。しかし、そこに昭和30年、40年代からほとんど変わらず、時の止まった場所がある。デパートの屋上、略して「デパ屋(おく)」である。都心の一等地にありながら、採算性が悪いため、改装もされず昔のまま捨て置かれた不思議な空間。世の中が昭和懐古ブームへと傾く今、“本物のレトロ”を探してデパ屋に上った。


 デパ屋取材のきっかけは、ある夕刊紙の記事だった。デパート屋上のペットショップが犬目当てのサラリーマンでにぎわっており、その数は「多い時で約10人ほど」に上るというのである。リストラ時代にストレスを抱えるサラリーマンがデパ屋で犬に癒やされている、というのは、ペーソスに満ちた話ではあるが、出来すぎてはいないか。
 真偽を確かめたくて、伊勢丹新宿店の屋上にあるペットショップに出かけた。結論から言うと、店にサラリーマンなど1人もいなかった。「そんな話、ありませんねえ。10人? まさか。若い女性ならともかく、サラリーマン風となると、昼食の後、屋上に一服しにきた人が立ち寄る程度です」と店の人が笑う。

 なんだ、都市伝説だったのか。落胆と同時に、ほっとした。本当だったらあまりに切ない。

 ここで取材はおしまい、のはずだった。しかしながらその日は快晴。ポカポカとした小春日和に誘われ、屋上を散歩してしまったのが運の尽き。デパ屋にはやはり、疲れた会社員の心を癒やす装置が潜んでいるのだろう。私自身がすっかり屋上で和んでしまったのだった。

 なぜだろう?

 そこにあるのは、お決まりのペットショップと園芸店。古ぼけた子供向けの遊具。擦り切れた人工芝に古びたベンチ。色のはげたテント屋根。金魚やコイ売り場では、風雪にさらされた水槽で、なぜか見事なニシキゴイやランチュウが泳いでいる。
 寂れている。階下ではクリスマス商戦が始まり、あんなにきらびやかだというのに。デパ屋は時代からも、季節からも見捨てられているのだ。

 だからこそ、30年前の記憶がよみがえる。あれは昭和40年代。休日になると家族でデパートへ出かけた。最上階のレストランでお子様ランチを食べる晴れがましさ。休みの日なのに父は背広を着込み、母は一張羅のワンピースで着飾った。そんな「ハレの日」のクライマックスが、私の場合は、高島屋大阪店の屋上にある観覧車だった。日本にまだ、ディズニーランドもユニバーサルスタジオもなかったころの話だ。

          ★★★

 長い間なくしていた落とし物でも見つけたみたいに、デパ屋がただ懐かしかった。見渡すと、私だけではない。10人近い会社員風の男女がぼんやりと和んでいる。買い物客とは明らかに雰囲気が違う。ベンチに座り、どこか所在なげに携帯電話でメールを打っている30代ぐらいのサラリーマン。時折空を見上げたりしている。別の人は40代ぐらいで、パソコンのプリンターマニュアルを読みふけっている。職場では読みにくいのだろうか。その人の背中に回ると、襟元から肌色の湿布薬がはみ出していて、ちょっと痛々しいのだった。

 別の屋上にも上ってみた。子供向け遊具のバリエーションで有名な西武池袋店の屋上。巨大なパンダやクマの乗り物は色あせ、もう何年も動いていないかのようだ。片隅にはひっそりとメリーゴーラウンドが一つ。看板に「日本の百貨店、屋上では唯一のものです」とあるが、乗っている人はいない。馬の目の部分のペンキがはげ落ち、馬が白目をむいているようで、ちょっと怖いのだった。軽食コーナーのお好み焼きを食べていた男性会社員(30)は「外回りで百貨店に来て、時間があいたので偶然立ち寄った。屋上なんて久しぶり。驚きましたね。何にも変わってない。昔っぽくて懐かしい」。

 「屋上和み系」のサラリーマンの答えは、どれも似かよっていた。「何の気なしに偶然寄ったら、懐かしくなって長居してしまった」「昔の思い出がよみがえってきて……」。結局、「犬に癒やされにくるサラリーマン」には出会えなかったが、「デパ屋和み系」は意外に少なくないのだ。

          ★★★

 デパ屋の歴史は長い。約70年前に東京・浅草の松屋デパートが屋上にプレイランドを造ったのを皮切りに、次々に屋上遊園が日本中に広がったようだ。小津安二郎監督の「東京物語」(1953年)で、原節子ふんする主人公が亡き夫の両親を連れて東京見物した場所の一つも、そういえばデパートの屋上だった。昭和30〜40年代は、デパートで休日を過ごすのが日本人のステータスだった。

 しかし今や、デパ屋はどこも似たり寄ったり。ペット売り場と園芸品売り場とゲーム機や遊具。あるいはビアガーデン……。デパート側が屋上に設備投資しないのは採算性が悪いからだ。雨が降れば客は来ない。寒くても、風が強くてもダメ。雨風にさらされるため維持費もかかる。かくして昭和の化石のような空間が、都心の一等地にぽっかりと残ってしまったのだ。

 ところが、これがデパ屋に新しい魅力を生んでしまった。「本物のレトロ」である。

 時代は今、「レトロ」を求めている。お台場では今秋、昭和30年代の商店街を模した「台場一丁目商店街」なるものが登場し、人気を集めている。そこでは大人たちが目をキラキラさせてブリキのオモチャや駄菓子屋のお菓子を物色している。「新横浜ラーメン博物館」しかり、「池袋餃子(ぎょうざ)スタジアム」しかり。日本のあちこちで、セピア色の町並みが再現され、増殖している。
 しかし、それはみんな偽モノだ。昔風を演出した作り物に過ぎない。デパ屋は違う。まさに本物。昭和30〜40年代に設置された遊具などの遺物がそのまま残されているのだ。

 もちろん、こんなデパ屋もまた、時代の波と無縁ではいられない。古い遊具やゲーム機は次第に減っている。ガーデニングブームに乗じて庭園を充実させる動きもある。「都心では高齢少子化が進み、子連れ客より年配の買い物客が増えていますからね」と高島屋本社広報室の山田優さんが教えてくれた。

 さらに最近は、デパ屋を積極活用するデパートも出始めた。東急東横店が昨年7月、サッカー熱を当て込んで、それまでラジコンコースだった屋上をフットサル場に改装。これが当たって常時予約で埋まるほどの人気だ。今年1月には銀座プランタンの屋上にもフットサル場ができた。また、松山市のいよてつ高島屋は昨年10月に大観覧車をオープンさせ、前年より入店者を増やしている。

 博報堂生活総合研究所も昨年、デパ屋活用に焦点を当てた研究リポートを発表した。主席研究員の大田雅和さんはこの中で、さまざまな活用法を提案している。
 「屋上全体を釣り堀にした『フィッシング・パーク』や、デパ地下で買った弁当を食べやすいようテーブルや日よけを充実させた『ランチガーデン』。屋上に必ずあるお稲荷(いなり)さんを店内の写真室とタイアップさせれば、初詣でや成人式、七五三の客の自然光スタジオにもなる。土を入れて家庭菜園をレンタルしたり、野外映画館や露天風呂施設も面白い。牧場を作り、搾りたての牛乳で作ったアイスクリームを販売してもいい。パリのあるデパートは屋上に砂を敷き、更衣室やビーチベッドも設け、夏はビーチに早変わりさせてます」
 「デパ地下よりデパ屋」の時代がいつか、訪れるのかもしれない。「本物のレトロ」が消滅するようで、少し寂しいが。

          ★★★

 再び、新宿伊勢丹に上った。
 ベンチに座るしゃれた男性(61)に声をかけてみた。「仕事のアポイントメントの合間にちょいと時間が出来たのでね。結構デパートの屋上って和むので、よく来るんですよ。庭のいい屋上が好きですねえ」。初めて会った「デパ屋常連さん」だった。
 彼は言う。「若い人は、漫画喫茶で時間をつぶすそうですね。一度挑戦してみたいんだが、この年で1人ではねえ……。デパートの屋上はいいですよ。年代に抵抗なく来られるじゃないですか。気候のいい春や秋は最高ですよ。なんたって空がある」

 話につられて、思わず空を見上げた。驚いた。屋上の空はこんなにも広いのだった。

 日本中が突っ走っていた高度経済成長期からもう40年もたつのに、デパ屋にはまだあのころの夢の落とし物が残っている。

 屋上で心が和むのは、やっぱり空が広いからだろうか。


記事107◆「バウリンガル」と「赤ちゃんリンガル」、という記事

■掲載年月日 2002年11月05日
■編集部から

 犬の鳴き声を人間の言葉に「翻訳」してくれる「バウリンガル」(タカラ、1万4800円)が売れている。発売後1カ月で3万個を売り切った。犬がほえると「僕の気持ちが分かる?」「ワンツーパンチ」なんて翻訳が飛び出し、正誤はともあれ結構楽しめるそうだ。利用者によると「翻訳機というより単なるオモチャ」らしいが、それならなぜ売れるのか。
 東倉洋一・NTT先端技術総合研究所長によると「人間のコミュニケーションへの欲求は、それが対話形式であれば内容は正確でなくても満たされる」とか。
 では、犬でなく赤ん坊だったら? ふと「号泣する赤ちゃんを抱く代わりに、泣く理由を育児書で調べていた」という母親の話を思い出した。「赤ちゃんリンガル」なる商品があれば、それさえ売れかねない時代だ。言語に頼らないから深く理解し合えることもあるだろうに。


記事106◆猫の名前人気ランキング、という記事

世の中には、いろーんな研究をしている方がおられるわけです。
猫の名前の人気ランキング、です。


■掲載年月日 2002年10月22日
■猫の名前ランキング−−石田・多摩動物公園飼育課長に聞く

 猫がブームだ。グラビアに猫が登場する雑誌は売れ行きがいいという。「ペットの名前を分析すると、人間との関係性が分かる」が持論で、過去に犬2678匹の名前を調査したこともある東京・多摩動物公園飼育課長、石田おさむさんが、今度は5132匹もの猫の名前調べに挑戦した。

☆犬より手抜き?

 調査は東京都心と八王子市、千葉県船橋市などの開業獣医師7人の元に、治療に連れてこられた猫の名前を調べたもの。5132匹の名前は1932種類だった。
 「犬は名前らしい名前が多かったが、猫は名前かどうか分からないような無意味な音の羅列も目立つ。また、かわいらしさを強調する名前が多かった」と石田さんは指摘する。
 日本で一番有名な猫の名前といえば、長寿アニメ「サザエさん」に登場する「タマ」ではないか。だが、今回の調査結果では、タマは9位だ。1位は「チビ」(137匹)、2位は「ミー」(124匹)。さらにクロ、トラ、ミーコ、モモ、ミミ、シロ、タマ、ハナ、ナナと続く。「猫には大型品種がない。成長が遅く生後6カ月でも体は小さい。だから『チビ』が多い」と石田さんは分析する。
 また、単に「ネコ」という名前が13匹もあった。犬では「犬(ケン)」「犬犬(ケンケン)」が1匹ずついただけで、「イヌ」と呼ばれているケースは皆無だった。「犬の方が凝った名前が多い。猫は比較的単純で安易に名付けられているようだ」という。
 なぜだろうか。
 石田さんの仮説はこうだ。猫の場合、飼い主との関係は家庭の中で1対1で結ばれる。一緒に移動する範囲も極めて狭い。一方、犬は散歩に連れていくため、飼い主同士の交流が生まれる。「犬の名前の方が社会的な評価を受ける場面が多い分、凝った名前が多いのではないか」

☆伝統的な名、復活の兆し?

 石田さんは猫の名前を、独自に作成した以下の12項目に分類、分析した。

  (1)伝統的な名前       (タマ、ミーコなど)
  (2)比較的新しい名前     (ポンタ、ゴンタなど)
  (3)外国語          (ハッピー、ラッキーなど)
  (4)外国人の名前       (リリー、メリーなど)
  (5)タレントやキャラクター名 (マイケル、チビタなど)
  (6)かわいい呼び名      (チャー、ピー、ポポなど)
  (7)ネコの形状からきた名前  (チビ、シロ、ミケなど)
  (8)他の動植物の名前     (クマ、レオなど)
  (9)食べ物の名前       (クッキー、プリンなど)
 (10)猫にも人間にも付けられる日本人名(サクラ、モモなど)
 (11)猫よりは人間らしい日本人名   (モモコ、ケンなど)
 (12)猫には付けにくい日本人名   ケンタ、ユキ、マリなど)

 最後の(10)〜(12)の3項目は、人間に付ける名前を「猫に付けやすいか」の観点から3段階に分けた。「モモ」より「モモコ」の方がネコには付けにくい、という具合だ。結果、多かったのは「伝統的な名前」(20・0%)▽「かわいい呼び名」(17・1%)▽形状からきた名前(12・7%)の順。また、「ミー」「ミミ」「ミーニャ」など鳴き声を模したものや、「マ行」や「タ行」から始まる名前が目立った。ちなみに犬では「ラ行」と「ハ行」が多かったという。
 犬の場合は、多い順から「比較的新しい名前」「伝統的な名前」「外国語」で、猫よりハイカラなようだ。

☆「人間化」の傾向も

 また、猫の方が日本人名に近い名前が多い。犬の調査では、「(12)犬には付けにくい日本人名」はほとんどなかったが、猫では「エイジ、ヒロシ、カズミ、シオリ」などかなりあった。また、「伝統的な名前」や日本人名に近い名前が、一時は減少傾向にあったものの、猫では90年代半ばに再び微増に転じている。「飼い主が二極分化している。多くの猫の飼い主が犬に比べ安易に名前を付ける一方で、非常に凝った名前や日本人名に近い名前、伝統的な名前をあえて付ける飼い主が出てきた」と石田さんはいう。
 昨今は、年配者だけでなく、若い一人暮らしの女性たちも猫を飼っている。ペット可のマンションも増えてきた。犬は飼い主家族を「群れ」と考えて序列を意識するが、猫は序列に無頓着だ。その分、猫を「対等なパートナー」と受け止め、人間に近い名前を付けたがる飼い主が増えているのかもしれない。
 では、犬と猫の名前の共通点は何か。「人間は子供に健康を願って『健一』と名付けるなど、将来への期待や願いを名前に込める。しかし、ペットの名前には将来への期待は見えない。飼い主は自分よりペットが長生きするとは思っていないのでしょう」と石田さん。
 ペットを「うちの子」と呼ぶ飼い主は多いが、本質はやはり、友達感覚なのだろう。

 ◇上位の名前(単位・匹)
チビ   137
ミー   124
クロ    97
トラ    73
ミーコ   68
モモ    64
ミミ    62
シロ    60
タマ    47
ハナ    45
ナナ    34
レオ    34
チャチャ  31
チロ    26
サクラ   24
ミケ    24
チー    23
チーコ   21
チャコ   21
チコ    20
チョビ   20
トム    19
ミュー   19
タロー   18
ヒメ    18
チビタ   17
チャッピー 17
ポンタ   17
マイケル  17
ハナコ   15
フク    15
マル    15
ミルク   15
ゴン    14
ジジ    13
ベル    13
ミイ    13
メイ    13
ユキ    13
ネコ    13

記事105◆人はなぜ山を登るのか、という記事

思えば、むちゃな記事を書こうとしたものです。
なぜ、人は山に登るのか?
ああでもない、こうでもない、と理屈をこね回しております。

この時は中央アルプスに家族連れで行きました。
まだ幼かった息子を、取材のツールのようにつかい、息子の反応やら、息子への周囲の人々の反応をルポルタージュにいっぱい盛り込む、という手法をよく使っていたころの記事です。
思えば、息子には随分と取材を手伝ってもらったってことでしょうか。
感謝、感謝。


■掲載年月日 2002年10月04日
■中高年・登山ブーム 山頂を極める喜びと達成感
■人はなぜ山に登るのか?


 下界より一足先に、山々に紅葉の季節がやってきた。この週末は、3000メートル級の高山は紅葉を求めた登山客でにぎわうだろう。野へ、山へと人々が出掛ける秋。長野県の中央アルプス・千畳敷カール(氷河圏谷)に登り、「人はなぜ、山に登るのか」を考えた。


 「駒ケ岳ロープウェイ」で登った標高2611メートルの千畳敷は、すっかり秋だった。ここは日本で最も簡単に高山の紅葉を楽しめるスポットだ。ロープウエーの高低差は950メートルで日本最大。わずか7分半の「空中散歩」で、誰もが簡単に森林限界を越えられる。
 だからここは普段、観光客と登山者の両方でにぎわう。10月の紅葉や7月のお花畑のハイシーズンには、ロープウエーの待ち時間が最高4時間半にもなる。雨具や地図も持たず、りょう線まで登ってしまう観光客も後を絶たない。「サンダルで登ったが怖くて下山できない。運動靴は売ってないか」とりょう線上の小屋で立ち往生する客さえいる。

 しかし、私が千畳敷に着いたその日は、数メートル先も真っ白い霧の中。悪天候では、宝剣岳の荒々しい山容はもとより、広大なカールも何も見えない。一般観光客もほとんどいない。みな雨に阻まれ、あきらめ、山を下りたらしい。
 後に残されたのは中高年登山者ばかりだ。雨を気にするふうもなく、カラフルな雨具を身につけ、登山用ストック片手に登ってゆく。ふと考えた。世は中高年登山ブームだというけれど、彼らはいったい何を求めて山に登るのだろう。
 こんな雨の中で。

  ■ ■

 中高年登山ブームと切っても切れないのが、「百名山」ブームだ。作家深田久弥氏が約40年前、登山経験に基づいて100の名山の魅力を記したものが今、中高年登山者に大人気なのだ。中には100山踏破の早さを競う者までいるという。登山客が集中した結果、百名山は荒れた。事態を重く見て、環境省も昨年度、百名山を対象に木道やトイレ設置に国庫補助する対策に乗り出した。こんな現実を、深田氏は天国でどんな思いでながめているのだろう。

 ガスの中、千畳敷カールから八丁坂を経て、りょう線を目指す。中高年登山ブームの中で、幼児を連れて山に登るとスター気分を味わえる。ちょうど中高年登山者の孫の年に当たる4歳の息子は、瞬時に彼らのマスコットと化した。「えらいわ」「頑張って」の称賛から、「元気をわけてー」という握手攻勢まで。スター扱いされて気を良くした親子は、あっさりとりょう線に登ってしまったのだった。

 しかし、さすがは3000メートル級のりょう線だ。視界が悪いうえ、ひどい強風が、雨を足元から吹き上げる。慌てて山小屋に転がり込んだ。天狗荘。ここが今夜の宿である。

  ■ ■

 山小屋に入って、仰天した。まるで「居酒屋」だ。いくつもの中高年のグループが、酒やビールを並べたテーブルを囲み、大騒ぎしている。これが標高3000メートルの光景か。

 「お漬物、私が漬けたの」
 「おいしいねえ」
 「ブドウもあるわよ」

 見れば、女性陣は皮をむいた果物や手作りの漬物、総菜をどんどんザックから出している。男も女も、実に楽しげで幸せそうだ。雨にたたられた登山でも、彼らはこんなふうに楽しめるのか。中高年パワーに、あらためて感動してしまった。

 「なぜ中高年は山登りが好きなのですか?」。横浜から来た二十数人のグループに声を掛けた。50代、60代が多い。子育てが終わって、新しい事に挑戦したくなったという女性。これまで働くことに精いっぱいで山など登る余裕もなかった、という男性。一緒に山を登る時の仲間との連帯感がうれしい、という男性もいた。みな私の親の世代。「第二の人生」にかける情熱を聞いて、胸がじんときた。

 一人の男性メンバー(59)は言う。「高度成長を支えてきた僕らの世代は、コツコツと頂上を目指して登るのが性に合ってるんです。まだ現役だけど、57歳の時、退職後の人生を考えた。山の魅力は、努力して登れば必ず頂上があるという安心感と、登頂した時の達成感です」

 もちろん、中高年登山者がみな同じ理由で登っているとは思わないが、駅の補導所にいた遭難救助歴50年の駒ケ根市の木下寿男さん(67)からも、似たような話を聞いた。「中高年グループをガイドしていると、彼らが頂を踏む達成感を求めているのがよく分かる。目的を実現するのが喜びなんです」

 男性メンバーは続けた。「頂上がある、という安心感は、終身雇用への安心感にも似ています。その点、今の人は気の毒だ。若者が山に登らなくなったのは、そのせいじゃないですか」

 確かに。今、山に登る若者は急速に減っている。20代、30代はもう「頂上がある」ことさえ信じられない。頂上が見えない時代なのだ。

 女性メンバーが話し始めた。「うちの子供や孫は登山をしないでオートキャンプばっかり。シャワーや風呂まであるキャンプ場じゃないと、自然を楽しめないのかしら」。別の男性も「山頂を極める喜びを知らないんだよ」と相づちを打つ。

 ふと、オートキャンプ派の友人(40)から聞いた、逆の言い分を思い出した。彼も学生時代は登山派だった。「オートキャンプ場にはなぜか、団塊世代より下の世代しかいない。上の世代は山を目指すんだろう。オートキャンプの神髄は、苦労せずに自然の中に身を置き、何もせず、ゆったりと自然を感じること。中高年の登山派は『何もしない』ことに耐えられず、頂を目指してしまうんじゃないか」

  ■ ■

 凍える夜が明けた。やはり外は雨。りょう線での体感温度は0度に近く、風速10メートル近い風が吹いていた。「自然に触れたい」と登った山だったが、視界は数メートル。それ以外に何も見えない。りょう線の眺望なし。雲海なし。星空なし。ご来光なし。当初の登山計画では木曽駒ケ岳までりょう線歩きを楽しむつもりだったが、天候を見て下山を決めた。

 前日補導所にいた木下さんはこの日、りょう線に上がり、体力や計画に無理のあるグループに下山道を示していた。「秋山なのに夏山気分で、ツェルト(簡易テント)や防寒具さえ持たずに登る。中高年には、立てた予定を変更できず、悪天候でもカレンダー通りの登山をやってしまう人も目立つ」と心配する。山岳遭難者のうち、40歳以上の中高年は7割を超える。登山が大衆化したことで、登山者の体力、技術、知識不足が指摘されるようになった。

 その朝、天狗荘からもいくつかの中高年グループが縦走を目指し、出発していった。山に登る理由を「安心感と達成感」と語ってくれた男性の姿もあった。雨と強風に向かう彼の背を見ていたら、なぜかNHKの人気番組「プロジェクトX」のテーマソングが脳裏で流れたのだった。

  ■ ■

 結局、朝一番に下山し、千畳敷カールの遊歩道をのんびり歩いた。山の上と違い、朝の千畳敷カールには実にさまざまな人がいた。
 「遊歩道があってよかったわ」と喜んでいる赤ちゃんを背負った若い夫婦。風景さえ見ず、抱き合ってばかりの若いカップル。息子夫婦に支えられた足の悪いお年寄りが「空気がおいしい」と顔をほころばせている。
 前夜、話を聞いた横浜のグループが、悪天候のため宝剣岳で縦走を断念し、下山してきた。それでもやっぱり和気あいあいと楽しそうだった。

 百の頂に百の喜びあり――。

 突然、百名山の深田氏が残した名文句が頭に浮かんだ。百の山に百の喜びがあるのなら、百の人に百の自然との触れ合い方があるのかもしれない。山の危険と背中合わせに、荷物を担ぎ、頂を目指すも一つの喜び。合計10万円を軽く超える道具をワゴン車に積み、よく整備されたキャンプ場でのんびりするのも一つの喜び。

 今、千畳敷では、ダケカンバやナナカマドの葉がまっ赤に染まっているという。1日に約5000人が入山するという、千畳敷の紅葉の季節が今年もやってきた。

記事104◆丸ビル登場、の記事

丸ビルができた時、書いた記事。
ビルを歩いただけで、記事を書くというのは、やっぱりとても難しかった。でもあれこれ取材して回るのはとてもおもしろかったけど。

■掲載年月日 2002年09月11日
■2代目丸ビル探訪記
■同居する新旧 特別な思い胸に訪れる年配客


 「丸の内ビルディング(丸ビル)」が新しく生まれ変わった。日本のオフィスビルの草分けで、東京の原風景でもあった旧丸ビル。数多くの年配客が今、真新しい2代目「丸ビル」を訪れている。

 ■青春を過ごした場所

 2代目丸ビルがオープンした6日、東京駅を背にビルを見上げた。2代目は、地上37階180メートルの高層ビルだ。6階までの外観は旧丸ビルに似ている。それより上は普通のビル。旧丸ビルの上に高層ビルを乗せたような奇妙な外観だ。丸の内では一番高い。
 中に入って驚いた。社員証を首からぶらさげた近隣の会社員が多いのかと思いきや、ご高齢の客の方が驚くほど目立つ。みな着飾り、ほおを上気させている。雨の中、混雑覚悟の年配客がこうも集まるとは。丸ビルを所有する三菱地所の幹部の一言を思い出した。「丸ビルは特別なビル。所有者の我々にだって、好きなようにはできません」
 なるほど、いかにも「特別なビル」なのだ。東京生まれの上品そうな女性が言った。「今年70歳です。人生の身辺整理のために丸ビルに来ました。これまでに愛宕山、増上寺、そして戦時の疎開先にも行きました。丸ビルは青春を過ごした場所です。もう戦前の話ですが」

 初日だけで、丸ビルを訪れた人は約15万人にのぼった。

 ■「ランチ難民」

 地下1〜6階にはブティック、レストランなど約140店舗、9〜34階には約50の企業などが入っている。上層の35、36階は高級レストラン街だ。
 ちょっと豪華にランチでも、と36階を目指したが、なんと、エレベーターの前には長蛇の列が……。30分待ちという。警備員たちは「立ち止まらずにお進みください」と声をからしている。「せめて丸ビルの中で食べたい」というのか、館内のベンチでは、レストランをあきらめた客たちが食料品売り場で買ったらしい折り詰めを広げている。何だかわびしい。

 列に並んでようやく36階へ。ところが、すでに有名店の多くが「本日は予約のお客様でいっぱいでございます」。ああ、無情。あきらめて下界に下りようにも、今度は下りのエレベーター前に人、人、人。下りるに下りられない。かくして客たちは「ランチ難民」のごとく、少しでも待ち時間の短い店を探し、地上180メートルをさまよい歩いたのだった。

 このビルからは皇居を見下ろせる。緑豊かな敷地と宮内庁、宮殿、皇宮警察までが一望できる。これまで皇居に近い丸の内のビルは、高さを低めに自粛するのが暗黙の了解だったというから、この眺望は誰にとっても未体験ゾーンだ。皇居側の窓をよく見ると、どの店にもカーテンが設置されていた。「要人来訪時にはカーテンを下ろせるように、と指導があった」(レストラン関係者)という。「皇居に面して厨房(ちゅうぼう)は作っちゃいけないらしい」とも聞いたが、本当だろうか。

 ■変遷する「三菱村」

 丸の内は「三菱村」とも呼ばれる。一帯のビル約100棟のうち約30棟を三菱地所が所有する。1890年、岩崎弥之助氏が軍の土地の払い下げを受けたのがきっかけだ。明治時代には赤レンガの建物が軒を連ね「一丁倫敦(ロンドン)」と呼ばれた。1923年に丸ビルが完成し、オフィスビルが並ぶと、今度は「一丁ニューヨーク」とも呼ばれた。呼び名が変わっても、丸の内は常に東京で働く者たちの原風景だったのだ。
 今、丸の内は大きく変わろうとしている。同社は98年、「10年間で5〜6棟のビルを建て替える」と再開発計画を発表。重厚長大なオフィス街からの脱却を目指した。建て替え第1号の丸ビルはこの計画のけん引役だ。汐留、六本木、品川と次々誕生する高層オフィス街といかに張り合うか。オフィスビル余剰の「2003年問題」をいかに乗り切るか。丸の内の命運が、新しい丸ビルにかかっている。

 ■歴史のかけら

 巨大なビルの中を歩きながら、ふと仙台の義母(61)を思った。彼女は結婚前、旧丸ビルに勤め、昼休みには屋上でバレーボールに興じたという。義父(65)との出会いも旧丸ビルだ。昭和初期のヒットソング「東京行進曲」の「恋の丸ビルあの窓あたり/泣いて文書く人もある」を地でいく40年前の東京ラブストーリー。義母がこの新しいビルを見たら何を思うだろう。

 ノスタルジックな気分で歩いていたら、旧ビルの「遺産」を行幸通り側の入り口に見つけた。旧ビル入り口をほうふつとさせる3連アーチ。旧ビルを支えた松杭(くい)の1本も、ガラス張りの床に収められていた。年配客たちはただ静かに歴史のかけらに見入る。「あら、懐かしい」と老夫婦が指さす先に、旧ビルから移設されたステンドグラスがあった。古びたステンドグラスは、真新しいビルの中で少し居心地悪そうに見えた。

 変わりゆくものと変わらないもの。両方がこのビルには同居している。


記事103◆アザラシのタマちゃん記事・夏の章

まさかタマちゃんでこの後何度も記事を書くことになるなんて。
評判を呼んだタマちゃん記事の第一弾、です。
しかし、この取材はひたすら暑かった〜!

■掲載年月日 2002年08月29日
■02年行く夏 「タマちゃん」騒動
■託された都会の人の思い

この夏一番の人気者といえば、東京・多摩川で消え、神奈川・鶴見川で再び現れたと思われるアゴヒゲアザラシの「タマちゃん」だろう。見物人は1日延べ約1000人。今、人々を夢中にさせている「タマちゃん」騒動を炎天下の鶴見川に見に行った。

☆連帯感

 27日正午。「朝は大綱橋付近にいた」という国土交通省京浜工事事務所の情報を頼りに、大綱橋を目指す。気温は30度を超えている。鶴見川の土手に木陰は少なく、熱中症になりそうだ。橋の下ではすでに、親子連れら約80人がタマちゃんを待っていた。「タマちゃん、出てきてー」と子供たちが叫ぶ。まだ、姿を見せないらしい。
 あきらめムードが漂い始めた時、アイスキャンデー屋さんがバイクでやってきた。何でもこのアイスキャンデー屋さん、タマちゃんが多摩川にいた時はそっちで売っていたらしい。普段150円のアイスを「タマちゃんアイス」と銘打ち200円で売った、とスポーツ紙にも報道された「有名人」である。
 彼は、タマちゃんの居場所に誰より詳しい。途方に暮れていた私たちに「ここで待っていてもダメ。タマちゃんは潮(の干満)とともに移動する。今はずっと下流で見えているよ」。

 この情報に、人々は川辺を移動し始める。さながら民族大移動。自転車が、バイクが、ベビーカーが、川下を目指す。みんな汗びっしょりだ。うだるような暑さの中、土手を歩くうち「なぜ人はこうまでしてタマちゃんを見たいのか」という疑問が胸に膨らんでいく。
 歩くこと約1キロ。樽綱橋に着いた。周辺の川岸には、人、人、人。テレビカメラや望遠レンズも並んでいる。早速コンクリートの土手を下り、「見えますか?」と誰彼なしに尋ねたら、あちこちから答えが返ってきた。「5分か10分おきに顔を出すから、そろそろだよ」「あの辺を見てね」「カメラ、用意しておいた方がいいよ」。随分とみんな親切なのだった。すでに「タマちゃん」を囲んだ連帯感が川岸に生まれているのだ。

☆スター登場

 待つこと数分。「出た〜」という誰かの叫び声。一頭のアザラシが深緑色の川面に顔だけ出している。「タマちゃーん」「カワイーイ」。みんな一斉にカメラを構える。しかし、それもわずか二十数秒。タマちゃんは水紋を残し、再び川の中へ。「見えましたね!」「やったねえ」。自然と隣の人と会話が弾む。「タマちゃんを見られた」という幸せを共有した者だけの不思議な連帯感。
 7分後。再び、タマちゃん登場。確かにカワイイ。が、やっぱり顔だけ。アザラシなら水族館にもいるのに、と思う。東京・池袋のサンシャイン国際水族館には2種5頭、千葉の鴨川シーワールドには5種19頭のアザラシがいる。アゴヒゲアザラシではないが、ガラス張りの水槽で泳ぐ姿まで見せてくれる。何より、館内は冷房完備だ。

 水族館で見るのとは違いますか――。川辺のウオッチャーに片っ端から疑問をぶつけた。
 「こっちの方がかわいい。だってこういうの、初めてだもん」とは川崎市の小学5年、未希恵ちゃん。「お友達に自慢するの」と大喜びだ。上流の大和市から4キロも歩いて見に来た男性(63)は「日ごろから親しんでいる東京の川にアザラシが来てくれた、ってところがうれしいんだよ。自然の中で見る方がいいに決まってる」。周囲の人も男性の言葉にしきりにうなずくのであった。

☆捕獲も視野

 タマちゃんが最初に多摩川で発見されたのは7日。北極圏や亜北極圏に生息するはずのアゴヒゲアザラシの迷子、という物珍しさもあって、見物人は日に日に増え、貸しボートで川に出たり、川に落ちる人まで現れた。ところが19日の台風13号関東到来を前に、17日からぷつりと姿を消した。多摩川での騒ぎも収まり、誰もがタマちゃんを忘れ始めた25日になって、今度は鶴見川でアザラシが見つかった。
 同一アザラシだとすると、京浜運河を経て約40キロも泳いだことになる。あまりにドラマチックな展開だ。「保護し、海に返せ」「いや、自然に任せる方がいい」などの議論もわき起こり、26日には国交省、環境省、神奈川県、横浜市が「アゴヒゲアザラシに関する連絡会」を結成。異変が起きた時は、捕獲も視野に入れ対応することが確認された。

 しかし、「捕獲」といってもアザラシの場合はやっかいだ。現行の鳥獣保護法ではアザラシは対象外。同法はこの春改正され、アザラシなど海のほ乳類も対象となったものの、改正法施行は来年4月。「それまで国、県には保護する権限はないのです」と国交、環境両省はいう。

 一方、タマちゃん報道はヒートアップしている。川辺でカキ氷屋を開く菅野さん(34)などは「今日だけでテレビ局3社、新聞2社から取材されました」。つまり、私で6社目だ。
 菅野さんも多摩川からの転戦組。「『タマちゃんアイス』のキャンデー屋さんとは、多摩川以来の商売敵です。僕らの悩みは、タマちゃんが潮に乗って移動すること。屋台のように移動できる店にしようか、って考えているところです」。何でも新顔のキャンデー屋さんや、タマちゃんの生写真を売る人まで現れているという。

☆「矢ガモ」騒動

 タマちゃん騒動を見ていて、ふと既視感を覚えた。93年の「矢ガモ」騒動だ。東京・石神井川で矢が刺さったままのカモが見つかり、「矢ガモ」と名づけられた。結局、約1カ月後、都が矢ガモを保護。矢を抜き、治療をして、上野の不忍池に戻した。
 それにしても、と思う。矢ガモを守れ、タマちゃんを守れ、とみなが叫ぶ陰で、今も年間50万匹以上の犬と猫が殺処分されている現実って何だろう。
 当時の新聞報道を見ると、矢ガモウオッチャーの数はせいぜい「連日100人」程度だ。今回の「タマちゃん」は「約300人」「1日延べ1000人」というからずっと多い。この手の騒動に夢中になる人が年々増殖しているのではないか。

 「ヒトと動物の関係学会」監事で獣医師の井本史夫さんは「今の日本人がみんなで夢中になれる対象がアザラシであっていいのでしょうか。今回の騒動も結局、消費されるイベントの一つに過ぎません。アザラシの姿が消えて1週間もすれば、誰もアザラシの将来や、鶴見川の汚染問題など忘れてしまうのではありませんか」と問題を投げかける。

 鶴見川の水質は、国交省が管轄する166河川でもワースト3だという。「汚い水じゃタマちゃんがかわいそう」となげく私たち人間自身が汚した。タマちゃん騒動をきっかけに、鶴見川浄化の機運は高まるのだろうか。そういえば遠い空の下、南アフリカでは今「環境開発サミット」が開かれているのだ。

 じっとタマちゃんを目で追っていた60代の男性が、ぽつりとつぶやいた。「なんかさ、タマちゃんがいると川が浄化される気がしないかい? そんな夢みたいな話、あるわけないか」
 濁った深緑色の水面の前にたたずみながら、都会人たちはタマちゃんにいろいろな思いを託しているのかもしれなかった。

☆都会の自然

 再び綱島駅まで1キロ強を歩いて戻った。途中、川辺でこんな光景を見た。見物帰りの老夫婦が肩を並べて歩いている。「あなた、紫色の花が……」「かわいいねえ」「川を歩くっていいわね」。水辺では、タマちゃんに飽きた男児が、虫捕り網を振り回している。
 タマちゃん目当てにやってきた老若男女の心を和ませているのは、実は愛くるしいタマちゃんの仕草だけではないのだろう。ヒートアイランド現象でますます暑くなるばかりの東京に迷い込んだアザラシ一頭。その存在が、都会の川に残るわずかな自然の魅力を私たちに教えてくれているのかもしれない。

 空を見上げると、この夏初めての赤トンボが飛んでいた。

記事102◆テッチャンに声をかけられてしまった記事

こんな短いコラムを書いたら、後日、社内で、鉄道ファンと思われる見知らぬオジサマ数人から声をかけられました。「おぐにさん、あの記事、うれしかったです」。
なんだか隠れテッチャン@会社に見込まれてしまったようで……。

■掲載年月日 2002年08月28日
■編集部から

今夏も「国際鉄道模型コンベンション」(16〜18日、東京ビッグサイト)に行った。多くの鉄道模型ファンが作品を一挙公開するイベントで、中世の欧州や古き日本の街並みを再現した数々のジオラマを模型車両が軽やかに走る姿は、相当に見応えがある。

昨年からこのイベントにはまっている。特に、人間観察がおもしろい。出品者から観客まで、圧倒的に男の世界だ。1歳から70代まであらゆる世代の男が、同じ「少年の瞳」を輝かせ、模型に見入る。4歳の我が息子と中高年男性が並んで、同じ幸せそうな表情をしているのを見て、たまげた。なんと奇妙で不思議な光景だろう。

「まったく男ってやつは」とあきれる一方で、やはり好きなことに夢中になっている時の男性はすてきだ、とも思った。この表情を、街や通勤電車や職場でも見せてくれればいいのに。よし、
来年も行くぞ。


記事101◆チャイドルとママの狂想曲、という記事



■掲載年月日 2002年08月23日
■記者走る 子供をメディアに出したがるお母さんって?

「ちゃいどる」という造語が生まれて久しいですが、子供をテレビや雑誌に出したがる母親たちは相変わらず増えているようです。かつての「ステージママ」と違い、今では普通のお母さんが娘や息子の写真をせっせと雑誌に投稿しているといわれます。今回は、そんなお母さんたちの心理に迫ります。

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■「ハレ」の場
 東京都内のホテルは妙な熱気に包まれていました。母親に手を引かれ、やってきた男児の頭が……みな丸刈りなのです。7月30日、みそメーカー「マルコメ」(長野市)が実施したCMキャラクターの最終選考会。全国8000人から選ばれた40人の「丸刈り」が「マルコメ君」の座を目指し、集まりました。
 わずか3〜6歳ですから、歩き回る子、母親にしがみついて泣く子、疲れて眠ってしまう子さえいます。親はカメラやビデオ片手に興奮気味。オーディションというから、もっとギスギスした雰囲気かと思っていたら違いました。母親たちはまるで、「ハレ」の場を楽しんでいるように見えたのです。

 ■専門誌も
 子供をモデルにしたい母親が増え始めたのは、10年ほど前です。それまでは番組スタッフの親せきや劇団に所属する子供など、いわば「内輪」で間に合わせることが多かったそうです。最近は、子供服ブランドの台頭でキッズモデルの需要が飛躍的に伸びました。
 96年創刊の「キッズ デ・ビュー」(オリコン・エンタテインメント)は母親たちのバイブルです。オーディション情報などを掲載した専門誌で公称16万部。今秋には季刊から隔月刊化されます。同誌自体も読者モデルを公募し、年6回のオーディションを行っています。出演料を出すわけでもないのに、常に800件程度の応募があるそうです。田村未知編集長は「子供の思い出づくりのために申し込む母親が圧倒的に多い。昔の『ステージママ』とは違い、今は芸能界志向の人は少数派。お母さんにとってはイベントなんです。撮影会でも、子供よりお母さんの方がワクワクしています」と説明してくれました。
 「思い出づくり」。気になる言葉です。赤ちゃんや幼児が撮影会の体験を、将来覚えているのでしょうか。あれこれ考え込んでいた時、インターネットで面白いサイトを見つけました。

 ■非日常的な体験
 CMキャスティング会社「プロシード」が運営する「キャストネットキッズ」。親が子供の写真とプロフィルをこのサイトに登録し、同社が認証したCM会社や出版社などがサイトに登録された子供の中からモデルを探し出すシステムです。登録料は1年1万円。モデル事務所に入るよりずっと安く手軽なためか、昨年5月の立ち上げ以来、登録者数はすでに約2000人。幼児を中心に2〜3カ月の赤ちゃんから小学生までが登録されています。
 登録用の子供の写真はお母さんの腕の見せどころ。でも凝り過ぎて、時には困った写真も。「赤ちゃんが裸で、隠すべき部分にシールが張られていたり、かわいさのあまり顔だけ大写しだったり、写真自体にフェルトペンで花やチョウのイラストが描いてあったり……」と、チーフプロデューサーの川元賢司さん。
 すべての子供に仕事が来るわけではありません。でも、お母さんたちは「HPに登録しただけでワクワクした」「オーディションを体験できただけで楽しかった」と、仕事が来なくても結構楽しんでいるようです。同社の母親対象のアンケートでも、登録理由のトップ3は(1)子供の可能性を広げたい(2)手ごろな料金(3)親子の思い出づくり――の順。ここでもやはり「思い出づくり」なのです。川元さんは「お母さんにとっては、緊張してテレビ局に入ったり、撮影現場に立ち会ったりする非日常的な体験がとても楽しいのでしょう」と話してくれました。

 ■おかあさんといっしょ
 母親たちの気持ちが、少し分かった気がします。我が子の一番かわいい時期だから、形に残してあげたい。その経験が平凡な子育ての日常にきらめきを与えてくれるのなら、何よりお母さんにとって良い「思い出」です。幼い子がいて普段なかなか出歩けない母親にとっては、なおさらでしょう。
 そう考えると、オーディションの書類審査にせっせと写真を送る母親たちが身近に感じられました。例えばNHKの「おかあさんといっしょ」に子供を出したい、と願う普通の母親たちと大差ないのかもしれません。
 子供が3歳になると、世の母親たちは「『おかあさんといっしょ』に申し込んだ?」と、そわそわし始めます。あの番組、出演できる子供は「申し込み時点で3歳」と決まっているのです。実は私も息子が3歳の時、「テレビに出たい?」と本人に聞きました。引っ込み思案の息子は「やだ」と拒否。かくして「ステージママ」は私にとって、見果てぬ夢となったのでした。

 ■芸能予備校
 さて、今度はもう少しディープな世界です。子供を芸能界に入れたい母親の芸能予備校「マムズスクール」(東京都品川区)。昨秋にスタートし、延べ30組の母子が受講しました。オーディションで子供が泣いたり騒いだりした時、「なぜできないの!」と怒鳴って子供を余計に委縮させたり、逆に甘やかせ放題の母親も少なくないとか。ここではそんなオーディション時の母親の心構えや、写真の撮影法も教えてくれます。入会金5万円。レッスン1回1万円。
 スクールを運営するオーエヌ・ステージの長嶋俊彦さんは「今の20〜30代の母親は自分もスカウト番組に挑戦した経験があるなど、芸能界を身近に感じています。子供の写真が何度か雑誌に採用されると、『思い出づくり』だけでは物足りなくなり、芸能界への『公園デビュー』的感覚でここに来る人が多いです」と教えてくれました。
 つまり、ピラミッドを描くなら、一番下のすそ野が「おかあさんといっしょ」。その上に、子供の写真をあちこちの雑誌に送る母親たち。ここ「マムズスクール」はその上に位置し、頂点の「芸能プロダクション、タレント・モデル事務所、劇団所属」の下に位置するわけです。

 ■必要な素質
 いよいよレッスン開始です。静岡県函南町から通う小林絢華ちゃん(5)のお母さん(29)は「1歳のころから数々の雑誌のモデルなどに採用されるうち、私の方がはまってしまって」。絢華ちゃん自身も「モデルさんになりたーい」。東京都杉並区の神喰真美ちゃん(8)はお母さん(41)と初参加。小学校2年にもなると「NHKの『ひとりでできるもん』に出てみたいです」としっかり夢を語ります。
 プロのカメラマンが写真撮影法を母親に伝授した後、子供の模擬オーディションが始まりました。初めての真美ちゃんは緊張気味です。審査員役の田口紗千子先生(23)はわざと厳しい声で言います。「CMでもビデオでも笑顔のない子は使えないのよ」。子供相手の言葉とは思えぬ厳しさに、私の方が泣きたくなりました。でも、真美ちゃんは必死で笑顔を作ります。けなげさに胸が熱くなりました。

 レッスンの後、田口先生に疑問をぶつけてみました。「幼い子をモデルにしたい、というのは母親の身勝手ではないのですか」。すると田口先生、カラカラと笑っていうのです。「『思い出づくり』程度ならともかく、本気で芸能界入りを目指したら、母親の身勝手だけでは生き残れません。結局、子供がこの世界を好きで素質もないと」
 なんと厳しい世界でしょう。
 ちなみに、キッズモデルに一番必要な素質は「人見知りをしない」だそうです。物おじせず、知らない人の前で大きな声を出し、笑顔を見せねばなりません。
 世のお母さん方。やっぱりこの世界は、「思い出づくり」程度にしておくのが一番楽しいのかもしれません。

記事100◆妹尾河童さんのインタビュー

妹尾河童さんの旅先でホテルや建築物のスケッチは、もう、大学時代からの憧れでした。夏のシリーズもので、思い出の食べ物をテーマにした連載を組んだ際、「絶対、河童さんに会いたい!」と申し込んだのでした。

■掲載年月日 2002年08月21日
■幸せの食/6回
■豚肉−−舞台美術家、エッセイスト・妹尾河童さん

「こだわり」って言葉は好きじゃない。「〜ねばならない」って言葉もね。もっと自由に、どう食べたらおいしいか、というところから料理は始まるんじゃないかなあ


 この夏、「少年H」を久しぶりに読み直した。舞台美術家でエッセイストの妹尾河童さん(72)の自伝的小説だ。文中のあちこちに、小学生のころから食いしん坊であった少年が食べたさ一心に動き回っているのが見えるようで、笑った。
 寝小便の治療に、母親に連れられ神戸から列車に乗って、遠くまでお灸(きゅう)をしに通っていた小学生のH少年が、お灸の熱さを我慢する代わりに、ほうびとして駅前の食堂で「親子丼」を食べさせてもらう場面がある。その時、卵が硬いのに不満を持ち、厨房(ちゅうぼう)へ入っていって「おばさん、卵が硬くならんように、ふわっと軟らこうとじてほしいなあ。今度来る時は頼むね」と注文をつけ、おばさんを仰天させている。

 ●肉なしデー

 戦争が激しくなる前は、卵や肉も市場で買えたが、そのうちに月に2回「肉なしデー」の日が決められ、その日に肉を販売した店は営業停止処分を受ける状態になっていく。戦局も激しさを増していったころは、「ぜいたくは敵だ」のスローガンが掲げられ、肉などはまったく口に入らなくなった。
 そのころ中学3年生だった河童さんは、豚と出合う。
 神戸の苅藻島の高射砲陣地へ土のうを積み上げる勤労作業に動員されたときのことだ。Hだけが豚小屋の掃除を割り当てられた。理由は「おまえは豚に好かれとるらしいから」。Hが豚小屋の前で豚の鳴き声をまね、「ブーブー、グァーグァー」と鼻をならしていたのを、陣地の下士官兵が面白がって見ていたらしい。確かにHが小屋に入ると、豚もうれしそうに合唱するだけではなく、体をぶっつけるように擦り寄ってきた。Hは豚小屋の掃除は少しも苦にならなかったが、この豚たちが兵隊に食べられる運命にあると思うと、悔しかったという。「僕も食べたい」と思ったからだ。あれから60年……。

 今でも、その時の豚の鳴き声を出せると聞いたので、実演してもらった。「ブーブー、グァーグァー」の鳴きまねはまさに本物そっくりで、驚いた。「豚肉、お好きですか?」とたずねたが、その質問はやぼだった。

 河童さん宅の夏の定番料理は豚だった。「同じ食べるならおいしく食べたいからね。料理というにはあまりにも簡単なんだが、うまいの。料理の名前は『冷や豚(ひやぶた)』。あまりおいしそうなネーミングじゃないので、いい名前をつけようと思っているうちに、『冷や豚』がみんなの中で定着しちゃったんで、そのままにしている。夏になると『暑くなりましたね』と電話してくる友人は、たいてい『冷や豚』が目当てなんですよ」
 作り方を聞くと、河童さんは「簡単、簡単」と、身ぶり手ぶりで教えてくれた。さながら「河童の料理教室」だ。
 「しゃぶしゃぶ用の赤身ロースを1人前200グラム見当。薄切り肉に薄く片栗粉を付ける。決してべったり付けないこと。本当に薄くね。べったり付けるとブルブルしすぎて食感が悪くなるから。大鍋に沸かした湯にショウガの皮やネギの切れ端を入れ、豚肉をくっつかないように湯の中に落とし、ゆであがったら余熱を取ってから冷蔵庫でよく冷やす。食べるときは、好みの薬味のしょうゆで食べる。我が家は3種類の薬味。ショウガ、シソの葉、ニンニクだけど、ネギや梅肉で食べるのもいいかもね」

 ●白い肉と黒い皿

 料理好きで知られる河童さんだが、食材のうんちくは語らない。「『こだわり』って言葉は好きじゃない。『〜ねばならない』って言葉もね。もっと自由に、どう食べたらおいしいか、というところから料理は始まるんじゃないかなあ」
 でも、「おいしく食べる」ための手間ひまは惜しまないし、見た目の感じも大事にしたい。
 「豚はゆで上がると白いでしょ。だから黒い皿だとよく映える。おいしく食べるために冷や豚用の大皿を作ったの。えっ、見たい?」
 ぜひ、と所望。目の前に置かれた平皿は、普通の皿より分厚くてずっしりと重い。「この皿に豚肉を並べ、そのまま冷蔵庫でよく冷やすんです。すると食卓に出した後も、分厚い皿がよく冷えているから、最後まで冷たさを保ってくれる」
 なるほど。それでこそ、「真夏には冷や豚」なのである。

 ●好奇心と塩作り

 河童さんは幼いころから好奇心いっぱいの人だった。「これ、食べられるかな?」と思った時はもう口に入れていたので、年中おなかをこわしてばかりだったとか。家が海辺だったので、小学校3年の時、塩作りに挑戦。海水を鉄鍋に入れ、まきを燃やして煮詰め、天日に干したのはいいが、できたのは鉄鍋のサビ混じりの赤いベタベタの塩。ニガリも抜けていなかったので強烈に苦かったらしい。
 なんでも試みたくなるクセは今も健在だ。食べられなかった珍品は、と聞くと、「ウニ入りヨーグルトはダメだったね。でも我が家では作った人が責任を持って全部食べる、というルールがあるから」。
 ちなみに、インタビュー当日の昼食も豚。でも「冷や豚」ではなくトンカツだった。「まずソースをかけて食べ、半分になった時、急にカツ丼を食べたくなってね」。すぐに台所に立って、しょうゆ、みりん、塩で味付けした溶き卵を加えて、食べ残しのトンカツでカツ丼を作ってしまった。「卵はもちろん半熟でトロトロのふわふわでね」
 夏の「冷や豚」も試行錯誤の末の傑作なのだ。食欲の落ちる真夏に、ビタミンB1が豊富な豚肉を食べるのが、夏ばて予防に効果的だという。すでに河童ファンの家庭では「冷や豚」は夏の定番になっているらしく、3日前も新宿の路上で見知らぬ人から「うちも夏は冷や豚です」と笑いながら声をかけられたとか。
 記者も「河童の料理教室」の成果を自宅で試してみた。河童さんの指導通り、薄く片栗粉を付けてゆでた冷や豚は、皿の上でプルプル揺れて心地よく、脂身が苦手で豚肉嫌いの私も、なんと1人で250グラムをペロリと食べてしまった。

 ●もてなし名人

 河童さんは、誰かと一緒に食べるのが好きだ。誰に何を食べさせようか、と考えるだけでワクワクする。だから、河童亭には客人が集まってくる。
 「夏のお客さんには、まず電子レンジでチンした熱々のおしぼりを出す。それから次に、氷で冷やしたおしぼりを出すと喜ばれる。前菜がすんだころ、冷蔵庫からさりげなく冷や豚を出して食卓へ。豚をゆでる時、汗だくになったことなど、客には感じさせないように、あくまでさりげなくね。何より大事なのは、作り手も客と一緒になって食べられる料理であること。料理屋での食事ではないのだから、招かれた客に気を使わせないことも、食卓でのおしゃべりも、ごちそうのうちだからね」
 おいとましようとしたら、「抹茶は好き?」と聞かれた。自作の茶わんでお茶をたててくださるという。陶芸歴15年とかで、備前、志野、黒楽、黄瀬戸の茶わんも見事。和三盆をお茶請けに、備前の茶わんからお茶を口にふくんだ瞬間、幸せに包まれた。河童さんは食いしん坊にして「もてなし名人」なのだ。
 おいしいおしゃべりとお茶。本当にごちそうさまでした。


プロフィール

Author:おぐにあやこ
名前■おぐにあやこ
生年■1966年 ひのえうま
仕事■07年秋まで新聞記者。
   仕事を辞めて渡米。
   メリーランド州在住。
   現在、週刊ポストに
   「ニッポンあ・ちゃ・ちゃ」
   を連載中。
趣味■読書、ピアノ、旅、昆虫飼育
目標■ちょっと背伸びして、
    疑問符を感嘆符に変えること
苦手■勧善懲悪
著書■
▼「薬(ドラッグ)がやめられない 子どもの薬物依存と家族」(青木書店)
「ベイビーパッカーでいこう 赤ん坊とザックかついでスペインの旅」(日本評論社)
「魂の声 リストカットの少女たち」(講談社)
「いいじゃない いいんだよ 大人になりたくない君へ」(共著、講談社)
訳書■
「自傷からの回復 隠された傷と向き合うとき」(みすず書房)

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