おぐにあやこの行った見た書いた

記事99◆動物虐待に秘められたシグナル、という記事

■掲載年月日 2002年08月14日
■動物虐待、人への暴力予知するシグナル
■全米人道協会副会長に聞く

◇動物虐待「人への暴力を、予知するシグナル」
−−全米人道協会副会長のランダル・ロックウッドさん、来日して訴え


 動物虐待への罰則が強化された改正動物愛護法の成立から2年半が過ぎた。しかし、日本ではまだ「たかが動物いじめ」と軽く見られがちだ。このほど初来日した米国最大の動物愛護団体「全米人道協会(HSUS)」の教育担当副会長、ランダル・ロックウッド氏は「動物虐待は人への暴力を予知するシグナルだ」と指摘する。動物に触れる機会の増える夏休み。動物と人間とのかかわり方を考えてみたい。

 <動物虐待と人間への暴力との間には、どのような関係があるのですか>

 ◆米連邦捜査局(FBI)は1970年ごろから、凶悪な殺人犯らの少年期を調べ、重要な共通項を見いだしました。深刻な動物虐待を繰り返していた事実と放火癖の2点でした。例えば、76〜77年にかけニューヨークで6人を銃で殺害し、2000件の放火を自供した男は、7歳ごろに養母の金魚鉢に毒物を入れ、死んだ金魚を針で刺したり、鳥を殺したりしていました。91年までにミルウォーキーで少年17人を絞殺し、死体を食べていた男は、7歳ごろから犬や猫を切り刻み、死体を飾っては友人に見せていました。
 FBI元特別捜査官のロバート・レスラー氏は「彼らの多くが小学生時代、あるいはそれ以前から動物虐待を繰り返し、他の生命への支配欲を満たし、快感を感じていた」と指摘しています。

 <神戸市の連続児童殺傷事件でも、加害少年はネコなどへの虐待を繰り返していたと報道されています>

 ◆もちろん動物虐待をする少年が、すべて殺人を犯すとは言えません。特に幼少期の動物虐待は好奇心や通過儀礼的な行動としても起こりえます。が、7歳を過ぎても繰り返し動物を虐待し、快感を感じているケースでは、その少年が家庭や学校で問題を抱えていないかを調べる必要があります。
 動物虐待は人間への暴力行為に向かう前のシグナルです。動物虐待の段階で犯人を捕まえていれば、発生を免れただろう殺人事件も少なくない。虐待対象が動物だから、と軽く考えてはいけないのです。
 また、動物虐待は、児童虐待やDV(ドメスティック・バイオレンス=配偶者の暴力)とも深く関係しています。HSUSが2000年、動物虐待者1624人を調べたところ、特に深刻な虐待を行った922人のうち21%が人間にも暴力を振るっており、暴力の対象は13%が妻、7%が子供、1%が老人だったのです。

 <動物虐待は児童虐待を早期発見するシグナルにもなる?>

 ◆そうです。動物を虐待する子供はおおまかに分けると、(1)未成熟で社会的スキルや認知不足から虐待する子供(2)自身が親などから虐待を受けている被害者(3)将来反社会的行動を取る可能性のある子供――に分類できます。つまり、動物を虐待する少年は将来人間に暴力を向ける可能性があり、ペットを虐待する親は子供を虐待している可能性があり、動物を虐待する子供は親から虐待されているか、親の暴力を目撃している可能性が高いのです。
 私たちは83年、ニュージャージー州で児童虐待のあった53の家族を訪問し、聞き取り調査をしました。すると、60%の家庭で家族の一員が動物虐待を行っていました。
 DVについても同じことがいえます。97年、夫の暴力が原因でシェルターに逃げた101人の女性にインタビューしたところ、夫から「ペットを殺すぞ、傷つけるぞ」と脅された経験を持つ人は70%、実際に傷つけたり殺された人も54%いました。DVのない家庭では脅された経験者が16・7%、実際に殺されたか傷つけられた人も3・5%ですから、大変な差です。
 さらに、DV被害者の女性の61・5%が「子供が動物虐待の現場を目撃した」と答え、この子供たちの3分の2は自らも動物に暴力を振るっていました。親から虐待されたり、DVを目の当たりにした子は、動物やその他の弱い存在に対して暴力を再現する傾向があるのです。

 <動物虐待と児童虐待やDVとの関連に着目し、予防効果を上げている事例はありますか>

 ◆米国では警察当局が動物虐待とDVの関係に注目し始めました。ボルティモアの警察のDV対応マニュアルには「ペットへの虐待もチェックし、動物用のシェルター施設に連絡をすること」と明記されています。DVの被害者の中には、家を出てシェルターに逃げ込もうとしたものの、ペットは一緒に連れていけないと言われ、暴力から逃げ遅れた女性も少なくない。警察がペットの逃げ場を用意することで、DV被害者も家から逃げやすくなるのです。
 これらの対策の結果、ボルティモアの管内のDV絡みの殺人事件は急減しました。95年には年間26件あったのが、DV対応マニュアルが書き換えられた後の99年には5件に減ったのです。つまり動物虐待は凶悪犯罪や児童虐待、DVを察知する重要なシグナルであり、動物虐待に着目することで、人命を救うこともできるのです。

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 ◇ランダル・ロックウッドさん
 1948年米国ニューヨーク市生まれ。ワシントン大で心理学の博士号を取得。同大およびニューヨーク州立大の助教授を経て、84年からHSUSに参加。2000年から現職。動物への暴力と人間への暴力の関連性についての啓もう活動「ファースト・ストライク・キャンペーン」の代表を務める。

記事98◆恩師、村田明先生を思う記事

■掲載年月日 2002年08月06日
■編集部から

 「小学校から高校まで、フルネームで言える担任の先生は何人?」と知人に問われ、数えてみた。小中高時代に各1人しかいなかった。ちょっと薄情だろうか。

 小学校5、6年の担任は村田明先生といった。熱心に詩の授業をし、広島の原爆以上に沖縄戦を教えるような人だった。時には度が過ぎて「世界中はいつか共産主義国になる」と生徒に説くこともあったが、私は他の先生とひと味違う村田先生が好きだった。

 彼は「為政者にだまされぬよう、新聞を読め」とも言った。母は「女の子は新聞など読まない方がいい。政治に関心を持ったら大変」と心配し、私は仕方なくトイレの中で隠れて読んだものだ。思えば、私が教科書には載っていない現在進行形の社会に触れたのも、親を突き放して見るまなざしを身に着けたのも、あの狭い個室の中だったのだ。

 会いたいなあ、村田先生。


記事97◆ライオンを見に行くだけで記事を書いてしまった

東京タワーに昇っただけで記事を書くのか、と言われてまだ間もないというのに、今度は、ライオンを見に行くだけで、記事を書いてしまった……。
この日も子連れ取材。
このころは、休日など預け先のない日には、よく子連れ取材しました。
息子を、取材の小道具に使っていた、とも言えますが。

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■掲載年月日 2002年07月26日
■人はなぜ百獣の王を見たがるのか
■東京・上野動物園に、ライオン再び

 東京・上野動物園に百獣の王、ライオンが11年間もいなかったことを知らない人は意外に多いのではないかと思う。それが今年3月、1頭のメスライオンがやって来て、5月に3頭の赤ちゃんを産んだ。公開初日の20日は夏休み最初の土曜日であった。3頭の「百獣の王」を前に、ライオンなる存在を考えた。

  ■     □

 朝10時、自宅から歩いて15分の上野動物園を目指した。日差しが強く、頭がクラクラする。「動物園日和」にはほど遠い。到着すると案の定、夏休み最初の祝日だというのに、普段の祝日より入園者は2割程度少なかった。取材の道連れは4歳の息子。パンダは飽きるほど見てきた彼もライオンは見たことがない。近所の上野動物園にずっとライオンがいなかったからだ。

 子供は異形性の強い動物が好きだ。「ライオンのたてがみ」「ゾウの鼻」「キリンの首」は3大人気だ。「母ちゃん、ライオンを早くみたいね」。この日ばかりは息子も、大好きなパンダやゾウに目もくれず、ライオンを目指したのだった。

 開園120周年の歴史を振り返っても、上野でこれほど長く「ライオン不在」が続いた時代は他にない。上野に初めてライオンがやってきたのは1902年。戦中の43年には4頭が薬殺される悲劇もあったが、49年にアフリカライオンを購入。それ以降、ライオンは常に同園に君臨してきた。

 しかし80年、国際自然保護連合(IUCN)が野生動物などの保全戦略を発表したのを転機に、世界中の動物園が「種の保存」に取り組み始めた。上野、多摩など東京都の4動物園も、同種の動物を1園に集めて飼育し、繁殖させることにした。「ズーストック計画」である。91年、上野動物園にゴリラとトラがやってきたあおりで、ライオンは多摩動物公園(日野市)へ移ってしまったのだった。

 「ライオンのいない動物園」はなぜか物足りない。上野動物園には毎日のように「ライオンを見たい」という声が寄せられた。人間とは、かくもライオンを見たがるものなのだ。

 今年3月9日、インドライオンのメス、チャンディーがやって来た。よこはま動物園ズーラシアから繁殖貸与されたもので、おなかには赤ちゃんがいた。わずかの公開期間の後、母体保護のために「産休」に入り、5月3日、3頭の赤ちゃんを産んだ。

  ■     □

 さて、目当てのライオンの放飼場に着いた。ゴリラやトラの放飼場と同じで、自然の森林を再現した490平方メートルの放飼場を、ガラス張りの壁から見渡せるようになっている。

 「あ! いた!」

 ガラスの壁に張り付いた親子連れが声を上げた。思わず私たちものぞき込む。約20メートル先の草むらに、大きなネコみたいな茶色い3匹がじゃれあっている。

 あ、歩いた。
 あ、転がった。
 あ、隣の子とぶつかった。

 愛らしい仕草に、いちいち感動してしまう。が、それもつかの間。

 「ここ暑いよ」。息子が一言ぼそっとつぶやいた。いきなり本質を突いてくる。そうなのだ。暑いのだ。すでに11時、気温は32度を超えている。直射日光が真上からガンガン照りつけ、首の後ろがジリジリする。

 「だって、ライオンだよ。生まれて初めて見たライオンだよ」と無理にでも場を盛り上げようとする私。「もう、いい」と、あっけない息子。結局、数分と見続けることができず、ガラス壁の近くの木陰に退散。

 今度は木陰から、ライオンを見る人々の方を観察した。誰かがガラス壁より20メートル先の草陰に3頭を見つけ、「あ! ライオンの赤ちゃん!」と叫ぶ。ワラワラとたちまち人だかりができる。しかし数十秒もたつと早くも「暑いよ、もう行こうよ」と誰かが言い出す。口火を切るのはたいてい子供だ。
 親の方は「ライオンの赤ちゃんよ。今日初めて公開されたんだって」と珍しさにこだわるが、「だって暑いんだもん」と子供はそっけない。結局、観衆はハラハラと散っていく。そんなことが何度も繰り返されたのだった。

 木陰には先客がいた。この台東区の男性会社員(35)は、なんと朝9時半の開園時からずっと一人で観察しているという。「母親ライオンの姿は一度も見えないし、赤ちゃんライオンもずっと遠くにいるままですよ」と教えてくれた。炎天下で1時間半も粘るとはすごい。

 動物園の職員が窓ガラスに「インドライオンの赤ちゃんをきょうから公開しています」と書いた紙を張りに来た。「初日ですから、赤ちゃんたちも放飼場の出口の所からあまり離れないようです。母親が出てきてくれると、赤ちゃんと一緒にガラス壁の近くに来る可能性もあるのだけど」と説明してくれた。どうやら、母親は放飼場に出てくるのを渋っているらしい。

 「あれ、本当にライオンなの?」。一人の子供がけげんそうに母親に尋ねている。確かに、「たてがみの雄々しいライオン」を期待した子供にとっては、「茶色い巨大ネコ」は期待はずれなのだろう。汗だくの息子もふてくされている。

 「お母さんライオンはどうしていないの? 見たいよー」。暑さのせいだろうか。私も思わず強い口調で言い返してしまった。「お母さんだってね、時にはお休みしたいの」

 その瞬間、近くの母親たちが一斉にこっちを振り向いた。彼女たちの目に共感の色が見て取れた。

  ■     □

 今回出産したインドライオンは、アフリカの平原ではなく、インド西北部グジャラート州の森に生息する。アフリカライオンより少し小型で、たてがみも短い。生息地の減少や乱獲のせいで、19世紀の初頭には数十頭まで減ったという。手厚い保護で少しずつ増えたものの、森にわずか約300頭しかいない絶滅危惧(きぐ)種だ。

 一方、多摩動物公園に集められたアフリカライオンの方は25頭と着実に増えた。約1万平方メートルの放飼場を見て回るライオンバスは子供たちに大人気だ。同園の石田〓飼育課長は「チーターやゴリラと違って、ライオンは相手をえり好みしないし、頻繁に発情しますから、繁殖は簡単。今では増やし過ぎないようコントロールしています」という。百獣の王は絶倫なのだ。

 コントロール、つまり避妊方法も聞いた。ホルモン抑制剤を与えたり、パイプカットする。「昔はバースコントロール技術がなく、睾丸(こうがん)を切り落としていました。たてがみを失ったオスもいたそうです」と石田課長。哀れなオスの姿が脳裏に浮かんだ。たてがみを失ったオスライオンほど惨めなものはない。やっぱりライオンのシンボルといえば、たてがみなのだ。

 今回の赤ちゃんはメスが2頭、オスが1頭。上野動物園で「たてがみ」を見るには、このオスの子供に期待するしかない。オスの名は「モハン」。ヒンディー語で「魅力的な」という意味だ。たてがみが生えるまで5〜6年というから、まだ当分かかる。

 それにしても、人はなぜライオンを見たがるのだろう。雄々しいたてがみ。「百獣の王」という肩書。ライオンには侵しがたい存在感がある。上野動物園の調査で「ライオンは30代〜40代前半の働き盛りの男性に好まれる」というデータがあった。ライオンの強さと孤高は、孤独に闘う現代人の心をつかむのかもしれない。

 今年1月下旬、1頭のライオンの死が世界中を悲しませた。アフガニスタンの首都カブールの動物園にいたオスの老ライオン「マルジャン」だ。王政時代から旧ソ連侵攻、その後の内戦時代を生き抜いてきた。おりに侵入した男を食い殺し、その兄弟の復しゅうで手りゅう弾を投げつけられ、片目を失明した。傷だらけの弱り切ったライオンは、タリバン崩壊後の平和のシンボルとなり、世界の動物関係者からも支援が相次いだそうだ。

 マルジャンがウサギだったら、シマウマだったら、あるいはパンダだったとしても、その死はこれほど世界の人の心を揺さぶらなかっただろう。ライオンとはそういう存在なのだ。

 午前11時半。結局、暑さに負け、わずか1時間足らずで上野動物園を後にした。母親ライオンは見ることができなかった。「今度は多摩動物公園のライオンバスに乗せてあげる」。そう言って息子をなだめてみたが、実のところ、ライオンのたてがみを無性に見たかったのは、息子より私の方だった。


記事96◆あなたの好きな動物は? の記事

■掲載年月日 2002年06月18日
■そこでランキング
■好きな動物 強いゾウ、ライオン、キリン


 動物園の花形といえば、やはりゾウやライオン、キリンなどだろう。ところが「どの動物が好きか」となると、子供から大人へと、年齢によって好みは大きく変化する。東京都立多摩、上野の両動物園が調べたランキングを紹介する。

 まずは都立多摩動物園のデータ。同園は昨年、動物の人気度調査を始めた。まだ調査の途中だが、昨年から現在までの間に計14日間を選び、来園者計1499人に「好きな動物三つ」を尋ねている(上の表)。
 上位3位は、ゾウ、ライオン、キリンの順。やはり形に特徴のある大型動物が強い。特に同園では、広々とした放飼場を走る「ライオンバス」から、23頭ものライオンを観察できるため、ライオンの人気が高い。また、上野動物園にはいないコアラも4位につけている。

 同園飼育課によると、「好きな動物」に選ばれるポイントは、形が珍しい▽かわいらしい▽陳列上、重点が置かれている▽動きやしぐさに特徴がある▽子供になじみがある――の五つだ。例えば、動物園にはいないイヌやネコがヤギやシマウマより上位に入るのも、「子供になじみがある」ためだという。

 データを「6歳以下の幼児」「小中学生(7〜15歳)」「16〜29歳」「30歳以上」の年齢別に分けると、他の年齢層と異なった傾向が見られるのは小中学生だ。他の年齢層の上位5位は(1)ゾウ(2)ライオン(3)キリン(4)コアラ(5)サルの順だが、小中学生だけは、(1)ライオン(2)コアラ(3)ゾウ(4)レッサーパンダ(5)トラの順になっている。

 同課は「小中学生になると、ゾウやキリンなどの異形性への関心を失い、むしろ男の子ではカッコ良いライオンやトラを、女の子ではかわいらしいコアラやレッサーパンダを好むようになる。一方、6歳以下の幼児と大人の好みが互いによく似ているのは、親子で来る客が多いからだろう」と分析する。

 年齢と動物の好みとの関係については、上野動物園が88〜89年に行った調査データに詳しい。同園は調査期間中の30日間を選び、来園者6129人を対象に「好きな動物三つ」を尋ね、結果を年齢別に分析した。

 総合的な順位は、パンダ、ゾウ、キリン、サル、ペンギン、ゴリラ、ライオン、クマ、トラ、ウサギ、コアラ、シロクマ、イヌ、カバ、トリ、アライグマ、ネコ、ヒョウの順。一時は国民のアイドル的存在だったパンダの人気が相当強いのと、サル、ペンギン、ゴリラが上位に食い込んでいる点を除けば、多摩動物園と傾向は似ている。

 年齢層別の上位ランキングでも、順位はそれほど変わらない。しかし、年齢別の相対的な動物の好みを分析すると、面白い特徴が見えてくる(下の表)。

 0〜2歳の乳幼児は形のユニークなゾウが大好き。異形性の強いキリンも人気者だ。ところが子供は6歳ごろから急にゾウへの興味を失い、12歳くらいからキリンに対する興味も失う。
 3歳くらいから、ウサギなど触ることのできる小動物を好む子が増える。が、これも小学校に入るまで。小中学生になると、パンダ、ペンギン、クマ、コアラ、イヌなど愛きょうがある動物やペットに興味の対象が移行する。

 一方、子供時代を終え、20代に入ると、ペンギンやクマ、キリンなどを好む人が増えてくる。同園は「心に訴えかけるような美しい動物、大きな野生動物にひかれるようだ。特に1人で動物園に来る20代、30代にその傾向が強い」と説明する。
 30代を過ぎると、イヌ、コアラ、ウサギ、クマへの興味を失い、ライオンなど強い動物への興味が強まっていく。男性を中心に、40代では「強い動物」への関心がさらに増す。

 が、40代も半ばになると、動物への感覚が再び大きく転換する。急に気になる存在となるのが、サルやゴリラたちである。同園は「サルやゴリラの味が本当に分かるのは、人生を折り返した40代後半なのかもしれません。擬人化して眺める傾向も強いです」と話すのだ。

 確かに、動物園に行くと、働き盛りのお父さん世代がサル山をぼんやりながめていることがある。「あいつ、ボスザルにごますりやがって……」などとサラリーマン人生をサル山に重ねているのかもしれない。

 50代になると、ゾウ、キリンへの関心が再び戻る。「孫のいる年齢となり、祖父母として動物園に来るため、孫の好みに引っ張られているのでしょう」と同園は推測する。

 雄々しいライオンより、サル山のサルが気になり始めたら……。あなたも人生の悲喜を味わい尽くした中高年の仲間入り、ということになるのか。


………………………………………………………

 ◇動物人気ランキング(多摩動物園調べ)
 (1)ゾウ
 (2)ライオン
 (3)キリン
 (4)コアラ
 (5)サル
 (6)トラ
 (7)レッサーパンダ
 (8)チンパンジー
 (9)ウサギ
(10)チーター
(11)パンダ
(12)ユキヒョウ
(13)鳥
(14)クマ
(15)オランウータン
(16)イヌ
(17)ネコ
(18)シマウマ
(19)サイ
(20)ゴリラ
(21)昆虫
(22)サーバルキャット
(23)ヤギ


記事95◆性同一性障害の「女性」の記事

久しぶりに社会面に書いたニュース記事。
思い悩んだのは、記事の冒頭。
普通に書き始めるならば、「性同一性障害と診断された男性(36)が勤務先の出版社が……」と始めるべきところ。でも、彼女は、「男ではない、私は女だ」と主張し、職場で不当解雇されたのだ。それを新聞記事で再び「男性」と書いてよいものなのだろうか、と。
でも、ここで「女性」と書くのは難しい。混乱してしまう。
悩みに悩んだ末、こう書いた。
「 性同一性障害と診断され女性として暮らす男性(36)」
そして、この後はすべて「元社員」で統一した。この「元社員」という言葉を使おう、と言い出したのは担当デスク。ものすごく細かい点だけれど、ここに至るまで何十分も担当デスクと悩んだのだ。
記事はこうして、できあがっていく。

■掲載年月日 2002年06月13日
■性同一性障害の男性が女性の服で出勤し、懲戒解雇
■東京地裁に地位保全申し立て

 性同一性障害と診断され女性として暮らす男性(36)=横浜市=が、勤務先の出版社「○○社」(本社・東京)から「女装して出勤した」ことなどを理由に懲戒解雇された。この元社員は解雇直前、同社を相手取り、東京地裁に地位保全の仮処分を申し立てており、その決定が近く出される。性同一性障害を抱える人々の就労問題に司法が判断を下すことはほとんど前例がなく、注目される。

 元社員は、今は女性として生活し、女性への性別適合手術も希望している。
 97年に入社後、00年に性同一性障害と診断を受け、カウンセリングとホルモン療法を始めた。01年には、男性名から女性名への改名が横浜家裁に認められた。しかし職場で問題化するのを恐れ、上司1人だけに事情を告げ、旧名で男性として勤務を続けた。

 しかし、治療の結果、体つきが女性的になり、男性トイレの使用も苦痛と感じ、通勤時に周囲から「男装した女性」と間違われることも増えた。今年1月、会社側から配置転換を打診されたのを機に「女性として働きたい」と訴え、(1)女性の服装で出勤する(2)女性用トイレを使う(3)女性更衣室を使う――の3点を配転の条件に挙げた。

 元社員によると、会社側はこれを拒否し、女性の服装で通勤を始めた元社員に対し「女装は服務規定違反。懲戒委員会にかける」と通告。元社員の写真やビデオも撮影したという。

 解雇の意図を感じ取った元社員はこの3月、東京地裁に仮処分を申し立てたが、同社は翌4月、懲戒解雇を通告。「女装で出勤しないこと」という業務命令や配置転換命令に従わなかった、などがその理由だった。

 元社員は「性同一性障害の人は治療の過程で職場を追われたり、転職を余儀なくされたり、戸籍の性と生活上の性が違うため、正社員として働けない人も多い。現状に一石を投じたい」と語る。

 ○○社は、地図出版で有名な東証1部上場企業。同社総務部は「係争中なのでコメントできない」と話す。同社の代理人は「性同一性障害は理解できるが、男性として採用した社員が突然女性になることを会社側が受認するのは難しい。女装は職場の秩序を乱す行為で『女性として扱わねば配転を拒否する』というのは服務規定違反に当たる」と話している。 

◇欧州で解雇違法の判例
 性同一性障害の問題に詳しい神戸学院大法学部の大島俊之教授の話 性同一性障害の人が解雇され、裁判に訴えている事例はおそらく前例がないと思う。会社側は、職務怠慢を理由に配置転換などを迫るのが通例で、多くはプレッシャーに負け自ら辞表を出してしまう。ヨーロッパでは「性同一性障害を理由にした解雇は違法」という判例があり、日本でも根づいてほしい。

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関連でこんなコラムも書きました。

■掲載年月日 2002年07月09日
■編集部から

 性同一性障害の記事を書いた。女装を理由に勤務先を懲戒解雇された「彼女」の話。性転換手術はまだなので肉体的には男性だが、ホルモン療法を受け、女性名に改名し、女として暮らしている。

 匿名で記事を書き始め、困った。「性同一性障害と診断された男性が」と書き始めるべき所だが、彼女を「男性」とは書けなかった。見た目にも女性だし、女性として生きるため乗り越えてきた困難を思うと、むしろ「女性」と書きたかった。しかし記事に「女性」と書けば、読者は「男性になりたい女性」と勘違いするだろう。

 結局、最初だけ「男性」という言葉を使い、後は「元社員」という呼称を使った。苦肉の策だ。

 「大阪で性転換手術を受けて亡くなった人のことを新聞は『男性死亡』と書いた。彼女は最期まで女になりたかったろうに」となげいた彼女の言葉が今も心に残る。

記事94◆家族で行った潮干狩りを記事にしちゃった

■掲載月日 2002年05月01日
■GWの手軽な行楽「潮干狩り」

 潮干狩りシーズン到来だ。一度やってみたいけどマイカーもないし、混雑しそうだし、子供も小さいし、道具もないし……と二の足を踏んでいる人も多いはず。ゴールデンウイーク(GW)中の日曜日、千葉県・富津海岸へ潮干狩りに出かけた。

 4月28日朝9時半、JR東京駅内房線ホームは通勤ラッシュ並みの混雑ぶりだ。特急の発車20分前から並び、座席を確保する。この日のメンバーは私のほかに、運動不足気味の夫と4歳の息子。“戦力”にちょっと不安は残るが、目標は高く「アサリご飯+澄まし汁+スパゲティボンゴレ」である。

 午前11時ごろ、最寄りの青堀駅に到着。会場までは路線バスもあるが、渋滞を避けようとタクシーに乗った。幹線道路は大型観光バスやマイカーでひどい渋滞だ。しかし、地元タクシーは裏道を抜け、10分足らずで現地に到着。会場周辺には、駐車場に入れないマイカーが何百メートルも路上にあふれていた。他人の不幸を喜んではいけないが、「電車でよかった」と思うのは、こういう瞬間である。

 まず、入場券を買う。首都圏周辺の潮干狩り場の多くは、地元の漁協がアサリをまいていることなどから、採取量に応じて料金を払う。富津海岸では、アサリが約2キロ入る網付きで1200円。超過分は1キロ600円。クマデやサンダルなどの道具も現地調達できる。

 「さあ、潮干狩りだ!」と浜辺を見渡し、思わず絶句。
 人、人、人。
 2万人近い人出である。東京ディズニーランドも真っ青。「富津がこんなに込むの、初めてみたよ」と常連客も驚いている。首都圏の潮干狩りには混雑が付き物だ。時期が春から夏までと短いうえ、潮具合の良い週末となるとさらに限られる。採れるのは干潮前後の4時間。込まないわけがないのだ。

 気を取り直し、サンダルに履き替えた。息子は厚手の靴下。サンダルは砂まみれになった時、足がこすれて痛い。子供には靴下が一番だ。

 会場入り口付近の砂浜を掘ってみた。無残だ。何千人もの客に掘り返された浜には、死んだ貝と小指の先ほどの小さな貝しかいない。沖へ、沖へと移動する。

 「ハマグリだ!」。隣で歓声が上がる。せん望のまなざしを向けたら、ハマグリではなく、バカ貝だった。姿は似ているが、味は似て非なるもの。喜びに水を差すのも申し訳なく、黙っておいた。

 掘り始めて約1時間。とうとう「金脈」を掘り当てた。クマデを砂地に刺し、軽く手前に引くだけで「ゴチ、ゴチゴチ」と何か引っかかる。興奮しながら掘り返すと、巨大なアサリがゴロゴロ。「大きいぞ!」。私は興奮に震え、クマデを動かす。息子も「やったあ」と小躍りする。あわてて小声で息子をたしなめる。「静かにして! みんなに聞こえるでしょ」

 ああ、見苦しい親の姿。不思議なもので、アサリは1個見つかると2個、3個と次々見つかる。どんどん運が上向く感じだ。「母ちゃーん、寒いよ〜。帰りたいよ」。振り向けば、息子が海風の中で鼻水を垂らし、震えていた。しかし「金脈」にはあらがえない。「アサリご飯のために、もう少し我慢してね」。非情な母である。

 この時、私は理解した。なぜ潮干狩り会場では迷子の呼び出し放送がこんなに多いのか。迷子以外に「出発時間に大幅に遅れています。お客様はお早くバスまで」や「ご家族が首を長くして待っておられます」という放送もある。アサリ金脈に当たると、みな平常心を失うのだろう。それが潮干狩りなのだ。

 しかし寒さに青ざめる息子の姿に、さすがに網いっぱい採るのはあきらめた。帰ろう。

 さて、首都圏の潮干狩り場の悲劇は、「帰ろう」といってもすぐ帰れない点だ。出口でアサリを計量し、超過の有無を調べる会場が多い。だから潮干狩り場では計量待ちの長い長い人の列ができるのだ。

 実は昨年、我が家は東京に最も近い潮干狩り場、「ふなばし海浜公園」(船橋市)に行った。やはりGW中で込み、計量待ちはなんと2時間。おまけに午後、雨も降り出した。妻子を先に帰し、ずぶぬれで震えながら計量を待つ何百人もの父親たち。貝をあきらめ、手ぶらで帰る人が続出し、浜辺には捨てられた大量のアサリがゴロゴロと転がっていたっけ。

 今年、富津海岸まで足を延ばしたのは、この「計量待ち」を避けるためだ。ここではアサリが指定の網1杯(2キロ)以内の人は別の列に並び、入場券チェックだけで会場を出られる。実際、数分の後には会場を抜け出せた。計算通りである。

 首都圏ではほかにも、駅から無料送迎バスのある会場や駐車場が広い会場、温泉施設に隣接した会場など、それぞれに特長がある。また、5月25〜28日ごろに再び潮の具合が良くなる。首都圏の潮干狩りでは、下調べがモノを言うのだ。

 この日の成果は、約3キロ。砂出しの末、翌日には見事、ボンゴレとアサリご飯と澄まし汁が食卓に上ったのであった。


 ◇富津漁協にコツを教えてもらう
 ●服装
 足元に注意。裸足は危ない。長靴やサンダルの人が多い。帽子は必需品。
 ●アサリの探し方
 アサリは水管を出して呼吸しているので、砂にポツポツと穴のある場所を軽く掘ると見つかる。スコップは貝を傷めるから、クマデの方がいい。
 ●持ち帰り方
 会場には持ち帰り用の発泡スチロールの箱も売っている。クーラーボックスが便利。ただし氷を入れると貝が死ぬので注意。
 ●砂出しと保存
 会場に海水の出る蛇口があるので、空のペットボトルなどに入れて持ち帰ろう。海水なら約3時間、水道水で作った3%の塩水でも一晩で砂が出る。冷凍保存も可能。冷凍アサリは解凍せず、凍ったまま調理する。

記事93◆雪舟展を赤瀬川さんたちと見に行く、の記事

この4年後、たっぷりと担当させていただいたあこがれの赤瀬川原平さん。最初のお仕事がこれでした。

■掲載年月日 2002年04月25日
■「日本美術応援団」面々と、雪舟展を見に行く

□山下裕二氏「雪舟はね、乱暴力があるんです」
□赤瀬川原平氏「おお、いきなりこれですかあ!」
□南伸坊氏「うーん、雪舟はなまに限るね」

 没後500年の特別展「雪舟」が東京・上野の東京国立博物館で開かれている(主催・同博物館、毎日新聞社、TBS)。初日は開館前から長蛇の列ができた。雪舟の魅力の秘密を探るため、雪舟研究家として知られる山下裕二氏が率いる「日本美術応援団」の面々と、雪舟展を見に行った。

 東京・上野公園の一角にある東京国立博物館。23日からの特別展スタートに先立ち、22日に美術関係者ら約1500人を招いてのレセプションが開かれた。

 「日本美術応援団」の団長の山下氏は明治学院大教授(美術史)で、雪舟研究家としては著名な人物。団員1号は「老人力」と「トマソン」の作家、赤瀬川原平氏。団員2号はイラストレーターの南伸坊氏というメンバーだ。96年、雑誌の企画をきっかけに「日本美術を応援しよう」と結成された。
 「日本美術応援団」のモットーは「日本美術をゲージュツ扱いしない」ことである。「ゲージュツ」と思うから、距離が遠くなる。あえて「歴史的に見ない」ことで、もっと自由に日本美術を楽しめるのではないか、というわけだ。

 さて、いよいよ展覧会である。最初の絵は何か。どんな展示構成なのか。いや応もなく興奮は高まる。展覧会はなまもの。「ライブ」である――というのが、応援団のモットーだ。コンサートの1曲目の選曲が客席のノリを決めるように、やはり最初の絵のインパクトは大きい。

 「これを最初に持ってきたかあ!」。
 一同、どよめいた。1枚目は「雪舟七十一歳像」だ。雪舟自画像の精密な写しで、実際、雪舟はこんな顔だったらしい。赤瀬川団員は「長嶋茂雄そっくりでしょ」と自説を披露した。
 山下団長が解説する。「雪舟がかぶっている烏紗(うさ)帽は中国の高位の禅僧がかぶるもので、雪舟は本来はかぶれないものでした。が、雪舟は中国から帰国後、好んでかぶった。フランス帰りの画家がベレー帽をかぶりたがるようなもんですね」

 署名の部分に「天童第一座」の文字が読める。雪舟は48歳で遣明使に交じって中国大陸に渡った。この時、高名な天童寺から「第一座」の称号をもらったのが雪舟の自慢らしい。第一座とは、その寺で座禅を組む時に一番上座にいたという意味だ。彼の作品の多くにはこの称号が誇らしげに記されている。

 「もしかして、自己顕示欲の強いタイプだったんですか」。記者の質問に、山下団長は「無邪気に自己PRするタイプだったんでしょうねえ」。何だか、500年前の「画聖」も急に人間臭く思えてくる。

 ■表情、実に人間臭く

 雪舟は室町中期の1420年、備中(岡山県)に生まれた。40代後半に中国で絵を学び、それまでの日本の水墨画にはなかった力強い筆致と大きく堅固な構成を特徴とする新しい画風を確立した――というのが世間一般の評。名前を知らぬ日本人はいないが、一方で「屏風(びょうぶ)や掛け軸の水墨画を極めたエライ人でしょ」程度の認識の人が多いかもしれない。実は私もそうだった。

 さて、いよいよ雪舟の絵である。
 「慧可断臂図(えかだんぴず)」。
 修行中の達磨(だるま)と、達磨に弟子入りを望み、覚悟を示すために自らの手首を切り落とした慧可を描いた絵だ。

 「おお、いきなりこれですかあ!」。赤瀬川団員は興奮気味だ。1987年の展覧会で初めて見た時は、「掛け軸の元祖」「教科書に出る人」にすぎなかった雪舟のイメージが吹き飛んだそうだ。ゴツゴツした岩肌と、柔らかな白布をまとった達磨の姿。手首の切り口ににじむ血。2人のえも言えぬ表情。実に人間臭い絵なのだ。
 赤瀬川団員は「最初の出会いの感動にはかなわないなあ」といいつつも、「初恋の人」との15年ぶりの再会を堪能している。

 今回の特別展の目玉の一つとも言える有名な絵だが、よく見ると、国宝指定ではない。いったい、なぜ?

 山下団長が説明してくれた。実はその昔、この絵をめぐって真贋(しんがん)論争さえあったという。「昔のエライ美術史家はこういう絵が嫌いだったのかも。下品だと映ったのでしょう。雪舟はもっと高尚なはず、とね。国宝とか、重要文化財とか、最高傑作とか、絵の肩書にとらわれずに見た方がいいですよ」

 雪舟に絵を教えた画家、周文のものとされる水墨画もあった。説明に「伝周文筆」とある。1文字目の「伝」は、「周文の筆と伝えられる」の意味だ。南団員は「昔、教科書で『伝周文筆』というのを見て、画家名が『伝周文』だと勘違いしてたよ。『画家には伝さんがバカに多いなあ』ってねえ」。

 お次は「破墨山水図(はぼくさんすいず)」。雪舟が弟子の宗淵(そうえん)に与えた絵だ。縦長の絵だが、上部3分の2は文字で埋まっている。「これは弟子への卒業証書であり、かつ推薦状でもあります。『おれのところで一生懸命勉強した見どころのあるヤツだ』などと雪舟が書いてます。が、弟子に触れたのは10行のうち最初の3行だけ」と山下団長はいう。

 雪舟は弟子をほめた後、「私は中国へ渡ったが優れた画家はほとんどいなかった」と書いている。「中国に行った」は彼の強い自負なのだ。「ほら、5行目の『入』という文字の墨だけが濃い。この字を書く前に墨をついだのです。『おれは中国に、入、ったぞ』と気合が入ってるのが分かります」

 教科書でおなじみの「天橋立図(あまのはしだてず)」もあった。畳1枚分の大きい絵だ。山下団長は、海を描いた空間に落ちた朱色の染みを指摘する。朱が乾く前に紙を畳んだため、折り目と左右対称に朱の染みができてしまったらしい。赤瀬川団員が早速、オペラグラスを使って別の「染み」を発見する。「国宝なんですけどねえ」と山下団長。「国宝でも、絵が乾く前に紙を折っちまうわけね」と、赤瀬川、南の両団員は大笑いだ。

 山下団長は著書でこの絵に触れ、「1000分の1ぐらいに縮小された教科書の絵から、この名画に触れることはほとんど不可能だ」と述べている。「雪舟、天橋立図、室町時代、東山文化、日本的水墨画」という言葉の連なりをただ記憶するよう強いられる受験生を気の毒がり、「お仕着せの『日本の伝統』に触れるから、日本美術を嫌いになってしまう」と憂うのだ。

 なまで雪舟を見るのは初めてという南団員が改めて「うーん、雪舟はなまに限るね」と感じ入る。

 ■逸脱のおもしろさ

 確かに、なまで見るのと画集とでは全然違う。3氏の話を聞いていると、雪舟の絵が生き生きと見えてくるから不思議だ。山下団長は「伝雪舟筆」や模本と説明された作品を順々に論評していく。「明らかに模本」「これは際どい。本物に極めて近い」

 その判断基準を知りたくて、尋ねた。「なぜ模本と分かるのですか」。山下団長はいう。

 「だってうますぎるでしょ」
 「は?」
 「この模本は、上手だけど丁寧で整い過ぎている。雪舟はねえ、もっと勢いがある。『乱暴力』があるんですよ」

 乱暴力――。
 「日本美術応援団」が生んだ名言の一つだ。線に勢いがある。割れた筆でぐいぐい押す。緻密(ちみつ)過ぎない。計算し尽くされてない。そんな力のことを指す。「乱暴力」は、なまで見るとよく分かるのだ。

 それにしても、「日本美術応援団」の一行は目立つ。それぞれに著名な3人である。その3氏が「雪舟の絵って変だよねえ」「こりゃ模本だ。うますぎる」「雪舟って曲線が苦手だよなあ」とぽんぽんと感想を口にするから強烈である。

 雪舟には失礼かもしれないが、彼の絵は確かに変なところがある。遠近法に矛盾する岩や島があったり、妙にボテッとした墨のベタ塗りがあったりする。それがやけに気になる。だけど、妙におもしろい。

 山下団長はこれを「逸脱」と呼ぶ。「逸脱のおもしろさは、何から逸脱したのかが分かって初めて面白い。だから同時代の他の画家や先達の絵を見るべきなんです。あとは『変だ』とまっすぐ受け止めることです」

 気がつけば、最初の緊張はどこへやら。3氏と一緒になって私も「変だ」を連発しながら、「おもしろい」と歯を見せて笑い、「不思議だなあ」とため息をついた。見始めて2時間。ちっとも飽きない。いつの間にか、雪舟が好きになっていた。

記事92◆国会に「無所属ゾーン」を見に行く、の記事

政治部記者の経験もない私にとって、国会は未知の世界。
警備の人から、「オペラグラスは持ち込めるが、双眼鏡はダメ」と言われた時はびっくりしたなー。びっくりしすぎて、そのまま書いちゃいました。

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■掲載年月日 2002年04月11日
■国会・新旧議員“大物”の席「無所属ゾーン」を見に行く
■田中角栄元首相から鈴木宗男議員まで、新旧「大物」の席


 政治とカネの疑惑が次々飛び出した「スキャンダル国会」では今、衆院本会議場の右奥隅の一角が注目を集めている。自民党を離党した鈴木宗男議員のほか、先日まで加藤紘一氏も座っていた無所属議員席である。「疑惑離党」では先輩の藤波孝生、中村喜四郎両議員ら大物もここに座る。呉越同舟か、はたまた同床異夢か。加藤氏の辞職を国会が許可した日、この「無所属ゾーン」を見に行った。

 ■右側は疑惑席?

 9日午後0時半。本会議場前は、加藤、鈴木、田中真紀子の3氏を待ちかまえる大勢の報道陣でごった返していた。赤じゅうたんの上を、春の異動で新たに国会担当になった記者や、応援に駆けつけた記者らが右往左往している。国会にもさながら「新学期」が訪れたようだ。

 一方、去る人もいる。29年間の議員生活にピリオドを打つ加藤氏だ。当然、この日の主役は、引責辞任する加藤氏と、その余波で進退問題が再燃するだろう鈴木議員であった。
 しかし、両氏はついに本会議場に現れなかった。加藤氏の議員辞職願は、冒頭のわずか3分間に全会一致で許可されるあっけなさだ。

 彼らが座るはずだった「無所属ゾーン」は、議長から向かって一番右側奥の片隅にある。メンバーは、リクルート事件ですでに有罪判決が確定し、執行猶予中の藤波議員。ゼネコン汚職事件で有罪判決を受け、最高裁に上告中の中村議員。その2人の真ん中が、加藤氏の席だった。

 前列には鈴木議員と、99年の都知事選で自民党の説得に屈せず出馬し、党を除名された柿沢弘治議員が座っている。柿沢議員を除けば、まさに「疑惑席」である。

 実は、衆院本会議場にはもうふたつ無所属席がある。「疑惑席」の手前最前列に一人で座る宇田川芳雄議員。宇田川議員は前回衆院選で自民党現職を破って当選、無所属のままでいる。そして、議場の左端にはもう一つの「無所属ゾーン」。メンバーは、川田悦子議員、「無所属の会」の粟屋敏信と三村申吾両議員、自由連合の徳田虎雄議員、千葉県知事選で党に背いて堂本暁子知事を応援し、民主党を除名された田中甲議員、そして今回の元秘書の口利き疑惑で民主党を離党した鹿野道彦議員の6人だ。

 鹿野、柿沢両議員を除くと、左ゾーンが「信念の無所属」組で、右ゾーンは「疑惑の無所属」組と呼べなくもない。あまりに露骨な席順ではないか。誰がこんな議席を決めたのか。

 衆院議事課によると、本会議場では議長から見て右から左へと会派人数の多い順に座るのが先例。現在の勢力地図から言うと、右から自民、民主、公明、自由、共産、社民、保守、無所属の順だ。例外的に自民党離党組が右側奥の一角を占めているのは、自民党の意向が議院運営委員会で承認された結果という。

 大まかな区分けの内部の席順は、各会派に任されているが、議長に近い前の席から後ろへと、当選回数の少ない順から座るのが慣例。さらに同じ列でも、議長から向かって右より左の方が当選回数が多いのが慣例という。なるほど、すべての席は序列で決まるのである。

 今回、加藤、鈴木両氏が「無所属」入りした結果、自民党エリアではまるで玉突きのような大規模な席替えが行われたのだった。

 ■主役不在

 この日の「無所属ゾーン」は、鈴木議員、加藤氏に加え、中村議員も欠席しており、わずかに藤波、柿沢両議員が出席するのみだった。“主役不在”の無所属席を撮影しようと、真上の記者席では身を乗り出したカメラマンが盛んにフラッシュをたく。

 4日の本会議には、鈴木議員が自席で眼鏡をかけ、ペンを片手に「正論」らしき雑誌を熱心に読んでいる姿があった。もしも「正論」であれば、最新号のトップ記事は外務省官僚の覆面座談会を含む「鈴木宗男特集」。熱心にペンを持つ姿にも、すごみが増して見えるというものだ。9日の欠席はやはり、加藤氏辞任の余波で自身にも「引責辞任論」が降りかかることを避けたためだろうか。

 野党席の机上には、加藤氏辞職の記事コピーが目立った。が、自民党席にはこの種のコピーが一切ない。真紀子議員の疑惑を週刊誌が報じた4日には、自民党議員の席にも結構、週刊誌の記事コピーがあったものだ。かなり対照的である。

 柿沢議員が隣の坂本剛二議員(自民)と雑談している。後で聞いたところによると、「鈴木先生や加藤先生が無所属席に来てから、マスコミに注目され、妙に緊張しますねえ」「席が並んだお陰で、支持者からも『疑惑仲間みたいじゃないか』と言われたりして大変ですよ」というような会話だったらしい。

 早速、この日のために購入したオペラグラスで両先生のお顔を拝見。苦笑顔だ。ちなみに4日に来た時には、国会担当記者から双眼鏡を借りたのだが、衛視(国会の警備員)から「双眼鏡は使えない」と注意された。衆院警務部によると、「オペラグラス程度なら許可する場合もあるが、双眼鏡は議事妨害につながる恐れがあり不許可」とのこと。オペラグラスと双眼鏡にこんな差があるとは。やはり国会は不思議な場所である。

 さて、本会議開始からわずか15分後。藤波、柿沢両議員も中途退席してしまい、この日の「無所属ゾーン」は完全な空席となってしまった。

 ■「肩が凝るね」

 この席の座り心地について、柿沢議員にたずねた。柿沢議員のホームページの「国会報告」には「『景気対策・構造改革国会』だったはずなのに、いつの間にか、与野党入り乱れての『醜聞暴露国会』になってしまいました。何とも情けない有り様です。特に、鈴木(宗)、加藤(紘)両氏が私の後ろと横に引っ越してきて、本会議場での居心地がすっかり悪くなりました」と書いている。

 「疑惑の無所属」組に囲まれて、どんな具合です?

 「肩が凝りますね。特に左側」と柿沢議員。ちなみに左側は鈴木議員の席だ。マスコミからの取材を予想し、わざわざ“時差出勤”したこともあったという。加藤氏は欠席が多く、言葉を交わす機会もなかったが、隣席の鈴木議員とは1度だけ言葉を交わしたことがあったという。
 壇上で民主党議員が政府の対露外交を批判していた時、鈴木議員は「あいつら本当に勉強してないな!」と吐き捨てるようにつぶやいた後、急になごやかな表情で柿沢議員の方に振り向き、「先生が外相の時、私は外務委員として漁業の安全操業について質問しましたよね」と話しかけてきたとか。「よく覚えているなあ」と驚くと同時に、「変化球を投げられる人だ」という印象を受けたという。

 さらに、藤波、中村両議員に話が及ぶと、「公判中も顔を上げ、あの席に座り続けたのは並の精神力ではありません。もはや超然としています」。

 「超然」の域にまだ達しない鈴木議員の元には、自民党の若手議員が「大変でしたね」と盛んにあいさつにくるという。やはり影響力があるのだろう。

 記者が最後に「居心地悪いなら、左側の無所属ゾーンに引っ越されては?」と尋ねると、柿沢議員はこう言った。「あっち側でもいいかな、と思ったこともありますがね。議席はフランス革命以来、議長席から向かって右が右翼、左が左翼と決まっている。やはり『左翼席』には心情的に行けません。だから我慢しているのです。それにここは実は“由緒ある席”なんですよ」

 なるほど議場右奥の片隅にあるこの「無所属ゾーン」には、古くは田中角栄氏に竹下登氏、中曽根康弘議員という首相経験者も座った歴史がある。今のメンバーもかなり豪華だ。藤波議員は「安倍・竹下・宮沢」の時代に「ニューリーダー」の最有力候補だったし、中村議員は旧田中派のプリンスと呼ばれ、若手のホープだった。柿沢議員自身、外相経験者だし、鈴木議員は外務省に絶大なる影響力を持っていた。「いずれは総理総裁」と言われた加藤氏も、議員辞職直前までここにいたのである。「この席の豪華さが、今の自民党の人材不足を示している」と言われるゆえんだ。

 いわば「逸材」ぞろいの「無所属ゾーン」。これ以上「大物」「逸材」が座ることがないように心から祈りたい。


記事91◆東京タワーに昇ってみた、の記事

東京タワーに昇っただけで原稿が書けるかよ、とみなに言われながら、どうにか書いた懐かしい記事。
東京タワーの上で、父と子の会話を小耳に挟んだ時は「これで書けた!」と心の中で喝采をあげた。
時々こんな偶然に救われることがあるんだよな。
だから現場って、おもしろいと思う。

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■掲載年月日 2002年04月05日
■いま何かと話題、東京タワーに上ってみた
■リニューアル、地上波デジタル放送の主役…

 東京タワーが話題である。昨年末に江國香織さんの最新小説のタイトルになったほか、創建以来初のリニューアル工事も完成間近だ。新しい高層ビルに押され気味に見える「333メートル」だが、今でも自立鉄塔では世界一。03年には地上波デジタル放送のテレビ塔として活躍する予定だ。日本人の自信が揺らぐ今、高度成長期を象徴する「ものつくり立国ニッポン」の金字塔に上ってみた。


 昼下がりの東京タワーは、外国人観光客ばかりが目立つ。250メートル展望台へのエレベーター内でも、聞こえるのは英語と中国語ばかり。わずかに一人の日本の少年が「333メーターだ!」と無邪気に叫んでいる。

 ドアが開く。目もくらむ高さ。高層ビルが林立する都内にあって今なお一番高い展望台で、都庁舎より約50メートル、池袋サンシャインより約10メートル高い。下の150メートル展望台からは見上げた高層ビル群も、250メートルからだと見下ろせた。富士山も見える。
 ここはリニューアル工事も終わり、浮遊感のある半透明の強化ガラス床を、発光ダイオードの青い光が照らしている。宇宙を思わせるBGM。ベンチ一つない殺風景なところが、タルコフスキー監督の映画「惑星ソラリス」の一場面のようだ。

   ■     □

 東京タワーの完成は、敗戦から13年後の1958年12月23日。巨大なクレーンもない時代だ。全国の優秀なとび職人が地上200メートルで秒速15メートルの強風と闘い、総計4000トンの鉄骨を運び上げ、ネジを締めた。「エッフェル塔(320メートル)より高い世界一の塔を」が合言葉だった。

 完成翌年の59年には約520万人、8月だけでも約71万人の客がタワーに上った。今は年間約240万人に減った。

 評論家の川本三郎さんは著書「私の東京万華鏡」で東京タワーに触れている。61年の映画「モスラ」では、モスラがタワーに作った繭に自衛隊がロケット弾を撃ち込み、タワーが折れた。「東宝映画の怪獣たちは当然のごとくいつも東京の高い建物を破壊する」と川本さんは書いた。しかし84年のリメーク版「ゴジラ」の標的は、完成直後の有楽町マリオンと新宿副都心の高層ビル。東京タワーは怪獣にすら無視された。
 ウルトラマンのような配色で空にそびえ立っていた高度成長時代の象徴は、次第にランドマークの意味を失い、バブルのころにはレトロが売りの「はなやしき」的観光地となった。今のタワーはすでに「世界一」らしさを失ったようにも見える。

 ここにきてリニューアルである。総工事費3億7000万円。すでに完成した250メートル展望台に続き、27日には150メートル展望台にカフェが誕生する予定。若者や大人の観光客の呼び戻しを狙っている。
 実はリニューアル工事と同時に、別の工事も進んでいる。デジタル放送の本格開始に向けた整備工事だ。03年から関東地方で始まる地上波デジタル放送を前に、昨年は「第2東京タワー」構想が何かと話題を呼んだ。東京・多摩地区やさいたま新都心が誘致に名乗り出たほか、石原慎太郎都知事が「秋葉原に第2タワーを」と発言するなど、本家本元の東京タワーはすっかり脇役に甘んじていた。

 ところがどっこい、である。

 結局、第2タワー計画が間に合わず、暫定的に東京タワーに送信設備を敷設し、当座をしのぐことが決まった。45年前、日本に本格的なテレビ時代をもたらした東京タワーが、今度はデジタル時代にも主役として活躍の場を与えられたのだ。

   ■     □

 再び150メートル展望台に下りた。
 夜が近いからだろうか。客が少し増えてきた。そんな中に、父親と息子らしい2人連れを見つけた。父親が懐かしそうに、高いビルを一つ一つ息子に説明してやっている。
 しばしの沈黙の後、父親がぼそりと言った。「上ばっかり見ても仕方ないぞ」。息子がぶぜんと返す。「上を見てるのは父さんだよ。僕は何とも思ってないさ」。季節柄、入学試験か就職に失敗したのだろうか。

 高度成長期を築いた世代の親にとって、東京タワーはきっと今も、子に人生訓を語るにふさわしい舞台なのだ。語る内容が「世界一を目指せ」から、「ほどほどでいい」に様変わりしたとしても。

 帰りのエレベーターの中から、鉄骨を留めたネジの一本一本が見えた。どのような怖いもの知らずの男たちが鉄骨を組み上げたのだろう。東京タワーは、日本の戦後復興と「ものつくり」黄金期の証しでもある。

 こんな時代だから、上ってよかった。古ぼけたエレベーターから、車とビルと家々が途切れることなく地平線まで続く巨大都市を俯瞰(ふかん)し、そう思った。

記事90◆抱腹絶倒、そしてホロリのシルバー川柳

■掲載年月日 2002年04月01日
■シルバー川柳 恋あり・病あり
■17文字に託した第二の人生
■「夫より 三歩前行く 老後かな」
−−恋あり、病あり・合コンあり…


 サラリーマン受難のリストラ時代にも、お年寄りたちはパワフルだ。社団法人全国有料老人ホーム協会(東京都中央区)が公募した「シルバー川柳」には、「サラリーマン川柳」とは一味違う、第二の人生をおう歌する姿が透けて見える。恋あり、病気あり、化粧あり、合コンあり。17文字に託された、今時のお年寄りの思いとは――。

 ■夫婦愛の行方

 同協会の設立20周年記念事業でもある「シルバー川柳」には、10〜94歳から3375句の応募があった。平均年齢は男性62・2歳、女性56・7歳。60、70代のお年寄り自身が暮らしの悲喜こもごもをつづったものが多い。
 中でも目立つのが「恋」の歌。やはり永遠のテーマである。

人恋し恋とは違う人恋し(75歳女性)

 恋は恋でも「人恋しさ」を詠む人もいれば、まさに「恋」を詠む人もいる。

逝く日まで恋をする気の紅を買う (61歳女性)
初恋の想いに似たり恋ができ   (60歳女性)
 女性がこう歌えば、男性も負けていない。
口づけも入歯ガクガク老いの恋  (79歳男性)
牌を積む夫婦未満が居る至福   (79歳男性)
亡き妻に許されし恋古稀おどる  (60歳男性)

 どれもトキメキに弾んでいる。恋はやはり、若返りの秘けつなのだ。では「夫婦愛」の方はどうだろう。まずは夫の側の作品を見てみよう。

残るのも先に逝くのもいやと言う (77歳男性)
老妻の初恋話妬いてやる     (63歳男性)

 妻への感謝や静かな愛情のこもった作品が多い。しかし、中にはこんな作品も。

夫婦してアルツハイマー探り合う (61歳男性)
次の世も一緒と言えば妻はNO  (67歳男性)

 では、肝心の妻たちの本音はどうか。

赤い糸夫居ぬ間にそっと切る   (52歳女性)
三回忌頃から光る未亡人     (70歳女性)

 「赤い糸」を切られていやしないか、男性陣をドキリとさせる作品である。

 川柳担当の見市拓(みいちひらく)老人ホーム館長によると、「三回忌頃から光る」はかなり控えめな表現だそうだ。「ご主人を亡くされた直後に、いきなり生き生きと活発になる女性も少なくありません。妻に先立たれた男性のほとんどがなかなか立ち直れないのと対照的です」
 有料老人ホームでは、女性入居者が多い。女性の方が長寿だからだ。男女比が「2対8」というホームも珍しくない。つまり、圧倒的な男性の「売り手市場」なのだ。しかし、男性なら誰でももてるか、というとそうでもない。
 見市さんによると「お年を召された女性ほど、男性を見る目も肥えている。もてる男性は多くの女性からもてる。もてない人は……」。ちなみに、もてる男性像は「身だしなみがきちんとしていて見目うるわしい人。まめな人。それから余生を一緒に過ごす相手として楽しい人、というのも大切な要素」だそうだ。

 一方、好まれる女性のタイプは「男性をたててくれる、慎み深い人」。しかし、川柳を見る限り、おとなしく男性の後を付いていく女性ばかりではない。

夫より三歩前行く老後かな    (59歳女性)
合コンだ入歯みがいて紅さして  (60歳女性)
「お若いわ」その一言でお得意さん(81歳女性)
女房の行事で詰まるカレンダー  (72歳女性)
老妻がホームで宣言主婦卒業   (72歳女性)

 応募作品に透けて見えるのは、お化粧を楽しみ、仲間と集って巣鴨に出かけ、さらには「合コン」にまで出かけて行く女性たちの力強さだ。では、男性は?

定年後妻の歩幅になる散歩    (70歳男性)
ここもまた女上位で平和かな   (72歳男性)

 女性に押され気味と言うべきか。それとも、あえて女性に上位を譲る「男の包容力」と言うべきか。

 ■昔カラオケ、今パソコン

 新しい高齢者像を探った00年版「厚生白書」は、高齢者の余暇の過ごし方がかつての「ゲートボール、温泉、カラオケ」の三種の神器から大きく変わりつつあると指摘する。60歳以上の男女が今後やってみたいと希望するのは順に「海外旅行」「国内観光旅行」「水泳」「パソコン」だ。実際、今回のシルバー川柳でも、ダンスやパソコンを歌った作品が多かった。

古希近しまさかまさかのキーボード(66歳男性)
出会い系年齢制限ありますか   (33歳女性)
メル友と絶対会えない自称十代  (35歳男性)

 孫とメール交換する喜びを歌った作品も多かった。「シルバー川柳」に欠かせないお題の一つが「孫」である。

今日もまた孫と取り合う車椅子  (72歳男性)
ホームでは孫の来る日は薄化粧  (64歳女性)
生きがいは爺より孫と婆は言い  (64歳男性)

 もちろん、こんな川柳もまた、現実である。

孫達が来て年金日思い出し    (79歳男性)

 ■老いを笑う

 病気や病院も、お年寄りには格好の川柳ネタだ。

昔酒、今は病院はしごする    (59歳女性)
売るほどの病を持って長生きし  (58歳女性)
昼寝して「夜眠れぬ」と医者に言い(57歳男性)
主治医には内緒鍼灸まむし酒  (63歳男性)

 「老い」と向かい合ったしみじみとした作品もあった。

躓(つまず)いてあんな小石と振り返り   (60歳男性)

 一方、「ぼけ」や「老い」を笑ったユーモアたっぷりの作品も。

すらすらと嘘が言えますボケてない(78歳男性)
ボケとらん!世間がワシらと時差ボケじゃ(41歳男性)
ボケテヤルこの一言で黙る息子達 (64歳女性)
損得で高齢を出したり隠したり  (73歳男性)

 「都合の悪い話だけ聞こえないふりをする」と川柳の中で告白した応募者のいかに多いことか!

 さて、こんな「元気印」のお年寄りたちは、今のニッポンをどう見ているか。

低金利医療費税金いじめの国   (73歳男性)
公的と言いながら私費増大し   (61歳男性)

 サラリーマン受難の今は、お年寄りにとっても決してラクな時代ではないのである。


 ◇女性優位を感じますね−−俳優・小沢昭一さん(72)
 川柳は「笑い」と「うがち」と言いますが、私はもう一つ、「えぐり」を大事にしています。いわば毒のある目。自虐でも他虐でも、「虐」の激しいのがおもしろい。この点で、近ごろはシルバー川柳に女性優位を感じますね。
 女性の川柳の方が冷えている。老いをあっさり受けとめ、ぐさっと踏み込んでくる。男性の方が老いに虚勢を張ったりして、逡巡(しゅんじゅん)があるようです。
 五つ特選を選ぶなら「夫婦してアルツハイマー探り合う」「女房の行事で詰まるカレンダー」「定年後妻の歩幅になる散歩」「三回忌頃から光る未亡人」「夫より三歩前行く老後かな」でしょうか。全部夫婦の句です。恋の句よりおもしろい。恋の句は読み手がどうも甘くなって「毒」が足りない。その点、夫婦にはもう「うっとり」はないからね。ほとほと飽きたが偕老(かいろう)同穴、という心境で、虐がある。
 定年後、夫婦一緒に川柳を始めても、女房の方がおもしろいのを作る。男は仕事と巨人戦ばかりの暮らしだったから、家でテレビを見てきた女房に情報量でかなわない。私自身も含め、「おじいさんは今とっても悲しいのよ」とつくづく思います。しかし、女性が元気なのは、男として心強いね。安心して死ねる。私もお迎えが近い年だから、しみじみそう感じますよ。

記事89◆大阪弁がすっきゃねん、の記事

昔、東京の男性と付き合っていた時、「ば〜か」と軽く言われて、人格を全否定されたような気がしたことがある。
絶対に絶対にあの言葉だけは許せない!と東京出身の別の男性に相談したら、「オレはむしろ、大阪出身の彼女に言われた『どーんくさ』という一言で奈落の底に突き落とされた気がしたよ」と打ち明けられた。
そんなことを思い出しつつ、書きました。


■掲載年月日 2002年03月13日
■YOU館
■関東の若者も…関西弁、好きやねん
■「場が和む」会話の潤滑油


 「あほか」「おもろいやん」「なんでやねん」といった関西弁が関東の若者の会話に定着している。関西タレントの東京進出が背景にあるようで、最近は関東の若者の6割が「関西弁が好き」といい、2人に1人が「使えたらいいな」という。関西弁を会話の潤滑油にしている面もあるようだ。

 ◆7割が「うちら」

 関西学院大総合政策学部の陣内正敬教授(言語学)は00年10月、東京都の早稲田大と神奈川県のフェリス女学院大の学生のうち、首都圏出身者、つまり「関東弁ネイティブ・スピーカー」の157人を対象に、関西弁の浸透度を調査した。
 「私たち」の代わりに関西弁の「うちら」と言うと答えた学生は72・6%。「疲れた」の代わりに「しんどい」は61・2%。「とても」の代わりに「メッチャ」も61・1%と高率だった。

 ◆6割が「好き」

 関西弁が「好き」と答えたのは22・9%、「どちらかというと好き」が37・6%で、合わせて60・5%が関西弁に好意的だった。陣内教授は「大阪で『関東弁が好き』はせいぜい15%程度。関東の若者の完全な『片思い状態』だ」と指摘する。
 また、関西人と関東人の言語を分類する最大の特徴の一つとされる「アホ」と「バカ」の境界線も揺らいでいる。かつては関東人は関西人に「アホ」と言われれば傷つき、その逆も多かった。
 しかし、「バカとアホのどちらがきつく聞こえるか」との質問に、53・5%が「バカ」と答え、「アホ」の24・8%を大きく上回った。陣内教授は「大人が子供を『バカ』と言ってしからなくなった。『アホ』の方はテレビで頻繁に聞く。その結果、『アホ』に慣れたのではないか」と推察する。

 ◆意識の変化も

 若者はなぜ、関西弁を好むのか。陣内教授は「関東のテレビ番組でも関西のタレントが多くなった影響が最大の原因だが、若者のコミュニケーションに対する姿勢の変化も見逃せない」という。
 学生が関西弁を使う理由に挙げたのは「くつろいだ雰囲気になる」「語調が和らぐ」「その場を盛り上げたい」「場が和む」など。
 文化庁の「国語に関する世論調査」(95年)で共通語と方言に対する意識を聞いたところ、「相手や場面によって使い分ければいい」が75%で、「基本的に共通語を使うべきだ」の18%を大きく上回った。陣内教授も「最近は東京の若者の間に、方言へのあこがれがみられる」と指摘する。

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さらに数日後、今度はコラム欄にこんな記事も書いた。

■編集部から

 「関東の若者に関西弁が浸透している」という記事を書いた。関西学院大教授の調査によるものだ。大阪生まれの私は、取材で長年のナゾが解けた。
 「自分の失敗談を披露して相手を笑わそうとするか」という問いに、「よくする」は関西の若者で59%もいるが、関東ではわずか28%だ。驚いた。自分の失敗談で笑いを取るのは、全国共通じゃなかったのか。
 大阪では自らの失敗のすごさを競い合う。東京でも「失敗自慢」をやっていたら「失敗の多いヤツ」という評価を受けてしまった。同じ大阪人で東京在住の友人は、他人の失敗も笑いのタネにして「性格が悪い」と言われている。「なんでやねん?」と不思議だったが、原因は文化の違いにあったのだ。
 関西弁と関東弁を使い分け、「ドメスティック・バイリンガル」を自称してきた私だが、異文化理解はやっぱり難しい。

記事88◆氷川きよし君の人気のヒミツを探りに行く

■掲載年月日 2002年03月05日
■氷川きよしを見に行く 人気の秘密は?

 「ビジュアル系演歌歌手」の異名で女子高生からおばあちゃんまで幅広い女性の人気を集める氷川きよしさん(24)。その人気のヒミツを探しに行きました。

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 ■ミスマッチの妙

 正直な話、私は氷川さんの歌はもちろん、顔も知りませんでした。取材に先立ち、まず写真でお顔を拝見。まあ、かわいい。テレビで歌も聴きました。底抜けに明るくてビックリ。演歌といえば「涙」「酒」そして「なさぬ恋」じゃなかったの? ピンクのスーツ姿で「やだねったらやだね」「やっぱりね、そうだよね〜」と歌う茶パツの青年の姿に、演歌の「暗い」イメージが吹き飛びました。

 まずはファンの声を聞こうと、所属事務所「長良プロダクション」に熱烈なファンの紹介を頼んでみました。が、答えは「ノー」。特定のファンを紹介すれば、「なぜ私ではなく、あの人なの」と抗議が殺到するからだそうです。
 そこで、出掛けたのは日本武道館で開かれた氷川さんのユネスコ・チャリティーライブ。「24歳で武道館」は演歌歌手では最年少。地下鉄の九段下駅からの上り坂はオバチャンたちでいっぱい。折しも当日はバレンタインデー。会場受け付けにはプレゼントが山積みです。

 氷川さんのデビューは00年2月。映画監督、北野武さんが名付け親。茶パツにピアスの22歳がいきなり「箱根八里の半次郎」、つまり股旅(またたび)ものでデビューしたから、一気に話題を集めました。昨年のNHK紅白歌合戦ではCHEMISTRYと同率(52・4%)で瞬間最高視聴率も記録。2枚目の「大井追っかけ音次郎」の大ヒットを記念し、今年1月には静岡県大井川町に早くも歌碑が建ったとか。写真集は公称5万部。「伝記」も近く出版される予定です。

 確かにかわいいけど、それだけで演歌のCDを立て続けにミリオンセラーにできるのでしょうか。謎は深まるばかりです。

 ■好きな言葉は「前進」

 武道館で片っ端からファンの声を集めました。「僕のストライクゾーンは3歳から100歳まで」と氷川さん自身が語るように、ファン層は厚い。おばあちゃんがいます。女子高生がいます。子連れがいます。奥さんに引っ張られてきたのか中高年男性も結構います。

 東京都板橋区から来た75歳のおばあさんは、氷川さんの写真を張った手製のうちわを手に、「きよしと同じ年の孫娘がいるけど、孫よりきよしがかわいいわ!」と話してくれました。足が不自由で、あまり外出しない彼女にとって、氷川さんの歌は生きがいだそうです。「一日中、きよしの歌を聴いているの」。うちわの裏にはフェルトペンで黒々と「前進」の文字。「きよしの好きな言葉よ。いいわね〜」

 「一番の彼の魅力は?」の質問に、ファンたちは口々に答えてくれました。中高年女性が「今どきの子と違い、まっすぐでひたむき。息子よりいいわ」と言えば、隣の17歳が「素直で気取らないのがすてき。今の若い男の子なんかダメ。礼儀は知らないし、カッコばっかり付けてる」と、もう言いたい放題。驚いたことに「外見」を一番に挙げた人は皆無。異口同音にいうのです。「性格がいい。今の時代、あんな子はいない」

 ■「一生懸命」が口癖

 コンサートが始まりました。貴公子風のブラウスに青いジャケットの姿で登場した氷川さんの第一声は「みなさーん、お元気ですか?」。やや緊張気味に「元気そうでよかったです」というと、「かわいい〜」と観客はもう身をよじって笑っています。彼は熱唱タイプのようです。技や巧みではなく、ただひたむきに歌うから、「演歌が好き」という思いがストレートに伝わるのでしょう。おまけに腰を振るのです。その腰があまりに細いのです。思わず仕事を忘れてしまいそうな私です。

 氷川さんのトークで「語録」を作るなら「精いっぱい」「一生懸命」がトップにランキングするはず。おまけに、見ていて危なっかしいほど語り口が素人っぽい。これが女性ファンの母性本能をくすぐるのです。「懐メロって、詞がとても温かいから好きです。演歌を一生歌い続けます」「敬語をちゃんと話せるように勉強したいです」「下積み生活3年半は苦しかったけど、生きていくために無駄な経験ってないですね」。そんな発言の連続に、会場は拍手かっさい。老人キラーです。

 そもそも彼が演歌の道を選んだのは、高校時代に老人ホームの慰問で「兄弟船」を歌い、お年寄りが感動して泣いてくれたからだといいます。「今の時代、こんな子いない」の内実は、まっすぐに夢を語り、お年寄りに優しく、礼儀正しいところにありそうです。

 ■橋幸夫さんの「平成版」?

 同プロダクションの長良じゅん社長(64)と日本コロムビア宣伝部に「氷川きよし誕生秘話」を聞きました。「こけるか大ヒットかのタイプ。40年に一度の大勝負だ」。長良社長は氷川さんを見て直感したといいます。「電車で若者に注意しただけで殴り殺される時代だからこそ、若い人にも義理人情や親孝行を伝えたい」と、長良社長は「今の時代にない美徳」の集大成を世に送りだそうとしました。
 意識したのは、元祖アイドル「御三家」の一人、橋幸夫さん。ロカビリーやアメリカンポップ全盛期にありながら、着流し姿に股旅ものの「潮来笠」でデビュー。時代に背を向けたカッコ良さが、中高年だけでなく若者の心までつかみました。41年前の話です。氷川さんのデビューには、数々の準備と仕掛けが組まれました。日本コロムビア側はデビュー4カ月前から、異例の全国キャンペーンを開始。プロダクションは北野監督に名付け親を依頼。港区赤坂の氷川神社でのヒット祈願イベントには、北野監督や志村けんさんも駆けつけたため、翌日には全テレビ局に取り上げられました。
 演歌低迷の時代の救世主「氷川きよし」誕生の陰に、実は周到な舞台演出があったのです。

 ■世代を超えファンが交流

 さて、コンサートは続きます。終盤に歌ったのは新曲「きよしのズンドコ節」。2月のオリコン総合チャートで初登場ながら5位。演歌界ではオリコン史上3作目の快挙だそうです。ズン、ズンズン、ズンドコと氷川さんが腰を振ると、老いも若きも「き・よ・し!」と合いの手を入れます。

 「3番の歌詞が一番好き」という氷川さん。その歌詞は「いつか必ず故郷に錦を飾って帰るから」「遠く優しいお母さん」です。泣けるじゃないですか。「母思い」こそ、彼のキーワード。「息子よりいいわ」「孫よりかわいい」とファンに言わせる魅力の秘密です。
 実際に母親思いなのか、それともイメージ戦略なのかは分かりません。それでも、コンサートが終わり、会場を出るファンの背中に、氷川さんは「気を付けてお帰りください」と何度も叫び、頭を下げたのでした。たとえ演出だとしても、やっぱり十分に優しいのです。

 地下鉄の駅までの下り坂を、中年女性とセーラー服の女子高生が仲良く談笑しながら帰っていきます。静岡県から新幹線で駆けつけた51歳と53歳の姉妹と、学校をさぼってやってきた埼玉県の女子高生。聞けば「追っかけ」仲間とか。世代を超えた友情もまた、今時にない光景です。

 コンサートの後、「取材はしない」を条件に楽屋に一瞬入れてもらいました。Tシャツ姿の氷川さんは等身大の青年に見えました。どぎまぎし、思わず口を突いた言葉は「精いっぱいいい記事を書きます」。まるで氷川節です。苦笑しつつも、心で「チョコレートを持ってくればよかった」と後悔しました。
 演歌道という夢を語り、それをひたむきに追う青年像。礼儀正しく、親孝行で、周囲への感謝を忘れない謙虚さ。「時代にない美徳」こそが、氷川さんの人気の秘密です。時代は今後、よりささくれ立っていくのか、それとも失われた価値観へと回帰するのか。氷川人気の行方が今、妙に気になるのです。

記事87◆労働白書を読み解く、という記事

■掲載年月日 2002年02月21日
■サラリーマン今昔
■労働白書を清家篤・慶応大教授と読み解く


 バブル時代の「労働白書」を開くと、今昔の感がある。躍る文字は「人手不足」「豊かさの実感」「時短」……。今や「失業」「能力主義的賃金」「長期雇用の変化」が取って代わった。この十数年間はサラリーマンにとってどんな時代だったのか。急激な円高、そしてバブルへのエポックとなったプラザ合意(85年)以降16年間分の白書を清家篤慶応大商学部教授(47)と読み解いた。

 ■黄金の80年代

 「労働白書」の最初の刊行は1949年。昨年から「労働経済白書」と名称を変えた。毎年夏に刊行され、前年の労働市場の分析と、その時々の課題の特集の2部構成だ。清家教授は「黄金の80年代」「バブルの余韻残る90年代前半」、そして「構造変化の90年代後半以降」と、三つの時代に分けられると指摘する。
 70年代後半から80年代は、日本経済の黄金期だった。オイルショックなどで、70年代後半から80年代に先進国の失業率が軒並み10%程度に上昇する中で、日本だけが2%台という低い失業率と比較的高い成長率を保ち続けた。79年にエズラ・F・ボーゲル氏が「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を出版、世界に「日本独り勝ち」論が広まった。
 「86、87年の円高不況下の失業問題を例外として、この時期の白書には雇用問題はほとんど前面に出てきません」と清家教授は指摘する。例えば、86年白書は<1%の時短は労働生産性を0・9%上昇させる>と指摘し、時短推進を提唱した。今振り返ると、時短論議とは随分余裕のある話のように思える。
 清家教授はこう言う。「この時代には、時短こそが差し迫った課題でした。80年代前半に貿易黒字を積み重ねた日本は『競争力がありすぎる』という世界の批判の矢面に立たされた。85年のプラザ合意で為替レートの問題を解決した後も残された問題が、日本人の長い労働時間でした。長時間労働が内需拡大を阻害している、と他国から批判された。時短は労働政策上の重要課題だったのです」

 ■バブル余韻の90年代前半

 さて、日本はバブル経済を突っ走り、崩壊に至る。しかし、90〜92年の白書のテーマは相変わらず「豊かさやゆとり」「時短」「人手不足」で、まだ「失業」の足音は聞こえない。「92年ごろまでは、労働市場にバブル経済の余韻が残っていたため『売り手市場』でした。人手不足から企業側は『週休2日の会社がいい』と主張する若者を無視できず、女性や高齢者も積極的に受け入れた。この時期の良き副産物です」と清家教授は話す。
 ところが、93年白書で状況は一変する。<実質成長は91年の4・1%から、92年は1・5%へと大きく低下し、74年のマイナス0・8%に次ぐ戦後2番目の低い成長率>となり、ホワイトカラーの過剰感も指摘された。94年白書は、中高年ホワイトカラーの配置転換や出向を取り上げた。<転職の機能も次第に大きくなっており、これまでの豊富な若年人口が今後その割合を低下させると考えると、転職の役割は従来以上に高まる>と述べ、失業を経ずにスムーズに転職できる雇用システムの必要性を強調した。
 さらに、95年白書では<労働市場の構造変化が進む中で対応を誤れば『高失業社会』に陥る恐れも決して否定できない>と、消極的な表現だが「高失業社会」到来を予測した。

 ■構造変化の90年代後半

 この予測は数年後、現実のものとなる。失業率は95年に3%を突破。96年は3%台にとどまったが、97年後半から再び上昇し、98年には4%台に。その後もジリジリと上がり、01年夏に5%を突破し、同12月には5・6%に至った。
 こんな時代を映すように、90年代後半以降の白書のテーマは、雇用問題一色だ。特に少子高齢化社会を見据えた高齢者の雇用問題に注目が集まった。「背景に、97年の人口推計で『2015年には4人に1人が65歳以上』という数字が示されたことがあります。少子高齢化時代の到来が直近の問題としてとらえられるようになりました」と清家教授は指摘する。
 96年白書は<中高年齢者の賃金の割高感がもたらされる中、能力・業績主義的人事労務管理制度導入の動きがみられる。今後も進む可能性が強い>と分析。さらに97年白書は<能力主義的雇用管理の導入とあいまって、個々人の就業意欲、能力が適正に評価され、生かされるシステムの構築が必要だ。それが65歳まで働ける社会の実現につながる>とし、「65歳現役社会」を提唱した。

 ■日本型雇用の崩壊

 その後、白書には終身雇用制などの日本型雇用の崩壊を指摘する記述が増えていく。98年白書では<集団的な人事管理、年功的賃金、協調的な仕事の進め方などの働き方自体を、労働者の個別性、自律性を重視し、多様な選択肢のある仕組みに変えていくことが重要>と述べ、裁量労働制、年俸制を提示した。97年の北海道拓殖銀行、山一証券の倒産を反映してか、「『就社』から『就職』へ」という言葉も登場。「会社には頼るな」というメッセージがうかがえた。
 99年、白書は初めて「日本型長期雇用」のネガティブな面を明確に指摘する。<長期雇用慣行は、産業構造の迅速な転換を阻害する恐れがあり、企業の迅速な経営判断や事業転換を困難にし、高齢化の下で賃金コストが増しやすい、といった欠陥を持つ。女性や高年齢層に不利になりがちだ>
 清家教授は「長期雇用を維持できるならすべきだ。従業員の生活も安定するし、企業側も安心して従業員に教育投資できる。従業員の高い忠誠心も得られる」と語る一方、「少子高齢化社会では、職業人生は当然長くなる。しかし、国際競争が激しくなり、国内でも規制緩和が進み、IT(情報技術)など技術革新のスピードも速い今、企業が1人の従業員に雇用を保障できる期間は逆にますます短くなる。定年まで一つの会
社で働き続けるシステムの維持は困難になってくる」と指摘する。

 ■若者と中高年

 今、離職率が高いのは若者と中高年だ。2000年白書は、中高年が職を追われ、働き口を失う一方で、自発的な離職者を多く含む若年のフリーターが全国に151万人いる現実を示した。副題はずばり「高齢社会の下での若年と中高年のベストミックス」。年齢間のミスマッチの克服を模索したものだ。
 中高年について<体力は落ちるが、専門的知識の蓄積や不測の事態への対応など加齢とともに上がっていく能力も存在する>とうたい上げ、71歳まで全国を測量して歩き、日本地図を完成させた伊能忠敬の事例を紹介している。妙に情感豊かだ。
 最新号の01年白書は、ITによる雇用創出を取り上げた。<生産性の向上で約260万人の雇用が失われた半面、IT部門の需要増などで約500万人の雇用が新たに生まれた>。しかし、清家教授は「ITは生産を高めるので雇用削減効果も持つ。大切なのはITを活用した新しい産業・企業で雇用を増やすこと」と指摘する。
 では、サラリーマンはどうすればいいのか。「日本人の賃金は今や世界一高い。企業は賃金に見合った付加価値を生み出してくれる労働者でないと雇えない。今後は現在の会社にだけ役立つ能力ではなく、市場価値のある能力を磨かねばならないでしょう」と清家教授は言う。
 終身雇用を信じて就職し、若いころは年功序列賃金のため給料を安く抑えられ、今になって「個別的、自律的な働き方を」と迫られる中高年ホワイトカラー。16冊の「労働白書」から読み取れたのは、激動を生きた世のサラリーマン、それぞれの悲喜こもごもだった。

記事86◆動物虐待と児童虐待、というコラム

■掲載年月日 2002年02月06日
■編集部から

 アニマルセラピーで有名な精神科医からこんな話を聞いた。動物を虐待する子供は、親から虐待を受けていたり、その家庭で父親が母親に暴力を振るっているケースが多いという。児童虐待のあった家庭の6割でペット虐待が存在した、という調査もあるらしい。夫の暴力からシェルターに逃れた女性の調査では、ペットを飼っていた人の過半数が夫のペット虐待を証言したとも。
 「犯罪を起こす前の少年が予兆として動物を虐待したケースがよく報告されるが、少年の動物虐待もまた、理由なく単独では起こらない。例えば学校のウサギが殺されたら、殺した少年の周辺に児童虐待も潜んでいる可能性が高い」と医師は指摘する。
 動物虐待もまた、児童虐待を見つけだす一つのアンテナとなりうるのだ。親から殴られた子が、自分より小さな動物を殴る姿は何より痛々しく、つらい。


記事85◆映画「カンダハール」のマフマルバフ監督インタビュー

■掲載年月日 2002年01月16日
■映画「カンダハール」マフマルバフ監督、撮影秘話を語る


 今、世界中で一番注目される映画かもしれない。タリバン政権下のアフガニスタンを描いたモフセン・マフマルバフ監督(44)の「カンダハール」。日本では12日から東京・新宿で封切られた。来日中のマフマルバフ監督を東京都内のホテルに訪ねた。

 映画「カンダハール」は、カナダに亡命したアフガニスタン人の女性ジャーナリストが、地雷で足を失った祖国の妹から自殺をほのめかす手紙を受け取った、という設定で始まる。女性がイランから国境を越えてカンダハルに向かう行程がドキュメンタリータッチで描かれる。撮影は一昨年。米同時多発テロよりずっと前の話だ。

 なぜ、アフガニスタンをテーマに選んだのですか。
 「世界の無関心を告発したかった。99年、アフガニスタンを訪れ、人々の苦しむ様を目の当たりにした。街道には男や少年が立っていて、車が近づくたびスコップで街道の穴を土で埋めては金を求めた。少女たちが隠れて勉強していると聞いた。女性がブルカの下から手を出し、マニキュアをしてもらっていた。地雷を踏んで足をなくした男が、スコップを体に縛り付け歩いていた。すべての光景に、映画の題材があった。
 しかし、ヘラートで死にひんした人々が通りを埋め尽くしているのを見た瞬間、私はもう『映画の題材がある』と言えなかった。映画をやめ、ほかの仕事を探したいとさえ思った」

 その時に見たもの、感じたことすべてを込めたのが、「カンダハール」だという。アフガニスタンではこの20年、5分に1人が死に、毎分1人が難民となってきた。

 「アフガニスタンを追いつめたのは、世界の国々の過去の干渉ではない。むしろ世界の無関心だ。全世界の人々はバーミヤンの仏像を守れと声高に叫んだが、干ばつと飢饉(ききん)で死にひんした100万人の存在には無関心だった。バーミヤンの仏像は、こんな世界に対する恥辱のために自ら崩れ落ちたのだ」

 しかし、アフガニスタンを取り巻く「世界の無関心」は、昨年9月11日を境に一変した。昨年5月、カンヌ映画祭で詩的な映像が高く評価されたこの映画も、テロ後はむしろ、世界で初めてアフガニスタンの困窮を訴える作品として、世界中の観客を集める結果となった。
 「9月11日」とその後の世界に、イラン映画界の巨匠はいったい何を感じたのだろうか。

 「人の痛みは『西洋の痛み』になって初めて世界に認めてもらえるのだと思い知った。『東洋の痛み』にとどまる限り、世界は痛みと認知しない。米国で数千人の人が亡くなるまで、アフガニスタンが20年間感じてきた痛みを世界中が無視してきたのだから」

  ◆     ◆

 映画の中にこんなシーンがある。地雷で足を失い、義足を求める男たちの頭上で、赤十字のヘリコプターがパラシュートに付けられた義足を投下する。空中を舞う義足。それを追う杖(つえ)の男たちの目、目、目。
 現実にあったことですか?
 「あれは私の創作。アフガニスタンの現状を象徴したシーンだ。あの国には海はない。本来大地を踏みしめるはずの足が、この国では空からしかこない。1000万個の地雷が埋まるこの国で、足を持つことは夢に等しい。この国で、夢は空から降るのだ。それなのに今、この国の空からは爆弾が降り注いでいる」

 映画では、タリバン政権下の人々の暮らしも丹念に描かれる。女性は小さな穴を開けたカーテン越しにしか医師に診てもらえないこと。貧しい親は競って子供を神学校に入れようとすること。衣食住を保障された神学校で、飢えた子供たちはコーランと武器の使い方を学び、タリバン兵士に育っていく。
 「アフガニスタンでは、人々は干ばつのたびに国を離れ難民になった。国に残った者は武器を持ち、他部族を殺した。他に暮らしを支える手段を持たなかったからだ。世界が今行うべき支援は、アフガニスタンの経済基盤を整え、仕事というのは他国に出稼ぎに行くことでも、他人を殺すことでもない、と彼らに教えることだ」

 映画は、イランのアフガニスタン国境沿いの町で主に撮影された。職業俳優は起用していない。登場する「アフガン人」は難民キャンプに暮らすパシュトゥン人とハザラ人から選んだ。
 「俳優とエキストラ選びのためキャンプ入りした私たちは、最初の1時間、泣きながら難民にパンと果物を配り歩くしかなかった。撮影の数日間にも、昨日まで足があった人が、地雷を踏み、足を失い、苦痛に顔をゆがめるのを見た。彼らの苦痛が胸に迫り、苦しかった」

 撮影は難航した。
 「タリバン政権は映像すべてを禁じていたから、難民の多くはカメラの前に立つことを拒んだ。特に女性の抵抗感は強く、家族である夫や男兄弟、父親たちも身内の女性が映画の撮影にかかわることを不名誉と考えていた。仕方なくイラン人女性を起用したこともあった。また、部族間対立には手を焼いた。エキストラは、ある日はハザラ人、ある日はパシュトゥン人と、どちらか一方のみを選ぶしかなかった。国境周辺はタリバンによる暗殺が横行、私をつけねらう男たちから間一髪で逃れたこともあった。身を守るため、タリバンと同じような衣服を身につけ、ヒゲを伸ばしていた。
 イラン政府の横やりで撮影が中断されたこともあった。イランにいる約300万人ものアフガン難民が国内の労働者を圧迫している、と難民の強制帰国を求める政治家も多い。彼らが撮影をやめるべきだ、と言い出し、国会で問題となった」
 最近では、準主役のハッサン・タンタイ氏が「米国の過去の暗殺事件の実行犯だった」と欧米で盛んに報道された。

 「一連の報道には、映画の持つメッセージを妨げようとする悪意さえ感じる。彼の過去を私は知らない。しかし、国民の250万人が内戦で死んだとされるアフガニスタンで、もしカメラを回せば何人かの殺人者が画面に映ってしまうだろう。一番大切なのは、暴力と戦争はいけないという映画のメッセージに目を向けることではないか」

  ◆     ◆

 アフガニスタンの惨状に、一度は「映画をやめて、他の仕事を探そう」とまで思い詰めたマフマルバフ監督。しかし、彼は結局、映画を完成させ、さらに「他の仕事」にも着手した。

 「イランの難民キャンプにいる50万人の子供たちに識字と衛生教育を行うことになった。昨年、3カ月かけてイラン政府に働きかけた結果、難民にも教育の機会を与えるよう法改正された。私が難民4000人分の教育費を負担する。ハタミ大統領は5万人の教育費負担を約束してくれた。年内にはアフガンにも二つの女学校を建設する」

 なぜ今、教育なのですか。
 「教育ドキュメンタリー撮影のため、ユニセフの学校で学ぶアフガン難民の少女にデジタルカメラを向けた時、一人の少女がブルカを脱ぐことを拒否した。彼女が恐れていたのは、タリバンではなく、タリバンの生んだ『恐るべき神』だった。空爆でブルカの女性は解放できない。自由に導くためには教育こそ必要なんだ」「もしも過去の25年間、権力が人々の頭上に降らせていたのがミサイルではなく書物であったら、無知や部族主義やテロリズムがこの地にはびこる余地はなかったでしょう。もしも人々の足もとに埋められたのが地雷ではなく小麦の種であったなら、数百万人のアフガン人が死と難民への道をたどらずに済んだでしょう」

記事84◆書家、石川九揚さんのインタビュー記事

はじめて満足のいくインタビュー記事が書けた、と思ったのがこれです。石川さんの書が大好きなのです。

■掲載年月日 2002年01月10日
■書と日本、そして世界−−書家、石川九楊氏を根岸に訪ねる


 人々が筆記具を捨て、パソコンで文字を書くようになったこの時代に、なぜか一部の大人が書に回帰を始めているという。書を通して見えるのは、どんな時代風景なのか。京都に長く暮らし、4年前に東京の下町・根岸に居を構えた書家、石川九楊氏(56)を訪ねた。

 石川氏が指定した待ち合わせ場所は、鶯谷の喫茶店だった。スラックスにジャンパー姿の、一見、優しげなオジサン。しかし、彼こそが書家であると同時に、文字を通して独自の日本論を確立した論客でもあるのだ。

 石川氏とは実は、10年ぶりの再会である。記者が大学生だった85年、知人を介して出会った。額縁の中で複雑な呼吸を繰り返しているような独特の書が好きだった。
 「丸文字を書いてみてくれ」。初対面で石川氏はそう言った。当時、女子中高生らの間で流行していた「丸文字」は、角を落とし、字形を丸っこくまとめ、かわいさを強調した少女文字だった。石川氏は「研究しているんだ」といい、年がいもなく丸文字を書いていた私は、書家につたない字を披露する羽目となったのだった。

 「あの時、どうして丸文字に関心があったんですか?」との質問に、石川氏は「書を通じて時代が分かるから」と、豪快に笑った。「丸文字は横書きに順応した書体で、成熟した大人の社会に同化することを拒否し、『子供っぽくていい』と居直った少女たちの姿の象徴です。いわば旧体制に刃向かった全共闘時代的な文字でした」
 丸文字は70年代に発生し、一時は活字や文字フォントに採用され、一世を風靡(ふうび)したが、85年ごろからなぜか沈静化し、あっさりと消えた。時を同じくして、日本はバブル経済へとのみ込まれていく。
 「代わりに目立ち始めたのがギザギザ文字です。大人たちは丸文字が消えたことを喜びましたが、私は違うと思いました。丸文字にはまだ若者文化の強烈な主張と温かみがありました。しかし『ギザギザ文字』は、シャープペンシルの薄く細い線で直線をとがらせただけの単調な文字で、殺伐とし、自己主張すらありません。ギザギザ文字の台頭と前後して、ワープロやパソコンで文字を書く人が増え、大人の成熟した文字社会もまた崩壊しました。今の子供たちにはもはや、拒否すべき『旧体制』すら残っていません」

 石川氏は、文字を通して時代を読んできた。それほどに「書く」という行為は、人間の思考に直結しているという。筆を持つ手を動かし、紙に筆で触れ、力を込め、「筆蝕(ひっしょく)」を感じることで、人間の思考はほどけ、引き出されてゆく。だから、書は時代を映す、というのだ。

 「80年代ごろから、書や絵の世界でそれまで開放的だった描線が小刻みに震えだしました。表現者にとって、大胆で率直な線がうとましく、うそっぽく感じられる時代となったのでしょう。あやふやな土台の上に浮かぶ巨大な経済に翻弄(ほんろう)され、腐敗を始めた世界ではもう、震えるように描くか、描くことをやめるか、事態に目をつぶって表現するかしかありません」

   ■    □

 思索する書家の書は、昨年9月11日を境に大きく変化した。
 「二〇〇一年九月十一日、晴 垂直線と水平線の物語」。そんなタイトルの自作詩を今は書いている。「垂直線」は空にそびえ立っていた世界貿易センタービル。「水平線」は2機の飛行機が青空に残した航跡だ。キリスト教を背景とする市場原理主義と、イスラム原理主義との宗教対立をも象徴しているという。石川さん、さすがに飛行機がビルに突っ込む映像は、衝撃的でしたか。

 「既視感があった」。
 意外な答えが返ってきた。

 「昔、東京都庁を初めて見た時も、崩れていく様がなぜか見えました。それは自壊の予感でした。技術は進歩しなければならないし、経済も前進しなければなりません。それを止めろというのは、破壊主義でしかない。しかし、人間は本当に必要なものを押しつぶしながら、不必要に高い建物を造りすぎていないか。ニューヨークのビルもそうです。多くの人は、死傷者はテロの被害者だと言います。でも本当にそうでしょうか。一部は確かに飛行機が突っ込んだための被害者でしょう。しかし、残りはビルが2次的に自壊したために死傷した。『本当の犯人』は別にいます」

 石川氏に逆に問われた。「あの映像を見て、悲惨だというふうにしか思いませんでしたか。見ていて別の感情が生まれませんでしたか?」。

言葉に詰まった。被害者に思いをはせる時は、胸がつぶれそうに痛んだ。一方で、ビルが崩れていく姿を何度も見たくなったのはなぜか。

 「私は、意外にも誰もがどこかで一種のカタルシスを感じていたと思います。無意識の爽快(そうかい)感のようなもの。あのビルは、過度に肥大した今の消費社会や、新たな文化を生むことさえできない疲弊しきった社会の象徴だったのです。それが自壊した」

 被害者やその家族を思うと、「自壊」「爽快感」とストレートには書きづらい。「読者の誤解を招きそうです」と躊躇(ちゅうちょ)する記者に、石川氏は「大事なことです。『自壊』と書いてください」と言った。

 石川氏は「9月11日」を境に時代が変わる、と予想する。「この事件で、むしろ時代への希望を見つけました。これまでの非文化的な浪費主義の不毛に人々は気付き、本当に必要なものをつくろうと静かに行動し始めるでしょう。今後の25年間ぐらいは、表層では従来のカジノ資本主義と消費主義が、低層では新しい流れが、それぞれ逆方向に流れを作り、激しい渦を巻く社会となります。最後は低層の流れが、これまでの消費主義をのみ込んでいく。私はそれを希求します」

 「ビンラディン氏を捕まえるためと称して、タリバン政権を壊滅させ、暫定政権をつくらせました。そのためにアフガニスタンを空爆し、多数の人々を殺しました。私は米国のブッシュ大統領に、自分の演説を、筆を使って縦書きさせてみたい」
 突然、突拍子もないことを言う書家である。「日本人が縦書きを捨て、横書きするようになったのは不幸」というのが石川氏の自説だ。「横に書く時、筆はどんどん進みます。しかし縦に書く時、なぜか人は気が重くなり、筆も渋りがちになります。縦書きでは、上の一語を受け、その重量を感じ取りながら、次の語へと一歩一歩つなげていかねばなりません。その垂直の重さに、人はいくばくかの『天』を意識し、世界につながろうとする自省の契機が生まれます。例えば西欧のキリストやイスラムのアラー神をいただかぬ無宗教の日本では、縦書きを通してかろうじて『天』が意識されてきました。日本語が横書きになったことは、日本人の精神構造をも変えました」と、石川氏は縦書きの復権を叫んできた。

 しかしながら、ブッシュ大統領に「縦書き」とはなぜ?
 「ブッシュ大統領が連発する『GOD BLESS AMERICA(アメリカに神のご加護を)』を縦書きで書いてみればいい。横書きだと抵抗なく書けるでしょうが、縦書きで『GOD』や『AMERICA』を連発すれば気恥ずかしくなるはずです。ちょっと自己陶酔しすぎかな、と自覚するはずです。縦に書く時に筆記具を通して届く対象との抵抗感や摩擦感は、人をより自省的にするからです」

 今さら「筆記具を持ち、縦書きに戻れ」といわれると、記者自身もつらい。それでもさすがにインタビューの後は、筆を持ち、自省の時を持ってみようか、という気にもなった。

 さて。石川氏が今年最初の書に選んだのはどんな言葉だったか。「垂直線」と「水平線」に象徴される宗教対立という人類最大の難問を、一気に解くために何より必要なのもの――。

 「補助線」

 書家はそう書いた。