「子育てのプロ」という言葉、無神経に誰にも投げかけないようにしよう、と心から思った取材でした。
■掲載年月日 2001年04月12日
■母:子供と向き合う/3
■息子が不登校に
■育児のプロでも悩む
黒々と渦巻く三陸の海のそばに建つ保育園に、保育士歴26年の洋子さん(49)=仮名=がいた。人柄が体全体からにじみ出る、見るからに「太っ腹母ちゃん」という感じの女性だ。「保母なのに子供が登校拒否って変かしら」。そう、明るく笑ってみせる。
「育児のプロという言葉は、保育士を追いつめるんですよ」。知人のカウンセラーにそう助言されたことが、洋子さんを訪ねるきっかけになった。「保母さんはいいなあ。育児のプロだから」。私は初めての育児に戸惑うたび、かつて保育士だった母親の友達に何度も言った。自分の言動を悔やむとともに、プロとして、母としての育児に揺れ、悩んできた洋子さんの話を聞こうと思った。
◇ ◇
洋子さんは、30歳で長男を産んだ。産後2カ月で赤ん坊を同居の姑(しゅうとめ)に預け、保育園に職場復帰した。一家に主婦2人はいらない時代。育児をめぐる姑との確執が、日々強まっていた。
息子が泣くたびミルクを与える姑に「時間を決めないと小児肥満になる」と抗議した。姑は「太っているのが一番」と取り合わない。なまじ小児肥満の知識がある分、イライラは募る。オムツ外しも、勤め先の園児のオムツが取れるたびに「早く」と焦った。猫かわいがりする姑への反発から、わざと姑の前で厳しく息子をしかった。
「1〜2歳の時期に自立の芽を摘むと、依頼心の強い子になる」「明るくて活発な子は何でも意欲的」。保育園で数多くの「実例」を目の当たりにしている分、理想を求め、現実とのギャップに翻弄(ほんろう)された。
しかし、実際に息子の面倒を見るのは姑の役目。「育児のプロはいいわね」と近所の人に言われるたび、「私は子供のそばにさえいられない……」と心でつぶやくしかなかった。
◇ ◇
息子の不登校は、小学6年から始まった。ストレス太りで体重が70キロにもなった。中学の時、肥満の治療のため入院した。
退院する時、医師から息子が院内学級の生徒会長だったことや、入院中は無欠席で授業に出ていたことを知らされた。「なぜ」と息子に尋ねてみたかったが、思春期の息子は声を掛けるたび自室に閉じこもった。
息子の断続的な不登校は、高校でも続いた。しかし出席日数を計算していたかのように、最後は留年も補習もなくあっさり卒業した。
19歳を迎えた息子は今、「振り子が戻るように」落ち着き、アルバイトに精を出す。夜、地域のバドミントン部の練習に行くたび、「車で送ってよ」と母親を頼る。最近まで親と口をきこうとしなかったのに。「バイクで行けば」と洋子さんが言い返しても、「いいじゃん、送ってよ」と息子はぶっきらぼうに言う。
片道20分のドライブ。助手席の息子とは何を話すわけでもない。国道沿いの広告塔のネオンが、息子の横顔を照らす時、「最初からこの子をありのままに受け入れればよかったんだ」と洋子さんは強く思う。
振り返ると、「保母なのに」と後ろ指をさされるプレッシャーを常に心で感じてきたように思う。同僚の保育士の子育てが順調に見え、「なぜ私だけ」と思い悩みもした。「いい母」「いい子」なんて幻想なのに、と今だから分かる。
「保育の仕事と自分の子育ては違う。保育の現場では笑えることが、家では切羽詰まってしまう。自分の子育てはね、一生逃げられないもの」
◇ ◇
洋子さんは、保護者を前に体験を語り「子供を見守るだけでいいのよ」と元気よく笑ってみせる。母親の悩みは痛いほど分かる。
こんな保育士に巡り合える母親たちは幸せだと思う。ふと気がつけば、洋子さんに自分の息子の登園拒否を相談する私がいた。
記事61◆「公園のママ仲間が怖い」というお母さんの記事
このお母さん、今どうされているか本当に本当に心配。
育児も人生も楽しんでおられますように、と祈る思いです。
■掲載年月日 2001年04月10日
■母:子供と向き合う/2
■親同士の付き合い怖い
■体が硬直、過食に走る
公園が怖い。幼稚園の母親同士の付き合いがつらい、という。思春期からの過食は治らない。私が訪ねた東京都内の民間相談室で、菜穂さん(32)=仮名=はタオルに顔をうずめて泣いていた。彼女と向かい合うと、ある女性が二重写しになった。「文京区音羽の幼女殺害事件」の山田みつ子被告。彼女も2人の子を持ち、摂食障害に悩み、母親付き合いに苦しんだという。
◇ ◇
世間と折り合いを付けられない半生だった。討論はできても世間話ができず、友だちもできないまま大人になった。母親になれば変わるかも、と期待したが、かなわなかった。
2月の雨の日。6歳の長男と4歳の長女の通う幼稚園で、母親の集まりがあった。体が硬直する。どうにか口を開いたら「誰かを傷つけたのでは」と後悔がこみ上げる。話題が欠席した母親の悪口に変わると、もう耐えられない、逃げ出したい、と心が叫ぶ。
そんな昼下がりは、ひたすら食べる。子供にテレビを見せ、台所でこっそり食べる。コロッケサンド、干しぶどう食パン1斤、ミカン3個……。
「お母さん、仮面ライダーのポーズって11個もあるんだよ」。息子が台所でポーズを取り始める。「ごめん、もういい」。苦しくて、最後まで見てやれない。息子の泣きべそを見ると、また食べ物に手が伸びる。
甘えられると体が硬くなる。子への愛はいつも「私だって愛されたかった」という思いにのみ込まれてしまう。「私の苦しかった思いをまだ誰にも聞いてもらっていない!」と叫ぶ幼い自分が、今も心にすんでいる。
両親は教師で「勉強しろ」が口癖だった。「勉強できないと愛してもらえない」と頑張った。友だちに「まじめ過ぎて話が合わない」と陰口を言われ、クラスでは「さま」付けで呼ばれた。自宅で机に向かう夜は、決まって菓子パンを苦しくなるまで食べた。
大学受験の時、周囲が「東大」を当然視する中、あえて偏差値の低い大学を選んだ。「受験のために勉強したんじゃない」と誰かに分かってほしかった。小学校で教べんを執ったが、いじめや学級崩壊に傷つき、耐えられずに辞めた。
結婚し、出産した。「公園デビュー」という残酷な言葉を知った。母親仲間を相手に、どう話していいのか分からない。それでも、子供は友だちに恵まれてほしい、と無理して自主保育サークルに入り、母親付き合いをこなそうとした。
音羽の事件があったのは、ちょうどそのころだ。まるで自分のことではないか、と打ちのめされた。彼女の苦しみが肌で分かるだけに、彼女の起こした事件が恐ろしかった。相談相手からも「我慢してると音羽の事件みたいになっちゃうよ」と言われた。
菜穂さんを救ったのは、カウンセラーのひと言だった。「母親付き合いがつらいなら、無理にしなくていいんだよ」。カウンセラーの助言で、体からすうっと力が抜けた気がした。サークルをやめ、母親付き合いの希薄な幼稚園を選んだ。送迎時は園庭に集う母親たちを避け、息子が友人宅に遊びにいく時は玄関先まで送り届けて帰る。「付き合わなくていい」と自分に言い聞かせて。
事件を起こした彼女に、誰かがその言葉をかけていれば、とも思う。
◇ ◇
最近、子供たちのこんな会話を耳にした。「好きなお菓子は?」と兄が聞き、「私、アメが好きだな」と妹が答える。兄がつぶやく。「ボクは、アメよりお母さんの抱っこだな」
子供を夢中で抱きしめたくなった。親に受け入れてもらえないつらさは、誰より知っている。でも、心の中には、今も親から愛されたい自分がいる。
大人になる前に母になった。菜穂さんの過食はまだ続いている。
記事60◆娘と同じ春、大学の卒業証書をもらった56歳のお母さんの記事
■掲載年月日 2001年04月05日
■散歩道:母と娘の卒業式
桜が青空に揺れる春。賜子(ますこ)さん(56)は晴れやかな気持ちで、4年間を過ごした昭和女子大を後にした。「今日は私の始まりの日」。心でつぶやくと、足どりがちょっぴり軽くなる。
賜子さんと長女志保さん(22)はこの3月、ともに大学を卒業した。母は卒業式の総代に選ばれ、娘は東京女子大で卒業スピーチを述べた。
「母娘で同時に大学に行くなんてね」。賜子さんは5年前の夏を振り返り、感慨深そうにいう。受験生の娘に付き添い、キャンパス巡りをしていて「社会人入試」と書かれた1枚のパンフレットに、突然ひらめいてしまったのだ。「そうだ。大学に行こう!」
◇ ◇
ずっと「駐在員の妻」だった。電機メーカーに勤める夫とともに、根なし草のように国内と海外での暮らしを繰り返した。
「内助の功」に納まって生きてきたわけではない。食べ物やゴミ問題、保育所づくり。さまざまな市民運動に取り組むことで、社会とのかかわり合いを保ってきた。代表を担ぎ、選挙運動に燃えたこともあった。
しかし世間の目は冷たい。行く先々で「有閑マダム」と皮肉られた。陳情先の役所で「そんなに暇なら夫におかずの一つでも作ってやれ」と言われたこともある。
7年前、寝たきりの末に母を病院で亡くした。自宅に引き取ろうと介護の勉強を始めた直後だった。「間に合わなかった」。深い悔恨の一方で、在宅介護を支える地域社会があれば、と強く感じた。
もっときちんと社会福祉を勉強してみよう。同じ思いで泣く人は見たくない――。
社会福祉を専攻し、通学のため家族で都内に転居、4年間の学生生活を送った。夫はこんな言葉で励ました。「君という妻を得て、なんてエキサイティングな人生だ」
◇ ◇
そして卒業式。
900人余の黒いスーツ姿の若い女性と一緒に卒業証書を受け取った。「介護を支える地域社会作りに取り組もう」。賜子さんの心はもう、次の夢を駆けている。
記事59◆小児がんで娘さんを亡くしたお母さんの記事2
働く母親である読者たちから、とても反響が大きかったので、反響を踏まえてもう1本記事を書きました。
■掲載年月日 2001年01月26日
■特集:母・新しい世紀を生きるために
■前向き人生を信じたい
小児がんで10歳の娘を亡くした元小学校教諭、長尾直子さんの話を記事にした。この取材以来、いつも考えている。もしも子供が重い病気を患ったら、私なら仕事をどうするか。
周囲は「母親なら仕事を辞めるべきだ」と言うだろう。誰も父親には同じことを言わないのに。
長尾さんは、娘ががんと知っても辞めなかった。休職を選び、娘と一緒に闘病生活を送る中で、教師としても、よりしなやかに成長した。しかし「終末期医療(ターミナルケア)に入った」と医師に告げられると、今度は、身を切る思いで退職を決意した。
「仕事が好きだから続けられなかった。復職できる日は娘の死ぬ日、と思うと耐えられなかった」。記事中の長尾さんの言葉には、多くの働く母親から共感の声が寄せられた。
長尾さんは娘の死からわずか半年で、カウンセラー講座に通い始めた。娘を自宅でみとって「いのちは生きる時も死ぬ時も神聖だ」と気付いた。だからこそ、人の心に寄り添う仕事がしたいという。
「教職に戻れ」と誘われながらも「後戻り」をちゅうちょし、生き急ぐように新しい何かを探す長尾さん。その生き方に、母の娘への強い愛を感じずにいられない。娘がこの世に生きた事実を丸ごと体で引き受けて、前向きに生きていく――。長く育児に、仕事に、体当たりで打ち込んだ長尾さんだからそんなふうに生きられるのだと、私は信じたい。
記事58◆思いのままに子どもを愛したお母さんの記事
■掲載年月日 2001年01月17日
■母:新しい世紀を生きるために/14止
■前夫の元から娘連れ出し逃避行
■自殺、事故死、別離…家族失い−−「もう放さない」
3DKのマンションの部屋には、娘のゆりちゃん(5)に買ったクリスマスの飾り付けと、17歳で逝った息子の良太君の仏壇があった。ゆりちゃんが兄の仏壇に火をともす傍らで、母ふくみさん(45)の話は始まった。
□ □
昨夏、ふくみさんは、一度は手放したゆりちゃんを、前夫の手元から取り戻した。ゆりちゃんは、岩手県の山村で前夫と暮らしていた。離れてから2年半の間に、4回会っただけだった。
その日、ふくみさんが前夫の家に続く坂道を上りきると、もう、ゆりちゃんは飛び出してきた。抱き上げて「ママと一緒に逃げよう」と耳元で言った。「無理だよ」とうつむく娘を車に乗せ1週間、逃避行を続けた。
□ □
ふくみさんは、肉親の死に泣いてきた。3歳で両親が離婚し、父に引き取られた。母と呼んだ父の再婚相手が間もなく自殺。父も赤ん坊の弟を道連れに後追い自殺した。
新聞広告で養子に出された。養父母を「お父さん」「お母さん」と呼び、愛されるよう努力した。「いらない子」と言われるのが怖かった。
最初の自殺未遂は小学校3年の時だ。「食べられません」と書かれたお菓子の乾燥剤を「二度と目が覚めないように」と寝る前に飲んだ。でも、朝はやってきた。
おぼろげな記憶がある。家族3人が自殺した直後、見知らぬ女の人が訪ねてきて「お母さんだよ」と両手を広げた。泣きはらした顔が怖くて「こんな人知らない!」と叫んだ。後に、実母だと気付いた。寂しい時にきまってこみ上げる「本当のお母さんと暮らしたい」の一言も、ひとり胸にしまい込んだ。
□ □
ふくみさんは、子供を産むことを夢見て生きるようになった。1人でもいい。血のつながった家族が欲しかった。
24歳で良太君を産んだ。恋人の暴力に耐えられず、母子寮に逃げ込んだ。その後、結婚したが、相手の親に反対され身を引いた。2度目の結婚でゆりちゃんを産むまで、ずっと良太君と一緒に生きてきた。
不登校気味だった良太君は、母思いだった。学校に使うエネルギーを丸ごとふくみさんにくれていたように思う。ふくみさんが心中を思い詰めた時にも「生きようよ」と逆に励ましてくれた。妹の誕生を喜び「参観日はおれが行く」が口癖だった。しかし、18歳を目前に、無免許運転のバイクにはねられ、死んだ。
悲しみに暮れた。「もう終わったことだ」という夫の言葉が許せず、離婚した。「私が育てた子は不幸になる」と娘も手放した。娘は前夫に引き取られた。
それから1年余り。ふくみさんは「私のもとにいるより娘は幸せ」と自分に言い聞かせ、会いに行くのも控えてきた。心が揺らいだのは、娘の4歳の誕生日の時だった。「ママと暮らしたい」。娘のひとことで、自分の幼い日の記憶がよみがえった。寂しい時は養父母の家の押し入れに顔を突っ込み、実母を思って泣いた。それでも「一緒に暮らしたい」と最後まで言えなかった。「ゆりはその一言を口に出してくれた」。娘への思慕がこみ上げた。
最高裁まで親権を争って敗れた。その年の夏、娘を連れ出そうと決意した。
岩手の前夫にも話を聞くことにした。私は、記事にすることでふくみさんや前夫の暮らしを乱すことは避けたかった。前夫は「娘と一緒に暮らしたいが、しばらく様子を見る」と静かに言い、ふくみさんの住所を尋ねることもなかった。
□ □
ふくみさんの話は終わった。ひざの上では、ゆりちゃんが「ママ、赤ちゃん産んでよ」とねだっていた。この子もまた、懸命に愛を確かめようとしているのだと私は思った。
自殺、事故死、別離。幼い日から母を探し、自分も母になるために、ふくみさんは、長い旅路を歩んできた。これからも、道は平たんではないだろう。「もう放さないからね」と娘を抱きしめる母の姿が、冬の日だまりの中で、一枚の絵のように見えた。
記事57◆小児がんで娘さんを亡くしたお母さんの記事
この取材で出会った長尾さんが、大好きな教師の職を辞めた時の思いが、たまらなく切なくて。
でも今、長尾さんは新しい場所で活躍されています。
■掲載年月日 2001年01月14日
■母:新しい世紀を生きるために/11
■小児がんに侵された娘と
■「かけがえない命」知る−−好きな教職辞め看病
10歳の娘を小児がんで失ったばかりの元小学校教諭、長尾さん(41)を取材した夜、私は2歳半の息子と添い寝しながら、長尾さんが詠んでくれた一首の短歌を思い出していた。
<キッチンのこのテーブルで書き綴(つづ)る今年最後の学級便り>
私の心に、冬の夜長に子供を寝かしつけ、台所で学級便りを書く長尾さんの姿が、鮮やかに浮かんだ。私も毎夜、眠る息子のそばでキッチンテーブルに向かって仕事をしている。仕事と育児のはざまで悩んでばかりいる私に、長尾さんの話はどこまでも重かった。
□ □
長尾さんの長女唯佳(ゆいか)ちゃんの病気が発覚したのは、3年前のことだ。「私のせいだ」。仕事に夢中だった自分を、まず責めた。
高校教師だった父にあこがれ、教師になった。研究授業を数多くこなし、「生徒を伸ばしてやろう」と理想に燃えた。2人の子供が寝るのを待って、夜更けまで台所で仕事をした。
子供が病気になるたび、思わず嫌そうな顔をしたかもしれない。娘のおなかにできた腫瘍(しゅよう)を、仕事にかまけて見過ごしたんじゃないか。答えを探すほどに狂おしくなった。
それでも、仕事を辞めようとは思わなかった。診断を聞いた後も「仕事に戻れますか」と医師に詰め寄った。通算2年にわたり、毎月休職届を出し続け、娘の看病に当たった。そして、娘の病状が落ち着くたび、教壇に戻った。
「生徒を伸ばしてやろう」という気負いはいつしか消え「生きているだけで素晴らしい」と生徒を受け入れている自分に気付いた。「私、もっといい先生になれるかも」。明るい予感さえした。
しかし1999年末、唯佳ちゃんの担当医は「打つ手がない」と告げた。長尾さんが退職を決意したのは、この時だ。「これまで通り休職で乗り切れ」と教員仲間に励まされた。でも、どうしてもできなかった。
理由を問う私に、長尾さんは「今も説明できない」とうつむいた後、「私が仕事に戻る時って、娘が死んじゃう時でしょ」と泣きじゃくった。
教壇に戻る日は、娘の死の先にある。そんなふうに娘の死を受け入れることが、自分で許せなかったのだろう。「教師という仕事を好きだから、辞めるしかなかったの」と長尾さんは言った。
唯佳ちゃんは昨年夏、短い生涯を終えた。好きな絵を習い、訪問学級の授業を受け最後まで、力いっぱいに生きた。
病床で母を呼び「大きくなったら、かあかんの世話は全部私がしたるな」と笑った。春から夏の短い季節を、長尾さんは初めて仕事を忘れ、娘の最期を自宅でみとった。
「唯佳の命の火が小さく、小さくなっていくのをずっと見てた。どんなに小さい炎でも、その火を手で触ると熱いんよね。確実に燃えてるんよね」
昨年7月、幼いその火が消えた。悲しみの中で、「生きること死ぬことって、何て神聖なんだろう」と長尾さんは思った。阪神大震災や少年の児童殺傷事件の後、教壇で何度も説いた「かけがえのない命」。その意味を、長尾さんは体中の痛みとともに知った。
娘の死から半年が過ぎた。かつての同僚から「教壇に戻れ」と誘われる。今でも教師に未練はある。でも、後戻りは何だか切ない気がして、昨秋からカウンセラー養成講座に通っている。
□ □
私は、唯佳ちゃんの仏壇の近くに、長尾さんの詠んだ短歌の色紙を見つけた。
<通院の吾子乗せゆっくりカーブするほら学校の桜満開>
昨春、長尾さんは病院の帰りに、娘を車の後部座席に乗せて、小学校の桜並木の坂道を下った。娘の見る最後の桜。子供たちの進級を祝う桜吹雪が、今はこんなに切ない。「ほら、桜が!」。涙をこらえブレーキをかけながら、長尾さんはわざとゆっくりと坂を下りたという。
冬の向こうにはもう、いのちの芽吹く春。桜吹雪が、天国の唯佳ちゃんと長尾さんを温かく包んでくれますように――。
私は心から祈った。
2001年正月企画「母」に書いた、ブラジル記事に次ぐ第二弾は、ネットでみつけた「天国への手紙」というサイトのお話。
■掲載年月日 2001年01月08日
■母:新しい世紀を生きるために/6
■死に場所に選んだ遍路道
■「生かされている」と知り−−天国へ思いつづる
「天国のお母ちゃん、お元気ですか」。パソコンでそこまで書いた途端、液晶画面は涙で揺らいだ。
昨秋の深夜、インターネットに「天国への手紙」という掲示板を見つけた私は、思わず亡き母へ手紙を書いてしまったのだった。
書いたばかりの手紙が掲示板に映し出される。
「お母ちゃんの娘でよかった。ありがとう」。それは8年前、死にゆく母に言い損ねた言葉だった。書き終えた時、不思議と心が安らいだ。
掲示板を作った女性に会いに行こうと決めた。
□ □
谷嘉子さん(56)は5年半前の7月、お遍路の地、四国にいた。真夏の歩き遍路は厳しい。汗を吸った白装束に手足を取られながら、草いきれにむせる山道を歩き続けていた。
奈良県の自宅で89歳の母をみとったばかりだった。骨上げを待つ間に、遺影を抱いて母の故郷の四国に向かった。生来病弱で、日に4キロも歩いたことがない。真夏の歩き遍路は、死さえも覚悟してのことだった。
ハサミで髪を切り落とすと、死に装束のつもりで白装束を身にまとった。お墓の後ろに立てる細長い板の卒塔婆にするつもりで杖(つえ)を持った。
「この顔です! 仏さん、お母ちゃんを見つけてやってください!」。寺では必ず、母の遺影を掲げ、泣きながら叫んだ。迷子になってたらどないしよ。ちゃんと成仏してるやろか……。そればかり案じた。
死に場所に選んだつもりの遍路道で、いくつもの出会いがあった。「離婚届を置いて出てきたの」と並んで歩いた女性。道に迷った時に野犬と出会った喜び。一杯の水に込められた心遣い。
時に、車に拾われながら、40日以上かけて遍路を歩ききった時、「生きているのではなく、生かされている」と天を仰いだ。卒塔婆になり損ねた杖は、15センチもすり減っていた。
自宅に戻った谷さんに、息子は「これでおばあちゃんと話ししいや」とパソコンを1台プレゼントしてくれた。半信半疑のまま「天国のお母ちゃんへ」と手紙を書き始めた。毎日書くうち、少しずつ癒(いや)されている自分に気づいた。
独学でパソコンを学び、インターネット上に「天国への手紙」という掲示板を開いたのは、半年ほど後のことだ。事故で子を失った母、夫を亡くした妻……。多くの人が今、亡き人への思いをつづり、互いにメールを交換し、支え合う。
2年前、高齢者の介護サービスの会社を仲間と設立した。母の介護から学んだ思いを込めて、介護の現場で働いている。
「あんたの体の弱いとこ、全部お母ちゃんがあの世に持っていってあげるからな」と言った病床の母。「よしこー、よしこー」と娘を呼び、幼児のようにまとわりつく母を思わず布団に突き倒した時、耳を刺した「何するーん」という泣き声。最期は子供に帰り、しがみつくように娘のおなかに頭を乗せて眠った母。
「死んだらお母ちゃんが、もっと身近になった」。谷さんは今も、3度の陰膳(ぜん)を用意する。せわしなく一人分だけいれたお茶でさえ、今も飲めない。
□ □
「お母さんに会えたら、何て言う?」
谷さんは私に尋ねた。
口ごもった。母は死の前夜、「最期のあいさつを」と家族を集めた。心の準備ができていなかった私は、死を認める言葉を口にできず、「元気になるまで一緒にいる」と言った。本当に伝えたい言葉は別にあった。8年間、悔いてきた。
「お母ちゃんの娘でよかった、ありがとう」。やっとの思いで口にしたら、やっぱり泣いてしまった。
谷さんはほほ笑んだ。「あたしはやっぱり『ごめんな』かなあ。今も懺悔(ざんげ)の思いで介護の仕事してる」
谷さんは今日もパソコンで書く。
<天国のお母ちゃんへ。
あたしな、お遍路さんの杖になりたいなと思ってる。人が歩むのに寄り添い、すり減ってゆく杖。だから今度会った時、ちょっとくらいほめてや。
な、お母ちゃん――>
当時の運輸省(現国交省)担当を外れ、遊軍記者に戻った私に待ち受けていたのは、正月企画。テーマは「お母さん」。
「お母さんがテーマなんだから、お母さん記者を投入しよう」という極めて分かりやすい話で、そちらに異動になったわけです。
1週間のブラジル出張をしました。
成田空港に帰国したその足で、息子を預けている仙台に直行したのは忘れがたい思い出です。
■掲載年月日 2001年01月04日
■母:新しい世紀を生きるために/3
■何百人も「息子」
■強く生きるため女を捨てても…移民を励ます武骨な手
94歳になる彼女は、生涯子に恵まれなかった。強く生きるため、いつも「男になる」と口にしていた。しかし、何百人もの青年が、「母」と慕っていた。私は、会ってみようと思った。彼女に、尋ねてみたいことがあった。
ブラジル・サンパウロ。市街地から車で40分、落書きだらけの高速道路を走り、ファベーラ(貧民街)を抜けると、日系人の老人ホーム「憩い園」がある。
「地球の裏側から、会いに来ました」。私があいさつすると、車イスに座った上野ハルノさんは顔を上げた。細い枯れ枝のような手が、膝(ひざ)の上で聖書を握りしめていた。リウマチで第1関節から直角に曲がっていた。
私が思わず指に触れると、彼女は自慢げに両手を広げた。「よう働いたからこうなった」。豪快に笑った。
□ □
ハルノさんがブラジルに渡ったのは1931年、24歳の時だった。農林省に勤める夫が農業技師として派遣されたためだ。
故郷の宮崎県では「ほうきさえ女中が持ってくるような暮らしだった」。お嬢さん育ちでも、負けん気は強かった。「何の罰でこんな土地に」と嘆きながらも、誰よりも働きものになろうと心に決めた。南半球の強い日差しに肌を焼き、広大なバタタ(ジャガイモ)畑でクワを握った。「男になれ。男になってしまえ!」と自分をしったし、大木を倒した。
夫は日系移民の農協組織「コチア産業組合」の農業試験場長だった。組合が55年、日本の青年移民の受け入れを始めると、試験場は青年移民の訓練センターとなった。若者の世話も、ハルノさんの仕事になった。
13年間で2500人に上った青年移民は、組合の名から「コチア青年」と呼ばれた。大半が一獲千金を夢見た日本の農村の二男、三男だった。配耕先の農場になじめず逃げ出す者も多かった。ハルノさんは彼らを静養させ、励まし、再び別の農場へと送り出した。
異国でホームシックやノイローゼに悩む青年たちは、いらだちをケンカで紛らわせた。温厚な夫はいつも互いの言い分を聞こうとしたが、ハルノさんは違った。バタタ畑の真ん中で取っ組み合う青年の間に体ごと割って入った。身を守るため、剣道や柔道も始めていた。
「ケンカするならヨ(私)が相手だ。気を付けろ。目ん玉か、それとも大事な玉か、どれか一つなくなってるかもしれんぞ」
節くれ立った両手を突き出すと、青年はみなひるんだ。「ケンカするひまがあれば働け。ばあさんの手を見ろ。ヨも働いてきたぞ」。ハルノさんにしかられると、青年たちはきまって膝をつき、すすり泣いたという。その背中を、ゴツゴツした手でいつも優しくなでていた。
68年に夫に先立たれた。独居を心配する周囲の声には耳を貸さず、94年の組合解散まで、夫と暮らした山奥の場長住宅を一人で守った。「マリード(主人)の遺言はなんと『ケンカするな』だったよ」。人からばかにされないようにと、60歳を過ぎても夜道を1人で歩いて、ポルトガル語の夜学に通った。
□ □
長い昔話の中で、気丈なハルノさんが泣いたのは、1度だけだった。
コチア青年に自殺者は多かった。異国は、日差しさえも違って見えたか「太陽がまぶしすぎる」と死を選んだ者もいた。ハルノさんの試験場でも3人死んだ。
「ばかたれが!」。目の前の子をしかるように怒鳴った後、小さなこぶしで目尻をぬぐった。
今も、60歳過ぎの「元青年」が毎週のようにハルノさんを見舞う。私が訪ねた日は、瀬尾正弘さん(66)がすしを土産にやって来た。国を出た彼らに故郷はない。瀬尾さんは32年間、ハルノさんの夫の墓参りを欠かさない。「日本の親に孝行できんかった。ばあさんが僕らのママイ(お母さん)だ」
ハルノさんの部屋の夫の写真の隣には、30歳代で病死した瀬尾さんの息子の写真が並んでいた。
□ □
「働け、働け」。思い出の中の青年に、今も語り続けるハルノさんを見ながら、私は、日本から持ってきた問いを思い返した。
子をなさず、女を捨てて、なぜあなたはママイになりえたか。ねじ曲がった十指がその答えである気がして、私はもう一度、彼女の指をなでた。
苛烈(かれつ)な生涯を前に、私は黙り込むしかない。だから、彼女の話を幼い日に聞いた「おとぎ話」のように大事に胸にしまっておこうと思う。
ハルノさんの知らない新しい世紀の日本で、私は働き、子を育てていく。心にしまい込んだ「働け、働け」というあの懐かしい声を、無性に聞きたくなる日が来そうな予感がしている。
大好きな知人、きーじーとは、そうそう、この記事の取材で知り合ったのだったっけ。
本来期待されている取材とは少々違うわけで、社内で「運輸省担当が書く記事か?」と批判された時は、「バリアフリー問題は運輸省の担当です」と答えよう、と理論武装してたのでしたっけ。
■掲載年月日 2000年08月18日
■車いすで一人旅、やさしさに触れた
■−−木島英登さん、ネットで体験紹介
■「障害者専用じゃなく、一緒に使える施設がいいな」
■36カ国の安宿めぐった木島さん、ネットで体験紹介
車いすで陸路、国境を越え、アジアや中東、欧米など36カ国の安宿を泊まり歩いた――。そんな旅の体験を載せた大阪府豊中市の会社員、木島英登さん(27)のホームページが話題を呼んでいる。海外のバリアフリー事情も掲載し「障害者でも旅はできるんだ」と呼びかけている。
木島さんは高校3年の春、ラグビー部の練習でせき髄を損傷し下半身まひになった。旅にのめり込んだのは、大学1年の時。単身渡米し、障害も個性だと認めてくれる米国で初めて、障害者であることを忘れた。そして、日本で「障害者」を意識するのは、人の目や設備不足など社会の側の理由からだと知った。
「他国も知りたい」。でも、交通機関やホテル、トイレの事情など不安はいっぱい。ガイドブックも探したが、車いす向けの情報はなかった。「当たって砕けろ」と一人旅に出た。
バスや飛行機、ホテルで「介助者が必要」と利用を断られたことも。「障害者は一人で行動しちゃいけないのか」と悔しい思いもした。でも、たくさんの出会いに勇気づけられた。ノルウェーのエレベーターのない安ホテルは「階段は担いであげる」と泊めてくれた。ドイツで馬車の乗車拒否に遭った時は、周囲の人が加勢してくれた。階段の多い観光地をあきらめかけた時、「君が観光できたら我々もうれしい」と一緒に回ってくれた人もいた。
ホームページにはそんな出会いや体験のほか、世界各国のホテルや交通機関、トイレなどのバリアフリーの状況を掲載した。訪れた国で散髪することにもこだわって、各国の理髪店のユニークなリポートも。
「要は心のバリアフリーが大事。障害を実感させられる施設は苦手です」と木島さん。「車いすの方が通ります」と派手なアナウンスが付く誘導。駅員を呼ばなければ使えないかぎ付きエレベーター。「障害者専用」を作るほど人々が助け合う機会が減っていく。
「障害者専用ではなく、障害者も使える施設がいいな」――これが、36カ国を車いすで旅した実感だ。木島さんのホームページはhttp://www.tam.nada.kobe.jp/KIJI/
「いのちの時代に」という連載で取材したお母さんとのことを書きました。
■掲載年月日 2000年05月29日
■散歩道:ランドセル
手のひらに乗る、小さなランドセル。つややかな赤い革。「できたぞ」。東京・堀切でカバン店を営む岡成一さん(40)はほおを緩ませた。
11年前に、ランドセルのミニチュア作りを始めた。6年間使い込んだランドセルを解体し、小さく切ってミシンで縫う。古い染みや傷もちゃんと復元する。職人技が生む「小学校の思い出」だ。
しかし、この日はいつもと違った。ランドセルには傷一つない。「ピッカピカの1年生」みたいだ。岡さんは早速、まだ見ぬ高知の主婦(36)に送った。4月初旬。東京の桜は盛りを迎えていた。
その2カ月前、私はこの主婦を取材した。彼女は5年前、1歳の娘を病気で失った。生きていれば今春、小学校に入学するはずだった。
「春は毎年、涙もろくなってしまう」。子を失った母親の思いはみな同じだ。桜の花びらが舞い、すべてが新しく生まれ変わる季節なのに……。「今年はとりわけ、赤いランドセルが目に染みそうよ」と彼女はつぶやいた。
「入学式までに、小さなランドセルを霊前に飾りたいな」。彼女の何気ない言葉に、私は岡さんを思い出した。「下町でミニランドセルを作る職人さん」の存在は聞いたことがあった。おせっかいとは思いつつ3月下旬、店に電話した。岡さんは二つ返事で引き受けてくれた。
「普段は半年以上待ってもらうのだけど、どうにか桜の季節に仕上げましょう」
10日ほどが過ぎた。高知から電話があった。「ランドセルが、小学校の入学式の日に届いたの! 急いでくれた職人さんの気持ちがうれしい。涙一色の入学式の日を何とか乗り越えられました」。彼女は何度も声を詰まらせた。
彼女の喜びを伝えたくて、岡さんに電話した。彼は一言「お金は受け取れない」と言った。「こんな仕事をしたかった。私からの贈り物にさせてください」と。
その日見上げた桜は、胸が詰まるほどに美しかった。今も新緑の葉陰に、真っ赤なランドセルが揺れて見える時がある。
育休から復帰2年目は、当時の運輸省(現在の国土交通省)担当記者になりました。社会部の運輸省担当というのは、いわば、航空機の事故や鉄道事故担当のようなもので、半ば事件職場なのです。
子育てとの両立にひたすら悩みながら、満足な仕事もできず……。
そんな中で、結局、心に残っているのはこの記事。
やっぱり事故原因を追うような記事ではなく、こういう記事を書くことのほうを選んでしまうのでした。
遺族のお父さんから言われた一言、忘れられません。
「おぐにさん、子どもを産むなら3人は産みなさい。うちは2人だったけど、1人に死なれるとこんなにつらい……」
もちろん、数の問題じゃないことを分かったうえで彼はそう語り、分かった上で私もそれを聞き、たまらない思いになったのでした。
掲載年月日 2000年05月18日
■追跡:地下鉄日比谷線事故
■置き去り、遺族の心−−「情報が欲しい」
■「原因は運輸省が…」「対応は営団の仕事」
営団地下鉄日比谷線の脱線・衝突事故で家族を失った遺族たちの苦しみが続く。事故から2カ月以上が過ぎ、専門家による原因解明が淡々と進むが、人々の記憶からその生々しさは失われつつある。「なぜ家族が死なねばならなかったのか」。遺族の問いに、営団は「原因は運輸省が調べている」といい、運輸省は「遺族対応は営団の仕事」という。遺族の悲しみや怒りを癒(いや)せる場所は、いったいどこにあるのか。
3月8日の事故の日以来、高知県安芸市の貿易会社社長、横山紀夫さん(60)が地下鉄に乗ったのは1度だけだ。
事故で二女の陽子さん(当時32歳)を失った。数日後、娘の最期をたどろうと、事故と同時刻の日比谷線に乗った。現場を走る時、車両が大きく揺れた気がして、つり革を握りしめた。「ここで娘は殺された」。悔しさが胸に突き上げた。仕事で年の3分の1は東京にいるが、それ以来、地下鉄には乗っていない。
事故は「すべてがこれから」という時に起こった。横山さんの会社の役員だった陽子さんは今春、東京に直営店を開いたばかり。「ミレニアムベビーをこっそりつくって、お父さんを驚かせよう」と話し合っていたと、陽子さんの死後、陽子さんの婚約者(31)から打ち明けられた。「仕事が忙しいから子供はまだ」と笑っていた娘の記憶が切ない。
事故直後は、病院に見舞いに来た営団職員に「帰れ」と怒鳴った。何度か電話もあったが「会いたくない」と断り続けた。初めて会ったのは、事故から1カ月後のことだ。
「何が娘を殺したか教えてくれ」と迫った。しかし、営団は「運輸省の結論が出ないうちは分からない」と言うばかり。一方、原因解明を担う運輸省鉄道事故調査検討会の動きは、遺族といえど、新聞やテレビで見るしかない。検討会への出席は同省に断られた。
「遺族を締め出して原因解明を進めている」。横山さんは思い詰め、4月下旬、営団と運輸省などに公開質問状を書いた。ペンを走らせる時、「あたしだけじゃない。再び事故に巻き込まれるかもしれない人のために、お父さん、頑張って」という陽子さんの声が聞こえた気がした。
今月13日、営団の寺嶋潔総裁から回答書を手渡された。「事故原因については警察や運輸省の結論を待って見解を述べます。民事上の責任は営団にあります」と書いてあった。
今、横山さんは東京を歩きながら、地下を走る列車を思う。事故後1日足らずで日比谷線は復旧した。現場には脱線防止ガードが敷設された。「1日で済む対策なら、なぜ1日早くやってくれなかったのか?」。横山さんの足元に、恨みだけが積もっていく。
□ □
鉄道や航空の事故では、原因解明に長期間を要することが多く、そのことがさらに被害者やその家族を追い詰めている。遺族らが事故調査検討会や鉄道会社から直接情報を入手するのは難しい。遺族らは、原因解明の道筋や法的な選択肢などをほとんど知らされないまま二重に傷ついていく。
運輸省は「遺族のケアは営団の責任」(鉄道局)という。検討会終了後、ただちに記者発表するなど情報公開に配慮しているが、遺族には「マスコミより後回しされている」と映る。
「現在のシステムでは、遺族の苦しみを救済できない」。42人の死者を出した1991年の滋賀県・信楽高原鉄道事故の遺族らでつくる「鉄道安全推進会議」(TASK)の臼井和男会長は指摘する。「遺族が事故の詳細を知ることは、なぜ家族が死なねばならなかったかを理解し、癒されていくのに必要だ。原因解明だけでなく、遺族をケアする体制も整えて」と訴える。
TASK事務局長の佐藤健宗弁護士は「鉄道事故調査検討会に遺族対応の部署を新設するか、別の組織を設立する必要がある。米国では事故調査にあたる国家運輸安全委員会(NTSB)の内部に被害者の家族のための部署があり、事故直後に家族にホテルを手配したり、マスコミ発表に先立ち調査状況を説明するなど、家族に向かい合った活動をしている」と話す。
掲載年月日 2000年10月03日
■地下鉄日比谷線事故で死亡…ボクサーの夢断たれた17歳へ
■19日、横浜で追悼試合
■仲間集い「富久信介杯」
今年3月8日の営団地下鉄日比谷線の脱線・衝突事故で亡くなった横浜市の麻布高校2年、富久信介さん(当時17歳)=写真=が通っていたボクシングジムが19日、富久さんの追悼試合を行う。プロボクサーになるのが夢だった富久さんの早過ぎる死を悼み、グローブを合わせた仲間たちがリングに上る。
富久さんは通学途中、事故に巻き込まれた。即死だった。
亡くなる2年前から、横浜市内の大橋スポーツジムへ通っていた。「勝ち負けがはっきりしているのがいい」。ジムに現れた富久さんの最初のひと言を、ジム会長の大橋秀行さん(35)はよく覚えている。生意気で、人と群れることを嫌う一匹オオカミ。そのくせボクシングには、ひたむきだった。
「ジムにはさまざまな人がいる。受験、受験の学校より魅力的だ」。いつもは突っかかってばかりの息子がうれしそうに言うのを、父の邦彦さん(54)もよく覚えている。働いている仲間に出会い、親のすねをかじることを極度に嫌うようになった。プロになるために、と視力回復センターにも熱心に通った。いつしかジムが「プロテストを受ければ合格する」と太鼓判を押すまでに成長した。
しかし、17歳のボクサーの夢は、あと一歩でくだかれてしまった。
富久さんの死後、邦彦さんから「ボクシング用具でも買ってください」と寄付を受けた大橋さんは「いつか消えてしまう用具に大事な金は使えない」と、教え子の名前を後世に残すため追悼試合を思いついた。
最優秀選手賞の名前は「富久信介杯」。賞金には、邦彦さんからの寄付金を充てることにした。その名は永遠に引き継がれる。出場するのは、20代の若いプロ選手16人。全員、生前の富久さんとスパーリングした仲間だ。
営団地下鉄は9月28日、南北線白金高輪駅に、追悼試合のポスターを掲示した。今月上旬まで、渋谷、広尾、恵比寿など計6駅10カ所に張る。「あいつのために営団が何かしてくれたのは初めてだな」。事故後の営団の対応を批判し続けてきた邦彦さんは、そう漏らした。
「第10回ザ・フェニックスバトル 富久信介追悼試合」は19日午後6時から、横浜文化体育館で。チケットはリングサイドが1万円、1階自由席5000円、2階同3000円。問い合わせは同ジム(045・451・1994)。
記事51◆連載「いのちの時代に」・脳死とどう向き合うか3
掲載年月日 2000年04月12日
■いのちの時代に:「脳死移植」論議なお
■「移植受けない」決意の女性−−「私は私」生を紡ぐ
投稿欄の片隅に「もう心肺同時移植は受けないことに決めました」とあった。4年前の毎日新聞の縮刷版でそれを見つけた時、私は深い戸惑いを覚えた。「移植を受けないと助からない」と医師に言われた女性からの投書だった。
私と2歳しか違わない、その女性の決意の理由を知りたくて、「会いたい」と手紙を出した。この3月。白モクレンのつぼみが早春の空を刺していた。
□ □
岡山市の郊外に、寺尾陽子さん(31)は母親と暮らしていた。か細い体に、湖のように深い色の瞳(ひとみ)。「私の苦しみを全部分かっているのもこの心臓。今さら取り換えるのは申し訳ない」と言って、ちゃめっ気たっぷりに笑った。
言葉の奥深さに、私は身震いした。
和田心臓移植の行われた1968年、陽子さんは生まれた。心室に穴が開き、肺動脈も細いため肺への血流が少ない総動脈幹症という先天性の病気だった。「3歳まで生きられない」と医師に言われた。高校生の時には、人工血管をつなぐ2度の手術を受けた。滋賀県の病院で「心肺同時移植しないと助からない」と告げられた。当時、国内で脳死移植のめどは立たず、海外に頼るしかなかった。
ある時は「人並みに仕事し、結婚したい」と移植を決意し、ある時は「人の臓器をもらってまで……」と陽子さんは躊躇(ちゅうちょ)した。迷った末、「あたし、カエルになる」と母に告げた。理科実験のカエルでいい。同じ死ぬならその前に、世話になった日本の医者に恩返しがしたい。海外での移植を断り、国内での移植が実現するよう訴え始めた。19歳の時だ。
8年が過ぎた。ある日、母が「私が脳死になったら、臓器を持っていってね」と言った。その瞬間、何かがはじけた。「いやや。体が温かいうちはずっとそばにいたい」。自分が脳死を受け入れられないのに、どうして人の臓器をもらえるだろう。「移植を受けたら後悔する」と思った。
小学校のころから「毎朝、お母ちゃんとは二度と会えん覚悟で学校に行きなさい」と言われて育った。死と隣り合わせの生こそが、陽子さんの半生だった。
「移植は受けない」と決意した。私の読んだ投書は、その時のものだった。
<人はそれぞれに運命を奏で その運命に翻弄(ほんろう)されるけれど 私は私であり続けたい>
そんな詩をつづった。
□ □
移植を拒否しながら、陽子さんは「生」を紡ぐ。心臓と肺の癒着部分にできた細い血管が発達し、本来肺と心臓をつなぐ血管の代わりに働いているのだという。「いわば病気と共存している状態」と主治医は言った。しかし、動脈内の酸素量も足りなくなりつつある。
「死は怖くない?」と問う私に、陽子さんは「私の余命は生まれた時からいつも1、2年」と笑った。「死は受容してるけど、生きる自信もまだあるの」と。
記事50◆連載「いのちの時代に」・脳死とどう向かい合うか2
こちらも心に今なお残る取材。
仙台の工藤夫婦のお店には、今でもときどき顔を出してしまいます。
掲載年月日 2000年03月29日
■いのちの時代に:第2部・私の中のあなた/7
■美しい世界、今も「瞳」に
■息子の角膜提供…嘆きはやがて希望へ
夏の季節、クモは見事な巣をつくる。
「お母さん、見て!」。仙台市の工藤拓弥君(当時17歳)の大声に促され、母(52)は玄関から外を仰ぎ見た。目の前に大きなクモの巣。銀色の輪の向こうには、小さな満月が浮いていた。「芸術だね」。拓弥君の瞳(ひとみ)に涙があふれていた。その目の素直さに、母は胸を突かれた。
拓弥君が信号無視の車にはねられたのは、それから1年半近くたった1993年の暮れのことだ。黄色い自転車は無残に折れ曲がり、病院に運ばれた時、意識はなかった。息をひきとる直前、母と父(53)は互いに切り出した。
「あの子の角膜をアイバンクに提供しようか」
息子が突然、目の前から消えてしまうのが耐えられなかった。身体の一部を何とか残したかった。提供の意思の有無など聞いたことはない。でも、「拓弥ならそれを望む」と信じられた。角膜を引き継ぎ、人を思いやる息子の心を世にとどめたい。そう願った。
しかし、角膜を摘出されて戻ってきた拓弥君の遺体を見たとき、父の気持ちは揺らいだ。薄く開いたまぶたの奥で、見慣れない色が鈍く光っていた。義眼だった。医師に説明されてはいたが、実際に目にして胸が裂かれた。「拓弥に申し訳ない」と、父は泣いた。
息子が白い骨になった日、角膜を得た2人の患者が光を取り戻したと、アイバンクのスタッフから後日聞いた。
「両目をえぐられた拓弥が、あの世で不自由していないか」。拓弥君の死から1年近くがたったころ、父は激しい恐怖に襲われた。心療内科にも通った。「お前は本当に提供を望んでいたか?」。何度も問うたが、答えてくれる息子はもういなかった。
母もショックで寝込み、「拓弥の角膜に会いたい」と願った。「別の人の目でもいい。その瞳に私を映して。お母さんだと感じて」。アイバンクに「提供先を教えて」と懇願した。しかし、「規則だから」と断られた。
一周忌を待って、父母はアイバンクに登録した。「拓弥と同じ道を歩みたい」という一念からだった。翌年、アイバンク主催の慰霊祭に出席した。移植を受けたレシピエントの人たちも顔をみせると聞き、「拓弥の瞳に出会えるかも」と思った。胸が高鳴った。しかし、期待は裏切られた。ドナーの家族に比べ、レシピエント側の出席は半分だった。「どうしてなんだ? みんな出席してくれよ」と父は嘆いた。
会場には、キクの花で「目」をかたどったオブジェが飾られていた。母の脳裏に息子の義眼の色がよみがえった。「無神経だわ」。涙がにじんだ。
「提供は正しかったのか」。父母の胸にくすぶっていた迷いが、最近ようやく薄れ始めた。
昨年夏、市の郊外に転居した。新居の玄関先に、事故に遭った息子の黄色い自転車のペダルを二つ、つり下げた。「何、これ」と尋ねられるたび、母は「お守り」と答える。
そのころ、母は夢を見た。「玄関に自転車のペダルを下げておいて。僕はいつもその家にいるからね」。夢の中の拓弥君は、瞳を輝かせて笑っていた。父の後悔も、少しずつ和らいできた。「妻の夢に癒(いや)されている」という。夢の中の息子の話を聞かされるうちに、「これでよかったんだ」と思えるようになった。
2人は街を歩くたび、「どこかで拓弥の目とすれ違ったかも……」と思い、胸がいっぱいになるという。息子の角膜は今も、世界の美しいものをたくさん見とどめているだろうか。クモの巣と満月に、黒い瞳をぬらしているだろうか。
小さな希望が見えた。
記事49◆連載「いのちの時代に」・脳死とどう向かい合うか1
息子を大阪の実家に預け、出産後、はじめて泊まりがけの出張をした取材です。
ポロポロポロと泣きながら話を聞いた取材でした。
■掲載年月日 2000年03月23日
■いのちの時代に:第2部・私の中のあなた/2
■心中とめた生の「息吹」
■濃密な日々…「脳死」の長女と
空気を吐き出す人工呼吸器の音が、白い病室の時を刻む。パルスオキシメーターの画面では、赤いグラフが伸び縮みし、心臓の動きを描く。高知市の筒井朋子さん(36)には、その単調な繰り返しが、娘の「いのち」の証(あか)しに思えた。
機械に囲まれて眠る1歳3カ月の千草ちゃんに、朋子さんは何十回目かの「おはよう」を言った。娘の十指はほんのり温かい。また爪(つめ)が伸びてる、と小さなハサミを取り出した。
「早く目を覚まして」。娘に語りかける。童謡のCDをかけ、絵本を読み聞かせる。娘の聴力は失われたのだという。脳が全く動いていないのだという。医師からそう説明された後も、母の振る舞いは変わらない。声は娘の白い肌に染み込み、心に届くような気がする。
長女の千草ちゃんが「脳死状態」と診断されたのは、1995年6月のことだ。突然、高熱を出して入院。診察結果は「軽い熱性けいれん」だった。しかし、3時間後に心臓が止まる。蘇生(そせい)処置を受けて心拍は再開したが、人工呼吸器を着けても意識は戻らなかった。2週間後、医師は「大人でいう『脳死』の状態に極めて近い」と告げた。
朋子さんは、妊娠3カ月だった。5歳の長男を実家に預け、自分の体のことも忘れて娘に付き添った。母親と離され、長男は心を閉ざした。朋子さんはやつれていった。機械につながれた娘を見るたび、罪悪感と無力感に責められた。
「娘を苦しみから解放したい。でも、あの子が死ねば、私も死ぬんだ」。心身のバランスを崩し始めた。ある日、朋子さんはつぶやいた。「一人では死なせない」
夏の夜、朋子さんは4階の病室の窓を開けた。生暖かい風が顔をなでる。窓際に足台代わりのいすを置いた。手にはハサミ。娘につながれた管やコードを全部切り、抱いて飛び降りるつもりだった。「ずっと一緒よ」。心は凪(な)いでいた。
ハサミを握りしめた瞬間だった。朋子さんの体内で何かが動いた。一瞬、目の前が真っ白になった。胎動だ。妊娠5カ月目にして初めて感じた新しい「いのち」の意思だった。
「生きてるのね、生きていたいのね」。手からハサミが滑り落ちた。せり出したおなかを抱きしめ、病室の片隅で泣きじゃくった。
「脳死状態」と聞かされて2カ月が過ぎた。千草ちゃんへの言葉はいつしか「早く目を覚まして」から、「うちの子に産み直してあげる」に変わった。「次もママの子に生まれたい」。朋子さんの夢の中で、幼い娘はそう言って笑った。
その年の8月24日。家族が見守る中で、いのちを示す赤いグラフが静かに途絶えた。夜昼なく世話してくれた医師に、朋子さんは「ありがとう」と頭を下げた。一時の不信感は消えていた。人工呼吸器の電源が落とされ、「2カ月半」を刻んだ病室の時も止まった。
おなかの子は男児だった。今、四つになる。2年前に生まれたその下の千夏ちゃんは、大きな黒い瞳(ひとみ)が千草ちゃんとよく似ている。
脳死移植のニュースに触れるたび、朋子さんの心は揺れる。子を失うという体験を経て、移植を待つ患者家族の苦しみは我がことのように分かる。しかし、病室で長女と過ごした濃密な時間は今もなお、いとおしい。記憶の中で「脳死」はやはり死ではない。
生きていれば、この春、真新しいランドセルが背中で揺れるはずだった。ランドセルを模した飾りを霊前に買ってやろうと、母は思っている。
掲載年月日 2000年02月16日
■浅草寺・千年の物語:第5部
■笑いの国/1
■お笑い集団「浅草21世紀」
■立ち見の客を待つ座長−−再生夢見て旗揚げ2年目
浅草寺の境内の片隅に、小さな石碑が建っている。エノケン(榎本健一)、ロッパ(古川緑波)、シミキン(清水金一)など、浅草六区で活躍した喜劇人の碑である。境内から六区へと抜ける途中に、古い芝居小屋がある。木馬亭という。そこでは小さな劇団が「浅草喜劇の灯を消すな」と定期公演を続けている。かつて小屋が汗と熱気にむせ返り、詰めかけた客が通りにあふれた時代があった。しかし、それもはるか昔の伝説だ。浅草に再び、笑いがよみがえる日は来るのだろうか。これは「笑いの国」を夢見る浅草育ちの芸人たちの、汗と涙の奮闘記である。
1月12日。東京にこの冬初めての雪が舞った。公演初日を迎えた浅草・木馬亭。110人分のこぢんまりした客席にはまだ、20人ほどしかいない。
「本番15分前を入れさせていただきます!」
若い芸人の声が、楽屋に響いた。楽屋の鏡の前で、お笑い集団「浅草21世紀」の座長、橋達也(60)は、天井を見上げ、つぶやいた。
「あの日もそういえば、大雪だったよなあ」
■ □ ■
2年前の正月、「浅草21世紀」は旗揚げした。座長の橋は昭和40年代、熱のこもったドタバタでコント55号と張り合ったコメディアンだ。
その昔、エノケンが歌い、ロッパが笑わせた浅草。渥美清とたけしを生んだ浅草。「笑いの国」はしかし、いつしか過去形で語られる街となり、浅草六区にひしめいていた小屋や劇場は次々と消えていった。
1997年の師走。橋は2人の男と居酒屋にいた。「ゲロゲーロ!」でお茶の間を笑わせてきた漫才師、青空球児好児だ。
「橋やん、浅草に演芸がなくなってよー、関西の吉本(興業)が足元まで来てんだぞ。俺(おれ)ら、浅草でずっと頑張ってきたのに、今、手をこまねいているのはおかしくないか?」
球児の言葉が胸に響いた。橋とて思いは同じだ。浅草に笑いを取り戻したい。笑いの王国を再建したい。60歳を目前に、あせりに近い衝動を感じていた。
浅草はもう芸人を生めない、と言われて久しい。若手芸人がベテランにもまれながら芸を披露し、客に育ててもらえるような舞台は、浅草にはもう、ほとんどない。83年には浅草松竹演芸場が、91年には常磐座が、長い歴史に幕を閉じた。
橋も球児好児も、舞台の袖(そで)から先輩の芸を盗み、つかんだ舞台では互いを食い合った仲間だ。「舞台」の存在しない土地にはお笑いなど育たないと、肌身に染みて知っている。
「おまえ、やれよ。俺、絶対に協力するからよ」。球児の一言に押されるように、橋は心を決めた。
「浅草に新しい『劇団』を立ち上げ、そこで若手を育てよう」
スナック稼業で生計を立てていた橋の呼びかけに、浅草出のベテラン芸人たちが集まった。渥美清の旧友である関敬六。青空球児好児。橋の昔の相方、花かおる……。平均年齢は50より60に近い。30、40代の中堅の芸人がほとんどいないという現実が、浅草の衰退を物語っていた。それでも六区全盛期を誰(だれ)よりも知っている連中が、「21世紀の笑いを浅草によみがえらせよう」と「浅草21世紀」をつくったのだった。
旗揚げ公演の98年1月15日。記録的な大雪の中、入りきれないほどの客が木馬亭に押し寄せた。「ありがたいねえ」。橋は久しぶりのドタバタコントに心地よい汗を流した。
■ □ ■
あれから2年。
毎月5日間の公演は25回を重ね、毎回3組程度の若手を舞台に立たせてきた。
「今日も雪。2年前も雪か……」。羽織袴(はかま)姿の橋が、うたうようにつぶやいた。そろそろ開演時間だ。
橋は「幕が上がる前の一瞬が好き」という。座長として幕の閉じた舞台に正座し、頭を垂れて幕が上がるのを待つ。閉じた幕の向こうに客のざわめきが聞こえると、胸が高鳴る。客の入りはどうだろう。立ち見はいるだろうか、と。
橋はいつも、夢見る。
幕が上がり、顔を上げた瞬間、客席に黒山の立ち見客が見えたら。木馬亭の木戸から道にあふれた客のどよめきが聞こえたら。
「その瞬間がほしくて、もう2年も待ってんだ」
コメディアンの見果てぬ夢をかけ、今、幕が上がる。(敬称略)
=つづく
掲載年月日 2000年02月17日
■浅草寺・千年の物語:第5部
■笑いの国/2
■芸人も、客も泣いた /東京
■「浅草喜劇の灯を消すな」、芸で育った座長は思った
「転びの芸なら、誰(だれ)にも負けない」。橋達也(60)はそう自負している。
頭をこづかれたり、足を引っかけられたり。相方とタイミングを自在に合わせ、デーンと派手に転ぶことができる。舞台に肉の塊をたたきつけた時のように、重い音で客席の空気を震わせることができる。
けがを避け、痛みを最小限に抑え、しかし、音だけは最大限に響かせる。「転び」は熟練を要する技だ。
橋の両ひじの外側に、異常に発達した骨がある。コブのように張り出している。倒れた体の全体重をひじで受けるため、骨が不自然に発達してしまったという。
芸が体を作り、体が芸をつくる。昔気質の芸人は、何かしら体に勲章を持っている。
■ □ ■
橋は1963年、浅草の東洋劇場でデビューした。5年後、花かおると「ストレートコンビ」を組み、当時大人気だったコント55号を追撃した。
「コンビ結成が55号に2年遅れたのが痛かった。はなから勝負の決まっている競馬みたいなもので、あのころから2着、3着続きの人生が始まったんだなあ」。そう言った後、「今だから笑って話せるけどね」と橋は付け足した。
当時、コメディアンのギャラは安かった。「ストリップは踊り子さんが主役。男は刺し身のツマみたいなもんで、ギャラも1日100円だった」と振り返る。
当時の芸人たちが酒を飲むと、必ず盛り上がる話題がある。「あの安いギャラで、どうやって食いつないだんだろうなあ」。みな首をひねるばかりで、どうにも答えが見付からない。交通費と食事代でギャラは消える。ストリップの踊り子の用聞きで、駄賃をためた。
漫才師、青空球児はしみじみという。「飢えない程度に誰かが食わしてくれた。思えば、浅草って芸人に温かい町だったよな」
20代の橋が舞台で芸を磨いた時代は、そのままテレビ台頭の時代にも重なる。売れた芸人はみな、浅草を出てテレビの世界に飛び込んでいった。「渥美(清)さんも、八波(むと志)さんもテレビに行っちまったね……」
この30年間、坂を転がるように寂しくなった浅草で、橋はこれまでに三つの劇団を主宰した。「橋達也と笑いの園」「ミニ・キャンプ」、そして10年近くあけて今回の「浅草21世紀」だ。
浅草から劇場と劇団が消えるほどに、橋の浅草へのこだわりは強まった。
■ □ ■
「浅草喜劇の灯を消すな」。そんな悲願の原点には、91年閉鎖の常磐座最後の公演がある。
常磐座は1886年に開館して以来、浅草喜劇の象徴的存在だった。エノケン、ロッパをはじめ、萩本欽一も由利徹も渥美清も、ここで育った。何より橋にとっては貴重な公演の場だった。
常磐座の「さよなら公演」の千秋楽で、橋はコントをやった。
「幕が下りる瞬間は今も忘れない。おれの左隣に関(敬六)さんと渥美さんがいて、客は総立ち。それも座席の上に立ち上がって拍手してたんだ」
芸人も、客も泣いていた。紙吹雪と紙テープの舞う中で、橋は客の悲鳴を聞いた。「やめないでくれ」「頑張ってくれよ」。今も耳にこびりついて離れない。
逆光のスポットライトのせいで真っ暗に見える3階客席を、橋はただ、ぼんやりと見つめていた。「105年の歴史が今、途絶える。喜劇を浅草からなくしちゃいけねえ。この舞台で戦った先輩たちを忘れちゃいけねえ」。そんな思いが、脳裏を駆け巡った。
公演の後、橋の手元には多額の借金が残った。橋はこれを境に、経営するスナックでミニコントを演じる以外、いったん舞台から遠ざかった。(敬称略)=つづく
掲載年月日 2000年02月18日
■浅草寺・千年の物語:第5部
■笑いの国/3
■仲間は一番の理解者 /東京
■「朋友」と呼び合い、座長バックアップ
正月公演の初日。木馬亭の客席に座る20人の中に、その男はいた。太いまゆ。ギョロ目。マフラーもコートも取らず、底冷えする客席に座っている。
谷幹一である。67歳。「谷カン」の愛称で親しまれた浅草育ちのコメディアンだ。舞台でコントが始まると、無邪気に口を緩めて笑った。細めた目が、舞台の上の一人の男を追う。
丸坊主の好々爺(こうこうや)。白いトレパン姿。関敬六である。
あっはっはと笑う谷の目は、澄んでいて優しい。関と谷は約50年来の親友だ。
2人に渥美清を加えた3人は、青春時代を浅草フランス座で過ごし、1958年にトリオ「スリーポケッツ」を組んだ。解散後は別々の道を歩んだが、芝居小屋が次々消え、六区が様変わりした後も、互いを「朋友」と呼び続けた。
75年、関の劇団の旗揚げ公演では、渥美と谷が並んで客席に座り、「よっ、座長!」と応援した。同じころ、関が民謡酒場を開いた夜には、3人で肩を組んで「浅草の唄」を歌った。
浅草には、年輪を重ねた芸人たちの古い友情が、今もたくさん息づいている。若い売れない時代には、弁当もせんべい布団も将来の夢も分け合った。今も互いの舞台には必ず足を運ぶ。
谷はこの日、浅草の別の舞台に出演中だった。公演の合間に、関の芝居を見に来たのだった。
■ □ ■
木馬亭の楽屋。関が白いトレパンを脱いでいるところに、谷が顔を出した。谷はさっさと関の隣に座り、あいさつもそこそこに舞台の感想を述べ始める。
「関やん。客席の客からお年玉をもらう時はね。あんなふうに『ちょうだい、ちょうだい』じゃあダメだ。『ちょっとポケットの中の小銭をここにお捨てください』とか言わなきゃあ」
「関やんのさっきの歌なあ、伴奏が大きすぎて歌詞が聞き取れなかった。あれじゃ、客も笑えないぞ」
谷の淡々とした言葉に、関も神妙な顔でうなずいている。相手の長所短所を知り尽くした一番の理解者だ。「谷カン」「関やん」「渥美やん」。そう呼び合ってもうすぐ50年。
そのうち1人は、3年半前に逝ってしまったが……。
■ □ ■
「おれ、もうダメだよ。死んじゃうかもしれない」
渥美が死ぬ前年、関は渥美の弱音を初めて聞いた。ふいを突かれ、思わず声を荒らげた。「何言うんだい。お前が死ぬなら、俺(おれ)も一緒だよ」。関はまだ、渥美が本当に死に近づいていることを知らなかったのだ。
しかし、渥美は関を諭すようにこういった。「ばかいうんじゃないよ。死ぬなんてのは、そう簡単じゃないんだ。おまえは俺の分まで生きろ、生きてくれ」
だから関は「死ぬまで舞台にいたい」と思う。
脳こうそくの後遺症はまだ消えない。72歳の体に、ドタバタのコントは結構つらい。最近はセリフをなかなか覚えられない。
「こらっ、脳こうそく! また、セリフ忘れたな」
舞台では橋がすかさず、丸めた紙で関の頭をはり倒す。絶妙なフォローだ。
関は首をすくめると、ニヤニヤしながら体を動かし、「いやいや、こりゃリハビリになるねえ」ととぼける。客席がどっと沸く。
「橋のつっこみが一番やりやすい。今も舞台に立てているのは、橋のおかげだ」と関はいう。
関は糖尿病のため、医師からカロリー制限されている。差し入れの弁当を食べようとすれば、橋から「もう、食うな!」と手をたたかれる。そんな時思う。「渥美やんも、俺の手をよくたたいたなあ」と。「人を大事にするとこが、渥美やんと橋はよく似てる。どうにか橋の苦労には報いてやりてえなあ」と思う。(敬称略)=つづく
掲載年月日 2000年02月19日
■浅草寺・千年の物語
■第5部 笑いの国/4
■親友・渥美清の死… /東京
■親友・渥美清の死 関敬六の誓い
芸人は年を取るのが難しい。いくら売れていても、老いは必ずやってくる。「落ち目になるのがイヤで舞台をやめた芸人はいっぱいいるよ。でも、僕は死ぬまで舞台に立つんだ」と関敬六(72)は頑強にいう。
古今亭志ん朝に「無壁(むかべ)」とあだ名を付けられた。「つくづく壁のない奴(やつ)だ」と。老い先や身の振り方を全然悩まず、「浅草、浅草」と好きなことを続けてここまできた。
渥美清のように派手な頂点を極めはしなかったが、これほど息長く、愛される芸人もいない。
■ □ ■
忘れもしない1996年8月7日。マネジャーの電話で渥美清の死を聞かされ、関はへたり込んだ。渥美が死んで3日後のことだ。
「なんでおれに黙っていった?」。動揺と混乱でわけが分からないうちに、新聞やテレビの取材にもみくちゃにされた。泣きながら1週間を過ごしたころ、身体に異変が起きた。
脳こうそくだった。入院先のベッドで「渥美やんが『寂しいから来いよ』と呼んでるのかな」と思った。「おまえの代わりに死にたかったよ」と何度も思った。
関と渥美は、浅草フランス座で出会った。関は末席の役者。渥美は他の劇場から引き抜かれた役者。格は少々違ったものの、いつしか「関やん」「渥美やん」と呼び合う仲になった。安いギャラで「いつか思い切りカツ丼(どん)を食いたいなあ」と言い合った。
より広い世界で活躍したいと、渥美は浅草を出た。浅草の華やかさに陰りが差し、舞台が一つ一つ消える中で、関は「浅草喜劇の灯を消すな」をキャッチフレーズに、劇団を主宰して浅草にこだわり続けた。
75年からスタートした関敬六劇団の上演演目は「浅草どすこい」「あべこべ浅草」「ごっつぁん浅草」「お〜い浅草」……。もう浅草のオンパレードだ。松竹演芸場でスタートし、ここが閉鎖された後は浅草を一時離れ、続いて今はなき常磐座に舞台を移し、常磐座が閉じる91年まで15年以上も公演を続けた。
「浅草が故郷」と口にする芸人は多い。「浅草に笑いを取り戻したい」という者も。しかし、実際に行動を起こした芸人というと、必ず関の名が挙がる。
常磐座のさよなら公演を手がけたのも関だ。千秋楽では号泣した。出演者全員が舞台に並んだエンディングの時、舞台のそでからいきなり渥美が現れたからだ。
さっきまで元気良く「これまでありがとう」などと笑顔で客席に手を振っていた男が、一瞬の後に泣き崩れた。そんな関を抱きかかえ、渥美はマイクを引き継いで淡々と客席に向かった。「これまで関をありがとうございました」
あいさつだけをさらりとこなし、渥美はそでに消えて行った。まるで映画の寅さんのように、風のように現れ、消えたのだった。
関はマイクを持ち直すと、涙をぬぐい、叫んだ。
「浅草喜劇の灯は、絶対に、絶対に消しません」
■ □ ■
「あれはおれの信念。渥美との約束みたいなもんだ」。今、関はそう思う。
今でも月に2、3度、渥美の墓参りに行く。墓石の前で「渥美やん、どうにかしてくれよ、仕事が全然ないんだぜ」と愚痴りもする。ちゃんと声は届いている、と思う。
まぶしいライトを浴びるたび、関は「おれが死ぬ前に、パーッと浅草の笑いを取り戻してやんなきゃなあ」と思う。浅草再興は、あの世にいる渥美への手土産だ。
「おい、渥美やん。浅草が生き返ったぞ。俺(おれ)、やったぞ」。関の夢は、いつか向こう側でそんな話を旧友に聞かせることである。(敬称略)=つづく
掲載年月日 2000年02月24日
■浅草寺・千年の物語:第5部
■笑いの国/5
■芸人たちの「ふるさと」 /東京
■今ではほとんど消えた、昔ながらの楽屋
木馬亭の楽屋には、独特のにおいがある。たばこ。汗。化粧品。弁当。絡み合った湿っぽいにおいが、昔ながらの石油ストーブに暖められてゆく。
うなぎの寝床のような9畳敷きの部屋に、古い民家によくある和室用の平凡な蛍光灯が二つ。隅には差し入れの弁当が積み上がる。芸人はここで着替え、飯を食い、化粧をする。
年配の芸人が陣取る楽屋は、若手にはちょっと敷居が高い。出番直前に「お先に勉強させていただきます」と正座してあいさつすると、舞台に続く楽屋を走り抜けていく。終わったら「お先に勉強させていただきました!」。威勢のよい声に、ベテランが「ご苦労さん」とねぎらうころには、若手の姿は楽屋から消えている。
「おっと、次出番か? 人の出番は短く感じるねえ」。吸引器でノド薬を吸い込んでいた橋達也(61)が、慌ただしく着替えを始めた。「いやだねえ、すごい腹」。橋のパンツ姿を青空好児がちゃかす。「お互い、年取っちゃってさあ」
橋の吸引器が空いたのを見て、関敬六(72)がすかさず使い始めた。「競艇につぎ込む金はあっても、吸引器は買わないんだからよ」と関にこぼす橋だが、橋自身は競馬新聞に夢中だ。
土日の楽屋は、競馬一色になる。場外馬券売り場に買いに走る者。ラジオで中継を聞く者。他の芸人の舞台など、まるで見ていない。
「おはようございます」「おめでとうございます」
時折、浅草の古い芸人がかつての仲間の陣中見舞いに訪れる。「やっぱりいいなあ、楽屋は……」と懐かしそうに畳をなでる。はなから楽屋の雰囲気が目当ての来訪者も多い。
木馬亭のような昔ながらの楽屋は、今ではほとんど消えてしまった。最近はどこも個室だ。便利だが、何か物足りない。「昔の浅草フランス座や常磐座の楽屋がこんな感じだったねえ」と誰(だれ)かがつぶやいた。仕事がない日に楽屋をのぞけば、誰かが仕事を回してくれた。先輩の芸人が、親身にけいこをつけてくれたりした。楽屋の思い出は尽きない。
■ □ ■
楽屋を守るのは木馬亭女主人、根岸京子だ。夫は浅草の興行史を築いた「根岸興行部」の4代目。84年に夫が62歳で死んだ後も、毎日のように木戸に座る。
木馬亭は1918(大正7)年、回転木馬の遊戯場を備えた演芸場としてオープンした。今では唯一の浪曲の定席となっている。
97年の師走、京子は橋から「劇団を旗揚げし、若手を育てたい」と告げられた。「うれしかった。ぜひ成功させてやりたいと思いました」と振り返る。
「関さん、橋さんの健康が一番心配なの」「フリーパーはいつも先に来てけいこしているのよ」「若手のかくれんぼも最近、先輩の風格が出てきたわねえ」
京子は木戸から芸人をしっかり見守る。楽屋に漂うぬくもりは、京子の人となりにも重なる。
■ □ ■
青空球児が急に立ち上がり、話し始めた。
「浅草を歩いていたら自転車に乗った男が現れて、『明日の公演見に行くよ』と言う。『どうもどうも』と調子合わせたら、通り過ぎた自転車が、なぜか引き返してきて……」
球児は、男が自転車に乗ったまま、足をバタバタさせてUターンするまねをして見せた。「男は『ジュースおごってやるよ。何飲む? あ、お茶かい……』って、50円玉だ、10円玉だ、1枚ずつ自動販売機に入れていくわけよ。なんだかよく分からないまま、おごってもらっちゃったよ」
球児が、バカ丁寧にコインを自動販売機に落とすまねをしてみせると、楽屋は爆笑のうずとなる。最後に球児はしんみり付け足した。「だから浅草なんだよなあ」
六区の外れにある、古い小さな芝居小屋。楽屋はいつでも、芸人たちの「ふるさと」だ。(敬称略)=つづく
掲載年月日 2000年02月25日
■浅草寺・千年の物語:第5部
■笑いの国/6
■「俺たち流」で充実感 /東京
■客の年齢層でウケの違い−−若手芸人に試練の時
「お客さまには涙が出るほどつらい時間と思います。しかし、一緒に若い芸人を育ててやってください」
座長の橋達也(61)が舞台から、しみじみと客席に語りかけた。若手芸人の「フレッシュコーナー」の前のお決まりの口上だ。
フレッシュコーナーの一番手は、3人組の「マイティーカ」。コントだ。
「遅いな、何やってんだよ、あいつ」。人待ち顔で携帯電話を耳に当てる青年。そこへ、舞台の袖(そで)からもう一人の青年が「お客様のおかけになった電話は電波の届かない場所にあるか電源が入っていないためかかりません……」と自分の携帯電話につぶやきながら登場。
最初の青年が「(電話が)かかってるじゃないか!」と突っ込んで、笑いが起こるはずの場面だが、20人足らずの客席は沈黙。
空席の目立つ日は、どうしても笑いが滞りがちだ。
沈黙気味の客席の後ろでは、ほかの若手芸人が立ったまま仲間の芸に見入る。空席はあっても誰(だれ)も座らない。まなざしは真剣だ。
「俺(おれ)らも最初のころ、受けなかったよなあ」。漫才コンビ「かくれんぼ」の2人は、このコーナーを見るたびに2年前の自分たちを思い出す。今ではフレッシュコーナーを卒業し、若手の中では先輩格だ。
最初の3カ月間、誰も笑ってくれなかった。
1日2回、5日間の公演。これを3カ月だから計30回。「30回やっても笑ってもらえなくて、もう浅草に来るのがイヤになったよなあ」と小池義則(24)。相方の宮坂あきお(26)も「『若者相手ならうけるんだ。悪いのはここの客だ』と思った時期さえあった」と打ち明ける。
今、若者の「お笑い」の中心は、新宿であり、渋谷である。若い芸人はお笑いライブで芸を磨く。出演者も客も10〜20代が主流だ。
ライブではそれなりに笑いを得ていた「かくれんぼ」だが、高齢の客が多い浅草では全然受けなかった。「半年たってやっと笑ってもらった。浅草で受けたぞ、と天下取った気分でいたら、今度は若者向けのライブで受けなくなっちゃって……」。2人はかくして「寄席とライブの笑いは違う」ということを知らされた。
若者の笑いは説明を嫌う。説明されると先が見えてしまう。先の見える話には笑えない。逆に先が見えなければ、よく分からなくても笑えてしまう。
一方、年齢層の高い客は、説明を欲しがる。きちんと理解しようとする。その代わり、先が見えても面白ければ笑ってくれる。
■ □ ■
フレッシュコーナーが終わった。次は「かくれんぼ」の出番だ。黒いスーツに身を固めた宮坂と小池が、元気よく舞台に飛び出した。
「電車やバスに、シルバーシートってありますね」
「ああ、お年寄りや体の不自由な人の席ね」
「そう。いかにも『灰色の人生』っていう……」
客の肩が揺れた。小さな笑いが起こる。「若造の力、試してやろう」といった感じの客の目つきが、次第に和んでゆく。
宮坂の長い手足が伸びやかに動く。小池が小気味よく突っ込む。2年前ならこうはいかなかった。客が少ないと委縮した。笑いがないと、動きも声もだんだん元気を失った。何度そうやってしょげ返ったことだろう。
10分後、汗びっしょりで舞台を降りた2人は、心の中で叫んでいた。「俺は俺を出し切った」。客も笑いも少ないが、雰囲気にのまれずやれたのは初めてだった。大入り満員のうねるような笑いを得た時よりも、不思議な爽快(そうかい)感があった。
空席の目立つ寒々しい小さな劇場で、若い漫才師たちは未来へのとっかかりに足を掛けた。(敬称略)=つづく
掲載年月日 2000年02月26日
■浅草寺・千年の物語:第5部
■笑いの国/7
■「古里」から飛び立て /東京
■晴れ舞台めざすオーディション 厳しい言葉、優しいまなざし
浅草六区からほど近い店舗ビルに、橋達也(61)の経営するスナックはあった。
鏡張りの壁、シャンデリアの下がる天井。20畳程度の店は一見、普通のスナックだ。が、よく見ると、壁には1枚の写真が掛かる。2人の男がいる。一人は橋。もう一人は、浅草出身のスター、ビートたけしである。
「あ、たけしだ」。若者たちが写真を取り囲む。彼らにとって、この日のこの場所は、第二の「たけし」につながる入り口だ。
1月20日。「浅草21世紀」の月1回のオーディションが、橋のスナックで行われた。挑戦者は4組7人の20歳前後の若者。審査員は橋ら芸人約10人。ソファを壁際に積み上げて確保したスペースが、挑戦者の舞台代わりだ。
ここを通過した者は、晴れて木馬亭の舞台に立つことになる。
■ □ ■
これより1週間前の14日。いつもは寂しい夜の浅草に、どこからともなく若者が集まってきた。街灯が長い影を落とす染みだらけのコンクリート道路を、赤や茶色の髪をしたストリートファッションの男女が嬌声(きょうせい)を上げながら、歩いてゆく。行く先は木馬亭だ。
この夜、月1回の「若手ライブ」が開かれた。浅草21世紀のオーディションを勝ち抜き、フレッシュコーナーで経験を積んだ若者が、自分たちで企画運営するお笑いライブだ。
いつもは楽屋に入らない若手が、この日ばかりは楽屋を陣取る。「お先に勉強しちゃったりしてぇ……」とふざけながら舞台に出てゆく者。鏡に向かってニヤニヤしながら、漫談を練習する者。ちゃらんぽらんに見えるが、芸に向かう姿はみな真剣だ。
「180人入ったぞ」。誰(だれ)かの声に歓声が上がった。出演者が前売り券を必死に売りさばいたおかげだ。若い熱気に包まれ、木馬亭はいつもより華やいで見えた。
浪曲の定席を続けて今年で30年。古びた木戸には女主人、根岸京子が座り、日ごろ見慣れぬ若い客たちをニコニコと見守っている。昼夜とも出演していた「かくれんぼ」は、すっかり根岸とも親しくなっていた。
「かくれんぼ」の2人は、「別に浅草には特別な思い入れなんかない。でも、木馬亭にはこだわりがある。ここで出会った先輩や仲間を大事にしたい」という。
2人はかつて、青空球児からこんな言葉を聞かされた。「俺(おれ)の古里は浅草だ。若いおまえらにも、古里を作ってやりてえなあ」。信州出身の若い2人が今、イメージする故郷は「木馬亭」だ。
■ □ ■
場所は変わって、オーディション。司会を務める猪馬ぽん太(21)が、本番さながらの大声で開始を告げた。「最初に、しゃちほこさんのコントでお楽しみくださ〜い!」
ニコリともしない審査員の面々を前に、結成して3カ月、という経験不足のコンビはカチコチだ。青年の漫才コンビ。女子短大生の漫談。オーディションの常連の漫才。順番にネタ見せする若手を相手に、橋は黙々とペンを走らせる。鼻先には老眼鏡。ペン先はほとんど止まらない。
次は、橋たち審査員陣の講評。「コントなのに、漫才より動きがないぞ」「ぼけと突っ込みの役割分担がぼんやりしすぎている」。手厳しい言葉が飛ぶ。言葉で伝えきれないと見ると、橋はすぐに体で演じてみせる。熟練した動きと迫力に、若者たちが息をのむ。
「まだまだだなあ」。ため息交じりの厳しい言葉とは裏腹に、橋の目はなぜか優しい。
「おまえら全員、浅草から飛び立て。月1回の舞台は、俺が用意してやる」。橋の目がそう言っている。(敬称略)=つづく
掲載年月日 2000年03月01日
■浅草寺・千年の物語:第5部
■笑いの国/8止
■採算抜きに守る夢 /東京
■大きな金庫をいつか万札でいっぱいに
橋達也(61)は昨年11月、浅草21世紀の事務所に大きな金庫を買った。
「金もないのに、金庫かよ」。誰(だれ)もが笑った。
事実、金がない。何度も劇団存続の危機があった。そのたび人件費などを削り、乗り切った。公演のたびにスナックの売り上げを持ち出す橋の様子に、「それじゃダメだ。自分のギャラも取れ。長続きしないぞ」と厳しい忠告もあった。
橋が金庫を買ったのは、ちょうどそのころだ。周囲の嘲笑にも動じず、1000円札を何枚かを金庫に納めた後、橋はこう言い放った。「1000円札だって入ってりゃ金庫だ。いつかこれを万札でいっぱいにしてやるのよ」
それから3カ月。金庫はまだ札束と縁がない。その代わり、金庫の中には浅草喜劇人の夢がいっぱい詰まっている。
■ □ ■
「もう200人です!」。日曜日の千秋楽。若い芸人が楽屋に飛び込んできた。橋の眼に光が差した。「旗揚げ公演以来、2年ぶりの客の入りだな」。がぜん芸人たちが活気づく。
110人分の備え付けのいすはすでに満席。通路や後部にも「補助いす」と呼ばれるパイプいすが並ぶ。さらに立ち見が客席の隅々を埋め尽くす。
「昔を思い出すなあ」
六区全盛期を知る関敬六(72)は思わずうなった。劇場が混雑し、動けなくなった客を、別の客らが頭上に抱え、リレーして出口に運んだ、という伝説も残る。
舞台のそででは、出番前の若手たちが、予期せぬ大入りにすっかり浮かれている。「今日が最後だ。よし! ぱーっと盛り上げようぜ」。威勢よく、コント3人組が舞台に飛び出す。大きな拍手が若者を迎える。
同じころ、橋は眉間(みけん)にしわを寄せ、出演者のギャラの計算だ。「俺も球児好児もほかの舞台じゃ高給取りだけど、こっちじゃ1、2万くらい。橋なんか、いまだに持ち出しじゃないか」と関がこっそり教えてくれた。
■ □ ■
橋、関らのコントが始まった。関が現れるだけで、老齢の客が身をよじって笑い転げる。うれしいのだ。「お互い生きて、笑ってるなあ」。客の心の声が聞こえてきそうだ。
橋たちのコントは、人が年輪を重ねることを温かく笑い飛ばす。お下げのカツラに赤い靴下姿の丘ゆり子は「娘役をやりたい!」とごねて、橋に「何言ってんだ! 正月に孫ができたくせに……」と突っ込まれる。「いやーん」という時の丘の仕草は、それでも少女のものである。関がふらつくと、橋がすかさず「ちゃんとビタミン剤飲んでるか?」と冷やかす。
芸人にも、客にも、齢を加えた者の優しさ、連帯感がある。同時代を生きてきた橋や関の健在ぶりが、客には何よりの「笑い」だ。
汗びっしょりで楽屋に戻った橋に、「今回の公演は、黒字になりそう?」と尋ねたら、「その質問だけは勘弁してよ」と茶化された。
それから真顔に戻ってこう言った。「歯ぎしりしながらでもさ、採算なんか関係なしに、大事に守って行くべきものが、誰にだってあるだろう?」
■ □ ■
浅草は時代遅れの町である。世渡り下手で、まっすぐで、それゆえ時代の先端からこぼれ落ちてしまった。昔気質(かたぎ)の芸人たちは、そんな浅草の象徴だ。
六区に昔の面影はない。105年の歴史を持つ常磐座は今、青い人工芝の多目的コートになっている。それでも浅草寺境内の浅草喜劇人の碑から六区の通りを歩けば、歴代の浅草喜劇人の魂がゆらゆらと徘かいしている気がするのだ。(敬称略)
おわり。
掲載年月日 2000年01月18日
■まち図鑑2000:東京の商店街
■港・麻布十番/上
■不思議な「色」のある街
麻布の台地には、今も闇(やみ)が潜んでいる。
細い尾根をたどる坂道を上り、緑に覆われた屋敷のわきを抜け、そしてまた深い谷へと下っていく。
「東京の町は尾根と谷でできている」と言ったのはだれだったか――。尾根と谷を縦横にめぐる麻布の道は、その地形をとりわけ強く感じさせる。
崖(がけ)の下と上。光と影。のっぺりと明るい総中流意識が支配する日本の街並みの中で、麻布かいわいの濃い陰影は歩く者を魅了する。
広尾の駅から有栖川(ありすがわ)公園を抜け、麻布十番へと向かう。公園の高台から北東を望むと、高級マンションや凝った装飾の豪邸、在日本大使館にインターナショナルスクール。ある時代、日本人の多くがあこがれた町並みだ。しかし、どの家も門は閉ざされ、人の気配はあまり感じられない。
いつしか道は、尾根の斜面を巻いて深く下りていく。切れ込んだ崖下は、別の世界だ。トタン屋根の集落がある。門口の狭い家々がすき間無く並び、縁台の上には洗濯物が翻っている。ガラス戸の向こうに、茶の間のテレビの画面が写っている。ようやく人の気配が戻り、心が和む。
再び坂を上り、冬の明るい日差しの峠に出た。そこから麻布十番商店街に下りていく道を、「暗闇坂」という。かつて緑の大木が生い茂り、昼もなお暗く、歩く人を恐れさせた。
坂を下り、昔の闇を思う。黄泉(よみ)の国へと下るような不吉な名前の坂道の先にはしかし、奇妙に明るい谷底がぽっかりと開けていた。
麻布十番商店街だ。
よく「山の手の下町」などと称される。高台の超高級住宅街に囲まれた、谷間の商店街という意味らしい。しかしこの町には、他の下町の商店街には見られない不思議な「色」がある。
オープンテラスのカフェの向かいに、焼き鳥屋やおでん屋が並ぶ街角。八百屋の店先では、とんがったファッションの若者とかっぽう着のおばさん、外交官夫人風の白人女性が並んで買い物をしている。
この商店街では、尾根の人と谷の人が心地よく溶け合っている。
鳥居坂側に少し上がったところにあるグリル満天星。オムレツライスやハンバーグ、ポークカツがメニューに並ぶ、いわゆる洋食屋だ。店はドレスアップされても、味の方は正当派の洋食屋のもの。たとえばデミグラスソースの驚くべき香ばしさ。名物オムレツライスのチキンライスの出来具合。よそゆきにも、普段着にも似合う店だ。
この街には、甘いなれ合いは似合わない。下町に見えて気さくさを拒否し、しかし高慢さを避けている。そんな「色」の奥底には、麻布台地の陰影が色濃く映し出されているように思える。
◇ ◇ ◇
麻布十番が谷底にあることは、鳥居坂を上るとよく分かる。坂の中腹から見下ろすと、商店街はすっかり高台に建つビルの陰に沈んでしまう。
鳥居坂の中腹にある国際文化会館に立ち寄ってみよう。広い日本庭園を見下ろせるコーヒーショップがあり、1杯450円で「隠れ家」のような空間に出合える。庭に生い茂る木々の向こうに、建造物は一切見えない。高台という立地のおかげだろう。
再び谷底へと下りる。
商店街の外れに、不思議な店を見つけた。カレイドスコープムカシカン。万華鏡の専門店だ。狭い店内に、珍しい万華鏡が並ぶ。ガラスの球体を埋め込んだ木製の小さな万華鏡が2600円。押し花を使ったものが5800円。
万華鏡を手に取り、ライトにかざしてみた。きらびやかな光と、くっきりとした輪郭を持つ影。次々と表情を変える光と影のコントラストはまるで、麻布そのもののように美しく輝いていた。
掲載年月日 2000年02月08日
■まち図鑑2000:東京の商店街
■麻布十番商店街/下
■風格ひしめく老舗
麻布十番商店街には、不思議な風格がある。その理由の一つには、驚くべき街の古さがある。
変化の激しい都心に位置し、繁華街に周りを囲まれながら、まるで奇跡のように老舗(しにせ)が残っている。六本木のすぐそばに、創業100年を超える商店がひしめいているなどとは、誰(だれ)が想像できるだろう。
江戸時代に創業した店がいくつもある。明治、大正の創業となると、もう数えられない。
創業年数をうたった大げさな額縁が、なぜか麻布十番にはあまり見当たらない。控えめなのである。さりげない品の良さに、江戸時代から淡々と家業を守ってきた店の風格が透けて見える。
品ぞろえの豊富な酒井陶器店は、1825(文政8)年の創業。5代目の店主は「ここらはどこも古いよ。100年以上の店が40〜50軒はあるんじゃないの?」と、こともなげに言う。「古いだけじゃ、自慢にならないよ」という口ぶりは、業歴175年の店のおやじの貫録かもしれない。
その向かいには、金物屋の中村屋と小林玩具店。それぞれ、1850(嘉永3)年、1867(慶応3)年の創業。何の変哲もないクスリ屋に見える永井薬局が、これまた業歴151年という。
長い歴史のほの香る店構えは豆源。1865(慶応元)年の創業だ。店頭で揚げるおかきの香ばしいにおい。ほんのり塩味の効いた赤エンドウ豆は一袋300円。幼い日に食べたおやつの記憶が、色鮮やかによみがえる。
街には、街の記憶があるのかもしれない。古い老舗のたたずまいは、大正や明治、江戸の街の遠い記憶に続く、道しるべのように思えた。
今年の秋から冬にかけ、長く「陸の孤島」といわれた麻布かいわいに、南北線と12号線の2本の地下鉄が開通するという。創業100年の老舗の街は、どのような姿で21世紀を生き抜くのだろう。どのよう
な記憶が、この街に新たに堆積(たいせき)するのだろう。
◇ ◇
寒さに凍えた手足を温めたくて、麻布十番温泉の1階にある銭湯、越の湯ののれんをくぐった。老舗の銭湯が戦後の水不足に困り果て、地下を掘ったらなんと温泉がわき出した、という。まるでおとぎ話だ。
昔懐かしい番台に、385円分の小銭を置く。湯の香が鼻をくすぐる。午後3時過ぎの銭湯は、近所のお年寄りですでに込み合っている。
湯船には、黒々とした湯が波打っていた。褐色の重曹泉は都心の温泉に共通する特徴で、「黒湯」という。
湯はかなり熱い。思わずうめくと、隣にいた女性が慌てて水を足してくれた。「いつも水でうめると怒る人がいるんだけど、今日はいないから大丈夫」と笑う。別のおばあさんが「こっちが一番ぬるいよ」と、私の手を引いてくれた。
下町の銭湯より、開放的な印象を受けた。常連が預けた洗いおけやシャンプーが飲み屋のボトルキープのごとく並ぶ下町の銭湯は、いちげんの客には少々居心地が悪い。が、ここはもう少し、カラリとしている。
場所柄、外国人や芸能人がふらりと湯をあたりにくるという。見知らぬ顔にも分け隔てないのには、そういう事情があるのかもしれない。
見上げれば、もうもうと立ち上る湯気の向こうに、タイル絵がぼんやり見えた。絵柄は、洋館と湖とヨット。取り合わせが妙にハイカラだ。おなじみの富士山もいいが、洋館も悪くない。いかにも麻布十番らしい。
◇ ◇ ◇
帰り道、再び暗闇坂を上った。夕暮れを迎えた坂に、闇(やみ)が吹きだまる。
麻布は、江戸川乱歩の「少年探偵団」シリーズの舞台でもあった。
高く長い塀の続く屋敷町と暗い坂。昭和10年代の麻布台地は、少年たちの目には、どうしようもなく寂しい、怖い場所と映ったに違いない。
ほんの一瞬、車の往来が途絶えた。ツタの絡まる長い塀に、マント姿の怪人二十面相の長い影が見えた気がした。
これもすっごく反響の大きい記事でしたっけ。
掲載年月日 2000年01月11日
■なんだか変!:東京ウオッチング
■写真入り年賀状
■親が子供で自己表現?
■せめて家族全員にして/目くじら立てるのも…
正月といえば年賀状。ここ数年、論議を呼んでいるのが、子供だけの写真で作った年賀状の是非だ。「差出人本人でなく、子供だけの写真なんて変よね?」「親ばかなのよ」「えーっ、目くじら立てる方が変。いろいろな年賀状があっていいじゃない」。さて、あなたはどっちが変だと思います?
愛らしい3歳の女の子の写真。その下には「パパもママも、みなさんに今年もよろしくって言ってまちゅ〜」という文字。差出人の欄には両親と娘の3人分の名前。自筆のコメントはない。「この年賀状見て、ついつい『僕は君の子供の友達じゃないぞ』と言いたくなった。せめて家族写真にしてほしい」と新宿区に住む独身の男性会社員(38)。「あれって親ばかだよな」と言い合ったはずの友人が父親になった途端、子供の写真を送ってきたりする、という。
一方、幼い子供を持つ母親の中では、「子供だけの写真」が多数派だ。
「家族全員の写真は撮るのが大変だし、自分の写った写真は気恥ずかしい。だから子供だけの写真にしている。一番カワイイと思うけど」というのは台東区に住む3歳児の母親(28)。「職場用と家庭用の2種類作り、職場用からは子供の写真を外す。でも子供の写真を見たがる人もいるから、目くじらを立てすぎるのも問題」と新宿区に住む女性会社員(38)もいう。
「子供だけの写真の年賀状」をめぐって論議が起こったのは、子供が欲しくてもできない女性から「そういう年賀状は苦痛」という声が出始めたころからだ。
1998年1月、毎日新聞の生活家庭面にこんな投書が載った。子供のいない女性(47)からで「子供の写真で年賀状を作った親せきに『子供が欲しくてもできない人には酷だと新聞で読んだけど……』と言うと、『私は今の幸せを年賀状で伝えたいだけ』と言い返された」というものだ。子供のいない別の女性(40歳)から「なぜ子供だけでなく、家族一同で撮ったものを送ってくれないのだろう。一家の元気で幸せな様子が伝わるものであれば、年賀状の楽しみも増えるのに」という投書も続いた。
ある写真業界誌によると、年賀状の写真に家族や子供のものを使う人は全体の約8割。5年前に比べても、増加傾向にある。2位の「趣味の作品」や3位の「自分」が1割程度なのに比べると圧倒的に多い。
写真入り年賀状の印刷サービスを行っているフジフイルム(本社・港区西麻布)によると、「写真の年賀状が急増したのは約10年前。全体で言えば、家族全員の写真が圧倒的に多いが、幼い子供のいる家庭に限って言えば『子供だけ』も少なくないようだ」という。
親子関係に詳しい精神科医、竹村道夫・赤城高原ホスピタル院長は「母親にとって年賀状を出す相手のほとんどが子供を介した知人。子供の写真を使うのは自然な発想だ。しかし、家族ぐるみの付き合いのない相手にまで一律に子供の写真で済ませる現象から、子供を自分の延長と考え、子供で自己表現しようとする母親の心理がうかがえる」と分析する。
このような指摘の影響からか、最近では写真を「子供だけ」から家族全員に切り替えたり、工夫を凝らす人も増えているようだ。
文京区に住む女性公務員(33)は、1歳の娘の写真シールを作り、親しい友人への年賀状にだけ張ることにした。「子供のいない人に不快な思いをさせたくないし、職場に子供の写真を送るのも変だから」
私は、といえば、やはり写真は避け、家族と干支(えと)のイラストを描く。「写真が不愉快な人にはイラストも同じかな」と思うが、気を使いすぎて形式的な年賀状を出すのもつまらない。微妙なニュアンスにいつも悩む。
たかが年賀状、されど年賀状。あなたは来年、どんな年賀状にしますか?