おぐにあやこの行った見た書いた

記事183◆ニート対策最前線 ヤングジョブスポットを訪ねる

■掲載年月日 2005年02月01日
■ニート対策最前線 ヤングジョブスポットを訪ねる
■年間7万人が利用


 「ニート」という言葉に何を連想するだろう。学校にも行かず、仕事もせず、職業訓練中でもない若者たち。「甘えている」という大人も多いが、本当だろうか。ニート対策最前線として注目されている「ヤングジョブスポット」で考えた。

■適性がわからない

 空気が硬く張りつめていた。
 ここは東京・北千住の「ヤングジョブスポット」。独立行政法人「雇用・能力開発機構」が若者向けの就職相談や情報提供を行うため、全国16カ所に設けたうちの一つだ。この日は、地元のケーブルテレビのディレクター、由理さん(36)を招き、トークセッションを行っていた。
 「なぜ参加したのですか?」。由理さんに促され、ようやく11人の参加者が順々に語り始めた。「人と話すのが苦手で、もう少し話せるようになりたくて」「いろいろな人の話が聞きたかった」「カウンセラーに多くの人に会うよう言われたから」。表情はまだ硬い。
 「仕事選びに一番大事なのは何かな?」と再び由理さん。「好きなことを探すこと。でもそれが分からない」「好きな方面に就職口はないし」「自分の適性も分からない」。発言を重ねるうちに、若者たちの肩の力が抜けていく。

 由理さんはカラリと笑って言った。「適性検査より好きなことを大事にしていいんだよ。それが分からなければ、とりあえずやってみて決めたっていいんだよ」

 ■離転職者が6割超

 「ニート」と聞くと、多くの大人たちが「就職意欲もなく、親に寄生している若者たち」をイメージするのではないか。しかし、トークセッションに参加していた11人の若者はだいぶ違った。

 「今は学校事務をしています。でも充実感がない。転職を目指して夜間に大学で社会学を勉強中。何をやりたいかはまだ決まってません」(26歳女性)、「営業職を2年半やって、やりたいことと違うと思い、辞めた。去年はマスコミ各社を受験したがうまくいかなかった」(27歳男性)、「以前は雑誌編集をしていたが、結婚と同時に退職した。今はもう少し融通の利く仕事を探してます」(26歳女性)、「何をしたいのか自分でも分からない。今は短期アルバイト中。とにかく早く自立して、親の仕送りを切らないと申し訳ない」(23歳男性)
 無職の人、仕事中の人、それぞれ事情は違うが、誰もが仕事をしたい、あるいはしなければ、と真剣に考えていたのだった。

 全国16カ所の「ヤングジョブスポット」を年間7万人近い若者が利用する。北千住には03年10月に開かれた。利用者は1日平均15〜16人で、男性が66%、女性が34%。就職経験を持たず、アルバイトもしていない人は全体のわずか3・1%に過ぎない。一方、実に67・1%が一度は就職したことのある離転職者だ。さらにフリーターが23・3%、今から熱心に通う学生も6・5%いる。

 「人間関係が苦手」「やりたいことが見つからない」と言う人が目立つ。北千住のヤングジョブスポットで相談を担当する同機構職員、狩野さん(36)によると、「上司とのやりとりで傷つくなど職場の人間関係につまずいて退職し、一度つまずいたゆえに次の一歩を踏み出せずに悩んでいる人が多い」という。

 ヤングジョブスポットはハローワークのように職業あっせんはしない。むしろ仕事探しの前に自分を見つめ、やりたいことを探す場所だ。
 壁には所狭しと利用者のメッセージが張られている。「悩み過ぎず、やりたいことをやるべきだと気付いた」「初対面だとうまく話せないが、ここでは話せた」「行動力が大事と知った」「もっと多くの人に出会いたい」「お互いに不安があることを話せて、安心できました」
 仕事以前の悩みがたくさんつづられていた。しかも、この場に来られる若者はむしろ元気な方だ。この場にも来られない、何倍もの「悩める若者」が今、街には大勢いるのだろう。

 部屋にはパソコンが6台。職業適性診断や500近い種類の仕事情報の検索ができる。個人面談にも乗ってくれる。履歴書の書き方も教えてくれる。

 しかし、ここでの一番人気はトークセッションだ。ゲストから仕事について生の話を聞ける。楽しいこともあればドロドロした嫌なことだってある。特に、仕事を辞めたくなった時にどうするかを、若者たちは聞きたがる。由理さんが「お酒を飲んだり絵本を読んで気分転換します」と語るのを、若者たちは律義にノートに書き留める。なんとまじめな子たちなんだろう。

 この日、セッションが終わっても、若者たちはなかなか帰ろうとしなかった。さっきまで「話すのが苦手」と言っていた彼らが、いつのまにか話し込んでいる。「悩む前に行動してみたい」「私はいつも受け身だったのかも」「人と会って話すことが大事と知った」。そんな感想を口々に語った。

 若者に交じって、ここの職員の狩野さんが熱っぽく語っているのを見つけた。「僕は漫画家になりたかった。でもどうしたらなれるかも分からず、結局、家族に勧められ、今の職場に就職した。だから、その時は何の積極性もなかった。ところが職場で先輩職員が必死で若者に就職先を探す姿を見たり、若者が就職の報告に来るのを見て、なんてすばらしい仕事だと心から思ったんだ」

 へえええ、と周囲の若者が目を丸くする。本当にやりたいことを見つけてから就職するもの、と思い込みがちな今の若者には、新鮮な話だったようだ。

 若者の就職支援がしたくて昨年、仕事のかたわらキャリアコンサルタントの資格も取ったという狩野さん。「世間の人は彼らを『ニート』とひとくくりにするけど、僕はここに来る人を『ニート』とひとくくりには呼びたくない」と強い口調で言った彼の気持ちが、私にも少し分かる気がした。

 「若者は甘えているだけ」と言う前に、大人にできることはまだあるのかもしれない。私たちは仕事の喜びを若者に自分の言葉で語ってきただろうか。

記事157◆夢で会えたら 岡本太郎さん、の記事

■2004年08月10日
■’04夏・夢で会えたら(夏連載企画)
■洋画家・岡本太郎さん
■96年1月7日・享年84

◇今こそ、Be TARO!
◇「自分自身を生きてるかい?」問いかける鋭い目


 多摩丘陵の緑の中に岡本太郎(おかもとたろう)美術館(川崎市)はあった。遠雷とヒグラシの鳴き声を聞きながらメタセコイヤの林を行く。台風のせいか、朝の美術館はしんとしている。赤、黄、黒。太郎が好んだ原色の絵画。カラフルな立体作品。そんな中になぜか太郎のロウ人形が立っていた。目が合った。鋭い目。「自分自身を生きているかい?」と問われたようでドキリとした。

 ■孤独と誤解と

 太郎は漫画家、岡本一平(いっぺい)と歌人、かの子の長男として生まれた。小学校では教師に反抗し、1年に4度も転校。寄宿舎ではいじめを受け、毎日自殺を考えた。18歳でパリに留学すれば現地の日本人画家たちに「生意気だ」と殴られ、30歳で帰国後入隊した軍隊でも「日本は負ける」と言っては殴られた。
 戦後は異端の前衛画家として古き美術界に挑み続けた。原色の絵は色音痴と評され、「インチキ野郎」と揶揄(やゆ)されたこともある。あの大阪万国博覧会の「太陽の塔」ですら、美術界では総スカンだったのだ。

 太郎語録にこんな一文がある。「誤解される人は美しい」。この言葉通り、自分自身を生きるためなら誤解も孤独も恐れなかった。むしろ晴れ晴れと、誤解や孤独を自ら求めた。
 出る杭(くい)を打つこの国で、私たちはつい小さくまとまってしまう。目立つといじめられる学校で、子供たちは周囲と同じであろうと躍起だ。他人をまねするあまり、自分自身すら見失っている。そんな時代だからこそ知りたい。太郎はなぜ一人で闘えたのか。

 ■血だらけでも笑う

 岡本太郎記念館(東京・表参道(おもてさんどう))を訪ねた。アトリエも保存されていて、太郎の息遣いが聞こえそうだ。来館者ノートには「迷いがふっきれた」「負けないっす」「充電完了」などの言葉が並ぶ。98年の開館以来、来館者は年々増え、近く15万人を超える。

 太郎の秘書で養女でもある敏子(としこ)さん(78)が教えてくれた。「太郎は18歳からパリでたった一人で『自分』を作り上げた。自分とは何か、社会にどう自分を位置付けるのか、徹底的に悩み、議論し、自己を鍛えた。パリ陥落目前に帰国したとき、すでに『社会にノンと言い、孤独に闘い続ける岡本太郎であり続けよう』という覚悟を決めていたんです」
 敏子さんは「太郎は強いから闘えたのではない」と言う。「太郎は『キリストっていいやつだ。でも十字架にかけられて悲しそうな顔したのだけはダメだ。血だらけでもニッコリ笑わなきゃ。おれは笑ってるだろ』と言った。本当はすごく痛がりでナイーブで寂しがりやなのに。あの人がはた目に強く見えたのは、太郎自身がそんなふうに自分を追い込んでいたから」

 また一つ太郎語録を思い出した。「こんなに弱い、なら弱いまま、ありのままで進めば逆に勇気が出てくるじゃないか。もっと平気で、自分自身と対決するんだよ」

 ■はみ出せ!

 敏子さんのもとには迷える若者が相談に来る。「人目を気にして生きてきた。でも自分らしく生きたい。どうすればいいの」。敏子さんが「今やりたいことをおやんなさい」と助言しても、「やりたいことが分からないんです」。敏子さんは「今こそ太郎が必要な時代」と痛感せずにいられない。

 太郎が亡くなった96年当時、ほとんどの著書が絶版だった。晩年の太郎は決して世の中に正当に評価されていなかった。ところが最近、太郎本の出版ラッシュが続く。太郎語録を昨年まとめた「強く生きる言葉」(イースト・プレス)はすでに5万部。主な読者は「太陽の塔」さえ知らぬ20代だ。太郎が持論を語った「自分の中に毒を持て」(青春出版社)も今年急に売れ出した。ミュージシャン、田島貴男(たじまたかお)さんら若者に人気のアーティストたちがこぞって座右の銘に挙げたためらしい。

 コピーライターの糸井重里(いといしげさと)さんはこの夏、画家のMAYA MAXX(マヤ・マックス)さん、デザイナーの秋山具義(あきやまともよし)さんらと太郎にささげるTシャツを製作中。また夏の音楽フェスティバルの環境プロジェクトでは太郎の顔を描いたゴミ袋が配布されている。プロジェクトのコピーは糸井さんの作品で「Be TARO!」。つまり「君も太郎になれ!」というわけだ。

 画家のジミー大西(おおにし)さんも太郎を慕う一人だ。93年、面識のなかった太郎から一通の手紙をもらった。「君の絵はいい。キャンバスからはみ出しなさい」。当時、芸能活動の合間に絵を描いていたジミーさんが芸能界を引退し、本格的に絵の道に入ったきっかけは、この太郎の短いメッセージだった。
 「最初は大胆な絵を描けという意味かな、と思った。でも最近は、生き方全体ではみ出せ、と言われたんだなあと思ってます。『キャンバスからはみ出す』は僕の永遠の宿題です」

 ■太陽の塔

 91年の都庁移転で旧庁舎の太郎の壁画は取り壊された。太郎の唯一の建築物だったマミ会館(大田区)も00年、建て替えのため壊された。作品が次々消えていく中、しかし「太陽の塔」は今も健在だ。
 高度成長期の真っただなか、「人類の進歩と調和」をテーマに掲げ、科学だモダニズムだテクノロジーだと沸いていた万博で、いきなり屋根を突き破る70メートルの塔を建てた岡本太郎。「バカみたいにドカンと突っ立ち、孤独なまま大地に、太陽に挑み続けるんだ」。太郎は言ったという。すべてのパビリオンが取り壊され、今や草っぱらに一人立つ塔は、まるで太郎自身の生き方のようだ。

 孤独を背負いながら両手を広げ、何かに挑み続けるあの塔を、また見に行きたくなった。

記事156◆マラソン選手、弘山晴美さんロングインタビュー

■この人、この時
■アテネ五輪陸上女子一万M代表
■弘山晴美さん
■最後の五輪1〜4回連載


■2004年8月9日掲載
■1回 35歳の挑戦

 <アテネ五輪の選考会だった1月の大阪国際女子マラソン。結果は5位だった>

 あの瞬間、マラソンでのオリンピック挑戦がこれで本当に終わってしまったと、寂しいようなほっとしたような気持ちでした。同じ日の記者会見で「今度は一万メートルで五輪を目指します」なんて言ったけど、実は私、そんなに気持ちの切り替えが早くないんです。悔しさは2、3日たってからあふれ出してしまう。
 悔しくて悔しくて。なぜ走れなかったのだろう、あんなに練習したのに、と自問し続けました。それでも去年秋の走り込みがうまくできてなかったと原因に思い至り、やっと納得できたんです。
 ところが納得はできても、練習に気持ちが乗らなかった。35歳という年齢を考えてしまい、自信が持てなかったのかも。早く練習しなきゃ、と焦り、いらだちました。
 そんな4月、水泳の日本選手権をテレビで見ました。厳しい派遣標準記録に食らいついていく選手の姿を見て気付いた。陸上の日本選手権まで残り2カ月もない。中途半端な気持ちでは絶対に五輪には行けないって。
 あのとき、私を突き動かしたのは「五輪に行きたい」という思いだけではなかった。「来年の日本選手権はもう走っていないかもしれない」「最後の五輪への挑戦なんだ」という思いでした。

 <吹っ切れた後は早かった。6月の日本選手権一万メートルでは強烈
なスパートで五輪参加標準A記録を突破し、3位に。3大会連続の五輪出場を勝ち取った>

 うれしかったですね。五輪に行けること自体もうれしかったけど、五輪に向けて集中してトレーニングする時間をまた得られたことや、35歳でも五輪に行けるということが本当にうれしかった。
 今振り返ると、4年前の「あの日」がなければ私、シドニー五輪後、引退していたかも。今まで走ってこられたのはあの日のお陰と思うんです。

 <「あの日」、つまり2000年1月30日。大阪国際女子マラソンでの惜敗が彼女の運命を左右した>(つづく)

■2004年08月10日掲載
■2回 マラソン

 <4年前、シドニー五輪の選考会だった大阪国際女子マラソンで弘山(ひろやま)さんは2時間22分56秒(当時日本歴代3位)をマークしながらも、最後にリディア・シモン選手(ルーマニア)に抜かれた。わずか2秒差で五輪切符を逃した彼女を世間は「悲劇のヒロイン」と呼んだ>

 当時、三千メートル、五千メートル、一万メートルの日本記録を持っていました。それでもマラソンで五輪に出たかった。マラソンなら世界で勝負できると思ったからです。99年の世界選手権一万メートルでは4位に入賞したけど、3位と1分近い差を付けられた。私はスピードより距離を争うレースが向いている、と長い間感じてきたんです。
 シドニー五輪のマラソン代表に漏れた後、失意のあまり走れない時期もありました。無理やり気持ちと体を立て直し、一万メートルで五輪に出場しましたが、結局この4年間もマラソンでの五輪を目指して走ってきました。
 「マラソンって何なのだろう」と時々考えます。「疲れた。休みたい」と何度も思いました。でも私はやっぱりマラソンで、世界で勝ちたかった。シドニー五輪の一万メートル決勝でスピードについていけず20位に終わったときも、悔しい一方で「これで迷いなくマラソンにいける」と思ったんです。

 <当時、シドニー五輪をかけて戦ったランナーの多くがすでに引退した。シドニー五輪代表の山口衛里(やまぐちえり)、市橋有里(いちはしあり)両選手は故障続きでアテネの代表選考会を走れず、高橋尚子(たかはしなおこ)選手も落選した>

 引退した人の多くは私より若いし、もったいないなと思いました。高橋さんは今後も他のレースで頑張って走れる人だと思う。今回の選考は現場サイドから見れば分かりやすかったと思います。
 この4年間、帯状疱疹(ほうしん)に苦しんだり、やめようと心が揺れたり、いろいろありました。でも自分のことを不運だとか悲劇のヒロインだとか思ったことはありません。むしろトラックとマラソンの両方を走れて幸せ。本当に心からそう思う。(つづく)

■2004年08月11日掲載
■3回 二人三脚

 <マラソンでの五輪出場をかけた最後の挑戦が1月の大阪国際女子マラソンだった。5位でゴールしたとき、コーチでもある夫勉(つとむ)さん(37)が腕を広げて待っていた>

 過去2回、大阪国際を走ったけど、夫がゴールで待っていてくれたのは今回が初めてでした。レース前から「五輪をかけた最後のマラソン挑戦だから、今度だけは間に合うように急いでゴールに行くよ」って夫に言われていました。夫の顔を見たときは、やはり安心しましたね。
 夫婦で10年以上走ってきたから、よく「二人三脚」とマスコミに書かれます。でも簡単に言われちゃうと、ちょっと違うかなって思う。
 コーチだけど夫。練習のパートナーだけど人生のパートナーでもある。走るときは選手とコーチ。でもそれ以外の暮らしでは互いに頼りにし合ってるし……。うーん、うまく言えないです。
 レースに負けて弱音を吐いてもすべて聞いてくれる。受け止めたり聞き流したりしてくれる。だから私も言いたいことを言える。私がどんな思いで走っているか、夫はたぶん全部知ってる。

 <勉さんも元選手である。90年福岡国際マラソンでは日本人トップの2位になった。妻のコーチを引き受けて10年余。なぜこうも受容的でいられるのか。勉さんはこんなふうにいう>

 あまり愚痴ばかりこぼされると「いいかげんにしてくれ」と思いそうにもなりますよ。でも僕も選手だったからこそ分かる。僕が彼女の立場ならもっとつらく当たったろうって思う。気持ちが分かるから何も言いません。言えないんです。
 僕は今でも晴美(はるみ)をライバルだと思ってます。実は2年前、米国で3キロレースに一緒に出場しました。あのときは僕が勝ったが、今なら危ないな。1キロなら楽勝。でも5キロならまず勝てない。
 指導者としては、彼女に負けないと思う。それとも晴美はセンスがあるから意外とできるかも。いや、短気だからやっぱり無理かな。(つづく)

■2004年08月13日
■4回 三度目の正直

 <五輪には「借り」がある。五千メートル代表だったアトランタでは体調を崩し予選落ち。シドニーでは一万メートル決勝で20位と最下位に終わった>

 過去2度の五輪では完全燃焼できませんでした。でも、だからって「今回こそ!」と力んだりはしていません。これが2度の五輪で学んだこと。
 五輪の前に特別なことをやってもダメ。肩の力を抜いて、全力を出し切れるようにきちんと調整して臨む。それだけ。前回のシドニーではトップに1周抜かれた。今回はそれだけは意地でも避けたい。五輪での自己ベスト更新を目標にしています。
 最後の五輪という意識は強くあります。でも私の場合、毎回そう言ってる。アトランタのときもシドニーのときも「五輪が終わったら少し休憩して子作りを」とか言ってましたし……。結局、アトランタではあまりに結果が悔しくてそのまま4年間走ってしまった。シドニーの後はマラソンに再挑戦するため、「疲れた、休みたい」という気持ちと闘ってここまで来た。休憩する話はいつもどこかに消えてしまう。走り終わるたび、こうすればもっと走れるんじゃないか、という思いがわき上がって、結局今まで走り続けてきたんです。

 <しかし今回は「子供」や「休憩」を口にしない>

 子供以前にまず競技自体を引退するかどうかの選択があるから。五輪で走った後、決めようと思っています。だから今は「子供のために競技をやめる」とは言いたくない。自分自身がどこで納得し、区切りをつけるか。レース結果の良しあしよりも、走り終わったときに自分が納得できるかどうかだと思います。
 とか言っていても、来年の今ごろ、なぜかまたマラソンを走っているかもしれませんよね、私。
 ともかく、走り終えたとき「これまで走ってきてよかった」と思えるレースを目指します。

 <競技人生をかけた一万メートルは日本時間28日未明に行われる>(おわり)

記事13◆いわゆる「東電OL事件」報道

いわゆる「東電OL事件」は最初、私の担当でも何でもない事件でした。ところが、「女性記者の署名で人権派の記事を書かせたい」という会社上層部の意向と、実際に現地を歩いて取材してみて「書かなきゃいけない」と思った私の気持ちが一致、こんな記事になりました。

被害者が売春していたという事実は、事件発生の夜の記者会見ですでに警察がほのめかしており、それを受けて、メディアは「被害者のプライバシーは書けない」という立場から書かなかったし、ほとんど取材もしませんでした。一方、雑誌や夕刊紙やワイドショーは徹底的にこの事件を取り上げ、世を最も騒がせている事件が、新聞やテレビのニュースではまったく知ることができない、という状況になっていきました。

事件発生から何ヶ月も経って、現場を歩いて驚いたのは、声をかける相手の誰もが「あの人に聞けばこんな話を聞ける」「彼女が出入りしていたラブホテルはあそこ」と何でも知っていて、わずか30分もあれば雑誌に出ているような話がいっぱい集まったことにありました。
こうして集めたたくさんの「彼女の話」を警視庁当局に確認したら、「その半分くらいは彼女本人ではなく、別の女性たちの話のようだ」と回答をもらいました。それほどに情報が混乱していたのです。

大きな事件が起こるとよくあることですが、A社の記者が「あそこの少年が公園で猫を殺していた、という話を聞いたことがありませんか?」と近所の人に尋ねた後、今度はB社の記者がその近所の人に話を聞きに行くと、近所の人のほうが「あの少年って公園で猫を殺してたらしいよ」などと話してしまうものなのです。
こうして、事実でない話を複数の人が証言するような事態は、結構簡単に作られていきます。

この女性会社員が殺された事件でも同じ状況にあったと感じました。
でもそれは、実際に現場を取材したから分かったこと。あの時、新聞やテレビが「被害者が売春していたのではとても書けない」と一切取材をやめてしまったことが、余計に、報道の方向性をむちゃくちゃにしてしまったのではないか、という気がしてなりません。
「書く書かない」は取材してから判断すること。
基本的に記者は「取材する」のが基本姿勢だと痛感しました。

実はこの記事には後日談があります。
この記事を読んだ人権保護団体から講演に呼ばれてしまったのです。上記のような経緯を説明し、「だから報道記者が取材をしなかったのが一番の問題」と言った私に、人権派の方々は「取材自体が人権侵害だ!」と言い続けました。
最後まで分かり合えませんでした。

それから何年か後、桶川のストーカー殺人事件が起こり、事実を取材で明らかにしていったフォーカスのカメラマンさんの本を読んだ時は、深くうなり、うつむくしかありませんでした。

1997年 04月 05日掲載
■ねじ曲げられた被害者の“素顔”
−−東電女性社員殺人事件報道

 「バリバリのキャリアウーマン」「社内に友人が一人もいない」。被害者の女性(39)に関する週刊誌報道を読んで「まるでギスギスした仕事人間みたい」と思った。しかし東京電力で一緒に働いた人たちの話を集めた時、浮かんできた彼女の“横顔”は少し違うものだった。

 「『バリバリのキャリアウーマン』という記述は偏見」。彼女と同期入社の男性社員は切り出した。「昇進は早くも遅くもない。コツコツ仕事をするおとなしい人だった」という。
 「ちょっと冷たい感じ」「社内では口をきかなかった」との記事も目立った。しかし、同じ職場のある上司は「バレンタインデーにチョコレートを配るなど不器用なりに職場の付き合いにも一生懸命に工夫していた」と振り返った。別の上司も「仕事が評価されると報告に来た。とてもうれしそうな笑顔だった」とつらそうに語った。

 彼女は経済論文を書いて、社内で発表会を自ら主宰して意見を求めるなど研究心もおう盛だった。「辛口の意見にも素直に耳を傾けた」とある社員はいう。
 見えてきたのは経済の勉強に静かな情熱を傾け、不器用なりに職場の付き合いに工夫し、黙々と仕事をこなす姿だった。
 「“夜の顔”とのギャップを拡大した方が面白いから“昼の顔”を極端に曲げたのでは」。多くの東電関係者は言った。

 ゆがめて伝えられたのは“昼の顔”だけではないだろう。彼女が時を過ごしたとされる渋谷区の神泉駅周辺について、ある捜査員は「別の女性を彼女と勘違いしている人もいて、聞き込みが混乱した」と指摘する。
 いきなり命を奪われ、プライバシーまで暴かれて、触れられたくない心の傷や過去、現在をひとつも抱えていない人間が今時、どこにいるというのだろう。

 事件の全体像を読者に伝えるため、私たちも言葉を慎重に選びながら、彼女の生活の一部を記事にしたことがあった。社内では、その報道の在り方について今も議論が続いている。
 彼女のプライバシーが度を越えて次々と暴かれる過程で、ある週刊誌の男性記者が「おれたちみんな地獄に落ちるな。売らんかなで書いているんだ。やりきれないよ」とつぶやいたのが胸を離れない。売るためにプライバシーを暴き「面白さ」を誇張し、虚像をも作ってしまったのではないか。やりきれない思いがした。


*実はこの記事、最初は「売らんかなで書いた雑誌の記者」はまだ取材行為をおこなった。恥ずべきは取材すらしなかった我々新聞メディアのほうだ、という記事でした。が、いろいろな人たちが手を加え、こうなりました。この時の経緯を思い出せば出すほど、これは上司のせいではありません。上司にきっちりと意図を説明しきれなかった私の力不足でした。反省が残ります。

記事12◆「脱法」ドラッグ記事

私が警視庁にいた年、担当する生活安全部は当たり年。
KKCの詐欺事件でも私には手一杯だったのに、警視庁有史初の「現役国会議員逮捕」となる「オレンジ共済事件」まで弾けてテンヤワンヤ。
こうなるとヒマネタライターなど、居場所がありませぬ。
そのさなかに、こういうヒマネタを書いてしまい、とうとう先輩事件記者から「筋で特ダネを打ち合ってる最中にヒマネタなんか出すな。評価下げるだけだぞ」となんともたまらない助言をいただいてしまいます。

またこの記事は、「注意喚起を狙った記事が、被害を拡大することもある」という現実を直面せざるをえなかった記事でもあります。
「新手のドラッグにご注意」と書けば、そのドラッグを手に入れたい少年の数は間違いなく増える。リストカットの記事を書けば書くほど、リストカッターが増えるのも同じ。
この記事を書いたころは、まだまだその辺りに無自覚な点がいっぱいあったと思う。反省をこめて。

1997年 02月 17日 掲載
■合法「植物ドラッグ」上陸
 幻覚成分を含むキノコ、サボテン−−渋谷で出回る
◇1瓶1万5000円、「麻薬の入り口」と指摘も

 幻覚作用のある外国のキノコやサボテンが最近、東京・渋谷の繁華街で売られ、ドラッグに関心を持つ若者らをひきつけている。「麻薬」として法規制されている成分を含み、中には「天然のLSD」とも呼ばれるキノコもあるが、植物自体の入手は合法。昨年流行したハーバルエクスタシーに続き、日本に次々上陸する新手の「合法ドラッグ」。若者の薬物乱用が社会問題となる中、これらが覚せい剤や大麻への“入り口”になる危険性も指摘されている。

 渋谷のセンター街では毎晩、サボテンや乾燥させた植物の葉などを並べた露店が出る。長髪の若者が「マッシュルームは(栽培瓶)1瓶で(キノコが)100本は取れる。どれも全部合法だから、心配ないよ」と道行く人に声をかける。時折、若者やサラリーマンたちが立ち寄り、買って行く。
 売られているのは、南米の宗教儀式で幻覚剤として使われたといわれるサボテンの一種のペヨーテ、瓶の中でマッシュルームを培養できる「マジックマッシュルーム栽培瓶」など。ペヨーテは1株3万円。マッシュルーム栽培瓶は1本1万5000円。同じ商品は、インターネットのホームページでも紹介されており、電子メールによる注文も可能だ。

 マジックマッシュルームにはサイロシビン、ペヨーテにはメスカリンという幻覚成分が含まれ、成分自体は麻薬及び向精神薬取締法で所持や使用が禁じられている。またサイロシビン系キノコはLSDほど効き目が持続しないが、効果は似ているとされ「天然のLSD」と呼ばれることもある。インドネシアなど一部の外国では非合法で、米国の一部の州では栽培自体も禁じられているという。

 しかし、日本ではこれらの植物自体は「成分の含有量も少なく、国内では乱用実態も中毒例も報告されていない」(厚生省麻薬課)ため、同法の「麻薬原料植物」には当たらない。「植物から成分を抽出すると違法」(同課)だが、植物自体は「取り締まり対象外」(警察庁薬物対策課)で、輸入することも可能だ。

 瓶を購入した会社員女性(30)は「海外旅行で大麻にはまった。でも、日本では違法なので、合法ドラッグを探していた。あの感覚が得られるなら1瓶1万5000円は高くない」と言う。人気の背景には、東南アジアや南米などの海外旅行先で植物系ドラッグを経験した若者らの増加があるようだ。

 合法ドラッグでは1995年、米国から人気が飛び火した「ナチュラルエクスタシー」が“媚薬(びやく)”として若者の注目を浴びた。合法成分の錠剤だが、「ハイな気分になれる」などと若者向け雑誌で紹介され、東京・原宿のファンシーショップにも並んだ。“ファッション感覚”で購入する少女たちが続出するなど、昨年夏ごろまでブームが続いた。

 少年犯罪などに詳しい藤本哲也・中央大法学部教授(犯罪学)は「合法ドラッグの安易な使用は、若者の薬物に対する抵抗感を失わせる可能性があり、大麻や覚せい剤など違法ドラッグの“入り口”になる危険性もある」と指摘している。

記事11◆ホストに優しさ求める少女たち

警視庁の夜回りより、夜の街の取材が好きでした。
ホストクラブ取材を初めてやった時の記事です。まだ、「正統派事件記者なんて返上し、ヒマネタライターで行くぜ」と開き直りきれていない分、中途はんぱな記事ではありますが。
確かこの記事が掲載された同じ日の夕刊に、Y紙がホストクラブ摘発の特ダネを3段くらいの扱いで打ってきたのでしたっけ。かたや毎日新聞では私のこのヒマネタがトッパン見出しでドーン。
みなは「こっちのほうがおもしろいよ」と慰めてくれたけど、あの時、しみじみ、「どうやら私は筋で特ダネを抜くのに気持ちがもうむいていないらしい」と痛感せざるをえませんでした。

1996年 10月 15日 掲載
■優しさ求め、ねだられて
−−ホスト遊びに群がる少女、借金と売春のいたちごっこ
◇30万円のボトルも…

 ホストクラブ遊びにのめり込み、遊ぶカネ欲しさから売春したり、性風俗店で働いて補導される少女が増えている。ホストクラブは1回3万〜5万円。1本20万〜30万円のボトルを入れる少女もいる。若いホストに援助をねだられ、「ウリ」「援助交際」と呼ばれる売春で、中年男性から稼ぐ構図。ホストの「優しさ」を買うため、体を売る少女たち。警視庁も「ホストクラブが少女の非行化の温床となりつつある」として、実態把握を進めている。

 東京では9月、歌舞伎町のホストクラブ通いを親にとがめられて家出、風俗店で働いて稼いだ約70万円のほとんどをホストに貢いでいた中学3年の少女(14)が補導された。17歳の少女もホスト遊びで高校を中退、風俗店の稼ぎを六本木のホストに貢いでいたという。大阪でも9月、ホストクラブへの約130万円のツケを返すため売春していた堺市内の無職少女(16)ら2人が、大阪府警に児童福祉法違反容疑で逮捕された。

 警視庁少年2課は9月以降、個室マッサージ店の集中取り締まりを行い、多くの少女を補導した。働いた理由について聞くと、「ホストクラブへの借金返済」と答えた少女が多かったという。「ボトル代の一部が、ホストに還元されるシステム。ホストに『援助して』とねだられて高いボトルを入れ、ツケが重なるようだ」(同課)という。

 歌舞伎町周辺のホストクラブは現在約20軒。そのうち数軒を経営する社長(55)によると、2、3年前から若い女性客が増え始めた。店の側も少女の好みに合わせ、生バンド付きのクラブから、カラオケを入れた「ホストパブ」形式に模様替えし、20歳代前半のホストを集めているという。「1本20万〜30万円のボトルをポンと入れるのは若い子。金銭感覚がまったくない。『オヤジからもらったカネだから』と惜しげもなく使う」と同社長もあきれ顔。「18歳以下は入店させないようにしているが、外見では分からない」と話す。

 ホストたちは「若い女の子はカラオケを歌うばかり。話題が貧困で、ファッションか援助交際相手を意味する『パパ』のことだけ」と口をそろえる。
 歌舞伎町のあるホスト(24)は「『パパにいくらもらった』とか平気でしゃべる。ほとんどが援助交際をしている」。別のホスト(26)は「高校生ふうの子から『友達は裏切るけどお金は裏切らないから、お金が一番大事よ』って言われてドキッとした」と戸惑いながらも、「お姫様みたいにチヤホヤしてあげるのが商売のコツ」と話す。

 少年2課によると、「家にも学校にも心を開ける人がいなくて寂しかった。ホストが優しくしてくれるのが、うれしかった」と話す少女がほとんどだったという。「売春や風俗店への出入りと、ホストクラブ通いは、ニワトリとタマゴの関係。どちらが先かは微妙だが、両方にはまり込んでいく傾向がある」と分析している。

記事10◆迷える母親から警視庁に相談相次ぐ

警視庁にいるくせに、特ダネよりヒマネタを書き続ける私。
以下の記事もその一つ。ほかにも、記事にはしなかったけれど、記事にしようとしていたテーマとしては、「援助交際が在日特派員にウケる理由」とか。海外からの特派員から、日本の女子高生のいわゆる「援助交際」に関する取材が警視庁に集中。その集中ぶりはなんと、オウム事件のころよりずっとすさまじかった、という話を記事化しようとしていたんだっけ。

1996年 07月 29日掲載
■“迷える母親”から、相談が相次ぐ
−−警視庁の若者向けテレホン・コーナー

 「援助交際をしている娘に何と言えばいいか分からない」「息子がパーティー券を売っている。警察で補導して」。警視庁の若者向けテレホン・コーナーに、子供に直接注意できず、警察を頼ろうとする“迷える母親”からの相談が相次いでいる。警視庁少年1課は「子育てまで、警察など第三者に任せようとする親が増えている」と、困惑を隠せない。夏休み。親子の会話は、ありますか?【小国綾子】

 いじめや友人関係などの相談が寄せられる警視庁の「ヤング・テレホン・コーナー」。1974年、子供向けに開設されたが、親など成人からの相談件数が増加傾向にあり、今年は6月現在で、保護者からの相談が全体の約2割に上る。

 相談員を驚かせているのは、最近、高校生の母親から「私の代わりに娘(息子)に注意して」という趣旨の電話が目立つことだ。
 高校3年生の娘を持つ母親は「娘が高価な物を持っているので、隠れて娘の日記を見てしまった」と電話してきた。日記には、高校生の間で売春を意味する「援助交際」の文字があり、カバンに避妊具が入っていた。パニックに陥って「私が直接注意してもいいのでしょうか」と相談員に尋ねたという。19歳の娘の母親は「日記に覚せい剤を意味する『S』の文字を見付けたが、怖くて直接聞けない」と電話をかけてきた。
 また、別の母親は「高校2年の息子が先輩からパーティー券を押し付けられた」と言い「警察が息子たちを補導して」と切り出し、相談員をあぜんとさせた。

 電話の主の多くは、友人との電話を盗み聞きしたり、日記や持ち物をこっそり見て子供の生活の異変に気付いた母親。きっかけが後ろめたく、子供に直接注意ができない。また、相談員が父親の助力が必要と判断して呼び出しても、父親の約8割が「どう言葉をかけていいか分からない」と話すだけで、途方に暮れた母親がワラをもつかむ思いで電話しているのが現実。
 この傾向は、今年に入って急に目立つようになった。同課は「今の親は子供への心配を素直に表現するのが下手。真正面からぶつからないとダメ」とアドバイスしている。

 「親と子の対話術」などの著書がある吉田哲・中央カウンセリング研究所長も「子供のことを先生に任せたい」と相談に来る逃げ腰の母親が最近増えている。これは母親の孤立感の表れ。父親や教師も一緒になって、子供に真正面からぶつかる姿勢が必要。「援助交際」などの問題も動転せずに時間をかけること。親が本音でぶつかれば子供には必ず響く」と語っている。

記事9◆夫婦記事再び 「記者の目」夫婦別姓

夫婦記事第二弾は「夫婦別姓」について。
「記者の目」欄デスクに頼まれて、夫婦で半分ずつ書いた記事です。

1996年 06月 26日掲載
[記者の目]夫婦別姓、記者の場合
■人生「訂正」されたよう/価値観を揺さぶられた

 「夫婦別姓」を盛り込んだ民法改正案の国会提出が見送られた。私たちは共に毎日新聞記者で、昨年10月に結婚した。今も仕事上は別姓を使っていることもあり、この問題を2人で改めて考えてみた。

■30年の人生を「訂正」されたよう(妻の場合)

 「夫婦別姓にしているんですか」とよく聞かれる。面はゆい。「夫の姓が『冷泉』とか『西園寺』なら、そっちを選んだかも……」と笑いでごまかす。「家」や「男女同権」に特に問題意識を持っているわけでもなく、「別姓にしている」という気負いもない。姓を変えるより、変えない方が簡単。「小国綾子としてあなたを好きになったんだから、それを大事にしたいのよ」と夫を説得したら、夫があっさり納得しただけだ。
 だから結婚するまでは民法改正なんてどうでもよかった。法律がどうあれ、私が「小国」でなくなるはずはないと信じていた。

 ところが、結婚して1カ月足らずで、「甘かった」と悟らされた。会社の人事課員は「給料は旧姓の銀行口座には振り込めないので、名義変更を」。慌てた。実は「民法改正まで旧姓のまま放っておこう」とタカをくくっていたのだった。仕方なく「斉藤」の三文判を買って郵便局に名義変更に出かけた。ところが、郵便局員は「身分を証明する物は?」。旧姓のままの健康保険証も運転免許証も、もはや私を証明してはくれない。それに気付き、無性に腹が立った。心細くもなった。

 背に腹は代えられない。健康保険証の名義変更のため会社の厚生課を訪ねた。ところが、「どうぞ」と渡された健康保険証を見てあぜん。二重線で消された「小国」の名字。その上に会社の訂正印と手書きの「斉藤」の名字。名義変更って、自分の名字が間違いかのように訂正されることだったのか。別に私の30年間の人生に「訂正印」を押されたわけではない。でも「小国」の2文字を他人に簡単に「訂正」されてはたまらない。

 そもそも姓が一緒でなければ家族の絆(きずな)が壊れるなんて大ウソだ。私は「小国」のままでも夫の両親を大事に思っているし、夫の親類が大好きだ。最近母を亡くしたこともあって、新しい家族の絆を人一倍いとおしく思っている。家族の絆を失いそうになった経験がある人や、絆を大事にしようと心を砕いたことのある人なら、家族の絆を強く結うのが「姓」ではないことを知っているはずだ。

 私は今、旧姓のパスポートを眺めながら改めて願っている。「期限切れ前に民法が改正されますように」。訂正印はこりごりだ。


■既存の価値観を揺さぶられた(夫の場合)

 「はい、斉藤です」。自宅で電話に出る。「あれ、小国さんのお宅じゃないですか」。妻と同居してから、しばしばそういう問いに出くわす。「はい、小国です」。妻は小国を名乗る。思っていた以上に抵抗を感じる。「おい、小国って言うな」。つい文句をつける。が、「どうして」と問い返されると、答えに窮する。「ここはオレの家なんだ」。のどまで出かかった言葉をのみ込む。

 私は家庭に関しては保守的な男かもしれない。たまたま結婚した相手が「自分の名字を気に入っている」というので、「仕事で不便だもんね」と当たり前のように違う名字を名乗った。戸籍は作った。人には「生活にけじめをつけたかった」と説明している。「どうせすぐ民法改正になるから」と妻を説得した。妻は納得したが、いざ結婚届を出してみると面倒な手続きが多いらしい。夫婦げんかのたびに名字の話を持ち出される。「自分が小国信宏に変えたらどんな気持ち?」とやりこめられる。

 違う名字を名乗ると、意外な発見が多い。自分の中に潜む「家」へのこだわり、家と名字との奇妙な結び付きも実感できた。電話だけではない。年賀状の印刷でも名字をめぐってひともんちゃく。「斉藤(小国)はどうだ」「それじゃ駄目」と押し問答。夫婦別姓の選択で、男は(女も同じだと思うが)今までの価値観での安住を許されなくなるのだと思う。私自身も価値観を揺さぶられた。正直言って戸惑ったが、貴重な経験だった。

 「やあ、小国さん」。先日、妻の知り合いにこう呼び止められた。小国の夫だから「小国」だと思ったのだろう。笑顔で別れたが、半日ほど不快感が残った。「自分のオリジナルの名字を無視されると、こんなに不愉快なのか」。これも別姓だからできた体験だった。
 こうした揺さぶりを「新鮮な感覚」としてとらえるか、「許せない」と感じるかは人それぞれだろう。ただ、どちらを選ぶかは自由でなければおかしい。別姓反対論者の発想で、理解できないのは「選択が駄目」という点だ。選択権が夫婦にゆだねられることがそんなにいけないことなのか。「同姓でなければ嫌だ」という人は、夫婦で話し合って同姓にすればいい。「別姓が当然」と考える二人は別姓にすればいい。

 名字についてもう一度、家庭で議論してみてはどうだろう。

記事8◆裏ビデオ摘発最前線

事件記者という立場になっても、書きたいのはストレートニュースよりもヒマネタ。特ダネよりもインサイドストーリー。
結局、こんなものばかり書いてました。
ちなみにこの記事は冒頭から、

「これはS、これはF……」。捜査員の声が響く。Sはセックス、Fはフェラチオの意味だ。
という一文から始まるはずでした。

社会部のデスクもそれを通し、整理部のデスクもそれを通してくれたのですが、紙面の最終責任を持つもっと上の方が「紙面を汚す気か〜」と一喝。
ばっさりその下りを削られ、以下のような原稿になったのでした。

1996年 06月 04日掲載
■裏ビデオ…販売業者摘発の最前線
−−警視庁、秘密の「検分室」
◇2人の専門捜査員がTV6台をジーッ
◇音声消し早送り・1日1000巻チェック

 「入室禁止」の札のかかった窓のない部屋。ウナギの寝床のような1室に、業務用ビデオデッキ9台、24インチ画面のテレビ6台が並ぶ。背の高さほどに積み上げられたビデオと機材類で、10畳ほどの広さが、4畳半ほどにしか感じられない――。警視庁8階。保安課の片隅にあるこの部屋は「検分室」と呼ばれ、限られた捜査員しか出入りできない。押収したわいせつビデオの内容をチェックする「秘密部屋」の様子を探った。【小国綾子】

 検分室には普段、専門の捜査員2人がいる。経験は1年半と1年。午前8時に出勤すると、紺色や黒のエプロンに着替える。ほこりだらけの押収ビデオを扱うためだ。
 捜査員は次々とデッキにビデオを挿入、早送りで再生を始める。6台のテレビが一斉に、早送り特有の波の入った映像を映し出す。電気が明るいのは、捜査員の目を守るため。音声は「必要ない」と切られている。音もなく繰り返される早送りのわいせつシーン。まじめにじっと見詰める捜査員。同課幹部は「喜劇のサイレント映画を見ているような気になってくる」と話す。

 時折、捜査員が再生スピードを、早送りから普通に戻す。わいせつシーンをじっくりと検分するためだ。

 1日に検分できるビデオは、捜査員1人で400〜500巻。2人で約1000巻のテープに検分済み証を張り終えるころ、日はすっかり暮れている。冬場は太陽を見ない日もある。

 ◇容疑者拘置期限まで、時間との戦い

 わいせつビデオの押収が急増したのは、警視庁が今春、わいせつビデオ販売業者の摘発に力を入れ始めたためだ。大量押収後は、容疑者の拘置期限までにすべてを検分しなければならず、時間との戦いになる。

 ◇初めは「苦痛」…帰宅後も残像が

 2人がこれまでに検分したわいせつビデオは、10万巻以上。タイトルを見ただけで内容を思い出せるものも約3000種類に上り、押収ビデオの7、8割は見覚えがある。この蓄積が検分のスピードを支えている。
 「最初は1日200巻が精いっぱいだった。知らない人は『ビデオを見られていいな』と思うだろうが、帰宅後もわいせつシーンの残像が頭から離れず、慣れるまでは苦痛だった」と捜査員は苦笑する。

 機械的に検分を進める捜査員。だが、子供が出るポルノには、激しい憤りを覚えるという。「あれだけは許せない」
 ある意味で単調な日々を支えるのは、「自分たちの検分が、わいせつビデオの大量押収を支えている」という思いだ。

 ◇押収倍増、今年すでに5万5000巻

 わいせつビデオの今年の押収量は、昨年同期の2倍を超える約5万5000巻。大量押収の陰で今、この部屋がフル回転している。
 わいせつビデオ販売業者の摘発に力を入れ始めた背景には、ビデオ宣伝のために家庭の郵便受けに無差別に投げ込まれるピンクチラシに対して、「子供の教育に悪い」と住民の苦情が高まったことがある。
 現行法ではチラシ自体を取り締まる法律がないため、警視庁保安課は3月から、広告チラシを大量に各戸にまいたビデオ販売業者を次々に摘発。これまでに販売の9業者22人を逮捕、わいせつビデオテープ約2万6500巻とチラシ約20万3500枚を押収した。
 5月上旬には、チラシを印刷していた東京都杉並区の印刷会社経営者2人をわいせつ図画販売目的所持ほう助容疑で東京地検に書類送検、印刷会社の刑事責任も追及した。

 同保安課は、都内のマンションなどを対象にチラシの枚数などについて調査。「取り締まり後にチラシの枚数が減った」などの回答を得ているという。同課は「ピンクチラシ一掃を求める住民の声に応えるためにも、販売業者を厳しく摘発したい」と話している。

記事7◆初めての薬物記事 子どもたちが薬に求めたものは?

96年〜97年の1年間、警視庁で生活安全部担当をしていました。
私にとっては、初めての事件記者体験。大変、周囲に迷惑をかけました。でもこの1年間で私は、少年事件や薬物依存などのテーマを拾い、この手に握りしめたわけです。
私が初めて書いた薬物絡みの記事です。
日々「高校生が好奇心から覚せい剤」「好奇心から大麻」という記事が新聞にあふれていたころ、「本当に好奇心が一番の理由なんだろうか?」と自問し、後に何年も取材を続けることになる最初の一歩となった記事がこれだったと思います。

1996年 05月 12日 掲載
■覚せい剤、低年齢層に急激浸透
−−埼玉で検挙の高校生「仲間と一体感、楽しめる」

◇注文は携帯電話に

 「S(覚せい剤)をやるとそれほど親しくない友達とでも一晩中話ができた」。
 埼玉県の私立男子高内で覚せい剤を使用、売買していた高校生(当時)8人を含め25人の少年が検挙された事件で、高校生らは仲間同士の一体感を楽しむために覚せい剤を使っていたことが11日、警視庁少年2課の調べなどから分かった。
 暴力団が扱う「特別なもの」でなく、携帯電話に注文して「手軽に入手できるもの」になったために広まった今回の覚せい剤汚染。高校生たちはファッション感覚で入手した覚せい剤に、友人関係までも依存していた。

 同課の調べによると、高校生らは「日ごろはよそよそしい友人とも、なぜかSをやると一晩中でも話が盛り上がった。それが一番楽しかった」と供述しているという。少年のほとんどが仲間と一緒に吸っていた。「友達がやってたから吸った」と答えた少年が多かったという。
 「一緒にいることに意味がある“覚せい剤パーティー”のようなものだった。覚せい剤を一緒に吸うことで友情を確かめ合っていたように見えた」と捜査員は話す。罪悪感はなく、ただ仲間意識の高揚と一体感が魅力だったらしい。

 彼らにとっての覚せい剤は、大人の世界でよくみられるセックスの道具ではなかったようだ。「ファッション雑誌でSの効能やルポを読んで、興味がわいた」などと話し、流行グッズのような意識で覚せい剤を受け入れていた様子もうかがえたという。小瓶に入れてあぶって吸っていたのも、注射痕が残らない手軽さを求めたからだった。

 しかし、中毒症状とは無縁でなかった。昨年10月下旬、仲間のうち1人の高校生が覚せい剤所持で現行犯逮捕され、多くの少年が使用を減らした。しかし、やめられない高校生もいた。2、3日に1回の頻度で吸っており、薬が切れると体がだるくて2日間起き上がれなかったからだ。
 「起きないと学校に行けない。毎日学校に行く気力をつけるために、覚せい剤を吸っていた」と供述したという。逮捕後、警察の取り調べの約20日間、体のだるさが取れなかった高校生もいた。

 同課は、背景に覚せい剤事情の変化も指摘する。「暴力団関係者から1グラム17万円程度で買って静脈注射する」というのは昔話。現代の高校生にとって覚せい剤は「小遣いを出し合い、0・1グラム1万円でイラン人らの携帯電話に注文して買える友達関係の万能薬」だ。罪悪感のない高校生の覚せい剤乱用に、出口は見えてこない。

 ◇薬物に対する警戒意識が低下
 警察庁のまとめでは、今年に入ってから3月までに、覚せい剤取締法違反で検挙された高校生は、昨年同期の13人の3倍に当たる40人。
 福岡県警が2月以降、男子高校生2人を覚せい剤取締法違反容疑で逮捕、14人を家庭裁判所に書類送致した事件では、県立高校内での使用が表面化して社会問題化した。また、千葉県警が同月、小学6年男子、中学2年男子、同3年女子の3人を同容疑で補導するなど、さらに低年齢層へ「汚染」が広がる実態が浮かび上がった。また、路上やテレホンクラブなどで知り合った男性から覚せい剤を安易にもらうなど、若者の薬物に対する警戒意識が低下していることを示す事件も多発しているという。

記事6◆年末連載 「他人の幸せ」に尽くした男が得た「自分の幸せ」

社会部に行って2カ月くらいのころでしょうか。
年末に遊軍記者やら方面回りでちょっとしたコラムを書くのが定番で、それを初めて書くことになったのがこれ。
東京で取材を初めて間もなかったこともあって、結局、長野支局時代の知人にご登場願ったのでした。

1995年 12月 21日掲載
■「他人の幸せ」につくした男が得た「自分の幸せ」

 今年夏、エイズが死の影を落とす長野県内の病室でタイの若い男性が訴えた。
 「キトゥン・ポー・メー(父さん、母さんに会いたい)」
 ほおが涙でぬれている。医師から、男性への病名告知の通訳を頼まれた 横田隆志さん(43)は「故郷へ行こう」と言うしかなかった。

 本人の出頭なしにオーバーステイの外国人を帰国させるのは至難の業だ。それでも横田さんは八月のある朝、車を長野から成田へと走らせた。倒したシートに点滴と酸素吸入を続ける男性がもたれている。
 医師「タイまでもたないかも」
 横田さん「彼を骨にして帰してたまるか」

 約十五時間後。男性は深夜、バンコクの病室で家族と再会した。不思議と食欲が戻り、刻みしょうがの入った母国のかゆをすすった。「先生がいなければ帰れなかった。ありがとう」。男性がやっとほほ笑んだ。
 横田さんのもとに、家族からの礼状と男性の訃報(ふほう)が届いたのは、その三週間後のことだった。

 横田さんと知り合って四年になる。「タイを訪れた時、優しくしてもらったから」と、独学でタイ語を覚え、スナックで働くタイ人の相談に乗っていた。
 「ピーモォー(先生)」。タイ人からそう慕われる彼は市民運動家ともボランティアとも違って見えた。
 「半ばは自己(わがみ)の幸せを、半ばは他人(ひと)の幸せを」。二十歳のころ始めた少林寺拳法のこの教えが生きる原点という。ただ私の目には「他人の幸せ」ばかりに肩入れしているように見えた。

 ある時、横田さんは外国人の支援に時間を注ぎ過ぎて、香川県にある少林寺拳法の本山から、手続きの遅れを理由に段位を格下げされた。「だれもおれを理解してくれないのか」。本山は、後に格下げを撤回したが、この時ばかりは男泣きに泣いたという。

 私はこの冬、そんな「孤軍奮闘する拳士」を久しぶりに訪ねた。
 今年だけで、帰国を希望する重症患者八人に同行したという。患者の分も含め経費はほとんど手弁当。タイ訪問の際に休みを取り、勤務先の病院からもらう給料は手取り十四万円の時もある。私は「自分の家はどうなるの」と泣いた奥さんのことを思い出していた。

 その時、彼が言った。
 「最近すごくうれしいことがあったんだよ。仲間が少しずつ増えてね」
 彼がかつて助けた地域で暮らすタイ人たちが、支える側に回ってくれた。タイ政府や別の基金からも寄付が届いた。
 そして最近、寄付のニュースを聞いた高校二年の息子(17)が「お父さん、本当におめでとう」と手を差し出した。息子が、家を空けることの多い父に初めて握手を求めた瞬間だった。いつの間にか自分より大きくなった手を握り返しながら「おれの生き方は間違ってない」と信じられた。

 「半ばは自己の幸せに」
 横田さんは、自分の幸せも知っている。

記事◆イエメン新婚旅行を夫婦で書く

なかなかほかの新聞社ではこういうこと、ありえないんじゃないだろうか。
私が社内同僚と結婚し、お休みをもらってイエメンに新婚旅行に行った話を、なんと夫婦の署名入りで記事にしてしまった、という、いわば「結婚記念」記事。「女の世界」を私が、「男の世界」を夫が書きました。実際、イスラムの世界を書くなら夫婦で見ることが一番だと実感しました。
ちなみにイエメンを私に紹介してくれたのが、アジア経済研究所の佐藤寛さんでした。

1995年 12月 19日掲載
■記者夫婦の見たイエメン
…ベールの内側に華やか衣服、家族を守る誇り腰の短剣に託し

 「緑のアラビア」と呼ばれる山岳国イエメン。砂漠や石油に象徴されるアラブと違うもう一つのアラビアを見たくてイエメンを訪ねた。敬けんなイスラム教の国には二つの世界があった。短剣「ジャンビーア」を腰に差した男の世界と黒いベール「シャリシャフ」の向こうに隠れた女の世界。異教徒の男女が歩いた二つの世界をリポートする。

 ◇台所は妻たちと娘の世界

 ●女の世界

 エジプト・カイロ空港のイエメン行き飛行機の待合室に足を踏み入れた私は一瞬、ひるんだ。
 髪に布を巻いたヒゲ面のイエメンの男たちが真っすぐに、あるいはこっそりと、むき出しの私の顔を見詰めていた。慌てた。顔を隠そう。ザックからベッドシーツを出し、頭に巻き付けた。視線にはそうさせずにはおかない鋭さがあった。

 直前まで「顔を隠せ」と言う夫に「顔なんか隠さない」と反発していた。女だけが顔を隠さねばならない社会に素直に入れるものか。だがそんな意気はたちまちなえた。私の最初の「シャリシャフ」は不格好なベッドシーツだった。

 イエメン北部の山岳地方の村シャハラ。標高三、〇〇〇メートルを超えるその村には伝統的な部族社会がまだ色濃く残っている。
 泊めてくれるという家の扉を開けた。途端にホウキを持った女たちが顔を隠して階下に逃げた。その後、彼女たちは私たちの部屋に来なかった。茶や料理を運ぶのはすべて男だった。

 イエメンの男は保護下にある女の顔を他人の目にさらさない。外にも出さない。日々の買い物も男がやる。女のいない街は居心地が悪い。男の視線が集まり、孤立感が募る。
 彼女たちに会いたいと主人に頼むと、私だけが許された。女たちは台所にいた。土壁に囲まれた四畳半ほどの部屋。電気もついていない。たきぎの明かりに女たちの顔が浮かぶ。初めて見る彼女たちの顔。まつげが驚くほど長い。大きな黒いひとみ。黒い上着の下にはししゅうの入った緑やピンクの服を着ていた。
 主人の一番目の妻と五人の娘、二番目の妻とその赤ん坊の八人。二十歳近い娘がホブス(パン)を焼く。子供たちはハサミでトマトを切る。みんなが手を動かし、料理が出来上がっていく。一番目の妻が仕切っており、味見して指示を出す。

 「写真、撮っていい?」。手ぶりで尋ねると、娘の一人が主人を連れてきた。「子供だけならいいよ。女はだめ」と主人。カメラをカバンにしまうと、主人は立ち去った。

 再び女だけの世界。ホブスの焼ける甘いにおいと暖かいかまどの火。最初の妻が私に味見を勧めた。おいしい。親指を立てると、それまでうさんくさそうに私を見ていた女たちがどっと笑った。雰囲気がなごみ、子供がキャッキャと笑う。かまどのそばで二番目の妻がポロンと乳房を出し、赤ん坊にふくませ、私にニィと笑いかけた。

 私はいつの間にかシャリシャフを取っていた。イエメンに来て初めてだ。「台所」とはこんなに心地よいものなのか――。黒いベールの内側には美しい化粧や華やかな衣服があった。男たちに守られた空間はそこから出ようとしない限り心地よいことを知った。



 ◇保護者のはずが威張られて
 ●男の世界
 シャハラ村のふもとの集落から急坂を地元の遊牧民のトラックで山頂に向かった。ライフル銃を提げ、あごひげを伸ばした男たちが険しい顔で運転する。
 トラックに乗る前のことだ。荒れ野の真ん中の広場で、十数人の遊牧民に囲まれた。砂交じりの強い風にさらされながら、彼らはつばを飛ばして激しく言い争っている。山頂までのトラック料金の交渉が難航しているらしい。険悪な空気が漂う。私たちの様子をうかがう彼らに身の危険を感じた。自分より妻が気になった。「車の中へ戻れ」と思わず声を荒らげた。

 ふもとまで四輪駆動車で私たちを運んでくれたイエメン人の運転手が交渉をしている。しかし「どうした」と尋ねても「もう少し待て」と言うばかり。妻を見る男たちの無遠慮な視線ばかりが気になった。
 イエメンでは男と女の領域がきっちりと分かれている。そのためだろう。入国以来、隣の妻が気になった。男だらけの雑踏の中を女連れで歩くことに極度に緊張した。そして妻への言葉に命令口調が増えた。「髪を隠せ」、「離れるな」。日本では考えられないような保護者意識が芽生えている自分に気付いた。

 外から見たイスラム社会は「女性を抑圧する社会」に見える。確かに女はほとんど家の中。外で活動する姿は極端に少ない。
 一方で「威張る女」も何度も目撃した。空港や雑踏でたまに見掛ける女はみな特別扱い。一番いい席にデンと座る。男は重い荷物を両手に抱え、よたよたと窮屈な席に座った。男は女を守り、女はそれが当たり前のように威張る。男にとって腰の大きな武器ジャンビーアは厳しい社会に立ち向かう虚勢の象徴なのかもしれない。

 シャハラ村で出会った青年マハムド・アッサン・アクバルさん(20)は「撃つことはまずない」と肌身離さず持っているライフル銃をなでた。「早く二人目の妻を迎えたい」と語る彼には、すでに妻と三人の子供がいる。イスラムの男たちは家族を守り、養うことに誇りを持ち、厳しい社会に立ち向かう。

記事5◆ひと 小林竜太郎さん

整理部時代に書いた記事。
小林君とは支局時代に初めて出会った。彼はまだ中学生で、匿名で彼の不登校時代を記事にした時、彼は「おぐにさんの記事で僕が当時何を思っていたのかよく分かりました」と言われたのが心に残ってる。
もやもやとした気持ちや、言葉にならない部分というのは思春期にはとても苦しいけどとても大切なもので、記者といえど、それを勝手に言語化してしまうことは許されるんだろうか、と深く悩んだことを覚えている。言語化できてようやく楽になれることがあったとしても、それは、やっぱり他人がやってはいけない作業のような気がして。

そんな経緯があったから、彼が自分で言葉を見つけ、自分を語った本だけは応援したいと思ったのでした。
だから書いた記事です。

1995年 07月 26日掲載
「ひと」小林竜太郎さん
=少年の側からの登校拒否論を刊行

 「誇りです、登校拒否」(近代文芸社)。ドキリとさせるタイトルで、自らの体験に基づく登校拒否論をまとめ、出版した。初の「十七歳の登校拒否論」と話題を呼んでいる。

 小学校三年で学校に行けなくなり、中学校にはほとんど登校しなかった。「学校に行く、行かないは生き方の一つ。僕らは特別じゃない」。そんなメッセージを伝えたくて原稿を出版社に持ち込んだ。
 苦しかった中学時代。学校から飛び出して生きようと、何度も決心しては、自分の心に張り付いた「学校信仰」に揺れた。教師に登校を迫られ、罪悪感と劣等感にさいなまれた。しかし「人間は生きていると実感した時だけ、本当に生きている。登校拒否は生きることそのものだった」と今、振り返る。

 現在、県立高の通信制単位制コース三年生。週に二日登校する。一つ気づいた。「学校に行くと忙しくて、脅かされることもなく、安心感もある。でも学校に甘えてしか生きていけないのは貧しい」。だから、今も迷い、悩むことをやめない。それが「生きることの証(あかし)」と言い切る。

 原稿を書く前から決めてあった「誇りです」のタイトル。「本当はね。『誇りです、登校』だっていい。学校に行く、行かないよりも、もっと大事なことがあるから」。それは、模索しているうちに得た経験、出会った人。「それが僕の誇りなんです」

記事4◆地球に生きる スマナ・バルアさん

支局生活4年間を終え、東京本社で整理部(記事を書くのではなく、取材記者が書いた記事の価値判断をし、見出しをつけ、編集する部署)で1年半いました。
記事が書きたくて書きたくて仕方なくて、「NGO取材班」なるところに潜り込み、書かせてもらった記事です。
ちなみにこのバルアさんは、私の大学時代の知人の親友。
大学時代の人脈はその後の仕事にも延々と生き続けている気がします。

1994年 11月 06日 掲載
[地球を生きる]
援助志す日本人に 途上国に合う医療を
◇医師らに理解訴え高度の機器より“心”

 「このあいだ左手をけがして病院に行ったら『ここは右手の専門。左手の病院に行って』と言われました。日本の病院は面白いですねえ」。あんまり大まじめに言うから、講演を聞いていた看護婦も思わず信じてしまった。バングラデシュ人の医師、スマナ・バルア氏(39)は、得意のジョークで、高度に専門化した日本の病院をチクリと皮肉るのがうまい。

 それもそのはず。バルア氏は十八年前、日本の大学で医学を学ぼうと来日したが、あまりに専門化した日本の医学教育では「バングラデシュの地域の役に立たない」と断念。結局、地域医療実習を重視したフィリピン国立大学で十年かけて、助産、看護、保健士、医師のすべての資格を取った経歴の持ち主だ。

 「あのころ、日本の医者や看護婦は発展途上国の医療現場にほとんど関心を示さなかった。ところが最近は海外援助がブームみたいですね」
 事実、バングラデシュやフィリピン、タイなどに広くネットワークを持つバルア氏のもとには、若い日本人の医師や看護婦が、毎週のように相談に訪れる。「日本の病院では働く意味が見いだせない」「途上国のために働きたい」。バルア氏はそんな彼らに、途上国の医療現場での研修プログラムを用意している。

 バルア氏の最初のアドバイスは「途上国を助けてやろう、というのではなく、現地の医療に学ぶつもりで行ってください」という一言だ。お産から手術まで、道具はカバン一つ。医療機器に頼らずに見えない患部を見付け、消毒薬はグアバの葉をせんじた汁で代用する。医療機器に頼る日本の医療技術は、そんな土地では通用しない。
 しかし、そういう土地だからこそ、機器とではなく患者と向き合うことの意味を知る。彼はそれを“心”と表現する。

 「日本の医者はお金持ち。だけど、“心”持ちにもなってください。日本の医療はさらに豊かになるでしょう」。途上国の医療を日本人に紹介するのも、そんな“心”を見つけるきっかけになれば、と願うからだ。「最初は祖国のために尽くそうと医学を目指した。でも、アジア諸国を回るうち、どこにいてもアジア全体のために尽くそうと決めた。途上国だけではなく、日本のためにも」

 また、彼のアドバイスは、増え始めた日本の海外医療協力への疑問の裏返しでもある。「日本の薬で現地の患者を治療し、成果をスライドに撮って帰っていくだけで、後に残された患者のことまで考えない医師もいる」。そんな日本人医師たちの姿がバルア氏には、「三分間の診療のため三時間も待たせる」今の日本の医療と重なって見える。

 フィリピン国立大卒業後、祖国の医学校で村レベルの健康プログラム作りを進めていたが、昨年三月、再度来日。現在は東大医学部国際保健計画学教室の大学院生。埼玉県三郷市のみさと健和病院で「アジアの地域医療に学ぶ」をテーマに連続講座を開催。故郷のチッタゴンには、日本人がいつ来ても泊まれるようにと、アパートの一室を用意してある。

 「国際援助」はいつも一方通行ではない。世界有数の援助国といわれる日本で、バルア氏は日本人のために、と活動している。そして事実、彼と出会った多くの日本人が、アジアの片隅で、日本の農村で、地域の暮らしを支えている。
(NGO取材班・小国綾子)

記事3◆ひと 木島知草さん

記者3年生の長野支局で書いた記事。
彼女の長女さんもいまや結婚し、人の親だとか。
初めて出会った時、とても他人とは思えないものを感じた人です。
彼女の生き様、歩んできた道、驚くほど心に重なるものがあったので。
支局時代はこんな出会いの数々に支えてもらいました。

1993年 01月 13日掲載。
[ひと]木島知草さん
=人形劇でエイズ教育に取り組む

 ニックネームは「エイズおばさん」。エイズの語りを交えた人形劇の「出前」授業が、全国の中・高校に好評だ。

 大学時代に人形劇団を旗揚げ。それ以来二十年間、破れた靴下や折れた傘の骨などで作った人形を携えて、全国の幼稚園や保育園を回って来た。三年前、エイズで死んだ人々を悼む家族や恋人が縫った「メモリアル・キルト」に出合い「評価を全く意識しない芸術の力強さ」に感動。感染者との出会いに心を揺さぶられ、一年前から人形劇の中でエイズを語り始めた。

 「実はボク、エイズなんだ」「でも、私たち友達よ」――。そんな軍手人形の会話を通して「愛する人がエイズでも一緒に生きよう」と、生徒に語りかける。「私の人生も人形劇も感染者との出会いで深まった」。だから、そんな「自分史」を語っているという。

 性を教えることに困惑しているのは教師や親の側。生徒はエイズを自分の問題としてとらえている。「最初は怖かったが、感染者の気持ちを教わって偏見が解けた」「いやらしいと口を閉ざす大人たちに、僕が説明したい」。中には「感染者の力になりたい」と懸命に感想を書きつづる生徒もいた。

 「予防方法より、友達が感染した時、一緒にどう関係を結ぶか、自分が感染した時どんなふうに生きるかを教えたい」。テキストのないエイズ教育現場で、人形片手に孤軍奮闘している。

<きじま・ちぐさ=島根県出身。日大芸術学部卒。人形劇団「がらくた座」代表。長野県松本市在住。夫、小学生の長女と3人暮らし。40歳>

記事2◆記者の目 中学校の「喫煙」指導

記者3年目の長野支局で書いた記事。
「?」も少し背伸びすれば「!」になる、その驚きを記事にしたい、という私自身の原点みたいな記事。
むちゃくちゃ文章、ひどいですが。

1992年08月27日掲載
[記者の目]
戸倉上山田中学の「喫煙室」騒動 たばこより話し合う場の魅力

 「学校に喫煙室?」。
 長野県埴科郡戸倉町の組合立戸倉上山田中学校(塩野入靖夫校長、生徒千三十七人)の「禁煙指導」を取材中、どうしても頭から離れないことがあった。「なぜ、生徒は隠れてたばこを吸わずに、学校の用意した部屋に通ったのか」。この指導への批判派と、激励派の論争からは、疑問への回答は出てこない。思い切って生徒に聞くしかない。答えは「部屋に喫煙より引かれるものがあったから」だった。

 戸倉上山田中は六月から一カ月間、喫煙癖の抜けない三年生四人(男女各二人)に、生徒からたばこを預かった教師が立ち会い、決めた部屋で一日二本のたばこを認める指導を行った。もちろん、目指したのは禁煙である。
 この結果、生徒のたばこの数は十分の一に減った。ところが、これが八月初めに表面化、県教委は「学校での喫煙は認められない」と中学に見直しを要求。塩野入校長は当初「喫煙指導ではなく禁煙指導」と続行を主張したが、結局は「指導はやめないが、方法は見直す」と表明。論議は一応、終息した。

 騒動に対する反響は大きかった。学校に寄せられた「声」は「県教委はたばこを吸っている生徒への指導の困難な現実を知らない。建前ではどうしようもない」という激励組が圧倒的に多かった。それも大半が教師から。喫煙の低年齢化が進む中、対処に悩む現場の声だった。
 「禁煙させるには、まず喫煙を教師の管理下に置く、という方法が合理的かつ科学的」。教育カリキュラム研究を行っている日本行動分析学会(代表・河嶋孝日本大教授)の常任理事、井上貞郎さん(56)はこの指導法を評価する。
 医師、保健婦らが参加する「禁煙教育を進める会」(事務局・東京)の会長、大木薫立教大講師(64)は「学校現場の気持ちは分かるが、健康教育の理想から言えば邪道」と批判しながらも、「アメリカのアトランタのいくつかの高校には喫煙室があり、そこでの指導が喫煙率の低下に一役買っている」と指摘する。

 では、生徒は、この指導法をどう感じていたのだろうか。

 実は最初、指導されたのは九人(男五人、女四人)だった。うち五人は「自力でやめられます」と約束している。残る四人は「自信ありません」だった。そこで、決められた部屋で、教師立ち会いで「一日二本」となった。
 厚生省国立公衆衛生院疫学部の「青少年の喫煙実態に関する全国調査」(一九九一年)によると、初めて喫煙したきっかけは、喫煙経験を持つ中学生の六割近くが「好奇心」、約二割が「友達の勧め」という。好奇心満々の生徒にとって、秘密の喫煙は一つの「楽しみ」。それなら、教師の「監視付き」より、隠れて吸う方が彼らの「好奇心」を満足させてくれるはずだ。それなのに学校で用意した部屋にやってくる。不思議でしようがなかった。

 「マァー、いいか」と思ってしまえば、それですませることかもしれない。しかし、私はこだわり続けたかった。「なぜ」を納得させるには、生徒の胸の内を知るしか方法がない。生徒の声がないまま、今回の論争を終わらせたくない、の思いもある。

 取材を学校に申し込んだ。「生徒を特定されたくない」という学校の配慮も当然だ。直接会うのは遠慮した。生徒の気持ちは学校を通じて渡された「学校の指導方法をどう考えるか」など、十項目のアンケートへの回答で伝えられた。回答は七人からあった。

 指導法に対して、ほぼ全員が「仲間との話が楽しかった」「先生の話は面白かった」と述べている。また、ある生徒は禁煙後も「喫煙室」に遊びに来ていた。時には、教師に相談をもちかけ、教師の昔話に耳を傾けた。
 ある女子生徒は「みんなの知らない部屋で話ができて面白かった」と書いていた。思わず、笑ってしまった。
 小学校のとき、同じ経験をしたことがある。体育館の裏の倉庫が私たち仲間の「隠れ家」だった。たばこ抜きではあったけれど、合言葉で扉を開け、交換ノートを回した。その「隠れ家」があるだけで、学校が別物に見えた。彼らも同じだったのだろう。この部屋は「喫煙室」ではなく「秘密の隠れ家」だったのだ。言い換えればもう一つの教室であった。
 たばこを隠れて吸う以上の「魅力」が、その部屋にはあったのだ。
「どうして」は解けた。教師と生徒が話し合う姿が目に浮かぶ。

 指導に当たった生徒指導主事(57)は「疎外されがちな生徒にとって、その部屋は安心できる自分たちの居場所だった」と話す。「口酸っぱくたばこの害を説いても、生徒との信頼関係がなければ生徒の心に届かない。心に届く指導法こそが、今の禁煙指導の課題」と語る。

 論争は、生徒が「喫煙室」にやって来た本当の理由とは、無関係に進められたことになる。今回の指導法への反対派は未成年喫煙禁止法を盾に「教育者のモラルに反する」と主張。一方、多くの教師や親は「熱意に満ちた教師の姿に感動」と学校側を激励した。しかし、激励派も、実際に生徒が指導をどう受け止めていたのかを知っていたわけではない。
 中学に寄せられた反響の中に「法律の正義が、教育現場の正義に優先したことが納得できない」という東京都台東区の中学校教師の手紙があった。この手紙の「正義」という言葉は、今回の論争の性格をよく表している。

 自由な教育を主張している数学者の森毅元京大教授(64)は今回の論議を「賛成側も反対側も『正義』を振り回すばかり。教育で『正義』や建前論を振り回しても仕方ない。いかにも、お堅い教育の世界を象徴するような騒動だった」と話す。

 夏休みが明けて「迷惑をかけた先生のためにも、たばこを絶対にやめたい」と生徒たちは話している。
 今回の指導法が広げた波紋に、学校関係者や県教委は「真剣」に取り組むだろう。しかし、建前論で終わらせず、できる限り生徒の声に耳を傾けてほしいと思う。そこに上辺だけではわからぬ予想もつかない生徒の思いが隠されていることがあることを、今回の騒動は教えてくれた。


記事1◆ひと 石田吉明さん

長野支局の記者2年生のとき、京都での駅伝取材時の出張を利用して取材し、書いた記事。今も石田さんが趣味で撮っておられた写真(告知を受けた日に見た夕日の写真)は私の大切な宝物です。

1992年2月13日
「ひと」欄

[ひと]石田吉明さん
 =大阪エイズ薬害訴訟で患者として全国初の証人台に立つ

 血友病による内出血の繰り返しなどで、閉じこもりがちだった生活が、一九六七年の抗血友病製剤の出現で変わった。外を自由に出歩ける。将来の夢も広がり「こんなに幸せでいいのか」と思ったのもつかの間、輸入血液製剤によるHIV感染を知った。四十一歳だった。カナリアの死で炭坑の空気汚染を調べた話をあげて「私たち被害者はカナリア」と話す。厚生省が輸入血液製剤汚染に対策を打ったのは二千人の「カナリア(患者)」が感染した後だった。

 エイズの苦しみは「死」だけではない。病院は治療を拒否、治療を受けても実験台として扱われた。「蚊でうつる」「同性愛の病気」という誤った認識が深い差別と偏見を生んだ。
 「エイズという『未知の領域』と対峙(たいじ)しよう」と、予防教育やアフリカへの薬の援助などを訴えた。同じ病気で苦しむ者たちが、輸入血液製剤と感染経路が違うというだけで、同性愛者や麻薬常習者を差別することの非も唱えた。

 提訴から約三年。原告三十九人のうち八人が既に亡くなった。判決はまだ遠い。「カナリアが消えゆく前に補償できないのか」。石田さんの問いかけは重い。

<いしだ・よしあき=滋賀県出身。京都市在住。大阪エイズ薬害訴訟原告団事務局を開く。被害者救援の「京都からの手紙」を発行。46歳。HIV(ヒト免疫不全ウイルス)感染者として、いま日本でただ一人、名前を公表。「血友病患者のエイズ禍は人災。被害者に補償を」を訴える>