おぐにあやこの行った見た書いた

★映画「バッテリー」を見に行く

家族3人と、息子の野球仲間の合計4人で、映画「バッテリー」を見に行った。
原作の1巻出版直後からのファンである私と。
原作は読んでないけれど、最近、とうとう、息子の少年野球の練習に毎週付き合うようになった「脱・会社だけ人間」状態の夫と。
それから、ピッチャーをやりたい、と頑張る息子と。
今のチームでは不動のキャッチャーである息子の友だちと。

まあ、こういう構成で行ったのでした。

家族で一番涙もろい夫は、「病気の子ども」という設定だけで涙ぐむので、もう大変。ここに最近は「少年野球」という涙のツボが加わったらしく、「イチニイサンシイ、とかけ声かけて練習してるシーンだけで泣けた」という始末。映画館を出る時は、目が真っ赤でした。

私は、映画の冒頭で主人公の少年を見て開口一番。
「おいおい、少年野球やってる子が、こんな色白なわけなかろう」とつぶやいてしまったりしましたが、やはり、私の大好きなキャラクターである豪ちゃんが出てきたら、その笑顔がまた、イメージぴったりでうれしくなってしまったのでした。
豪ちゃんや、ほかの少年たちの心の葛藤を小説で読んでしまっているので、そういう意味では映画に物足りなさを感じますが、映画にそれを全部ぶち込めるわけはないので、映画としてはとても良い出来だと思いました。

ちらちらと、映画館に並んで座る少年2人の顔色をうかがっていたのですが、息子のほうは相変わらずポーカーフェイスのまま。友だちのほうは、最初、私や夫が涙ぐむたび、息子に「おい、泣いてるよ」と報告し、ふざけてましたが、後半は何度もこぶしで目をこすってました。
ざまあみろ!

ってなわけで、今一つ、息子がこの映画に何を思ったかは分からぬまま。
まあ、感想を聞くのもヤボだろう、とそのまま放置してました。

その夜、親子で外食していた際、夫が一言。
「オレさあ、最近、少年野球の練習をするようになったから、よくわかるんだけど、あの映画のお父さんが『野球って心を伝えるスポーツなんだ』って言ってただろ。あれ、分かるよ」と。

私が「正直なところ、野球未経験だから、ぜーんぜんわからん」とのたまうと、
夫が息子に、「おまえは分かるだろ?」と。
息子は平然と、「うん、わかる」と言ったのだった。

わ、わかるのか?
君は、野球が「心を伝え合うスポーツ」だなんて思ってるのか?

意外な息子の一面にビックリ。
息子は「だってね、この前だって……」としゃべり始め、それからふいに恥ずかしくなったのか、「いや、いい。何でもない」とまた黙ってしまったのだった。うーん、残念。

でも、息子によると、「僕は自分がピッチャーをやる時は、○○君に誰よりボールを受けてほしい」 という思いが明確にあるんだそうだ。
○○君とは、もちろん、映画に一緒に連れて行った友だちのこと。

そうか。
我々夫婦は、息子を、バッテリーごと映画館に連れて行ったというわけか。
なんか、ベストメンバーで映画館に行けたんだな。
ちょっとうれしくなった。

私が結構好きだったシーンは、3枚の大中小のユニフォームが、物干し竿に並んで揺れていて、それを母親がみつめているって光景。
普段の私であれば当然、「おいおい、3枚のユニフォームを洗うのは、母親かよ? 男女性別役割分担、殲滅!」とか怒り狂うはずなんだけれど、やっぱり、心に染みるシーンなのでした。
このあたりは、もう、理屈じゃないわー。



★映画「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」および本「散るぞ悲しき」(著・梯久美子)

★映画「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」

私は、試写会で「硫黄島からの手紙」を見た後、映画館で「父親たちの星条旗」を見ちゃったのですが、この2本、特に日本人は「星条旗」→「手紙」の順番で見たほうがいいかもしれません。
「手紙」の方を先に見てしまうと、圧倒的に数にまさる米軍の攻撃のすさまじさが印象的すぎて、この戦いを日本軍側の視点で恐怖とともに見つめる体験をしてしまう。結果、後日「星条旗」を見ると、ものすごい数の米軍艦隊が海をゆくシーンや、坑道から反撃する日本軍のシーンなどを再び目の当たりにした時、どうやっても、姿の見えない栗林忠道氏らの視点で映像を追ってしまうから。
「星条旗」の映画の世界に入るまでに少々時間がかかってしまう結果になっちゃいました。

この2本の映画、「星条旗」だけ見て終わるのはありだと思うけど、「手紙」を見た人は「星条旗」もあわせて見たほうがいいかも、とも思いました。

「星条旗」はものすごくメッセージ性の強い映画です。
戦争に「ヒーロー」はいない、ということ。
「我々は必要のためにヒーローをつくりだす」
「ヒーローとして祭り上げるのではなく、ありのままの彼ら(兵士たち)を記憶しよう」
映画全体をそういったメッセージが貫いているし、説明過多なくらい、はっきりとセリフでもそういった文言が何度か出てきます。

とはいっても、米軍が星条旗を2度掲げる時の、その2度のシーンともに、旗を開き、掲げるまでの間、荘厳で感動的なBGMが流されるんですよね。国旗および国家とは、米国ではこういう扱いを受けるんだなあ、と興味深く実感しました。

一方、「手紙」。
こちらのほうは、栗林忠道氏がヒーローとして描かれている、という点で、「星条旗」よりずっとハリウッド映画っぽいと思いました。
映画の中で、最も正義感の強い、立派な人物として描かれている栗林氏とバロン西が、両方とも英語を流ちょうに扱い、米国の地に友人を持ち、視野がとても広かった、という点も何だかひっかかりました。もちろん、それが史実なわけですが。

ただし。
何だかんだ言っても、全編、日本語を使った映画を米国の人が作った、という一点だけでもう、素直に驚くし、すごいよな、と思ってしまいます。

さらに「散るぞ悲しき」(著・梯久美子)を読みました。
非常に構成力に優れたノンフィクション。
大宅壮一ノンフィクション賞、というのも納得。
栗林氏の電文が大本営に書き換えられていた、という事実は本当に胸に迫りました。

「組織的な戦闘が終わり、命令する上官がいなくなっても、生き残った兵はゲリラとなって洞窟に潜んだ。最後の兵2名が投降したのは、昭和24年1月6日。終戦から3年半、玉砕からは4年近くが経っていた。

という事実も。

あと、心に残ったのはこんな記述。

「米軍側の資料に、捕虜となった日本兵の多くが栗林の顔を直接見たことがあると主張したことに驚いたという記述がある。2万を超える兵士のほとんどが最高指揮官に会ったことのある戦場など考えられないというのだ」

★「ダーウィンの悪夢」(フーベルト・ザウパー監督)

★「ダーウィンの悪夢」(フーベルト・ザウパー監督)

アフリカのヴィクトリア湖を舞台としたドキュメンタリー映画。
極めて、重い内容です。
タンザニアの主要輸出物である白身魚のナイルパーチ。半世紀ほど前に放たれたこの肉食の魚は、湖の生態系を大きく変えた。が、地元では「大金になる魚」ともてはやされ、湖の周辺では加工・輸出の一大魚産業が誕生する。
しかし、冨はすべての人にもたらされたわけじゃない。
魚を空輸する外国のパイロット相手の売春婦。魚の梱包材を溶かし、発生する粗悪なガスを吸い、空腹や身の危険を忘れようとするストリートチルドレン。ウジのわいた魚の残骸から食べ物を得る貧しき人々……。
さらに、魚をEU諸国に空輸する輸送機は、アフリカに空っぽで飛んでくるわけじゃない。どうやらコンゴ、リベリア、スーダンあたりに武器を運び、その帰りに魚を積んで帰るらしいことが判明してくる。
たまらない現実です。

この映画、まず、ドキュメンタリーの映像の力に圧倒されます。
視覚と聴覚のみで情報を受け取っているはずなのに、うだるような暑さや、強烈な腐臭まで、伝わってくるんです。
ものすごい不快な、やりきれない感情を引っ張り出されてしまい、肌感覚で「うわあ、いやだ」と不快感を感じてしまう自分自身に愕然とするわけです。

あと、魚の研究所の夜警を勤める男性が、とても力のある顔をしていて、とても印象的でした。「たいていの奴には戦争はいいことだ。仕事になるから」。軍の給料はとてもいいから。「戦争が怖いかい?」と撮り手に逆に聞き返す時の表情など、ドキリとさせられます。

最後の最後に登場する魚輸送機のロシア人パイロットの存在も印象的でした。
最初、取材に対し、「政治のことは何も話したくない」と頑なに口を閉ざしていた彼が、とうとう、やりきれない表情で、武器をアフリカに運んだことを認めるんですね。
この時、ふと思いました。
正義感に満ちあふれた一部の人は、こういう問題を目の当たりにした時、ナイルパーチという魚の加工や輸送に携わり、武器をアフリカに運ぶことを手助けしている人を非難しがちだけれど。
彼らはまだ、現実を知ってる。現場を見て、わりきれなさを抱えながら働いている。罪深いのは、地球の裏側で、その現実に目を向けようとしない人間のほうだよなあ、と。

ちなみにこのナイルパーチ、EU諸国に継ぐ輸入国は日本だそうで。
外食産業の白身魚のフライなんかに主に使われているそうです。

このドキュメンタリー映画が上映された欧州では、すぐさま「ナイルパーチ不買運動」なるものが起こったそうな。
いかにも、な話。
監督は言ったそうです。「ナイルパーチだけが特別なのではありません。身近なチョコレートにもダイヤモンドにも、背景には深刻な問題がある。最中のボイコットではなく、武器のボイコットを、愚かな行為のボイコットをしてください」と。

どうにもこうにも簡単に解決できそうになく、いったい、どうすればいいんだよー、とものすごく気分が重くなる、そんな問題提起型の映画でした。解決への道も、答も、あえてそぎ落とした意図も、どうやらそのあたりにありそうです。


■明日へのチケット(監督:ケン・ローチ、アッパス・キアロスタミ、エルマンノ・オルミ)

■明日へのチケット
(監督:ケン・ローチ、アッパス・キアロスタミ、エルマンノ・オルミ)

どうしても見たくて、試写会に走った。
ケン・ローチの「ケス」もキアロスタミの「友だちのうちはどこ?」もオルミの「木靴の樹」も大好きだから。

この作品、キアロスタミが「3人でできないかな」と残り2人に声をかけたのがきっかけらしい。
面識もなかった3人が「やろう!」と意気投合。実はお互いに相手の作品を細部まで覚えているほど思い入れのある同士だったらしい。
列車を舞台にしよう、と発案したのはオルミ。
結局、3人がそれぞれに自由に各パートを監督しつつ、1本の映画としてつながっていく仕立てになっている。

まず、オルミが、年老いた学者を主人公に列車旅を描く。年老いた学者が出張先で出会った美しい女性との短い会話を、列車の中で振り返っているうちに、遠く忘れていた情熱のようなものを取り戻し、ある一つの行動へとつながっていく、というストーリー。
もっとも叙情的で、もっとも列車という設定を上手に使っていた。
映画に映る車窓を見ただけで、旅に出たくて、胸が痛くなったもの。

次がキアロスタミ。
こちらはもう少しユーモアに満ちている。
兵役中の若者が、将校の妻の旅のおともをさせられるのだけれど、この女がとんでもないオバタリアンで……というような話。
さりげなく、本当にさりげなく、この若者の家庭の複雑さがにじみ出ているんだけど、決してその部分は出しゃばらない。
そこが、うまいなあ、と思う。

でも一番心に残ったのは、やっぱり、ケン・ローチが撮った部分。
スコットランドのスーパー店員の若者3人は、なけなしのお金をはたいて、大好きなセルティックというサッカーチームの国際試合を見に、ローマへと旅している。
ところがアルバニアからの難民一家と出会って……。

何を書いてもネタバレになるから書けないけれど、最初、この3人組は騒々しくて、ある部分で傲慢で思慮浅く、気はいいのだろうけれど、できれば列車でご一緒したくないタイプに描かれている。
けれど、彼らが彼らなりに難民一家の現実に触れた時、自分たちも金銭的にまったく余裕がない中で、ギリギリの選択を迫られる。
そこの描き方が、とんでもなくリアリティーがあって魅力的。

列車がローマの駅に到着し、アルバニアからの難民一家が家族との再会を果たすシーンを見たときの、スコットランドの若者の表情は、それはそれは何とも言えないもので、私は思わず涙をこぼしてしまった。
一筋だけ。

世界は、こういうどうしようもない奴等の愛すべき善意に満ちているんだなあ……とそればかり思った。
善意はある時は誰かを助けたり救ったりし、別のある時には、集団となって誰かを追いつめるのだ。

列車映画っていいなあ。
2時間の映画が、わずか1時間くらいに思えた。
10時間くらいの長さだったとしても、十分に楽しめたろうに。
もっともっと列車の行方と、人々の旅をみていたい、と思わずにいられない映画でした。

10月、渋谷シネ・アミューズで。

■蟻の兵隊 (監督・池谷薫)

■蟻の兵隊 (監督・池谷薫)

第二次世界大戦の敗戦の後、上官の命令で中国に残留させられた日本軍兵士が2600人もいた。彼らは中国国民党の軍閥に合流し、4年間も戦い、550人が戦死。700人以上が捕虜となった。
ところが、生き残った彼らが帰国してみれば、「逃亡兵」の扱い。軍人恩給も戦後補償もなし。

このドキュメンタリー映画の主人公である奥村さんたち元残留兵は、戦後補償を求めて裁判を起こすが、国は「自らの意志で残り、勝手に戦争を続けた」と主張、最高裁でも訴えは認められなかった。

なんていう話を、まったくこの映画に触れるまで知らなかったことをまず恥じます。はい。

渋谷の映画館は、圧倒的に年配客が多かったのですが、ほとんどの席が埋まるのどの熱気でした。

奥村、という名前のせいもありますが、ついつい「ゆきゆきて神軍」の奥崎さんを思い出しました。あのドキュメンタリー映画の中では、「撮影される側」の奥崎さんが、カメラを意識する中で、どんどんと表情も行動も変わっていくところが、なんともヒリヒリする映画でしたが、「蟻の兵隊」の奥村さんも、撮られているうちに少しずつ変わっていくさまが迫力があります。
ただ、たぶん、奥村さんの場合は、撮られる中でカメラを意識して……という変化ではないんだろうな、という気がしました。

最初は、中国に残留し、戦争を続けたのはすべて軍の命令だったこと、中国軍閥の傭兵などではなかったことを証明するためにかけずり回っていた奥村さんなのに、途中からは、自分が人を初めて殺した中国の地に行ったり、日本軍がやった残虐な行為を知る人の証言を集め始めるのです。
加害者であり、被害者であることがそうさせた、という解釈よりも、むしろ、残留日本兵問題がちっとも前に進まない中で、仲間が1人ひとり死んでいく焦り。矢も楯もたまらず、怒りをどこにぶつけて良いかも見えず、何かに憑かれたように、当時を知る人を訪ね歩かずにいられないのだろう、とそんな気がして、その「変化」が胸に迫りました。

初めて人を殺した地で「ここは自分が鬼になる教育を受けたところ」と語りつつ、「でも不思議と懐かしいんだ」と正直に吐露するシーン。
中国人の証言者に質問するうちに、いつしか「日本兵になって中国人を追及してしまっていた」と自覚するシーン。
日本人の証言者に「話してください」と食い下がった時、「戦争を何も知らない少年兵ごときが。本当の地獄を見てきたから、信念として話さない」と言われるシーン。

どれも心に残りました。

日本で戦後民主主義教育が行われていたのと同じ時代に、終戦から3年たっても、「天皇陛下バンザイ」と叫んで死んでいった人がいる、という事実の重さを前にすると、やはり、知らなかったこと自体を恥じるしかないなあ、という思いです。

評判が良いため、予定より長い9月8日までは少なくとも上映しているそうです。
期日未定、です。

■ダック・シーズン(フェルナンド・エインビッケ監督)

■ダック・シーズン(フェルナンド・エインビッケ監督)

お金をかけずにこれほど楽しい作品もできるのね、という感じのメキシコ映画。
カメラ位置や映像の使い方に癖があり、おまけに白黒映画なので、映画に詳しい人はきっといっぱいうんちくを語れるのでしょうが、私は素人なので、ただただ声を上げて笑ってました。

登場人物は主に4人。
14歳のフラマは両親の離婚話にイライラ。戦闘ゲームが得意。すぐにカッとする自分を抑えられない。
フラマの親友のモコ。成績もスポーツも苦手で何をやってもぱっとしないうえ、かなわぬ恋に悩んでいる。
2人と同じアパートに暮らす16歳の少女リタ。パパの顔を知らない。2月29日が誕生日で、ママはいつも誕生日を忘れてしまうのだ。
最後にピザ配達人のウリセス、35歳。犬の収容所で勤めていたが、犬を殺すのに耐えられず、ピザ配達人に。田舎に帰りたいが、大叔母の世話を押しつけられ、帰るに帰れない。

孤独や空虚感ややりきれなさを抱えた4人が偶然、アパートの8階にあるフラマの部屋に集まるところから、物語は始まる。

最初はフラマとモコの2人が会話もなく、戦闘ゲームに興じるところから。ポテトチップスとコーラを片手に、闘うゲームのキャラクターがかたやビンラディン、もう一方がブッシュ、というあたりもシュールだ。
ところがゲームが山場にさしかかるとなぜか停電。2人は、停電のたび、会話さえ途切れ、いらいらを募らせるばかり。ここに2歳年上のリタ、さらに年上のウリセスが上手に絡んでいくところが見所。

安上がりに作られた1本の映画が、口コミであれよあれよと人気沸騰、メキシコ本国では大変な大ヒットになった、というのもなんとなく分かる。

人間なんて、それぞれに心に壁を築いているからね。それをお互いに崩していくのはとても大変。この映画では、これを切り崩すきかっけとして、まず停電、それから一枚の絵、そして決定打としてマリファナ入りのブラウニーが使われている。

特にマリファナ入りの菓子を食べた後の映像がものすごくリアルで、笑える。
延々と笑えるので、もう、声をこらし、肩を震わせ、笑うしかなかったほど。
トリップした4人が、サイダーの泡がシュワシュワシュワーっとするのに身もだえしちゃったり、水道の蛇口から落ちる水滴の音にビンビン響いたりするところ、ものすごくリアルで笑える。
笑えるだけに、ちょっと悔しい。
結局、4人が心を開き合う「交友接着剤」となったのは、ドラッグかい? と思ってしまう。わかるけどさ。マリファナならでは、ってのもよく分かるけどさ、例えばこれが代わりにスポーツだったり、音楽だったり、何か別に夢中になれるものだったとしても、物語は成立しそうだけど、やっぱりマリファナほどのリアリティーを得られない気がして、それが一番悔しい(マリファナを推奨しているのではありません、念のため)。

それにしても。
同じような心のモヤモヤを抱えた4人が、こんなふうに偶然出会い、ぶつかり合いながら、お互いを理解し、言葉ではなく別のもので何か勇気づけ合い、それぞれが自分で歩みを進めていくまでの過程を、高層アパート8階の一室の中だけで描いてしまって説得力がある、ということにも感心したけれど、逆に、こういう「素敵な偶然」がたくさん重なった無理な設定でしか物語が成立しないというのがまた、現実の社会をきれいに切り取っているようで、これまた結構悔しかったりするのだ。

■ナミイと唄えば (監督・本橋成一)

■ナミイと唄えば (監督・本橋成一)

沖縄発のドキュメンタリー映画。
85歳の「ナミイ」こと新城浪さんが、スナックで、お座敷で、高齢者施設で、台湾で、およそあらゆるところで三線を弾き、うたいまくるという旅のお話。
「ヒャクハタチ(百二十)まで生きてみたいと思います」と毎朝、神棚に頭を下げ、夫の仏壇に「早くお迎えにこないでね。あんたの倍生きようと思ってますから」とのたまう姿は極めてチャーミングです。はい。

ただ、私は正直いって、新城さんの唄や三線には「すごい!」と思いませんでした。
決して上手でもないと思うし。沖縄発の映画となると、はちゃめちゃにスピード感があった「パイナップルツアーズ」とか、唄が本当に本当に良かった「ナビィの恋」とかのほうがずっとずっと魅力的だと思う。
映画としてどうか、という意味でも、強く心に引かれた、とは言い難いかも。

ただ、この作品の主人公、ナミイさんが、これまでの沖縄発映画にないものを持っているとしたら、それは「普通」であるがゆえの懐の広さかもなあ。
沖縄のおばあさんはチャーミングな人が多いから、決して、ナミイさんは特別な人じゃないと思うんです。でも「普通」だからこそ、彼女は島唄に限らず、なんでも唄ってくれちゃうのね。童謡から大和の流行歌まで。沖縄民謡に期待して劇場に行ったら、肩すかしをくらうほどにね。

そもそも冒頭のシーンがすごい。
唄の奉納の神事で、好きな唄が一番良いだろう、とナミイさんが唄ったのは「酒は泪かため息か」。このあたりの俗っぽさが、なんというのだろう、「沖縄」という存在に、「底抜けの明るさ」とか「悲惨な歴史」とか「魂の浄化」とか「唄とともに生きる人々」とか、その手の神話を求めたがる人たちを、見事に裏切ってくれるわけで、その点はおもしろいと感じました。

この映画を離れて、一つ思い出話を。
ナミイさんが台湾に行ったところで、台湾の少数民族のプユマ民族の人たちと一緒に唄って踊るシーンが一瞬、出てくるのです。私、声を上げそうになりました。
大学時代、大阪から船で那覇、そして石垣島へと渡った後、そこからまた船で台湾に渡りました。
台東という街で、いくつかの偶然と必然の末に、プユマ民族の一家と知り合い、そちらのお宅でなんと10日間ぐらい泊めていただいたんです。
本当によく唄ったな。踊ったな。古い日本の曲。プユマの唄もたくさん教えてもらった。親戚一同車座になって一緒に声を合わせて唄った時、「ああこんな風にみんなで唄を唄えるっていいなあ」と思った。日本ではカラオケばっかりで、みんなで楽器もなしに唄うなんて初めてだったから。
お兄ちゃん格の3人の青年が、すぐに私のビールに、甘い缶コーヒーを混ぜてくれたっけ。「あやこ、飲み過ぎ」と。ビールを砂糖入りコーヒーで割るなんて、私は卒倒しそうだったけど。
帰国してそんな話を昭和12年生まれの父にしたら、「何いうてんねん。日本人かてカラオケが登場するまでは、宴会といえばみんなで車座になって一緒に唄うのが普通やってんで。そやから、若い人でも軍歌をいやおうなしに覚えたもんや」と言われたのだった。
その夜は、母親の三味線を持ち出して、黒田節を一晩でマスターし、父とどんちゃん騒ぎしたのだった。
そんなことが、この映画を観ていたら、ぱーーーーーーっとよみがえった。

さらにナミイさんが三線を習いに行った先の大島勇さんのお顔を、画面で初めて拝見。これが懐かしい大島保克さん(むっちゃくちゃ唄が素敵な人です)のお父様なのね。
まだ若かったころ、東京で偶然出会い、わずか10分間、住所を交換しただけの那覇在住のご夫婦に「沖縄にも遊びにおいでー」と言われたのを真に受けて、本当に出かけ、そこのお家に泊めてもらうところから始まったのが、上記の台湾の旅だったわけで。
確か、台湾から帰ってきて再び那覇でこのご夫婦の家に泊めてもらっていた時、大島保克さんと新幸人さん(かつてニュース23のエンディングテーマを唄っていた)と知り合い、飲んだくれて、最後は新さんのアパートで川の字で寝たんだった。
ははは、なつかしー。

ということで、映画自体より、映画によってよみがえった思い出のほうが美しく、鮮やかで、胸を打ってしまった………のでした。ちゃんちゃん。

■スティーヴィー (監督・スティーヴ・ジェイムス)

■スティーヴィー (スティーヴ・ジェイムス監督)

私にはとんでもなく重いドキュメンタリー映画でした。数週間前に観たにもかかわらず、なかなか文章にまとめることができませんでした。
今でも、ネタバレ混じりの文章をグシャグシャと書き散らすくらいしかできません。それくらい重い映画でした。

なぜなら。主人公や登場する家族たちが口にするセリフがことごとく、少年非行やら自傷やら薬物依存の取材の中でこれまでに実際に耳にしたことがあるセリフばっかり。
これが何より、見ていて苦しかったです。
さらに、主人公のスティーヴィーがすでに少年ではなく、28歳で、日本人の目から見るともう「おっさん」の風貌で、だけど行動も言葉も心もたぶん、12歳くらいの少年のままの部分を残していて、そこの部分が苦しい苦しいと悲鳴を上げているのが、画面から伝わってくるからなのだと思います。

映画は最初、スティーヴ監督がかつてビッグブラザーとして関わった少年のもとを約10年ぶりに再訪するシーンから始まります。11歳だった少年はすでに24歳に成長。母親に捨てられ、施設を転々とし、荒れるに任せて、10年間に多くの犯罪を重ねていました。スティーブ監督は最初から、「この少年を途中で見捨ててしまった」という負い目を抱きつつ、撮影を始めるのです。
スティーヴ監督と妻は子連れでスティーヴィーのもとを訪ねているのだけど、幼い子どもたちがスティーヴィーの興奮した様子をなかば脅えながら見つめているシーンも印象に残りました。監督がさりげなく子どもたちを部屋の外に連れて行くところなども、なんだか身につまされました。私も何度か子連れ取材をしてきたので。

一方、監督の妻はカウンセラー。幼児へのレイプ犯の更正プログラムに携わっている。いわばその道のプロ。それは映画の中の彼女の行動をみているとよく分かります。
例えば、久しぶりに再会したスティーヴィーへの受容的な態度。「オレがキレたら大変さ。今は抑えてるけど」と興奮してしゃべり続けるスティーヴィーに、「えらいわ、ちゃんと抑えているのね」とほめる。その姿を見ただけで、「あ、プロだ」と思いました。プロだから受容力もあるけれど、揺るがなさすぎて、どこかで線を引いているような距離感が常に見えるんですよね。

監督はこの再訪のあと、また2年間、スティーヴィーを訪ねなかったそうです。彼の半生を映画にしよう、と再度彼と接触した時には、彼はもう女児への性的暴行罪で裁かれようとしているところでした。
私はストーリーよりも、スティーヴ監督がどんな風にスティーヴィーに関わるかばかりが気になってしまいました。
かつてのビッグブラザーとして、今は友として寄り添おうとし、一方で自身も被写体となりつつも映画監督として撮影する側の立場も維持し続けるスティーヴ・ジェイムス監督の立場が、私の取材スタンスにも重なったりして、身につまされました。
撮影の途中で「彼の人生を見せ物にしているだけではないか」と悩んだり、重すぎる現実に逃げ出したくなったり、それでも寄り添おうと心に折り合いをつけたりする心の軌跡が、映像からもう手に取るように伝わってきて、そういう意味でも見ていて苦しかったです。

例えばスティーヴィーに「金を貸してくれ」と言われた監督は、思わず100ドル貸すことを約束してしまいます。でもプロの妻はこれに反対。結局、監督は断ることにします。
お金を貸すか貸さないか、プロなら簡単に答えが出せる問題だったとしても、人と人との関係ができあがっている時はつらい。お金を貸してほしい、と言った取材相手に対して、「取材者としては貸すべきではないかもしれないけど、貸すんじゃなくて、シンナーをやめられたお祝いに私の気持ちとしてプレゼントしたい」。そんな風にお金を出したことだって、私もかつてあったっけな。

主人公スティーヴィーの母親とその妹へのインタビューも、たまらないものがあります。
虐待を否定しながら、「たまにたたいただけよ!」と言い張る母親。「だって大人にたてつく子どもなんて言語道断でしょ!」と。その母親もまた、貧しい地区でアルコール中毒の父親に殴られて育っているのです。だから妹はこう言う。「私はね、親に影響されないようにしようと暮らしてきたの」
スティーヴィーが暴行した相手が、この妹の娘(つまりスティーヴィーの姪っ子)というのがつらい。それでも姉との付き合いを続ける妹の複雑な思いまで、映像は映し出している。

スティーヴィーは11歳の時、施設に預けられた。里親には懐いたが、里親夫婦が個人的な都合で施設を去ってからは、親代わりを再び失い、施設内では何度も反省室に閉じこめられたり、レイプされたりして傷ついていく。結局、施設から追い出され、その後のグループホームでもなじめず、最後は精神病院へ。薬物療法で薬漬けになって……ともう、あまりに典型的なケースだけに、胸が苦しくなってしまう。

スティーヴィーの周囲にいる人の言葉や行動の一つひとつも胸を衝く。
交際中の彼女は少し精神遅滞がある。「(スティーヴィーといて)幸せじゃないけれど、別れたらもっとつらい」という。共依存ぎりぎりのところで寄り添っている。
スティーヴィーの妹は、虐待の連鎖を断ち切る勇気のある人。避妊治療にも懸命に取り組んでいる。親から受けた傷をすべて自分で咀嚼したうえで、なお漏らす「母のような人に(子どもが)できて、私に授からないなんて……」という言葉は重いです。
母親はどうか、といえば彼女なりに悩むのだけど、最後に頼るのが「魂の救済」で有名なナントカ教会。そのシーンには思わず「あんただけ勝手に救われんなよ!」と心でなじってしまいました。でも、教会に行くのを嫌がっていたスティーヴィーも、救いがほしくて結局洗礼を受けるのです。

スティーヴ監督とスティーヴィーの微妙な関係性の移り変わりも興味深かったです。監督が自分の母親にも取材していると知ったスティーヴィーは裏切られたと感じ、2人の仲が悪化する、なんて展開も身につまされました。逆に、いつまで経っても変わらないスティーヴィーにいらだったり憤りを感じたりするスティーヴ監督の感情の揺れ動きにも身につまされました。
最初から、カウンセラーだの精神科医だの、プロとして関わるなら、こんな時、揺れないのかもしれないし、揺れたらプロ失格なんだろう。
でも取材者はプロとはまた違う。その距離の取り方がいかに難しいか、私はリストカットの取材を随分と思い出してしまった。

そう。
この映画は、私にはとても映画としてみられなかった。
感想を求められて最初に出てきた一言は「きつかった……」でした。
公開されたらもう一回観ようと思っています。主人公や周囲の人たちの心の動き、そして自分自身の心の動き、取材者として関わっていくありよう、など、1度観ただけではとても心を整理しきることができなくて。
宿題の多い映画でした。


■ヨコハマメリー (監督・中村高寛、ドキュメンタリー)

■ヨコハマメリー (監督・中村高寛、ドキュメンタリー)

戦後、故郷を離れ、東京、横須賀などを渡り歩き、横浜は伊勢佐木町で米兵相手の娼婦をしていたとされる通称「ハマのメリーさん」と周辺の人々の生き様を追ったドキュメンタリー。
この映画、メリーさんご本人が登場するのは、最後の数分だけ。それまではメリーさんの写真やほんの少し残っている映像を交えながら、むしろ、メリーさんをめぐる人々を描いています。実はそこに登場する人が妙に魅力的。

末期がんと向かい合うシャンソン歌手の永登元次郎さんが主役格で登場するのだけど、この人がとても画面を優しく、深くさせている気がしました。元芸者の女性が、インタビューを受ける時に選んで着たのだろう、着物の美しさも印象に残りました。

周辺の人を描いた作品としてはとても魅力的ではあるけれど、「メリーさん」に関しては最後まで遠巻きのまま終わってしまった感が否めません。なぜ彼女が真っ白い化粧をして街を歩き続けたのか、そこにきちんと向き合ってほしかった感じ。
だって彼女、まだ生きているのだもの。彼女がもうこの世の人ではないのなら、この作品でOKと思うけれど、生きているならやっぱり、彼女本人に迫ってほしかった。
それで彼女が映画に語ることを拒否するなら、拒否したことを描けばいいし、なぜ拒否されたかを描くことでまた見えることもあっただろうに。

もちろん、遠巻きのままでも、最後の最後に登場した素顔の「メリーさん」は驚くほど美しくて、それはご本人が美しいというだけではなく、たぶん、撮影した側の人たちの思いがあっての美しさだったんだと思う。
横顔のワンカットだけで、会場の何人もの人が泣いてました。
私はなぜか、爪噛みがひどくなり、観ている間じゅう、爪噛みが止まらないドキュメンタリーでした。

映画というより、深夜のテレビドキュメンタリー枠とかで観たい作品だな、とも思いました。理由は自分でもよく分かりませんが。

■スタンドアップ(ニキ・カーロ監督)

■スタンドアップ(ニキ・カーロ監督)

1980年代、ミネソタ州の鉱山で女子労働者が起こした訴訟を描いたノンフィクション「North Country」を映画化。この訴訟は、米国のセクシャル・ハラスメント法の制定に貢献したんだそうだ。

というと、小難しくてメッセージ性の強い映画みたいに思われちゃうだろうけど、そこはハリウッドですから。キャラクターはどれも単純化されて分かりやすいし、最後は父親が家族のために立ち上がるし、主人公は勝利するし、ちゃーんと「感動して立ち上がり、拍手する人々」みたいな(厳密には違うが)感じのシーンも用意されているのだ。

主人公の女性は、10代で「父親が誰か分からない」(終盤で判明するが)赤ちゃんを出産し、追われるように故郷を出て、長じてはひどいDV男と結婚し、殴られ、ボロボロになって故郷の鉱山の町に戻ってくる、という設定。
1989年。当時の炭坑労働者の男女比は30対1だったそうだ。

鉱山での「セクハラ」のレベルは、ちょっと想像を超えている。
レイプされる危険は日常茶飯事。女子用簡易トイレを現場にようやく設置してもらえたと思ったら、中に女性が入った途端、男たちが笑いながらトイレを箱ごと揺らし、ひっくり返す。なにしろ、「男の職場に女がいて目障りだ」程度の動機ではなく、「女のせいで男が仕事を奪われている」と本気でみなが思っているんだから、いやがらせの程度も半端じゃないのだ。

ただ、正直言って、主人公の女性にはあまり感情移入できなかった。
組織の中での動き方を30代のわりには知らないし、上司とけんかするならもっとうまくやれよ、とか、男社会で意見を通していくにはもうちょっと知恵を使ってくれよ、とか、社長にセクハラを訴えにいくなら、録音ぐらいしておけよ、とか、ついつい悔しくなってしまう。おまけに、運転免許をほしがる息子にこっそり無免許運転させちゃうし(映画の中では母と息子の心の結びつきを示すシーンなんだけど、ごめん、私は交通事故の被害者の顔がちらついて、むしろ憤りを感じてしまった)。
おまけに、訴訟を起こすのに手伝ってもらう代理人の弁護士が、恋仲になりそうな相手の男、ってのもなんだかなあ。

むしろ、圧倒的な男社会の中で、男たちのひどく下劣ないやがらせを、心で怒りくるいながらも、鼻でふふんと笑ってみせたり、わざと笑顔で下ネタにつきあってやったり、平然を装ったりしながら、「働き続けること」を最優先し、賢く乗り切ろうとしている他の女性従業員のほうが身近に感じちゃった。でもそれだけじゃ、企業は、世の中は変わらない。
その中で、グローリーという名の女性がいてね。鉱山労働者として、組合の一代表として、周囲の男たちの信頼を勝ち取りつつ、言うべきことは言って、闘う姿にはほれぼれとする。ああ、なんとかっこいいのだろう、と。
映画を通して、彼女の存在は一貫して訴えるものがあります。

また、思春期の息子と主人公女性とのやりとりの痛々しさやら、初めて自分の稼いだ金で家族で外食するシーン、家出した息子が帰ってくるシーン、ずっと娘(主人公)が鉱山で働くことを反対していた自らも鉱山労働者である寡黙な父親が最後にみなの前で声を上げるシーンなどは、かなり感動的。
試写会は圧倒的に若い女性が多くて、多くの子たちが泣いていました。
彼女たちは私なんかよりずっと若い分、男職場で苦労したり、日々悔しい思いをしたりしているのかもなあ、と思ったのでした。