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孤族の国の男って?

あけましておめでとうございます。
いきなりですが、朝日新聞が年末からはじめた連載企画について、思うことを少し。

「孤族」、というネーミングを最初に知ったとき、うまいもんだなあ、と感心したのだった。
さすが、朝日新聞、とも。
だけど、読めば読むほど、何なのかなあ、この違和感?

たとえば、この回。
「還暦、上海で婚活したが」
まあ、読んでみてくださいな。
私は、ここを読んで、度肝を抜かれたというか、イスから転がり落ちかけた。

どんなに手を尽くしても、日本人でなくても、伴侶が見つからない。
家業の手伝いや後継ぎを望むわけではない。
老いゆく自分の世話をし、みとってくれる相手が欲しいだけなのに。


どっひゃーーーーーん!

さらにさらに、別の男性(76)のエピソードには、こんな一文も。

今日も、これは、という人は現れなかった。
死ぬ間際に「おまえがそばにいてくれて幸せだった」と言えるような人が欲しいだけなんだが。


連載スタート時から、ずーっと感じていた違和感の正体が、ようやく分かった気がしたよ。
うろ覚えなので、間違えていたら申し訳ないけれども、津野海太郎さんの名著「歩くひとりもの」 を読んだときにも、似たような違和感を感じたことがあったっけ。

中年に差し掛かったシングル時代の津野さんは確か、御著書の中で、男が一人老いて死んでいくよるべなさ、みたいなものに触れていたような……。(間違えていたらすみません。ブログで書評を書いた記憶もあるのに、どうしても見つからないのです)。
そのときに、

「あたしゃ、結婚してるし、夫もいるし、おまけに子どもまでいるけど、死ぬときに誰かに見守られている可能性なんて、あんまりないと思ってるけどなあ。っていうか、男って、『結婚=老後を世話し、看取ってくれる相手の確保』 と思ってんの???」

と思ったのだった。

私と夫の生命力のポテンシャルを考えたら、やはりどう考えても私のほうが長生きしそうだし (いや、絶対に、長生きしてやる!)、だいたい、「俺より先に死んではいけない」 (だったっけ? 関白宣言)なんて、アホかいな、誰が先に死んでたまるか、って話だ。
きっと、うちの場合は、夫だってそう思ってると思う。

さりとて、夫が先立った後、私に 「恋愛力」 が残っているとも到底思えない。
美魔女、とか言うんだっけ?
ああいうのとは無縁の、独自路線を歩んですでにウン十年、だもんな。

確かに、子どもは一人生んだけど。
これからの時代、日本で、おまけに親元にいて、仕事が簡単に見つかるわけもないだろうし、息子なんてこの先、何年、そばにいるやらわからないし。
ずっと自宅でパラサイトしながら私の死を看取ってくれる息子よりは、さっさと独立する息子のほうを、親としては見てみたいもんね。

となれば、やっぱり、死ぬときは一人でしょ。
というようなことは、もう何年も前から、
ある時は、冷静にソロバンを弾くように、
ある時は、「こんな寂しがり屋が1日でも一人ぼっちで生きられるんだろうか」 と突き上げるような不安に襲われたりしながらも、
徐々に受け入れてきただと思う。
死ぬときは、やっぱり、一人でしょ、と。

でも、だから。
本当の意味で一人ぼっちにならないように、近所づきあいしてきたし、仕事以外の友達もつくってきたし、外食すれば隣の人にすぐ話しかけるし、電車に乗ればこれまた隣の人にすぐ話しかけるし、たとえ夫と別れても夫の親戚と良好な関係を維持できるくらいには親戚関係も大事にしてきたし、「かわいいバアチャン」 を目指そうとも思ってる。
だいたい、そもそも、人間関係の長期持続は得意じゃないのよ、私。
それでも、人とのつながりは、日々心がけてつくるもんだって思ってきた。
「死ぬ時に、愛する人に看取ってもらえる人生」 だなんて、そういう妄想は、なんか想像するだけで心温まるけれども。
私はむしろ、一人で生きていけるだけの強さの方を、ちゃんと身に着けたいよ。
生涯かかっても、そちらのほうを身に着けたいと思うよ。

だから、一人で死んで、死後何日も誰にも見つけてもらえなかったとしても、私の最期がそうだったからといって、新聞記者に 「孤族」 だの、キツネ族だの、気の毒がってもらわなくても、結構。

国は、国民に最低限の生活を保障するべきだと思うし、みんながシアワセを実感できる国のほうがいいに決まってる。でも、国や社会のありようで、「老後の自分を世話し、みとってくれる伴侶」 を求めてやまない男性の孤独まで救うのかね?
この連載の、なんというか妙に中高年の男性陣を甘やかすようなテイストが嫌い。

……と思って、あれこれ検索していたら、こんなブログを発見した。
大きなお世話、だって。

それは決して「孤独な人間の苦しみの末路」なのではない。
「個」としての尊厳ある生き方の結末である。


まったく、そうありたいと思う。
「個」 として、「孤」 を抱えながらも、「他」 とつながっていけるような生き方を目指すぞ。
とりあえず、新年の決意として、書いておこうっと。

 (なーんて、50年後の自分が読み返したら、
 「若気の至り、ってやつか。どれほどの孤独かも知らずにまったく……」
 とか思って、恥じ入ったりするのかなぁ。
 息子と夫がいないと、三度のご飯すら省略しちゃうほど、一人暮らしをすると生活破綻者になっちゃう私だし。
 えらそうなことはいえないのよねえ。とほほ)。

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google book 検索と私

パリの地裁が、グーグルの電子書籍化を差し止め、損害賠償支払いをグーグルに命じたって。
全然知らなかったけれど、国を挙げて、政府を挙げて、この流れに反対する、ってあたりが、フランスらしい、ってことなんだろう。
日本は、作家さんたちの団体の動きは早かったけれど、政府の動きは全然だったもんね、確か。

売れない本ばかり書いている私としては (そして中には、「在庫払底増し刷り未定」になっている本もいくつかある私としては)、「どんな形ででもお読みいただければ……」 的な思いのほうが強いわけで、個人的には電子化に強い反対の気持ちはない。自分の収入のうち、書籍の印税の占める割合なんて、ほんのこれっぽっちしかない、という現実がこれまた、強く反対しない理由なのかも。
一方で、出版に携わる人たちにお友達が多いこともあって、この問題の切実さは、あちこちから聞かされることも多い。これ以上に出版不況が深刻化すれば、ますます 「売れる企画」 しか通らなくなるわけで、「売れない企画」 しか手持ちにない私は、もっと切実に焦ったほうがいいのかもしれないな。

それでも。
私はこの2年間、実は、google book検索にむちゃくちゃお世話になっている。

何かというと、カレッジのレポート書き。
1本のレポートを書くのに、それがインフォーマルな、せいぜい2~3枚のレポートだったとしても、やっぱりせめて2~3本の参考文献を読みたい私は、その文献探しに時間を取られているヒマがない。
だって、英語で本を読むのって、日本語の13倍くらい時間がかかるんだもん。
いや、もしかしたら130倍かも。
ところが、google book検索があれば百人力。
片っ端からキーワードを入れ、本を検索する。
いくつかピタリときそうな本の中で、今度は全文検索して、キーワードを使っている箇所を片っ端から読む。
これで外れることも多いけれど、時々、「ああ、この一文がほしかったのよ!」 という文献に出会う。
そしたら、まず、その一文を含む章を全部ネットで読む。
前後関係から、引用してよし、と思ったら、今度はその文献がその分野の研究においてどの程度の評価を受け、どの程度引用されているものかをざっと調べる。
さらに、「いけそう」 と思ったら、そこから引用。
ページ数まで全部分かるんだもの。
本を買う必要なし。

でも、最近気づいたけれど、その本の肝心なデータとか、一番引用したい部分に限って、きちんと閲覧制限がかかっている書籍も多い。
そんな時は、近所の図書館や大学の図書館の所蔵書をざざっとネットで検索し、あったらネットで予約を入れるし、なければさっさとアマゾンあたりで買っちゃう。(日本と違って、結構送料が高いのが玉に瑕なんだけど)。

いいのか、こんなに便利で?
20年以上前、卒論を書くのに、英国の成人教育なんてテーマを選んでしまった私は、英語の文献の所蔵の多かった東大まで、わざわざ京都から足を運んだもんだ。
大垣経由の各駅鈍行に夜中に飛び乗って、早朝にたどりつく東京駅。
あの数千円と、あの時間を今の学生は節約できるんだと思ったら、むちゃくちゃうらやましかったりする。
だいたい、本文全体をキーワードで検索できるって、外国人学生にはなんとありがたいことなんだろう。
レポートを書く、という場面でなくても、ちょっとこの分野の専門家を探したい、とか、どういう学説が主流なんだろうか、なんていう時に、あれこれ文献を効率的に読めるのは、「キーワード検索」 のお陰だとしみじみ思う。

学術の世界では、当然、自分の論文を引用してもらってナンボなんだろうから、きっと、論文にしろ、書籍にしろ、仲間の研究者が検索をかけた時に、その検索結果の上位に食い込むにはどういうタイトルをつけたらいいか、とか、どういうキーワードを多用したらいいか、とか、あるいは、私なんかにはうかがいしれないような、もっとテクニカルな方法なんかが、随分とすでに広まってるんじゃないかなぁ。

で、私みたいな、ネット初心者は、コロリとそれに乗せられ、まるで誘導されたかのように、ある文献にたどりつき、それを 「ああ、ありがたい、ありがたい」 と引用しちゃう、ってわけなんだろう。

私はまだ、小説や、大好きなヤングアダルト分野の文学を、たとえばキンドルで読みたいと思わないほうだ。
何しろ、装丁フェチみたいなところがあって、本の帯を外したり、カバーを外して、中に仕掛けがないか確認したり、装丁にたずさわったデザイン室を確認したり、紙の手触りをスリスリしたり、そういうのが大好きだし。
本当にお気に入りの本は、中身だけでなく、本の手触りやら、ページをめくる感覚まで、記憶に残しておきたくなるほうだから。

でも、はっきりいって、専門書はもう、紙でないほうがいい
………。
実際に書いてしまうと、ちょっとぞくっとするな。
紙でなくてもいい」 ではなく、 「紙でないほうがいい」。

なにがぞくっとするか、というと……。
おいおい、じゃあ、新聞、どうなるねん、って話。

紙フェチ系の私ですら、紙媒体でご飯を食べてきた私ですら、「紙でないほうがいい」 と思ってしまっているくらいに、実は事態は深刻なんだと、しみじみ思う。
だって、いくら装丁フェチだって、新聞の手触りが好きでスリスリはしない。
本ならば、電子媒体で読んだ上で、「これは手もとにおいておきたい」と購入することはあるが (私は図書館で読んだ本の5%くらいは、「手もとにおいておきたい」と買ってしまうタイプだ)、ニュースを電子媒体で読んで、「ああこれ、手もとにおいておきたい」 と新聞を買いに走ったりしないもんな。

死んだあとのことは、後の世代の方々にお任せするとしても。
とりあえず、メディアがどうなっていくのか、
自分が死ぬまでの間、きちんとメシが食えるためにはどうすれば良いのか、
google book検索の恩恵にあずかっている身として、切実に思い悩む日々だったりする。

北京五輪の口パク問題に思う

北京五輪の開会式、テレビで見られなかったので、今日の今日まで知らなかったよ。
いわゆる「口パク」問題。
開会式で 「歌唱祖国」 という歌を歌い、世界中のメディアに取り上げられ、すごい人気者になっちゃった9歳の少女、林妙可ちゃんの歌は実は口パクで、実際に歌ってたのは7歳の少女、楊沛宜ちゃんで、そもそも 「口パク」自体が党の指示だった、ってな話。

ワシントンポストでも、2人の少女の顔写真入りで、大きく報じられてた。
記事には、楊沛宜ちゃんは 「歯並びが悪く」「見た目が良くなかった」 ので、「歌声はあまりよくない」 けど 「パフォーマンスは完璧」 な林妙可ちゃんを起用した、と書いてあって、あまりに身も蓋もない話に、私はトホホとなってしまった。

そもそも中国国内でも、賛否両論ものすごくて、特に反対意見の多くが、「子どもを容姿でふるいにかけるなんて!」 という反応らしい。
アメリカのメディアでも、「いくら完璧な五輪を演出したいからって、移民労働者を街から追い出したり、五輪反対派の動きを封じ込めたりするのと同じノリで、子どもまで操作するなよ」 的な論調がフツーみたい。
いや、私だって思ったよ。
「どっちの少女も、やっぱり傷つくだろー、これは」 と。
日本だったら、すぐに 「心の傷が残らないように!」 って声が上がって、「心の専門家」 でも派遣しそうだ……とまでは言わないけど、かなりひどい話だと思う。

けどさ。
実はこのニュースを読んで、私は、正論なんてすっ飛ばし、ただただ、くらーい過去を思い出したのだった。

あれは、そう、小学校1年生の時。
実は4年生くらいまでの記憶はほとんど断片的にしか残ってない私なので、1年生の時の記憶なんて、これっくらいしか覚えてない、って言うほどに、忘れられない記憶なのさ。

小学校に入学したら、母親の計らいで、近所のお姉ちゃんたちと一緒に登校することになった。
そのお姉ちゃんたちの名前はもう忘れた。
そのお姉ちゃんたちは、いつもベラベラとおしゃべりをしながら歩くので、だらだらと遅く、おしゃべり相手のいない私はいつも、彼女たちの前をすたすたと歩くのが常だった。
一人で。
そのお姉ちゃんたちは、私ともう一人、入学したばかりの1年生の女の子の 「お世話役」 を言いつけられていたらしく、その子も一緒に登校していた。

今思えば、なぜ1年生同士、私とその子が仲良しにならなかったのか、全然覚えてない。
まあ、当時の私は、ものすごく大人しかったらしいので、自分から友だちなんか作れなかったのかもしれない。……って、ははは、今の息子みたいなもんか。

ともかく。
ある日のこと。
いつものように、ぺちゃくちゃしゃべり、だらだら歩く、お姉ちゃん集団の前を一人でスタスタと学校に向かって歩いていたら、後ろから、一人のお姉ちゃんの声がした。

「あやちゃーん!」

呼ばれた、と思って振り返った私。
そしたら、そのお姉ちゃんは言ったのさ。

「あんたとちゃうわー。かわいいほうの、あやちゃんを呼んだんやん」

………。
もう一人の1年生の女の子も、「あやちゃん」 という名だったんだな、これが。
あの時、何も言わずまた、前を向いて歩いたことだけは、覚えてる。
口をきいたら泣きそうで、ずっと無言で歩いたことを、妙にリアルに覚えてる。

それ以来、あのお姉ちゃんたちと学校に行くのがすごくいやだったのに、わざわざ母親が気を回し、一緒に登校してくれる上級生を探してくれたのに、それをいやだと言うのは申し訳ないようで、結局、何ヶ月も彼女たちと登校し続けた。

これにはさらに後日談があって、そのお姉ちゃんの一人が熱で学校を長く休んだ時があったんだ。
母親が、「いつも一緒に登校してくれてるお姉ちゃんなんだし、お見舞いに行こう」 と言い出した。
お見舞い、は別にいやじゃなかった。
ただ、母は、こう言ったのだ。
「あんたの持ってる、あのお菓子、お見舞いに持っていってあげたら?」

このお菓子が、なぜかレモン味のラムネだったことを、私は今もよーく覚えているんだけれど、これは単に記憶がねつ造されただけかもしれない。
とにかく、私は、お菓子の中でもラムネはとても好きだったし、中でもレモン味が一番好きだったんだ。
だから、言った。

「いやだ」

って。
泣きながら、「絶対にあのお姉ちゃんにお菓子なんかあげたくない」 と言ったんだと思う。
「本当は一緒に学校になんか行きたくなかった!」 と初めて言ったんだと思う。
その時、「かわいいほうのあやちゃん」 事件の顛末まで母にしゃべったのかどうか。
これまた、全然覚えてない。
ただ、はっきり覚えてるのは、母が 「あんたがそんな思いをしてたなんて」 と悔し泣きし、「わかった、お見舞いなんか行かんでええ。お菓子なんかあげるな。もう、明日から、あの子たちと学校に行かなくていい」 と泣きながら宣言してくれたことだ。

たぶん、私、「かわいいほうのあやちゃん」 事件についても、しゃべったんだと思う。
だから、母は、悔し泣きしたんだと思う。

北京五輪と、レモン味のお菓子なんて、なんの関係もないのにさ。
この口パク騒動の記事を読んで、一番最初に思い出したのはこの記憶だったのさ。
レモン香料のすっぱいラムネの味まで思い出しちまったぜ。

「口パク」騒動が結構な騒ぎになっている背景には、実は、私と同じように、容姿に絡む過去の記憶やら古傷を思い出して、憤慨したり、哀しくなったり、あきれ果てたり、トホホになったりしてる男女が多いからじゃーないかしら。
「子どもを容姿でふるいにかけた」だの、「完璧を演出しようとする中国の姿勢はいかがなものか」だの、みんな色々言ってるけれど。
心の奥ではもっともっと生々しい感情やら記憶が呼び覚まされてたりしてね。
だって、今さら容姿がどうのなんて劣等感とさらさら無縁に生きることを覚えて早ウン十年状態の私だって、いきなりこのニュース読んだら、「かわいいほうのあやちゃん」 事件を思い出しちゃうんだもんなあ。

まいったまいった。
こんなささいな記憶でさえ、私はいまだに忘れられないんだもの。
「顔を選ばれた少女」 も 「声を選ばれた少女」 も、いつか長じて、この時の出来事の持つ意味をあらためて考える瞬間を迎える気がするなあ。

働く母親の子育て時間確保、だって?

アメリカにいても、日本のニュースは時々チェックする。
インターネットで。
いい時代になったもんだ。
今日のyahooニュースのトピックスにあった記事。
働くママに時短か残業免除、選択制度義務づけ。厚労省方針

最初に見だしを見て、「なんじゃこれ」。
次に記事を読んで、さらにさらに、「よーわからん」。

で、夫に向かって、声を出して読み上げた。

「『働く女性の子育て時間を確保するため、労働者が短時間勤務か残業免除を選択できる制度を企業に義務付ける法整備を求めた。』 って、変じゃない?」

夫はしばらく考えて、「そうだよなー、『サラリーマンの』 だよな」
私は、「というか、こういう場合の主語は、『働く親の』 だろーな」

とりあえず、「変じゃない?」 という私の意図を瞬時に読み取れた夫に、ほっとした。
「働く女性の子育て支援策の、どこが変なの?」 とか言われたら、朝から夫婦ゲンカになるところだった。
子育てすべきは父親ではなく、母親、というニュアンスが読み取れる記事は、大嫌い。
現実に、子育てを理由に仕事を辞める人は、男性より女性が多いのだろうし、その部分に対策を施すというのは分かるけど、それを報じる側はもちっと言葉の使い方に敏感であってほしい。

そういえば、むかーし、私が働いていた新聞社の労働担当のベテラン先輩記者さんが、社説の一行目にしれっと、

「女性の職場進出が進み、少子化が進む日本で……」

みたいなことを平気で書いてたのを読んで、それまで尊敬していたその記者さんにものすごく落胆したこともあったっけな。
「オンナが働いてるのが、少子化の原因かい?」 みたいな。

とにかく上記の読売新聞の記事じゃ、「今後の仕事と家庭の両立支援に関する研究会」(座長・佐藤博樹東大教授)の最終報告の中身が今一つよくわかんない。
本来は、働き、子育てしている父親と母親に対する選択制度義務づけを提言しているのに、新聞記者がはなからこの制度の対象は 「働く母親」 だけだと思いこみ、あんな記事を書いて、視野の狭さを露呈してしまったのか。
それとも、この研究会の最終報告自体が、これらの選択制度の対象を 「働く母親」 のみと想定しているのか。

前者だったら、さもありなん。
後者だったら……まさか、そんなバカな話はないと信じたいが。
どっちにしても、朝から 「なんじゃこれ」 な気分。
ちょっくら、調べてみるかー。
と思っていたら、朝日新聞でも同じ最終報告書の内容を前打ちで書いていることが分かった。

見だしは、専業主婦の夫も育休を取れます、厚労省が法改正へ

見だしでは 「専業主婦」 とあっても、本文では 「専業主婦(夫)」 と男女両方の可能性を示唆してるあたり、むちゃくちゃ慎重な書き方なのだった。
見出しどころが違うというのはよくある話で、どの部分を一番のニュースと感じ、何を伝えていくか、省庁担当の腕の見せ所だったりする。

最終報告、日本時間ではもう発表になったのかな。
詳細が早く報じられないかなー。

プロフィール

おぐにあやこ

Author:おぐにあやこ
名前■おぐにあやこ
生年■1966年 ひのえうま
仕事■07年秋まで新聞記者。仕事を辞めて渡米。11年、新聞記者に出戻り。
趣味■読書、歌、旅
目標■ちょっと背伸びして、
 疑問符を感嘆符に変える事
苦手■勧善懲悪


著書■
▼「薬(ドラッグ)がやめられない 子どもの薬物依存と家族」(青木書店)
「ベイビーパッカーでいこう 赤ん坊とザックかついでスペインの旅」(日本評論社)
「魂の声 リストカットの少女たち」(講談社)
「いいじゃない いいんだよ 大人になりたくない君へ」(共著、講談社)
「アメリカなう。」(小学館)
「アメリカの少年野球 こんなに日本と違ってた」(径書房、ミズノスポーツライター賞)
「?が!に変わるとき  新聞記者、ワクワクする」(汐文社、読書感想画中央コンクール課題図書、高校生の部)

訳書■
「自傷からの回復 隠された傷と向き合うとき」(みすず書房)

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