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カレッジ授業報告2010秋5

アメリカも、日本も、財政赤字に苦しんでいるのは同じ。
さて、この日の Sember先生の授業は、国家予算の話。
アメリカの国家予算は、一世帯当たりにすると 約23760ドル。
一方、一世帯が税金として収めている岳は、約20044ドル。
「つまり一世帯当たりで3700ドルくらいの赤字だってことだ」
と Sember先生は言う。

面白かったのは、ここから。
一世帯当たりの国家予算、23760ドル(だいたい200万円くらい?)のうち、いったい、何にどれくらい遣われているか?

1位は、ソーシャルセキュリティーやメディケア。いわゆる高齢者の生活を守るためのお金。これに7875ドル。
2位は、軍事費。何といっても、アメリカの軍事費は、今や、残りの世界中の国の軍事費をかき集めたより規模が大きいわけで。これが4701ドル。
3位は、低所得層への施策。3579ドル。
4位は、哀しいかな、国の借金の利子。何のサービスも生まないお金。これが1935ドル。つらい。
5位は、連邦政府や軍の職員の退職金など。

で、カレッジの学生にとっちゃ、直接関係のあるサービスは、ようやく6位に顔を出す。
教育費。一世帯当たり732ドル。

Sember先生が言う。「これって、どうだい? 君の家族が税金を2万ドル払っても、君の教育のために使われてるのは1年に700ドルぽっちだぜ。あとは、軍事費だの、借金の利子だのに消えていくんだ。こんな遣い方に納得できるかい?」

生徒たちから、ブーイングの嵐。

さらに、次の記事。
2005年に成立した、ハイウェイ法に定められた6371もの連邦政府からの補助金プロジェクトの検証記事だった。

このプロジェクトというのが、なかなか、すごい。

オハイオ州クリーブランドにあるロックの殿堂への補助 / オレゴン州のシーフード工場への補助 / アラスカの空港補修工事への補助 / ニューヨーク映画祭への補助………。

あのー、ハイウェイとどこが関係あるんですか?
というような補助金プロジェクトがてんこ盛り。

「政府が何をやってるのか、僕らの税金をどうやって遣ってるのか、チェックするのも、意見していくのも、僕ら自身の仕事なんだよ」

この日の授業の、Sember先生のメッセージは、そういうことだったんだと思う。
これなら、日本でもほとんど同じような授業が可能だろうな。
明らかに割りを食っている、今の日本の若い世代は、こんな授業にどんな反応を見せるのか、見てみたいと思った。


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カレッジ授業報告2010秋4

忙しくて、忙しくて、書いてる暇がないのだけれど。
カレッジ授業は恐ろしいくらい面白い。
試験対策も兼ねて、取り急ぎ、何本かに分けてご報告します。

今回は、「忠誠の誓い」 について。

I pledge allegiance to the Flag of the United States of America,
and to the Republic for which it stands,
one Nation under God,
indivisible,
with liberty and justice for all.


たとえばうちの息子は、アメリカの学校に通うようになってから、毎朝、規律して、胸に手を当て、これを唱える日々を送ってきた。最初は、ぎょっとした。
そもそも、日本では、国旗に敬礼、とか、国歌斉唱、とか、国旗掲揚、とか、そういうことだけでも色々と議論が起こるというのに、この国では、毎朝、小学生が、国に忠誠を誓っちゃうんだもの。

当然、色々な議論も起こる。
今一番有名なのは、under God の文言の扱いだと思う。

ちなみにこの、under God とういう文言自体は、1950年代に加えられたものだ。
折りしも当時は冷戦まっただ中。
敵国ソ連が無宗教国歌だってんで、「あいつらと俺らをしっかり区別しようぜ」みたいな動きが起こり、この文言が採用された。
後に、無神論者がこれを 「修正第一条に抵触する」 と訴え、第一審では、「under God は違憲」 という判決が出たもんだから、さあ、大変。国中からこの判決に対し、批判が巻き起こったんだそうだ。
現在、最高裁で係争中。

under God の扱いについては、こんな話題もある。

「ペプシが、ある時、瓶に 『忠誠の誓い』 全文を印刷したバージョンを売り出した。ところが、『誰も傷つけないように』 と配慮して、あえて、under God の文言だけを削除していることがわかって、ペプシには逆に抗議が殺到。結局、ペプシはそのバージョンの瓶を全部回収することになった」

という話。
Sember先生もこのエピソードを授業中に使ってたんだけど、あまりに面白すぎるわりには、ニュースソースがうまく見つからない。実は都市伝説じゃないか、なんてことを書いてあるサイトまである始末だ。

これについては、後日、Sember先生に、「都市伝説じゃないか、なんて話もあるようですが」 と質問にいった。
彼曰く、
「いえね、僕も、ニュースソースは見つけられずにいるんだ。でも、あれは本当にあった話なんだよ。なぜなら、僕自身がその現物を見たことがあるからね。あああ、今思えば、あの瓶を取っておけばよかったなあ。たしか10年くらい前の話だったと思うんだけど……」

だって。
ははは、生き証人、でしたか。

ちなみに、忠誠の誓いに関して有名な判決が2つある。
一つは、1940年のMinersville School District v. Gobitis。
「エホバの証人」を信仰する家庭の子どもが、学校で、アメリカの国旗に対して敬礼し、忠誠の誓いを唱えることを拒否したため、学校から放校処分を受けた、というケース。
エホバの証人は当時、国旗への敬礼を拒否するのが公式の教理になっていたらしい。
この子どもが通う学校というのが、90%がカトリックで、すでにエホバの証人との間で緊張が高まっていたときだったから、激しいいじめや排斥運動につながっていったらしい。

おまけに、最高裁は、「公立学校が子どもに強制的に忠誠の誓いを唱え、星条旗に敬礼させることは合憲」 と判決を出したもんだから、これを機に、エホバの証人に対する排斥運動は全米に広がっていったんだって。

ところが、この3年後。
West Virginia State Board of Education v. Bamette のケースで、最高裁は前の判決を覆した。
簡単に言っちゃうと、「宗教や国家や政治の問題において、何が正しいとか、無理にこれをしろ、とか、生徒に無理強いすることは許されてはいけない」 というような判決。
これで、とりあえず、「忠誠の誓い」 の時間に、生徒は、誓わなくても、立たなくてもいい、ということが認められたわけ。

もちろん、長いものにはとりあえず巻かれる我が家の息子は、文言の意味がまったく分からないうちから、モゴモゴと適当に口を動かしていたそうだけど。

Sember先生は、Minersville の学校のケースをとりあげ、あえて最高裁判決を隠した状態で、学生たちにディベートさせた。

「公立校で子どもは忠誠の誓いを唱えねばならないか?」
「ここはアメリカなんだから、星条旗に忠誠を誓うのは当たり前だし、英語をしゃべるのも当然だ!と思うか?」

幼いころから、忠誠の誓いを毎日毎日唱えてきた学生たちなのだから、案外、「YES」という生徒が多いのではないか、と思ったら、こればかりは違った。
忠誠の誓いを唱えなかった子が、退学処分を受けたのは当然だ、としたのは教室で一人だけ。
(1人だけでも、堂々と手を上げる姿は、これまたなかなかすがすがしく、なかなか日本では見られない光景だと思った)。
「処分は行き過ぎでも、ここはアメリカなんだから、忠誠の誓いを唱え、英語をしゃべるのは当たり前」 と答えた人も、5人 (4分の1以下)しかいなかった。

これはちょっと意外だった。
毎日毎日忠誠の誓いを唱え、国歌の前奏が聞こえてくれば反射的に立ち上がって胸に手を当てるように育っている学生たちでも、それを自分がするかどうかと、それを他人に強いるかどうか、は別モノなのだと、分けて考えていることがよく分かったから。

私の目には、忠誠の誓いは、なかば洗脳にも見えるわけだけど、ところがどっこい、子どもたちはもっとしたたかというか、伸びやかというか、ちゃらんぽらんというか、デコボコなのかもしれない。
毎日唱えてきたはずの学生たちなのに、唱えさせてみたら、すでに忠誠の誓いの文言があやふや、って子がいかに多かったか!
おいおい、あんたたち、毎日これを唱えてたんでしょ? と笑ってしまった。
私なんか、幼稚園、小学校、中学校、高校までの校歌の1番の歌詞なら、全部歌えるぞ……。
(という、私みたいなタイプが、一番洗脳されやすいってこと???)

いずれにしても、人間というのは本当におもしろいと思う。
たとえば、スポーツの試合だの、行事だののたびに、国歌を誇り高く歌っているように見えるアメリカ人なのに、調べてみると、意外や意外、歌詞をきちんと覚えている人は多くはなかった、というような調査もあったはず (出典が見つからないけど……)。
そのくせ、5年ほど前だったか、スペイン語版のアメリカ国歌が登場したときは、えらく批判が集まったり。

Sember先生によると、「僕らは、実は、国歌の歌詞を正確に覚えているわけでもないのに、どうしてその歌詞がスペイン語に訳されたとき、反発してしまうんだろうか?」 という問いかけで授業をしてみると、結構面白いんだそうだ。
ぜひ、その授業シーンを見てみたいもんだ。

Sember先生はよく、「リベラルが強いメリーランド州の、それも人種・民族の多様性の豊かなモンゴメリー郡のカレッジだけあって、恐ろしくリベラルな学生が多い」 と笑うけど、実際にそうなんだろうな。
ちなみに、Sember先生はかつて南部州で高校教師をしていたとき、忠誠の誓いの 「Under God」 という文言を、「under Constitution」 と言い換えてもいいよ、と生徒に指導しようとしたことがあったらしい。
「でもねえ、南部の保守的な学校では、これはなかなか難しくて。逆にあれこれ批判が出てきそうだったから、結局、おとなしくしてたんだよ」 と茶目っ気たっぷりに授業で話していた。
なるほどなあ。

カレッジ授業報告2010秋3

授業第二日目も、Sember 先生は新聞記事を2枚使った。
実は、カレッジのウェブサイトにすでにアップしてくれてあった記事なので、今回は私も若干予習などしておいた。
できれば、発言してみよう、という意気込みで。
しかし、今回は逆の意味でなかなか難しかったのだった。

最初の記事は、affection alienation (愛情離反、とでも言うのか?)の法律上の取り扱いについて。
妻の浮気が分かったとき、夫が妻の浮気相手を相手取って賠償を求め、実際に認められた、という話。
その賠償金たるや、2億円以上!!! ひええええ、なのである。
こんなことが起こったのは、ノースカロライナ州。
実は、アメリカでは、愛情が離れた結果の浮気が、離婚訴訟などの慰謝料の根拠にならない州のほうが圧倒的なんだって。DVとか、そういう理由の離婚ならともかく、「別の人を好きになる」 というのは、過失にならない、ってことなのかしらん。
このあたりの専門的なことは、すみません、よくわかりません。
いずれにしても、日本では、浮気による離婚の場合、浮気した側に300万円程度(専門じゃないのでよく分からないけれど、確かこれくらいでしたっけ?)の慰謝料が認められる、はず。
ところが、アメリカでは、affection alienation が慰謝料支払いの対象になる州は、たった7つしかないらしい。それが、ノースカロライナ、ミシシッピー、サウスダコタ、ユタ、ハワイ、イリノイとあともう一つ(聞き逃した)。
結婚したカップルのモラル維持を目的にした決まりごとだそうだ。

「さあ、君たちに問題。夫が妻の浮気相手から200万ドル(約2億円)を得られるって結末をどう思う?」
「君がもしも浮気されたなら。さあ、相手にいくらの慰謝料を求めるかね」

この質問に対する学生たちの答えは、比較的、若者らしかった。

「冗談じゃないよ。彼女に値段をつけられるわけ、ないじゃないか」 と憮然とする青年とか (かわいい)。
「2億円? もっとふんだくってやるわ」 という勇ましい女の子とか。
「愛情が離れるには、その前にそれだけの理由があると思うんだ。だから、愛情の離反って、どちらか片一方の責任とはいえないんじゃないかな」 なーんてまじめそうに語っちゃう青年とか。(これも、かわいい)。

なんか、結婚十数年、の私には出る幕なし、という感じなのだった。

で、先生からの結論がどんなだったかというと……。

「つまり、何が正しくて、何が間違ってるか、なんて州ごとに違うんだ。君たちも、既婚の異性をナンパするときは、相手がノースカロライナ州やミシシッピー州の出身じゃないかどうか、確認したほうがいいよ。浮気するなら、ここ、メリーランド州の州内におさめておいたほうが身の安全だよ」

ははは。
身もふたもないな。

で、2本目の新聞記事。
こちらはオレゴン州の刑務所の話。
オレゴン州で、3人の殺人容疑で男が逮捕された。彼は刑務所で、カトリックの司祭を相手に、3人を殺したことを告白した。ところが刑務所が設置してあったカメラで、映像も音声も記録されてしまった。これを証拠に、この男を裁けるか?

というような問題。

日本人としては、当然、「被疑者の同意なしに、盗聴したテープに、証拠能力はあるのか」 というような議論になると思うんだけど。
なんと、議論はそっちには行かなかった。

曰く、カトリックにおける「告解」は、秘密にされるべきで、公にされるべきではない、というルールが破られることは、信教の自由、つまりアメリカ合衆国憲法の修正第一条の侵害ではないか。

さて、ここで問題。
この教室には25人くらいの主に18、19歳の学生たちがいたのだけれど。
Sember先生が 「さあ、この男は、この告解をもとに殺人犯として裁かれるべきか」 と問うた時、生徒たちはいったい、どう答えたでしょうか?

答。
わずか3人を除いて、全員が、「信教の自由が守られるべき。3人の被害者がいようと、たとえ殺人犯が無罪になろうと、司祭への告解が証拠採用されることは、信教の自由の侵害であり、あってはならないこと」 と答えた。
この結果には、ほんと、打ちのめされた。

これまで、アメリカという国は、日本から見ていては絶対に分からないくらいに、「神の国」 なんだと理解してたつもりだったけど。
あらためて、こういう結果を見せられると、愕然としちゃう。
(ちなみに、私は手すら挙げられなかった。そもそも、カトリックにおける告解とそれの取り扱いについての考え方すら、よく分からず、発言どころか、判断のしようがなかったからだ)。

でも。
ここからの Sember 先生流どんでん返しは、なかなかすごかった。

「そうか。君たちは、3人殺した男を裁くことができなかったとしても、司祭への告解は秘匿されるべきだ、と言うわけだな? ならば、これでどうだい? この男は、実は、カトリック教徒ではなかった!」

えええええええーーーーーーーーーっ!

教室がどよめいた。

「さらに。この男は、あちこちに刺青をいれた、ナチ信奉者だった」


ひええええええーーーーーーーーーっ!

さらに教室がどよめいた。


「おまけに、この男は27歳だったのだが、18歳の少年とホモセクシュアルな性関係を持ち、この少年に女のガールフレンドができたことに腹を立て、この少年と、ガールフレンドと、親友の3人の未成年を、なんと野球の金属バットで殴り殺したんだ。さあ、どうだ? これでも君たちは、彼が裁かれるべきではない、と言うのか?」

再度挙手を求める Sember先生。
果たして結果は……。
「告解を証拠採用してでも、この男を裁くべき」が、最初の2人から、18人に増えた。
(逆に言えば、それでもなお、告解は守られるべき、という生徒が5人程度いたってわけだ)。

生徒たちからは、ブーイングの嵐。

「先生、ひどいよ。そういう事実を隠しておくなんて」
「おや、そうかい? 法の前ではみな平等、なんじゃなかったっけ?」
「でも、先生、いくらなんでも、ナチ信奉男なんて……話が全然違うじゃん」

ってなわけで、授業の最後の最後まで大騒ぎなのだった。
先生は一言、こう結論付けて、授業を終わった。

「まあ、つまりだな。このアメリカって国では、自由と、秩序と、平等という3つの大切な価値観が、日々ぶつかりあってるってわけだ」

ちゃんちゃん。
本日もまた、Sember 劇場の面白さに、すっかり脱帽してしまったのだった。


カレッジ授業報告2010秋2

最初の授業の日、Sember先生は2分遅れで教室にやってきた。
一応ネクタイに背広姿。
でもちょっとくたびれたオヤジっぽくて、とぼけた雰囲気は、ジョージブッシュ(息子のほう) にも似ている。

コースの説明をざっくりとしたあと、先生はおもむろに、2枚の新聞記事の切り抜きを、前のほうに座っていた2人の学生にそれぞれ渡した。

1本目の記事は、26歳の女性教師が未婚のまま妊娠した、という話。彼女の勤務先がカトリックの私立校だったのだが、彼女が、校長先生に 「おなかの子の父親とは結婚するつもりはありません」 と言ったため、2日後、解雇された、という話。

「さあ、みんな、どう思う? 彼女は解雇されるべきだったか。あるいは、解雇は不当であるか」

議論大好きなアメリカのティーンネイジャーたちは、早速挙手する。
「絶対にありえないわ。結婚しないで出産するなんて、いまどき当たり前じゃない」
(アメリカでの同棲カップル率は、日本の比ではないほど多い)。
「だいたい、この女性が結婚するかどうかは、学校に関係ない話よね」

一方で、こんな反論も。
「でも、カトリックだろ。最初に雇用されるときの契約書に違反するんじゃないか?」
「違反するって何よ? 契約書に、『未婚のまま妊娠すれば、解雇される』 とか書いてあるってわけ?」

まあ、そんなこんなで大騒ぎ。

さらに、Sember先生が引っかきまわす。

「おい、君? そう、赤いシャツの君。名前は? ジェイン。OK、ジェイン、君に問題だ。君がもしも厳格なカトリックの家庭を築いた母親だったとする。え? カトリックじゃない? まあ、たとえば、って話だからね。君は娘をカトリックの学校に行かせているとする。カトリックの家庭は、どうして年間3万ドルくらいのバカ高い授業料を払ってまで、カトリックの学校に行かせるんだろう? そうだよね。カトリックの教えをきちんと学び、カトリックの考え方に沿った教育を受けさせてやりたいからさ。そんな学校で、娘の先生が未婚のまま、子どもを生むという。君ならどうする?」

「彼女の雇用契約書には、カトリックの教えを逸脱せず、教えに沿った教育に携わります、みたいな項目もあったんだ。だから、君の言うとおり、契約書を根拠に解雇されるのは当たり前かもしれない。でも、考えてごらん。君が同じ立場だったら、君は解雇されるか? そうだよな。男だったら解雇されなかったはずだ。となると、これは男女差別ではないのか?」

「未婚の母はダメだという。ならば、彼女が『堕胎します』といったらどうかね。これまたカトリックの教えに猛烈に引っかかるわけだ。生むべきか、生まざるべきか、どっちにしても解雇ってわけ」

こうして、議論は、1つの点に集約していく。
つまり、女性の権利と、信教の自由と。
いったい、どちらが優先されるべきなのか?

ある程度、論点が見えてきたところで、あえて結論を出さず、次の新聞記事に話題を移す。

ある男性が、別の女性から卵子を提供してもらい、自分の精子とで受精卵を作り、それを代理母に生んでもらった、という話。男性は数百万円の報酬を代理母に支払い、契約を交わし、その上で、三つ子が生まれた。ところが代理母は出産後、子どもたちを父親に手渡すのを拒否し、そのまま自分の手元に引き取って育ててしまった。
父親は当然、子どもの親権が自分にあることを主張し、訴訟を起こした。

「さあ、君たちなら、どう思う? 子どもたちは、父親のもとに返されるべきか。それとも生んだのは代理母なのだから、彼女の元にいるべきか

こちらのほうは、さっきより、議論が割れなかった。
圧倒的に、「父親がお金を払って契約したのだから、子どもは父親のものである」 という意見が多かったからだ。

それを見ると、Sember先生はこう引っ掻き回す。

「ほっほう。契約、ねえ。だいたい、前の新聞記事では、契約がどうであろうと、女性の教師が解雇されたのは女性差別だ、って言ってたくせに、今回は契約のほうを重視するのかい?」

「つまり君たちは、契約さえあれば、人間の売り買いをしても良いって言うわけだ。奴隷制度と同じように、『金で買ったんだから』 ってね」

そのうえで、少しだけ事実の種明かしをする。

「実はこの父親、代理母が出産した後、病院に少しも顔を出さなかったらしいんだ。それで、代理母が、自分の生んだ子があんな無責任な男に育てられるのはかわいそうだ、って家に連れ帰ったんだな。ところで、訴訟だが、当然結論が出るのに時間がかかる。この件では、2年かかった。その間、父親は父親で、子どもたちに名前をつけていた。つまり、だ。三つ子の子どもたちは、自分を生んでくれた『母親』のもとで、2年間も養育されてきて、名前だってちゃんとつけてもらっていてた。もしも、2年後、訴訟の結果、父親のもとで暮らすとなると、3人の子どもたちは、まったく知らない男と、これまでとまったく違う名前で、生きていかなきゃいけないってわけだ」

こうなると、「やっぱり父親ではなく、代理母に育てられるべき」 という生徒がぐぐっと増えた。

さらに、Sember 先生は付け加える。

「ちなみに、この代理母のほうも、父親を相手に訴訟を起こしたらしい。『養育費を渡せってね』」

このあたりでもう、教室は騒然。
教室が大騒ぎなのを、しみじみと満足げに見ていた Sember先生は、こんな風に授業を締めた。

「つまり、これが政治なんだ。何が正しくて、何が間違えているか。そんな答はありえない。ただ、政治のあちこちで、価値観のぶつかり合いがある。代理母のもとに生まれた子どもたちのように、人々はそのぶつかり合いの中でもみくちゃにされる。それに決着をつけていくのが、政治ってやつだ」

1時間15分の授業のあいだ、エネルギッシュに、そしてものすごい早口で、大声で、先生は話し続けた。
何かに似ているな、と思ったら、観客の関心をひとときもそらさない、勢いのある、Stand up Comedy って感じ。
なるほど、アメリカの10代に一番人気の授業というのは、こういう授業だったんだな。

え?
私?

なにしろね。手を挙げなくても、指されて、発言を求められる授業なもんで。
思わず、「当てられませんように、当てられませんように」 と心中祈っちゃったよ。
情けない~。
「こっちが正しい、いや、こっちだ」 などと黒白はっきりさせる論調って結構苦手なので、「こう考えるとこっちを支持したいけど、こういう見方をするとこちらを切り捨てるのはおかしいし、でも、こういう立場で考えると……」 などと、ああでもないこうでもないと言ってしまいたくなるあたり、ディスカッションの訓練を受けてない、日本人のツラサかなあ。

まあ、少しずつ発言の機会を増やしていこうと思った初日なのでした。


カレッジ授業報告2010秋1

今年春は、色々以上があってカレッジの授業を取らなかったのだけど、秋はまた一つ、取ってみることにした。
これまで、社会学、アメリカの政治における人種とエスニシティー、家族と結婚の社会学、とニッチな方向に向かってたのだけど、今回は趣向を変えて、王道というか、基本に立ち返るというか、

American Government


ってのを試してみることにした。
なんだかんだいっても、アメリカの政治について概論をざっくり知っておきたいと思ったのが一つ。
また、アメリカのカレッジの授業というのは新しい情報をどんどん取り込んでくれるので、案外、王道みたいな授業のほうが、この国の状況やら抱えている問題などを広く浅く見渡すことができることがわかってきたから、というのが一つ。

そこで今回は、学生に超人気の先生の授業を取ってみることにした。
大学の教官を学生側が評価するウェブサイトでは、普通、「楽に単位を取らせてくれる」 という教官に人気が集まるものだ。が、その中で、「試験は難しいし、勉強しないとなかなか単位は取れないけれど、でもこの人は教えるために生まれてきたような人」 という評価を受けている先生がいた。
これが、Sember先生 だった。

ところが、彼の授業を申し込もうとして、びっくり。
まだまだ、ほかの先生の授業はがら空き状態なのに、sember先生の授業だけはもう、ほとんどが満員御礼。
空席があってもわずか1、2席のみ。
大慌てで、空席わずかの授業に滑り込んだ……はずだった。

もう3期もパートタイム学生をやってきて、まさかこんな大ポカをやらかすとはねえ。
なんと私、せっかく登録した授業の、授業料の払い込み期限をすっかり忘れていたらしく、はっと気づいたときには、時すでに遅し。
授業登録はカレッジ側から一方的にキャンセルされちゃっていて、再度申し込もうとしたら、すでに満員御礼。
結局、登録を受け付けてもらえず、トホホな結果となったのだった。

とりあえず、その授業のウェイティングリストに名前を登録した後、Sember先生にじかにメールを書いた。
アメリカ生活で学んだことなんだけど、満員御礼とか、期限終了とか言われても、あきらめず、熱意を派手に見せたら、道が開けるどころか、その熱意がむしろ歓迎されちゃったりすることも多いのだ。

以下が今回書いたメール。

「私は日本のジャーナリストです。この国を理解するために、アメリカの政治状況を概観したいと思い、受講を希望しております。
 先生の授業をいったん登録したのですが、コンピューターのトラブルかなんらかの事情で、うまく登録できていなかったようです。それに気づいたときには満席でした。子どもの世話などを考えると、この授業の時間帯が唯一私が受講できる時間帯であり、また、周囲の多くの人から、『アメリカを理解したいなら、Sember先生の授業を受けるべし』 と勧められたこともあり、ぜひ、先生の授業を拝聴したいと考えております。
 私の場合は、単位取得が目的ではなく、あくまでこの国を理解したい、というのが動機ですので、聴講という形ででもかまいません。
 英語は決して流暢ではありませんが、これまでこのカレッジで受講したクラスの成績はすべてAです。また、これまでも授業から学んだアメリカ事情を日本のメディアに伝えることで、多くに日本人読者のみなさんからもご好評を得ております。
 受講にお力添えをいただけますと、とてもうれしいです」

ははは。
100%ウソではないが。
でも、どう考えても誇張だらけの、大げさ自己アピール。
まさかこれが後で自分の首を絞めることになる、なんて、このときは全然思わなかったんだな。

Sember先生からはすぐに返事が来た。
「あなたが授業に参加することを許可します。もしも、授業登録の際に、私のメールや署名などが必要でしたら、いくらでもおっしゃってください」

やっぱり、この国って、派手にアピールした者勝ちなんだなあ。
こういう体験を重ねているうちに、アメリカ人はどんどん、派手に自己アピールする技を磨いていくんだろうなあ、としみじみ。

そんなわけで、あれこれ手順を踏んだ上、授業に参加できることになったのだった。
ところが……。
クラスの日程をながめてあらためて気づいたこと。
わ、わたし、期末試験の直前に5回も授業を連続して休むことになるじゃん。
……ってことは、どうあがいても、まともな成績なんて取れっこない。
下手したら、落第じゃーっ。

いえね。
いまさら、学位とるわけじゃなし、成績なんてどうでもいいのよ。
成績がAでも、Bでも、Cでも、もっと言えば、たとえ落第したとしても、私はなーんにも失わないんだし。

ああ、でも。
私は、Sember 先生に書いてしまったのだ。
「私はカレッジで受講したすべての授業で成績Aを取ってきましたっ!」 と。

あんな、中学生の勘違い優等生みたいなアピール、しなきゃよかった~っ。
今になって、頭を抱える私なのだった。
とほほ。

「公の場における宗教的表現」

移民に関する授業をとる予定だった春期のカレッジだが、途中で長期欠席しなければならない事情もあって、結局、今季はお休みすることにした。
そんなわけで、ここ数カ月は、カレッジの代わりに、DCのあっちこっちの研究所なんかの主催する講演会とかシンポジウムとかを聴きに行く、ということにした。
レポート提出も、宿題も、成績もないとなれば、きちんと出掛けていくモチベーションを維持できるかどうか、ナマケモノ志向の私としては、かなりビミョー。
でもまあ、通い慣れたカレッジとは違う、別の場所に出掛けていく、というのは大事かな、と思って。

本日は、ブルッキング研究所で行われた、「アメリカの公的な場所での宗教的表現について」。
このタイトルを聞けば、とりあえず身近なところで、たとえば、

・学校で聖書や神について教えることの是非
・学校の子どもたちが毎朝言うことになっている 「忠誠の誓い」 におけるGodの扱い
・市役所前の広場なんかに、たとえば、12月にクリスマスの飾り付けをすることの是非

くらいは思いつくわけだけど、ほかになにか、あるのかしらん、という程度の知識で出掛けた。
いやはや。
やっぱり、この手の話は、きちんと下準備しないと、専門用語バシバシで、おまけに宗教用語もバシバシで、なんとなく分かるけど、厳密に理解できたことはほとんどない……というような悲惨なありさま。
言語の壁も厚いけど、知識の壁はなお厚かった~。

憲法修正第一条の専門家だとか、公教育における宗教の自由についての専門家だとか、あるいは、キリスト教、ユダヤ教などを背景にした専門家がずらっと並んで、何をやったかというと、共同声明の発表。
共同声明、というからには、「宗教的表現は公の場では、こうであらねばならない!」 的な主義主張声明かと思ったら、全然違った。

あくまで、現在の法的解釈で何が許され、何が許されないのか、何が違憲で、何が合憲なのか、「法がどうあるべきか、という判断はあえて加えず、現在の法解釈がどうなっているのかについての共同声明」 なんだって。
で、そういう声明を出す目的は、「まだまだ結論の出てない問題も多いが、少なくとも、すでに法的に決着がついている問題について、あれこれ現場で議論が混乱しないようにするため」 だそうで。
実際のところは、「法がどうあるべきか」 なんて所まで踏み込んだら、「共同声明」 という企画自体が瓦解してしまうほど、意見の分かれる問題だった、ってことなんだろう。
ことほどさように、宗教国家アメリカで、信教の自由 (信教しない自由も含む)と、宗教の自由とを、きちんと守っていくのは大変で、気が遠くなるほどの議論がすでに重ねられてきているのだ。

声明は、Q&A方式になっていて、いくつか面白いテーマもあった。
たとえば、身近なところでは、

・宗教活動のために個人および団体は政府の施設を使っても良いか?
・自治体は、季節の飾り付けとして、宗教的な要素を含むものを飾って良いか?
(クリスマスツリーやサンタクロースなど)
・季節の飾り付け以外の意味合いで、自治体が、宗教的な像や聖書の一節を掲示して良いか?
(たとえば、裁判所に「モーセの十戒」を展示するなど)
・硬貨に 「In God We Trust」 と刻印されていることは、違憲ではないのか。
・雇い主は、従業員が宗教上の礼拝などができる場所を職場に設置すべきか。逆に、従業員は、職場で宗教活動を行って良いのか。
・公立の小中学校が宗教を教えて良いのか。
・Under God という言葉を含む 「忠誠の誓い」 を公立学校の生徒に唱えさせることは許されるのか。

などなど。
いちいち、結論をここに書けないけれど、これらの項目について、最高裁判決ではこうだったとか、色々な説明があって、それはそれで、現状を認識するよいテキストとなりそう。

たとえば、市が、年の暮れに、季節の飾り付けとしてクリスマスツリーを飾った場合、それが、キリスト教の布教を目的としたものであったり、キリスト教を支持すると表明するようなものであれば違憲だけれど、全体として特定の宗教を推進するような内容と判断できないものであれば、合憲、とか。
「モーセの十戒」 の展示については、同時期にまったく結論が逆の判決が出ちゃってるとか。
「忠誠の誓い」 については、まだまだ議論の余地の残るところなんだとか。

へええ、と思うことしきりの声明ではあった。

印象に残ったことが一つ。
質疑応答の時間に、ある男性が 「実に色々な宗教を代表する立場の方が加わり、共同声明を出されたことに敬意を表しますが、それならば、信教をしない立場の団体、たとえば、American Humanist Association とか数多くの団体があるわけですから、そういった立場を代表する人をワーキンググループに参加させるべきだったんじゃないでしょうか。そうすれば、内容も若干変わったのではないか、と思いますが」 と発言したこと。
実は彼の発言で始めて、そういう団体があることを知った私。

しかしまあ、これだけきちんと議論を詰めていく、という姿勢は、やっぱりすごいよなあ、と思った。
日本で、公共施設にクリスマスツリーを飾る時、こういう議論って、行われるのかなあ。
やっぱり、アメリカにおける宗教、人種・民族、銃所持の3点セットは、相当勉強しないと、日本人がきちんと理解するのが難しいテーマだなあ、としみじみ実感したのだった。

カレッジ授業報告 試験終わった

アメリカの結婚・家庭の社会学、という授業がすべて終了。
本日は期末試験がありました。
選択問題と、言葉の定義を書く問題、論述問題の3部構成で、案の定、「定義書き」 に今回も苦労しました。わずか1~2文で、社会学的な概念を 英語で 説明しろ、というのは、私にとっちゃ、社会学のテストというより、まさに、英語のテストだもんなあ。
それでも、論述問題は大変楽しく回答できたし、まぁ、今回も、A評定は固いな、がっはっは。
(……って、40代半ばにして、たかだかコミュニティーカレッジの成績がAだといって、胸を張ってしまう自分がちょっと情けないけど)。

今回のコースは、思いの外、役に立つ内容が多かった。

前回の、「アメリカ政治と人種・民族」 という授業は、あまりに私のほうに人種問題に関する基礎知識が足りなすぎて、また、アメリカという多民族社会の事象のあれこれを、日本の現状とストレートに比較することもできなくて、新しい知識を得たという意味では大変興味深かったし、人種や民族というテーマをこれだけ真正面に授業で扱えるんだ、という意味でも新鮮だったけれど、直接自分の仕事に結びつくようなことには、なりづらい部分もあった。
(とはいえ、人種・民族絡みの話題を、週刊ポストにも、学士会報にも、書いたっけな)。

一方、今回のコースは、アメリカの家庭や結婚に関するデータがたくさん拾えたし、日本社会とアメリカ社会を比較することもできれば、日本人と、日系アメリカ人の比較というのもできそうだったし、また、人種や民族という問題を、家庭や結婚レベルから検討する機会も得られた。
実におもしろかった。
そもそも、家庭とか結婚とか、私自身に興味があって、日本の現状やデータをある程度把握している分野だったから、アメリカのデータに触れるたび、日本との違いや共通点がすぐに見えて、アメリカとともに、日本をも知る結果になったんだと思う。

家庭とか結婚とか、身近なテーマを社会学する授業だからこそ、生徒たちも随分と自分の家庭での体験を語ってくれたと思う。たとえば、児童虐待についての授業の中で、児童虐待の件数と人種・民族との関係なんてデータが出てきて、アフリカン・アメリカンの家庭の虐待件数が、白人家庭のより、多い、という話になった時のこと。
ある黒人の男の子が、本当に本当に戸惑った表情で、「うちのオヤジ、子ども時代に、確かに俺を殴ったこともあったけど、それは俺が本気でまずいことをやったからで、あれなんかは、虐待って言わないよね」 とサントール先生に質問する場面があった。
なかなか日本の授業なんかでは出会えない場面だと思った。
「さあ、サントール先生、ここでどう答える?」 と私は思わず、先生の対応に注目してしまった。
サントール先生は、「そうだね。虐待かどうかは文脈の中で考えるべきで、そう簡単に線引きできないものなのかもしれない。むにゃむにゃむにゃ……」みたいな答え方をしていた。
全然焦ってなかったところを見ると、案外、これまでも似たような授業をし、似たような質問を何度もすでに受け慣れていたのかもしれない。

いずれにせよ、この国では、教育分野であろうと、家族・結婚という分野であろうと、雇用・就労の分野であろうと、すべてのデータは、白人、黒人、ラティーノ、アジアン (多くの場合)など人種・民族別に提示されるわけで、これらの背景について議論したり、考察したりする授業は、どの分野においても、常に人種・民族問題を考える授業にならざるをえない、ってわけだ。
おまけに、先生の力量によっては、生徒の偏見やステレオタイプ化をより強化してしまう恐れだってある。
また、マイノリティーの先生が指導する側に立つ時には、生徒の側に必ず、「先生の授業は、マイノリティーゆえのバイアスがかかっているのではないか」 というような視点が混じる。これは、どうしようもない。

知り合いのマイノリティーの先生なんか、「オンライン授業のコースを教えるほうがずっと楽なのよ。生徒にも私のエスニシティーが分からないし、私の目にも生徒の人種や民族的背景が見えない。だから、そのあたりのステレオタイプ化や偏見を、お互いに廃することができるの」 と話していた。
なるほどなあ、と思ったもんだ。

まあ、何はともあれ。
試験が終わったのは、めでたい。

今回の試験には、最後の最後に短い問題がついていた。
サントール先生は試験前に、こう言った。

「今回は、エクストラポイントを君たちにあげるために、おまけの問題を最後につけておいたからね。それが解ければ、2ポイント追加してあげる。せいぜい2ポイントなんだから、無理しなくていいよ」

どんなに分からない問題であっても、白紙で解答用紙を出すのが嫌いな私は (これ、間違いなく、共通一次世代の特徴だよなぁ)、そう言われると、解かずにいられないのだった。

さて、問題はこんな感じ。

アメリカとカナダの国境あたりで、飛行機が墜落事故を起こしたとしよう。
多くの犠牲者が出る、悲惨な事故だった。乗客は、さまざまな国からやってきていた。
彼ら被害者はいったい、どの地に埋められるべきだろうか。


最初にこの問題を読んで、思い出したのは、実は、「えひめ丸事件」 だった。そもそも船体引き上げをするつもりもなかったアメリカと、遺体捜索を強く望んだ日本の遺族側とのいきさつが、当時、とても印象に残っていたから。
それぞれの国、文化、宗教などによって、死をどのように受け止めるかも、遺体にどのような意味を持たせるかも、まったく違う。そんな違いから生じるすれ違いや意見対立は、事故であれ、臓器移植であれ、色々な場面でよく見られるものだ。

そんな事例をあれこれ挙げた上で、それぞれの乗客の遺族感情を出来る限り理解し、それぞれに応じて対応すべきだ、みたいな答を書き始めて、あれれ、と鉛筆を止めた。

victims という単語の綴りを間違えないように、念のため、問題文で確認しようと思って、もう一度問題文をよく読むと、私が victims と書いてあると思っていた場所には、代わりに、survivors と書いてある。

「生存者は、どの地に埋められるべきだろうか」

は?
なんだ、この問題?

もしかして、survivors(生存者)という単語には、私のまったく知らないような、時には、死者を意味するような場合もあったりするのか。それとも何か文学的な比喩表現なんだろうか。
悩んでも悩んでも、よく分からない。
それで仕方なく、解答するのをあきらめ、答案を先生に提出する時に、質問してみた。

「これ、解こうとしたけど、問題文の意味がよく分かりません。survivors って、まだ生きてる人ですよね? buried ってこの場合、埋葬されることを意味してますよね? それって問題文として間違えてませんか? victimsとか書いてあれば分かるんだけど」

そしたら、サントール先生、困った笑いを浮かべつつ、「うーん、君は、right track にいると思うよ。うん。つまり、答はどういうことになる?」

禅問答のような先生の答に、余計に分からなくなった私は、思わず、「えひめ丸」の話まで持ち出し、「だからね、ここの言葉が victims であれば、すごく書きたいことがあるんです。遺体をどのように扱うべきか、というのは、実に、それぞれの国で、文化で、宗教で、異なるわけだから……」 と持論を展開せざるをえなくなった。

サントール先生、ますます困った顔で、「いや、まったく、ほんとに君に言う通りだ。でも、この問題文の場合、答はどうなるのかな?」 と言う。

おい、あんた、問題文の誤字をごまかして逃げる気?
思わず、怒気を含んだ声で、
「だって、生きてる人間は、埋めちゃだめでしょう!」
と言い返したら、サントール先生、降参したよ、という顔で、一言こう言ったのだった。

「うん。だから、それが答なんだ」

………。
おいおいおいおい。
こっちは真面目に、社会学の試験だと思って、問題に答えようとしてたのに、最後の最後にきて、ただの引っ掛けクイズかい?

ちなみに、私がサントール先生とひそひそ声でこの問答をかわしていた時、その教室にまだ居残って、テストと格闘していたのはわずか3人。でも、この3人にはきっと、私の 「生きてる人間は埋めちゃダメ!」 という怒りに満ちた声は届いていたと思うし、みんなそろって、2ポイントの追加点をもらえたと思うよ。
ああ、疲れた。

いまだもって、ああいうテスト問題ってありなのか、と納得いかないよ。
だって、相手は、一応、カレッジの学生さんたちなのに。

あまりに呆れたので、息子にこの話を披露した。

「でね、母ちゃんは、くそまじめに答を書こうとしたんだけどさ、victim って単語の綴りを間違えないように、って問題文をもう一度確認したら、そこに survivors って書いてあったのよ。なんだ、これって思って……」

とそこまで私が話したら、息子が、即答。

「じゃあ、『サバイバーは埋めちゃダメ』 ってのが答じゃん。
 小学生でも解けるよ、そんな問題」


だって。
小学生でも解ける、というか、
小学生にしか解けない、というか。
とにかく、授業も試験も無事終了。
あー、疲れた。

カレッジ授業報告 期末レポートのテーマは・後編

「この記事をもってして、ラティーノやアジア人の間で、同族婚傾向が強まっている、とは言い切れない」 というのは、なんというか、結論として、どうもつまらん。
後ろ向きだし。
否定型だし。
もっと、前向きに何か言いたいじゃん?

そんなわけで、レポートはこのあたりから、どんどんと脱線していってしまうのだ。

記事の中で、若いアジア人が同じ民族の人と付き合うと "feel like home" だと表現している。
これを読んで思い出すのが、Tatum の考察だ。
心理学者である彼女は、黒人の学生が昼休みにカフェテリアで同じテーブルに固まる現象について考察を加え、「自分の人種・民族の仲間とつながりを持つことは、その社会でマイノリティーである者のアイデンティティーの発達のためには不可欠」であり、「日々直面するストレスについて、同じ民族・人種の仲間に助けを求めるという行為は、実は前向きな、coping strategy である」と指摘した。

そもそも、マイノリティーとして暮らす難しさというのは、思春期を通過したからといって、まったく消えてくれるものではないわけで、そういう意味では、同じ民族・人種の中にパートナーを見つけよう、という動きは、これ自体もまた、社会のメインストリームで生き抜くための、coping strategy とも解釈できるのではないか、みたいな。

おいおい、段々と社会学から離れていくぞ。

記事でも分かるように、同じ民族の中にパートナーを求める動きは、移民1世や、あるいは子ども時代に移住してきた人の間に特に見られるようだ。
実は、Qian氏とLichter氏の共同研究でも (そうそう。新聞記事の中では、Qian氏の研究結果に対して、Lichter氏がコメントを寄せてるみたいな作りになってるけど、この2人は実は共同研究者。これって、どう考えても記者の怠慢だと思うぞ)、

人口全体で見れば、他人種・民族と結婚する割合は、アジア人やラティーノのほうが黒人や白人よりずっと高いけれど、実は移民1世に限ってみれば、この数値は逆転する。アジア人やラティーノの移民のほうが、むしろ同族婚傾向が強くなる。
もちろん、移民1世と2世以降との大きな違いの背景には、色々あるんだろうけれど。
案外、結局は、

「アメリカ社会で生きるマイノリティーとしての、このモヤモヤした思い、
 同じ民族的バックグラウンドを共有してる相手って、言わなくても分かり合えたりするじゃん」 

みたいな部分が大きいんじゃないかな、と思ったりする。
そういう相手がいないと、暮らしていけない部分もあるんじゃないか、と思う。

そもそも、他の人種・民族との境を超えた結婚というのは、アメリカの社会学では、「人種・民族間の格差や隔たりがどの程度解消されたか」 の指標として使われているみたいだし、社会の多様性という文脈の中でも、もちろん、ポジティブな現象としてとらえられることが多い。(それぞれの宗教においては、色々な事情があるみたいだけれど)。
でもさ。
この手の論文をタラタラと読んでいると、時々、過度に assimilation (同化) を求められてる匂いがして、なんか嫌なんだよね。
なーんてもう、言語化不能な思いもあったりして、さて、このレポート、どうやって終わろうか。

なまじアカデミズムに縁遠い経歴と、おまけに性格で、
そのくせ、あっちこっちから情報を集めまくるのが習性なもので、
収拾がつかなくなってしまう……。

とりあえず、今のところは、

他民族との結婚の割合が、移民一世と二世以降とで大きく違う理由はもちろん、いくらだって、推論できるよ。
まず、「そもそも、移住した時には結婚してた」ってのもあるだろうし、その他にも、英語の流ちょうさだとか、社会経済的なステータスだとか、学歴だとか、職業だとか。そういう要素って、社会学では比較的簡単に計ることができる。
でもさ。
もっと計るのが困難な何かだって、大事な気がしちゃうんだよね。
たとえばそれは、彼らの人種・民族的な文化だったり、伝統だったり、価値観だったり、規範だったり。
通り一遍じゃなく、それぞれの個人の半生に深く深く根ざしているもの。
私は、このテーマを学ぶのであれば、やっぱり常に、そういうものをきちんとすくい上げたいと思ってしまうんだよね。

とまあ、かみ砕いて言うと、このような結論でレポートを終わってしまっている。
かなり、サントール先生の指示を逸脱しちゃってるわけで、全壊のズーク先生と違い、サントール先生は案外、あれでいて自分の指導に沿った無難な内容のレポートを評価する人なので、このままじゃあ、良い成績は望めないよなあ。

ってまあ、女40代。
もはや、成績など、どうでもいいんだけど。
やっぱり、Bとかだと腹が立つじゃない?
うむむ、どうしたものか。

カレッジ授業報告 期末レポートのテーマは・中編

まずは、選んだ記事について簡単に説明。

2009年3月に掲載された記事なんだけれど。
若い人の恋人探しのトレンドについて書いた記事。とある社会学者Qian氏の研究を引用し、過去10年間(1990-2000年)で、自分の民族と異なる相手と結婚した人の割合が、ラティーノで27%から20%に、アジア人で42%から33%に、それぞれ減少した、って話。
記事の中では、その理由について、2つの視点が提供されている。
一つは、別の社会学者のLichter氏のコメントで、「ラティーノとアジア人の移民が急に増えたことで、同じ民族グループの中に潜在的な結婚相手が増えたのだろう」 というもの。
いわゆる demographic availability ですな。
もう一つは、「アメリカ人の男性に、私たちの価値観なんて分かってもらえないだろうから」 とか 「(同じ民族の相手と一緒にいると)feel at home」 みたいなコメントが掲載されている。
自分のことを、より分かってくれる相手だから、みたいな話。

さてさて。
取りあえず、レポートの中では、昨今のアメリカの若者が結婚相手を選ぶ決め手となっている3つの要素(授業でやった話なもので)を挙げ、

1) Marriage resources,
2) Third-party normalization
3) Demographic Availability

この記事と、どう絡んでいるか、あれこれ論じてみた。
まあ、このあたりは、定石なので、英語で考えていても、なんら問題はない。
問題は、ここからなのよね。

概して新聞記事というのは、話を面白く、分かりやすくするために、物事を単純化したり、新しいトレンドばかりに光を当てようとする。その結果、意図しなかったとしても、読者に誤った印象を与えることだって起こりうる。
元新聞記者が、自戒と反省を込めて言うんだけどね。
スペースに限りがあるから、「もっとも、○○という考え方もあるし、▽▽という要素もあるし、□□という視点も必要なわけだけど……」みたいな注釈まで書ききれないのが、つらいところなのだ。

そんなわけで、レポートの中で、こんな風に話しを展開してみた。

「では本当に、ラティーノとアジア人の間で、同族婚傾向が強まっている、と簡単に言い切って良いのだろうか」。

そして、考慮すべき点として以下の4つを挙げてみた。

1、アメリカにおける同棲の急増が、何らかの影響を与えている可能性がある
2、一言でアジア人、ラティーノといっても、実は、出身国や男女別で大きく傾向が違う。たとえば、アジア人の中でも中国人の同族婚の割合は40%を超えるが、韓国人、日本人、フィリピン人ではずっと低い。また、アジア人では男性のほうが同族婚の割合が高いが、ラティーノの間では逆に、女性の間に同族婚の割合が高い、という研究もある。
3、アメリカに来て何年になるか、という年数について、より考察が必要ではないか。

そして、これが一番書きたかったんだけど、

4、記事だけ読むと、まるで 「ラティーノとアジア人って、同族婚志向が強いんだー」 という印象を読者に与える。記事は、アメリカ全体の民族・人種を越えた結婚の状況に一切触れていないが、実は、ラティーノとアジア人が別の民族と結婚する割合は、白人や黒人が他人種・民族の相手と結婚する割合よりずっと高いのだ。

ちなみに、2000年に20-34歳の白人の結婚のうち、他の人種・民族と結婚した割合はわずか2.7%。黒人では、女性でわずか3%、男性でも14%だ。(実は、この男女差も、とても深いジェンダーの問題をはらんでいると思う)。
実際の話、周囲のアメリカ人の友人に話しても、こういうデータを聞くと驚く人が多い。

「ラティーノとアジア人は、同じ民族で固まってばかりいる」という印象がよほど強いんだろうなぁ。
この記事を書いた記者さんは、別に誤った認識を固定化するつもりは全然なかったと思う。むしろ、これまで民族を超えた結婚がどんどん増えていたラティーノやアジア人の間で、「民族回帰」みたいな揺り戻しがあると考え、実に面白いニュースだ、と思ったに違いない。

「新しいことはニュースになるが、新しくないことはニュースにならない」

これが新聞の弱点の一つだなあ、としみじみ思ってしまったのだった。

実は、我らがサントール先生だって、案外、このあたりは、印象が先走ってた感がある。
ある時授業で、「白人、黒人、アジア人、ラティーノ、さて、どの人種・民族がもっとも、他人種・民族と結構すると思う?」 みたいな質問を出した。
色々と意見が出た後で、サントール先生は物知り顔に言ったのだ。
「実は、白人なんだよね」
それから、「highly educated な人は、他の人種・民族と結婚する割合が高い」と。

この時、生徒の中では、黒人の男の子たちが、どうも腑に落ちないという顔で、首を傾げていたのが印象的だった。

今回レポートを書くにあたって、私が見つけたデータとどうしても整合性があまりにないので、「どこからの引用ですか」 とあらためて質問した。
そしたら返事がこれ。

「実は、間違ったデータでした。君が探し出したデータのほうが正しい。僕のはどうやら、他人種・民族と結婚した人数の実数で得た印象でしゃべってしまっていたらしい」

実数で勝負したら、人数の一番多い白人が圧倒的に有利だわな、そりゃ。
ちなみに、先生の言った 「highly educated な人は他の人種・民族と結婚する割合が高い」 も、もう少し詳細な説明が必要な項目だったといえる。

実は、学歴が上がるほど、白人と結婚する比率が上がる、というデータはある。
興味深いことに、アジア人やラティーノの間では、カレッジまで進学した人の間で白人と結婚する比率がぐっと高まる。一方、黒人の間では、たとえカレッジまで進学しようと、白人と結婚する比率にそれほど大きく影響しない、という。
これもまた、根深い話だと思った。
また、マイノリティーの社会経済的なステータスと 「白人と結婚する比率」 との関係というデータもある。
概して、ステータスが上がれば上がるほど、白人と結婚する比率は上がる。学歴との関連性と同様、白人との 「出会い」 が増える、ということが一番の理由とされている。
ところが。
アジア人の間では、この社会経済的なステータスが 「白人と結婚するか」 を大きく左右するのに比べ、比較的、裕福でない家庭も多いラティーノの間では、これらのステータスが 「白人と結婚するか」 にそれほど影響しない、という。
身も蓋もないが、これについては、「肌がどの程度白いか」が主な原因だろう、と多くの学者が指摘しており……。

とまあ、調べれば調べるほど、3枚のレポートになんか収まりきれない、重たい現実がボロボロと見えてきたのだった。
結局レポートって、書くことより、書くために調べてる時のほうが、おもしろいよなあ。

そんなわけで、「この記事の内容だけを持ってして、ラティーノやアジア人の間で、同族婚傾向が強まっている、というようなことを簡単に言い切ることはできない」 という結論を書いたところまでは、結構簡単に済んだのだった。
で、私が行き詰まってしまったのは、実はここからなのだった。

カレッジ授業報告 期末レポートのテーマは・前編

アメリカの家族社会学の授業もいよいよ山場。
来週には、最後のレポートの締め切りが控えている。
今回の課題は、

1、ワシントンポスト紙から、家族社会学に絡むテーマに触れた記事を一つ選び、
2、それを要約した上で、いかなる社会学的な事象が描かれているか、
  社会学者であればこれについてどのような分析を加えるか、を述べよ。
  ただし、授業中に出た内容に基づいて述べること。

枚数はわずか3ページちょっと。
短すぎ。
アメリカ政治と人種・民族の時のレポートは、思い切り長く書けたのになあ。
おまけに、こういう課題だと、あれこれ文献を見つけ、色々な学者の学説に当たり、ああでもない、こうでもない、と論じるスペースすらない。
つまらん。
書く宿題は大好きな私としては、ただただ、ふてくされるのみ。

でもそんな話を、知人の大学の先生にしたら、わはは、と笑われた。
「私もおぐにさんの言う通り、一つのテーマを自由に選ばせて、たくさん文献を読んで、しっかりしたフォーマルペーパーを書かせるのが大好きなんですけどねえ。今は、この手の、『新聞記事から選ぶ』とか、わざとテーマを具体的に与えるのが主流になりつつあるんですよ」

なぜか?

剽窃防止策なんだってさ。
確かに、最近、ネットを色々見てまわっていると、あっちからこっちからコピペしまくったら、「可もなく不可もないそこそこのペーパー」だったら、誰でも書けるんじゃないか、という気がしてくるほどだ。
新聞記事からテーマを選ばせたり、ごく具体的なテーマを与えてしまうことで、ネットからコピペしても書けないような問題設定にしてしまおう、ということらしい。
おまけに、「授業中に出た話に基づいて」 みたいな条件までつけられれば、早々簡単にコピペレポートなんて書けないってわけ。なーるほど。

おばさん学生の立場で言わせてもらうと、ネットから適当に他人の文章をコピペしてレポートを作るなんて、「自分の身にもならないことに時間を費やすなんて、アホちゃうか」 なんだけど。
まあ、若き日の自分を思い出すと、へへへ、遊ぶのに忙しかったもんな。
まあ、何はともあれ、剽窃はいけません。

ってなわけで、ネット上には、こんなサイトもございます。
名付けて、剽窃予防サイト
と思ったら、日本語版もあるのね。
日本の先生方も、使ってるのかしらん。

なにはともあれ。
今回私がワシントンポストから選んだ記事は、これ。

Immigrants' Children Look Closer for Love
More Young Adults Are Seeking Partners of Same Ethnicity


簡単に言えば、

アメリカに暮らすアジア人とラティーノ(中南米からの移民とその末裔)の間で、ここ10年間、intermarriage が減り、同じ民族間で結婚しようと伴侶を探す若者が増えている。

というような趣旨。
その理由としては、
・ラティーノとアジア人の移民の急増で、同民族内の結婚相手が見つかりやすくなっていること。
・自分たちの民族の文化、伝統、価値観や規範を理解してくれる相手との結婚を望むため。
が記事の中では描かれている。

ちょうどこの記事を読んだ時、“Why Are All the Black Kids Sitting Together in the Cafeteria?”という本を読んでいたこともあって、ちょっと気になって切り取っておいたものだ。(上記の本はとても面白い本です。英語も平易です。機会があればぜひ)。

実は現在、このレポートを書いている途中なんだけど。
なぜ、書き上げる前に、ブログにこういうことを書くかというと、いったん頭をすっきりさせ、日本語でいったん整理する必要に迫られている気がしたから。

よく 「英語を話す時、日本語で考えてるか、英語で考えてるか」 って聞かれるけれど、私の場合、不思議なことに、アメリカに来てほんの数週間で 「英語で考える」 ようになってしまった。
うちの夫は、今なお 「日本語で考え、それから英語に置き換える」 という。
私の場合は、それじゃ間に合わない。
おまけに、それをやってると、自分の日本語にぴたりとはまる英語がいつまでたっても見つからない。
悔しいし、ストレスフルだし、思ったことがいつまでたっても相手に伝わらないもんだから、自然と、英語で考えるようになってしまったんだと思う。

ところが、英語力もない私が、英語で考えると何が起こるというと……。

考える内容自体が幼児化する

なにしろ、せいぜい小学生や中学生くらいの語彙でしゃべれることだけしゃべっているようなものだものねえ。

まあ、日本語でもたいしたことをしゃべらない私なので、しゃべってる時はまだいいのだけれど、アカデミックなレポートなんかを書き始めると、途端に、壁にぶち当たる。
英語で考えて書くもんだから、どうも思考が深まらない気がするのだ。
いかん、いかん、と、あわてて日本語で考えるように心がける。
そうしないと、途中で、思考がストップしてしまう。

そんなわけで。
今回は、ブレーンストーミングして、レポートを仕上げるため、前倒しで現在進行形のレポート内容を、ここにあらいざらい書いてしまうことにするのでありました。

プロフィール

おぐにあやこ

Author:おぐにあやこ
名前■おぐにあやこ
生年■1966年 ひのえうま
仕事■07年秋まで新聞記者。仕事を辞めて渡米。11年、新聞記者に出戻り。
趣味■読書、歌、旅
目標■ちょっと背伸びして、
 疑問符を感嘆符に変える事
苦手■勧善懲悪


著書■
▼「薬(ドラッグ)がやめられない 子どもの薬物依存と家族」(青木書店)
「ベイビーパッカーでいこう 赤ん坊とザックかついでスペインの旅」(日本評論社)
「魂の声 リストカットの少女たち」(講談社)
「いいじゃない いいんだよ 大人になりたくない君へ」(共著、講談社)
「アメリカなう。」(小学館)
「アメリカの少年野球 こんなに日本と違ってた」(径書房、ミズノスポーツライター賞)
「?が!に変わるとき  新聞記者、ワクワクする」(汐文社、読書感想画中央コンクール課題図書、高校生の部)

訳書■
「自傷からの回復 隠された傷と向き合うとき」(みすず書房)

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